備忘録
MEMORANDUM13(2024/2月〜2024/5月)

  日々の瞑想や霊的なことなどを綴っていきたいと思っています
私はクラッシック音楽がとても好きなので、クラッシック音楽を取り入れた形の自由な瞑想をしております。
(マーラー作曲:交響曲9番の4楽章を2回聴く)
写真と内容は関係あるものとそうでないもがあります。
私自身の記録用なので、参考程度に読んで頂けたらと思います。
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ペットのおうち

1506回目の瞑想

 
(88)霊界から手を差しのべてよい範囲があり、出しゃばってはならない限界があり、しゃべってはならない時があり、今こそしゃべる時があり、それに加えて必ず、その時々の環境条件による制約があります。しかしそのパターンは厳然としており、指導に当たるスピリットはすべからくそのパターンに従わなくてはなりません。
 前もってそういう取り決めがしてあるからです。私も私より遥かに霊格の高い霊団によって計画された枠の外に出ることは許されません。そもそも地上で成就すべきものと判断を下した、もしくは計画したのは、その高級霊団だからです。
光り輝く存在、高等審議会、神庁、天使団───どうお呼びになられても結構です。要するに私たちが行う全仕事に対して責任を持つ、進化せる高級霊の集団です。私にはもうすぐその方たちとお会いする喜びが待ち受けております。
その時まず私の方からそれまでの成果をご報告申し上げ、次に私がどの程度まで成功しどの点において失敗しているかについて言い渡され、それによってこれから先の私のなすべきことを判断することになるのです。
その霊団の上には更に高級な霊団が控え、その上にも又さらに高級な霊団が控えており、連綿として事実上無限につながっているのです。
 
 
この内容を読んでいると、鳥肌が立つような思い、魂が打ち震えるような思いが込み上げてきました。シルバー・バーチ霊よりも、更に遙かに霊恪の高い霊団がおられ、更にその上にも高級な霊団が控え、またその上にもと、無限に繋がっていると言われています。このような進化された光り輝く存在がこの地上で成就するべきものを計画されていると言われていることに、もう安心感しかありません。余計な心配や不安などは一掃し、自分のやるべきことにしっかりと向き合い、精進して行こうと言う気持ちが強まりました

1507回目の瞑想

 
(89)われわれの目的は言わば〝宗教のリハビリテーション〟です。宗教を無味乾燥で不毛の神学論争から救い出すことです。
宗教間のいがみ合いから救い出し、教理上の論争を超越して実証的事実の基礎の上に真の宗教を確立し、霊界からの啓示を現在ますます増えつつある霊媒を通して地上に普及させ、あらゆる地域の人類に神が今なお働いていること、その恩寵は決して過去の一時期に限られたものではなく、今日でも、いずこにいようと誰であろうと、同じ恩寵に浴することができることを知らしめる、そういう計画があるのです。
 
 
因果律、このお言葉は何度も言われています。原因があるからこそ結果があるのだと。自分で蒔いた種は、自分で刈り取るしかないのです。けれど、それは今生でなのか、それとも霊界に戻ってからなのかは、様々な事情が絡んだ複雑な機構の中で行われることなので、シルバー・バーチ霊でさえ、分からないと言われています。時期がわからなくても、罪を犯せばその罪はその人自身の霊に記録されるとのことで、逃れることはできません。必ず、罪の償いをしなければならない日が来ます。そして、一番最後に書かれているお言葉こそが大事なのだと思います。それは因果律の根本の目的は私達人間の霊の進化にあるということです。全ての人間は地上生活を通しても霊としての進化を目指しているのだと思います。

1508回目の瞑想

 
(90)霊界の誰かがそれまでに身につけた知識を伝えて地上世界を少しでも明るくしようと一念発起したとします。その際、その霊が地上で有名人であれば、身元を明かすことを躊躇するものです。少なくとも当分の間は明かしたがりません。
それは、その人が通信を送ろうとするそもそもの目的とは関係のないことであって、そんなことで余計な混乱を生じさせたくないからです。
 
 
今回の内容もとても大事なことを説かれています。霊的、物的共に、どちらに偏ってもいけないと言われているのです。両方をうまくバランスよく調和することで、人間としての個性を存分に発揮できると言われています。簡単なようで、実はとても難しいことではありますが、この内容をしっかりと肝に銘じて行きたいと思います。

1509回目の瞑想 

 
(91)霊界通信はその内容によって価値が決まります。身元の証拠を提供することと、霊的知識を提供することとは、まったく別の範疇に属することであることを忘れてはなりません。前者は疑ぐり深い人間を得心させる必要からすることであり、後者は魂に受け入れる用意の出来た人に訴えるのが目的です。
 
 
今では、死に対しての恐怖心は皆無と言っても過言ではないです。むしろ早く向こうの世界へ行ってみたいと言う気持ちの方が強いように思っています。ただ、最後のお言葉の未来に不幸になるのではないかとの心配は、その不幸そのものよりも大きいと言われ、心配の念の方が現実の不幸よりも害を及ぼすとのことにびっくりです。それだけ念というのは強くて実体があるものなのだとつくづく感じた次第です。そのような心配の念は極力出さないようにしたいものです。
 

1510回目の瞑想

 
(92)霊の地上への働きかけは、そのために必要な条件を人間の方で用意するかしないかに掛かっています。霊の世界と連絡の取れる条件を用意してくれれば、身近な関係にある霊が働きかけることができます。よく聞かれる不思議な体験、奇跡的救出の話はみなそれなりの条件が整った時のことです。
条件を提供するのは人間の方です。人間の側から手を差し伸べてくれなければ、私たちは人間界に働きかけることができないのです。
 
 
心霊治療家の方々の役割というのは、本当に素晴らしいですが、大変なのだと思います。一人の人間を真理に目覚めさせるということは並大抵なことでは無理だからです。また真理に目覚める用意のできた魂に感動的な体験を与えることと言われていますが、これまた至難の業ではないかと思えます。更に私達人間の魂は、目覚めるまでに、往々にして悲しみや病気がお伴することになるようです。

1511回目の瞑想

 
(93)〝生〟を正しい視野で捉えていただきたい。その中で〝死〟が果たしている役割を理解していただきたいと思います。人間はあまりに永い間、死を生の終わりと考えて、泣くこと、悲しむこと、悼むこと、嘆くことで迎えてきました。私たちは是非ともその無知───死を生の挫折、愛の終局、情愛で結ばれていた者との別れとみなす無知を取り除きたいのです。
そして死とは第二の誕生であること、生の自然な過程の一つであること、人類の進化における不可欠の自然現象として神が用意したものであることを理解していただきたいのです。死ぬということは生命を失うことではなく、別の生命を得ることなのです。
肉体の束縛から解放されて、痛みも不自由も制約もない自由な身となって地上での善行の報いを受け、叶えられなかった望みが叶えられる、より豊かな世界へ赴いた人のことを悲しむのは間違いです。
 
 
今回の最初の内容については、霊的な目をもって判断できる方はすぐに納得できるものなのだと思います。
治療家の施術で、治るということは、そこに何らかの法則が働いていることの証拠だと言われ、同時にそれは、その患者さんの魂が救いを得る段階まで来ていたことをも意味すると言われています。偶然や奇跡などというものはないので、必然だったということになるのでしょう。

1512回目の瞑想 

 
(94)苦痛と老いと疲労と憂鬱から解放された人をなぜ悲しむのでしょう。暗闇から脱して光明へと向かった人をなぜ悲しむのでしょう。霊の本来の欲求である探求心を心ゆくまで満足できることになった人をなぜ悼むのでしょう。それは間違っております。その悲しみには利己心が潜んでおります。自分が失ったものを嘆いているのです。
自分が失ったものを自分で耐えていかねばならないこと、要するに自分を包んでくれていた愛を奪われた、その孤独の生活を嘆き悲しんでいるのです。
 
 
私達人間には知るよしもない法則がいろいろとあるようです。人生はすべて法則によって支配されていると言われています。そしてその法則の内側にもまた別の次元の法則が働いているとのことで、想像もできません。
宇宙には動かしがたい基本的法則が存在し、それとはまた別に自由意志を行使できる法則もあると言われています。それは自由意志によって行ったことが原因で、それ相当の結果が生じるということもその法則に従ったものなのでしょう。絶対に避ける事はできないと断言されております。

1513回目の瞑想 

 
(95)皆さんもいずれは寿命を全うしてその肉体に別れを告げる時がまいります。皆さんのために尽くして古くなった衣服を脱ぎ棄てる時が来ます。土の束縛から解放されて、死の彼方で待ち受ける人々と再会することができます。
その目出たい第二の誕生にまとわりついている悲しみと嘆き、黒い喪服と重苦しい雰囲気は取り除くことです。そして一個の魂が光と自由の国へ旅立ったことを祝福してあげることです。
 
 
今回のこの内容は、とてもわかりやすい例えを出されて説明して下さっています。確かにこの場合は善人であろうが悪人であろうが、関係なく、知識が必要だったということになります。だからこそ、霊的真理を知ることが必須だということなのだと思います。因果律の問題も、知ることによって、どういう働きをするかを知れば、自ずと自分の行動に責任を持つことになります。知らなければ、幼い子供が火傷をすることと同じようなことになってしまうことを説いて下さっているのですよね。有難いです。

1514回目の瞑想

 
(96)あなた方人間こそ〝死者〟です。本当の生命の実相を知らずにいるという意味で、立派な死者です。神の宇宙の美しさが見えません。地上という極小の世界のことしか感識していません。すぐ身のまわりに雄大な生命の波が打ち寄せているのです。
愛しい人たちはそこに生き続けているのです。そしてその背後には幾重にも高く界層が広がり、測り知れない遠い過去に同じ地上で生活した人々が無数に存在し、その体験から得た叡智を役立てたいと望んでいるのです。


 

今回の内容に、大谷選手のことが思い浮かびました。それこそ日向を歩いていて蔭を知らないような大谷選手が、このたび、最も信頼していたプライベートでも、何かと力になってくれていた方の裏切りに遭いました。でもそれもきっとご自分の人生に組み込まれていたのでしょう。大谷選手の内面はうかがい知ることは出来ませんが、野球で活躍されている姿には、その影響を微塵も感じさせませんよね。人生の難問がどの程度の影響を及ぼすかは、各自の霊的進化の程度に掛かっていると言われておりますが、まさしく大谷選手は霊的にも進化されたお方なのでしょう。今回のことは誰しもが難問なことだと思いますが、大谷選手は気持ちを切り替えて、自分の運命を切り開かれておられると思います。やはり素晴らしい人格であり、霊恪なのだと思います。

1515回目の瞑想

 
(97)見えないままでいたければ目を閉じ続けられるのがよろしい。聞こえないままでいたければ耳を塞ぎ続けられるがよろしい。しかし賢明な人間は魂の窓を開き、人生を生き甲斐あるものにするために勇気づけ指導してくれる莫大な霊の力を認識することになります。
あなたは神の子なのです。その愛と叡智を持って全宇宙を創造した大霊の子なのです。その大霊とのつながりを強化するのは、あなたの理解力一つです。もしも教会がその邪魔になるのであれば教会をお棄てになることです。
もしも邪魔になる人間がいれば、その人との縁を切ることです。もしも聖典が障害となっていることに気づかれれば、その聖典を棄て去ることです。
 
