備忘録
MEMORANDUM11(2023/6月〜2023/9月)

  日々の瞑想や霊的なことなどを綴っていきたいと思っています
私はクラッシック音楽がとても好きなので、クラッシック音楽を取り入れた形の自由な瞑想をしております。
(マーラー作曲:交響曲9番の4楽章を2回聴く)
写真と内容は関係あるものとそうでないもがあります。
私自身の記録用なので、参考程度に読んで頂けたらと思います。
下記の(アコーディオン形式)日付をクリックしてください。


 
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ペットのおうち

1304回目の瞑想

 
「こうした話は私にとって初めてのことでした。あの暗黒の世界に少しでも善性があるとは知りませんでした。でも今にして思えば。そうであって当然だと思います。なぜかと言えば、もし完全な悪のかたまりであれば私達のいる光明界へ来ようなどという心は起きないでしょうから。」
 
ーーーそれにしてもこの話は、最初に言われた大切なものとそうでないものと見分けることと一体どういう関わりがあるのでしょうか。
 
「善なるものがすべて神のものであることは言うまでもありませんが、われわれ神の子にとっては光明も暗黒も絶対ではなく、また絶対では有り得ないということです。両者は相対的に理解しなくてはいけません。今にして判ったことは、”暗黒界の天使”が大勢いるということです。その人達は魂の本性に何か歪んだもの、善なるものへの志向を妨げる強情なところがあるために,今のところは暗黒界にいる。が、そのうちいつか、長い長い生命の旅路において、もしかしたら今のところ彼等より祝福されている私達を追い越し、神の王国において高い地位を占めることになるかも知れないのです。
私達の書いたことをよく熟考して下さい。私達にとっても大変に勉強になりました。こうしたことが地上にいる人々の多くの方々にも学んで頂ければ有難いと思うのですが。」
 
今回の内容は、本当に考えさせられます。ただ、シルバー・バーチ霊も神様は善悪両方を司っていると言っておられますから、悪に見えてはいても、いつ善に変わるかわからないということなのでしょう。それが両者が相対的だと言われる所以なのだと思います。光明の世界に居るからと言って、そこに甘んじていれば、このお母様の言われるように、いつか暗黒界にいる人に追い越されてしまうのかはわからないのですよね。善だから悪だからと決めつけるのは間違いなのかも知れません。何となくですが、善悪に関してのことが少し分かったような気がしています。そして最も大事なことは、やはりお一人お一人の霊恪と向上心なのではないかと思った次第です。

1305回目の瞑想

 
2章 薄明の世界
1 霊界のフェスティバル
「私達は同じく霊界にいる者の中でも、余程恵まれた境遇にあることを身に沁みて感じるのです。それと言うのも、こうして人類の向上のために役立つ道があることを自信をもって語れる段階まで来てみますと、善行と啓発の可能性は本当に無限にあるように思えるのです。もっとも、今のところ私達に出来ることは限られております。あなたように、神を信じその子イエスに身をあずけることによって神に奉仕する者には何一つ怖れるものは無いとの信念のもとに、勇敢に私達に協力してくれる者(※)が出てくるまでは、この程度で佳しとしなければならないでしょう。(※ オーエン氏は元々英国国教会の牧師で新聞 The Weekly Despatch にこの霊界通信を連載したことで教会長老から弾圧を受け撤回を迫られたが、それを拒否したために牧師の職を追われた経緯があるーー訳者)
今なお霊魂の存在と私達の使命とメッセージに疑いをはさむ人のためにひとこと言わせて頂けば、私達が美しい霊界の住処すみかを離れて地球を包む暗い霧の中へと降りて来る時は、決して鼻歌まじりの軽い気持ちで来るのではありません。私達には使命があるのです。誰かがやらねばならない仕事を携えてやって来るのです。そして、そのことに喜びを感じているのです。
あれから少し後ーー地上的な言い方をすればーーのことです。私達は、とある広い場所へ案内されました。そこには大きな湖ーー湖盆と言った方がよいようなものーーがあり、その中へ絶え間なく水が流れ込んでおり、まわりにはかなりの間隔を置いて塔のついた大きな会館ホールのようなものが立ち並んでおります。建築様式も違えばデザインも違い、素材も同じ種類ではありません。ホールのまわりには広々とした庭園や森があって、中には何マイルにも広がっているものもあり、そこには各種の動物や植物が群がっております。大部分は地上でも見かけるものですが、見かけないものもあります。ただし私の記憶では、現在は見かけなくても曽ては生息したものが少しはあると思います。以上が外観です。
私がお話したいのは、そうしたコロニーの存在の目的です。」

1306回目の瞑想

 
「目的は実は音楽の創造と楽器の製造に他なりません。ここに住む人達は音楽の研究に携わっているのです。各種の音楽の組み合わせ、その効果、それも単に”音”として捉えるのではなく、他の要素との関連をも研究します。幾つかの建物を見学してまわりましたが、そこに働く人全員が明るく楽しそうな表情で私達を迎えて下さり、隅々まで案内して下さいました。同時に私達に理解できる範囲のことを説明して下さいましたが、正直言ってそれはそう多くはありませんでした。では私達に理解できた範囲のことを説明してみましょう。
ある建物ーー見学してみると製造工場というよりは研究所と呼んだ方が良いと思いましたーーの中では地上で作曲の才能のある人間へ音楽的インスピレーションを送る最良の方法の研究に専念しており、またある建物では演奏の得意な人間に注目し、更には声楽の得意な人間、教会音楽の専門家、コンサートミュージック、あるいはオペラの作曲に携わる人間等々のために各々の建物が割り当てられているのです。
研究の成果は体系的に図表化されます。そこまでがここに働く人達の仕事です。その成果を今度は別のグループの人達が目を通し、それをどうすれば最も効果的に地上へ送れるかを検討します。検討が終わると更に別のグループの人達が実際にベールを通して地上へ送る作業に取りかかります。まず目標とすべき人間が選別されます。すなわちインスピレーションに最も感応しやすいタイプです。そうした選別をするのが得意なグループが別にいて、細かい検討が加えられます。すべてが整然としております。湖のまわりの研究所から地上の教室やコンサートホール、オペラハウス等へ向けて、天上の音楽を送り届けることに常時携わっている人達の連繫組織があるのです。こういう具合にして地上に立派な音楽が生まれるのです・・・。もちろんそうです。地上の音楽すべてがこちらから送られたものとは限りません。それはこちらの音楽関係者の責任ではなく、ベールのそちら側の入口に問題があり、同時にこちら側の暗黒界の霊団による影響もあり、受け取った地上の作曲家の性格によって色付けされてしまうこともあります。」
 
前から書いているように、私は音楽が大好きなので、とても興味深く読ませてもらいました。音楽に携わっている全ての人に教えてあげたいくらいです。霊界ではこんな風にして、地上に音楽を送り届けてくれているのですね。ただただ感謝するばかりです。また、霊界でも楽器を製造していることにもびっくりでしたし、霊であっても楽器を使って演奏していることについても、とても興味深いです。霊界へ行けたら、音楽の創造や楽器の製造を見てみたいと強く思ってしまいました。
最後の下りついて、暗黒界の霊団による影響もあるとのことで、あることを思い出しました。それは、植物を育てるのに、クラッシック音楽は、伸び伸びと成長を早めるとのことですが、逆にロックなどの音楽は枯れてしまうとのことで実際に試してみた結果でした。私達自身も音楽を聴いた時に心地良いのか、悪いのかを見極めることが大事なのだと思います。
余談ですが、私はマーラー作曲の交響曲第8番(演奏規模の膨大さから「千人の交響曲」という名で有名です)の最終楽章は、霊界をリアルに感じられる感覚になれるのです。素晴らしい曲だと思っています。またマーラー氏の作曲した音楽は、ほぼ霊界から送られたものであると確信しています。聴かれるチャンスがありましたら、ぜひマーラー作曲の交響曲をお薦めします。特に第1番<巨人> 第2番<復活> 第3番 第5番 第6番<悲劇的> 第9番 第8番<千人の交響曲>
結局、挙げたらほとんどでしたね。また、チャイコフスキー作曲の5番と6番<悲愴>もお薦めです。

1307回目の瞑想 

 
ーーー塔は何のためにあるのでしょうか。
「これからそれを説明しようと思っていたところです。
湖は広大な地域に広がっており、その沿岸から少し離れた一円にさっきの建物ホールが建っております。そして時折、予め定められた時が来ると、それぞれの研究所ホールで働く人のうりの幾人かーー時には全員ーーがそれぞれの塔に集まり、集結し終わるとコンサート、まさにコンサートの名に相応しいコンサートが催されます。演奏曲目は前もって打ち合わせが出来ております。一つの塔には一つのクラスの演奏者がおり、別の塔には別のクラスの演奏者がおり、次の塔に一定の音域の合唱団がおり、そのまた次の塔には別の音域の合唱団がおります。それが幾つものあるのです。地上では4つの音域しかありませんが、こちらでは音域がたくさんあるのです。更に別の塔の人にもベルの受け持ちがあるのですが、私には理解できませんでした。私の推測ではそれぞれの塔からの音量を程度に調和させる専門家もいるようでした。
そのことよりも私は催しそのものーーコンサート、フェスティバル、何でもよろしいーーの話に入りたいと思います。私達は湖の真ん中辺りにある島へ案内されました。そこは美しいん木々と芝生と花が生い茂り、テラスや東屋、石または木で出来た腰掛けなどがしつらえてあります。そこでフェスティバルを聴いたのです。
まず最初にコードが鳴り響きました。長く途切れること無く、そして次第に大きくなって行き、ついにはその土地全体ー陸も水も樹木の葉一枚までも行き亘っていくように思えました。それは全ての塔にいる楽団及び岩礁団にキーを知らせるものでした。やがてそれが弱まって行き全体がシーンと静まり返りました。すると今度は次第にオーケストラの演奏が聞こえてまいりました。多くの塔から出ているのですが、どの演奏がその塔という区別がつきません。完全なハーモニーがあり、音調のバランスが完璧でした。続いて合唱が始まりました。その天上の音楽を地上の言語で叙述するなど、とても無理な話なのですが、でもその何分の一かでも感じ取って頂けるかも知れないと思って述べているのです。簡単に言えば、全ての存在をより麗しくするものがありました。美しいというだけではないのです。麗しさがあるのです。この二つの形容詞は意味合いが違うつもりで使用しております。私達の顔に麗しい色合いと表情が表れ、樹木は色彩が一段と深みを増し、大気は虹のような色彩をした霞に似たものに変化して行きました。それが何の邪魔にもならないのです。むしろ全てを一体化させるような感じすら致しました。水面には虹野色が映り、私達の衣服もその色彩を一段と強めておりました。さらには動物や小鳥までがその音楽に反応を示しているのです。一羽の白い鳥がとくに記憶に残っておりますが、その美しいん乳白色の羽根が次第に輝きを増し、林の方へ問うんで行く直前に見た時は、まるで磨き上げた黄金のような色ー透明な光あるいは炎のように輝いておりました。やがて霞がゆっくりと消えて行くと私達全員、そして何もかもが再びいつもの状態に戻りました。と言っても余韻は残っておりました。強いて言うならば”安らぎ”とでも言うべきものでした。」
 
今回の内容は読みながら、その場所にいられたらどんなに幸せなことかとの想いで一杯になりました。天上の音楽を聴けることが私の一番の願いです。地上の言葉で表現することができない天上の音楽を、一度どんなことをしても聴いてみたいと思っています。
音域もたくさんあるとのことで、想像すらできません。シルバー・バーチ霊もこの世にはない音色があると言われています。また、霊界の音楽がこぼれ落ちたものが地上の音楽だとも言われているのです。けれど、私にとっては地上の音楽でさえも、魂を鼓舞する最高の神様からの贈り物だと思っているのです。聴いていると音の中に溶け込んでいきたい衝動にかられます。音と一体になりたいという願望があるのです。それはひいては神様と一体になりたいという想いなのではないかと思っています。

1308回目の瞑想

 
「以上がこの”音楽の里”で得た体験です。私達が聴いた音楽はそのあと専門家が出来具合を繰返し討論し合い、ここを直し、そこを直しして、これを何かの時、たとえばこちらでの感謝祭(※)とか、地上での任務を終えて帰ってくる霊団を迎えるレセプションとか、その他の用途に使用されることになります。何しろこちらの世界では音楽がすべての生活面に浸透しております。いえ、すべてが音楽であるようにさえ思えるのです。音楽と色彩と美の世界です。すべてが神の愛の中で生きております。私達はとてもその愛に応え切れません。なのに神の愛が私達を高き世界へと誘いざない、行き着くところ全てに愛がみなぎり、神の美を身に着ける如くにその愛を身につけなくてはいけないのです。そうせざるを得ないのです。なぜなら天界では神が全てであり、何ものにも替えられないものだからです。愛とは喜びです。それをあなたが実感として理解するようになるのは、あなた自身が私達と同じところへ来て私達と同じもの聞き、私達が神の愛を少し知る毎に見ることを得た神の美が上下、前後、左右、辺り一面に息づき輝いているのを目の当たりにした時のことでしかないでしょう。
力強く生きなさい。勇気をもって生きなさい。それだけの価値のある人生です。それは私達自らが証言しているのですから。
時折あなたの睡眠中に今お話したような音楽のかすかなこだまをあなたの霊的環境の中に漂わせているのですよ。それは必ず翌日の生活と仕事の中によい影響を及ぼしております。」
(※霊界でもよく祭日が祝われる話が霊界通信にも出て来る。地上を真似たのではなく、逆に霊界の催しが人間界に反映しているのであるーー訳者)
 
今回の内容では、神様の愛を実感として理解するには、霊界に行って、目の当たりにした時だと言われています。やはり残念ながら、地上ではなかなか実感することはできないということなのでしょう。ただそれもちゃんと霊界へ行けての話なのですよね。そのためにもこの地上でしっかりと生き抜くことが如何に大切であるかということだと思います。価値ある人生には、自分がして行かなければいけないのだと思います。
後先になりましたが、すべてが音楽であるようにさえ思えるとのことで、私にとっても、音楽を切り離すことは出来ませんから、このお言葉はとても勇気を頂けました。本当に有難い思いで一杯です。

1309回目の瞑想

 
2 色彩の館
「”音楽の里”について述べたことは、私達が見聞きしたことのホンの概略を述べたものです。それに私達は、その里のごく一地域しか見学していないのです。聞くところによりますと実際はそのとき想像していたよりも遙かに広いもので、湖を中心として遠く山岳地方まで広がっております。その山の地方にも研究所が あり、一種の無線装置によって他の研究所と連絡を取りながら全体としての協同研究が休みなく続けられております。
見学を終えての帰り道で脇へ目をやると、また目新しいものが目に入りました。とても大きな樹木の植林地で、その中にも高い建物が聳えております。前のようなただの塔ではなく、色とりどりの大小の尖塔やドームが付いており、その中に大小のホールが幾つものありました。それが一つの建物で、とても高くまた広々としております。私達が尋ねると住人の一人がとても丁寧に優しく迎えて中へ案内して下さいました。そしてまずその壁の不思議さに驚かされました。外側から見ると不透明なのに内側から見ると透明なのです。そして大小のホールを次から次へと回って気がついたのは、各々のホールの照明の色調が多少ずつ隣のホールと違っていることでした。もとの色彩は同じなのです。ですから別の色という感じはしないのですが、その深みとか明るさとかが少しずつ違っておりました。
小さいホールはほとんど同じ色調をしておりました。その数多い小ホールを通過して行くと幾つか目に大ホールがあり、そこに、それに連なる小ホールの色彩の全てが集められております。果たして小ホールの一つ一つが一個の色調を滲出していると断言してよいのかどうか自信はありませんが、思い出す限りではそんな印象でした。見たものがあまりに多くて一つ一つを細かく憶えていないのです。それに、それが初めての訪問でした。ですから大ざっぱな説明と受け止めて下さい。」

1310回目の瞑想 

 
「大ホールの一つは”オレンジホール”と呼ばれ、そこには原色のオレンジのありとあらゆる色調ーーほんのりとした明るい黄金色から最も深いオレンジ色までありました。更にもう一つの大ホールは”レッドホール”と呼ばれ、ピンクのバラの花びらのうっすらとした色調から深紅のバラかダリヤの濃い色調までがホールいっぱいに漂っていました。更には”バイオレットホール”というのがあり、ヘリオトロープあるいはアメシストのあの微妙な紫の色調からパンジーのあの濃い暗い色調まで輝いております。このような具合にしてその他の色彩にもそれぞれのホールがあるのですが、言い落としてならないのは、これ以外にあなたの知らない色ーー七色以外の、言わば紫外色と赤外色もあることで、それはそれは素敵な色です。
そうした色調は一つに融合してしまうことなく、それぞれが独自の色調を発散しながら、それでいて全体が素敵に、美事に調和しているのです。
そうした透明な建物ホールが一体何のためにあるのかと思っておられるようですね。それは各種の生命ーー動物、植物、それに鉱物、このうち特に前二者へ及ぼす色彩の研究をするところなのです。これに衣服も含まれます。私達の衣服の生地と色調は着る人の霊格と性格を反映するからです。自分を取り巻く環境は言わば自分の一部です。それはあなた方人間も同じです。中でも 光が一つの要素、重要な要素となっています。私達がホールで見た通り、各種の条件下で実験する上でも重要な働きをしているのです。
聞くところによりますと、こうした研究の成果が地球及び他の惑星の植物を担当しているグループへ手渡されるそうです。しかし、全てが採用されるわけではありません。繊細すぎて地球や他の惑星のような鈍重な世界に応用できないものもあり、結局ほんの一部だけが地球へ向けられるということになるそうです。
残念ですがこれ以上のことは私には述べられません。一つには今述べた環境上の制約がありますし、又一つには内容が科学的で私には不向きということでもあります。ただ一つだけそこでお尋ねしたことをつけ加えておきましょう。そこでは原色の全てを一つのホールに一緒に集めることはしません。なぜだか知りません。もしかしたら私よりその方面に通じている仲間の人達が考えているように、一緒にした時に出るエネルギーがあまりに強烈なので、特別に設計した建物を、それも多分とこか高い山の中にでも建てなくてはならないのかも知れません。仲間の人達が言うのは、その場合は周辺のかなりの距離の範囲で植物が生育しないだろうということです。更に、私達がお会いした人々が果たしてそうした莫大なエネルギーを処理コントロールできるかどうかが疑問だと言っております。もっと高い霊恪と技術が必要であろうと考えるわけです。しかし、もしかしたら高い界へ行けば既にそうした研究所があって、それが今紹介した研究所と連絡が取れているのかも知れません。こちらの整然とした秩序から判断すれば、その想像はまず間違いないでしょう。」
 
今回の内容のホールのお色のうち、私はレッドホールが好みです。読みながらすぐにでもそのホールに行きたい衝動に駆られました。また言い落としてはならないと言われているこの世の七色以外のお色は、シルバー・バーチ霊も言われていましたよね。どんなお色か想像もできませんが、それはそれは素敵なお色とのことで、見てみたいです。またそうしたホールは動物や植物、そして鉱物にまで影響を及ぼす色彩を研究するところだと言われています。更には衣服も含まれ、衣服の生地と色調は着る人の霊格と性格を反映するからだと言われているのです。やはり地上では考えられないようなことが行われているのですよね。更にそのような研究の成果は、この地球や他の惑星にも手渡されるそうですが、あまりに繊細すぎて鈍重である地球や他の惑星には、ほんの一部だけだと言われています。
また、原色を一緒に集めると莫大なエネルギーになるとのことで、その場合、広範囲で植物が育たないとのことですが、霊界でもそんなことがあるかと不思議に思いました。けれどそういった場合も、やはり高い霊恪と技術が必要であるということは当然なことだと思います。こうやって霊界の様子を知れるということは凄いことですね。ただ、あまりにもこの世とは違うことにしっかりと受け止め切れてはいないようにも思いますが、実体があるということは得心できて来たように思います。

1293回目の瞑想

 
「土地は広々としており、その土地と建物との間に何らかの関係、一種の共鳴関係のようなものがあります。たとえば樹木は地上と同じ樹木そのもので、同じように生長しておりますが、その樹木と建物との間に共鳴関係のようなものがあり、樹木の種類が異なると共鳴する建物も異なり、建物が目的として仕事の効果を上げる作用を及ぼしております。それと同じことが森の中の一つのグループについても言えますし、小道の両脇の花壇、各所に見られる小川や滝の配置についても言えます。すべてが驚くべき叡知から生み出され、その効果は”美しい”の一語に尽きます。 実を言うと同じ作用が地上でもあるのです。ただバイブレーションがそれを放射する側もそれに反応する側も共にこちらに比して鈍重であるために、その効果が殆ど目立たないだけです。でも実際にあることはあるのです。たとえば花や樹木の栽培がとくに上手な人がいるのをご存知でしょう。それから、花が他家よそよりも長持ちする家ーーそういう家族があるものです。切り花のことです。荒削りではありますが、すべて同じことです。こちらでは影響力が強力で、受ける側も鋭敏なのです。ついでに言えば、このことは私達がいま携わっている仕事で個々のケースを正確に診断する上でよい参考になります。 大気も当然ここの植物と建物によって影響を受けます。と言いますのは、繰り返すことになりますが、そうした建物は単なる技術で建造されるのではなく、この界の高位の天使の方々の意念の結晶ーー産物と言ってもよいでしょうーーであり、従って大変強力な創造的念力によるものだからです。(その詳しい原理は第6章でアストリエル霊が解説ーー訳者) 大気はまた私達の衣服にも影響を及ぼします。更にはその生地と色への影響が私達の性格そのものまで染み込んで来ます。ですから霊的に性格が似ている者同士は同じ大気の影響を受けているわけですから、身にまとっているものも色合いと生地がよく似ておりますが、実際には一人一人その個性の違いによって少しずつ違っております。 更に私達がたまたま位置したその地面の影響で衣服の色合いが変化することがあります。辺り一面に色とりどりの草花が繁茂している歩道やさまざまな品種の植物の配置具合が異なる場所を通りかかると衣服の趣きが変化していくのを見るのは面白くもあり、ためにもなり、また見た目に美しくもあります。 小川がまた美しいのです。水の妖精の話はあなたも聞いたことがあるでしょう。地上の話ですよ。あれは少なくともこちらでは本当の話です。その場全体に生命がみなぎり、隅々まで浸透しております。ということは生命の存在がそこにあるということです。このことは前にいた界でもある程度は知っておりましたが、この界へ来て辺りの不思議さ目新しさに慣れてくると、そうしたことが一層はっきり認識され、同時にこの調子でいくとこれから先の界は一体どうなってるのだろうと驚異を抱き始めております。この界の不思議さなど、どこへ行っても当たり前のように思えるからです。 この美わしい御国の片隅を見せて下さった神はまた別の片隅も見せて下さることでしょう。これはあなたへの言葉ですよ。今日はその言葉で終わりとしましょう。それでは。」

1294回目の瞑想

 
4 光のかけ橋
前回の通信は、霊団のお一人からのもう少し深い入りした感応の仕方を試してみるべきとの要請を受けてオーエン氏にやってみたと言われてますが、説明がまだまだ十分とは言えないとのことで、オーエン氏が望むならば引き続き同じ問題を取り上げようと思うとのことでした。それに対して、オーエン氏もお願いしますとのお返事でしたので、そこからまたお母様のご説明が始まります。
「では、あなたにも暫く私達と共にベールのこちら側から考えて頂かねばなりません。先ず理解して頂きたいのは、こちらへ来てみると地上で見ていたものとはまったく異なった様相を呈していることーー恐らく現在地上にいる人の目には非現実的で空想的にさえ思えるのではないかということです。どんなに小さいことでも驚異に満ちていますから、こちらへ来たばかりの人は地上での三次元的な物の考え方から脱しない限り、飛躍的な進歩は望めません。そしてそれが決して容易なことではないのです。
ここで、例のバイブレーションという用語を使用しなくてはなりません。しかしこれを物的なもののように考えては真相は理解できません。私達のいうバイブレーションは作用においても性質においても単なる機械的な波動ではなく、それ自体に生命力が宿っており、私達はその生命力を活用して物をこしらえているのです。言わば私達の意志と環境とを結ぶかけ橋のようなものです。突き詰めれば全ての現象はその生命力で出来ているからです。環境は私達を始め全存在を包む深い生命力の顕現したものに過ぎません。それを原料として私達は物をこしらえ成就することが出来るのです。バイブレーションというと何だか実体のないもののように思われがちですが、それがちゃんとした耐久性のあるものを作り上げるのです。
たとえば光明界と暗黒界との間の裂け目の上に橋を掛けるのもその方法によります。その橋がただの一色ではないのです。暗黒の世界の奥深いところから姿を見せ、次第に輝きをましながら裂け目を越え、最後に燦々たつ光輝を発しながら光明の世界へと入り込んでおります。その光明の始まる高台に掛かる辺りはピンク色に輝き、大気全体に広がる何とも言えない銀色、アラバスターと言った方がよいでしょうか、そんな感じの光の中で輝いて見えます。その裂け目に 立派に”橋”が掛かっているのです。もし無かったら暗黒の世界から光明の世界へと闇を通り抜けて霊魂はどうやって向上進化してくるのですか。本当なのです。言い落としておりましたが、怖ろしい暗闇の世界をくぐり抜けてその橋をよじ登り、裂け目のこちら側へやって来る霊魂が実際にいるのです。もっとも数は多くはありません。大抵はその道案内の任に当たっておられる天使様の言うことが聞けずに後戻りしてしまうのです。
また、こういうことも知っておく必要があります。」
 
