突然の息子との別れ 経緯と苦悩
息子は1984年10月に私達夫婦の一人息子として、誕生致しました。両家にとっては初孫でもあったので、
それはそれは大変な喜びようでした。私達親は勿論のこと、祖父母や叔母たちにも溺愛されて順調に育ち、幼稚園・小学校・中高一貫校・大学と、その間には様々な思い出があり、亡くなるその日まで元気に充実した日々を過ごしていたのです。
2019年9月1日(亡くなる前日)の夜に、滅多に熱を出さない息子でしたが発熱したのです。息子は「単なる風邪だと思うよ」と言い、夕食を食べずに市販の薬を飲んで、その日は寝ました。
翌日2日(亡くなる当日)は、私は用があって出かける準備をしていました。起きてきた息子に状態を聞くと、熱が下がっているとのことでしたので、やはり普通の風邪だと思い、出がけに息子に「早く治さないとだめよ」と言ってほとんど顔も見ずに出かけたのです。
お昼頃に出先から息子の事が気になって主人にメールで「具合はどう?」と送ると「もうほとんど良くなってるよ。36℃くらいで平熱でお昼も食べたよ。夕飯も食べられそうだと言ってた」と。「それはよかったよかった。それでは留守をよろしくね。」と返信しながら、ホッとしていました。
ですがその後、主人の話ですと息子は「もう少しだけ寝てくる」と言って部屋に入ったまま、夕方になっても起きて来なかったそうなのです。おかしいと思った主人は様子を見に息子の部屋の前に行き、ドアをノックしてみましたが応答がないので、不吉な気持ちになり、すぐに部屋に入ったそうです。部屋は真っ暗で声をかけても寝たまま動かず、身体を揺すっても頬を叩いても起きる様子がなかったので、すぐに救急車を呼んだとのことでした。その救急車の中から、私に連絡があり、直ちに搬送先の病院へ向かいました。何が起こったのか何も考えることが出来ず、ただただひたすら祈っておりました。救急車の中でも搬送先の病院でも蘇生し続けてもらいました。けれども、お医者様が「これ以上蘇生しても戻ることはないと思いますし、身体を傷つけるだけなので、蘇生を中止したいのですが・・・でもそれは亡くなった事を確認するということになります」と言われました。
朝会ったその時は微熱ながら元気な息子が、なぜ?なぜ?と信じることができませんでした。主人に促されて、息子の側へ行くと、変わり果てた息子がそこにおりました。腕をつかみ大声で名前を呼び「戻って来て!目を開けて!話をして!」と何度も何度も泣きながら叫びましたが、動くことも起きることもありませんでした。
そして、お医者様が「9月2日(当時の時間でしたが覚えていません)ご臨終です」と言われ、お医者様を初めとしてそこにいた助手の先生、看護師さん数人が私達に頭を下げられたのです。その時の悲しみは言葉では到底言い表すことはできません。衝撃と絶望で、ただただ慟哭しておりました。
自宅で亡くなった場合には、一般的に事件性がないかどうかを本人、そして亡くなった部屋を調べるようです。自宅で亡くなった息子も同じように調べられたのです。なので息子はその晩は警察署に連れて行かれました。
私達夫婦も私の姉夫婦と遠くから駆けつけてくれた妹と病院を後にしました。
姉夫婦と共に自宅に戻ると、息子の部屋はいつも通りそのままで、今にも「ただいま」と言って帰って来そうで、更に悲しみが募りました。我が家には小型犬が4匹います。犬の夕飯の係は息子でした。遅い帰宅だったので、4匹はお腹を空かせていたので、すぐにご飯にしましたが、支度しながら「なぜ?なぜ?息子がこんなことに・・・」と涙が止めどもなく流れていました。そして犬のご飯が終わった頃に、姉夫婦が帰るのと入れ替わるように警察の方が来られました。息子の部屋に入り、主要な物を探し廻っているその姿に、現実なのか夢なのか、なぜこんな事が起きてしまったのかと、ただただ呆然と突っ立っていました。そして警察の方が帰られると、部屋がし~んと静まり返り、とてつもない寂しさがこみ上げてきたのです。それまで気を張って気丈に振る舞っていた主人が声をあげて泣き出しました。それを見ていた私も泣き、二人でただただ息子の事を思って号泣したのです。
翌日、警察署に行き、監察医から「事件性がない確認は出来ましたが、お身体をもっと詳しく調べないと診断書が作成出来ない」と言われたので、やむを得ず執刀を承諾しましたが、息子の死を受け入れられずにいる私達には大変に酷な話でした。その執刀場所に向かう車の中で、涙がボロボロとこぼれ、悲しみに追い打ちをかけられるようでした。しかし、その結果は頭も心臓も見た目は異常がなかったと言われ「では何のために」と愕然とし、依然息子の死因はわからないままでした。ただ「病変は見つかっているので60日かけて詳細に調べて、結果をお知らせします」とのことでした。その結果は60日もかからずにわかりましたが「急性心機能不全」ということでした。けれど、なぜそのような状態になったのかという原因は、今もわからないままです。
