備忘録
MEMORANDUM14(2024/6月〜2024/9月)

  日々の瞑想や霊的なことなどを綴っていきたいと思っています
私はクラッシック音楽がとても好きなので、クラッシック音楽を取り入れた形の自由な瞑想をしております。
(マーラー作曲:交響曲9番の4楽章を2回聴く)
写真と内容は関係あるものとそうでないもがあります。(写真は主に私が撮ったものを載せてます)
私自身の記録用なので、参考程度に読んで頂けたらと思います。
下記の(アコーディオン形式)日付をクリックしてください。


 
   過去の霊訓(2024/2月〜2024/5月)
 
ペットのおうち

1550回目の霊訓

 
(132)霊的計画が推進されていく実情を何とかして皆さんにお見せしたいものです。一度ごらんになれば、取り越し苦労などしなくなることでしょう。悲しむということがなくなるでしょう。何事が起きようと、すべては神の叡智で良きに計らわれているとの確信を持つようになることでしょう。
宇宙は無限の叡智を伴った無限の愛の力で支配されております。愛はそれ自体でも崇高さを極めた力ですが、叡智との組み合わせによって、必要なものは必ず成就してまいります。
 
 
本当に霊的計画を見たいものです。そうすれば不安も心配も、そして取り越し苦労もなくなり、悲しみもなくなるとのことです。そして、どんなことが起きようとも、神様の叡智で良きに計られているとの確信が得られるとのことです。私自身は頭では神様にすべてをお任せしているつもりではいますが、やはり、今回のように長いこと不調が続くと、いつの間にか気落ちしているのですよね。何かあった時の自分自身の想いや行動で、今の自分のレベルがわかりますね。
最後のお言葉は、愛と叡智が組み合わされることによって、鬼に金棒状態になるのでしょうね。いえ、鬼に金棒よりももっともっと強力なエネルギーとなって、私達人間を包んでくれるのだと思います。いつかはそのようになりたいものです。  

1551回目の霊訓

 
(133)図太さを失ってはなりません。愚かな人間による抵抗に惑わされてはなりません。むしろ哀れに思い、せっかくのチャンスを失ったことを気の毒に思ってあげなさい。そういう人たちは自らを傷つけ、さらには彼らが生き甲斐としているものまで台なしにしているのです。が、根気よく、そして図太く生きておれば、その内それも排除されてまいります。
 
 
今回の内容は何度も説いて下さっているので、やはり頭では理解しているつもりですが、なかなか気の毒に思うまでにはなれません。なので、触らぬ神に祟りなしで、できるだけそのような人とは関わらないようにしているのです。そういう方を包み込むほどの力はないのだと思っています。図太さを失ってはいけないと言われていますが、それも今の私には出来ていないように感じています。まだまだですね。

1552回目の霊訓

 
(134)私の名はシルバーバーチではありません。これは私がバイブレーションを下げて地上世界とコンタクトすることを可能にしてくれる一種の変圧器の役目をしている、かつて地上でインディアンだった霊の名前です。
いずれにせよ名前はどうでもよいことです。私に関する限り名前は何の価値もありません。これまで一度も地上時代の名を明かしたことはありません。地上時代の私はインディアンではありません。このインディアンより遥かに古い時代の、別の民族の者です。
霊的進化の末に二度と地上世界へ生身に宿って戻ってくる必要のない段階にまで到達いたしました。霊界の上層部には〝神庁〟とでも呼ぶべきものが存在します。それに所属するのは格別に進化を遂げた霊、高級神霊です。その仕事は立案された創造進化の計画を円満に進展させることです。
その神庁からこの私にお呼びが掛かり、これまでの進化で私が得たものを一時お預けにして、可能な限り地上圏に近づき、その高級神霊たちのメッセンジャーとして働いてくれないかとの要請を受けたのです。
私の役目はその指導霊達の教えを取り次ぎ、一人でも多くの、受け入れる用意のできた人間にお届けすることです。私は喜んでその要請をお引き受けしました。それが半世紀近くにもわたってたずさわってきた私の使命だったのです。
 