私達人間には到底考えもしないようなことが、霊界ではあるということを教えて下さっています。確かに空想のような現実離れしているように感じてしまいます。けれど、思念にも実体があると言われていますから、バイブレーションと言えど、やはり実体があるのだと思います。しかも生命力が宿っていると言うのですから、びっくりですよね。なかなか想像することができませんが、今からしっかりと頭に入れておく必要があるのだと思います。そうすれば、霊界入りした後に、三次元的な物の考え方だけに縛られることはないと思うからです。
また、光明界と暗黒界との裂け目に橋がかかっているとのこと。そして、暗黒界にいる霊魂がよじ登ってくるとの、お話に、蜘蛛の糸を思い出しました。芥川龍之介氏はこのようなことがわかっていて書かれたのだろうかと、ふとそんなことが頭をよぎっていました。
そして今回の内容から、シルバー・バーチ霊が言われる地上とそっくりな場所というのは、やはり下層界ということなのだと思った次第です。

1295回目の瞑想

 
「そうした天使様の姿は魂の内部に灯された霊的明かりの強さと同じ程度にしか映らないということです。ですから天使様の言うことを聞いて最後まで付いて行くには、天使様に対する信頼心も必要となってきます。その信頼心は同時に光と闇とをある程度まで識別できるまで向上した精神の産物でもあるわけです。実際人間の魂の複雑さは一通りでなく、捉え難いものですね。そこで、もう少し言葉で表現しやすい話に移りましょう。私はそれを”橋”と呼びました。しかし『目は汝の身体の光である』という言葉がありますね。この言葉をここで改めて読んで頂きたいのです。そうすれば、それが地上の人間だけでなく、こちらの霊魂についても言えることがお判りになると思います。
私はこれまで”橋”という呼び方をしてきましたが、実際には地上の橋とはあまり似ていないのです。第一、幅がそれはそれは広いのです。”地域”と呼ぶのが一番当たっているようです。私はまだ死後の世界のほんの一部しか見ておらず、その見た限りのものだけを話していることを念頭において聞いて下さいよ。同じような裂け目や橋が他にもーーたぶん数え切れないほどーーあるに相違ありません。私が橋と呼んでいるものを通って光明を求める者が進んで来ます。実にゆっくりとした足どりです。しかもその途中には幾つかの休泊所が設けてあり、暗黒界から這い上がって来た霊魂がそのうちの一つに辿り着くと、そこで案内役が交代して、こんどは別の天使の一団が次の休泊所まで付き添います。そうやってようやくこちら側に着きます。私が属しているコロニーでの仕事も、地上の救済のほかに、そうやって向上して来る霊魂の道案内も致しております。それは先程述べた仕事とはまた別の分野に属します。私はまだあまり勉強しておりませんので、そこまでは致しません。そちらの方が難しいのです。というのは、こちらの世界の暗黒界にいる者を取り巻く悪の影響力は地上のそれに比してはるかに邪悪なのです。地上はまだ善の中に悪が混じっている程度ですからましです。こちらへ来た邪悪な人間がうっかりその暗黒界へ足を踏み入れようものなら、そのとてつもなく恐ろしい世界から抜け出ることの大変さを思い知らされます。想像を超えた長い年月に渡って絶望と諦めの状態で過ごす霊が多い理由はそこにあります 。」

1296回目の瞑想 

 
「暗黒の世界から這い上がって来た霊魂が無事にその橋を渡りきると天使様が優しく手を取って案内してあげます。やがて草木の茂った小高い緑の丘まで来ると、そこまで実にゆっくりとした足取りで来たはずなのに、辺りの美しさに打たれて喜びで気絶せんばかりの状態になります。正反対の暗黒の世界に浸りきっていた霊魂には、僅かな光明さえ魂が圧倒されんばかりの喜びを感じるのです。
私は今”小高い丘”と言いましたが、高いと言っても、それは暗黒の世界と比べた場合のことです。実際には光明の世界の中で一番低い所なのです。
”裂け目”とか”淵”とかをあなたは寓話のつもりで受け止めているようだけど、私が述べた通りに実際にそこに在るのです。このことは以前にもどこかで説明があったはずです。それから、なぜ橋をトコトコ歩いて来るのか、なぜ”飛んで”来ないのかと言うと、まだ霊的発達が十分でなくてそれが出来ないということです。もしそんな真似をしたら、いっぺんに谷底へ落ちて道を見失ってしまいます。
私はまだまだ暗黒の世界へ深入りしておりません。ほんの少しだけですが、悲劇を見るのは当分これまで見たものだけで十分です。しばらく今の仕事に精一杯努力して、現在の恵まれた環境のもとで気の毒な人々に援助してあげれば、もっと暗黒界の奥まで入ることを許されるかも知れません。多分許されるでしょう。しかしそれはまだ先の話です。
あと一つだけお話しましょうーー霊魂が暗黒の世界から逃れて橋のところまで来ると、後ろから恐ろしい叫び声や怒号が聞こえ、それと共に狐火のようなものがチラチラと見えるそうです。私は実際に見ていないのではっきりしたことは言えませんが、それは仲間を取り逃した暗黒界の霊魂が悔しがって怒り狂う時に発するのだと聞いております。悪は所詮、善には勝てないのです。いかに小さな善にでもです。が、このことついては今はこれ以上深入りしません。このことは又聞きで、人から間接的に聞いたことですが、本当のことです。
神の御光と安らぎが注がれますように。その御光の中にこそ光明を見出されることでしょう。そうしてその輝きこそ無限に開け行く安らかなる魂の黎明れいめいなのです。」
黎明とは、夜明けや明け方、また新しい事柄が始まろうとすることだそうです。更に「黎」には青黒い、「明」には(夜が)あけるという意味があるとのことで、黎明は薄暗い夜空がだんだんと開けていくという意味だそうで、納得でした。
 
私の母もよく言っていたことでした。暗黒界へは、かなり霊恪の高い方でないと、引きずり込まれてしまうと。余程強力なのだと思います。けれど、ここで言われているように、悪は善には勝てないということです。自分の心に善がある限り、悪に引き込まれることはないと信じたいと思います。

1297回目の瞑想

 
5 キリスト神の”顕現” 
ーーーもう少し鮮明に感応できないものですか。
「これまで以上に鮮明にする必要はありません。私達からのメッセージは一応意図したとおりに通じております。あなたには私達の生活ぶりや環境は一応理解して頂けております。ただ一つだけ付け加えておきたいことは、こちらへ来たばかりの私達は、まだ霊としての本来の能力を発揮しておらず、あなた方が実感を得ている環境が私達にはモヤのように漠然としか映らず、その状態で最善を尽くさねばならないということです。」
 
ーーー私がこうして書いている姿が見えますか。
「見えますとも。ただし肉眼とは別のもので見ております。私達の眼は地上の明かりには慣れておりません。こちらの世界の明かりは種類が異なり、内部まで貫通する作用があります。それであなたの心の中を見て取り、また心に直接話しかけるーーあなたそのものに語りかけるのであって、もちろんあなたのその左右の耳ではありません。同じように、私達があなたを見る時はあなたそのものを見ており、その肉体ではありません。肉体は外套のようなものに過ぎません。ですから、かりに私があなたに触れた場合、あなたはそれを肉体的に感じるのではなく霊的に感じるわけです。私達の感応の具合を理解するにはその点を念頭において、身体や脳といった器官の奥を見なければいけません。
どうやらあなたは、こちらでの私達の働きぶりや暮らしの環境についてもっと知りたがっておいでのようですね。
こちらへ来てからの進歩にとってぜひ理解しておく必要のある基本的な真理の一つは、神というものは地上と同じくこちらでも直接そのお姿を拝することは出来ないということです。これは必ずしもこちらへやって来る人間の全てが得心してくれるとは限らないのです。みんなこちらへ来たらすぐに神々しいお姿を拝せるものと期待します。そこで、その信仰は間違っており神とはそういうものではないと言い聞かされて非常にがっかりします。神の生命力と崇高さは別にこちらへ来なくても地上において、大自然の内奥を洞察する力を持つ者には明瞭に感得できるものです。こちらでも同じことです。ただ異なるのは、生命力により実感があり、その本性を知った者にはその活用が容易にできることーーあたりに脈動しており、より鋭敏な感覚を身につけた私達には、それを地上にいた時よりも強く感得できるということです。以上は一般的な話として述べたのですが、これにもう一つ付け加えておく必要があるのは、時折”神の存在”を実感させる現象が特別の目的のために顕現されることがあることです。では、その一つをお話してみましょう。」

1298回目の瞑想

 
「ある時、私達は田園地帯のある場所に招集されました。そこには地上時代の宗教も信仰も国籍も異なる人々が大勢集まることになっておりました。到着すると一団の霊が地上との境界付近の一地域における救済活動の任期を終えて帰ってくるところでした。地上を去って霊界入りしながら、自分が死んだことが自覚できずにいる霊を指導する仕事に携わっていた霊の一団です。その方達に連れられて、首尾よく死を自覚した霊が大勢まいりました。それぞれの落ち着くべき界へ行く前にそこで私達と共に感謝の祈りを捧げるためです。年齢はさまざまです。年ばかり取って若さも元気もない者、若くてまだまだ未熟な者などいろいろです。みんな一様に何かうれしいことを期待している表情です。そして新しい仲間が次々と連れて来られるのを見て、民族による顔かたちの違い、地位や財産の違いからくる色とりどりの服装などを不思議そうにじろじろ見つめ合っておりました。やがて全員が到着しました。すると突如として音楽が押し寄せる波の如く鳴り響いて、その大集団を家族的一体感で包み込みました。そのとき私達の眼に大きな光の十字架が見えました。その平野と接する大きな山の背に乗っているように見え、見ているとそれが砕けて細かい光の小片になり始めました。だんだん判ってみると、それは高級界の天使の大集団で、それが山の上に十字架状に集結していたのでした。その辺り一面が金色こんじきに輝き、遠くに位置する私達にも暖かい愛の息吹きとなって伝わって来ます。
天使の集団がこの低い環境(その天使達から見て低いということですが)に馴染むにつれて、その御姿が次第に私達の視界に明瞭になってまいりました。するとです。ちょうど十字架が交叉するあたりの上方にさらにもう一つの、一段と大きい天使の御姿が現れました。それがどなたであるかは、そこに居合わせた者には直観的に判りました。それはあなたにはもう察しがつくと思いますが、具象化(※)としてのキリスト神の一表現でした。(※本来は形体を持たない存在が一時的にその存在を示すためにとる形態。それを見る者の理解度・宗教的信仰・先入観等によりさまざまな形態をとる。キリスト神とは地球神界の最高神つまり地球の守護神である。詳しくは第三章で明かされるーー訳者)

1299回目の瞑想 

 
「大天使はしばらく黙ってじっと立っておられましたが、やがて右手を高々と上げられました。すると一本の光の柱が見え、それがその右手に乗りました。それは一種の通路だったのです。その光の柱の上を別の天使の一団が降りて来るのが見え、手のところまで来ると一旦立ち止まり、それぞれに両手を胸に当てて頭こうべを垂れ、拝むような格好でじっとしています。すると大天使の手が大きく弧を画いて一回転し、その指先を平地へ向けられました。するとその光の柱が私達の方向へ延びて来て、山の頂上と平地との間のかけ橋となり、その一番端がそこに集結していた私達の上に掛かりました。見るとその光のかけ橋を通って先程の天使の一団が降りて来て、私達の真上まで来ました。そこで両手を広げ、一斉に大天使のおられる山頂へ向きました。すると語るとも歌うともつかない大天使への賛歌が聞こえてまいりました。その光景の美しさ、崇高さと言ったらありません。私達は初めのうちはただただ畏れ多くて黙するのみでした。が、やがて私達も一緒に歌いました。と言うよりは詠唱しました。それを教えるのが天使様達の来られた目的だったのです。詠唱していると、私達とその山との間に青っぽいピンクのモヤが発生し、それが不思議な働きをしたのです。まるで天体望遠鏡のレンズのように大天使の姿が大写しになり、そのお顔の表情まで見えるようになったのです。同時に、すぐ下に立ち並ぶ天使の一団の姿も同じように大きく映って見えました。が私達にはその優雅なお顔とお姿が見えるだけで、その真の霊恪を読み取る力はありませんでした。その表情はとても私には述べることはできません。言葉では言い尽くせないさまざまな要素が渾然一体となっておりました。愛と慈悲と喜びと威厳とが混じり合っておりました。その時に私が感じたのは、こうして神と私達とが一体となった時、生命というものが実に聖なる尊さに溢れたものであるということです。仲間の者も同じものを感じ取った思いますが、その時はお互いに語り合うどころではなく、大天使様の御姿にただ魅入られておりました。
やがてそのモヤが大気の中へ融け入ってしまいました。山頂の十字架と大天使のお姿は同じ位置にありましたが、前より鮮明度が薄れ、私達の真上におられた天使の一団も今は去って大天使の上方に見えました。そして次第に全体が薄れて行き、やがて消滅しました。しかし大天使の存在感はその後も強烈に残っております。多分今回のシーンを見せて目的はその存在感を印象づけることにあったのでしょう。私達のように少しでもこちらにいる者に比べて、地上から来たばかりの者にはその見え方は鮮明ではなかったでしょうけど、それでも魂を鼓舞し安らぎを与えるには十分であったと思われます。
私達はそれから少しの間その辺りを散策してから静かな足どりで家路に着きました。誰もあまりしゃべりません。今見たシーンがあまりに印象的だったからです。そしてまた、こうした顕現にはいろいろと考えさせられるものがあるのです。その場にいる時はあまりの荘厳さに圧倒されて全部の意味を考えている余裕が無いのです。ですから、あとになって段々に考えさせられることになります。私達は一緒に語り合い、お互いに印象を述べ合い、それを総合して、それまであまり理解していなかったことが啓示されていることを発見します。今回の顕現で私達が最も強い印象を受けたことは大天使様の沈黙のうちに語るその威力でした。一言も語られなかったにも拘わらず、その動き一つ一つが声となって私達に語りかけてくるように思えたのです。それが何を語っているかは、実際に声に出しておられないのに、よく理解できました。
今日はこれ位にしておきましょう。求める者に主が何を用意されているか、そのうちあなたにも判る日が来ることを祈ります。」

1300回目の瞑想

 
   
6 暗黒界の天使
「これまでの通信をお読みになるに当たっては、地上より高い視野から観るということが実際にどんなものであるかを、十分に理解しておいていただく必要があります。そうしないと私達が述べた事柄に一見すると矛盾するかに思えるところがあって、あなたが不可解に思うことが少なくなかろうと思うのです。前回の通信におけるキリスト神の具象体の出現と前々回の巨大な裂け目に橋が掛けられる話とは、私には極めて自然につなぐことが出来ます。と言うのは、実体のあるものとしてーーもちろん霊界の私達にとって実体があるということですーー実感をもって私が目撃した暗黒界との間のかけ橋は、大天使と配下の霊団がいま私達が働いている界とその霊団のいる高級界との間に掛けた”光の柱”と、実質的には同じ目に見えないエネルギーによる現象だからです。
私達にとってその具象化の現象が、あなた方人間にとっての物質化現象のようなものであることがこれでお判りでしょう。あれは私達低い界にいる者には使いこなせない高次元のバイブレーションによって、高級霊がこの”父の王国”(※)の中の二つの土地を結んだわけです。どういう具合にするのかは今のところ推察するほかはないのですが、私達のように地上からやって来た者には、この界と一段上の界とを結ぶことは別に不思議なこととは思えないのです。(※本書ではキリスト教的表現がそのまま使用させることが多い。これも聖書の中のイエスの言葉で、広義には死後の世界全体、狭義にはその上級界すなわち神界を指すことがあるーー訳者)
あなたにもっともっと私達の世界の驚異について勉強していただきたいというのが私達の願いです。そうすれば地上生活にありながらもそうしたことが自然なことに思えるようになるでしょうし、さらにこちらへ来てから全くの不案内ということもなくて済むのではないでしょうか。地上生活にあってもという意味は、つまりは地上は天上界の胚芽期のようなもので、天上界は地上を磨き上げて完成させたものだということを悟るということです。こちらへ来てからのことは言うまでもないでしょう。そこで、この問題に関してあなたの理解を助ける意味で、私達が大切なものと大切でないものとを見分け区別する、その分類法についてお話してみようかと思います。」

1301回目の瞑想

 
「私達は何か困ったことが生じるとーー私達の仲間うちだけの話ですがーーどこかの建物の屋上とか丘の頂上など、とこか高いところで周囲が遠くまで見渡せるところに登ります。そこでその困りごとを口で述べ、言い終わると暫く、言わば自分の殻の中に退避するように努めます。すると普段の自分より高い次元のものを見聞きするようになり、大切なものがその視力と聴力に反応し、そのままいつまでも高い次元に存在し続けるのが判ります。一方、大して重要でないものについては何も見えもせず聞こえもせず、それで大切か否かが区別できることになります。
 
ーーー判るような気もしますが、何かよい例を挙げていただけませんか。
「では、ある婦人の例で、”不信感”のために進歩を阻害され満足感が得られないまますごしていた人の話をしてみましょう。
その方は決して悪い人ではないのですが、自分自身のことも、まわりの人のことも、どうも確信がもてないのでした。中でも一番確信がもてないのが天使のことーー果たして本当に光と善の存在なのか、もしかしたら天使の身分でありながら同時に暗黒の存在ということも有り得るのではないかと疑ったりするのでした。私達は当初なぜそんなことで悩むのか理解できませんでした。と言うのは、ここでは何もかもが愛と光明に溢れているように私には思えるからです。が、そのうち判ったことは、その方には自分より先に他界した親戚の人が何人かいて、こちらへ来てもその人達の姿が一人も見当たらず、どこにいるのかも判らないということが原因なのでした。そうと判ってから私達はいろいろと相談したあげくに、ある丘に登ってその方を救ってあげる最良の方法を教えてくださいと祈ったのです。すると思いも寄らない驚くべきことが起きました。」

1302回目の瞑想

 
「跪ひざまずいていると丘の頂上が透明になり、私達は頭を垂れていましたから、丘を突き抜けて下の界の一部がくっきりと見え始めたのです。その時私が見た情景ーー私達5人全員が見たのですから幻影ではありませんーーは薄暗い闇の中に荒涼とした平地で、一人の大柄な男が岩に背をもたれて立っております。そしてその男の前にはもう一人、少し小柄な人が顔を手で蔽った格好で地面に跪いております。それも男性でした。そしてどうやら立っている男に何か言い訳をしているみたいで、それを立っている男が不審の表情で聞いております。やがて突然その男が屈かがみ込み、伏せている男を摑つかまえて自分の胸の辺りまで立ち上がらせ、そのまま遠くの地平線の、ほのかな明かりの見える方向へと、平地を大股で歩いて行きました。
彼は小柄な男を引きずりながら相当な道のりを歩きました。そしてやがて明かりがずっと大きく見える辺りまで来ると手を離し、行くべき方角を指しました。すると小柄な男がさかんに礼を言っている様子が見えます。やがてその男は明かりの方向へ走って行きました。私達はその男のあとを目で追いました。あるところまで来ると大柄な男の方が橋の方角を指差します。それは前にお話したあの橋です。但しそこは例の”裂け目”の暗黒界側の端です。その時点でも私達はなぜこんな光景を見せられるのかが理解できませんでした。が、とにかく後を追い続けると、その橋の入口のところに建てられた大きな建物に辿り着きました。見張りのための塔ではなく、暗黒界からやって来た者に休養と介助を施すところです。
その塔からは、その男がずっと見えていたことが判りました。と言うのは、その男が辿り着くとすぐに、橋の上の次の塔へ向けて相図の明かりが点滅されるのが見えたのです。その時点で丘が普通の状態に戻りました。そしてそれ以上何も見えませんでした。
私達はますます判らなくなりました。そして丘を降りて帰ろうとしました。するとその途中で私達の霊団の最高指導者であられる女性の霊が迎えて下さり、そしてその方と一緒にもう一人、私達の界のある地域の高い地位の方と思おぼしき男の方がおられました。私達がまだ一度もお会いしたことのない方でした。指導霊が仰るには、その男の方は今しがた私達が見た光景について説明するためにお出で下さったとのことでした。」

1303回目の瞑想

 
「お話によりますと小柄な男性は例の私達が何とかしなければと思っている女性の曽てのご主人で、私達からその婦人に早くあの橋へ行き、そこで暫く滞在しておればご主人がやって来るであろうことを告げてあげるようにとのことでした。例の大柄な男はその婦人ならさしづめ”闇の天使”とでも呼びたがりそうな存在で、暗黒界でも相当強力な勢力を持つ霊の一人だということです。でもあのシーンからも想像できますように、良いこともするのです。ではなぜいつまでも暗黒の世界に留まっているのですか、と私達は尋ねてみました。
その方は笑顔でこう答えられました。『父なる神の王国はあなた方が想像されるより遙かに素晴らしいところです。これまであなた方は、いかなる地域にもいかなる界層も他と完全に離れて独立し、それ自体で完全というところは一つも見当たらなかったはずです。そのようなところは一つも存在しないのです。あの暗黒の天使の本性の中にも各界層の知識と善性と邪悪性とが混ざり合っております。あの土地に留まっているのは、一つにはその本性の中の邪悪性のせいで、それが光明の土地に馴染めなくしているのです。もう一つの理由は、心がけ次第で向上できるのに本人がそれを望まないということです。それは一つには強情さのせいでもありますが、同時に光明を憎むところがあり、あの途方もなく急な坂道を登って行こうとする者を大バカ者だと思っております。光明界と暗黒界の対比のせいで、登る時の苦痛と煩悶が殊更に大きく感じられるからです。それで彼はその土地に留まるのです。彼のように一種の憂鬱と麻痺的絶望感のために光明界へ来ようとしない霊が無数におります。そうかと思うと彼は憎しみと錯乱から残忍性をむき出しにすることがあります。あなた方が先程ご覧になったあの男にも散々残酷な行為を働き、いじめあげておりました。それも臆病なごろつきによく見られる残忍さをもってやっておりました。が、その残忍性も尽き果てたのでしょう。ご覧になったように、男の嘆願が彼の魂の柔らかい琴線に少し触れると、気持ちが変わらないうちにと男を放してやり、道まで教えてやりました。きっと心の奥ではあの愚か者が・・・と思いながらも、自分よりはましな愚か者だと思っていたことでしょう、』

1282回目の瞑想

 
「生まれ変わりの手続きが終わって、再生の必要なしとの査定が下され、さらに一歩”進級”することを許された霊が突入していく世界は、それまでの”個”としての存在から”無”の存在となります。個性が消滅するという意味ではありません。個性は無くなりません。が、その影響力が他の”一人”ではなく他の”全て”に及ぶことになるということです。つまり、普遍的絶対愛の世界です。以上は概略を述べただけです。進化の旅のおよその旅程を述べただけです。たとえ詳しく述べたところで、地上の人間にはとても理解できませんし、正直言って、私自身にも完全な理解はできません。私もまだ物質界を旅立ってほんの少し霊界を見物したばかりです。ただ、実相の世界の美しさは十分に味わいました、それをお伝えしたくて戻ってきたわけです。」
 
私達この世にいる者よりも一歩高い位置に立って、私達には見えないものがありありと見えているステッド氏が、その絶対無の世界を説明して下さったということです。虚想(地上)のすべてから解放された絶対的な実相(霊)の世界では、私達人間の想像を絶した創造の営みが続けられていると言われています。
 
最後のお言葉です。
「個人的存在の次元を超えて”無”の世界へ入っても、かつての縁のあった者とのつながりが途切れるわけではありません。向上するほど愛の扉が広く開かれ、受け入れる間口が無限に広がり、ついには全てを受け入れる絶対愛の域に到達するのです」
 
以上、ブルーアイランドの内容を抜粋してきましたが終わりにさせて頂こうと思います。
 
次回からは、「ベールの彼方の生活」を抜粋して行こうと思っています。
キリスト教の牧師であったジョージ・オーエン氏が、インスピレーション的に受け取ったものを綴った内容です。
ご存知の方も多いと思います。
内容は第1巻は母親から、第2巻は守護霊から、第3,4巻が守護霊とほぼ同格レベルの霊恪を具えた高級霊からの通信だそうです。
第1巻のお母様からの通信から始めたいと思っていますが、先に進むにつれてかなり難しい内容になっていくようなので、最後まで記載できるかどうかはわかりませんが、可能な限り できる範囲で記載して行こうと思っております。
オーエン氏のまえがきがあるので、最初はその抜粋を記載します。
関心のある方は、ぜひ引き続きよろしくお願いします
私自身は「ベールの彼方の生活」は、今回初めて読みますので記載しながら、しっかりと心に刻んで行こうと思っています。
今日は息子の4年目の命日です。