 

1516回目の瞑想 

 
(98)私の説く宗教は実践の宗教です。一日一日の宗教─── 一日二十四時間、一時間六十分、一分間六十秒、そのすべてを実践の時とする宗教です。それが私の評価の基準です。それが目標とする理想です。
 
 
今回の内容には、唸ってしまいました。そういうことなんだと。本当に霊的に進化し始めるのは、人の為に役立つ仕事を目的として、霊界のスピリットの協力を得ることで、心霊能力が開発されて行くのだということに、魂に響いたように感じました。人の為に役立つこと、これがやはり一番大切なことなんですよね。単に心霊能力が発揮できたとしても、霊的進化の指標にはならないと言われています。確かに霊的能力がある方でも、霊恪的にはどうだろうと思う人がいるので、そういうことなんだと得心しました。私自身も、肝に銘じて霊的に進化するためにも、少しずつでも努力して行きたいと思った次第です。

1495回目の瞑想

 
(77)宗教家とか信心深い人は霊的に程度が高いという考えが、人間を永いあいだ迷わせてきたようです。実際は必ずしもそうとは言えないのです。ある宗教の熱烈な信者になったからといって、それだけで霊的に向上するわけではありません。大切なのは日常生活です。あなたの現在の人間性、それがすべてのカギです。
祭壇の前にひれ伏し、神への忠誠を誓い、〝選ばれし者〟の一人になったと信じている人よりも、唯物論者や無神論者、合理主義者、不可知論者といった、宗教とは無縁の人の方がはるかに霊格が高いというケースがいくらもあるのです。問題は何を信じるかではなく、これまで何を為してきたかです。そうでないと神の公正が根本から崩れます。
 
 
これこそが霊的真理の真髄なのだと思います。宗教家であろうが、教祖だろうが、霊的に程度が高いのかどうかは、日常の生活だと言われています。また当人の人間性だとも言われているのです。却って、唯物論者や無神論者の方が霊格が高い場合がいくらでもあると言われています。と言うのも何を信じるかではなくて、何を為してきたか、ということだからなのでしょう。人間の正しい行動こそが信心よりも霊恪の高さの決め手となり得ると言うことに尽きるのでしょう

1496回目の瞑想

 
(78)いわゆる因果律というのは必ずしも地上生活中に成就されるとは限りません。しかしいつかは成就されます。必ず成就されます。原因があれば結果があり、両者を切り離すことはできないのです。しかし、いつ成就されるかという時期の問題になると、それは原因の性質いかんに係わってきます。
すぐに結果の出るものもあれば、地上生活中には出ないものもあります。その作用には情状酌量といったお情けはなく、機械的に作動します。罪を犯すとその罪がその人の霊に記録され、それ相当の結果を生み、それだけ苦しい思いをさせられます。
それが地上生活中に出るか否かは私にも分かりません。それはさまざまな事情の絡んだ複雑な機構の中で行われるのですが、因果律の根本の目的が永遠の生命である〝霊の進化〟にあることだけは確かです。
 
 
因果律、このお言葉は何度も言われています。原因があるからこそ結果があるのだと。自分で蒔いた種は、自分で刈り取るしかないのです。けれど、それは今生でなのか、それとも霊界に戻ってからなのかは、様々な事情が絡んだ複雑な機構の中で行われることなので、シルバー・バーチ霊でさえ、分からないと言われています。時期がわからなくても、罪を犯せばその罪はその人自身の霊に記録されるとのことで、逃れることはできません。必ず、罪の償いをしなければならない日が来ます。そして、一番最後に書かれているお言葉こそが大事なのだと思います。それは因果律の根本の目的は私達人間の霊の進化にあるということです。全ての人間は地上生活を通しても霊としての進化を目指しているのだと思います。

1497回目の瞑想

 
(79)人間生活には三つの側面があります。まず第一に霊であり、次に精神であり、そして肉体です。人間としての個性を存分に発揮するようになるのはこの三つの側面の存在を認識し、うまく調和させるようになった時です。
物的世界にのみ意識を奪われ、物的感覚にしか反応を示さぬ人間は、精神的ならびに霊的な面においてのみ獲得される、より大きい、より深い、より美しい喜びを味わうことはできません。
反対に精神的なもの、霊的なものばかりの瞑想的生活から生まれる内的満足のみを求め、この世の人間としての責務をおろそかにする人間は、一種の利己主義者です。
 
 
今回の内容もとても大事なことを説かれています。霊的、物的共に、どちらに偏ってもいけないと言われているのです。両方をうまくバランスよく調和することで、人間としての個性を存分に発揮できると言われています。簡単なようで、実はとても難しいことではありますが、この内容をしっかりと肝に銘じて行きたいと思います。

1498回目の瞑想 

 
(80)人間にとって最大の恐怖は死でしょう。それが少しも怖いものでないことを知り、生命が永遠の存在であり、自分も永遠の存在であり、あらゆる霊的武器を備えていることを知っていながら、なぜ将来のことを心配なさるのでしょう。
不幸の訪れの心配は、その不幸そのものより大きいものです。その心配の念が現実の不幸より害を及ぼしております。
 
 
今では、死に対しての恐怖心は皆無と言っても過言ではないです。むしろ早く向こうの世界へ行ってみたいと言う気持ちの方が強いように思っています。ただ、最後のお言葉の未来に不幸になるのではないかとの心配は、その不幸そのものよりも大きいと言われ、心配の念の方が現実の不幸よりも害を及ぼすとのことにびっくりです。それだけ念というのは強くて実体があるものなのだとつくづく感じた次第です。そのような心配の念は極力出さないようにしたいものです。
 

1499回目の瞑想

 
(81)心霊治療家になしうることは、病気の期間を縮めるか、治してしまうか、あるいは、もっと大切なこととして、真理に目覚める用意のできた魂に感動的な体験を与えることです。
悪事とか懲罰の問題を超えたものがそこにあります。魂そのものの成長に関わる問題です。魂が目覚めるまでは往々にして悲しみや病気がお伴をすることになります。
 
 
心霊治療家の方々の役割というのは、本当に素晴らしいですが、大変なのだと思います。一人の人間を真理に目覚めさせるということは並大抵なことでは無理だからです。また真理に目覚める用意のできた魂に感動的な体験を与えることと言われていますが、これまた至難の業ではないかと思えます。更に私達人間の魂は、目覚めるまでに、往々にして悲しみや病気がお伴することになるようです。

1500回目の瞑想

 
(82)期間の問題ではなく〝霊〟そのものに係わる問題です。霊は、何日も何週間もかかって体験するものを僅か二、三秒で体験することができます。霊的なものを物的な尺度として価値判断することはできません。霊的なものは霊的に判断しなければなりません。霊的なことが原因で発生した現象を地上的な期間を尺度として価値判断することはできません。
さらに、理屈はどうであれ、治療家が痛みを軽減したり、らくにしてあげたり、治してしまうことができるという現実は、そこに何らかの法則が働いていることの証拠であり、同時にそれは、その患者の魂がその救いを得る段階まで来ていたことを意味します。偶然とかまぐれとかで起きているのではありません。
 
 
今回の最初の内容については、霊的な目をもって判断できる方はすぐに納得できるものなのだと思います。
治療家の施術で、治るということは、そこに何らかの法則が働いていることの証拠だと言われ、同時にそれは、その患者さんの魂が救いを得る段階まで来ていたことをも意味すると言われています。偶然や奇跡などというものはないので、必然だったということになるのでしょう。

1501回目の瞑想 

 
(83)人生はすべて法則によって支配されております。天命・宿命・運命───こうした問題は何世紀にもわたって思想家の頭を悩ませてまいりました。では真相はと言えば、法則の内側にもまた別の次元の法則が働いているということです。
宇宙には何人(なんぴと)にも動かしがたい基本的法則がまず存在します。そして、それとは別に、自由意志を行使できる法則もあります。ただし、自由意志による行為が原因となってそれ相当の結果が生じます。それは絶対に避けることはできないということです。
 
 
私達人間には知るよしもない法則がいろいろとあるようです。人生はすべて法則によって支配されていると言われています。そしてその法則の内側にもまた別の次元の法則が働いているとのことで、想像もできません。
宇宙には動かしがたい基本的法則が存在し、それとはまた別に自由意志を行使できる法則もあると言われています。それは自由意志によって行ったことが原因で、それ相当の結果が生じるということもその法則に従ったものなのでしょう。絶対に避ける事はできないと断言されております。

1502回目の瞑想 

 
(84)いくら善人でも無知から霊的な罪を犯すことがあり得ます。たとえば、ここに一人の子供、とても気立ての良い子がいて、その子が炉の中に手を突っ込んだとします。炉の火は、その子が良い子であるか悪い子であるかにお構いなく、その手に火傷を負わせます。
もしもその子に、火に手を入れたら火傷をするという〝知識〟があったら、手を突っ込むことはしなかったでしょう。ですから、この場合、火傷をするしないは知識の問題です。
私が因果律の問題は魂の進化の程度によって決まるという言い方をするのは、そうした要素があるからです。因果律は必ず働きます。信仰とか願望にはおかまいなく働きます。
 
 
今回のこの内容は、とてもわかりやすい例えを出されて説明して下さっています。確かにこの場合は善人であろうが悪人であろうが、関係なく、知識が必要だったということになります。だからこそ、霊的真理を知ることが必須だということなのだと思います。因果律の問題も、知ることによって、どういう働きをするかを知れば、自ずと自分の行動に責任を持つことになります。知らなければ、幼い子供が火傷をすることと同じようなことになってしまうことを説いて下さっているのですよね。有難いです。

1503回目の瞑想

 
(85)いかなる人間にも必ず試練と困難、いわゆる人生の悩みが訪れます。いつも日向ばかりを歩いて蔭を知らないという人は一人もいません。ただその人生の難問がどの程度の影響を及ぼすかは、各自の霊的進化の程度に掛かっております。
ある人には何でもないことが、あなたには大変に思える場合があります。反対に、ある人には大変に思えることが、あなたには些細なことに思えることもあります。各自が自分なりの運命を切り開いて行くのです。

 

今回の内容に、大谷選手のことが思い浮かびました。それこそ日向を歩いていて蔭を知らないような大谷選手が、このたび、最も信頼していたプライベートでも、何かと力になってくれていた方の裏切りに遭いました。でもそれもきっとご自分の人生に組み込まれていたのでしょう。大谷選手の内面はうかがい知ることは出来ませんが、野球で活躍されている姿には、その影響を微塵も感じさせませんよね。人生の難問がどの程度の影響を及ぼすかは、各自の霊的進化の程度に掛かっていると言われておりますが、まさしく大谷選手は霊的にも進化されたお方なのでしょう。今回のことは誰しもが難問なことだと思いますが、大谷選手は気持ちを切り替えて、自分の運命を切り開かれておられると思います。やはり素晴らしい人格であり、霊恪なのだと思います。

1504回目の瞑想

 
(86)人間は無数のことに苦しみ、悲哀と苦痛を味わわねばなりません。これは人類の永年の伴侶なのです。遠い昔、どうみても何一つ苦労はなかったであろうと思われる昔からです。
 