 
今回の内容は、シルバー・バーチ霊の霊恪の高さが窺えますよね。シルバー・バーチ霊とお呼びしていますが、本当のお名前は明かされていないので、そのようにお呼びするしかありませんよね。
霊的進化の末に二度と地上世界へ肉体に宿って戻ってくる必要がない段階まで到達されたとのこと。本当に羨ましいです。
霊界の上層部の神庁には、どれだけ素晴らしい高級神霊がいらっしゃるのでしょうか。それを想像するだけでも、胸がいっぱいになります。そのような各別に進化を遂げた高級神霊がいらっしゃる神庁からお呼びがかかったと言われているのです。そして、その高級神霊方のメッセンジャーとして地上圏に近づき、一人でも多くの受け入れる用意のできた人間にそのメッセージを届ける役目を仰せつかったと言われているのですよね。本当に心が震えます。そのメッセージを今私達人間が受け取ることが出来る幸せを心から感謝しなければいけないことだと思っています。

1553回目の霊訓 

 
(135)これは容易ならざる仕事です。私はこれを一つの素晴らしい挑戦課題としてお引き受けしたのです。地上は冷ややかな世界です。荒涼として陰鬱な暗い世界です。しかし、その中にあって私たちはそこここに愛と好意と友情の炉辺(ロバタ)を見出し、そこで魂を温め、そうした地上の灯台から放たれる光輝を見る楽しさを味わうことができております。
 
 
今、私達人間は冷ややかで荒涼とした陰鬱な暗い世界の地上にいるのですよね。けれど、シルバー・バーチ霊のお言葉で魂を温めることができ、また光輝を見る(見れるかどうかは個々次第でしょうが)楽しさを味わうことが出来ると言われているのです。それ故に、出来るだけ多くの方々にシルバー・バーチ霊の霊訓が受け入れられるようにと願っています。

1554回目の霊訓

 
(136)皆さんはついぞこの私の姿をご覧になることがありませんでした。この霊媒の口を使って語る声でしか私をご存知ないわけです。しかし信じて下さい。私も物事を感じ、知り、そして愛することのできる実在の人間です。こちらの世界こそ実在の世界であり、地上は実在の世界ではないのです。そのことは、地上という惑星を離れるまでは理解していただけないことかも知れません。
 
 
現在の私達人間はシルバー・バーチ霊のお姿を見ることおろか、語るお声も聞けてはいないのです。けれど、シルバー・バーチと名告るお方は厳然として、実在の人間として存在されているのですよね。また霊界こそが実在の世界であり、地上は実在の世界ではなく、霊界の影なのですよね。
このように、シルバー・バーチ霊の霊訓があることで、地上を離れなくてもそのことを理解できることは、どれだけ有難いことなのかわかりません。例え、頭だけで理解していたとしても、全く知らないよりは何倍も有難いことなのだと思います。
感謝することの重要さを感じています。
 
これで、終わりになるのですが、実は大変な間違いをしておりまして、「霊団の使命」の途中から、最後の「落ち穂集」になってしまっていたのです。体調不良だった時に間違えてしまったのかも知れません。
本当に申し訳ありませんでした。
また、いつか機会がありましたら、初めから記載させて頂こうと思っております。
 
勝手ではございますが、これを持ちまして一旦、記載を終わらせて頂きます。
今までお読み頂きましたこと、誠にありがとうございました。
心からお礼申し上げます。

1539回目の霊訓

 
(121)〝死後〟とおっしゃいますが、私は時おり地上世界を見渡して、果たして〝死ぬ前〟に生命があるのかと思うことさえあります。まったく生きているとは思えない人、あるいは、かりに生きていると言えても、これ以上小さくなれないほどお粗末な形でしか自我を表現していない人が無数におります。
 