1283回目の瞑想

 
「霊感書記によって綴られた通信は、形の上では4部に分かれているが、内容的には一貫性を有つものである。いずれも、通信を送って来た霊団が予め計画したものであることは明白である。
母と子という肉親関係が本通信を開始する絶好の通路となったことは疑う余地がない。その点から考えて本通信が私の母と友人たちで構成された一団によって開始されていることは極めて自然なことと言える。
それが一応軌道に乗った頃、新しくアストリエルと名告る霊が紹介された。この霊はそれまでの通信者に比べて霊恪が高く、同時に哲学者的なところもあり、そういった面は用語の中にもはっきりと表れている。
母の属する一団とこのアストリエル霊からの通信が第1巻「天界の低地」を構成している。
試験的な通信が終わると、ザブディエルと名告る私の守護霊の手に預けられた。母たちの通信に較べると流石に高等である。第2巻「天界の高地」は全部このザブディエル霊からの通信で占められている。
第3巻「天界の政庁」はリーダーと名告る霊とその霊団から送られたものである。その後リーダー霊は通信を一手に引き受け、名前も改めてアーネルと名告るようになった。その名のもとで綴られたのが第4巻「天界の大軍」で、文字通り本通信の圧巻である。前3巻のいずれにもまして充実しており、結局前3巻はこの第4巻のための手慣らしであったとみても差し支えない。
本通信中の主要人物について簡単に説明しておくとーーー
母は1909年に63歳で他界している。アストリアルは18世紀半ば頃、英国ウォーリック州で学校の校長をしていた人である。ザブディエルについては全然と言ってよいほど不明である。アーネルについては本文中に自己紹介が出ている。
 
オーエン氏は、この霊界通信を”信じるに足るもの”と認めるまでに10年、そしてその霊界通信という事実が大自然の理法に適っていることをはっきりと得心するのに15年かかったと言われています。
そして、得心して間もなく、その回答とも言うべき現象が起こり出したとのことです。最初は奥様が自動書記能力を発揮したそうです。そしてその内容にオーエン氏も鉛筆を握って机に向かって頭に浮かぶ思念を素直に書き下ろしてみよとの注文が送られてきたそうなのです。けれど、オーエン氏はしばらくは拒否し続けたそうです。ただ他界した友人の方々がオーエン氏を通じてしきりに通信したがっていることを知り、気持ちに変化が起き始めたとのことです。また霊界側で通信の目的や希望を述べても、そのためにオーエン氏の都合や意志を無視したり強制するようなことは決して無かったと言われています。むしろ、強引に書かせた方が手間暇が掛からずに済んだのではないかとさえ思ったようです。拒否し続けたものの、霊界側の真摯な態度に好感を覚えて、懐疑の念を抱きつつも遂に意を決して、カソック姿(法衣の一種)のまま机に向かったとのことです。
 
そして、こう最後に語られています。
「最初の4、5節は内容に統一性が無く、何を言わんとしているのか見当がつかなかったが、そのうち次第にまとまりが見えてきて、やがて厳とした筋が読み取れるようになった。それからというものは書けば書くほど筆が速くなった。読者が今まさに読まんとされているのがその産物である。」
1925年秋                     G・V・オーエン
 
それでは、明日から第1巻「天界の低地」を抜粋して記載して行こうと思います

1284回目の瞑想

 
1章 暗黒の世界
1 霊界の風景
ーーーどなたでしょうか。(オーエン氏の質問)
「あなたの母親です。ほかに援助して下さる方が幾人がお出でです。私達は順調に進歩しております。しかしまだ、述べたいことの全てを伝えることができません。それはあなたの精神状態がこちらが期待するほど平静で受身的ではないからでもあります。」
 
ーーー住んでおられる家屋と、いま携わっておられる仕事について教えてください。
「仕事はその対象となる人間の必要性によって異なります。非常に多種多様です。しかし現在地上にいる人々の向上に向けられている点は一様に同じです。たとえばローズ(オーエン氏の妻)にまず働きかけて自動書記をやらせ、その間の危険から護ってあげる霊団を組織したのは私達です。今でもその霊団が彼女の面倒をみております。時折近くに存在を感じているのではないでしょうか。多分そのはずです。必要とあればすぐに近くに参りますから。
次は家屋について。これは、とても明るく美しく出来上がっております。そして高い界におられる同志の方々がひっきりなしに訪れては向上の道へ励ましてくださいます。」
 
ーーー(ここで一つの疑問が浮かんだ。母たちの目にはその高級界からの霊の姿が見えるのだろうか。それとも我々人間と同じなのだろうか。ということである。断っておきたいのは、この霊界通信を読んで行かれるうちに読者は、私が明らかに口に出していない思念に対する答えが”イエス”あるいは”ノー”で始まって綴られているのを各所に発見されるはずである。その点をご諒承いただいて、特に必要がないかぎり、それが実際に口に出した質問なのか、それとも私の思念を読み取ったものかは断らないことにする。)
 
「はい、見えます。その方達が私達に姿を見せようと思われた時は見られます。しかし私達の発達の程度と、その方達の私達に対する力量次第です。」
 
ーーーでは、今住んでおられるところーー景色その他を説明していただけますか。
「完成された地上、といった感じです。でも、もちろん四次元の要素が幾分ありますから、うまく説明できないところがあります。丘もあれば小川もあり、美しい森もあり、家々もあります。それに、私達が地上から来た時のために前もって先輩たちがこしらえてくれているものもあります。今は代わって私達が、今しばらく地上の生存競争の中に生き続けなければならない人々のために、環境をこしらえたり整えたりしてあげております。こちらへ来られた時には万事がうまく整っており、歓迎の準備もできているというわけです。」
 
そして、最近目撃した興味深い光景シーンをお話しましょう。とありますが、かなり長いので、それはまた明日に記載することにします。

1285回目の瞑想 

 
「私達の住んでいる家からほど遠からぬ広い平地である儀式が執り行われると聞かされ,私達もそれに出席するようにとのことでした。儀式というのは、一人の霊が”偏見”と呼ばれる段階、つまり自分の特殊な考えと異なる人々へのひがみ根性からすっかり卒業して一段と広く充実した世界へと進んで行くことになったのを祝うものです。
大勢の人が続々とやってまいります。中には馬車で・・・なぜ躊躇するのですか。目撃したことを有りのままに述べているのです。ちゃんと馬に引かれております。御者のいう事がすぐに馬に通じるようです。と言うのは地上の御者のように手綱を持っていないのです。それでも御者の思う方向へ走っているようでした。歩いて来る人も空を飛んで来る人もいました。いえ、翼はついておりません。要らないのです。
皆さんが集まると円座が作られました。祝福を受ける霊が進み出ました。その方は明るいオレンジ色の長い礼服を着ておられます。地上では見かけない色です。こちらの世界の色はどれも地上では見られないものばかりです。ですが、地上の言葉を使うほかはありません。
指導者がその人の手を取って円座の中央の小高い芝生のところに位置させ、何やら祈りの言葉を述べられました。すると実に美しい光景が展開し始めました。
空の色ーー殆ど全体が青と金色ですーーが一段と強さが増しました。その中から1枚のベールのようなもの、小鳥や花を散りばめた美事なレースで出来たように見えるものが降りてきました。それがゆっくりと広がって二人を蔽おおうように被さり、二人がそのベールに融け込み、ベールもまた二人と一体となって、やがてその場からゆっくりと消えて行きました。二人ともそれまでとは各段の美しさ、永遠の美しさに輝いておりました。何しろ二人とも一段上の光明の世界へと向上して行ったのですから。
それから合唱が始まりました。楽器は見えないのですが、間違いなく器楽による演奏が聞こえ、それが私達の歌声と融合し一体となっておりました。それはそれは美しい光景でした。
それは、向上して行く二人にとってはそれまでの努力を祝福する餞別はなむけであり、見送る者、二人が辿った道をこれから辿らねばならない者にとっては、一層の努力を鼓舞するものでした。」
 
後で尋ねてみたらと言われて、聞こえてきた音楽について、円座の外側にある寺院の森から流れてきていたとのことで、一定の方向から聞こえて来るようには思えなかったと言われています。でもそれが霊の世界の音楽の特徴のようです。大気の一部となり切っているように感じられるとのことです。
 
「お二人には宝石まで付いておりました。蔽っていたベールが消えた時、祝福を受けて霊の額に金色と赤色の宝石が見えました。そして指導霊ーーこの方はすでに一つ付いておりましたがーーにも新にもう一つ左肩に付いており、それが大きさと明るさを一段と増しておりました。どういう過程でそうなるのか、私なりの推測をしておりますが、あなたに伝えるほどの確信はありません。それに、私達が理解していることを地上の言葉で伝えること自体が難しいのです。
儀式が終わると、みんなそれぞれの仕事に戻りました。実際の儀式は今述べたよりも長時間に渡るもので、参加した人達に深い感銘を与えました。
儀式の最中のことですが、私達が立っていた位置から丘越しに見える平地の向こう端に一個の光が輝いて見え、それが私達には人間の容姿をしているように見えました。今思うにそれは主イエスではなく、その儀式のためのエネルギーを供給し、目的を成就させるために来られた大天使のお一人であったようです。私より鮮明にそのお姿を拝した人もおられます。何故なら霊的進化の程度に応じて見え方も理解の程度も異なるものだからです。
ここであなたに考えてみて頂きたいのです。こうした話をあなた自身の頭から出たものだと思われますか、それとも、あなたを通してあなたの外部から来たものだと思われますか。あなたはまさかこうした話が綴られるとは予想しなかったはずです。予めその点に配慮して先入観を入れないように用心したのです。こうしてあなたと霊的つながりが出来たとたんに、今の話を綴られました。そうではありませんか。」
 
ーーーその通りです。その点は正直に認めます。
 
そして、お母様はお別れを告げますが、オーエン氏に理解できないある意味で常にあなたの側におります、と言われ、その別れの挨拶は、あなたの手を借りて書くという仕事と暫しお別れ、という意味なのだそうです。ではまた明日と言われて、その日は終わりにしたようです。

1286回目の瞑想

 
2 悲しみの館
「あなたとの間に始められたこうした通信が究極においてどういう影響を及ぼすかーーそのことを少し遠い先へ目をやって現在のご自分の心理状態の成り行きとの関連において考察してごらんなさい。私達霊界の者から見た時、これまでの事の成り行きが私達の目にどのように映っていたと思われますか。それはちょうど霧の海に太陽の光が射し込んだのと同じで、霧が次第に晴れ上がり、それまで隠されていた景色がはっきりと、そしてより美しくその姿を見せてまいります。
あなたの精神状態もいずれそうなると私達はみております。しばらくは真理という名の太陽に目がくらみ、真相が判るよりはむしろ当惑なさるでしょうけど、目指すものは光明であること、究極においては影を宿さぬ光だけの世界となることを悟られるでしょう。光は必ずしも有難がられるものとは定まっておりません。日光で生長するようにできていない種類の生物がいるのと同じです。そういう人はそれでよろしい。あなたはあなたの道を歩まれることです。進むにつれてより強い光、神の愛のより大きな美しさに慣れてくるでしょう。光を好まぬ者には、無限の叡知と融合したその光の強さは迷惑でしかないのでしょうけど・・・」
 
そして、また「神の御光そのものに輝くこの地域で見かけた楽しい光景をお伝えしましょう」と言われていますが、明日記載します。ただかなりの長文なので、2回に渡るかも知れません。

1287回目の瞑想

 
「私達は美しい森の多い土地を散策しておりました。その時に全てを聖なる静寂の中に吸い込んでしまうような音楽を感じ取ったのです。そしてその時です。前方に間違いなく上級界の天使と思われる神々しいお姿が目に入りました。その方は立ったまま笑みを浮かべて私達を見つめておられます。そのうち私達のうちの一人に特別のメッセージを持って来られたことを私は感じ取りました。そしてそれが他ならぬ私であることもすぐに判りました。私達が立ち止まって待っておりますとすぐに近くまでお出でになり、身に着けておられるマント風のものーー琥珀色でしたーーを片手で少し持ち上げて私の肩に掛け、手も肩に置き、さらに頬に私の髪を当ててーー私よりはるかに背の高い方でしたーー優しくこうおっしゃっいました。
『私はあなた方が信仰しておられる主イエス(※)の命を受けて参りました。主はすべてをお見通しです。あなたはまだ先のことがお判りでない。そこでこれからあなたがおやりになる仕事のための力をお授けしましょう。実はあなたはこちらでの新たな使命に携わる一人として選ばれております。もちろん、そちらのおられる仲間の方々とお会いになろうと思えばいつでも出来ますが、申し訳ないが暫くお別れ頂いて、これからあなたが新しく住まわれる場所と、やっていただかねばならない仕事の案内をさせて下さい』
(※他界後しばらく霊界の指導霊は当人の地上での信仰に応じた対応をするのが定石である。イエス・キリストの真実については第3巻で明かされる)
 
天使様がそう言い終わると仲間の者が私のまわりに集まって来て頬にキスしたり手を握ったりして祝福してくれました。みんな自分のことのように喜んでくれました。
 
ただ、この言い方ではぴったりとしていなくて、うれしさを十分に言い表していないと言われています。
そして、天使様が再びお母様に近付き、こんどはお母様の手を取ってどこかへ連れて行かれたとのことです。
 
話は変わりますが、明け方のことです。
おトイレに起きたその瞬間に霊界で音楽を聴いていたとはっきりと自覚できたのです。しばらくそのメロディーが頭に残っていました。そして、まだ聴いていたかったのに、後ろ髪を引かれる思いになりながら、仕方なく起きたということも感じたのです。その心地良い音色は弦楽器がメインでした。
ベールの彼方の生活で、何回か音楽について書かれていたので、聴いてみたいと思っていたからでしょうか。もしその影響だとしたら、実際に霊界で聴いていたと自覚できたことは、本当に嬉しいことですし、有難いことです。

1288回目の瞑想 

 
「しばらく歩いて行くうちに、フワッと両足が地面から離れ空中を飛び始めました。別に怖いとは思わず、私にはすでにそれだけの力が与えられていたわけです。数々の宮殿のような建物の見える高い山並みの上空を通過し、かなりの長旅の末にようやく降りました。そこは一度も来たことのない都市でした。
その都市を包む光は決して悪くはないのですが、私の目がその明るさに慣れていないために、まわりのことがよく判りませんでした。が、そのうち大きな建物を取り囲む庭の中にいることが判ってきました。玄関へ向けて階段状に長い道がついており、その一番上にテラスのようなものがあります。建物全体が各種の色彩ーーピンクと青と赤と黄ーーの一つの素材で出来ており、それ全体として黄金のような輝き、柔らかさをもった輝きを見せておりました。その昇り段を天使の方へ上がって行き、入口のところまで来ましたが、ドアは付いておりませんでした。そこで一人の美しい女性が迎えて下さいました。堂々としておられましたが決して尊大には見えません。」
 
その美しい女性は「悲しみの館」という場所 の主だそうです。このような場所で不似合いな言葉と思われるでしょうと言われ、実はこういうことなのです。とその館の内容を説明されています

1289回目の瞑想

 
   
「悲しみというのはここに住んでおられる方の悲しみではなく、世話を仰せつかっている人間の身の上のことです。悲しみに打ちひしがれている地上の人々のことです。この館に勤める人はそうしや地上の不幸な人々へ向けて霊波を送り、その悲しみを和らげてあげるのが仕事なのです。こちらでは物事の真相に迫り、その根源を知らなくてはなりません。それには大変奥の深い勉強が必要であり、少しずつ段階的に進んで行くほかありません。いま”霊波”という用語を用いたのも、それが真相をズバリ言い表した言葉であり、あなたにとっても一番理解しやすいと思うからです。
その女性はとても優しく私を迎えて中へ案内し、建物の一部を紹介して下さいました。」
 
紹介された内容は、地上とはまるで趣きが異なるものとのことで、説明するのが困難だと言われています。強いて言えばと、建物全体が生命で脈打っている感じで、私達の意志の生命力に反応しているようでした。と言われています。
確かに、このような説明をされても、頭で想像するものの、やはり実感として、実体があるように感じることは、なかなか難しいです。

1290回目の瞑想

 
「以来そこでの仕事が現段階での私の最も新しい仕事で、とても楽しいものになりそうです。でも私はまだ、地上から届いて感識される祈りと、耳に聞こえてくるーーと言うよりは、やはりこれも感識されると言った方がよいでしょうーー悶え苦しむ人々の嘆きがやっと判るようになり始めたばかりです。私達はそれを言わば感じ取り、それに対する回答をバイブレーションで送り返します。慣れれば無意識にできるようになるものですが、最初のうちは大変な努力が要ります。私にはとても大変なことです。でもその努力にも、携わる者にはそれなりの恵みがあるものです。
送り届けた慰めや援助などの効果は再びはね返って来るものなのですが、勉強していくうちに判ってきたのは、地上と接触を保っているこちらの地域でも、この送り届ける慰めとか援助のほかは私には何も知り得ない地域があるということです。今のところ私がその仕事に携わるのは一度にほんの僅かな間だけで、すぐにその都市や近郊の見学に出かけます。どこを見ても荘厳で、前にいたところよりもずっと美しいです。今ではかつての 仲間を訪ねに行く事ががあります。仕事も楽しいですが、それに劣らず語り合うのも楽しいものです。辺りは主イエス・キリストのもとにおける安らかさに包まれております。そこは暗闇のない世界です。あなたも、初めに述べた霧が晴れればこの土地を訪れることになるでしょう。その時は私が何もかも案内してさしあげますが、そのうち多分あなたも向上して、こんどはあなたの方が、あの天使様がして下さったように、私の手を取ってあなたの携わるお仕事を見せに案内して下さることになるでしょう。」
 
そして、お母様はオーエン氏がお母様自身のことを、ずいぶん意欲的だと思っているようだと言われ、でもそれが母親ならではの喜びなのだと言われています。また、オーエン氏の心の状態を見られて、すべてを真実と信じていることが判ると、そしてまた嬉しそうに明るく輝いて見えると言われて、母親である私も嬉しいことだと、人間的な一面を感じさせて下さっています。

1291回目の瞑想

 
3 バイブレーションの原理
「あなたは聖書の中に主イエスがペテロのことを自分への反逆者であるかの如く述べた部分のその真意を捉えかねている様子だから、今夜は、十分ではないかも知れないけど是非そのことを明らかにしてみたいと思います。ご存知の通り、その時イエスはエルサレムへ行く途中でした。そして弟子達に対し、自分はエルサレムで殺されるであろうと述べます。その時のイエスの真意は、自分が殺されることによって一見自分達の使命が失敗に終わったかの如く思われるかも知れないが、見る目をもつ者にはーー弟子達がそうであって欲しいとイエスは思ったことでしょうがーー自分の真の目的はそれまでの伝導の道よりもはるかに強力にして栄光ある発展のための口火を切ることであり、それが父なる神より授かった地上人類の霊的高揚のための自分の使命なのだということでした。
ペテロはそれが理解できないことを彼なりの態度で示しました。当然であり無理もないことです。が、このことに関していつも見落とされていることがあります。それはイエスは死を超越した真一文字の使命を遂行したのであり、磔刑はりつけはその使命の中における一つの出来事に過ぎない。それが生み出す悲しみは地上の人間が理解しているような”喜び”の対照としての悲しみではなく、むしろ喜びの一要素でもある。なぜならば、テコの原理と同じで、その悲しみをテコ台として正しく活用すれば災い転じて福となし、神の計画を推進することになるということでした。悲劇をただの不幸と受け止めることがいかに狭い了見であるかは、そうした悲しみの真の”価値”を理解して初めて判ることです。イエスは今まさに未曾有の悲劇を弟子達にもたらさんとしておりました。もし弟子達がその真意を理解してくれなければ、この世的なただの悲劇として終わり、弟子達に託す使命が成就されません。そこでイエスは言いましたーー「汝らの悲しもやがて喜びと変わらん」と。そして遂にそうなりました。もっともそれは悲しみの奥義を理解できるようになってからのことです。理解と言っても限られた程度のものでしたが、ある程度の理解は確かにできたのでした。」
 
今回の内容はイエス様のお話ではありますが、私達人間が愛する人を亡くした場合も同じなのではないかと読みながら思いました。もちろん、同じと言ってもイエス様のような高い霊恪ではないですから、お互いが死を超越するために、それぞれが自分の使命を遂行することになるのでしょう。私の場合ですと、息子が死をもってその使命を遂行したということになります。ただイエス様の磔は使命の中における一つの出来事なのだと言われており、このような事実を理解することは、人間にはなかなかできないことだと思います。そして、死を喜びに対する悲しみと捉えるのではなく、むしろ喜びの一要素とまで言われています。更に悲劇をただの不幸と受け止めるのはいかに狭い了見であるかは、そうした悲しみの真の”価値”を理解して初めて判ることだと言われています。確かにその通りだと思いました。そのとてつもない悲しみを経験したからこそ、初めて理解できることなのだと思うのです。そして理解することで、その悲しみを言われているテコの原理で正しく捉え、人間は霊であるということに、更には霊的真理を理解するための有難い体験だったのだと必ず思えるようになります。更にそれは神様のご計画を推進することになるとまで言われています。何と素晴らしいことなのでしょう。有難い気持ちでいっぱになりました。また最終的には自分にとっても、亡くなった息子にとっても真の喜びに繋がる喜びの一要素となるのだと思っています。もちろん、真の意味での悲しみの奥義を理解できたとは思っていませんが、最後に書かれているように、ある程度の理解はできたのではないかと、自負しております。

1292回目の瞑想

 
「こうして文章で綴ってしまえばずいぶん簡単なことのように感じられます。またある意味では現に単純なのです。神の摂理の基本的原理はすべて単純だからです。ですが私達、特に現在の私にとっては、あなたにも判然としないかも知れない重要性を秘めております。と言いますのは、今の私の生活の大半を過ごしている新しい建物の中での主な課題がそれと同じこと、つまり人間界の悲しみのバイブレーションを喜びを生み出すバイブレーションに転換することだからです。とても素敵な仕事です。ですが自由意志の尊厳がもたらすところの数々の制約がいろいろと面倒な問題を生み出します。いかなる人間であっても、その人の自由意志を無視することは許されないのです。当人の意志を尊重しつつ、当人にとって望ましくもあり同時に相応しい結果、少なくともまずまずと言える程度のものを授けなければなりません。時にはうんざりすることもあります。が、この仕事に携わることによって強くなるにつれて、そうした念も消えて行くことでしょう。
ところで今あなたが関心を抱いているものがあればおっしゃってみてください。
 
ーーーあなたの住んでおられる家と、新しく始められた仕事についてもう少し話してください。
 
では出来るだけ分かりやすくお話いたしましょう。
住居すまいは内側も外側も実に美しく設備が整えられております。浴室バスもあれば音楽室もあり、私達の意念を反映させていく上で補助的な役割をする道具もあります。ずいぶん広いものです。私は今”住居”と言いましたが、本当はひと続きの建物で、その一つ一つがある種の仕事を割り当てられていて、それが段階的に進んでいくように工夫されております。どの家からでも始めて次の建物へと進むことができます。でもこんな話は人間にはあまりに不思議すぎて理解することも信じることもできないでしょうから、もっと分かりやすいものをとりあげてみましょう。」
 
言われているように、私達人間にはなかなか理解することが困難なように思います。想像すらなかなか出来ませんよね。

1271回目の瞑想

 
「生命は本来は自由なのです。ところが地上では理解力の不足と判断の間違いから、何となく自由というものが存在しないかのような考えが行き渡っております。でも本当は自由なのです。
親は、他界後も地上の子供の面倒を見ようとするものです。この動機は、愛です。愛さえあれば、摂理に従って可能な限りの援助をいたします。霊界と物質界とは、皆さんが想像しておられる以上に緊密な関係にあるのです。物的な豊かさをもたらすこともできます。魔法のように金銭を呼び寄せるという意味ではありません。ビジネスの手段・方法について、最も効果的なアイディアを教えてあげます。霊的真理の理解に関連したことで指導できるように、商売や事業のことでも指導できるのです。ただし、それも厳しい霊的摂理の枠内でのみ許されていることです。」
 
ここで例を挙げられています。商売上のやり方で二つに意見が分かれている場合、霊界側は道義的に見てその二つのどちらが正しいかがよく分かるので、躊躇なく正しい方を選ぶように指導すると言われています。損得の計算はしないので、その結果として仮に損をした場合や痛手をこうむるような事態になった場合は、後で別の手段でその埋め合わせがあるようです。けれど、損得の計算にこだわって、いけないと知りつつ儲かる方向へ後押しした場合は、たとえ金銭的に豊かになったとしても、指導した霊界側、及びその誘いに乗った当事者双方が、後で大きな報いを受けることになるのだそうです。しかも、地上生活中に受けるとは限らないと、霊界へ来てから受けるかも知れないと言われ、絶対に免れることは出来ないと言われているのです。それはなぜか、自動的にそうなるからだそうです。
最後に、今地上にいる私達に向けて、いつかこちらへ来てそれを身を持って体験することになると言われています