そこには発症から死に至るまでの時間は約数分間と記してあり、あっという間の出来事であったことを知ったのです。
亡くなった息子は私達夫婦にとって、かけがえのない存在でした。
家族として何事においても、協力を惜しまずに率先して行動してくれていました。
4年前に主人が脳出血をしたのですが、いち早く救急車を呼ぶと言ったのは息子でした。またその際に脳外科医から開頭手術を勧められた時には、躊躇している私に代わって、息子が「先生、父をよろしくお願いします」とキッパリと言い切り、本当に頼れる息子でした。主人の入院中も退院後も、私達夫婦を勇気づけ、慰めてくれ、力にもなってくれ、どれだけ救われたかわかりません。私達夫婦の今があるのも、息子がいてくれたからこそで、我が家にはなくてはならない存在でした。
息子の突然の死は、とても現実のこととは思えませんでしたし、受け入れることができませんでした。けれども、家に戻ると現実に引き戻されるのです。息子の思い出の品が溢れています。その品を見る度に声をあげて泣きました。部屋を見る度にもういないことを思い知らされます。今にも部屋のドアを開けて出てきそうで、それが私達夫婦を悲しみのどん底に突き落とします。
息子が亡くなっても世の中は何もなかったように、過ぎて行きます。
私達夫婦の心は置き去りのまま、時だけがどんどん過ぎていくのです。
悪夢なら、早く覚めて欲しいと、何べん思ったかわかりません。
朝起きると、夢ではなかったことに涙が止めどなく、流れます。
この世の息子の姿が見たい、たわいない会話がしたい、笑い合いたい、一緒にご飯を食べたい、ダイニングの息子の席を見る度に涙がこぼれ落ちました。
家にいても、外にいても、想うことは息子のことしかなく、思い出として考えるには、あまりにも酷すぎて・・・
ほんの少し前まで元気に生きていたのですから・・
外出したときに、息子に似た人がいると、そこにいるはずもないのについ目で追ってしまう。そして愕然としてまた涙が流れるのです。
母の日には私の大好きなバラの花束をプレゼントしてくれた息子。
誕生日には、家族3人で楽しくお祝いできるようにとレストランを予約してくれた息子。
父の日には主人の大好きな日本酒をプレゼントしてくれた息子。
家族3人の生活は、ささやかながら、満ち足りた幸せな時間でした。
その時その時で喜んだり、悲しんだり、悩んだり、意見を言い合ったり、時には大げんかしたりと、親子の絆を深めてきたのです。
何かあると(例えば夫婦で旅行する場合、夫婦のどちらかが入院した場合等々)いつも息子が犬4匹の面倒に家の事一切を引き受けてやってくれたのです。だから、私は安心して何事にも集中することができました。
けれど、息子が亡くなった時には、当然ながらその息子にはもう頼れないのに、つい息子にやってもらわないと、と思ってしまっている自分に落胆し、更に深い悲しみに襲われたのです。
そんな息子がなぜ、亡くならなければいけないのか、なぜ、このような事が起きたのか、と言う意味を、ただただ知りたい思いで頭がいっぱいでした。
死んでも魂は生き続ける それでも苦悩は続く
実は私の亡くなった母は霊能者でした。ですので、幼い時から神様や霊の存在を信じていたのです。息子についても魂として生き続けていることはわかっておりました。しかも亡くなった数日後に私に(霊媒体質でしたので)息子が降りてきたのです。早く逝ってごめんね。と、苦しくも痛くもなかったと、亡くなっていることもわかっているとのことでした。主人に「お袋のことを頼みます」とも言ってくれていたのです。
また、お二人の信頼している霊能者の方に息子が亡くなったことを話しておりました。
お一人の霊能者の方はK先生というお方です。(この方は霊能の力はもちろんですが、そのお人柄に本物を感じます。大変に素晴らしい方です)
もう一人の方はS先生です。(この方には亡くなって一ヶ月経った頃にお話しています)
K先生は何度も何度も心温まるメールを下さり、励ましてくれました。
息子の葬儀は亡くなった一週間後でしたが、その事をお知らせするとお通夜に来て下さるとのメールを頂いたのです。
私は単なる一相談者に過ぎなかったので、そこまでして下さるK先生のお人柄に感謝の気持ちで一杯でした。
姉も妹もK先生がお通夜に来て下さったことを私と同じように感謝してくれていました。
そして、お通夜当日のことです。
主人もですが、私は悲しみで、耐えられなくなり、式の途中で抜け出すとK先生が追いかけて来て下さり『息子さんはずっとお母さんの側に寄り添っていましたよ。今も隣りにいてお母さんの肩に手をかけていますよ。とても心配してくれています。そして息子さんはとてもしっかりしていますよ。自分の行くべき所もわかっていますが、お母さんが心配で留まっています』と言われました。