 
私達人間は地上世界で生きていると思っていますが、霊界側から見ると生命があるようには見えないようです。生きていると思える人でさえ、かなり小さくお粗末な形でしか自我を表現できていない人が沢山いるとのことです。要するに霊性を開発できていないということなのでしょうね。その努力もしていないわけですし、霊的な存在ということ自体知らないので、死んでいるのも同然と霊界から見るとそのように思われるのだと思います。  

1540回目の霊訓

 
(122)良きにつけ悪しきにつけ、あなたの霊的命運を定めていくのはあなた自身です。あなた自身のことに関して最後に責任を負うのはあなた自身です。もしも死の床にあって罪を告白し特別の信仰を受け入れれば立ちどころに罪が赦されて潔白の身になれるとしたら、それはまさにお笑いものであり、茶番劇というべきです。
 
 
今回の内容もよくよく肝に銘じなければいけないと思いました。すべては自分自身なのだということに、責任を持った行動をしなければいけないのだと強く心に留めておこうと思います。
キリスト教の教えを、お笑いものであると、茶番劇だというべきと断罪しています。死に際になって慌てても仕方ないですし、ましてやその時に罪を告白して許してもらおうなどとは考えるまでもないということなんですよね。死ぬまでに自分がしてきたこと、その事は魂に刻まれて消えることはないのですよね。霊界でなのか、また再生してからなのかはわかりませんが、必ず償わなければいけない時が来るということです。心してこの地上人生を全うしなければいけないということがわかります

1541回目の霊訓

 
(123)物的なことと霊的なこととの区別がつかない人は気の毒です。日常生活で悪戦苦闘していても、霊的な平静さと安らぎを忘れないでいることは可能です。
地上のいかなる困難の中にあっても、自分が本来は霊であることを忘れず、その聖域を守ることができれば、いつでも内的な安らぎを得ることができます。安らぎは外から得るものではありません。内部から湧き出てくるものです。
 
 
今回の内容は、本当にその通りだと思います。日常生活の雑用に追われていても、霊的な平静さと安らぎを得ることは瞑想で可能なのだと思います。また自分が本来で霊であることを忘れずとありますが、ここが一番大事なことなのだと思います。日常生活に追われていると霊であることなど忘れて暮らしていることが多々あります。それが不安や心配が生まれてしまう原因なのでしょう。安らぎは外から得るものではないと言われ、内部から湧き出てくるものだと言われています。そうなのだと得心できるので、内部からの安らぎが湧き出て来るようになれるよう、努力して行きたいと思います

1542回目の霊訓 

 
(124)地上の人間が内部に霊的な武器を備えていることを実感することができれば、どんなにか充実した生活が送れることでしょうに。それを活用することによって、時には地上的喧騒から身を引いて、冷静さ・落着き・平穏・安らぎに浸ることができるのです。
 
仰ることは本当にその通りだと思うのですが、内部に霊的な武器を備えていることを実感することの難しさを感じています。それを感じることができれば充実した生活が送れるのでしょうね。更にそれを活用することで、地上の騒々しい状態から身を引くことができて、冷静さや落着き、そして平穏、安らぎに浸ることができるとのことで、どれだけ幸せな気持ちになれるかわかりませんよね。早く内部の霊的感性を磨いて、実感できるようになりたいものです。

1543回目の霊訓

 
(125)真理普及の第一線に立って苦悩している地上の偉大なる魂は、その闘いがいかに激しく反抗がいかに強烈でも、その中にあって少しも内的な安らぎを失うことはありません。表面上の物的な出来事と霊的原理とを同じ天秤にかけてはいけません。霊が主人で物は従僕です。常に霊に係わることを優先させなさい。
 