1272回目の瞑想

 
「俗に”虫の知らせ”と言われている現象にはいろいろと俗説があるようですが、殆ど全てがテレパシー、すなわち、精神と精神との直接的感応の現象です。
いちばん多いのが、身内や友人の死の予感ですが、これもテレパシーです。そういうと死んだ本人は自分の死を予知していたわけではないのに・・・とおっしゃる方がいるかも知れません、確かにその通りで、突発事故で死んだのだから、その事故より何日も前に本人が何月何日に死ぬことがテレパシーで予知できるはずがない、というわけです。
説明しましょう。これには、事故死するB氏の背後霊団が関与しているのです。霊団はB氏の生活のパターンを細かく観察していて、このまま進むと死の危険に遭遇するというところまで予見します。そして、それを避けるための最大限の努力をします。それが功を奏する場合もありますが、因果律の働きの必然の結果まで変えることは、絶対に出来ません。運命は自分で築いていくのです。背後霊と言えども本人に代わって思い通りに細工を施すことは許されないのです。
B氏の場合、それが功を奏さずに、いよいよ死期が迫ったとします。その頃には霊団の必死の働きかけの波動がB氏の身辺に渦巻いております。本人は何も気付いていませんが、それを霊感の鋭い友人のA氏が感知します。ビジョンとして見ることもあり、夢として見ることもあります。その際、地上的な”距離”は何の障害にもなりません。」
 
更に予言で外れることに言及されて、その原因は、背後霊による必死の働きかけが功を奏し、回避できた場合が考えられると説明されています。なので、予感とか虫の知らせなどには、必ず霊界からの働きかけがあることを忘れてはいけないと言われています

1273回目の瞑想

 
「ブルーアイランドはあくまでも過渡的な世界です。新参者が霊的環境に馴染むことを目的として用意されたもので、準備が整うと、本格的な霊の世界、実在の世界へと進んで行きます。そこには、地上での生活期間など比較にならない永続的な生活が待っております。そこから、ブルーアイランドに戻ってくることは可能です。現に、多くの霊が、新しく霊界入りする知り合いや家族を迎えに降りてきて、案内したり面倒をみてあげたりしております。が、あくまでも一時的な訪問であり、そこにいつまでも滞在するようなことはありません。
こうした行ったり来たりの”場所の移動”は、地上とはまったく異なります。本格的な霊界へ移住は、地上からブルーアイランドに初めて来た時と同じように、大集団で行われました、顔ぶれは同じではありません。同行を許されない者も沢山いました。代わって、知らない人の方が大在いました。移動する時の感じは、来た時と同じく物凄いスピードで空中を飛行しているようでした。」

1274回目の瞑想 

 
「到着した場所の印象は、ブルーアイランドのあの鮮明な青々とした印象に比べると、取り立てて形容するほどのものではありませんでした。色彩にさほど目覚ましいものがなく、住民は一定のパターンにはまっているという感じでした。一見すると地上界に戻って来たような印象で、何となく私には当たり前と思えるような環境のように思えました。他の者に訊ねてみると、同じような返事でした。それもそのはずで、各自にとってそこが、地上時代に培った霊的成長と民族の資質に似合った場所なのでした。摂理の働きで自動的にそういうふうに収まるのです。
地上の人間すべてが、いつかは必ずこの界層に来るのです。そしてここでも、霊的成長のための学習と仕事を続ける一方で、残り少なくなった地上時代の習慣と考えを更に抑制し、あるいは棄てていく努力を続けます。生活形態そのものは地上時代と同じですが、対人関係は緊密度を増していきます。
家屋は地上と同じく自分の好みのものを所有し、気心の合った人達と、見晴らしのいい丘の上などに集まって生活しています。まるで宮殿のような豪華な家に住んでいる人もいます。興味深いのは、そういう人達は大抵地上でひどい貧乏暮らしをしていた人達であることです。そういう暮らしを夢見ていたわけです。死後のブルーアイランドでの調整期間に、進化を促進するには、そういう潜在的願望を満たしておくことが必要との判断がなされて、豪華で安楽な生活が許されたと考えればいいわけです。
しかし、その結果として、意図された通りの成果が見られないーー豪奢ごうしゃな生活に甘んじてしまって進化が促進されない場合は、豪邸は没収され、改めて別の調整手段が講じられます。一人一人にそれなりの手段が講じられます。それまでの生活を維持したければ、それなりの努力をするほかはありません、」
 
この様子に、本格的な霊界の場所と言われていますが、ちょっと違和感がありました。シルバー・バーチ霊は霊界について、地上にはない色彩や音楽があると言われていたからです。やはり、本格的な霊界と言っても、まだまだ地上に近い低い段階ということなのかも知れませんね。
ブルーアイランドよりも、少しだけ上の界ということなら、得心できます。やはり、簡単には素晴らしい霊界を満喫するわけには行かないということなのでしょうね。それがしごく当然だと思います。

1275回目の瞑想

 
「この界層まで来ると、食べること、飲むこと、寝ることへの願望はもう消えてしまっております。荒削りではあっても、物的なものから脱し切って、純粋な霊としての生活が始まりかけております。が、まだまだ錬成が必要です。そこで、この界層にも学問的と修養のための施設が用意されています。ありとあらゆる情報と知識が用意されています。向学心、ないしは向上心さえあれば、どの施設でも利用することが許されます。と言って、知識の詰め込みばかりをするわけではありません。生活のパターンは地上生活によく似ております。やはり”仕事”が中心です。ただ、身体的にも精神的にもはるかに自由で、行動範囲が拡大しています。地上でしか必要でない仕事、霊的自我の成長にとって何の足しにもならない仕事は、もう忘れ去られております。
それがどういう仕事であったとしても、今はもう関係ありません。階級差などは全くありません。かつて想像もしなかったほどの広大な視野が開けております。進歩を促進するのも妨げるのも、学問的知識と霊的知識をどれだけ獲得し、どこまで理解するかに掛かっております。
ここはまさに”自由の天地”です。幸福感と笑顔にあふれた世界です。人間と人間との真実の愛が生み出す幸福の世界です。その幸福の度合いは、地上時代の精神生活の中で培われているのです。それを具体的に説明してみましょう。
この本格的な霊の世界に定住するようになって間もなく、品性卑しからぬ指導霊によるインタビューを受けます。地上時代の言動の全記録を総点検しながら、その方と是非を論じ合います。理由と動機とその結果が分析されます。ごまかしは利きません。大きい出来事も、小さい内緒事も、すべてが映像として残っており、何一つ見逃されることはありません。行為に出たものだけではなく、心に宿したことも、ちゃんと残っております。
一人ずつインタビューされます。そして償うべきことーー思慮を欠いた判断、不親切な行為、人を傷つけた言葉など、直接の影響を及ぼしたことに対する裁断が下されます。」
 
具体的な説明の内容は驚きです。
地上時代の言動の全記録の総点検、その是非を指導霊と論じ合い、理由と動機とその結果が分析されると言われ、ごまかすことは絶対にできないとのこと。しかも大きな出来事から小さい秘密まですべてが映像として残っており、何一つ見逃されることはないと言われています。更に行為だけではなく、心に宿したことまでも、残っていると言われて、本当に驚きでした。今振り返ってみても、今までのことを全部思い出すことなど出来ません。なので、総点検の際には、穴があったら入りたい状態になってしまうようなことも言ったりやったり、しているかも知れませんよね。
せめて、今からでも、恥じをかかないような態度で生活していきたいと思った次第です。
 
訳者の方がこの裁断について書かれていますので、記載してみます。
「指導霊が一方的に下すのではなくて、本人が納得ずくでそれを認めるということで、裁判のような情景を浮かべてはならない。人に迷惑を掛けたものの中には、すでに地上時代に何らかの形で償われているものもあり、それが改めて問われることはないという。
太古にあっては、こうした事実が寓話の形で語られたが、その後、宗教または信仰が組織的に拡大し、政治の道具とされるようになると、”悪魔”や”閻魔”を創作し、恐怖心でもって信者を拘束するようになって行った。
このインタビューを現代風に表現すれば、長期の旅行に出るに先立って、人間ドックで健康を総合的に検査してもらって、治療すべきところを指摘してもらうようなものと考えればよいであろう。その治療法ないし矯正法は、このあと語られるように、誰かの背後霊となる場合もあるし、中にはもう一度生まれ変わるという手段を取ることになる場合もあるらしい。が、ステッドはそこまでは深い入りした話はしていない」

1276回目の瞑想

 
「裁断が下されたそのあと、そうした”過去の過ち”を償うための計画表が作成されます。それは当然のことながら地上界と密接につながっており、その償いにとって都合のよい、つまり効果的に償えるタイプの人生を歩む人間の背後霊の一人(指導霊)として影響力を行使することになります。決してラクな仕事ではありません。何しろ 当人の意識にあるのは、自分が犯した過去の過ちであり、それが魂の足枷となって向上を妨げているのです。しかし、それを首尾良く解消してしまうと、”晴れて”この自由の界層での定住が許されるわけです。
定住といっても、ここでの生活形態は各自の気質、個性、地上生活での体験の違いによって、千差万別です。実にさまざまなタイプの人間がいて、際立った対照を見せている場合があります。地上時代と同じ仕事ーー知的及び精神的タイプーーを続けている人も少なくありません。地上のように生きるための日々の糧を得るためにあくせくする必要がなく、ただひたすら、霊的な浄化と向上を目指しての生活に勤しむのです。ただし、気晴らしに地上時代の趣味をいじることはあります。地上時代の趣味やクセになってしまった興味は、霊性の進化にとって実害がない限りは何でも許されます。
家に閉じこもって何かを現況したり研究したりするわけではありません。生活に一定のプログラムが組まれていて、その中に適当にいくつかの空白の時間が設けられています。その時間を利用して、地上の有縁の人を伺ってみることもあります。単なる興味や情愛に動かされる場合もあれば、祈りの念を感じ取って援助に訪れる場合もあります。訪れてみると、精神的な悩みであることもあれば、病気や金銭上の悩みの場合もありますが、とにかく、われわれの許される範囲で精一杯の努力をいたします。」
 
最後に書かれている空白の時間が設けられているとの箇所を読みながら、もし、私がそのような状況下になれたなら、必ず、有縁の人だけでなく、困っている人の処へ行って、出来る限りの援助をして差し上げたいという思いがこみ上げてきていました。

1277回目の瞑想 

 
「死後の世界はいたって自然であり、納得のいくことばかりです。地上時代に培った愛情はそのまま残っております。純粋なものほど強烈さを失っておりません。家族愛も友情も変わっていません。もっとも、地上では金銭等の物的な利害が障害となって不愉快な関係になってしまうことがありますが、こちらへ来て、そうした物的な要素が消滅してしまうと、再び親密な関係を取り戻します。奥底にある愛は消えずに残っているのです。
死がもたらす変化の中でも最大のものは、視野の拡大とそれに伴う心の広さです。理解力が増し、洞察力が深まって、かつてのさまざまな難問や誤解が立ち所に解けてしまいます。そして、ブルーアイランドからこの実在界へと歩と勧めるとーーつまり地上生活にまつわる因縁を解消し、借金を払い終わると、本当の意味での自由の身となって、望み通りのことが許されます。が、この世界での目的はあくまでも向上進化です。それに悖もとるようなことをし始めると、たちまち自由が束縛されます。進歩を強要されるというのではありません。何をやってもいいのですが、地上時代の低俗な煩悩に動かされるようなことがあると、自動的に霊性が低下し、自由を束縛されるということです。高い世界にはそれなりの摂理があります。それを熟知し、それに則った生活を営まねばなりません。
行動はまったく自由であり、地上界へ戻ってみることもできます。動きの速さはまさに電光石火で、二つの場所に同時に存在するのと同じくらいに行動することができます。
この実在界では、いかなる存在との間にも親和力を感じます。地上で人間同志で感じる親近感よりはるかに親密です。その親和力がこの世界全体に光輝を生み出しています。地上のように光線となって放たれているのではありません。この世界の大気に相当する雰囲気そのものが、明るい活性力をもった生命力にあふれているのです。
ここでの生命活動は壮麗という形容がふさわしいでしょう。大胆になるといってもよいでしょう。幸福感に満ち溢れております。しかし、そうした恩恵に浴することができるのは、地上で分別あるまともな生活を送った人間に限られます。無分別な生活、自己中心の欲望に駆られた人生を送った者は、死後、困難と苦悶と悲哀とが待ち受けております。
げに、”蒔いたタネは自分で刈り取らねばならない”のです。」
 
このような実在界で暮らせるようになりたいものですね。
ただ、死後の世界について、知ることができれば、無分別な生活や自己中心の欲望に駆られた人生を送ることはなかったのかと思うと、一人でも多くの方々に、このような実在界があるということを教えてあげたいと強く思ってしまいました。

1278回目の瞑想

 
   
「あの悲劇的な海難事故で地上を去って以来、地上の時間にしてかなりの年数になりますが、その間、こうした形で絶え間なくかつての自分の生活の場、そして愛する者が今なお生活している地上界とのレイン宅をとり続けていても、もう一度地上へ再生して生活してみたいと思ったことは一度もありません。とくにブルーアイランドを卒業してこの実在界へ来てからはそうです。
ただ、今の私には地上時代にはなかった新しい視力がありますから、地上に残した縁のある人々のしていることを見ていて、その間違いが明確に見て取れます。そんな時には、今すぐにでも地上に生まれて出て 直接諭してやりたい気持ちに駆られることはあります。が、そういう場合を除けば、地上生活をもう一度味わってみたいと思うことは、先ずありません。それよりも、こちらでの見学や見物の旅、仕事、研究の方がよほど興味があります。それによって得た知識は、地上時代の知識とは比べものになりません。その中から皆さんにぜひ伝えたいと思うものを、こうしてお届けしているわけです。」
 
また、個人的な関係とは別に、国家としてのその後の発達や内外の動向にも、関心を抱き続けていると言われています。それは地上に縁の濃い人がいる限りは、愛国心というものは消えることはないとのことです。けれど、縁の濃い方々がいつかは地上を去って霊界へ行かれると、次第に自然に地上への関心が薄れて行くと言われ、またその分、死後の世界への関心が増すと言われています。そして、愛国心というものも、新しい他界者へ譲ることになり、そのように延々と受け継がれていくとのことです。

1279回目の瞑想

 
「ブルーアイランドに来てからの足跡をたどってみると、その間の自分の進歩にはまずまずの満足を覚えます。あのような事故でこちらへ来たことは、私にとって大変ショッキングなことでした。あの年(1912年)が明けた時、二ヶ月後に自分の死期が迫っているとは夢にも思いませんでした。また、そうなってもらっては困る時期でもありました。やりたいことが山ほどありしたから。ただ、その内のいくつかは、こちらへ来てからでも成就することが出来ましたし、今なお手掛けているものもあります。」
 
その後のブルーアイランドで、まず心がけたことは、新しい環境への適応だったそうで、何もかも新しく、動作も意志の伝達も、皆違うそうです。言語を使って話すことがほとんどないと言われ、言語よりもっと表現力に富んだ、直接的な方法があると言われています。それは精神と精神とが直接的に感応し合うのだそうです。ただ、言葉で話し合うことも可能だと言われています。その他にも、生活形態には勝手の違うことが沢山あると言われています。
 
「その中でもいちばん有難く思うことは、精神活動が物的な事情によって制約されることがないことです。地上では何らかの願望ーーお金が欲しい、仕事を成功させたい、楽しいことがしたい、もっと知りたい、等々ーーを心に宿しても、いざ実践しようとすると、いろいろと制約があって、思うに任せません。その点、こちらでは、理に適ったものであれば何でも存分に叶えられます。真理や知識を得たいと思えば、信じられないほど即座に手に入ります。しかし、それだけに動機が間違っていれば、その報いも即座に降りかかってきて、その償いをしなければならなくなります。こちらでは動機がすべてなのです。
あなたの今の霊性そのままが死後のあなたの姿と環境に反映します。死後にまとう霊的身体は、その地上生活の中でこしらえているのです。仕事の中身と思念の性質がこしらえるのです。
一見したところ、こちらの世界は地上界と実によく似ております。鉱物も植物も動物も、その他ありとあらゆる形の生命が存在します。人間が可愛がっている動物、飼い慣らした動物はもちろん、野生の動物もいます。が、野生のものは、それぞれの特定の生息地があって、そこに群がっております。」
 
このようなことから、霊界は地上界の写しのようなものだと思われる方がいるかも知れないと言われ、けれど実はその逆で、地上界がこちらの世界の写しなのだと言われています。
今回の内容は、シルバー・バーチ霊の言われていることと大いに符合しているように感じました。ただ、同じ霊界でもシルバー・バーチ霊のおられる界層とステッド氏のおられる界層とはだいぶ違うのだろうなということはわかります。簡単にはシルバー・バーチ霊のおられる界層には行けないのだと改めて感じた次第です。

1280回目の瞑想

 
「地上界は鍛錬を目的として設けられた世界です。物的な富を蓄えて贅をつくして満足するのも結構ですが、それだけで終わってはいけません。自分の本当の個性を見極め、自制しながら発達させることを怠ってはなりません。地上特有の楽しさと喜びを味わうのは結構ですが、それに溺れて自分を失ってはなりません。
譬え話をしましょう。今、海を見下ろす断崖絶壁に立っていると想像してください。星の降るような夜で、海には何艘もの船が岸につながれています。その船の灯りがチラチラと見えています。見上げると満天の星が見えます。
海の船との距離と、空の星との距離は比べものになりません。その船の灯りがあなた方人間で、崖から見下ろしているのが霊界の私達です。そのうち夜が明ければ、あなた方の目に私達の姿が見えるでしょう。その程度の距離でしかないのです。後に残した者のことを思い、何とか意志を通じさせようと必死になっている者もいれば、じっくり待つ覚悟を決めている者もいます。が、満点の星のように、私達の上にも果てしない霊の世界が拡がっているのです。その距離の何と遠いことでしょう。私達もまだ旅にでたばかりなのです。」

1281回目の瞑想

 
「地上での一生もそうでしたが、こちらへ来てからの生活も順調で、健全で、興味の尽きることがありません。
”霊”の話になると、とかく万能の魔力を秘めているかに想像されがちですが、”死”は私を少しも変えておりません。唯一の変化は、行動が比較にならないほど迅速になったことです。私は大いに若返りました。この事実だけは、時が経つにつれて、ますます明確になってまいります。
死後の世界の問題に関心をもつ人は、死後にも生命があると思っても、一体我々は何のために存在しているのか、究極の世界ではどうなるのか、といった疑問を抱くことでしょう。
これは実に厄介な問題です。なぜ厄介か、我々の理解力・洞察力に限界があるからです。霊的存在になった私達も、全知全能ではないということです。こちらへ来て、それがよく分かりました。」
 
それは地上にいる私達同様に、霊界の界層でも、心の姿勢がやがて赴く界層での境遇を決すると言われているのです。ということは、心の姿勢によって、次の段階の境遇が上昇するか下降するかは、その心次第ということのようです。
そこで、向上の一途を辿ったとしての過程のお話をしています。
「霊性が進化するほど、内部の霊的俗世ないしは資質がますます発揮されて、いわば自給自足の生活の範囲が広がります。そうして向上していくうちに、ブルーアイランドで体験したのと同じ体験、すなわち、過去を総合的に検討させられる段階に至ります。ブルーアイランドでは高級霊が付き添ってアドバイスをしてくれましたが、今度は更に高級な霊ーー神性を身につけた存在の立ち会いのもとに行われ、厳しい査定を受けます。その結果、もう一度地上に再生して苦難の体験をした方がよいとの判断が下されるかも知れませんし、まずまずの査定を受けて、更に向上の道を進むことが許されるかも知れません。生まれ変わりの手続きはこの段階に至って行われるのです。」
 
この段階に至る頃には、地上生活や前世の細かいことは忘れているのが普通だと言われています。またその段階に至るまでの期間については、一概に言えないとのことですが、ブルーアイランドを卒業し、実相の世界の生活を体験しながらそこに至るのは、地上生活よりも長いのが普通だそうで、界層が高まるほど、そこでの滞在期間は長くなるとのことです。
 
また訳者の方の再生についても記しておきます。
他界した後に通信を送ってきた霊に、フレデリック・マイヤース氏がいるとのことで、ステッド氏が言及している再生について、別の角度から同じ事を述べているとのことです。それは”類魂説”で、その類魂団を構成する霊の数は五十の場合もあれば百の場合もあり、それ以上の場合もあると。それらが次々と物質界(地球ばかりとは限らない)に誕生してその体験を持ち帰るのだそうです。死後しばらくの間(ブルーアイランドでの滞在期間)はその反省が主な課題となるが、その後更に向上していくにつれて類魂の存在に気付くようになり、しかも、他の類魂の地上その他での生活体験からも自分の成長を促進するものを摂取することができるようになるとのことで、それを可能にさせるものこそが”愛”であると言われていると書かれていました。

1260回目の瞑想

 
「さて、ここでしっかりと銘記していただきたいのは、精神とその産物、すなわち思念は、地上に存在するあらゆるものを始動させ創造していく原動力だということです。物的なものも、元はと言えば精神的なものに発しております。それはもう説明するまでもないでしょう。聳そびえ立つビルも、最初は思念として設計者の頭の中に存在を得ていたのです。
思念は、分類すればいろいろなタイプに分けることができるでしょう。昼の食事は何にしようかといった他愛ないものも、やはり思念の一つでしょう。が、価値あるものを生み出していく建設的な思念と、反対に害を及ぼす破壊的な思念とがあります。大切なのは後者です。ただし、食事だの、衣服だのといった純粋に個人的なものも、他愛ないものであっても、それが建設的な思念を妨げるほどになると、破壊的な性格を帯びるようになります。
地上生活でなめさせられる辛酸の大半は、自分自身の間違った思考が原因です。もちろん、生まれ落ちた境遇が一人一人異なることは私も百も承知の上でそう述べております。両親から不幸と不遇を引き継いで生きる人は、恵まれた条件のもとに生を享ける人よりも生活が辛く、楽しみが少ないに決まっています。しかし、そうした地位や生活条件の相違にお構いなく、思念の摂理は平等に働きます。どちらが有利とも言えないのです。それを分かり易く説明してみましょう。
生まれながらにして過酷な生活環境に育った人間は、物の考え方に一つの型ーーーレコード盤に刻まれた溝のようなものが出来上がっております。他人から物的援助を受けるようなことはあっても、そういう固定した物の考えを変えさせるような精神的援助は、まず期待できません。気の毒ではあっても、その人は生涯その不利な条件を引きずって生きなければなりません。
それは、別の角度から見れば、人生について全く無知ーーーそういう生き方以外の人生については何も知らずに終わります。過酷な生活環境を悪化させていきます。
では物的に恵まれた環境に生を享けた人間はどうかと言えば、物的な悩みや苦しみがないということが、やはり結果的には前者と同じ精神的退廃をもたらします。同じわだちの上をだらしなく歩き続けるだけで、精神は沈滞の一途を辿ります。かくして、両者とも死後の境遇を自らこしらえて行くのです。」
 
ただ、この両者については、その影響の及ぶ対象が自分自身だからまだしも救われると言われています。それが他人へ迷惑が及ぶ思念の使い方をすることになると、死後の報いはもっと深刻になるのだそうです。
明日はその例を記載します

1261回目の瞑想

 
「たとえば悪知恵のよく働くタイプの人間がいます。他人への迷惑などまるで考えずに、自分の利害を素早く計算して、事を推し進めます。こうしたタイプの人は、破壊的想念の中でも特に影響力の強い思念を出していることになります。思念の悪用の最たるものであり、こちらへ来てから支払わされる代償は、前者のタイプに比べて、はるかに重くなります。なぜならば、放射した貪欲な思念が強固な壁をこしらえており、それを自らの力で片づけなければならないからです。
いかなる種類のものであろうと、あなたが一度その心に宿し、そして放出したものは、精神世界に関する限り、すでに一つの既成事実となっております。つまりその考えに基づいて行動を起こす起こさないに関係なく、精神的にはあなたの一部を築いているということです。
湧いて消えて行く取り留めも無い雑念は別です。これは大して影響力はありません。私が言っているのは、あなたの個性が反映している明確な考えのことです。それは、一旦心に抱いたら、精神世界に関する限り実行したのと同じことであり、良いにつけ悪いにつけ、その報いをこちらへ来てから受けることなります。」
 
思念には実体があると言われていますが、今回の一度心に宿し、放出したものは、既成事実となってしまうということに、改めて心しないといけないのだと思います。けれど、何もかも 良心に照らし合わせてコントロールするのはかなり難しいことと思います。なので、すぐには無理だとしても、ステッド氏の言われたことを事実として受け止めることができ、少しずつでも良心に照らし合わせるという努力ができれば、その後の私達人間の精神活動に、これまでとは違った厳しい目を向けることができるようになるのではないでしょうか。ステッド氏はその精神活動こそ、大事だと言われています。 また、良心を欺いたことを自覚することは、他人に知られることよりも、更に辛いものだと言われ、良心の声に耳を傾けて欲しいと言われています

1262回目の瞑想

 
「私が初めて地上界との交信を試みた時のことを述べてみましょう。」と言われて、最初に話されたのは霊界通信の日付けについてです。地上の時間にしていつということを告げるのは、事実上不可能なことだと言われています。
そのことを次のように説明されています。
「地上の時間は何分・何時間・何日といった区切り方をします。が、それは時計の目盛りを規準にした表現であって、その他にも、生活上の習慣で判断していて、たとえば夜明けの明るさで、夏なら何時頃、冬なら何時頃といった見当がつきます。夕方も同じです。さらに疲れ具合とか空腹感によっても、大体の時刻は時計を見なくても見当がつきます。
こちらでは疲れるとかお腹が空くといったことがありません。日が暮れるという現象も生じません。いつも明るく、いつも元気で、はつらつとしています。従って地上の時間の区切り方でこちらの生活を区切ることは不可能なのです。各自それぞれに区切ることはしておりますが、地上の間隔とはまったく異なるのです。」
 