 
今回の内容には、あきらめの境地にならざるを得ません。大昔から、悲哀と苦痛は人類の伴侶だと言われています。切っても切れない仲ならば、それを踏まえた上で、どう対処して行くかを考えるしかありませんよね。出来る限り前を向いて、例え一時的に落ち込んだとしても、出来る限り早く気持ちを切り替えて、乗り越える努力をして行きたいと強く思います。私は息子の死では、そのように出来たという自負があるので、この先も何があろうが、乗り越えて行けると信じています。

1505回目の瞑想 

 
(87)ヒトは身体的にはすでに進化の頂点に達しております。次は精神的進化と霊的進化です。長い年月をかけて徐々に全人類が自己の心霊的能力に目覚めていくことでしょう。が、ここで〝但し書き〟が必要です。心霊的能力を発揮するようになることが必ずしも霊的進化の程度の指標とはならないということです。
霊的身体の有する能力を全部発揮しても、魂そのものは少しも進化していないということもありえます。本当の意味で霊的に進化しはじめるのは、人のために役立つ仕事を目的として霊界のスピリットの協力を得ながら心霊能力を開発した時です。
 
 
今回の内容には、唸ってしまいました。そういうことなんだと。本当に霊的に進化し始めるのは、人の為に役立つ仕事を目的として、霊界のスピリットの協力を得ることで、心霊能力が開発されて行くのだということに、魂に響いたように感じました。人の為に役立つこと、これがやはり一番大切なことなんですよね。単に心霊能力が発揮できたとしても、霊的進化の指標にはならないと言われています。確かに霊的能力がある方でも、霊恪的にはどうだろうと思う人がいるので、そういうことなんだと得心しました。私自身も、肝に銘じて霊的に進化するためにも、少しずつでも努力して行きたいと思った次第です。

1484回目の瞑想

 
(66)生長・変化・進化・進歩・開発・発展───これが宇宙の大原理です。一口に進化と言っても、そこには必ず潮の干満にも似た動きがあることを知ってください。循環(サークル)運動、周期(サイクル)運動、螺旋(スパイラル)運動───こうした運動の中で進化が営まれており、表面は単調のようで内面は実に複雑です。
その波間に生きるあなたも、寄せては返す波に乗って進歩と退歩を繰り返します。物的繁栄の中にあっては霊的真理を無視し、苦難の中にあっては霊的真理を渇望するものです。それは人生全体を織りなすタテ糸でありヨコ糸であるわけです。
 
 
宇宙の大原理を教えて下さっています。進化一つとっても、そこには潮の干満にも似た動きがあることを知って下さいと言われています。循環、周期、螺旋というこのような運動の中で進化は営まれているとのことです。確かに表面は単調のように感じますが、内面はかなり複雑なのでしょう。そんな波間に生きる私達人間も、波に乗って進歩と退歩を繰り返しているとのことです。この世で霊的真理を無視しても、苛酷な試練に遭遇すれば霊的真理を渇望すると言われています。その通りだと思います。更にそれは人生全体を織りなすタテ糸、ヨコ糸であるとのことです

1485回目の瞑想

 
(67)霊媒現象ばかりが霊力のはけ口ではありません。芸術家を通して、哲学者を通して、あるいは科学者を通しても発現することができます。要するにあなた方自身の霊的自覚を深める行為、あなた方より恵まれない人々の役に立つ仕事に携わることです。
看板は何であってもかまいません。係わる宗教、政治、芸術、経済がいかなる主義・主張を掲げようと問題ではありません。実際に行う無私の施しが進化を決定づけるのです。
 
 
これこそ、霊的真理の真髄なのだと思います。私達人間が霊的自覚を深める行為とは、無私の施しをすることに尽きるだと思います。どんな看板を掲げようが、実際に行動に起こす中身が問題なのだということです。自分よりも恵まれない方々の役立つ仕事に携わるという事は、簡単なようで、難しいと思っています。けれど、どんなに小さいことや些細なことであっても、少しずつ努力して行くことが大切なのだと思います。出来る限りの努力をして行きたいと思っています。

1486回目の瞑想

 
(68)地上へ誕生してくる時、魂そのものは地上でどのような人生を辿るかをあらかじめ承知しております。潜在的大我の発達にとって必要な資質を身につける上でそのコースが一番効果的であることを得心して、その大我の自由意志によって選択します。
その意味であなた方は自分がどんな人生を生きるかを覚悟の上で生まれてきているのです。その人生を生き抜き、困難を克服することが、内在する資質を開発して真の自我、より大きな自分に新たな神性を付加していくことになるのです。
 
 
この内容も何度か拝見させてもらっておりますが、自分の人生は自分が予め承知しているということに、少なからずびっくりでした。しかもその人生において、魂の発達にとって必要な資質を身につけるために一番効果的なコースと得心して、大我の自由意志で選択しているのだということにも、衝撃的でした。ということで、私達人間はどんな人生を生きるかについて覚悟の上で生まれて来ているということなのです。ですから、この世では人生を困難をも克服して内在する資質を開発し、真の自我に目覚めることで、その結果、より大きな自分に新たな神性を付加していくことになると言われているのです。これがこの世の目的であり、意義なのでしょう。頑張ってその目的を達成する以外にはないと思っています。

1487回目の瞑想 

 
(69)私が〝魂は承知している〟と言う時、それは細かい出来事の一つひとつまで知り尽くしているという意味ではありません。どういうコースを辿るかを理解しているということです。
その道程における体験を通して自我が目覚め悟りを開くということは、時間的要素と各種のエネルギーの相互作用の絡まった問題です。たとえば、予期していた悟りの段階まで到達しないことがあります。するとその埋め合わせに再び地上へ戻ってくることになります。
それを何度も繰り返すことがあります。そうするうちにようやく必要な資質を身につけて大我の一部として融合していきます。
 
 
魂が承知しているというのは、細かく詳細に知り尽くしているということではなく、どういう人生を辿るかということを大雑把に理解しているだけだと言われています。更にその道程での体験を通して悟りを開くということは時間的要素とエネルギーの相互作用の絡まった複雑な問題だと言われているのです。なので、自分で想定した悟りの段階まで到達できなかった場合には再び地上へ戻ってくることになるとのことです。それを何度も繰り返し、ようやく必要な資質を身につけることができて、大我の一部として融合できるようです。どちらにしても先に長い話なのだと思います。まずは今生で、自分が決めた段階まで到達できるように努力して行くしかないようです。
 

1488回目の瞑想

 
(70)時には万策尽きて万事休すと諦めかけた、その最後の一瞬に救いの手が差し伸べられることがあります。霊的知識を授かった者は、いかなる苦境にあっても、その全生命活動の根源である霊的実相についての知識が内なる冷静、不動の静寂、千万人といえども我行かんの気概を失うようなことがあってはなりません。
 
 
確かに万事休すと言ったような時に、最後の最後で救われるということがあるように思います。また霊的知識を授かった人は、どのような苛酷な体験に遭遇しようとも、霊的実相の知識をもって常に冷静に落ち着いて気概を失ってはいけないと断言されております。

1489回目の瞑想

 
(71)自分がいかなる存在であるのか、何のためにこの世にいるのかについての正しい認識を失わぬようにしてください。あなた方のようにふんだんに霊的知識に恵まれた方でも、どうかすると毎日の雑事に心を奪われて霊的実相を忘れてしまいがちです。が、それだけは絶対に忘れないようにしなければなりません。
地上という物的世界において生活の拠り所とすべきものはそれ以外にはないのです。霊こそ実在です。物質は実在ではないのです。あなた方はその実在を見ることも触れてみることも感じ取ることもできないかも知れません。少なくとも物的感覚で感識している具合には感識できません。
しかし、やはり霊こそすべての根源であることに変わりありません。あなた方は永遠の存在であることを自覚してください。生命の旅路においてホンの短い一時期を地上で過ごしている巡礼者に過ぎません。
 
 
この内容も常に言われていることです。日頃の雑事で頭いっぱいにしていては、霊的実相などよぎりもしないでしょう。霊的知識に恵まれた方でも霊的実相を忘れがちだと言われています。けれど、それだけは絶対に忘れないようにしなければならないと念押しされています。霊こそ実在ということは頭ではわかっているつもりですが、言われているようにその実在を見ることも触れてみることも感じ取ることも私達人間には物的感覚で感識するようにはできません。だからこそ、揺らいでしまうのだと思うのです。永遠の存在であることや、この地上は短い時を過ごしているということも頭では理解しているつもりですが、実感として理解できているかと言えば、残念ながらノーと言わざるを得ません。

1490回目の瞑想 

 
(72)治療家としてこの世に生を受けたのは、その仕事を通じて神の計画の遂行に参加し、自分が何であるかも自覚せず、何のために地上に生まれてきたのかも知らず、従って何を為すべきかも知らずに迷っている神の子等に永遠の真理、不変の実在を教えてあげるためです。
これは何にも勝る偉大な仕事です。たった一人でもよろしい。治療を通して霊的真理に目覚めさせることができたら、あなたの地上生活は無駄でなかったことになります。一人でいいのです。それであなたの存在意義があったことになります。
 
 
私は治療家ではありませんが、ヒーリングを通して、霊的真理や人間が霊であることなど、伝えてきたつもりです。中には霊的真理を勉強すると言って下さった方もいらしたので、少しはお役に立てたかなと思っております。ひとりでもいいとのことなので、それなら存在意義はあったのではないかと思っています。

1491回目の瞑想 

 
(73)あなた方人間は物的身体を通して自我を表現している霊魂です。霊魂に霊的法則があるように、身体には生理的法則があります。その法則の働きによって身体に何らかの影響が表れたとすれば、それも原因と結果の法則が働いたことを意味します。
私たちは霊力によって手助けすることはできても、その法則の働きによる結果に対しては干渉できません。要するに奇跡は起こせないということです。大自然の因果律は変えられないということです。神は摂理として、その霊力によって創造した宇宙で一瞬の休みもなく働いております。
すべてを包摂しており、木の葉一枚落ちるのにも摂理の働きがあります。ありとあらゆる治療法を試みてなお治らなかった患者が、もし心霊治療によって見事に治ったとしたら、それは奇跡ではなく霊的法則が働いた証と考えるべきです。
 
 
今回のこの内容は何度も言われていることです。私達人間はこの肉体を通して自我を表現している霊魂なのだと。そして霊には霊的法則があるように、肉体にも生理的法則があるとのこと。その法則の働きで、肉体に何らかの影響が現れたとしたら、それも原因と結果の法則が働いたということのようです。病気というのはそういうことなのですよね。更にその法則の働きによる結果については、シルバー・バーチ霊ほどの高級霊の方でも、干渉はできないと言われています。霊力で手助けはできても、大自然の因果律に干渉することは許されないのでしょう。また次のお言葉も心に響きます。神様は摂理として、その霊力によって創造した宇宙で一瞬も休むことなく働いているとのことです。だからこそ、全存在の隅々まで完全に網羅されているのでしょう。
また、不治の病の患者が、心霊治療で完治したとしたら、それは奇跡なんかではなくて、霊的法則が働いた証と考えるべきだと言われています。奇跡や偶然はなく、何事も必然だと言われていますから、治るべくして治ったということなのでしょうね。逆にその時期が来ていない人はどんなに能力のある心霊治療を受けたとしても、治らないということなのでしょう。