真理普及とは、やはり偉大なお役目なのですね。確かに真理普及の難しさは嫌というほど感じています。近しい間柄なら尚更です。それでも、内的な安らぎを失うことはないと言われています。でも私のような凡人にはなかなかどうして、心中穏やかとはいかないのですよね。言われるようにやはり天秤にかけてしまっているのかも知れませんね。霊が主人で物は従僕ということは、頭では理解しているのですが、実感できていないのが原因なのでしょう。できるだけ霊に関わることを優先させて行きたいと肝に銘じようと思います。

1544回目の霊訓

 
(126)解放されなければならないのは女性だけではありません。男性だけでもありません。子供だけでもありません。人類によって苦しめられている動物も解放してやらねばなりません。霊は常に自由であるべきです。物的な何ものによっても束縛されるべきではないのです。
物的身体は霊が存分に自己表現をする手段として与えられているのであり、解放とはそれを制約するものすべてを取り除いてあげることです。
 
 
解放されるのは私達人間だけではなく、その人類によって苦しめられている動物も解放しなければいけないと言われています。霊であるすべてものが常に自由でなければいけないと。物的に縛られていては意味がないのでしょう。この物的身体は霊として存分に自己表現する手段として与えられていると言われ、解放とはそれを制約するものすべてを取り除かなければいけないと言われています。まだまだ私達人間には遠い話のようにも思えます。それは霊であるということ自体わかっていない人の方が多いですし、また霊であると頭でわかっていても、実感として感じることができない場合もあるからです。もっともっと霊的真理の普及が広まらなければ、先は遠いと感じます。

1545回目の霊訓 

 
(127)敵意や敵愾心(テキガイシン)は無知の産物です。そこには理性の働きが見られません。時には恐怖心から出ていることもあります。また時には〝洗脳〟の結果である場合もあります。
知的抵抗力のない幼い時期に植え付けられたお座なりの教えから一歩も出ることができず、精神がすっかり汚染されているのです。
 

今回の内容に、私達人間は如何に無知かということがわかります。敵意や敵愾心には理性の働きはないと断言されています。それは時には恐怖から出ることもあり、洗脳の場合もあるとのことです。小さい時に教えられたことから一歩も出ることができないのは、精神がすっかりと汚染されているからだと言われています。三つ子の魂百までと言いますが、結局間違ったことを教えられて育った子供は、その教えを簡単には払拭できないということで、親の教育のあり方が問われてもいるのでしょうね

1546回目の霊訓

 
(128)あなたの説く霊的真理が敵意を持って迎えられた時は、その素晴らしい宝石の光が見えない気の毒な人への適切な言葉を求めて神に祈りなさい。もしもそれが少しでも効果があれば、その人との出会いは無駄でなかったことになります。
もしも何の効果もなければ、それはその人がまだ霊的真理を受け入れる用意ができていなかったことを意味します。魂に準備が出来ていない時は、為す術がありません。
 
 
今回の内容は得心はできるのですが、私自身は霊的真理の普及の難しさを身を持って感じていますので、なかなかこのような心持ちにはなれないでいます。シルバー・バーチ霊の仰られる通りだとは思っております。ただ、近しい間柄の人に、為す術がないと感じることほど、切ないものはありません。このような想いになること自体、私自身が未熟だということなのだと思います。肝に銘じなければと思っています。

1547回目の霊訓

 
(129)地上の同志の方々にいつも申し上げているのは、私たち霊団側としては皆さんが誠心誠意、精一杯の努力をすること以上のことは要求しないということです。あなた方は欠点を具えた人間的存在であり、その欠点を一つ一つ取り除いていかねばなりません。しかしそれは大変な時間を要する作業であり、たった一度の地上生活では成就できません。
 
 
今回の内容に愕然としてしまいました。たった一度の地上生活では成就できないと断言されているからです。その通りなのだと思いますが、もう地上生活をしたくないと思っている私には酷な言葉でした。もちろん、欠点を克服して行くべく、精一杯の努力はして行かなければいけないとは思っています。その上で、今生で終わりしたいと思っていただけに、やはりまだまだ先は永いということなんですよね。ということはじっくりゆっくりとやって行くしかないということなのでしょうね。覚悟するしかないですよね。