地上との違いに、とても興味が湧きます。母や息子もそのような暮らしをしているのだと思うと、何とも羨ましい限りです。
更に、交信の場所についても説明されています。
「私が交信を試みたのは、ブルーアイランドの建物の中でした。そこは一度父に案内されてから、よく通っていたところでした。地上時代から死後の存在を信じていた人も信じていなかった人も、地上に残した人との交信がしたくなるとそこを訪れるのですが、地上の人間と同じで、半信半疑な者もいれば、好奇心からくる者もいるようです。そういう人は自己満足しか得られません。成功のカギを握るのは魂の奥底からの欲求です。
私の順番が来て案内されたところは、簡素な部屋でした。地上の通信機関のように複雑な道具や器械があって、電気の配線のようなものが張りめぐらされているだろうと想像していたのですが、そんなものは一切なく、ただ人間的要素があるだけでした。
その部屋で、一人の男性からインタビューを受けました。責任ある地位の方であるのは分かりましたが、天使のような存在ではありません。対話は長い時間にわたり、その中で彼は、地上界との交信がどういう具合にして行われるかについて教えてくれました。」
 
そのお話には、その方が責任ある立場で、外交員のような役目をする組織ができているのだそうです。常に地上圏近くに滞在し、霊的通路として役立ちそうな人間やそれを望んでいる人間を探しいるとのことです。またそういう人間を探知する能力もあるのだそうです。そして、そういった人間のリストをこしらえて、その所在位置と能力の程度を調べ上げておき、新しく他界してきた人が交信を要望した時に対応されるようです。
そして、明日はいよいよ交信に成功した話を記載します。

1263回目の瞑想 

 
「私が初めてメッセージを伝達することに成功した時のことをお話してみしょう。」初めて成功したカゲには、いろいろな方法で交信を試みたそうですが、うまくいった時もあれば、まったく通じなかった時もあったようです。
「私には一人の案内人、その道の専門家が付き添ってくれました。案内された場所はモスリンで出来たように見える壁で囲まれた部屋でした。つまり部屋は部屋でも、我々にとっては在っても無きが如くで、透けて見えますし、何の抵抗もなく通過してしまいます。」
この何の抵抗もなく通過するということは、私も幽体離脱した時に経験があるので、実感しています。
「その部屋には二人ないし三人の人がいて、タイタニック号の沈没事故を恐ろしげに語り合っており、その犠牲者の霊が戻って来る可能性も話題にのぼっていたようです。その人達はそこで定期的に交霊会を催しているのでした。
交霊会が始まると私は、付き添いの人の指導でまず、思念を具象化して出席者の目に姿を見せることから始めました。そのためには私が生身でその人達の中央に立っている状態を想像し、さらにそれに照明が当てられたという観念を抱き、それをじっと維持しなくてはなりません。自分の容姿を細かく、じっくりと思い浮かべて、その映像が彼等の目の前に実在して、駆られがそれに気付くようにと、その念を私の精神に焼き付けるのです。やはり、最初は二、三度失敗しましたが、ついに成功しました。最も顔だけでした。ウィリアム・ステッドであることを知ってもらうために、まず顔だけを念じたのです。さらにメッセージを送ることにも成功しました。やり方はまったく同じです。出席者の中で一番霊感の鋭い人のすぐ側に立って、短い文章を思い浮かべ、それを強く念じることを繰り返すのです。その人の口から同じ言葉が発せられるのが聞こえました。その瞬間、うまく行ったと思いました。」
 
霊界側で、こんなにご苦労をされていることは、全く知りませんでした。だからこそ、簡単には行かないと言うことなのですよね。双方の真摯な思いと努力があってこそ、なのでしょう。
ただ、今回のこの成功は、出席者の中にステッド氏のご家族がいなかったからだと言われています。もしいらしたら、不成功に終わっていたと言われているのです。それは、ステッド氏ご自身よりも、ご家族の方達はその当時はまだ悲劇的な死の悲しみに暮れていて、その感情が邪魔をしていたと思われると言われています。それを見たらステッド氏も冷静ではいられなかったでしょう。けれど、今回はまったく冷静だったと言われています。それは自分の意志を地上の人間に直接的に伝えることができるものかを試してみるというお役目を感じていたからなのだと思います。

1264回目の瞑想

 
今回は思念の力について、とても大事なことを言われていますので、少し長くなりますが、記載しておこうと思います。
地上の人間にとっては、死後の存続の確実な証拠は、生前の姿をまとって出て来ることで、今回のステッド氏の通信のような精神的ないしは主観的な通信はどんなに説得力があるものでも、証拠としては受け入れ難いと言われています。そして、次のお言葉が、とても印象的で、最も大事なことなのだと思います。
「ほとんどの人が物質化現象にばかり関心がいって、本当はもっと真実味があり、外部の要素ーーー霊媒の意識・列席者の猜疑心や偏見等ーーーによる影響を受けることが少ない思念による交霊を軽視してしまいがちです。実は、この思念伝達という手段は、その可能性を信じている人が想像しているよりも、はるかに実感があるものなのです。」
このように言われています。更に詳細に書かれていますので、続けます。
「生前から親密な間柄だった者のことを強く念じると、その念は生き生きとして活力の在るエネルギーとなり、電波とまったく同じように宙を飛び、間違いなくその霊に届きます。たとえば地上のAという人物がBという他界した人物のことを念じたとしてます。するとBは瞬時にその念を感じ取ります。こちらへ来ると、感覚が地上時代よりもはるかに鋭敏になっておりますから、そちらから送られた思念は電流ならぬ思念流となって、直接的に感知され、そこに親密な連絡関係が出来上がります。
こちらへ来て間もない頃は何も出来ませんが、こちらの事情に慣れてくると、BはAにその回答のようなものを印象づけることが出来るようになります。AはそれをBからのものとは、まず思わないでしょう。たぶん自分の考えか、一種の妄想くらいにしか思わないでしょう。そういう形で届けられている情報は、実際は大変な量にのぼっています。霊の実在を信じている人だけに限りません。誰でも、どこにいても、意念を集中して地上時代に親交のあった人のことを念じると、必ずその霊に通じて、その場へやってきてくれます。人間の方は気付かないかも知れませんが、ちゃんと側に来てくれております。」
私達は亡くなった相手を想い、語りかけることは自然としているように思います。ですが、ここで書かれているように強く念じることで、思念伝達がここまでしっかりと相手に伝わっているとは、なかなか思えないものです。しかも、その回答というか返事のようなものは、すぐには返って来ないのですから、当然、相手から来たと思えないのも仕方ないように思います。ただ、今回、このように教えて頂けたことに、私は信じて強く念じて行こうと思っています。今までも、もちろん、強く思っていますし、母や息子がいろいろな形で示唆してくれていることも感じてはいましたが、自信はありませんでした。でもこれからは自信を持って感じたことは、母や息子、そして霊界の方々からの送られてきたものだと信じて行こう と思います。実際に今まで、信じられないくらいに護れていることを実感しています。それが何よりの証拠なのではないかとも思っているのです。
更にステッド氏はこう忠告されています。
「この事実から地上の皆さんにご忠告申し上げたいのは、そういう具合に 人間が心で念じたことは全て相手に通じておりますから、想念の持ち方に気を付けてほしいということです。その全てがこちらへ届き、善きにつけ悪しきにつけ影響を及ぼします。霊の方はその全ての影響をもろに受けるわけではありません。意図的に逃れることは出来ますが、逃れることが出来ない者がいます。それは他でもない、その想念を発した地上の本人です。想念は必ず本人に戻って来るものだからです。」
このことも亡くなった母からは常に聞かされていました。相手を憎んで怨みつらみに思えば、必ずそれは自分に戻ってくると。また、相手からそのように思われても、自分自身に憎む気持ちも怨みつらみもなければ、素通りして、その相手に戻るのだとも言われていたのです。なので、母の言っていたことは真実だったのだと今更ながら、確信した次第です。また「人を呪わば穴二つ」ということわざもありますよね。呪った相手と自分のために二つのお墓(穴)が必要になるということで、人を陥れようとすれば、自分も同じ目に遭うということですね。古くからこのような言い伝えもあるのですよね。
全ての想念が届くということについて、但し書きが必要とのことです。それは心をよぎった思いが全て届くわけではないとのこと。特に強く念じた思い、片時も頭から離れないもの、という意味だそうです。ただ、摂理の観点からは、心に宿した大きいことも小さいことも、それなりの反応はあるはずだと言われています。けれど、影響力を考えた場合、怨みに思うことがあったとしても、それが抑え難い大きなものに増幅しない限りは、大して重大な影響は及ぼさないようです。更に、そういう前提があるにしても、心に宿した想念が何かの形で他に影響を及ぼし、最終的に自分に戻って来るという話は、信じ難いことではありますが、事実だと言われています。そして、これは同じ影響を人間同士でも受け合っていると言われています。相手がひどく落ち込んでいる場合やまや反対に嬉しいことがあって興奮気味の場合などは同じ気分に引き込まれると。
「想念そのものは、それを発した人の精神に強く印象づけられていて、表面上の意識では忘れていても、事実上、末永く残って影響を及ぼしているのです。」とのことです。
「死んでこのブルーアイランドに来ると、その全記録を点検させられます。自分自身の霊的自我が行うのです。霊的自我はそうした思念的体験を細大漏らさず鮮明に思い出すものです。そして、その思念に質に応じて、無念に思ったり、嬉しく思ったり、絶望的になったり、満足したりするのです。
その内容次第で、もう一度地上へ戻って、無分別な心と行為が引き起こした罪を、大きい小さいに拘わらず、全てを償いたいという気持ちになるのも、その時です。」
この内容は、思念の持ち方が如何に重要であるかを言われているのだと思います。今私達がこの地上にいるということは、やはり、全記録を点検し、思念的体験での何かしらの思いがあるからこそなのだと思います。理由はどうあろうと、地上にいるということが、やり直さなければならない何かがあったからです。このことを肝に銘じ、思念には実体があるということに、心してこれからの人生を生きなければいけないと思います

1265回目の瞑想

 
昨日書いた思念的体験がこの地上生活では一番肝要であり、意義ある人生を送るための最高の叡知だと言われています。だからこそ、地上生活において精神を整え悪感情を抑制することが大事だと忠告されているのです。ただ、人間は厄介なことに、地上にいる間はそのことを悟らないと、内心ではそうに違いないと思っても、それが現実の生活に生かされていないと言われています。そして
「皆さんの一人一人が発電所であると思ってください。他人にかける迷惑、善意の行為、死後の後悔のタネとなる行い・・・どれもこれも自分自身から出ています。そうした行為と想念のすべてが総合されて、死後に置かれる環境をこしらえつつあるのです。寸分の誤差もありません。高等な思念(良心)に忠実に従ったか、低級な悪想念に流されたか、肉体的欲望に負けたか、そうしたものが総合されて、自然の摂理が判決を下すのです。
地上時代のあなたは、肉体と精神と霊(自我)の三つの要素から成ります。死はその内の肉体を滅ぼしますから、霊界では精神と霊だけになります。ですから、地上時代から精神を主体とした生活を心がけておくことが大切なわけです。
むろん、常に選択の自由は残されていますから、やりたいことを好き放題やって、借りは死後に精算するよ、とおっしゃるなら、それはそれで結構です。今まで通りの生活をお続けになるがよろしい。しかし、一旦こちらへ来たら、もうそれ以上は待ってくれません。このブルーアイランドできれいに精算しなくてはなりません。」
 
訳者の方の書かれている内容も記載しておきます。
「実際には霊的身体、つまり精神と霊の活動の媒体はいくつかあり、肉体と異なるのは一定した形態がなく、意念の作用でいかようにも変形する性質がある。
肉体が食欲と性欲を基本的本能としているように、幽体は情緒を、霊体は知性を、本体は叡知を基本的本能としている。地上生活ではその全てが脳を通して意識されるが、肉体が滅んだあとは幽体を通して発揮される。その界層を幽界と呼ぶ。幽体が昇華されるにつれて意識の中枢が霊体へと移り、霊界で生活するようになる。さらにその上には本体を使って生活する神界がある。しかし、その生活形態が人間に理解できるのは幽界までで、それ以上になると言語による説明が不可能となるらしい。
媒体については、一人一人の霊性の発達程度に応じた形態をしているらしい。
各種の霊界通信が一致して述べているのは、人間にとって当たり前に思える地上生活の方が、死後の世界から見ると一番不思議で奇妙に思えるということである。この種のテーマを理解する際に大切なのは、現在の自分の存在とその生活形態を当たり前と思う固定観念をまず棄て去ることである。」とのことです

1266回目の瞑想 

 
「神は地球を、人間の楽しめる魅力ある環境にしてくださいました。が、それは、人間をわざと悪の道に誘っておいて、後で懲らしめるようという魂胆からではありません。いかなる人間でも等しく満喫できるように、豊富な美と、それを味わう機能を与えてくださっています。精神が肉体をコントロールしている限りは、美は美であり続けます。肉体の欲望が先行し、精神が堕落し始めると、厄介なことが待ち受けるようになります。苦しみと後悔が山積みにされて待っております。
精神の動きはこちらへ来ても同じです。同じ原理に働きます。思考力は肉体のあるなしには関係ありません。ですから、そのうち地上に残した愛する人達との精神的なつながりをもち、そして大きく影響を及ぼすようになるのは、さして難しいことではありません。もっとも、地上の当人はそうとは気付かないことが多いのですが・・・
この事実のもつ意味をよくお考えいただきたい。他界した家族や知人・友人が貴方の元に訪れることがあるということ、思念こそ実質的な影響をもっているということ、霊との関係はもとより、同じ地上の人間との関係でも、それをうまく結びつけるのも、ぶち壊してしまうのも、呼び寄せるのも、あるいは追い払ってしまうのも、この思念の力であるということです。
霊界と地上の二つの世界を結ぶのは、思念です。が、それには規律と鍛錬が必要です。頭に閃いたものが全て霊の世界から届けられたと思ってはいけませんが、同時に、スポーツマンが身体を鍛えるように精神を鍛えれば、いざという時には、霊界からも地上界からも、大いになる叡知と援助を祈り求め、そして受けることができるのです。」
 
私はこの内容に本当に感動しました。すべては思念、それに尽きるのだと思います。ただ、それには規律と鍛錬が必要だと言われています。精神の鍛え方について、もっと詳細に教えて頂ければと思いました。
ただ、何度も書いていますが、霊界側に護って頂いていることは実感しているので、今の状態を更に向上させて行くべく,精進して行きたいと強く思った次第です

1267回目の瞑想

 
   
「死後の世界の実在という、これほどの重要性と興味に満ちたテーマには、真偽を確かめたいと思われることが、山ほどあることでしょう。その中でもよく問題にされる点についてお答えしたいと思います。地上時代にも多くの質問を受けましたが、こうしてベールのこちら側に来てみて、自信をもってお答えすることが出来ます。
まず第一に断言できることは、死の過程を経ることによって、すぐに神の一部となるわけではないということです。霊の世界へ来たことを歓迎して生命の秘密の全てを明かしてもらえるわけではありません。誰一人として宇宙に関する全知識を細大漏らさず授かるわけではありません。
一人ひとりが自分の努力によって一つ一つの真理を手にしていくという、一歩ずつ進むしかないのです。しかし同時に、私の方が皆さんよりは真理の始原に一歩近付いたことによって、はるかに多くのことを知ることが出来たこと、そして、皆さんにはまだ体験出来ないことを体験していることは事実です。
最初に取り上げたいのは、”環境条件”コンディションという用語と、その本当の意味です。いろんな種類の心霊現象に関連して、いい現象を得るための主要因は、何よりも大切な要素は、部屋そのものではなくて、列席者の精神状態です。列席者が素直さにおいて一体となること、そして身体的にも健康であることです。心の姿勢が何よりも大切です。
我々霊界の側にも、要求したい条件があるのです。これほど大切な仕事が未経験の人達によって、そう簡単に思う通りに操られるわけはないでしょう。勝手な要求を出されても、応じるわけにはいかないのです。地上の生命活動には、何事にも条件というものがあります。地上の学者が勝手に要求する条件には、無意味なもの、あるいは、むしろ有害なものすらあります。」
 
訳者の方が、要求したい条件に関してのシルバー・バーチ霊のお言葉を書かれていますので、記載しておきます。
「あなた方を愛し、またあなた方を愛してくれた人々は、死後もあなた方を見捨てることはありません。言わば愛情の届く距離を半径とした円の範囲内で、常に見守っております。時には近くもなり、時には遠くもなりましょう。が、決して去ってしまうことはありません。その人達の念があなた方を動かしています。必要な時には強力に作用することもありますが、反対にあなた方が恐怖感や悩み、心配の念などで壁をこしらえてしまい、外部から近づけなくしていることがあります。悲しみに涙を流せば、その涙が霊たちを遠ざけてしまいます。穏やかな心、安らかな気持ち、希望と信念に満ちた明るい雰囲気に包まれている時は、そこにきっと多くの霊が集まっております。
私達霊界の者は、できるだけ人間との接触を求めて近付こうとするのですが、どれだけ接近できるかは、その人間の雰囲気、成長の度合い、進化の程度にかかっています。霊的なものにまったく反応しない人間とは接触できません。霊的自覚、悟り、霊的活気のある人とはすぐに接触が取れ、一体関係が保てます。スピリチュアリズムを知っているか否かは関係ありません。霊的なことが理解できる人であれば、それでいいのです。とにかく冷静で受容的な心を保つことです。取越苦労、悩み、心配の念がいちばんいけません。そうしたものがモヤをこしらえて、私達を近づけなくしてしまうのです」

1268回目の瞑想

 
「理性に逆らって物事を推し進めても、成功は得られません。ところが、現実にはすいぶん無理な要求をしておられます。だから失敗が多いのです。まるでフィルムを入れずに写真を撮ろうとするようなもので、撮れるはずがないのに、写っていないと言って、心霊現象の全てを詐術だと決めつけます。
何事にも条件というものがあります。背後霊がなにかをさせようとして、あるいはさせまいとして、いろいろと工面したのに、ついに思うようにならなかったりするのも、必要な条件が欠けているからです。
例えば霊界の父親が地上の息子のやりかけている行為ーー自殺どか殺人ーーに気付いて、それを阻止しようとします。もしも実行に移したらとんでもないことになるので、父親は必死になってその思念を打ち砕こうとします。しかし、そんな時の息子の精神状態は、もはや異常です。いくら父親でも、そういう条件下では救うことができなのです。
次に、こちらでの生活行動はどうなのかという疑問についてお答えしましょう。
行動は自由自在です。肉体のような束縛は何一つなく、完全に自由です。さらに私の場合は、準備コースを卒業しましたので、どこへでも自由に行けるようになりました。地上時代に家族関係だった者のいる所、知人や友人だった者のいる所、そういう地上的な縁の人は誰一人いない所など、どこへでも出向いて、教えを受けたり教えてあげたりすることが出来るようになりました。ただし、まだブルーアイランドでの話です。まだ次の界層に定住するところまでは進化しておりません。
どんな地域にでも自由にいけますから、地上界とも絶えず連絡を取っております。地上界の人が私の事を思ってくれると、その念が届きます。誰から送られたものかがすぐに分かりますから、必要とあればその人のもとを訪れてみることもあります。もっとも、誰からのものでも届くというわけではありません。たまたま私の書物を読んだとか、私のことが話題になったからといって、それが全部私に伝わるわけではありません。やはり地上時代に縁のあった人に限られます。そういう人の念は、まるで電話で聞くように、よく分かります。
こういう具合にして、私達は地上の人達を援助することができます。いかに親密な間柄であっても、その時の条件次第で不可能なことがあります。地上でも、アドバイスを与えることは出来ても無理強いはできないように、こちらでも、影響力を行使できるとはいっても、思いのままにできるわけではありません。
こちら来てしまえば、もう、別離というものはありません。自分より上の階層の人とも、同等の人とも、下の下層の人とも、あるいは今なお地上にいる人とも、別れ別れになってしまうことはあり得ないのです。親和力と愛情のあるところに、別離とか断絶などという事態は生じません。
肉体の死によってこちらへ来ると、地上の遺族は当然のことながら嘆き悲しみます。そのうちーー長い短いの差はあってもーー他界者についての記憶が薄らいでいきます。次第に思い出すことが少なくなり、脳裏から消えていきます。しかし、その人達もやがてこちらへ来ます。すると、記憶を奥へ押しやっていた俗世的な雑念が取り払われるにつれて、かつての古い愛情の絆の存在に気付きます。昔のまま無傷で残っている場合もあれば、汚されている場合もあります。しかし、致命的な損傷を受けていることはありません。」

1269回目の瞑想

 
「こちらへ来てから、地上の遺族への未練が強すぎると、かえって寂しい思いをさせられることがあります。というのは、遺族達はまさか故人が死後も生き続けているとは思わず、この宇宙から消えてしまったものと考えています。ところが、故人の目には地上生活の様子が見えますから、足繁く帰っては、何とかして自分の存在を知らせようとします。が、遺族達は知らん顔しています。そのことが故人にとっては寂しさと悲しみを増す結果となり、次第に遺族への関心が薄れていき、遺族が死んでこちらへ来るまで待つしかないと考えるに至ります。
地上でも互いにあまり関心のない者同士はお付き合いはしないものです。話し合っても退屈したり気疲れするような人は、次第に敬遠するようになります。こちら来ると、それがごく自然な形でそうなるのです。各自が発する波動が相手を選別するのです。それを支配する最大の力は”愛”です。夫婦愛・親子愛・兄弟愛・友愛ーーーそれが本物であれば、互いに引き合い引かれ合って、幸福感を覚えます。片方が、あるいは双方が愛を失えば、互いに接触の機会がなくなります。
愛の絆によって、同じ波動をもつ人達のところへ落ち着きます。が、地上時代に愛の絆があったからといって、必ずしも霊界へそれが持ち越されるとは限りません。初めのうちは会う機会を与えられるかも知れませんが、愛の力の強さが偏りすぎている時は、次第に引かれ合うことが少なくなり、やがて断絶が生じます。」

1270回目の瞑想

 
「初めてこのブルーアイランドに到着した時のこと、その新しい環境から受けた第一印象、そして地上への最初の帰還・・・ そういったことについて話すことによって、死後は大体こうなっているという図式のようなものを示したつもりです。それは決して私だけの個人的体験ではなく、すべての人類に当てはまることでして、そこに差別や区別は一切ありません。一つの摂理が全人類を支配しているのです。こちらの世界も、すべて摂理によって秩序が保たれているのです。
もう一歩進んだ界層、地上的感覚から殆ど脱しきった段階の世界のことについて語ってみましょう。
一旦地上的感覚から脱しきってしまうと、殆ど意のままにと言ってもよいくらいに、現在所属している界層とのつながりを断つことなく、どの界層にでも行けますし、地上界へ戻ることもできます。地上の人間の指導をしながらこちらの生活も維持するわけですが、そのことによって自分本来の仕事や個性の発達が阻害されることはありません。こちらでは個性の研究と確立が何よりも優先されるのです。
ブルーアイランドで学ぶことは、誰しも同じですが、自我と生命の神秘です。お蔭で神による創造の御業の途方もない大きさを認識することができました。地上時代の性向や性癖が消えて行くにつれて興味の対象が変わっていき、存在の実相について知りたいという欲求が湧いてきます。誰もがその過程をたどります。そして学べば学ぶほど、さらに多くを学ぶ能力が伸びるのです。」

1249回目の瞑想

 
「この書にふさわしい結末として、聖アウグスティヌスの霊からの次のメッセージを、付け加えておこう ーーーこれを読む者すべての胸に刻むに値いする、次の助言を。
『永い間、人は、平和と愛である神の名において、互いの間を引き裂き、互いに呪い合って来た。神をこのように人は冒瀆してきたのであった。心霊主義は、最終的には、何が真理であり何が誤りであるかを示して、人減の間に統一の絆をつくり上げるだろう。だが、依然として、なお長い期間に渡り、これに反対する学者やパリサイ人が存在するだろう。彼等がキリストを拒絶したように。世界を幾つにも分けている宗派・学派・分派、これらに影響を及ぼしている霊の本質を、皆さんはご存知か?これらの霊を、その党派の行為、その主張する原理によって見分けなさい。善霊は決して、悪行の遂行をけしかけたりはしなかった。殺人や暴力を勧めたり許したりはしなかった。決して、党派間の憎悪、金や名誉への渇望、地上の物に対する貪欲、これらに心躍らすことはなかった。すべての人に対して、親切で、慈悲深く、情けある者のみが、高級霊達によって友と見なされる。これらの者のみがイエスによって友と見なされる、何となれば、彼等のみが、イエスが自ら通じる唯一の道と、人々に教えたその道に従う者達であるから』
 
これを持ちまして、長い「霊の書」の上下巻が終わりになります。
長い間、読んで頂いて、誠に有難うございました。
次回からは、今まで難しい内容でしたので、少し分かりやすいものをお届けしようと思っております。
引き続き、読んで頂けたら嬉しいです。 よろしくお願いします