1492回目の瞑想

 
(74)人間の健康を動物の犠牲のもとに獲得することは神の計画の中にはありません。全ての病気にはそれなりの治療法が用意されております。その神の用意された自然な方法を無視して動物実験を続ける限り、人間の真の健康と福祉は促進されません。
動物はそんな目的の為に地上に生を受けているのではありません。真の健康は調和です。精神と霊と肉体の正しい連係関係です。三つの機能が一体となって働くということです。これは動物を苦しめたり体内から特殊成分を抽出したりすることによって得られるのではありません。
 

冒頭のお言葉は、まさにその通りなのだと思っています。人間の健康のために、動物実験をすることは、真の健康と福祉は促進されないとまで言われています。神様は全ての病気に自然な治療法をご用意下さっていると言われています。それは真の健康は調和であり、精神と霊と肉体の正しい連係関係などだと言われ、その三つ機能が一体となって働くことだと言われているのです。だとすると、一人ひとりの人間がそのことを肝に銘じることでしかあり得ません。動物を苦しめ、体内から何かの成分を抽出することではないのです。動物は人間の健康のためという目的で地上に生を受けているのではないと断言されております。一刻も早く動物実験は止めるようにして欲しいものです。

1493回目の瞑想

 
(75)身体が病むということは、精神か霊のいずれかに不自然なところがあることを意味します。霊が正常で精神も正常であれば、身体も正常であるはずです。身体に出る症状はすべて霊と精神の反映です。
これを医学では心身相関医学などと呼ぶようですが、名称はどうでもよろしい。大切なのはいつの時代にも変わらぬ真理です。魂が病めば身体も病みます。魂が健康であれば身体も当然健康です。身体の治療、これは大切ではありません。魂の治療、これが大切なのです。
 
 
今回の内容は私達人間にとっては、耳が痛い内容ですね。最近、私もいろいろと不調箇所が出て来ているので、霊と精神に不自然なところがあるのだと思っています。身体に出る症状はすべて霊と精神の反映ということを肝に銘じて、極力正常にしていけるように努力したいと思います。
更に大切なのは変わらぬ真理であり、魂の治療こそが大事で、身体の治療は大切ではないと断言されております。私自身は魂は正常だと思っていましたが、やはり身体に不調があるということは、魂に問題があるということなのでしょう。肝に銘じたいと思います。

1494回目の瞑想 

 
(76)私たちが地上の人々にもたらすことのできる最高の霊的知識は人生が〝死〟をもって終了するのではないこと。したがって苦しい人生を送った人も失敗の人生を送った人も屈辱の人生を送った人も、みなもう一度やり直すことができるということ、言いかえれば悔し涙を拭うチャンスが必ず与えられるということです。人生は死後もなお続くのです。
永遠に続くのです。その永遠の旅路の中で人間は内在している能力、地上で発揮し得なかった才能を発揮するチャンスが与えられ、同時に又、愚かにも摂理を無視し他人への迷惑も考えずに横柄に生きた人間には、その悪業の償いをするチャンスが与えられます。
 
 
この回では最高の霊的知識として、教えて下さっています。死は人生の終了ではなく、どんな人生を送ったとしても、必ずまたやり直すチャンスが与えられるということ、人生は死後も永遠に続くのです。その永遠の旅路の中で私達人間は内在している能力や才能を発揮するチャンスが与えられると言われています。そして同時に神様の摂理を無視して悪行三昧した人には、その償いをするチャンスも与えられるとのことです。
すべては因果律が働き、公平に賞罰が下されるのでしょう。

1473回目の瞑想

 
(55)人生には目的があります。しかしそれは当事者が操り人形でしかないほど融通性のないものではありません。笛に踊らされる人形ではないのです。人間の一人ひとりに神の分霊が宿っており、一人ひとりが無限の創造活動に参加できるのです。
つまりあなたには個的存在としての責任と同時に、ある一定限度内での自由意志が与えられているのです。自由といっても、大自然の法則の働きを阻止することができるという意味ではありません。限られた範囲内での選択の権利が与えられているということです。
運命全体としての枠組みはできております。が、その枠組みの中であなたが計画された予定表(ブループリント)に従いながらどれだけ潜在的神性を発揮するかは、あなたの努力次第ということです。
 
 
人生には目的があると言われています。その目的は霊界で自分自身が決意してきたことだとも言われているのです。それが最後に言われておりますが、運命全体としての枠組みの中で私達人間が計画しているブループリント要するに目的ですね。ただ、肉体をもって生まれてくるとその目的を自覚することが容易ではないのです。先ずは自覚することが必須です。その上でその目的を果たしながら、潜在的神性をどれだけ発揮出来るかという事なのだと思います。これは私達人間すべてに与えられた義務であり、努力しなければいけない使命なのだと思っています

1474回目の瞑想

 
(56)霊は生命そのものであり、生命は霊そのものです。霊のないところに生命はありません。物質は殻に過ぎません。霊という実在によって投影されたカゲに過ぎません。物質それ自体には存在はないのです。
あなたが存在し、呼吸し、動き、考え、判断し、反省し、要約し、決断し、熟考することができるのは、あなたが霊であるからこそです。霊があなたの身体を動かしているのです。霊が離れたら最後、その身体は崩壊して元の土くれに戻ってしまいます。
 
 
前にも書きましたが、頭では霊なのだと思ってはいます。ただ実感はないのです。シルバー・バーチ霊が言われているから、そのように、思っているのだと思います。物質が殻ということも、投影された影と言われても、はっきりとはわからないのが本当です。物質それ自体には存在はないと言われていますが、私達人間には見えてはっきりと実在しているのですから。次のお言葉も霊であるからこそできると言われているので、納得しているのだと思います。実際は霊と言われても、実感はありません。やはり死後の世界へ行くまで実感がないのかも知れませんね。ただ、このことはしっかりと肝に銘じて行くつもりです。

1475回目の瞑想

 
(57)人間という形態を通して顕現している生命力は、小鳥・動物・魚類・樹木・草花・果実・野菜などを通して顕現しているものと同じ生命力なのです。いかなる形態にせよ生命のあるところには必ず霊が働いております。
 
 
もう、このお言葉を信じる以外にはありませんね。生命のあるところには必ず霊が働いているということを信じることが最も大事なことなのかも知れません。

1476回目の瞑想 

 
(58)時として人生が不公平に思えることがあります。ある人は苦労も苦痛も心配もない人生を送り、ある人は光を求めながら生涯を暗闇の中を生きているように思えることがあります。しかしその見方は事実の反面しか見ておりません。
まだまだ未知の要素があることに気づいておりません。私はあなた方に比べれば遥かに永い年月を生き、宇宙の摂理の働き具合を遥かに多く見てまいりましたが、私はその摂理に絶対的な敬意を表します。神の摂理がその通りに働かなかった例を一つとして知らないからです。
 
 
確かに私達人間は事実の反面しか見ていないのでしょう。けれど、野球の大谷選手のような人は世界の人々の憧れの的になっていますし、羨望のまなざしで見られています。もちろん、日々の努力は普通の人の何倍もしているのだと思いますが、大好きな野球の才能に恵まれ、そしてまた努力する才能にも恵まれた人生を歩めることは、幸せなことなのではないでしょうか。もちろん野球だけではなく、突出した才能に恵まれた人というのはほんの一握りの人しかいないと思います。それは過去生でのことに関係しているのかどうかはわかりませんが、やはりこの世では、羨ましい存在となり、そのような才能に恵まれない人や生き甲斐を感じられない日々を暮らしている人にとっては不公平と思ってしまっても仕方ないような気もします。シルバー・バーチ霊のような高級霊となれば、この世はお見通しだと思いますので、すべての人は平等だと言えるのだと思います。もちろん、それだけではなく、宇宙の摂理の働きを見てこられているので、神様の摂理は絶対であるという確信の元に断言されていることなので、それを信じる他はないと思っています。
 

1477回目の瞑想

 
(59)せっかちと短気はいけません。せっかくの目的を台なしにします。内部から援助してくれる力は静穏な環境を必要とします。物事には一つの枠、つまりパターンがあり、そのパターンに沿って摂理が働きます。宇宙の大霊も自ら定めた摂理の枠から外れて働くことはできないのです。
指導と援助を求める時はそれなりの条件を整えないといけません。そのためには、それまでの経験を活用しなければなりません。それが魂にとっての唯一の財産なのです。そして、自分に生命を賦与してくれた力がきっと支えてくれるという自信を持つことです。あなたはその力の一部なのであり、あなたの魂に内在しているのです。
正しい条件さえ整えば、その神性は神からの遺産として、あなたに人生の闘いを生き抜くためのあらゆる武器を用意してくれます。せっかちと短気はその自由闊達な神性のほとばしりの障害となるのです。
 神は決してあなたを見捨てません。見捨てるのはあなたの方です。あなたが神を見捨てているのです。困難に直面した時、その神の遺産を結集し、必ず道は開かれるのだという自信を持つことです。不動の信念を持つことです。そうすれば道は必ず開かれます。
 
 
今回の内容は長いですが、重要なことを説いておられると思います。
内部から援助してくれる力というのは、静穏な環境を必要とすると言われていますが、まさに瞑想することなのだと思います。そして物事にパターンがあって、そのパターンに沿って摂理が働くようです。偉大なる神様でさえ、自らお決めになった摂理の枠を外れては働けないと言われているのです。
更に指導と援助を求める場合には、それなりの条件をそろえないといけないと言われ、それまで経験してきたことを活用することが、魂にとっての唯一の財産だと言われています。また、自分に生命を賦与してくれた力が支えてくれるという信念や自信を持つことだと言われているのです。それは、私達人間はその力の一部であり、魂に内在しているからだと言われています。
正しい条件さえ整えば、とありますが、これがなかなかの至難の業であり、なかなか手にすることが出来ないのです。それを手に入れることが出来れば鬼に金棒のだと思います。私達人間が気をつけなければいけないことにせっかちと短気だと言われています。自由闊達な神性の障害になるからだそうです。
神様は私達人間を見捨てないと、見捨てるのは私達人間の方だと言われています。神様を不動の信念で信じ切ることが大事であり、自信を持つことだと言われます。そうすれば必ず道は開けると。。とてもいいお言葉だと思います。

1478回目の瞑想

 
(60)悲しみは魂に悟りを開かせる数ある体験の中でも特に深甚なる意味を持つものです。それが魂の琴線に触れた時、いちばんよく魂の目を覚まさせるものです。魂は物的身体の奥深く埋もれているために、それを目覚めさせるためにはよほどの体験を必要とします。悲しみ、病気、不幸等は地上の人間にとって教訓を学ぶための大切な手段なのです。
  もしもその教訓が簡単に学べるものであれば、それは大した価値のないものということになります。悲しみの極み、苦しみの極みにおいてのみ学べるものだからこそ、それを学べる段階まで来ている魂にとって深甚なる価値があると言えるのです。
 