1548回目の霊訓

 
(130)身体に係わる義務を疎かにしてまで霊的なことに専念しなさいとは決して申しておりません。しかし同時に、霊に係わることも大切にしなければならないことも真実です。地上ではその二つとも大切なのです。

 
今回の内容には、その通りだと得心できます。どちらを疎かにしてもダメだということなんですよね。二つともを両立させて行くことが、私達人間の努めなのだと思っています。

1549回目の霊訓

 
(131)霊的真理のための闘争は生やさしいものではありません。バイブルにも光の勢力と闇の勢力との戦いの話が出ていますが、両者は現実に存在します。が、光の方が強力です。いつかは光が闇を突き通します。しかし時には闇があまりに濃いために、それを突き通すのに手こずることがあります。
 
 
今回の内容に、今のこの世の中を思わざるを得ません。闇の勢力が強いと、光の勢力がどんなに強力でも手こずるということなんですね。確かにその通りなのだと思います。この世の中、どちらを向いても闇の勢力が蔓延っているように思えてなりません。けれどそれでも、必ずや光の勢力が闇の勢力を突き通す時が来るのだと信じる以外にはないと思っています。一日も早く、その日が来て欲しいと待ち望んでいます。

1528回目の霊訓

 
(110)再生(生まれ変わり)というものが事実であることは私も認めます。それに反論する人たちと議論するつもりはありません。理屈ではなく、私は現実に再生してきた人物を大勢知っているのです。
どうしてもそうせざるを得ない目的があって生まれ変わるのです。預けた質を取り戻しに行くのです。ただし、再生するのは同じ個体の別の側面です。同じ人物ではありません。
一個の人間は氷山のようなものだと思ってください。海面上に顔を出しているのは全体のほんの一部です。大部分は海中にあります。地上で意識的生活を送っているのは、その海面上の部分だけです。死後再び生まれ出てきた時は別の部分が海面上に顔を出します。
潜在的自我の別の側面です。二人の人物となるわけですが、実際は一つの個体の二つの側面ということです。
 
 
再生の問題は本当に難しく、私達人間が今の時点では理解出来ないことだと思っています。それでも、シルバー・バーチ霊のご説明で、同じ人物が生まれ変わるのではなく、同じ類友の個体の別の側面が再生するということは納得しています。人間を氷山に例えて、わかりやすく説いて頂いています。このことがわからなければ、再生の問題はこの地上では考えない方がいいのではないかとも思っています。いつか必ず判る日が来るのだと思うので。  

1529回目の霊訓

 
(111)私はつねづね人生とは対照の中で営まれていると申し上げております。愛の倒錯したのが憎しみであり、勇気が倒錯したのが臆病です。いずれも本質において同じ一本の棒の両端を表現したものです。私はまた、低く沈むことができただけ、それだけ高く上昇することができるとも申し上げております。

臆病を勇気に、憎しみを愛に転換することができるということです。人間の精神にはさまざまな複雑な感情や想念が渦巻いております。それをうまくコントロールするところにあなたの成長があり、進化があり、低いものが高いものへ転換されていくのです。
 
 
今回の内容も何度も目にしていますが、その通りだと思っています。私達人間の気持ち次第で、いくらでも転換することは可能なのだと思います。もちろん、苛酷な体験の最中にあっては、なかなか転換することの難しさも私自身も経験しているので、わかっています。けれど、出来るだけ早く転換することで、霊界からの援助を受けることができるのだとも思っています。私達人間の感情をコントロールするところに成長があり、進化があると言われ、低い所から高い所へ転換されて行くとのことです。
私自身、今回の体調の不調でかなり低く沈んでしまったことに、情けなく思っていましたが、低く沈むことができただけ、それだけ高く上昇することができるとのお言葉が、心に染み入りました。そのお言葉を励みに、これからも努力して行きたいと強く思った次第です。