1250回目の瞑想

 
早いもので8月に入りました。
今日から新しく「ブルーアイランド」という本を抜粋して行こうと思っています。
ご存知の方もいらっしゃるとは思いますが、霊的な入門書のような内容ですので、再度お読み頂けたらと思います。
この本は、1912年4月15日に、不沈とのうたい文句に建造された英国の豪華客船”タイタニック号”の犠牲となったスピリチュアリズムの勃興期に活躍したジャーナリストであり、自らも貴重な自動書記通信を残した霊能者でもあったウィリアム・ステッド氏からの霊界通信なのです。
娘さんである、エステル・ステッド嬢が、お父様からの通信が届けられるまでの経緯も書かれているので、まずはその内容から抜粋して、ご紹介したいと思います。
その頃、私はシェークスピア劇団を引き連れて公演旅行に出ている最中で、父・ウィリアム・ステッドがタイタニック号の犠牲者の中に入っていたのです。
団員の一人にウッドマンという、霊感の鋭い男性がいて、その悲劇的な事故の起きる少し前に彼がその事故とおぼしきことを口にしていたのです。船の名前も父の名前も言いませんでしたが、犠牲者の中に私と非常に近しい年輩の男性がいる、と述べていました。 時間的にみて、その事故が起きたのはその後のことでしたから、ウッドマン氏はこれから起きる出来事を予知していたことになるわけです。
そのことを殊更紹介するのは、父の霊とウッドマン氏との繋がりは、既にその時点から始まっており、本書に収められたメッセージを父が届けることができたのも、他ならぬウッドマン氏の霊的能力(自動書記)のお陰であり、そうしたいきさつは読者の皆さんにとっても興味深いことであろうと考えるからです。
大惨事が起きてから二週間後のことです。多才な霊媒として有名なE・リート女史による交霊会において、父が顔だけを物質化して出現するのを見ました。そして語る声も聞きました。その声は、タイタニック号に乗船する直前に私に別れを告げた時の声と同じように、はっきりとしておりました。その日から、10年後の今日まで、私は父と絶えず連絡を取り合っております。タイタニック号と共に肉体を失って霊界入りした10年前よりも、むしろ現在の方が心の繋がりは強くなっております。もちろん、死の直後は、その姿が見えなくなったということだけで大きな悲しみを覚えておりましたが、その後は別離の情は カケラも感じなくなっております。
父は生前、ウッドマン氏とは一度しか会ったことがありません。父がタイタニック号で英国を発つ少し前にウッドマン氏を紹介した時で、二言、三言、言葉を交わしただけでした。従ってウッドマン氏は、父のことを個人的には何も知りませんし、ましてや、父の著作や評論活動に関与したことは、まるでありません。にも関わらず、ウッドマン氏が受け取ったメッセージの文体や用語が父のそれにそっくなのです。
父が、本書に収められた通信を送りたいという意思表示をしてきたのは、1921年のメッセージが送られたきてから間もなくのことでした。
願わくば、死後はどうなるかについて、従来のただの信仰とは異なる現実味あるものに目覚められ、自らの手で更に確固たる証拠を求める努力をなさるようになって頂ければ、本書に関わった3人、即ち父とウッドマン氏と私にとって、それにまさる満足はございません。
                         1922年9月
ステッド氏が他界して8年が経った後に、霊界側から伝えてきた霊界通信だそうです。その方法は前出したように、娘さんのエステル嬢の友人で自動書記能力のあるバードゥ・ウッドマン氏が、ステッド氏の死の瞬間やその後辿り着いた世界について詳細にメッセージとして受け取ったとのことです。そして、父からの霊界通信をエステル嬢は「ブルーアイランド(The Blue Island)」と題して出版したのです。それは死の直後に辿り着いた世界を「ブルーアイランド」呼んだためだそうです。
かなり、短めの抜粋となりましたが、多少なりとも経緯はお分かりになったのではないでしょうか。次回は、ウィリアム氏ご自身の「まえがき」があるので、これも短めの抜粋でご紹介したいと思います

1251回目の瞑想

 
[まえがき] 
これから私がお届けするものに興味をもってくださる方は多いことでしょうが、更に多くの方にとっては、何の意味もなさないかも知れません。
読むに値するメッセージーーー神がその無限なる愛によって、私をその通路となることをお許しになった言葉であることを直観なさるはずです。本書は、生命の神秘に関する私の考えを述べたものではありません。私が説明したものにすぎません。
全体としてキリスト教的色彩は免れないと思います。が、その解釈は、一般に受け入れられている伝統的キリスト教とは異なります。例えばキリスト教では罪を悔いてイエスへの忠誠を誓えば、死後直ちに天国へ召されると説きますが、これはとんでもない間違いです。
”死”は一つの部屋から別の部屋へ移る通路にすぎません。二つの部屋は装飾も家具の配置も非常によく似通っております。そこが大事な点で、皆さんにぜひ理解して頂きたいことです。この世もあの世も、同じ神の支配下にあるのです。同じ神が全階層を経綸しておられるのです。
第一章はやはり、肉体を離れてこちらへ到着する時の様子から始めることになるでしょう。これが精神的な救いになる方も、少数ながらいらっしゃるでしょう。この企画に関与する者達(※)が意図している目標は、実はその少数の人達なのです。興味をもたれる方も無関心な方も、共に今なお地上に存在する身の上であり、それ相当の義務を背負っているということです。日々の生活があり、為すべき仕事があります。死後の世界がいくら明るく美しいからといって、現実の生活を疎かにしてはなりません。心の片隅に明日の楽しみを宿しながら今日を生きるというのが、正しい生き方でしょう。
(※)この言い方から判断して、やはり相当数から成る霊団が結成されいたものと察せられる。ステッドがその中心的支配霊だったのであろうーー訳者
次回から、本題に入ります。

1252回目の瞑想 

 
「地上時代に得た霊的知識が重要な点において100%正確であることを知って、驚き、かつ感動しました。そうと知った時の満足はまた各別でした。学んでいた通りなので、驚きと喜びを同時に感じたものでした。」と言われています。ただ、絶対的な確信はあったものの、地上時代には多少の不安があったようです。それは、もしかしたら霊の世界には地上と全く異なる存在原理があり、地上へ届けられる霊界の事情は、人間に理解出来るように表現されているのであって、あるがままを正確に叙述したものではないのではないかという推察をしていたからと言われています。けれど、現実は地上とそっくりだったことに安堵され、感動し、心から満足されたようです。
ただ、死の瞬間は、大変な混乱状態だったそうで、その死の瞬間のことは述べる気にはなれないと言われています。けれど「私が驚いたのは、あの混乱状態の中にありながら、他の溺死者の霊を私が救出する側の一人であったのです。」とのことで、海中で死を迎えた多くの人の霊体が肉体から抜け出て、海面から垂直に上昇していくのが見えたようです。そのように肉体から離れていく人達を霊界に案内する役目を果たされていたようです。やがて、他界した筈の知人、友人が迎えてくれて、自分が死んだことに気付いたとのことです。「死後の様子が地上で学んでいた通りであることを知って、何とも言えない嬉しい気持ちになりました。ジャーナリストの癖で、一瞬、今ここに電話があれば!と、どんなに思ったことでしょう。その日の夕刊に特集記事を送ってやりたい気分でした」以上が、他界直後の意識的反応だと言われています。けれど、やはり、地上の家族のことが気になり始め、自分がこうして無事に生き続けているのに、そのことを知らせる電話が故障して使いものにならないような、そんなじれったさでいっぱいの状態に似た思いだったと言われています。
「事故はほんの数分間の出来事でした。あっという間に大変な数(1500余名)の乗客が海に投げ出されて溺死し、波間に漂っておりました。が、その死体から抜け出た霊が次々と宙空へと引き上げられていったのです。生きているのです。中にはすこぶる元気なのもいました。死んだことに気付きながらも、貴重品が惜しくて手に取ろうとするのに、どうしても摑めなくて、癇癪を起こしている者もいました。タイタニック号が氷山と激突した時のシーンはあまりいいものではありませんでしたが、否応なしに肉体から救い出されて戸惑う霊たちの気の毒なシーンは、その比ではありませんでした。胸が締め付けられる思いのする、見るに忍びない光景でした。その霊達がすべて救出されて一つの場所に集められ、用意万端が整ったところで、新しい土地(ブルーアイランド)へ向けて、その場全体が動き出したのです。」
 
タイタニック号が沈没し始めると、船内は悲鳴と絶叫で大パニックとなり、数に限りのある救命ボートに女性や子供の救出が優先されましたが、この時、ステッド氏は率先して救命活動を行い、自分が身に着けていたライフジャケットを他の人に与えたそうです。タイタニック号が沈んで行く中、従軍経験のあるフィリップ・モック氏(31歳)という米国人が、海中にいるステッド氏を発見し、引き上げたのですが、既に亡くなっていたとのことです。モック氏は妹のエマ嬢と共に乗船していたそうですが、二人とも救助されたとのことです。

1253回目の瞑想

 
 
ブルーアイランドへは、上空へ向けて垂直に、物凄いスピードで上昇して行くようです。強烈なスピードで引き上げられて行くのに、少しも不安な気持ちがしなかったと言われています。
「その旅がどのくらいかかったか、又、地球からどれくらいの距離まで飛んだのかはわかりません。が、到着した時の気分の素敵だったこと!鬱陶しい空模様の国から、明るく澄み切った空の国へ来たみたいでした。全てが明るく、全て美しいのです。近づきつつある時からその美しさを垣間見ることができましたので、霊的理解力の鋭い人は、たぶん急逝した者が連れて行かれる国なのだろうなどと言っておりました。神経的にまいっている新参者が、精神的なバランスを取り戻すのに適した場所なのです。環境のすべてに実体があること、しっくりとした現実感があること。今しがたまで生活していた地上の環境と少しも変わらないことを知りました。違うのは、全てが地上とは比較にならないくらい明るく美しいことでした。しかも、それぞれに、かつて地上で友人だった者、親戚だった者が出迎えてくれました。そして、そこでタイタニック号の犠牲者は別れ別れになり、各自、霊界での生活体験の長い霊に付き添われて、それぞれの道を歩み始めたのでした」
この時に、ステッド氏も父親と対面し、ステッド氏、お父様、ご友人の3人でブルーアイランドの見物に出かけたようです。その時には、地上時代のお気に入りの普段着を身につけていたそうで、お父様も地上で見慣れた服装だったとのことです。そして、何もかも自然で地上とそっくりなのだそうです。そして、とても印象深かったのは、その土地全体が青味がかっていたことだと言われます。「この土地には歴然として色彩があります。文句なしにブルーなのです。明るい色合いの濃いブルーです。住民や住居・樹木までがブルーという意味ではありませんが、全体から発せられる印象がブルーの国なのです」お父様曰く「この階層を包む光の中にブルーの光線が圧倒的に多く含まれているためにそう見えるのであって、ここは精神的な回復を得るのに絶好の土地なのだ」とのことです。「そこにはありとあらゆる状態に置かれた、ありとあらゆる肌色をした、ありとあらゆる人種の、大小さまざまな人間がいました。その人達が自由闊達に動き回っているのです。但し、ここで生活している人達は、自分のことを第一に考えた行動しています。自我を確立することに専念しているのです。地上では自分中心主義はいけないことですが、ここではそうでないといけないのです。そうしないと進歩、というよりは精神的回復が望めないからです」
そうやって各自が自分の精神的確立に専念することが、結果的にブルーアイランド全体に平穏が行き渡ることになると言われています。

1254回目の瞑想

 
「当時私がいたところには海もありました。地上でいうリゾートとは趣きが違いますが、とても穏やかな景勝地です。皆さんは霊界というと非現実的で夢のような世界を想像されるに相違ありません。が、そうではないのです。皆さんが外国へ行くのとまったく同じです。地上と同じように実体があるのです。おまけに、比較にならないくらい興味のつきない世界です。やがて私達は、途方もなく、大きな建物の前に来ました。全体がドームといってもよいかも知れません。中を覗いてみると、これまた、こんな素敵なブルーもあるのかと思えるようなブルーで彩られておりました。おとぎの国の建物を想像しないでください。地上で見かける建物と少しも変わりません。その美しさが違うというだけです。その中にいるとエネルギーが増すような感じがしました。そこにしばらく滞在して、それから軽い食事をとりました。地上でよく食べていた物に似ている感じがしましたが、肉類は見当たりませんでした。このように、ここでは何一つ違和感を与えるものがないのです。ただ、食事は必ずしも取る必要がないように思えました。それは地上の習慣の名残にすぎないようです」
「父の説明によれば、あの建物は一種の休養施設で、地上からの新来者がよく集まるところだそうです。地上界の生活条件に近いものがいろいろと揃っていて、外観も地上の建物に似ているので、よく使用されるということです。同じ目的をもった建物は他にも沢山あります。それらは、外観は一つ一つ異なります。似たものはありません。要するに大きなビルと考えればよろしい。博物館を想像されてもよろしい。美術館を想像されてもよろしい。巨大なホテルを想像されてもよろしい。大体そんなものに近いと思って下さい。極めて地上的で、変わったところは一つもありません」「この世界の第一の目的は、地上を去ってやってくる人達が地上の縁者との別離を悲しんだり、無念に思ったり、後悔したりする気持ちを鎮めることにあり、当分の間は本人が一番やりたいと思うこと、気晴らしになることを存分にやらせることになっています。そこで、取り敢えずその悲しみや無念の情が消えるまで、当人がやりたいと思うことが何でも好きなだけやれるようにとの、神の配慮があるのです。地上時代に一番好きだったことに興じる場が必ずどこかに用意されていて、存分にそれに打ち興じるチャンスが与えられるのです。それが、実は進歩への地固めなのです」とのことです。
こんなに恵まれた世界が死後にあるなんて、本当に衝撃的ですよね。死後を怖れる理由などないということが分かります。また、私は音楽が大好きなので、次のお言葉もとても興味が湧きます。
「たとえば音楽に打ち込んだ人生を送った者は、こちらへ来てからその才能が飛躍的に伸びて、ますます興味が深まります。その理由は音楽というのは、本来霊界のものだからです。ブルーアイランドに設置されている音楽施設で学べば、才能も知識も、地上では信じられないほど伸びます」とのことです。
シルバー・バーチ霊も言われていますが、「霊界には地上にはない音色やオクターブがある」と。また「音楽を聴く能力のある人は、沢山ある音楽ホールで音楽を聴くことができる」と。ここでも、音楽について本来は霊界のものだと言われていて、益々死後の世界が楽しみです。

1255回目の瞑想 

 
「純粋に地上界に属する趣味は、やがて衰えはじめます。一種の反動であり、それがゆっくりと進行しますーーーこちらでも物事は段階的に進行し、決して魔法のように一気に変化することはありません。
その反動が出始めると、興味が次第に精神的なものへと移っていきます。もともと精神的なものに興味を抱いていた人は、引き続きその興味を維持し、拡大し、能力が飛躍的に伸びます。地上的な性格の趣味しか持たなかった人は、いずれは変化の時期が訪れます。
このようにブルーアイランドにいる間は、多かれ少なかれ地上生活との関連性が残っております。最初は、ただ面白いこと、愉快なことに自分を忘れているだけですが、やがて霊的向上のための純化作用が始まります。
たとえば、後に残した家族と一緒に生活がしたければ、それも許されます。自分の存在に気付いてくれなくても、みんなと一緒にいて、その雰囲気に浸っていたいのです。が、そのうち、そんな自分に何となく反撥を覚えるようになります。そうなったらしめたものです。その時こそ、いよいよ地上的ないしは肉体的本能からの脱却作用が始まったことを意味します。それまでに要する時間と、どういう過程を経るかは、一人一人異なります。
ブルーアイランドがどんなところで、どういう存在価値をもっているかがお分かり頂けたものと思います。地上的なものへの執着が消えて行く過程もはっきりしたことでしょう。それに要する期間は、当人の個性あるいは気質によって長かったり短かったします。
たとえば、かつて運動選手だった場合、こちらへ来ても相変わらず運動が好きで、身体を動かすことをしたがります。一時的には地上時代よりも夢中になります。疲れというものを感じないからです。が、やがて変化が生じはじめます。嫌いになるのではありません。同じく身体を動かすのでも、霊界における場所から場所への移動の様式に関する研究に興味が移っていきます。こちらでは、移動するのにもいろいろな方法があるのですが、いずれも地上とは全く趣きが異なります。」
 
そのようなことを研究していくうちに、死後の新しい環境に馴染んでくると言われています。そして、そこが地上とは異なる世界であるということに得心がいくのだそうです。それは精神が拡大して、霊的感性が芽生えて来るからだそうです。地上時代と同じものに興味をもつということにも、そうした効用があるようです。そして、これをあらゆるタイプの人間に当てはめて見て下さいと言われています。 ですが、他の人というよりも、自分に当てはめて考えた方がいいのではないでしょうか。私の場合は、ご存知ように霊的なことや精神的なものを中心に日々生活しています。ということは、そのような能力は飛躍的に伸びると書かれているので、大いに希望が持てるように思いました。私達はいずれ皆向こうの世界へ行きます。この度のブルーアイランドでの様子が分かったことで、今からでも少しずつ地上的なことへの執着を捨てるように努力して行くことが賢明なのだということを確信した次第です。

1256回目の瞑想

 
   
「ここでは、かつての地上生活とまったく同じ生活の連続といってもよいでしょう。まず、よく休養します。睡眠の習慣が残っているので、実際に眠ります。また眠った方がいいのです。夜というものはありませんが、地上にいた時と同じ要領で、睡眠を取ります。少なくとも、こちらへ来て間もない頃はそうです。また、地上の人間と同じように、各地を訪ね歩いたり、探検したり、動物や植物の生命を研究したりします。かつての友人・知人を探し求めたり、訪ねたりもします。気晴らしの娯楽もあります。新しい分野の知識を求めて図書館などで勉強することもあります。
生活のパターンは地上生活とよく似ています。違うところと言えば、地上生活は地球の自転をはじめとする環境の力によって制約されていますが、こちらでは当人の精神的欲求によって決まるという点です。
衣服も実質的には同じです。が、さっきも述べた通り、ありとあらゆる人種が集まっていますから、全体として見た時に、地上では見かけたことのない種々雑多な様相を呈しております。
この界層は地球圏に属し、地上時代の感覚や習性はそのまま残っておりますので、一見したところ地上時代そのままの容姿をしております。新しい知識を少しは仕入れておりますが、地上時代のものはほとんど、あるいは一つも捨てていないのです。そうした習性を捨てていく過程は実にゆっくりとしています。こちらでの生活を重ねるにつれて、それまで後生大事にしていたものが何の意味もないことに気付くようになるばかりではなく、やがて邪魔くさいものに思えてきます。その段階に至って初めて、その習性にまつわる意識が消えるわけです。
例えばタバコを吸う習性が無くなるのは、タバコが手に入らないからではなく、タバコを吸うのはいけないことだと思うからでもなく、吸いたいという欲求が無くなるからです。食べるという習慣も同じです。その他何でもそうです。無くても何とも思わなくなるのです。我慢するのではありません。欲しければ手に入ります。現に欲求が消えてしまわないうちは、みんな食べたり飲んだり吸ったりしています。
こちらへ来てしばらくは、思想も行動もまったくの自由が許されます。何を考えようと何をしようと、すべて許されます。”禁じられたこと”というのは何一つありません。制約があるとすれば、それは当人の持つ能力や資質の限界です。その範囲内ならば完全な自由が許されています。」
 
死後の世界の真相は、希望に充ち満ちているのだということが、わかります。地上生活の延長のようでありながら、少なくとも地上よりも自由を満喫できるのだと思います。もちろん、それは個々の能力や資質の範囲内と言われているので、制約はあるとしても、自分のやりたいことを思う存分出来るということに、魅力ある世界としてしか思えなくなって来ています。死後の世界で充実した日々を過ごすためには、この地上での物欲などに対する執着を捨てることが肝心なのだということを何度も認識させられ、痛感させられています。

1257回目の瞑想

 
「やがて霊性が芽生えて、知識欲と自己啓発の願望が出始めた段階から、そういう無条件の自由は無くなります。ちょうど鉄くずが磁石に引き付けられるごとくに、求めている知識、あるいは自己啓発にとって最も適した機能を備えた建物へと引き寄せられていきます。その時点から本格的な”教育”が始まるわけです。どうしてもそこへ通わざるを得なくなるのです。一つの文やが終了すると、次の分野へと進みます。
”通わざるを得なくなる”という言い方をしましたが、それは外部の力で”強制される”という意味ではありません。内部からの知識欲・啓発欲がそうさせるのです。無理やりに知識を身につけさせられるということは絶対にありません。あくまでも自由意志が主体となっているのです。だからこそ地上時代から精神による身体のコントロールが大切なのです。こちらの世界では精神が絶対的に威力を発揮しますので、他界直後の幸福度は地上から持ち越した精神の質が決定的な影響をもつわけです。」
 
満足感や不満を味わうのは、地上で送った生活次第と言われています。形成された質、好機を活用したか逸したか、動機は正しかったか、援助をいかに活用したか、視野は広かったか狭かったか、身体的エネルギーを正しく活用したか浪費したか、等々、これらが総合的に作用するようです。
単純な図式で示せばと言われ、身体を支配する精神の質、精神を支配する身体の質、この対照だと言われます。地上では精神も身体も大切です。けれど、霊界は、精神だけが大切になるそうです。なので、死後の幸福感の度合いは、地上で培った精神の質によって自動的に決まるのだと言われています。肝に銘じる必要があり、精神の質が向上するよう、努力しなければと思います。

1258回目の瞑想

 
「宇宙の創造機構は、人間の想像を絶した緻密さをもって計画されました。その究極の目的は、各個に自由闊達な発達と進化をもたらすことです。そのための摂理は厳然としています。不変絶対です。各自は、良心という本能によって、今自分の行っていることが摂理に適っているか反しているかを直感しております。もちろん、自分自身を欺いて”これでいいんだ”と主張することはできます。しかし、そう主張しながらも、心の奥では本当はいけないのだという意識を打ち消すことができずにいます。私は敢えて申し上げますーーーこの事実に例外はない、と。つまり良心は必ず知っているということです。ところが大体の人間は、知らないことにしたがるものなのです。これは深刻な意義をもつ問題であることを認識してください。
この種の問題を大抵の人は”善悪”の観点からではなく”損得”の勘定によって判断しております。動機の善悪の区別がつかないわけではありません。ちゃんと識別できるのです。そして、事実、本能的には正確な判断を下しているのです。ところが厄介はことに、人間は習性や損得勘定、社交上のメンツから、因果律が巡り巡って生み出す結果を考慮せずに、目先の結果に拘ってしまいます。」
 
このことを実に残念と言われながらも、死後の世界との関わりから”残念”では済まされないと言われています。それも、可哀想な、気の毒な事態となっていくようです。不快な思いや辛い苦しみの種を蒔いていることになるそうです。火焰地獄などは存在しないと言われ、精神的苦悶という、自らこしらえた地獄が待ち受けているとのことです。

1259回目の瞑想

 
「人間の自我、ないしは霊は、精神の中に存在しています。言い換えると、霊が脳という器官を通して意識活動を始めた時から、徐々に精神が構成されてまいります。その脳は、生理学的に解剖しただけでも、科学者にとって、”最後の秘境”ともいうべき驚異の世界ですが、これを自我の道具として観察した時、いっそう微妙で複雑で、謎は深まるばかりです。たとえば、精神はあらゆる思考と行動の原動力であるという事実までは理解できます。が、その思考と行動の全てが精神に”書き込まれている”、つまり記憶されているそのメカニズムはどうなっているのかとなると、到底理解できないでしょう。
仮にあなたが、どこかの店でツケで買い物をします。すると何日かして請求書が届きます。それを払い込みます。するとあなたは、その時点でその買い物と支払いに関する一切のことを忘れます。ところが、その店には全ての記録がいつまでも残っています。精神の記憶も同じです。あなたの意識にはのぼらなくても、無いようのいかんに関わらず、全てが記録されているのです。」
 
そして、その勘定の決済日が死後に訪れると言われています。支払いを済ませば、帳簿の方はそれで無くなるので安心だと言われていますが、記録そのものは、その後もずっと残り続けるようです。
それにしても、精神の中に人間の自我、または霊が存在しているということはどういうことなのか、と思ってしまいますが、ただ、あらゆる思考と行動のすべては精神に書き込まれると言われているので、精神を魂に置きかえれば納得です。

1238回目の瞑想

 
ーーー天国と地獄について、真面目に質問する者に対して、その言葉からして高級霊と思われる方達が、一般的な考え方で解答されることがあります。これはどういうことですか。
「霊は質問者の理解力に応じた話し方をする。質問者が余り先入観を吹き込まれている場合には、その確信を不意に干渉しないようにするわけである。もし回教徒に、不用心に、マホメットは真の予言者ではなかったと語れば、もう彼の話には耳を傾けて貰えないであろう」
 