 
魂は物的身体の奥深くに埋もれているために、悟りを開かせるためにはよほどの体験を必要とするようです。体験の中でも特に悲しみが深甚なる意味をもつと言われています。そして更に魂の琴線に触れた時に、一番魂の目を覚ませるのだと言われるのです。地上の人間にとっての悲しみ、病気、不幸等は教訓を学ぶための大切な手段だと言われています。悲しみの極み、苦しみの極みだからこそ、学べると。それを学べる段階まで来ている魂にとって深甚なる価値があると言われています。このお言葉から、私は学べる段階まで来ていた魂ということになるのでしょうか。だとしたら大変に有難いことです。感謝しかありません。

1479回目の瞑想 

 
(61)人間の生活に過ちはつきものです。その過ちを改めることによって魂が成長するのです。苦難や障害に立ち向かった者が、気楽な人生を送っている者よりも大きく力強く成長していくということは、それこそ真の意味での〝ご利益〟(リヤク)と言わねばなりません。
何もかもうまく行き、日向ばかりを歩み、何一つ思い煩うことのない人生を送っていては、魂の力は発揮されません。何かに挑戦し、苦しみ、神の全計画の一部であるところの地上という名の戦場において、魂の兵器庫を開き神の武器を持ち出すこと、それが悟りを開くということです。
 
 
人間の生活に過ちはつきものだと言われており、その過ちを改めることによって、魂が成長すると言われているのです。過ちを改めるだけで魂は成長出来るのでしょうか。ちょっと簡単すぎるように思いますが、改め方によるのでしょう。また苦難や障害に勇気をもって立ち向かった人は、気楽で楽しい人生を送っている人よりも、大きく成長できるとのことです。それこそそれが真の意味でのご利益とのこと。
何も悩み事もなく、幸せに暮らしている人を羨ましく思うこともありましたが、そういう人は魂の力は発揮されないとのことです。それよりも、苦しみや悲しみなどの苛酷な試練に立ち向かい、神様の全計画である地上での戦場で魂の兵器庫に目覚め、神様の武器を持ち出すことこそ、悟りを開くことだと言われています。これが容易に出来ればどんなにいいでしょう。けれど、容易に手に入れることが出来たら、やはり価値はないのだと思います。

1480回目の瞑想 

 
(62)神は一瞬の休みもなく働き、全存在のすみずみまで完全に通暁しております。神は法則として働いているのであり、晴天の日も嵐の日もともに神の働きです。有限なる人間に神を裁く資格はありません。宇宙を裁く資格もありません。地球を裁く資格もありません。
あなた方自身さえも裁く資格はありません。物的尺度があまりに小さすぎるのです。物的尺度で見る限り世の中は不公平と不正と邪道と力の支配と真理の敗北しかないかに思えるでしょう。当然かも知れません。しかし、それは極めて偏った、誤った判断です。
 
 
今回のこのお言葉も、本当に心に響きます。神様は一瞬も休むことなく働いていると言われています。そして全存在の隅々まで完全に通暁しているとのことです。この内容に如何に神様が偉大かということがわかります。晴天も嵐も共に神様の働きであると言われておりますが、善悪も共に神様のお働きなのですよね。善だけでないことが、本当に凄いと思うのです。悪も神様のお働きであるからこそ、全てを安心してお任せ出来るのだと思います。また私達人間は、神様も、宇宙も地球も裁く資格はないと言われています。更に私達人間自身をも裁く資格はないとのことです。それは物的尺度が小さすぎるとのことで、物的尺度で見ている限り世の中は不公平と不正と邪道の力の支配と心理の敗北にしか思えないと。けれど、それは極めて偏った、誤った判断だそうです。

1481回目の瞑想

 
(63)霊的真理は、単なる知識として記憶しているだけでは理解したことにはなりません。実生活の場で真剣に体験して初めて、それを理解するための魂の準備ができたことになります。どうもその点がよく解っていただけないようです。種子を蒔きさえすれば芽が出るというものではありません。
芽を出させるだけの養分が揃わなくてはなりません。養分は揃っていても太陽と水がなくてはなりません。そうした条件が全部揃った時にようやく種子が芽を出し、生長し、そして花を咲かせるのです。人間にとってその〝条件〟とは辛苦であり、悲しみであり、苦痛であり、暗闇の体験です。何もかもうまく行き、鼻歌交じりの呑ん気な暮らしの連続では、神性の開発は望むべくもありません。

 そこで神は苦労を、悲しみを、そして痛みを用意されるのです。そうしたものを体験してはじめて霊的知識を理解する素地ができあがります。そして、いったん霊的知識に目覚めると、その時からあなたはこの宇宙を支配する神と一体となり、その美しさ、その輝き、その気高さ、その厳しさを発揮し始めることになるのです。
 

冒頭のお言葉は、まさにその通りだと思っています。霊的真理は知るだけでは意味がないのです。深く理解するためには実生活での体験が必要になり、その体験を通して魂の準備ができるとのことです。確かに種子を蒔きさえすれば、芽が出てくれるのであれば、こんな簡単なことはありませんよね。例えを出して下さっているので、とてもわかりやすいですね。大事なことは、私達人間にとっての条件は、辛苦であり、悲しみであり、苦痛であり、暗闇の体験だと言われています。神性を開発するために、神様は苦労や悲しみ、そして痛みを用意されたと言われます。このような苛酷な体験を通して初めて霊的知識を理解する素地が出来上がるとも言われます。更に霊的知識に目覚めると、その時から宇宙を支配する神様と一体となり、その美しさや輝き、気高さ、厳しさを発揮し始めることになると。私自身は最大の悲しみの極みを体験し、霊的真理に目覚めたと思っております。ですが、神様と一体となっているとはまだまだ思えません。そうなりたいと強く思っていますし、努力しているつもりでおりますが、まだまだ先は遠いです。

1482回目の瞑想

 
(64)人間は物質の中に埋もれた生活をしているために、バイブレーションが低くなっております。朝目を覚まし、まだ意識が完全に働かないうちから、あれやこれやと煩わしいことや心配事の波に呑み込まれていきます。
大きい悩み、小さい悩み、真実の悩み、取り越し苦労に過ぎぬもの、等々いろいろあります。いずれにせよ全ては一時的なものに過ぎないのですが、そういうものに心を奪われてしまうと、背後霊が働いてくれている事実を忘れ、あなた方の思考の流れの中から霊的要素が閉め出され、霊的流入を遮断する一種の壁をこしらえてしまいます。
 
 
人間は物質の中に埋もれた生活をしていると言われ、バイブレーションが低くなっているとのことです。確かに朝目を覚ました時から、日常生活のあれこれに思いを巡らしています。そんな波にのみ込まれているのでしょう。私達人間の抱えている悩みというのは一時的なものに過ぎないと言われます。日常生活だけに翻弄されていると、背後霊が力になってくれようとしていても、私達の思考の流れから霊的要素が閉め出されて、霊的流入を遮断する壁をこしらえてしまうとのことです。これではせっかくの援助を自分が断ち切ってしまっているということになります。少しの時間でもいいから、やはり自分の魂と向き合う時間を作ることは必須のようです。

1483回目の瞑想 

 
(65)恐怖心は無知の産物にほかなりません。つまり知らないから怖がるのです。ですから、知識を携えて霊的理解の中に生きることです。取り越し苦労の絶えない人は心のどこかにその無知という名の暗闇があることを示しています。そこから恐怖心が湧くのです。
人間が恐れるべきものは恐怖心それ自体です。恐怖心は闇の産物です。霊力に不動の信念を持つ魂は恐れることを知りません。
 
 
恐怖心とは知らないからこそ怖がる無知の産物だと言われています。恐怖心を払拭するには、知ることこそが大事なのだと思います。そして更に知識を携えて霊的理解の中に生きることだと言われます。取越苦労は私達人間なら誰でも経験あると思います。それも無知であると言われています。恐怖心こそが私達人間の敵であり、闇の産物なのだと断言されておられます。私達人間が最も必要とするものは霊力に対しての不動の信念を持つことであり、神様を信じることなのだと思います。それを実現できれば、恐怖心などはなくなるということなのだと思います。

1462回目の瞑想

 
(44)証拠、証拠とおっしゃいますが、証拠を手にすることと魂の成長とは何の関係もありません。真理を受け入れる能力は、あなたの魂が霊界のどの次元まで突入できるかによって決まります。つまり真理を悟る能力がどこまで進化したかに掛かっております。それを証拠の入手と混同してはなりません。
両者は必ずしも並行して進むものではありません。死後にも生命があることを立証する立派な証拠を手にしていながら、霊的には一向に目覚めていない人がいるものです。
 
 
確かに仰る通りなのだと思います。けれど、霊的な証があることで、信じる気持ちが強固になるということもあります。もちろん、信じたからと言って、魂の成長につながることでないのはわかります。けれど、信じる気持ちが強くなることで、霊的に目覚める努力の一助になるのではないかと思っているのです。証拠ばかりを追い求めるのは間違っていると思いますが、時には証となるものを手にすることで、益々意欲が湧いてくるためならば、それも一理にあるのではないかと思うのです。
シルバー・バーチ霊にお聞きできるのであればしたいところです。

1463回目の瞑想

 
(45)あなたは〝霊〟だからこそ生きているのです。霊だからこそ墓場を超えて生き続けるのです。霊だからこそ永遠に生き続けるのです。それには〝教祖さま〟は何の関係もありません。生得の権利であり神からの遺産の一つなのです。
 
 
頭では霊なのだと思ってはいますが、 でもやはり実感はないのです。常日頃シルバー・バーチ霊が言われているように、わからないことは、今までの知識に裏付けされたものを信じ、そして私の場合は神様を信じることで、霊であることを信じているということなのだと思います。
また教祖さまは関係ないとも言われていますが、私自身も今まで宗教団体というものに入りたいと思ったことは一度もありません。キリスト教然りです。唯一、信じる対照は神様だと思ってきたからです。なので、改めてこのお言葉を読んで、これでよかったのだと確信した次第です。

1464回目の瞑想

 
(46)現代の啓示も過去の啓示と同一線上にあります。私たちはイエスが説いた真理を否定していませんし、そのイエスもモーゼの説いた真理を否定しませんでした。われわれの後に来る人も、私たちが今説いている真理を否定することはないでしょう。
しかし未来の子は一段高い進化のレベルにありますから、啓示される真理も今の時代に啓示されている真理より進歩したものであらねばなりません。
 
 
ということは、今はシルバー・バーチ霊がお言葉を発せられた時から100年以上も経っていますから、未来の子は一段高い進化のレベルにあるとも言われおり、啓示される真理も進歩しているものになっていないといけないわけです。けれど、実際はどうでしょうか?
100年以上前のシルバー・バーチ霊の霊訓自体も、無関心の方がほとんどなのではないでしょうか。また啓示される真理は進歩しているのでしょうか。私にはそのようには、とても感じることができません。
願わくば、更に進歩した啓示を手に出来るようにと祈るばかりです。

1465回目の瞑想 

 
(47)日常生活において霊性を発揮すればするほど大霊に近づきます。あなた方一人ひとりが大霊の一部であり、したがってあなたと大霊との間に〝仲介役〟というものは要りません。
 