1530回目の霊訓

 
(112)世間でいうところの〝成功者〟になるかならないかは、どうでもよいことです。この世的な成功によって手に入れたものは、その内あっさりと価値を失ってしまいます。
大切なのは自分の霊性の最高のものに対して誠実であること、自分でこれこそ真実であると確信するものに目をつぶることなく、本当の自分自身に忠実であること、良心の命令に素直に従えることです。
それさえできれば、世間があなたをどう見ようと、自分は自分として最善を尽くしたのだという信念が湧いてきます。そして、いよいよ地上生活に別れを告げる時が来たとき、死後に待ち受ける生活への備えが十分にできているという自信を持って、平然として死を迎えることができます。
 
 
今回の内容には、ただただ大きく頷くことしか出来ませんでしたが、感動で心が震えました。ただ、自分の霊性の最高のものに対して誠実であることと、言われていますが、自分としてはそう思ってはいても、違う場合もあるかも知れませんよね。それをどう判断すればいいのかが、今の所わかりませんが、良心の命令に素直に従えるようにこれからも努力して行きたいと思っています

1531回目の霊訓 

 
(113)名声が何になりましょう。子供のオモチャのようなものです。何の価値もありません。そもそも名声はどうやって得られるかを考えてごらんなさい。お金があるとか世間的に出世したということで名が知れたにすぎません。イエスはそういう名声をいっさい求めませんでした。先師、聖者、先駆者、改革者といわれた人は名声を求めたでしょうか。
大切なのは、どれだけ人のために役立つことをしたかであって、その人の名前ではありません。ですから、いわゆる有名人の名前を名乗って出る霊には気をつけた方がよろしい。判断の基準は何と名乗っているかではなくて、どういう態度でどんなことを説いているかです。
 
本当に仰る通りだと思います。有名だからと言って、その人が人格者であるか、霊恪の高い人であるかはわかりません。むしろ、そのような方は有名だからこそ、自己中心になる場合もあるかも知れないのです。また売名行為で、人に尽くしているように見せる人もいるでしょう。けれど、霊界側に行けば、全てが明るみに出るのです。この世でどれだけ騙したとしても霊界ではもう通用しません。だからこそ、この世にいるうちから、そう言ったことを見抜ける人間にならなければいけないのだと思います。そのためには自分自身が霊性を発達させる努力をしながら、進歩して行くことなのだと思います。その時には名前などには惑わされず、その中身を吟味し、しっかりとした判断が下せるようになるのだと思います。

1532回目の霊訓

 
(114)いま地上人類は五感を通して感識する条件下に住んでおります。その五つの物的感覚で自我を表現できる段階にやっと到達したところです。まだテレパシーによって交信し合える段階までは進化していないということです。まだまだ開発しなければならないものがあります。
地上人類は物的手段によって自我を表現せざるを得ない条件下に置かれた霊的存在ということです。この条件がおのずと思念の作用に限界を生じさせます。なぜなら、地上では思念が物的形態をとるまでは存在に気づかれないからです。
 
私達人間は、やっと、五感を通して物的感覚で自我を表現できる段階に到達したところだそうです。なので、まだテレパシーによって交信し合える段階までには進化していないようです。けれど、霊的存在であるがゆえに、それをこの地上で開発しなければいけないのかも知れませんね。ただ、物的手段での条件下に置かれているので、思念の作用は限界があると言われています。それは思念が物的形態をとるまで、私達人間がその存在に気づかないからと。確かにそうなのだと思います。私達人間はあまりにも見えるものだけに執着しているので、思念が実在であることなどは夢にも思っていないのです。霊界においては思念こそが実体のあるものだと、シルバー・バーチ霊は常々言われているのです。残念ですが、まだその実感はありません。でも必ず、そう感じられる時が来ると信じています。