そして「今の息子さんのことが視られたら・・・」と言って下さり、私の手を取り、手のひらを上に向けて、息子の手と合わせてくれたのです。その時に温かいぬくもりを感じて救われた思いでした。
その後の私の様子を姉は人が変わったようだったと話してくれました。
青ざめていて、いつ倒れるかわからない状態だったのに、K先生に息子の様子を教えて頂いてからは、顔が明るくなって、しっかりしていたようです。
その時の私は、私の母の葬儀のとき、父の葬儀のとき、主人の母の葬儀とき、また親戚の葬儀のときと、いつも傍らには息子がいました。一緒に涙してくれていました。励ましてもくれました。なのに、息子が横たわっているときには、一番そばにいて欲しかった息子はどこを見てもいなくて・・・それが胸を締め付け、悲しみと絶望でいましたから、K先生が来て下さらなかったら、式には参列できなかったと思います。
息子の様子を教えて頂いたことで、その時の深い悲しみから救われたのです。
また、当日のお通夜は卒業して何年も経っているにも関わらず、息子の中高一貫校の先輩・同級生・後輩の方達が、(そのお母様方もです)息子の親しいお友達が声をかけて下さって来てくれたのです。皆さん涙ながらに閉館まで残って下さり、息子の遺影と写真を撮ろうと言って、息子の所へ戻り、そこにいる全員で写真を撮りました。そして最後には校歌を歌ってくれて、息子を送ってくれたのです。もちろん、告別式には大学の先生・先輩・同級生・後輩の方達も来て下さって、ハンカチで涙を拭う方や楽器をさわりながら、声をかけて下さる方など、皆さん息子の死を悼んでくれていました。心のこもったお式になったことは、親として深い悲しみの中ではありましたが、有難く心が癒やされたのです。
けれども、葬儀が終わると更に喪失感や空虚感に襲われ、涙涙でした。息子の死を受け入れられずに、深い悲しみの中で喘いでいました。
夫婦二人、主人が号泣すれば、私が慰め、私が号泣すると、主人が慰めてくれて、時には二人で号泣しまくりました。
乗り越えることなんて、とても出来ないと思っていました。
主人も「乗り越えなくていいんだよ。乗り越えることなんてとてもできないよ」と。
息子を亡くすということが、こんなにも辛くて苦しいことだと言う事を体験して初めて知ったのです。
姉と妹にとっても、可愛い甥っ子でしたので、一緒に泣いてくれていましたし、ずっと寄り添っていてくれました。LINEなどで、私の想いをただただ聞いてくれて、肯定して励ましてくれ、本当に力になってくれました。
ただ、主人は息子と同じ一人っ子で話す兄弟もいなくて、辛さをひとりで耐え忍んでいました。
主人は、元気だった息子が、突然にあのような姿になったことに、相当な衝撃を受けていたようです。私に何度も「あの時に出かけていてよかったよ。自分ひとりでよかった。おまえは耐えられなかったと思う」と言っておりました。
主人は何かの折につけ、突然に思い出すようで号泣しながら、私に話します。
主人一人に大変な荷を負わせてしまったことに、本当に申し訳なく思っています。
また、私達夫婦は出かけるときはいつも二人で外出し、家にいるときはいつも二人一緒にいたのです。
今想うと、あの日だけ、別々だったことは、息子がその日を選んだとしか思えないのです。(私がその衝撃には耐えられないと息子も思ったのでしょう)
息子が亡くなって、一ヶ月が経つ頃に、霊能者のS先生にお電話しました。
この方は、主人が脳出血をした時にご相談した方だったのです。
(当時のこの方の霊能力も凄いと感じていたので)
早速、息子との交信した内容を教えてくれました。
『亡くなってすぐに、戻れないことを知らされて、それに息子は納得したとのこと。
命の身体を通り抜けた魂(本人がそう言ってるらしい)が行く場所に行き、ご守護霊様に会った。そしてご守護霊様から「やってきたこと、やりかけたこと、これからやろうとしたこと」の質問をされて、息子の答えは「音楽をやっていた。やりたいことは、地球で未発表の曲を作って、ITで配信したかった」(※)と。
『ただ、お母さんとお父さんのことが心配。それと同時に申し訳ない気持ちも思っている。両親が悲しんでいたり、辛い思いをしているときは必ずそばにいる。お母さんもだけど、お父さんの寂しさをとても心配している。笑ってくれよ。とも言っている』と言う交信内容でした。
※地球で未発表の曲を作ってITで配信したいとは、生前私によく言っていたことだったのです。(もちろん、S先生はご存知ないです)なので、息子だと実感しました。