 
日常生活の中で、霊性を発揮すれば、神様に近づけると言われています。ですが、どのように霊性を発揮すればいいのでしょう。それは神様の為されるようなことを日常生活で為すと言うことなのでしょうか。となるとそれはイエス様のようなこと為すということになります。もちろん、同じようなことは絶対に出来ませんが、少しでも努力して近づくということなのでしょう。イエス様が人間の見本ということなのだと思います。そして、霊性を発揮できるということは、神様の一部を顕現していることになり、仲介役などは要らないということになるのでしょう。
 

1466回目の瞑想

 
(48)本当を言うと魂は内部にあるとか外部にあるとかは言えません。魂とは全宇宙に偏在するものです。〝意識〟です。一個の身体によって束縛されるものではなく、無限の広がりを持つものです。一瞬の間に地球を一周できます。
 
 
この内容を読むことで、益々魂とは何なのかがわからなくなってしまいます。一個の身体によって束縛されるものではないと言われていますが、魂が表現するためには、肉体という媒体がいるわけなので、その時には一時的にしろ、束縛されるという状態ではないのかも知れませんが、その肉体と共にあるのだと思っていました。ですが、そうではないようです。内部にも外部にもあるとは言えないと言われているからです。宇宙に偏在しているものであり、意識だと言われています。また無限の広がりを持ち、一瞬の間に地球を一周出来てしまうそうです。今所、想像することもできませんが、頭に入れておこうと思います。

1467回目の瞑想

 
(49)一体あなたとは何なのでしょう。ご存知でしょうか。自分だと思っておられるのは、その身体を通して表現されている一面だけです。それは奥に控えるより大きな自分に比べればピンの先ほどのものでしかありません。
 
 
本当に一体何なのでしょう。未だにはっきりとはわかりません。自分だと思っているのは、その身体を通して表現される一面だけだと言われています。そして奥に控えるより大きな自分に比べればピンの先ほどしかないと言われているのです。この奥に控えるというのは神の属性である莫大なエネルギーのすべてが未熟な形で秘めているとのことで、ミニチュアの形であっても、小宇宙の形で秘めているという、このことを指しておられるのだと思います。けれど、このことを実感として認識できるのはやはり、霊界へ戻ってからなのではないかと思っています。

1468回目の瞑想 

 
(50)身体はあなたが住む家であると考えればよろしい。家であってあなた自身ではないということです。家である以上は住み心地を良くしないといけません。手入れがいるわけです。しかし、あくまでも住居であり住人ではないことを忘れてはなりません。
 
 
この内容もよくシルバー・バーチ霊は言われています。肉体は住む家であり、私自身ではないと頭では納得してはいますが、実感として感じるにはまだ無理なようです。また、家である異常は住み心地を良くしないといけないと言われていますが、実際に良い時もあれば悪い時もあるのですよね。その為の努力(手入れ)がいるということは納得しています。そして、住居であって住人ではないということは肝に銘じて行かなければいけないと思っています。

1469回目の瞑想 

 
(51)あなたはその身体の奥に神の属性である莫大なエネルギーのすべてを未熟な形、あるいはミニチュアの形、つまり小宇宙の形で秘めているのです。その秘められた神性を開発してそれを生活の原動力とすれば、心配も不安も悩みも立ちどころに消えてしまいます。
なぜなら、この世に自分の力で克服できないものは何一つないことを悟るからです。その悟りを得ることこそあなた方の勤めなのです。それは容易なことではありませんが・・・・。
 
 
前回でも書きましたが、私達人間には、神の属性である莫大なエネルギーのすべてが未熟な形やミニチュアの形として、小宇宙を秘めているとのことです。その秘められた神性を開発して、それを生活の原動力とすれば、とありますが、どのように開発するのかは、ここでは具体的にお示しにはなっておりません。それが一番私達人間には必要なのだと思います。神性を開発出来ないからこそ、心配や不安などネガティブな心になるのだと思うのです。最後に容易なことではないと仰っておられます。いつも言われている苛酷な体験や苦しみを乗り越えて、霊的真理を知って理解し、そして神様に対しての絶対的を信心を持ち、人々に奉仕することが神性を開発するということなのでしょうか。だとすると、本当にとてつもないことだと思います。いつ到達できるのか、途方もない時間を要するのではないかと感じます。この世にいるうちには無理なのではないかとも思えます。

1470回目の瞑想

 
(52)霊の宝は楽々と手に入るものではありません。もしそうであったら価値はないことになります。何の努力もせずに勝利を得たとしたら、その勝利は本当の勝利といえるでしょうか。何の苦労もせずに頂上を征服したら、それが征服といえるでしょうか。
霊的進化というものは先へ進めば進むほど孤独で寂しいものとなっていくものです。なぜなら、それは前人未踏の地を行きつつ後の者のために道しるべを残していくことだからです。そこに霊的進化の真髄があります。
 

前回に続き、やはり、簡単ではないということですね。確かに仰る通りだと思います。それだけの努力をして手に入れるからこその価値であり、勝利なのでしょう。しかも霊的進化というものは、先へ進むほど孤独で寂しいものとなると言われています。前人未到の地を苦労しながら進むのは、後者のために道しるべを残して行くいうことで、そこに霊的進化の真髄があると言われています。ため息しか出ませんね。まあ、でも私などは後者の類いになるので、その残して下さった道しるべを必死に進むことになるのだと思っています。

1471回目の瞑想

 
(53)肉体は霊がその機能を行使できるように出来あがっております。その形体としての存在はホンの一時的なものです。用事が済めば崩壊してしまいます。が、その誕生の時に宿った霊、これが大事なのです。その辺の理解ができた時こそあなたの神性が目を覚ましたことになります。
肉体的束縛を突き破ったのです。魂の芽が出始めたのです。ようやく暗闇の世界から光明の世界へと出てきたのです。あとは、あなたの手入れ次第で美しさと豊かさを増していくことになります。
 
 
肉体というのは霊がその機能を行使できるとのことです。そしてその形体としての肉体の存在はほんの一時的なものだと言われ、用事が済めば崩壊してしまうのだと。なので、一番大事なのは誕生の時に宿った霊だと言われています。このことは何度も説かれているので、理解しているつもりですが、この辺りのことが理解できた時こそ、あたなの神性が目を覚ましたことになると言われていま。果たして本当にそうなのかと自分自身に置きかえて考えてみるのですが、肉体的束縛を突き破ってもいないように感じますし、魂の芽が出始めて、暗闇から光明へと出られたとも感じられないのですよね。ということは本当には理解できていないということなのでしょうか。知識として知っているというだけで、実感していないということなのかも知れませんね。実感として感じられるようになりたいと、これからも努力し続けて行きたいと強く思った次第です。

1472回目の瞑想 

 
(54)人間の大半が何の益にもならないものを求め、必要以上の財産を得ようと躍起になり、永遠不滅の実在、人類にとって最高の財産を犠牲にしております。どうか、どこでもよろしい。種子を蒔ける場所に一粒でも蒔いて下さい。冷やかな拒絶に会っても、相手になさらぬことです。
議論をしてはいけません。伝道者ぶった態度に出てもいけません。無理をして植えても不毛の土地には決して根づきません。根づくところには時が来れば必ず根づきます。小ばかにしてあなたに心ない言葉を浴びせた人たちも、やがてその必要性を痛感すれば向こうからあなたを訪ねてくることでしょう。
 
 
仰ることは本当によくわかります。この世は利益のみを追求していて、そのためならば、人間の命をも犠牲にします。もちろん、人間のみならず、利益になると見れば命あるものだろうが、なんであろうがお構いなしの状態です。そんな人々に、種子を蒔くことは無理だと思ってしまいますし、太刀打ちできないのが現状です。根づきそうなところを選ぶしかないようにも感じます。要はまだまだそこまでの力がないので、自分自身自体をもっともっとレベルアップしていく必要があると思っています。

1451回目の瞑想

 
(33)洗礼の儀式は少しも魂を聖めることにはなりません。地上生活にあって少しでも完全に近づくように、日常生活の中で内なる神すなわち霊性を一つでも多く発揮するように努力することから、本当の聖らかさが生まれるのです。
 
 
このお言葉は、キリスト教の信者の方達にとって、耳が痛いのではないかと思います。私自身も常々にそのように思っていました。洗礼を受けることで、救われるならばそんな楽なことはないのではないかと。やはり、地上生活での行為が全てなのでしょう。その行為には全て因果律の法則が働きます。一つでも多くの霊性を発揮し、世のため、人の為に尽くしたら、必ず自分に戻ってくるということです。それが本来私達人間に課せられた使命なのだと思います。

1452回目の瞑想

 
(34) 科学の発達によって精巧な機器が発明され、それによって宇宙の新しい側面が次々と明らかにされるようになりましたが、それは決して新しいものを生み出したわけではありません。無窮の過去から働き続けてきた法則の存在を今になってやっと知ったというに過ぎません。
 
そうなのですよね。今科学の力で新しい発見や発明と言われているのは、新しいものではなく、無窮の過去から働き続けている法則の存在を知ったということに過ぎないということだったのですね。けれど、この事を知る科学者の人は、少ないか皆無なのかも知れません。特に科学者と呼ばれる人は霊的なことには無関心、というか、敢えて蓋をしているように思えます。科学者の人こそ、もっともっと霊的なことに関心を持ち、研究して欲しいと切望しています。

1453回目の瞑想

 
(35)まったく新しいものが創造されるということはありません。何が生まれても、それはすでに存在していたものの一部分に過ぎません。大自然の法則と一致しないものが発生することは絶対にありません。法則はすべてを包摂しているからです。人間がその存在に気づくか気づかないかの問題です。
 
 
ここでは、前回と同じことをかなりキッパリと断言されています。要するに、この地上では、どんなものが発見されようが、発明されようが、それは既に霊界に存在していたものだということです。大自然の法則、いわゆる神様の法則と一致しないものが発生することは絶対にないとのこと。法則は全てを包摂しているとのことで、私達人間がその存在に気づくか気づかないかのその程度の問題だということのようです。

1454回目の瞑想 

 
(36)クリスチャンがイエスの本当の生きざまを見習いはじめた時、歴史に画期的な新時代が始まったことになります。が、今のところはまだ始まったとは言えません。私の目にはその兆しが見えないのです。イエスの名を口にするだけではイエスに忠誠を尽くすことにはなりません。
その生き方を見習わないといけません。それができないでいてこの私に〝クリスチャン〟という言葉を用いないでください。イエスも言っているではありませんか───〝私に向かって主よ主よと言ってくれる者すべてが天国へ召されるわけではない。天なる父の御意志(ミココロ)を実行する者こそが召されるのである〟と。
 
 
まさに、お言葉通りなのだと思います。それはクリスチャンの方だけに言われているのではないですよね。神様を信じていると豪語しても、その行動がすべてを決するということです。ただただ言葉だけだったり、信心だけでは意味を為さないということなのでしょう。最終的に到達するべきは世のため、人のために為すことをすること以外ないのだと思います。けれど、それが一番難しいのだと思います。
 

1455回目の瞑想

 
(37)すべての存在に神の息吹が掛かっております。だからこそ物質界の最下等の生命体も全知全能の神とつながっており、地上で最高の聖人・君子ともつながっていると言えるのです。同じ意味で極悪非道の犯罪人と高潔な聖人とは兄弟なのです。どちらにも同じ神の息吹が宿されているのです。
 