ーーーそのような慎重さは、私達を指導して下さる霊の場合は分かります。ですが、そうでない霊の場合、その霊の状況を尋ねますと、地獄とか罰の苦しみを受けていると答えたりしますが。
「未だ十分に物質性を離脱していない未発達霊の場合は、一部に地上的観念が残っていて、なじみの深い言葉で自分の印象を語るのである。彼等はあの世の事については、未だ殆ど目が見えていない、そんな状況である。そういうわけで、彼等は亡霊とか、最近他界したばかりの霊ということで、地上にあった時と同じように語るわけである。地獄は前述に何の希望もない、言語に絶する苦しい試練の生活、ということだろう。また懲罰は試練の一つではあるが、先行きの幸福はある生活、ということだろう。諸君も、肉体的とか精神的とか、ひどい苦しみを味わっている時には<呪われた者の苦悩>を受けていると、そうは言わないかな。しかし、これは比喩、そのように例えて話すのである」 (明日に続く)
 
今回も天国と地獄と懲罰の続きである。最初の質疑応答の内容を読んで、お釈迦様のお言葉を思い出した。「人見て法説け」だ。 相手のレベルに合わせた法を説かなければ意味がない 。それを教えて下さっている。
次は言葉そのものの意味に受け取ってはいけないということだろう。未発達霊や亡くなってすぐの場合などは、まだまだ地上的観念が残っているのは当然のことと思う。だからこそ、地上的な言葉で自分の感じたことを言ってしまうのも仕方のないことなのではないか。受とる方がしっかりと霊的真理を身に着けていれば、どんな言い回しをされても、その言葉の本当の意味を読み取れるのではないかと思う

1239回目の瞑想

 
ーーー<責め苦を受けている霊>という言葉から、どういう事が考えられますか。
「目の前が真暗で、迷って苦しんでいる霊。その霊が救いを求めていれば、諸君が援助してやれる霊。その霊が諸君に心を向ければ、諸君の手にすがらしてやれる、そういう援助をしてやれる霊」
 
ーーー天国という言葉は、どのように受け取ったらよろしいですか。
「諸君は、太古の理想郷のようにお考えかな。そこでは善霊達がみんな集まり、永久に受身の幸福を満喫しており、もう何の仕事もない処と。それは違う。天国とは宇宙空間である、惑星であり、星々であり、そしてありとあらゆる高級な進化段階の世界である。そこでは、霊達は自分のすべての能力を発揮して満ち足りている、そこには何の地上生活のような患いもなく、未発達から生じる苦悩のようなものもなく」
 
ーーー霊達が、自分は第三、第四、第五等々、の天国に住んでいると、こう申しますが、これはどういう意味ですか。
「諸君が、建物の階のように、天国も一階二階と重なっているように思い、質問するので、霊達もこれに合わせて答えるのである。だが霊達にとって、第三、第四、第五の天国という言葉は、浄化程度の相違、つまり幸福度の相違を表現しているのである。これは諸君が霊に、地獄にいるのかと尋ねる場合も同様である。不幸せな霊なら「地獄にいる」と答えよう。霊にとっては、地獄とは苦悩と同義語なのだから。だが、霊の方はよく知っている、それが焦熱地獄ではないことを。それが異教徒なら、<冥界>にいると答えるだろう」(明日に続く)
 
今回も天国と地獄と懲罰の続きである。今回の内容からも、天国や地獄というものは、本当に人間の想像物でしかないことがわかる。天国は宇宙空間の中での惑星や星など、ありとあらゆる高級な進化段階の世界だと言われている。また、地獄に関しては、精神的な苦悩のことで、焦熱地獄では決してない。それは聞く側の人間に、問題があるようだ。先入観があって聞くから、答える方も合わせて答えてしまうとのことだ。建物や場所という観念ではないということを、肝に銘じる必要があるのだと思う。

1240回目の瞑想

 
[注解] これと同じような他の表現もいろいろある。例えば、<花咲きみだれる里><選民の町>第一、第二、第三などの<境域>。これらは寓意的な表現にすぎない。これを比喩的に使う霊もあれば、事の事実が分からないので使う霊もあり、また、自然科学のイロハも知らずに使ってる霊もある。
果報と懲罰の場所があるという古い限られたものの考え方、また、地球は宇宙の中心で、空は頭上に天井を作り、そこに星の場所がそれぞれあるという、俗信に従って、人間は天国を上に地獄を下に配列した。これから天国へ上がるとか、最高の天国のいるとか、地獄に投げ込まれるという表現が出て来る。今日では天文学によって、地球の歴史もその構造も分かってきており、また、地球は宇宙を巡っている小さな天体の一つで、各別重要というでもなく、宇宙は無限で上も下もないことを教えてくれている。こうして人間は、天国が雲の上にあったり、地球の最下層に地獄があるという考えは、止めざるを得なくなった。懲罰に関しても、特定の場所があるなどとは言えなくなった。
これらすべての点に説明を与える仕事が、心霊主義に残されている。それに直截にして最高度の説明、それは合理的で崇高で、しかも心の慰めが得られる説明。その説明とは、我々自身の中に自分の天国と地獄があるということ、また懲罰とは再生によって、相次ぐ地上の物質生活の中にあるのだということ、これらを示してくれるものである。
 
ーーーキリストの言葉<神の国はこの世にはない>、これはどのように受け取ればよろしいですか。
「キリストは比喩をもってこれを語られた。それは、神は純潔にして無私の心の上にのみ臨在なさる、こういう意味である。神を愛する心のある処、神はいずこにも居ます。しかし、この世の物に貪欲で、地上の享楽に心を奪われる者の処に、神は居まさぬ」 (明日に続く)
 
今回も天国と地獄と懲罰の続きである。今回は注解の内容が先になってしまったが、今までの霊界通信の内容をまとめたものであり、天国と地獄についてまた懲罰の間違った観念を指摘している。そして、その説明は心霊主義が、最高度の説明を為すことで、私達人間自身の心の中に天国と地獄はあるということ、そして懲罰は再生によって、地上の物質生活を経験することで、示してくれると言われている。
次は、イエス様の言葉について説いて下さっている。要は、やはり比喩として語られているのであり、神様は純潔にして無私の心、神様を愛する心のある処には、どこであろうとおられると言われている。逆にこの世の物質に貪欲で、地上の享楽に耽っている人の処にはおられない、ということなのだと言われている。だが、私は、例え、この世に現を抜かしている人であっても、神様はおられるのだと思っている。神様は常にすべての人々を見守って下さっていると信じているからだ。ただ、そういう人達の心の中に神様はおられないのだと思うのだ。結局は人間側に問題があるということを肝に銘じる必要があるのだと思う

1241回目の瞑想 

 
ーーー地上に、美徳の支配が確立することがありましょうか。
「地上で生活するために来る霊の中、善良な者が邪悪な者より多くなる時、美徳がこの世を支配しよう。その時には、愛と正義が支配する。この愛と正義こそ、善と幸福を生み出す源である。人間が進歩し、その生活が神法と一致する時、善霊を地球に引き付けることになる。善霊が集まれば、邪悪霊達は遠のいていく。だが、邪悪霊が完全に地上から居なくなることはない、地上の住人が高慢と利己主義を完全に浄化しつくすまでは。
人類の変容が太古より予言されている。諸君等は今、その予言の時に近付きつつある。諸君等の中、人類の進歩を進めるために努力している者は、この変容の促進に助力しているものである。この変容は高級レベルの霊達の地上再生を通じて行われる。この高級霊達は、漸次置きかえられていく現在の人類よりも、ずっと進化した精神の持ち主で、新人類を構成することになろう。日毎、死によって地上から刈り取られている邪悪人の霊、そして進歩を阻むすべての霊、、これらは地球より一掃され、別の世界での再生を余儀なくされよう。何となれば、彼等は高級な人類の中では場違いであり、彼等の存在で高尚な人類の至福が損なわれるからである。彼等はこの地球よりずっと進化の遅れた、未だかつてないような世界に送り込まれよう。その中にあって、辛い苦労な使命を果たすことになろう。この使命によって本人は進歩の手段を得ることになる。だが、これを通じて、この若い世界の住人達、じぶんより進化の遅れた同胞達の進歩に寄与することになろう。この変容して霊的に更新される地球から、進歩していない霊達が排除されることの中に、諸君は、エデンの園路から始祖が水疱を受けた、あの崇高な神話の本当の意味を、汲み取らないか。人類は、このように追放を受け、地上に降った、自己内部には、受難の種子と未熟性の証拠を宿したままである。諸君はまだそこに、始祖達が堕落して子孫に罪を残したという、その神話の別の真の意味を見ないかね。<原罪>、これこそ上記の観点より見る時、人間の不完全性にある。従って、その後になって人類に受肉した霊達は、各人が自分の不完全性と自分の間違った行為にのみ責任を負うのである。祖先の不完全性と行為に対してではないのである。
では、諸君、霊的更新という大事業に献身しなされ。熱誠と勇気をもって、信と善意を持つすべての諸君よ。諸君等は播いたものの百倍の収穫を得よう。光に向かって目を背ける者よ、災いなるかな。その者達は、長い暗黒と悲しみの時を自分に課す者となろう。災いなるかな、地上の享楽にのみ楽しみを見出す者よ。彼等は現世で得た享楽の数よりも、はるかに多い窮乏を身に受ける者となろう。そして、何にもまして災いなるかな利己主義の徒よ。彼等は、他日、自ら背負う苦悩の重荷に、誰一人手を伸べる者を見ないであろう」
 
   今回も天国と地獄と懲罰の続きであり、これで、「霊の書」の上下巻が終わりとなります。長い間、お読み頂き、誠に有難うございました。この後は、結語として、心霊主義についてかなりの量が書かれているので、抜粋して記載しようと思います。ご興味のある方は引き続き、お読み頂けますように、お願いします

1242回目の瞑想

 
「心霊主義は、唯物主義の最も手強い敵であり、それ故、敵対するものに唯物主義者がいても、別に驚くべきことではない。しかし、唯物主義は、これを信奉する者の多くが、自分が唯物主義者であるとは態度をはっきりさせない教義なので、彼等は屁理屈と科学を使って反対派を封じ込めようとする。彼等の矛先は、特に不可思議な事や神業に向けられており、彼等はこれを否定する。彼等によると、心霊主義は不可思議や神業に基づいているので、馬鹿げた妄想以上の何ものでもないと公言する。」
「人類の進歩は、正義と愛と奉仕の法を現実に適用する、そこから生じる。この法とは、来世への確信に基礎を置いている。もしこの確信を取り除いてみよ、すると、諸君はかなめ石を取り除いたことになる。他のすべての法も、この法が基になっている。何となれば、それは人類の幸福の状態を含んでいるから。この法のみが、社会の悪を正すことができる。地上のどの時代どの民衆でも比較すれば分かることだが、この法の理解と実践がうまくいっている分だけ、社会生活上のいろいろな進歩が顕著になっている。」
「もし、現代は前時代より進歩しているのなら、なぜ、次の世代が現代より進歩しないということがあり得ようか。自然の勢いとして、そうなのである。第一に、各世代はその経過と共に、悪弊の擁護者達を運び去って行き、こうして社会は古い偏見を脱した新しい要素によって、漸次再構築されていくものだからである。第二に、人間は進歩を望むようになっており、これを阻害する障害物を研究し、これを除去していくからである。人間社会に進歩の動きがあるという事実は、議論の余地がない。されば、将来に渡って進歩が続いていくことは、疑いを入れ得ない。
人間は幸福を願う、これは人間の本性である。この幸福を求めて人間は進歩への努力を払う。もし、進歩によって自己の状況の改善がなければ、本人にとり、どこに進歩の価値があろう。本人は知的に進歩をする、そして可能なすべての享楽を手にする、その時、なお自分は完全に幸福でないと気付く、そしてこの幸福は社会の安定なしには得られないと感じる。さて、この安定は社会一般の精神的進歩によってのみ獲得できるのである。自然の勢いとして、彼はこの目的に向かい努力への道を辿る。この時、心霊主義はこの目的達成に、最高に有効な手段を人間に提供するのである。」(明日に続く)

1243回目の瞑想

 
「心霊主義の教えが、今日各方面に拡がり、世界を浸しつつあると、こう慨歎して、公然と反対する人達がいる。すべて理性と事実に基礎を持たない意見は、一般化し得ない。従って、心霊主義が、今日、各方面に定着し、いろいろな階層の人達を改宗させ、特にインテリ階層までそれが及んでいるとしたら、それは真理に根ざしているからに違いない。従って、これを非難する人々の努力はすべて空しく終わるだろう。この事は次の事実ではっきりしている。心霊主義に嘲笑を投げつけ、それによって発展を阻止しようと積み上げた嘲笑が、逆に心霊主義に新しい生命を与えているように見える事。このような結果は、我々の霊友達が絶えず言ってきた確信を、十分に正当化してくれるものである。彼等は再三再四、我々にこう告げている、「反対があるからといって、不安がることは何もない。皆さんに反対してやる事為す事、すべてが皆さんの利益となって返ってくるでしょう。最もひどい反対者も、本人の意に反して、皆さんに役立つことになろう。神の御意志に逆らえば、人間の意志など何の役にも立たない」と。
心霊主義の精神的な教示を通じて、人類の運命は新しい段階に入るだろう。この精神的進歩の新しい段階は、心霊主義の信条のもたらす不可避の結果である。心霊主義思想の急速な拡大は、別に驚くような事ではない。それは心霊主義を知性と誠意をもって受け入れる者に与えられる深遠な満足、これによる。幸福は何にもまして人間が望むもの、故に、その思想を持てば幸福一杯になれるというなら、人々がその思想を受け入れるのは、別に驚くべきことではない」(明日に続く)

1244回目の瞑想 

 
「心霊主義思想の発展過程は、明確に三段階に別れる。第一段階、好奇心の段階で、現象の不可思議さに興味を持つ。第二段階、その理論と哲学への関心。第三段階。その実践とその成果の段階。好奇心の時代は既に経過している、好奇心をもつ時間というのは短しものだからである。人間の心は、何か珍しいものに対して満足すると、すぐに目移りしてしまう。真面目な思考力を喚起したり、良識に訴えたりする事についてはそうではないが。第二段階は既に始まっている。そして第三段階が間違いなくこれに続いて起こるであろう。心霊主義の進歩は、その本質が何であるか、どのような面に影響が及ぶのか、これらが正しく理解されるようになってから、各別に進歩が早まった。何となれば、それこそ人間が一番敏感に感じる本質に触れているからである。即ち、人間の幸福への願望、これである。これこそ人々が今日でも求めて止まないもの。既述のように、これが心霊主義が広く一般に受け入れられる理由である。また、勝利への力の秘密である。心霊主義はこれを理解する者達に幸福を与える、それが漸次大衆に滲透していく間にも。心霊現象を全く見たことがなくても、大奥の心霊主義者は次のように語であろう。「心霊現象はともかく、心霊の哲学は、これまで誰も説明しなかったことを説明してくれる。この哲学は理性にのみ基づき、甚だ合理的である。そして、死後はどうなるかなど、私に一番大事な問題を辻褄が合うように説いてくれる。これは私に心の安定と、自信を与えてくれる。これによって、私は心からすっかり不安が消えてしまう。その効果の価値たるや大変なものだ。こういう事からすると、心霊の物理的現象などは、私には第二義的な問題である」と。(明日に続く)

1245回目の瞑想

 
   
「心霊主義には三つの面がある。即ち、霊的現象という事実の面。これら事実の推論の帰結である哲学的精神的原理の面。これら原理の実践的応用の面。従って、その支持者は三つに分けられる。むしろ、三種の進歩段階があると言える。第一段階は、心霊現象の真実性を信じる人達。彼等は現象の立証の枠内に留まり、従って彼等にとり、心霊主義は単に実験科学にすぎない。第二段階は、心霊主義の道徳的姿勢に理解を持つ人々。第三段階、心霊主義がその確立を使命としている精神体系を、実践するか、少なくとも実践しようと努力する人々。これら未知の現象を、実験的・科学的・道徳的、どんな立場から考えるとしても、各人は感じている、これらが全く斬新な思想体系をもたらしつつあるということを。またこの思想体系によって、人類の状態に根本的な変更が生じるに違いないということ。そうして、この事を理解する者はすべて、この変更が善をのみ指向していることを、感じとっている。
我々に敵対する者達も、また三種のグループに分けられよう。第一のグループは、高慢と憶測に支配されており、第二のグループは、野心によって、第三のグループは、利己心に支配されている。」 (明日に続く)

1246回目の瞑想

 
「心霊思想によって、たちまち人間の本性が変化すると考えることは、思い過ごしである。同じ心霊主義者にしても、その行為は皆同じではなく、同じように強力だとはいかぬ。しかし、その結果は、それが小さくとも、常に有益なものである。もし、それによって他界の存在が示され、唯物主義への反証が示されるなら、それだけのことによってである。この結果は、心霊現象を観察するだけで出で来ることだ。だが、心霊主義の哲学を理解した上で、現象以上の何か目を引くものをそこに見る人達の間では、更に別の効果が出て来る。その中で第一にあげられ、最も一般的なものは、宗教心の啓発である。それは唯物主義者ではなくて、霊魂に無関心な人達の場合でも、そうである。そしてこの感情によって、死を軽く見る気持ちにさせられていくーーと言っても、死にたくなるという意味ではない。つまり、心霊主義者だって、他の人同様に生命は惜しい。だが、死が避けられない場合には、恐れも未練もなく死を受け入れる気持ちに傾く。死は恐ろしいものではなく、むしろ喜ばしいものだという気持ちで。それは、死後の状態についての、本人の確信がそうさせるのである。心霊主義者の確信の第二の効果は、この有為転変の人生にあって、これを甘受する姿勢である。心霊主義を知ると、現世を過度に重視する気持ちが漸次後退していく、それは心霊主義が、高い見地から物を考えるよう、我々を導くからである。こうして、我々が世の苦難で悶々とすることは少なくなっていく。その結果、我々は災厄に対しては勇気を、欲望に対しては抑制を、命を縮めるような考えに対しては断固たる抵抗感を持つに至る。」
「未来の幸福は自分如何でどうにでもなるという信念、愛する者達と来世は共に交われるという可能性、この最高の慰めが心霊主義者には与えられる。現世を超えて生命を見るこの習性によって、その視野は無限へと拡大される。また、神秘に包まれた死後の生の状況が、心霊主義者には、漸次明らかなものとなっていく。心霊思想の第三の効果は、他人の欠点に対し寛容となることである。しかし、次の点は含んでおかねばならない、つまり、利己主義は人間感情の中で一番執拗なものであること、これを根絶することは最も難しいものであること、これらである。もし一円も費用がかからなければ、我々は進んで犠牲も払う。だが、金銭は大多数の人にとり、依然として、抗しがたい魅力を持つもの、また、こと自分に関しては、<余っている>という言葉を心得ている人は、滅多にいない。それ故に、自我の節制は最高の進歩のしるしである。」(明日に続く)

1247回目の瞑想

 
「イエスは人間に真実の徳を教えるために来た。神がイエスを送ったのは、人間が忘れてしまった神法を、思い出させるためだった。それ故、神がもう一度、それも更にはっきりと、それを思い出させるために、霊達を送らないということがあろうか。現代の霊界通信は、我々を取り巻いている目に見えぬ世界の存在を、開いてくれつつある。その世界は絶えず我々とつながっており、自分では気付かなくても、我々の行為すべてと関わりを持っているのである。それは未だ短い時間しか経っていないが、我々を待ち受けているその世界は、極微の世界や、宇宙空間の無限の天体の世界と等しく、明らかな存在である。
他界の存在との交通によって、我々は死後の生存を知り、これを理解することが可能となる。また、我々の所業に応じ、死後に待ち受ける喜びと悲しみがあることを、知るに至る。こうして、人は心霊主義に戻って来る、それまで人間の中に物質のみを見、動く機械のみを見ていた我々人間が。これをもって、我々が、心霊主義は唯物主義に致命的打撃を与えたと断言するのは、もっともな事である。これだけの事をもってしても、心霊主義は社会秩序を尊重する人々の、感謝に価いするだろう。しかし、心霊主義はそれ以上の事をしている。即ち、それは悪い結果が必ずどうなるかを示し、善の必要性を教えるからである。心霊主義によって、良い心の持ち主となり、悪の傾向が消え、悪行から足を洗った者の数は、既に想像を越えるものがあり、なお日毎に増加しつつある。それというのも、未来は彼等にとって、もはや漠然たる幻想ではなく、単なる希望でもなく、事実である。即ち、死者の姿を見たり声を聞いたりして、これを感じこれがはっきり確かめられる実体である。これら霊との交通を認める者は、自分の身にしみる実在性に思いを巡らし、反省と自己批判と自己改善の必要を感じ始める。」(明日に続く)

1248回目の瞑想

 
「心霊主義の間で、その教えのある部分について、意見の相違があるということが、心霊主義に反対する者に、格好の手掛かりを与えてきた。新しい科学の場合には、観察もまだ不十分であり、取扱いの課題も支持者によって、いろいろの観点から見られるので、矛盾した理論も出るだろうという事は、別に驚くことではない。しかし、問題にされている点について研究が進められた結果、反対論の多くは打破された。その他の中には、霊界通信は全部が悪霊から来るものだというのがある。まるで、神は人間に善霊を送ることが不可能なような事を言っている。これは一見して馬鹿げた想像論である。それは事実に反しているし、神をないがしろにするものである。何となれば、創造主の力と善性を否定するものであるから。我々の指導霊は、いつも我々に忠告してくれる。心霊主義者間の意見の相違については、余り心を煩わさないようにと。また、そのうち教理が統一される日が来ると、こう保証していてくれる。また我々の側においても、未解決だった問題が多くの点で、統一が実現されており、その他の面でも、相違点は日に日に消えつつある。これがはっきりしている。
仮に心霊主義者の間に、教理の幾つかの点で意見が違っても、その根本の点では皆一致しているのである。それ故、下記のごく少数の人々の場合を除いて、統一は既に実現されているのである。その少数の人々とは、心霊現象に霊の作用 を未だ認めない人々。その原因として、一つは純粋に物理的原因を考えており、または自分の思想の反射作用とするもの。前者は<すべて知的な結果には、知的な原因が存在せねばならぬ>という公理に反しており、後者はその際の事実によって間違いが明らかである。さて、なお論争の余地がある心霊主義教理の諸点について、解明を求めている諸学派が存在しよう。だが、互いに反対し合う敵対派であってはならぬ。敵意があるとすれば、善を望む者と、悪を望み悪を愛す者達との間にのみ存在する。しかし、心霊主義の精神や原理を広く真摯に認める者が、いやしくも悪を望み隣人に不幸を望むなどという事がある筈はない、たとえその本人の他の思想が、どんなものであろうとも、仮に、ある学派に誤りがあっても、正直に偏見を持たずに求めれば、いつかは解明が得られるのである。また、すべての学派に、いつかは彼等を同じ気持ちに結び付ける、共通の絆が存在している。彼等はすべて同じ目的を持っている。その辿る道がどのような道をとろうと、その辿り着くゴールが同じなら、大したことではない。何人も力によって、その力が暴力であれ精神の力であれ、自分の意見を押し付けてはいけない。他を破門に処する学派は、どんな学派であっても間違っている。明らかに、それは邪悪霊の影響を受けているのであるから。議論のために出す唯一の力とは、それがあくまでも道理に適っているか、これである。穏健であることは、妬みやそねみによる痛烈な非難よりも、はるかに勝利を確実にするものである。善霊は、統一と隣人への愛をのみ説く。邪悪にして無慈悲なものは、何一つ、純粋な源から発するものはない。」(明日に続く)

1227回目の瞑想

 
ーーー罪の償いが行われるのは、地上生活中ですか、死後霊界に入ってからですか。
「地上生活中は、本人の受ける試練の形で、償われる。霊の世界にあっては、低い霊にありがちの精神的苦痛、これにより償われる」
 
ーーー地上生活中に誠心誠意悔悟すれば、それで十分に、生活の誤りを消し去り、本人に神の愛が回復できるのではありませんか。
「改悛によって、霊の改善には役立つが、犯した悪行の償いは為されねばならない」
 
ーーーもしそうだとしますと、本人の霊が、<償いの行為は必ずするわけだから、改悛の必要はない>とこう言ったら、その結果はどうなりますか。
「本人が悪い考えを重ねていけば、その償いは長引き、苦痛も大きくなろう」
 
ーーー私共は現世において、自分の誤りを償うことが出来ますか。
「出来る。その誤りを償うことによってである。しかし、ほんの少しを失うだけで償えるとか、不用なものを、自分の死後に贈ることで、償えると思ってはならぬ。神は、格好だけの償い、胸の中だけの償い、労を伴わない償いを評価なさらない。自分のためにその懊悩がどんなに深かろうと、他者のために失う小指一本には及ばない、悪行を吹き消すことは。
悪は善によってのみ償われる。償いの行為が、人間の名誉や利害に現実に影響を与えねば、価値はない。
死んだ後になって、本人が不正入手した富を返却したとて、どうして本人の名誉回復になろうか。本人は既に利益を得た後の祭り、本人にとって富は無用。
他人に犯した過ちが消えていなければ、少々贅沢を止めるとか、くだらぬ楽しみを控えるくらいで、何のためになろう。
人の前では自分の誇りを大事にしておいて、神の前でへりくだっても、実際、何の益になろう」 (明日に続く)
 