私に降りて来て話したことといい、お通夜でのK先生のお話といい、今回のS先生の交信内容といい、息子のことは全く心配ないということを確信したのです。
それなのに、相変わらず私達夫婦は、苦しみのどん底にいました。
やはり、息子に会いたい、姿を見たい、話したい、一緒に暮らしたい。などという思いが渦巻いて、寝られない日々を過ごしておりました。
またこの先、自分が死ぬまで、もう息子には会えないと思うと、胸が締め付けられて、悲しくて苦しくて辛くて、自分も向こうへ行けたら、などと言う思いも何度なく頭を過りました。
心が壊れるとはこういう事を言うのだと実感しました。
何をする気力も出ず、三度三度の食事さえ、面倒で食べる気がしなかったですし、もちろん作る気にもならず、外食する気にもなれずでした。
一番心が安まるのは、唯一寝ている時でしたので、ずっと寝ていたかったです。
私の悲しみ苦しみ辛さを感じて下さっているK先生からは何度も何度も心温まるメールを頂いていましたが、
ある日こんなメールを頂きました。
その内容は
『通常の人々は霊能力が閉じているためどうしても魂の姿を見ることも出来ず、魂の存在はあると分かって理解していても、どうしても生身の肌に触れ、声を聴くことが出来ないという事がどうにも苦しく悲しい気持ちとなります。
実は、寝ている間に、私たちの魂は幽界と言う場所に行くことが出来ます。
私も幽界を行き来した記憶が何度もありますが、このような光景を何度も目にしました。
幽界でこの世に生きている人と、他界した人が、公園のような美しい場所でお互いしっかりと向かい合い、話をしていたり、抱きしめていたり、また、小さい子とその母親が遊んでいたりという光景を目にします。まだこの世に生きてる魂は背中のあたりから、キラキラ光る透明感のある紐のようなものが伸びています。しかし、この世から他界した魂は、その紐のようなものがありません。そこで、まだこの世にいる魂か他界した魂か、見分けがつきます。
何のために、ここで故人と会っているのだろう?というと、幽界は故人と会える接点の場所ですので、寝ている時に肉体を離れ、魂の状態になった私たちは、幽界で愛する故人と会うことが出来ます。そこで、とことん話をしたり、悲しみがある親族、愛する人に、肉体は無くなっても、こうして生きているよ、ほら、ここで会えているでしょ、だから、悲しまないで・・・と説得をしている姿をよく見かけます。そのように、何度も何度も幽界で会うことで、自分の魂を納得させていきます。
しかし、残念ながら、私たちは、朝起きると同時に肉体に魂が戻るので、「肉体」が障壁となり、幽界での出来事を記憶から忘れてしまうのです。
しかし、時の流れ(時間)とともに心が平穏さを取り戻すのは、この幽界での行為を何度も何度も繰り返すことで、気持ちが落ち着いてくるためです。
魂はそうして納得をしていきます。今は当然ながら辛く苦しい事と思います。
その苦しみを少しでも乗り越えられるように、私もお手伝いさせていただきたいです。』
このメールの内容に、本当に気持ちが明るくなりました。
K先生には心から感謝でした。
記憶になくても、毎晩息子に会えていると思うと、寝るのが楽しみになりました。だからこそ、寝ることが安らぎになっていたのだと思えました。
苦悩の果てに
また、私は悲しみ辛さ苦しみと同時に、息子の亡くなる意味を知りたいと強く思っていたので、ネットで「子供・亡くなる」で検索もしまくっていたのです。
そこで、私はいくつかのサイトに出逢いました。
最初に出逢ったのは「シルバーバーチの霊訓とともに歩む」という題名の中の「最愛の子を亡くした人へ」でした。イクミ様という方のサイトです。シルバーバーチの霊訓と出逢って、ご自分の苦境を打破された方です。
また、この方はコメントされた方に、その方に寄り添った丁寧で誠実なコメントを返されています。しかも、その内容は霊的真理の真髄をも網羅しているのです。更にヒーリングの力を授けて頂いたとのことで、無償で皆さんにヒーリングして差し上げているのです。その高い人格に敬意を表しています。
そんな方のサイトに繋げて頂いたことに心から感謝しています。
そのお言葉は、私の心に光を灯してくれました。一部引用です。
『親にとって、子供を失うことは、計り知れない衝撃をもたらします。
地上には、数多くの悲しみや苦しみが存在しますが、最も過酷な試練の1つであるのは間違いありません。
お腹に宿していたお母さんは、身も心も引きちぎられる思いになると察せられます。
早く地上を去ることが予め決まっていたのであれば、親になる人も決まっていたはずです。
何を基準に、親になる人が決められるのでしょうか?
その衝撃に耐えて、試練を乗り越えられる人でなければ、親になることは絶対にありません。
それでは、試練を乗り越えられる人であれば誰でも良いのでしょうか?