1533回目の霊訓

 
(115)思念は思念の世界においては実在そのものです。が、地上においてはそれを物質でくるまないと存在が認識されないのです。肉体による束縛をまったく受けない私の世界では、思念は物質よりはるかに実感があります。思念の世界だからです。私の世界では霊の表現、または精神の表現が実在の基準になります。思念はその基本的表現の一つなのです。
勘違いなさらないでいただきたいのは、地上にあるかぎりは思念は仕事や労力や活動の代用とはならないということです。強力な補助とはなっても代用とはなりません。やはり地上の仕事は五感を使って成就していくべきです。労力を使わずに思念だけで片付けようとするのは邪道です。これも正しい視野で捉えないといけません。
 
 
前回の内容を更に詳しく説いて下さっています。霊界では思念は実在そのものであること、そして地上においてはそれを物質でくるまないと存在が認識されないとのこと、です。更に霊界は思念の世界であり、思念は物質よりもはるかに実感があるとのことで、霊の表現として、また精神の表現として、思念はその基本的表現の一つなのだと言われています。
ただその先には私達人間にとって、肝心なことを言われているのです。それは、この地上にいる限りは思念は仕事や労力や活動の代用にはならないと言われ、五感を使って成就して行くべきだと言われています。そして、労力などを使わずに思念だけで片付けようとするのは、なんと邪道とまで言われているのです。びっくりでした。
霊界では思念に実体があり、物質よりもはるかに実感があるとのことですが、けれど、この地上ではやはり思念だけでは成就できないということに、考えてみれば確かにその通りなのですよね。だからこそ、私達人間は正しい視野を持って、捉えなければいけないと言われていますが、本当にそう思います。
今回の内容は、とても勉強になりました。この地上では思念と共に仕事や労力、そして活動が伴ってこそ意義があることに、精進して行かなければいけないと強く思った次第です。

1534回目の霊訓 

 
(116)あなたはその二つの眼で見ているのではありませんよ。またその二つの耳で聞いているのではないのですよ。見たり聞いたりは脳を経由して精神で行っているのです。もしも脳が働かず精神に反応が生じなければ、その肉眼に映る光線は何の意味もありませんし、その肉耳に届けられる波動も全く無意味なのです。
脳がレシーバーとしての働きをしてくれたあとは、その情報を理解するのは精神なのです。肉眼そのものには〝見る〟能力はないのです。ただ光線を感知するための媒体に過ぎないのです。カメラのレンズと同じです。
自分ではどういう役目をしているのか知らないまま自動的に機能しているのです。〝見えた〟という認識は、精神がその印象を脳から受け取った時に生じるのです。脳を痛めるとその認識が生じませんから、肉眼だけでは何も見えないことになります。
 

今回の内容は、すぐには理解できないように感じます。私達人間は目で見て、耳で聞いているものだと思っています。けれど、シルバー・バーチ霊はその目で見ているのでもその耳で聞いているのでもないと言われているのです。にわかには信じがたいですよね。
でも、見たり聞いたりは脳を経由して精神で行っているとのことなんです。更に脳がレシーバーのとしての働きした後、その情報を理解するのは精神だと言われています。そしてなんと肉眼には見る能力はないとまで言われているのるのです。光線を感知するための媒体でしかないと言われており、カメラのレンズと同じということのようです。
見えたという認識は、精神がその印象を脳から受け取った時に生じるとのことで、脳に異常があるとその認識が生じず、肉眼だけでは何も見えないということになるようです。とても不思議な話ですよね。今すぐには実感できないとしても、このことは頭に入れておこうと思います。

1535回目の霊訓

 
(117)時として味方であるべき人物が敵に回ることがあります。また時として、悲しいことですがこの道に携わっている人が本来の目的を忘れて我欲を優先させ、一身上の都合の方が大義より大切であると考えるようになったりします。万が一そういう事態になった時は、それは本来の道を見失ったわけですから、その方のために蔭で涙を流しておあげなさい。
 