 
この内容は、頭では理解できますが、感情がなかなかついて行きません。ですが、だからこそ、平等であり公平なのだと思います。そして世界中の人と兄弟姉妹なのでしょう。それが世界中の人に広まれば、地上天国となるのでしょうが、それどころか、強者が弱者を痛めつけているのが現状です。まだまだ先は遠いのではと重い気持ちになってしまいます。けれど、シルバー・バーチ霊のお言葉を信じて、全ての人に神様の息吹きが宿されているのですから前向きに頑張って行かなければと思うようにしたいと思います。

1456回目の瞑想

 
(38)霊能養成のために費やす時間が無駄に終わることは決してありません。何の反応もなくて焦れったい思いをなさる気持ちは私にもよく分かります。が、そうした状態のもとで着実に進歩していることを知っていただきたいのです。背後霊との絆が強化され、霊的感覚が鋭敏さを増しております。成長と開発と進化が一刻の休みもなく続いております。
 
 
このお言葉に、大変に慰められ、勇気を頂けます。私自身日々、ご守護霊様との絆を感じ、自我を抑制しようと努力しているつもりですが、なかなか霊的感覚が鋭敏とはなっていないように感じているのです。けれど、何の反応もない状態のもとでも着実に進歩していると言われ、成長と開発と進化が一刻の休みもなく続いているとのこのお言葉に、意欲が湧いてきます。本当に有難い限りです。

1457回目の瞑想 

 
(39)知識を求める人にはちゃんとその人なりのものが用意されているものです。ですが、皆さん方のように真理普及の第一線に立つ者は、自ら冒険を求める勇気がなくてはいけません。時には予想もしなかった危険にさらされることも覚悟しなくてはいけません。
未踏の奥地にまで踏み込む用意も必要です。しかも、真理に導かれる所ならどこへでも付いて行き、間違いであることが分かったものは、たとえ古くから大切にされている教えであっても、即座に棄て去るだけの心の準備ができていなくてはなりません。
 
 
今回の内容は、肝に銘じないといけないことなのだと思います。もちろん、真理普及の第一線に立っているなどとは豪語するつもりはありませんが、少なくとも、その意義を感じている者として、努力していくべきだと感じるのです。ただ、予想もしなかった危険や、未踏の奥地にまで踏み込む用意が必要との気持ちの持ち方については、やはりまだまだ無理なように思います。けれど、真理に導かれるという思いだけは強固にして行きたいと思っています。そして言われているように、真実のみを信じ、古くからの言い伝えであろうとも、真実ではなく間違いだとわかった時点で、棄てる去るようにして行こうと思います。

1458回目の瞑想 

 
(40)患者に手を当てがうということは、言ってみればオモチャで遊ぶ程度のことです。大切なのは患者の魂が目を覚まして真実の自分を発見することです。私にはこれ以上にうまい表現が思いつきません。
 
 
今回のお言葉には、手を当てがうということ、ヒーリングについても同じことが言えるのだと思いますが、玩具で遊ぶ程度だと言われていることに、そんな程度のことでしかないのだと改めて思った次第です。
何と言っても大事なことは依頼者の魂の目を覚まさせてあげて、本来の自分、霊であるということに気づかせてあげることなのでしょう。霊界側の真意はそこにしかないということなのだと思います。けれど、それが一番難しいと感じています。

1459回目の瞑想

 
(41)霊とは内部の神性の火花です。心霊治療はその火花を大きな炎を燃え上がらせる仕事です。それが心霊治療の本来の目的です。
 

心霊治療についての本来の目的を説かれています。
そして、霊というのは内部の神性の火花だと言われています。その火花を大きな炎を燃え上がらせることが心霊治療の役目だということなのですね。これはヒーリングにも言えることなどではないかと思っています。最終的に、人間が霊であるということ、そして霊的真理の理解を深めて行く気持ちを芽生えさせることなのだと思います。

1460回目の瞑想

 
(42)私のことをいろいろと話題にしてくださるのはよいとして、シルバーバーチという一個の存在のみに関心を向けるのはよくありません。私は私よりはるかに偉大な霊から送られてくるメッセージを皆さん方にお届けしているだけです。
光り輝く存在、大天使団によって組織された政庁があり、大霊の計画の実質上の責任をあずかっているのです。私はその使い走りにすぎません。そのことを光栄に思ってはいますが・・・・・・
 
 
前にも書きましたが、そのような光輝を発せられている畏れ多き御神霊の方々にお会いしたいものです。もちろん、今の私がお会いできるはずもありませんが。
シルバー・バーチ霊の霊恪の高さは、霊訓のお言葉からはっきりと認識することができますが、けれどそれは偉大な霊から送られてくるメッセージであり、自分はその使い走りでしかないと言われています。ただ、そのお言葉からも霊恪の高さが窺われます。神様のご計画の責任の一端を担っているのですから。そうであっても、ご自身のみに関心を向けるべきではないと言われているのです。このお言葉からも、この世の教祖と言われる方の中には、自分の誕生会を盛大に催したり、自分を崇拝するように仕向けたりとおおよそ、霊恪の高さとは無縁な行動をされています。そのような教団に入会すること自体、やはり本人の責任であり、真実を見極める力を養わうべきであり、騙されたと相手だけを責めるのは間違っているのではないかと思っているのです。双方に責任があるのだと思いますし、因果律の法則ということで、通らなければならない道だったのかも知れません。全ては、霊的なことに照らし合わせれば、得心できるのことなのだと思います。

1461回目の瞑想 

 
(43)高級霊は人間を霊的知識をもたらすための手段───真理を普及し、間違った考えを改め、迷信を駆逐し、光明を少しでも広く行きわたらせ、苦痛・悲劇・不幸に終止符を打ち、その結果として幸せと安らぎと繁栄をもたらすための手段とみなしております。
 
 
高級霊の方々は、常に人間を導いて下さろうと骨を折って下さっているのですよね。けれど、見向きもしないのは人間の方なのです。真理の普及をされても、一笑に付します。間違った考えを正そうとはせず、迷信を信じ、暗闇で生活していて、苦痛や悲劇、そして不幸に嘆き、その結果として幸せは遠のいています。それが今の世の中であるのだと思います。少しずつでも、高級霊の方々のご努力が実るような世の中にして行きたいと切に願っております。

1440回目の瞑想

 
(22)完全性など、とても地上で成就できるものではありません。ですが、いずれお出でになるこちらの世界のための霊的な準備となる教訓を学ぶことはできます。
 
 
この地上では、完全性は成就できるものではないと言われています。それは霊界に行ったとしても、同じなのだと思います。完全性を成就できるのは永遠に来ないと言われているからです。けれど、その霊界に行くための霊的な準備となる教訓を学ぶことはできると言われています。この地上では、そのための学校なのだと言われておりましたし、そうなのだと思います。

1441回目の瞑想

 
(23)人生は両極性から成っています。作用と反作用、同等と正反対といった具合ですが、それは同じ硬貨(コイン)の両面です。ですから憎しみが愛に変わることがあると同時に、不幸にして愛が憎しみに変わることもあるわけです。両者は同じ力なのです。問題はその力をどう働かせるかです。
 
この両極性の真実の意味を悟ることが出来れば、悩みや苦しみ、辛さなどはなくなるかも知れません。例えとして硬貨の両面だと言われています。要するに根本は一緒だと言うことですよね。愛と憎しみで考えると分かりやすいですね。愛と憎しみは同じ力ということで、愛の反対は無関心なのだと思います。なので、憎むということは愛があると言うことでもあるわけです。その力をどう働かせるかだと言われています。それは憎むべき相手であっても、愛を持って接することで、過去からのカルマも消えて行くということなのではないでしょうか。とても難しいことですが、ほんの少しずつでも歩み寄ることは、自分にとっても相手にとっても救われることなのではないかと思います。

1442回目の瞑想

 
(24)このサークルに来られる方に強調しておきたいのは、この私という存在は進化の頂点を極めた、したがって誤りを犯すこともなくなった、完全な霊の教師ではないということです。そんなものはこの世には存在しません。向上すればするほど、まだその先に向上すべき余地があることに気づくことの連続なのです。
 
 
私達人間が崇拝するのは、唯一神様でしかないことを教えて下さっているのですよね。宗教の教祖様でもなくお寺の住職さんでもなく、神主さんでもないのです。また霊能者と言われる人達でもありません。霊的真理を知ることが出来れば、そのような人達に騙されることもありません。もちろん、中には素晴らしい人格者の方もおられるでしょう。けれど、崇拝ではなく、尊敬し、見習うべきところは見習うに留めるべきなのだと思います。今まで神様を信じて来たことは間違っていなかったということに、大いに勇気づけられた思いです。

1443回目の瞑想 

 
(25)私が説く真理の最大の価値は、それが宇宙の叡智の宝庫から取り出した崇高なものであるということです。といって私は、それを無理にでも信ぜよとは申しません。私のいう通りにしなさいとは申しません。また、これ以外に神すなわち宇宙の大霊へ近づく道はないなどと豪語するつもりもありません。
 
 
要するに、神様の崇高な愛と叡智からと言うことですね。だからと言って、無理に押し付けることはしないと言われています。けれど、信じることができて、受け入れる用意のできた人だけが受け取ればいいと、いうことだと思います。全く押しつけがましいことは言われないのです。それは高い霊恪の持主だからこそだと思います。
 

1444回目の瞑想

 
(26)私に断言できること、絶対の自信を持って申し上げられることは、霊的な真理は人間の理性と知性と体験によるいかなるテストにも耐えうるものだということです。と言って、仮にあなたが〝こんなものは受け入れるわけにはいかない〟と拒否なさっても、別にバチは当たりませんから心配はご無用です。
 
 
霊的真理を受け入れることが出来ないからと言って、罰は当たらないと言われています。これが真実の真理を知らない、教祖などは、逆に脅して恐怖を植え付け、縛り付けることをするのです。ここには大きな違いがあります。それを見極められずに騙されてしまう人にも、やはり責任があるのだと思うのです。ただ因果律の法則で、騙された人は過去(前世など)に人を騙したことがあるのかも知れません。必ず自分の蒔いた種は自分で刈り取る以外ないのですから、この世だけの判断では何とも言えません。霊的な眼で見ることが肝要なのだと思います。

1445回目の瞑想

 
(27)取り越し苦労はいけません。心配は無知から生まれます。真理を知って〝知識の光〟の中で生きなさい。
 
 
常にシルバー・バーチ霊が言われていることです。また私もそのように努力しているつもりではいます。でもやはり完全とは言えません。真理を知ることと、理解することとは違います。遠く長い道のりではあると思いますが知るだけではなく、深く理解できるようにして行きたいと心から望んでいます

1446回目の瞑想 

 
(28)イースターは全生命の復活を祝う時です。それは太陽系の全天体が一丸となって、地上世界が悲劇と苦痛と災厄から復活して、より意義ある人生、真実の生き方に目覚めるようにと祈る、その祈りのシンボルなのです。
 
 
日本にはイースターを祝う習慣はありませんが、そういう意味があるのですね。凄いことです。地上世界が悲劇や苦痛や災厄がなくなり、意義のある人生、そして真実の生き方に世界のすべての人々が目覚めることが出来れば、地上天国となるわけです。ですが、今はまだまだほど遠いとしか言えませんよね。争いが続き、強者が弱者を痛めつけるこの地上は、いつになったら、平和が訪れてくれるのでしょうか。平和を祈るばかりです。