そうではないと思います。
大切な教訓を学ぶことを求めている親の元に生まれて来ると考えられます。
親自身に子供を亡くすシナリオが存在し、そのことを承知していたはずです。
地上に生まれる人はそこまで強くないので、神の配慮により、その記憶は意識に上って来ないようになっていると考えられます。
承知した理由は2つあると思います。
1つは、別れは永遠のものではなく、いづれまた再会するのが判っているからです。
もう1つは、別れている期間は、とても悲しく、生きているのも苦しいほどになりますが、それと引き換えに魂の成長を手に入れることが出来るからです。
私たちが生きている目的そのものが、魂を成長させることです。
成長しなくても良いのであれば、居心地の良い霊界でずっと過ごしていれば良いのであり、悲しみや苦しみの存在する地上にわざわざ生まれる必要などありません。
人は、さまざまな経験を通して、成長して行くように定められているので、地上に生まれて来るのです。
早すぎる死は、偶然起きたのではありません。
不運や不幸でもありません。
そこには霊的な目的が必ずあります。
けれども、その目的は今生では判らないかもしれません。
大切なのは、悲しく、苦しくても、自分なりに精一杯生きることです。
底の見えない深い悲しみ、悶えるような苦しみには、魂を目覚めさせ、大きく成長させるという、
深甚な意味があります。
そうすれば、この別れの目的が成就されて行くはずです。』
私は涙ながらに息子の亡くなった意味がわかった気がしたのです。
そして私がなぜその体験をしなければいけなかったのかもです。
更に武本昌三先生のHPとも出逢いました。
この方は1983年に大韓航空機事件で奥様と息子さんを亡くされた方でした。その後何年も苦しまれた後に霊的真理を知り、霊的真理の普及に努められている方です。武本先生もシルバーバーチの霊訓に出逢い、立ち直られた方なのです。
ぜひ、HPに訪問されて欲しいと思います。
私自身も若い頃にシルバーバーチの霊訓や三大霊訓の本など霊的な本ばかりを読んでいた時期がありました。でもそれは字面だけを追っていて、本当の意味を理解するにはその準備ができていなかったのだと思います。
武本先生のHPにはシルバーバーチの霊訓を始め、膨大な霊的真理の数々があります。また、ひとりひとりの状況に合ったお言葉があるので、わかりやすくて読みやすいです。
その中で、私の心に響いた言葉は「学びの栞」の中の「41家族を亡くした人へのことば」の中の「41-1最愛の息子を亡くして嘆き悲しんでいる母親へ」のシルバーバーチのお言葉でした。一部引用です。
『どうか次のことをよく理解してください。冷たいことを言うと思わないでください。本当のことを謙虚にそして真剣な気持ちで申し上げます。死は、死ぬ人自身にとって少しも悲劇ではありません。あとに残された人にとってのみ悲劇なのです。暗黒の世界から光明の世界へと旅立つことは悲しむべきことではありません。
あなたが嘆き悲しむとき、それは実は我が子を失った自分の身の上を悲しんでいらっしゃるのであり、自由の身となった息子さんのことを悲しんでおられるのではありません。息子さんは地上にいた時よりもずっと幸せなのです。
あなたは見慣れたあの姿が見られなくなったことを淋しがっておられるのです。物体的身体が二度と見られなくなったことを嘆いておられるのです。しかし、本当の息子さんは立派に元気に生きておられるのです。ただその手で触ってみることができないだけです。どうかその物的感覚の世界、五感というお粗末な魂の窓の向こうに目をやり、霊的実在を知ることによって得られる叡智を身につけるように努力なさってください。
死は生命に対してまったく無力なのです。生命はつねに意気揚々としています。愛する息子さんは決してあなたのもとを去ってはいません。むしろ死によって霊的にはさらに身近な存在となっていると言えるのです。むろん、そのことが今のあなたに理解できないことは私も承知しております。なぜならあなたは物質の世界に生き、物質の目で見つめておられ、霊の世界のすばらしい壮観がごらんになれないからです。しかし、いつの日かその物質のベールが取り除かれて霊的な目が開かれれば、あなたも新しい世界の目も眩まんばかりの光輝をごらんになり、人生には完璧な償いの法則があり、すべてが神の摂理によって治められていることを理解されることでしょう。』
この言葉に私は打ちのめされながらも、心に響きました。
私に言われているのではないかと思ったほどです。
自分達の嘆きのために、息子が行くべき所へも行かずに私達を心配して留まっているのだとしたら、それこそ本末転倒ではないかと。
息子を本当に思うのならば、少しずつでも泣くのを辞めて前向きに生きて行かなければいけないと思うようになって行ったのです。
また武本先生のHPにリンクされていた大空澄人先生のHPとも出逢いました。
大空先生も「シルバーバーチの霊訓」との出逢いがあり、連絡された方全員に無償で「人間は永遠に生きる」「続 人間は永遠に生きる」という2冊の小冊子を送って下さいます。初めて霊的なことを知るには、とてもわかりやすく、スーッと心に入ってくると思います。字体も大きいので、とても読みやすかったです。
HPの中の「死後の世界」の5番「若くして世を去ることの意味」です。一部引用です。