 
肉体を持った人間である以上は、止むを得ないことなのではと思ってしまいます。また道を踏みはずということは、本人にとっては、後で大変に悔やまれることになるのではないでしょうか。特に霊的真理を理解し、その目的のために一生懸命に努力されていた方なら、尚更でしょう。けれど、やはりそれは本人自身が気づいて、乗り越えて行くしかないのでしょうね。私達周りの者はその方のためを思って、涙を流すことしかできないということなのでしょう。

1536回目の霊訓

 
(118)〝証拠〟などといっても、ただの用語に過ぎません。確信というのは内部から湧き出てくるものです。魂に〝受け入れ準備〟が備われば理解が行きます。その理解こそ大切で、それが唯一の確信です。
科学は刻一刻と変わっていき、その領域を広げつつあります。知識というものは固定したものではありません。一方、確信というのは、真理と遭遇した時に湧き出る内的な悟りです。
 
 
今回の内容に、証拠が欲しいと思っているということは、まだ受け入れ準備が出来ていないということなのだということがわかります。証拠など提示されなくても、内部から湧き出てくる確信することこそが、魂に目覚めたということなのでしょう。そして理解が大切だと言われ、それが唯一の確信とのことです。
科学は変わっていき、その領域を広げて行くようです。また知識は固定したものではないとも言われています。ですが、確信については、真理と遭遇した時の内的な悟りだと言われているのです。確信することができれば、証拠などいるはずもありませんよね。すべてに確信できるようになりたいものです。

1537回目の霊訓

 
(119)霊はこしらえるものではありません。過去も未来もなく常に存在しております。霊としては、あなたは無始無終に存在しているのです。霊を新たにこしらえなければならなくなったことは一度もありません。無が有になる段階というものは、これまで一度もありません。
生命の原動力、精髄、活力そのものである霊は、過去も未来もなく常に存在しております。霊はあらゆる生命現象が生み出されるエネルギー源です。植物も小鳥も樹木も動物も人間も、全てそうです。霊は存在の大原動力です。

 
今回の内容には、私達人間は今までもこれからも存在していて、永久に霊的成長のために努力して行かなければいけないのだと感じました。霊とは生命の原動力であり、活力そのものだと言われています。またあらゆる生命現象である、植物も小鳥も樹木も動物も人間も、全てがエネルギー源だと言われて言われ、霊の存在の大原動力とのことです。

1538回目の霊訓

 
(120)母体に子供が宿された時、それは新しい霊でも新しい魂でもありません。無始無終に存在している永遠の霊の一部です。それが人体に宿って個別性を獲得し、その個体がしばしの間地上で機能するわけです。しかし霊はさまざまな側面を持つことができます。
その幾つかが地上に再生して本霊であるダイヤモンドに新たな光沢を加えることはありえます。その意味では〝年輩の霊〟〝若い霊〟と呼べる霊は存在します。しかし〝新しい霊〟というものはこしらえられません。地上での自我の表現機関として新しい身体が提供されるだけです。
 
 
今回の内容もなるほど、と得心せざるを得ません。今地上に生を受けている私達人間は新しい霊でも新しい魂ではないとのこと。無始無終に存在している永遠の霊の一部だと言われています。その霊の一部である私達人間が、この地上に肉体を持っていろいろな体験をしに生まれて来たというわけなのですよね。私達人間の本霊であるダイヤモンド(シルバー・バーチ霊は常々ダイヤモンドに例えられていますね)に地上に再生した結果、新たな光沢を加えることができるようです。そして、その側面である霊は年輩霊とか若い霊とかと呼べる存在はいるとのことです。
私は年輩霊なのか若い霊なのかはわかりませんが、自我表現機関として、新しい身体を提供して頂いたということなのですよね。それについても感謝しなければいけないのだと思います。
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