1447回目の瞑想 

 
(29)地上世界には霊的新生が大いに必要です。しかし今や大霊の造化の目的のために自分を役立てたいと願う者が増え、物欲による横暴が駆逐されるにつれて、大霊の意志が除々にではありますが行きわたりつつあります。
 
 
100年以上前のシルバー・バーチ霊のお言葉ですが、神様の御意志が徐々に行き渡りつつあると言われています。ですが、100年以上経った今も、物欲による横暴は駆逐されていないように思います。神様のお役に立ちたいと願う人は増えてはいるのではないかと思いますが、実際に認識できるほどなのかどうかはわかりません。今の世は100年以上前よりは良くなっているのでしょうか。

1448回目の瞑想

 
(30)私はこのイースターの時期になると、他の大勢の同志とともに本来の所属界へと舞い戻り、物的条件によって制約された人間の理解力では到底理解できない霊的生命の喜びをしばし満喫し、敬愛する指導者に拝謁し、その崇高なる叡智に触れ、その強烈なる霊力を頂き、畏(カシコ)き神々の集える審議会への出席を許され、
そこで計画がどこまで進捗したか、どこがうまく行っていないかについてのご指導にあずかり、絶え間なく続く善と悪との闘いのために案出された次のご計画を仰ぎます。
 

このお言葉にはため息しか出ません。ただただ素晴らしい内容に魂が震えます。このような体験をできる日がいつになったら、迎えられるのか。それを思うとため息しか出ないのです。空想することで、その片鱗を少しでも感じることが出来れば有難い限りです。

1449回目の瞑想

 
(31)出来ることなら皆さんをご一緒にお連れして、地上のために働いている霊団の面々をご覧いただいて、その光輝の素晴らしさをお見せすると同時に、その光輝を発している畏れ多き神霊がかつて地上では何という名前で呼ばれていたかをお教えしたい気持ちです。しかし、その前に皆さんは、あまりの崇高さに尻込みなさることでしょう。
地上時代の名前はすっかり意味を失っております。それよりも、現実にそうして地上のために活動しておられるその影響力の方が大切です。そうした方々によって催される大審議会の模様を一度でもお目に掛けることが出来たらと思うのですが・・・・・・
 
 
願わくば、そのような光輝を発せられている畏れ多き御神霊の方々にお会いしたいものです。あまりの崇高さに尻込みされるとありますが、確かにそうなのだと思います。地上時代の名前を知りたいという気持ちはあるものの、やはり、今現在のお姿が真実のお姿だと思うので、一目お目にかかることが出来たなら、幸せこの上もないことでしょう。まして大審議会の模様などを拝見できる光栄に恵まれたら、それこそ天に昇る心地になるのではないかと思います。そのような高い霊恪になれるよう、努力して行きたいと強く思った次第です。

1450回目の瞑想 

 
(32)暗黒の勢力と既得権にあぐらをかいている宗教界との戦いのほかに、もう一つ、人間の〝心配の念〟という敵との戦いもあります。無知から生じる無用の心配の念が無数の人間の心に巣くっております。心配というのは想像の世界にしか存在しないものです。実在しないということです。
それで私は心配の念を棄てなさいと繰り返し申し上げるのです。解決できない問題というのは絶対に生じません。重すぎて背負えない程の荷は与えられません。常に明るく確信に満ちた雰囲気の中で生活していれば、必ずや援助し導いてくれる勢力を呼び寄せます。
 
 
暗黒の勢力や既得権は宗教界だけではないですよね。政界にも企業にもあるのだと思います。そして、一番肝心なのは、人間の心配の念だと思います。無知から生じる無用の心配の念が敵だと厳しく言われています。更に心配というのは想像の世界にしか存在しないとまで言われているのです。実在しないものに私達人間は、無知のために心配という無用の念を自分で創り上げてしまっているということなのでしょう。そうであると知ったからには、棄てるしかありません。神様を信じ、霊的真理を信じて、自分には解決できない問題はないのだという信念を強く持つしかないのだと思います。そうして、前向きに明るく確信を持って生きて行けば、必ず援助し導いてくれる存在を呼び寄せることが出来ると断言されているのです。それを信じて努力していく以外ないと思っています。

1429回目の瞑想

 
(11)大切なことは魂に感動を覚えさせてあげることです。人間は大ていの場合、大霊から授かっている神性の炎が小さく弱くなっております。それを大きく燃え上がらせてあげるのです。その体験の中から新たな悟りが生まれます。
そういう体験をさせてあげるために特別製の聖衣がいるわけではありません。特殊な養成所に通う必要もありません。ひたすらに人の幸せを願い、少しでも霊的資質を発揮する生活を心掛け、いつでも霊力の通路として使用してもらえる態勢を整えておけば、それでよいのです。
 
 
今回の内容は、本当に考えさせられました。魂に感動を覚えさせるということは、どこに行こうが、何を着ようが関係なく、ただひたすらに人の幸せを願い、少しでも霊的資質を発揮できるように努力し、いつでも霊力の通路として使用してもらえるよう、態勢を整えるべく努力する、それでよいのだと言われているのです。ただ、簡単なようで、簡単ではありません。大事なことは、やはり一人一人の霊恪もありますし、更には向上心を持って、一歩一歩努力していくほかないのではないかと思った次第です。

1430回目の瞑想

 
(12)人生で最も貴重なものは入手が最も困難なものです。困難でなかったら貴重とは言えません。もしも霊の褒章が安易に手に入るものであれば価値はないことになります。ですから、困難を歓迎するのです。しり込みしてはなりません。それを逆手にとって支配下に治め、それを克服していく努力の中で、あなたの未開発の能力が引き出されるのです。
 
本当に入手困難なことだと実感しています。どんなにお金持ちであろうと、お金では到底入手することは出来ませんから、みな平等なんだと思います。また簡単に入手できるのであれば、誰でもが入手できるのであれば、仰るように価値はないことになります。ただただ試練を克服し、努力していくことが唯一の入手できる方法なのでしょう。頑張るしかないですよね。

1431回目の瞑想

 
(13)時には思い切り涙を流すことも大切です。感情を発散させることになり、すっきりとして気分が和らぎます。意地を張って感情を押し込めたままにしておくよりも、涙とともにその感情を流し出した方がよいことがあるものです。
 
確かに涙を流した後は、気持ちが落ち着きすっきりすることが多いです。もちろん、悲しみが深い場合は簡単にはいきませんが。けれど、シルバー・バーチ霊が仰るように、涙と共に悲しみや苦しみ、そして辛さなどの感情を一緒に流してしまえれば、かなりラクになるように思います。
 

1432回目の瞑想 

 
(14)私は地上に大勢の友をこしらえることが出来て、とても幸せ者であると思っております。私はただ、私に送られてきた基本的な真理を英語という地上の言葉にくるんでお届けしているだけです。受け入れる用意のできた人が受け取ってくだされば、それでよいのです。
 
謙虚なお言葉に霊恪の高さをうかがい知ることが出来ますね。そして受け入れる用意のできた人だけが受け取ればいいと、全く押しつけがましいことは言われないのです。高い霊恪の持主だからこそだと思います。
 

1433回目の瞑想

 
(15)真理を知らずに間違ったことをしているのであれば、まだ弁護の余地はありますが、聖職者としての義務を知っていながら自分の栄達の方を優先させている者は一体どう弁解するつもりでしょう。
 
そのような聖職者の方は多いと思います。自分の利益ばかりを考え、権限を振りかざしている人が多いように思います。欲得の支配されている聖職者は普通の人間にも劣ると私は思います。それだけに霊界に戻った時には重い代償を支払わねばならないのだと思います。

1434回目の瞑想

 
(16)私たち霊団の者は地上的環境というままならぬ条件のもとで精一杯努力しております。そこで、皆さん方に要求するのは〝協力〟の二文字だけです。私たちが提供するのも〝協力〟です。命令的な指示はしたくありません。強制しようとは思いません。
人のために役立ち自我の開発にも役立つことをするには人間はどうすればよいかをお教えすることによって、皆さんの愛と理性に発する協力を獲得したいのです。
 
私が常に望んでいることです。どれだけでも協力は惜しむ気持ちはありませんが、果たして協力になっているのかどうかはわかりません。
けれど、その思いだけは本物です。できる限りの協力は惜しまず努力して行きたいと思っております。

1435回目の瞑想 

 
(17)皆さんはキリスト教の聖職者にも、ユダヤ教の聖職者にも、世界のいかなる宗教の指導者にもできないことがお出来になります。神は聖なる職にある人だからということで霊力をお授けになるのではありません。霊力を授かるにふさわしい資格を具えた人にお授けになるのです。
 
 
これこそが平等なのだと思います。霊力を授かるにふさわしい資格を具えた人には、それが貧富や地位や名誉などには関係なく、授けて下さるのですから。授かれる人間になるように努力するしかないのだと思います。

1436回目の瞑想 

 
(18)人生のどこかの段階で神は子等に真の自我の発見とその存在意義に目覚めるための機会を提供します。そのための前提条件として、魂の琴線に触れる体験が必要です。
 
 
そうなのですよね。
私の場合は、一人息子が亡くなる体験だったのだと思います。その苛酷な試練のおかげで、私は霊的真理を知ることが出来たので、今では本当に有難いと思っています。

1437回目の瞑想

 
(19)魂が感動を覚えないうちは、霊力は働きません。ですから、たとえば病気そのものは治っても、その体験によって魂が何らかの感動を覚えるまでに至らなかったら、その治療は本来の目的を成就出来なかったことになります。
 

魂の感動を覚えるとはどういうことを言うのでしょう。魂が感動を覚えないうちは霊力は働かないと言われています。それが病気になって、治ったとしても、その体験で魂が感動を覚えることが出来なければ、本来の目的を成就出来なかったことになるとのこと、です。
魂の感動を覚えることについて、もう少し具体的に説明して欲しかったと思っています。

1438回目の瞑想

 
(20)私たちがこうして地上へ戻ってきた目的は、物的現象のウラには霊的実在があることを披露することによって、人間が幻影を追い求めることを止め、この千変万化の地上生活の複雑な諸相を律している基本的な真理を学んでくださるように導くことです。
 
 
本当に有難いことだと思っています。このような霊訓があるからこそ、霊的に目覚めた人にとっては大変に助かります。少しずつでもしっかりと霊的真理を深めて行きたいと思います。

1439回目の瞑想 

 
(21)あなたは人間です。過ちを犯します。判断を誤り、しくじることがあります。人間性は頑強に出来上っていない故に、人間は常に弱みを背負って生きています。人間が人間であることの証は、欠点を持っているということです。だからこそ今あなたは地上へ来ているのです。
 
 
人間であることは、必ず何か欠点があるからなのだと言われています。もちろん、そうでないイエス・キリスト様やお釈迦様のような方もいらっしゃいますが。大方の人間は弱みや欠点を克服するために地上に生まれて来たのでしょう。
それをきちんと認識した上で、克服する努力をして行かなければいけないと教えて頂いているのだと思います。
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