『子供は肉体を両親から引き継ぐが、中に宿る魂は別のものである。そのためその魂は自分独自の目標を目指している。寿命にも違いがあり、子が親より早く死ぬということも起きる。それは残された家族にとっては実に悲しく劇的なことである。悲しみのあまり止めどなく溢れる涙、しかしそれは魂を揺るがす感動であり、その時心は一点の濁りも無く清らかになっているものである。感情的には悲しい事ではあるが、実はそれは残された者達にとって、大きな学びとなっているのである。
早く世を去る者達の共通点は霊的にレベルが高く、既に過去多くの事を学んでいるので、それ以上この世では学ぶ必要がないということである。顕在意識の上では本人も気づかないが潜在意識のレベルでは既に十分に学び多くを知っているのである。親より早く死ぬというような場合、実はその者は親よりも霊格が高く、自らの死をもって親に霊的覚醒を促すことになっている場合がある。』
この内容も、本当に有難かったです。
私が強く知りたかった息子が亡くなった意味とは、こういう事なのだと実感できたのです。
以上、この御三人の方々には、私の簡単な体験を書いて、HPのリンクや引用のご許可をお願いするメールを送らせ頂きました。皆さん、温かいお言葉と共に快諾して頂き、大変に有難く思っております。この場を借りて、御礼申し上げたいと思います。
誠にありがとうございました。
霊能者の方のお言葉や、霊的真理を書いて下さっていたサイトで、私の心は救われて行きました。
更に、K先生のカウンセリングの予約日にお伺いすると、席に着くなり、先生が「何かありましたか?」と。「実は何日か前に、夢で息子さんが出てきて、とてもお母様を心配していたのです。早くお母様に会いたいようでしたので、ご連絡しようかと思ったのですが、カウンセリングがすぐだったので、お会いして直接お話しした方がいいと思いました。」と言われ、私には思い当たることがあったので、先生にお話ししました。先生曰く「やはり、そうやって息子さんはいつもお母様と一緒にいて見ているんですよね。見守っているんですよ。」と。その事が更に、私の救いになったのは、言うまでもありません。また、その時に瞑想することも薦められました。「毎日少しの時間でもいいので、瞑想してみたらどうですか?音楽を聴きながらですと、雑念も流れて行くので、ポッと心に浮かんだ言葉をノートに書いてみるんです。後で読むと、それが息子さんの言葉だったり、ご守護霊様からのお言葉だったり、自分自身に必要なことがわかるようになりますよ。」と。
私はそのお言葉が心に響いて、2月から瞑想を始めています。大好きなクラッシック音楽を聴きながら、瞑想していると、心が落ち着いて、癒やされるのがわかります。(自分自身の備忘録として、残しておくつもりです。ご興味のある方は参考程度にご覧頂けたらと思います)
瞑想を続けて、2週間ほど経ったある日に「公表できるように準備しておきなさい」という、お言葉が心に浮かびました。私の単なる思いなのか、啓示なのかわからずにいると、それからまた2週間くらい経ったある日、K先生から、私のご守護霊様からのメッセージがあったとメールを頂いたのです。
そのお言葉は
『自分の気持ちも体験も、全ては多くの人の心の癒やしに繋がるもの。
その役割を果たすべき事が今世の課題です。
多くのもの助け心の導きをしていくのです。
全てはそのための道でした。』
本当にびっくりしましたが、このメッセージを読んで、私の感じたあのお言葉も本当だったのだと感動でした。
なので最初は迷いましたが、私のように辛い経験をしている方に、少しでもお役に立てるならと思い、HPを作ることを決意したのです。
霊的真理の真髄
「シルバーバーチの霊訓」のシルバーバーチについて、ご存知ない方のために簡単に触れておきます。(ただ、ネットで検索すると、たくさん出て来ます)
シルバーバーチは、三千年前に霊の世界へ旅立った、つまりは三千年前に「亡くなった」霊なのです。今から100年ほど前の1920年に英国で、約60年近くも「霊的真理」を語り続けたメッセンジャーでした。けれど、ただのメッセンジャーではなく、高級霊団(シルバーバーチ霊団)の最高指揮者だったのです。
また、地上に霊的真理をもたらすために、地上の霊媒はイギリス人のモーリス・バーバネルという方が行っていましたが、もちろん、それはシルバーバーチ霊団が準備した霊媒でした。ただ、シルバーバーチは高級霊でしたから、その高遠な世界からは直接地上界の人間とは接触できないので橋渡しとして、かつて地上時代にレッド・インディアンだった霊の幽体を使用したということです。
シルバーバーチの霊的真理とは(簡単ですが)
人間とは「霊的存在」であるということ。人間の本質は「霊」であり、大霊(神)から付与された「分霊」が内在していると説いているのです。また肉体がメインではなく、霊がメインで肉体はその付属物としています。また人間は三位一体の存在で、霊と心と身体という3つの構成要素からなる一体的存在であるとも説いています。
「人間は肉体だけの存在ではなく、心と肉体からなる存在でもなく、霊を中心とする霊的存在である」と断言しているのです。
大霊によって、霊的存在として創造された私達人間は、大霊の分霊であり、それを内奥に宿しているのです。そして、果てしない霊的進化の道を歩みながら、大霊に近づいていくことになると説いています。
もっと詳しく知りたい方は、膨大な霊的真理が書物になっていますので、ぜひ「シルバーバーチの霊訓」をお読み下さいね。
また、信じられない方や受け入れられない方は、私は無理強いするつもりは毛頭ありません。ご自分の理性に照らし合わせて、受け入れられなければ仕方ありません。
今回は「死別の体験」をされた方が、多く読まれていると思うので、いくつか武本先生のHPにあるシルバーバーチの死についてのお言葉を引用させてもらいたいと思います。
「すでに地上にもたらされている証拠を理性的に判断なされば、生命は本質が霊的なものであるが故に、肉体に死が訪れても決して滅びることはあり得ないことを得心なさるはずです。物質はただの殻に過ぎません。霊こそ実在です。物質は霊が活力を与えているから存在しているに過ぎません。その生命源である霊が引っ込めば、物質は瓦解してチリに戻ります。が、真の自我である霊は滅びません。霊は永遠です。死ぬということはありえないのです。
死は霊の第二の誕生です。第一の誕生は地上に生をうけて肉体を通して表現し始めた時です。第二の誕生はその肉体に別れを告げて霊界へ赴き、無限の進化へ向けての永遠の道を途切れることなく歩み始めた時です。あなたは死のうにも死ねないのです。生命に死はないのです。
不滅の個霊としてのあなたは肉体の死後も生き続け、あなたという個的存在を構成しているものはすべて存続するという事実を立証するだけの証拠は、すでに揃っております。死後も立派に意識があり、自覚があり、記憶があり、理性を働かせ愛を表現する力が備わっています。愛は神性の一つなのです。愛はその最高の形に於いては神々しさを帯びたものとなります。そして生命と同じく、不滅です。
私たち霊団の者はなぜこの地上へ戻ってくるのでしょう。数々の心痛と難題と苦悶と逆境の渦巻く地上世界へ永遠に別れを告げることは、いとも簡単なことです。しかし、私たちには地上人類への愛があります。そして又、それに劣らぬ愛の絆によってあなた方と結ばれている霊(地上的血縁でつながっている霊や類魂)も存在します。
教会で行われる婚礼では「死を二人が別つまで」という言い方をしますが、もしも二人が霊的に結ばれていなければ、死が訪れる前から二人は別れております。そこに愛があれば、二人を別れさせるものは何一つありません。愛は宇宙における強力なエネルギーの一つです。ひたすら人類のためと思って働いている霊界の高級霊を動かしているのも愛なのです。
私たちは自分自身のことは何一つ求めません。崇拝していただこうとは思いません。敬っていただこうとも思いません。もしも私たちが何かのお役立てば、そのことを大霊に感謝していただき、ご自身が恩恵を受けたその恩返しに同胞へ恩恵を施してあげてくだされば、それでいいのです。」
「死ぬということは霊が肉体から脱皮して姿を現す過程のことです。何一つ怖がる要素はありません。死は有難い解放者です。死が自由をもらたしてくれるのです。
地上では赤ん坊が生まれると喜びます。ところが、いよいよ地上へ誕生しようとする時こちらでは泣いて別れを惜しむ霊が大勢いるのです。それと同じく、地上で誰かが死ぬと泣いて悲しみますが、こちらではその霊を出迎えて喜んでいる人たちがいます。
死とは地上生活がその目的を果たし、霊がこれから始まる霊的生活が提供してくれる圧倒的な豊かさと美しさとを味わう用意ができたことを意味しています。少なくとも本来はそうあらねばならないのです。
皆さんにも霊が宿っております。生命を与えている霊的本性です。肉体もお持ちですが、それもその霊によって生命を賦与されてはじめて存在しているのです。霊が最終的に引っ込めば(「最終的に」と申し上げるのは、一時的には毎晩のように肉体から引っ込み、朝になると戻ってくるからです)肉体に死が訪れます。生命活動が切れたからです。
霊視能力者が視れば、霊体と肉体とをつないでいるコード(シルバーコード)が伸びて行きながら、ついにプッツリと切れるのが分かります。その時に両者は永久に分離します。その分離の瞬間に死が発生します。そうなったら最後、地上のいかなる手段をもってしても肉体を生き返らせることはできません。」
「何のために生まれてくるのか」についてのお言葉も引用しておきます。
「神の法則に例外というものはありません。存在するもののすべて=地上の森羅万象だけでなく、無辺の大宇宙のあらゆるもの=が神の配剤にあずかっているのです。どちらへ目をやっても、そこに神の法則の働きがあります。小さすぎて見落としたり、大きすぎて法則の枠からはみ出たりすることはあり得ません。それと同じ法則はあなたにも働いているのです。もちろん私にも、そして他のすべての人にも働いております。
これで、作用反作用とが正反対のものであると同時に相等しいものであることがお分かりでしょう。幸福の絶頂に至るにはどん底の苦しみを味わわねばならないこともお分かりでしょう。そして又、皆さんが自分ではどん底を味わったつもりでいても、まだまだ絶頂を極めてはいらっしゃらないこともお分かりでしょう。その証拠に、心の奥のどこかにまだ死後の世界についての疑念をお持ちです。
しかし人間は生き続けます。地上で永遠に、という意味ではありません。地上的存在には不滅ということはあり得ないのです。物的なものには、その役割を終えるべき時期というものが定められております。分解して元の成分に戻っていきます。大自然の摂理の一環として物的身体はそのパターンに従います。が、あなたそのものは存在し続けます。生き続けたくないと思っても生き続けます。自然の摂理で、あなたという霊的存在は生き続けるのです。
ある種の教義や信条を信じた者だけが永遠の生命を与えられると説いている宗教がありますが、永遠の生命は宗教や信仰や憧れや願い事とは無関係です。生き続けるということは変えようにも変えられない摂理であり、自動的にそうなっているのです。
そもそも人間は死んでから霊となるのではなくて、もともと霊であるものが地上へ肉体をまとって誕生し、その束の間の生活のためではなく、霊界という本来の住拠へ戻ってからの生活のために備えた発達と開発をするのですから、死後も生き続けて当たり前なのです。元の出発点へ帰るということであり、地上のものは地上に残して、宇宙の大機構の中であなたなりの役目を果たすために、霊界でそのまま生き続けるのです。
その無限の宇宙機構の中にあって神の子は、一人の例外もなく必ず何らかの役目があります。そして、それを果たそうとすると、いろいろと困難が生じます。が、それは正面から迎え撃って克服していくべき挑戦と心得るべきです。困難と障害は、霊性を発達させ進化させていく上において必要不可欠の要素なのです。」
最後に私は音楽が大好きなので、そのことに触れたお言葉も一部引用したいと思います。
「こちらの世界にお出でになれば、大変な楽しみがあなたを待っております。と申しますのは、霊界には今のあなたには理解できない性質と卓越性をもった音楽が存在するからです。地上でもまだ一度もお聞きになったことのないオクターブがあります。シンフォニーもあります。コンチェルトもあります。オーケストラもあります。最高の作曲家や演奏家が無数にいます。地上にはほんの僅かしかおりません。
地上で大作曲家と言われている人のすべてはこちらへ来ているわけですが、その巨匠がその後さらに向上進化しているのです。鑑賞力をもった人なら立派な音楽をいくらでも聴くことができます。ミュージックホールは霊界が誇る財産といってもよいほどです。地上のいかなる楽器でも表現できないオクターブの音をあなたも聴くことになるのです。
それから、もちろん地上を豊かにする音楽はみな霊界を始原としております。人間がこしらえているのではありません。演奏家も作曲家もみな一種の霊媒なのです。」
「この世界に来て芸術家は地上で求めていた夢をことごとく実現させることが出来ます。画家も詩人も思い通りのことが出来ます。天才を存分に発揮することが出来ます。地上の抑圧からきれいに解放され、天賦の才能が他人のために使用されるようになるのです。地上の言語のようなぎこちない手段を用いなくても、心に思うことがすなわち霊の言語であり、それが電光石火の速さで表現されるのです。」
私はずっと、演奏会やコンサートに足を運んでいるので、鑑賞力をもった人ならという部分に、早く聴いてみたい衝動にかられます。しかも聴いたことがないオクターブって、どんな?とワクワク感が半端ありませんね。
この世の音楽は霊界からの音楽がこぼれ落ちたものと言われているので、どれだけ素晴らしい音色で、心に染み渡るのかと思うと、早く向こうの世界に行きたい気持ちになります。
後書き
私の死別の体験を通して、霊能者の方の交信や霊的真理の内容の数々を読まれたご感想は如何でしたでしょうか。
初めて霊や魂と言った言葉に出逢った方にとっては、青天の霹靂だったかも知れません。ですから、すぐに受け入れたり、信じることはなかなかできないかも知れませんが、辛い悲しい死別の体験をされたことで、霊的真理を知るべきチャンスが訪れたのかも知れませんよね。
まずは、頭から否定されずに、亡くなった方はこの世からはいなくなってしまいましたが、向こうの世界では元気に生きているという事実に目を向けて欲しいのです。それが事実なら救われる気持ちにはなりませんか。
死んでしまったら、終わりではなく、また向こうの世界で再会できるという希望があるのですから。
また、霊や魂の存在は知ってたという方も、ここまで深い霊的真理があるということまでは知らない方がほとんどではないかと思います。
実は私もいろいろな霊体験や神様のことを信じてはきましたが、(しかも若い頃にシルバーバーチの霊訓などの霊的な本も読んでいたのに)今回息子を亡くしたことで、もがいてもがいて苦しんだ挙げ句に、やっと霊的真理の真髄に辿り着いたのです。
もちろん、まだまだ学びの途中ですし、霊的真理の奥深いところまではわかりませんし、実感することもまだできていませんが、少しでも近づきたいと思っています。
皆様にも辛い苦しい悲しい死別の体験をされて、それを乗り越えるためにも、是非とも霊的真理を知って欲しいのです。まずは知ることがとても大事なことだと思っています。
また私もそうでしたが、やはり、亡くなった本人との交信が、とても大切なことだと思っています。亡くなった本人と交信することによって、向こうの世界は現実のものとなり、亡くなった本人が生きていると実感できるのです。それにはやはり、シルバーバーチも言われておりますが、本物と言われる霊能者の方に出逢うことも大切だと思っております。
それと同時に、やはり瞑想も、とても大事なものであると思っています。自分ひとりになり、魂の奥に引きこもり、静寂な時間を持つことは、神様と融合できる唯一の方法ではないかと思っています。
『精神が統一されて、深まれば深まるほど内的な安らぎ、安心感、決意といったものが深まり、自分にとって最良のものが授けられるとの確信がもてるようになる』と、シルバーバーチも言われています。
最後に一言わせて頂きたいのですが
人生で最も辛い死別の体験をすることは、霊的真理を受け入れるまたとない機会だということです。
受け入れる準備のできた方はきっと霊的真理が心に響いたことと思います。
更に霊的真理を深く知ることで、今の苦しみ辛さ悲しみから抜け出して、前向きに自分本来の使命を達成する努力をされて行って欲しいと切に願っております。