今回も罪の償いと改悛の続きである。罪の償いは、地上生活中であっても、死後の世界であっても方法こそ違えど、罪の償いはあるとのことだ。ただ改悛したからと言って、霊の改善に役立つことはあれど、犯した悪行の償いは為されなければいけないと言われている。またどうせ償わなければいけないからと、放置していれば、その悪い考えを重ねることで、その償いは長引き、苦痛も大きくなるとのこと。私達はこの現世において、誤りを償うことが出来ると言われているが、神様は、格好だけの償い、胸の中だけの償い、労を伴わない償いを評価なさらないと言われ、自分のためにその懊悩がどんなに深かろうと、悪行を吹き消すことは出来ないとのこと。神様はすべてお見通しなのだから、心からの悔悟、そして、善を実行する以外に、償いにはならないということを教えて下さっているのだと思う

1228回目の瞑想

 
ーーー自分の財産を、自分の死後、有効に利用するよう保証しておくことは、評価していいのではありませんか。
「その行為に益はないと申せば、正しくはあるまい。何もせぬよりはましなのである。難を申せば、死後贈与するそれだけのことなら、それは気前が良いと申すより、利己的動機からそうすることが多い。本人は何も失わずに、善行をする名誉を持ちたいというわけである。生時に、自己を犠牲にして善を行う者には、二つの利点がある。一つ、自己を犠牲にする功、もう一つ、自分が原因をつくった幸福を目にする喜び。だが、利己心がこうささやく「お前が人に物を与えれば、その分だけ、お前の楽しみを削っているのだぞ」と。この利己心の声の方が、無私や愛のささやきより、普通はずっと説得力がある。だから、人は自分の持ってる物は、自分の立場を守るために必要なものだと、この自分に言い聞かせて保有し続ける。与える喜びを知らない者は、憐れである。彼は最も純粋にして最大の喜びの一つを、持っていないからである。神は人間に、不安で危険な、富という試練を与え給うた。だが、奉仕がもたらす幸福を、その見返りとして、彼の手の届く所に、この世においても置き給うたのである」
 
ーーー死の直前になって、自分の悪事を認めたが、償いをする時間のない者はどうなりますか、この場合、改悛だけで十分でしょうか。
「改悛は本人の立ち直りを促進するものとなろう。だが、それで彼が放免されるわけではない。彼には来世がないというのだろうか。その来世は、彼に対して閉ざされることはないのである」
 
今回も罪の償いと改悛の続きである。最初の質疑応答は、耳の痛い人が多いのではないだろうか。確かに、自分の持っている物は、自分の立場を守るために必要なものだと思っている。けれど、人に与えていないわけでもない。なので、与える喜びも知ってはいる。ただ、自分を犠牲にしてまでのことはしていない。神様は私達人間に、不安で危険なお金という試練を与えて下さったとのことだ。そして、その見返りとして、奉仕がもたらす幸福を手の届く所に置かれていると言われている。それは、すべてを犠牲にしなければいけないということなのだろうか。それもやはり霊恪のレベルによって、その行為は違ってくるのだと思う。今自分が出来る精一杯のことが、自分のレベルであり、その以上のことは出来なくてもよしとするしかないのではないだろうか。無理やりした所で意味はないのだと思う。次の質疑応答は、何度も言われているが、改悛することは本人にとって、益のあることだと思うが、償いを実行しなければ、償いにはならないのだ。それを来世での体験で償うことになると言われているのだと思う。

1229回目の瞑想

 
ーーー罪を犯した者が来世で苦しむ期間というのは、ちゃんとした法があるのですか、それともあやふやなものですか。
「神が気まぐれに行動なされることは決してない。宇宙にあるものことごとく、法に従っている。この法こそ神の英知と善意の顕現である」
 
ーーー罪人の苦しみの期間を決めるものは何ですか。
「期間の長さは、霊の更生に必要とされる時間である。霊の苦しみないし幸福の状態は、霊の浄化の程度に比例している。故に、苦しみの期間も、苦しみの質も、本人が向上するのにかかる時間、これ次第である。本人が進歩し、心が浄化するにつれ、苦痛は去り、その本質も変化する」
 
ーーー苦しみを受けている霊にとり、時間は現世より長く感じられますか、それとも短いものでしょうか。
「長く感じられるだろう。睡眠がないからである。ある程度の浄化に達した霊にして初めて、時間は、いわば無時、かように変わっていこう」
 
ーーー無限の苦しみ、このようなものがありますか。
「確かに左様なことがある、もし霊が永久に邪悪のままでいればだが、即ち、本人が改悟もせず改善もなければ、彼は永劫に苦しもう。しかし、神は人間を永久に悪の餌食となるように、お創りにはなってはいない。神は人間を素朴で無知なものとして創っておいでになる。されば、本人の意志による行為に応じて、その期間に長短はあろうが、人間はすべて進歩するに違いない。進歩の決意の目覚めはのろのろとしていよう、子供が背丈だけ先に伸びるように。だが、そのうち、低級な状態から抜け出したい、幸福になりたい、そういういたたまれない気持ちに駆り立てられるだろう。霊の苦しむ期間を決めている法は、それ故、甚だ賢明、甚だ思いやりがある、つまりは、霊の努力次第ということにしているからである。霊は決してその自由意志を奪われることはない。その代わり、これを悪用すれば、この誤用の結果を背負い込まねばならなくなる」(明日に続く)
 
今回は来世の罰の期間という内容である。罪を犯した者が来世で苦しむ期間というのも、法に従っていて、この法こそ神の英知と善意の顕現だと言われている。また、苦しみの期間の長さは、霊の更生に必要とされる時間であり、霊の苦しみないし幸福の状態は、霊の浄化の程度に比例しているとのこと。苦しみの期間も、苦しみの質も、本人が向上するのにかかる時間だと言われている。そして、本人が進歩し、心が浄化するにつれて、苦痛は去り、その本質も変化するとのことだ。更に苦しみを受ける時間は現世よりも長く感じられると言われる。それは睡眠がないからだと。ある程度の浄化した霊が、時間も空間もなくなる状況となるようだ。
次は無限の苦しみについてだが、神様は人間を素朴で無知なものとして、お創りになったと言われ、本人の自由意志による行為で、その苦しみの期間に長短はあるが、人間はすべて進歩すると言われている。このお言葉は、本当に救いがある内容だと思う。どんなに悪事を働いていたとしても、いずれは、進歩して行けるのだ。進歩の決意の目覚めが遅くとも。
これこそ、神様のお心なのだと思う。

1230回目の瞑想 

 
ーーー絶対に改悛しない霊というのがいますか。
「悔い改めに極めて時間を要する霊はいる。しかし、決して進歩しないと考えることは、進歩の法を否定することであり、また、その子供は決して大人にならないと、断言することに等しい」
 
ーーー霊の受ける罰の期間は、本人の意志次第であって、決して、一定の期間が本人に課されるわけではないのですね。
「それは課される。一定の期間が本人に課されるであろう。しかし、神は自分の創造物に、善い事をのみ望んでおいでであり、常にその改悛を待ち望んでおいでになる。また、その改善の願いが不毛に終わることはあり得ないのである」
 
ーーーそう致しますと、課される罰が永遠ということはないのですか。
この質問については、4人の通信が書かれている。
最初は前にもお名前が出て来た方で、聖アウグスティヌス霊だ。明日から順番に記載しようと思う。
 
   今回も来世の罰の期間の続きである。どんなに未熟霊であろうと、悪霊であろうと、進歩の法がある限り、進歩しないという考えは間違っているとのことだ。それを例えで言われているが、子供が大人にならないと断言するに等しいとは、驚きだった。けれど、その霊が受ける罰の期間というのは、ある一定の期間課されると言われている。ただ、神様は愛のお方である。私達人間に、大いに期待されているのだ。必ずや改悛すると、それを暖かく見守っておられるのだ。だからこそ、改悛の願いは、お聞き届けになられるのだろう。
最後の質問のお答えはお一人お一人がそれなりに長い。そのお言葉をしっかりと吟味の上、心に留めたいと思っている。

1231回目の瞑想

 
聖アウグスティヌス霊
「自分の常識と理性に問うてみなさい。一時の誤りのために永遠の罰を宣告することは、神の善を否定することにならないか、自問してみられよ。引き伸ばしてみたとて、たかが百年の人間の生涯、永遠に比すれば、何程のことがあろう。永遠!皆さんはこの言葉を正しく理解しておいでか?二、三の過失のため、苦しみ、悩み、終わりのない、希望のない!諸君等の判断力はそんな考えを否定しないのか?古代人達が宇宙の創造主の中に、恐ろしい、嫉妬深い、復讐する神の姿を見たであろうことは想像に難くない。それは、そのような神はキリストの神ではない。キリストの神は、愛、奉仕、怒りを忘れること、これらを至高の徳として置いておいでになる。また、キリストの神はその創造物達がこれらの徳を、義務として持つようにしておいでになる。しかるに、神ご自身が、これらの徳の性質を欠くものであろう筈がない。神は無限の愛、また永遠の復讐であるとすれば、これは矛盾ではなかろうか。諸君は、神の正義は無限であり、人間の有限の理解を超えると言う。しかし、正義は優しさを除外するものではない。だから、もし仮に神が大多数の創造物を、恐ろしい終期のない罰に服せしめられることがあれば、神は優しいとは申せまい。神の為される事が、それ自身完全な正義の規準でなければ、その子等に、正義であれとの義務を課すことがお出来になれようか。更に、罪ある者に課される罰の期間が、本人が改善のために努力する、それ次第で定められること、また、善悪ともに、本人の行為に従って、その報いが各人に割当てられること、これこそ愛と正義の、まさに極致ではなかろうか」
 
今回も来世の罰の期間の続きではあるが、前回お話したように、4人の霊のお答えを順番に記述していく。最初の聖アウグスティヌス霊のお答えは、神様についての内容だ。最後のお言葉にすべてが網羅されていると思う。「罪ある者に課される罰の期間が、本人が改善のために努力する、それ次第で定められること、また、善悪ともに、本人の行為に従って、その報いが各人に割当てられること、これこそ愛と正義のまさに極致」このお言葉で、神様の愛の深さを感じさせてもらえるのではないだろうか。すべては私達人間の自由意志で決めたことが、結果となって現れるのだ。誰を責めることもない、自分自身の責任なのだ。それを神様は暖かく見守って下さっていると、この度のこのお言葉で、確信できた次第である

1232回目の瞑想

 
ラムネー霊
「あらゆる手段をもって、永遠の罰などという考えと闘い、これを絶滅しようと努めなさい。そのような考えは、正義と善の神に対する冒瀆である。またそれは 、今日、知性が開発され始めてから、大衆の間に滲透していった無神論、唯物主義、宗教的無関心、これらの主たる源である。ひとたび心の目が開かれれば、たとえそれが少しでも、そのような奇怪な反正義の考えは、たちどころに見破られる。理性はこれを拒絶する、そして、理性は、この奇怪な罰と神を一緒くたにして追放する、そんな混同は滅多にしない。諸君等に襲いかかる無数の不幸、その源はそこにあり、吾等はその治療のためにここに来ている。この間違った信仰の擁護者達は、これについて積極的な意見を述べることを避けてきたから、吾等が諸君に向けて行う仕事は、おかげでやり易い。教会会議も初期キリスト教の教父達も、この重要な問題を明確に解決していない。かりに、福音書の筆者や神の言葉を例え話に、文字通りに従って、キリストが不滅の火で罪人を脅かし続けているとしても、その言説には、罪人が永久にその火の中に留まるという宣告までは、証明できないのである。
迷える不幸な羊たち!見なさい、諸君に向かって歩いて来る、良い羊飼いを。その人は、諸君等を遠くへ永久に追い払おうとするのでなく、諸君等を群の中に連れ戻すために、諸君を探し求めてやって来る。放蕩息子達よ!自ら進んで選んだ流浪の旅を終え、父の家へ戻って来るがよい。父は両手を広げて待っている、父の家へ、諸君が戻って来るのを」
 
今回は聖アウグスティヌス霊に続き、ラムネーという霊の通信内容である。永遠の罰という考え に対して、これほどのこととは思わなかった。正義と善の神に対する冒瀆であると言われ、無神論、唯物主義、宗教的無関心、これらの主たる源であると言われているのだ。ということで、永遠の罰という考えは間違っているとのことだ。そんな間違ったことを考えて怖がることはないと、自ら進んで選んだ流浪の旅を終えたら、神様は両手を広げて待っていて下さると言われている。希望を与えて下さるお言葉に、有難い思いだった。

1233回目の瞑想 

 
プラトン霊
「言葉の戦い、言葉の戦い!これまで言葉のために流されて来た血、それでも未だ足りないというのかね、もう一度言葉の為に、火邢台の火を燃やさねばならぬというのかね。人間達は<永遠の処罰>(永遠に燃え続ける火>という言葉で、言い争っておる。だがね、諸君等は、この<永遠>という言葉が、古代人が言っていたのと諸君の考えとでは、まるで違うことが分からぬかな。神学者に自分の信仰の源を尋ねさせて見よ。さすれば、彼も諸君等も、次の事に合点がいこうというもの。「ヘブル人の手紙」の中で、ギリシャ人、ラテン人、現代人が<終わりのない許されない処罰>と翻訳して受け取っている言葉は、同じ意味をもっていないということ。<罰が永遠>ということは、<悪も永遠>ということに該当する。左様である。悪が諸君等の間にある限り、罰も存在し続けるという事である。聖書の言葉は、かように相対的な意味で解釈されるべきなのである。それ故に、罰が永遠に続くとは、絶対的なことでなく、相対的なものである。悔い改めをして、すべての者が純潔の衣を身に着ける日を、来させなさい。その日には、もはや涙も、歎きも、歯ぎしりも消えていよう。
人間の理性は、実際は、視野の狭いものである、しかし、そうではあるが、これは神により賜ったものである。この理性に照らして、どんな意味においても、処罰が永遠に続くという解釈を、正しいと思うものは一人もあるまい。もし吾々が罰の永遠性を承認すれば、また悪の永遠性も承認せねばなるまい。しかし神のみが永遠であられるので、神の属性のうち、その最大のものである、即ち至高の力、これを取り捨てない限り、神は永遠の悪なるものをお創りにはなれなかったのであろうよ。と申すのはじゃな、自分の作品に害を与える要素を創り出すようでは、最高の力とは申せぬわな。人間諸君!悲しげな目を、地球の深部まで投げるではない。懲罰を求めて、泣けよ、されど希望を持ってな。償いをせよ、されど心に慰めを持って菜、つまりは、神は永遠の愛であられる、神は絶対の力であられる、また、神はその性正義でおいでになる、この思想を持ってじゃ」
 
今回はプラトン霊のお言葉である。このお言葉から、私達はこの世の言葉ひとつで、善にも向かえば、悪にも向かわせることが出来ることを、痛感した。言葉巧みに人を騙す人もいる。けれど、多くは語らずも、真心で接してくれる人もいる。そして、言葉の意味を取り違えてしまえば、大変なことにもなるのだ。それを戒めて下さっている。更に神様の偉大さを説かれ、その神様が自分の作品である私達人間に害を与えるようなことはなさらないと言われているのだ。そして、最後のお言葉には愛を感じた。神様を信じて、苛酷な試練に苦しんでも希望を持てと、励まして下さっておられる。本当に有難いお言葉だと思う

1234回目の瞑想

 
   
パウロ霊
「神と合一することが人生の目標である。この目的達成のために、次の三つが必要である。ーーー知識・愛・正義。次の三つはこの目的に反するーーー無知・憎悪・不義。皆さんはこの大事な原則に背を向けている、それは神の厳しさを誇張しようとして、神の姿を歪めてしまうからである。こうして、皆さんは人間の心の中には、神以上の温情・辛抱強さ・愛・真の正義があるのだと、自分に暗示をかけてしまう。この人間の心によって、罰の観念が、許しがたいものにされ、こわされてしまう。丁度、人間の心のせいで、拷問者・死刑執行人・火刑などを具えた中世の政治と同じ程に。今日、あの理不尽な復讐の原則が、法律から姿を消したが、皆さんは、この復讐の原則を神の原則であると、人間に信じさせたいと思われるか?
まことに兄弟である皆さん、皆さんは、自分の教条を握り潰されよ、それを修正などせず、また、これら教条を、善霊達のするように、善行と結び付けて生き返らされよ。焦熱地獄や煮えたぎる大釜の地獄など、鉄器時代ならいざ知らず、19世紀の今日では、もはや小児を脅かす程の空々しい幻にすぎない。小児が大きくなればそれすらも無くなる。ありもせぬ恐怖を弁護し続ければ、社会混乱の種にもなろう。罰についての確たる規準がないために、社会秩序の根本が動揺しているのが見える。生き生きとした熱心な信仰に燃えている人達。来るべき時代の先駆者達、その努力を結集されよ、もはや評判を落とした古くさい寓話に固執するな、現代の慣習・感情・開明と調和した形で、懲罰の真実の観念を復活させ、生命を蘇らせることをされよ。
まことに罪人とは何であるか、正道から逸脱、魂の間違った姿勢、これらによって創造物としての真の目的から逸れた者のことである。この真の目的とは、人間性の原型、聖なる手本、即ちイエス・キリストに象徴される美なるもの善なるものを、崇敬することである。
懲罰とは何であるか。かの間違った行為の当然の結果である。正しいものへの背反が、もう金輪際嫌になる程の苦痛の量である。懲罰は刺戟である、即ち、苦痛によって、もう放浪の旅を止めたいと、魂に決断させ、正道に引き戻す刺戟である。懲罰の唯一の目的は更生にある。故に、罰が永遠であると仮定すれば、懲罰そのものの存在の意味が失われることになる。
創造主の要素である善、被造物の要素である悪、この二つが並んでどこまでも存続するという、考え方をやめなさい。これある限り、永久に正当化されない罰の基準をデッチあげることになる。これに代え、少しずつ不完全性は減っていくもの、再生を重ねれば懲罰は次第に減るもの、これを確信されよ。これあってこそ、正義と愛は結び付き、神と人との合一の教義が、美事に実を結ぼうもの」
 
今回は最後のパウロ霊のお言葉である。やはり、素晴らしい内容だと思う。どのお方も言われていることは全く同じだ。愛のあるお言葉で、霊的真理を語られていると思う。人生の目的は神様と合一することだと言われ、目的達成のためには知識・愛・正義のこの三つが必要とのこと。この目的に反する無知・憎悪・不義を行う人は、神様と合一することに背を向けている人と言われる。そして、罪人については、正道から逸脱、魂の間違った姿勢によって創造物としての真の目的から逸れた者だと言われている。それ故に懲罰は決してその本人を痛めつけるためにあるのではなく、唯一の目的は更生にあると言われている。懲罰の真実の観念をしっかりと胸に刻まないといけないのだと思う。最後には再生を重ねることで懲罰は次第に減ることを確信しなさいと。これこそ、正義と愛は結び付き、神様と人との合一の教義が、美事に実を結ぶことになるとのお言葉に、魂に響き、感動した次第である。
4人の霊からの通信はこれで終わる。
次回は引き続き筆者の注解が書かれているので、それを記載しようと思う

1235回目の瞑想

 
[注解] 人間に刺戟を与えて、徳の獲得に向かわせること、良い報いの希望と罰の恐ろしさで、悪から展示させること、この事が望ましい。しかし、道理にかなわぬことで罰をちらつかせれば、目的が達せられないだけでなく、罰そものの否定を生もう。人々の心に、道理にかなった形で、来世の報いと罰の考え方を示しなさい。そうすれば、人々は拒否しないだろう。このことについて理に合った説明は、心霊主義によって得られる。
永遠の刑罰という教義によって、至高の存在である神は、無情な神となった。この神の観念とは次のように言えよう。彼は極めて親切で情け深く寛大で、自分の周囲の者の幸福を望んでいるが、同時に嫉妬深く復讐心に富み、恐ろしく厳格で、どんな犯罪や神法違反でも、その過ちが法の無知から来るものであっても、最も恐るべき苦痛をもって、人間の四分の三を罰すると。このような神の性格についての見解は、明らかに矛盾があるのではなかろうか。そしてなお、神の所業は人間の行為以上に承認し難いものではないか。この教義にはもう一つ矛盾がある。神はすべてのことを予見なさるわけだから、魂を創られる時、それが神法に違反するとか、永遠に惨めな状態に落ちることも神が予定されているわけで、このことは先刻神が知っておられるに違いない。だが、このような憶測は道理に適っているだろうか。または容認できるものだろうか。これに反して、悪事をすればそれに応じた罰が与えられるという教義の方が、理性と正義に適っている。神は魂を創られる時、それは無知なるが故に、過ちを犯すことを、はっきり見越しておられたわけだ。しかし、神はまた、この魂に次の事を予め定めておかれた、即ち、この過ちにより、過ちの痛い報いを経験することで、この魂の目が開かれるという事を。神はその悪行の償いを魂に強制なさる。だが、これはその魂が、これによって、しっかり善に根ざすようになるためである。こうして、希望の扉は、その魂に決して閉ざされることなく、苦痛から解放される時は、浄化のための努力の量で決まるように作られている。もし、来世の懲罰の教義が、この見地で立てられていたら、誰もこの真実を疑う者はいなかったと思う。
<永遠の>という言葉は、俗に、終わりが予知できない長い期間をさして、比喩的に使われる。最も終わりはやがて来ることは分かっている。例えば、山の頂上や、北極・南極の<永遠の雪>の話をしたり、また、我々は地球に終わりがあることは知っており、その状況に地軸の変動や何かの大変動で変化することも知っている。従って、この場合<永遠の>という言葉は、無限に続くという意味ではない。また我々は長患いで苦しんでいる時は、毎日が永遠に続く苦しみの連続だと言うのではおかしくないだろうか、何年も何世紀も何千年も悩んだ霊達が、自分のことを同じように表現するのは。更にもう一つ忘れてならぬ事がある。
これら霊の進歩の未発達性の故に、彼等には自分の道の片鱗が見えないのである。それ故、自分達が永遠に苦しむように運命づけられていると信じ込んでしまうのである。こう信じ込むことも彼等の罰の一部である。
異教徒タルタロスから借用した、焦熱地獄や拷問をもつ現実の火の教義は、今日では、優れた神学者達は皆捨てている。彼等は、火という言葉は、聖書では比喩として使われており、精神の火を意味すると考えている。我々のように、霊界通信で目の当たり来世の出来事を観察してきた者には、その苦しみといっても物質的なものでないということ、しかし、その故にいっそう責め苛まれるものであるということ、よく理解できる。また苦しみの期間についても、神学者の多くも既述の枠を認め始めており、永遠という言葉も、個人についての事でなく、不幸の法である懲罰の原理そのものの事だということが、理解され始めている。この解釈を宗教がみな承認するようになれば、唯物主義にはまり込んで苦しむ多数の者達に、神と来世への信仰を生むに至ろう。
 
今回は霊界通信を通じての筆者の意見である。おおよそ、得心できる内容であったが、唯一つ、納得いかない言葉があった。それは、我々は地球に終わりがあることは知っており、と言う部分だ。シルバー・バーチ霊は確か地球は終わりになることはないと説いていた筈だ。私もそのように思っていたからだ。そこだけは、納得できなかった。
 
次回からは、また質疑応答に戻るので、それを記載しようと思う

1236回目の瞑想

 
ーーー肉体の復活という教義ですが、これは霊達が教えてくれている、再生、これのことでしょうか。
「他に何があるかね。これは表現上の問題でな、他にもよくあるが、言葉通りに受け取るから筋が合わなくなって、真実とは遠くなると、こういうことである。これらの言葉を理性的に説明してみられよ。いわゆる自由な思考者達は、熟慮が身についているから、難なく正しくそれを読み取るだろう。自由な思考者達は、他の人々と同じく、いやそれ以上に、未来というものを求めている。彼等は何よりも信を求める。だが、科学の認めないものは一切認めることはできない。何度も人生をもつという教義は、神の正義に合致しておる。これなしでは分からない事、それをすべて、この教義は説明してくれる。されば、この原理はすべての宗教の中にもあるというものだ」
 
ーーーでは、教会で、復活の信条の中で再生の教義を、実際教えているでしょうか。
「それは分かりきったこと。だが、聖書のいろいろな箇所に、再生が暗示されていることが、そのうち分かるだろう。だから、霊達も時々申しておるように、霊達は宗教を廃棄するために来るのではない。それどころか、反対できない証拠を見せて、宗教を確かなものとなし、これを是認するために来ている。しかし、今は、比喩的な表現を廃止すべき時が来ている。そこで、霊達は例え話を使わずに語り、明快直截に意味を伝える。こうして間違った解釈に落ち込む危険を排除している。このようなわけで、遠からず、現在よりはるかに多数の、真に宗教的で真実の信を持つ人々が増えることになろう」
 
今回は肉体の復活という内容である。最初の質疑応答でのお答えで、自由な思考者達について書かれているが、やはり合点がいかない。何よりも信を求めるのに、科学の認めないものは一切認めることはできないと言われている。これは批判してのお言葉なのだろうか。信は求めるものの、科学で実証されないものは、再生も認めないということを言われているのか。けれど、再生は神様の正義と合致していると言われている。自由な思考者達というのは、正しく読み取ることはできても、再生を認めることはできないということを言われているのであろうか。私自身、正しく読み取ることができていないようだ。
次の質疑応答だが、今現在も再生について、知っている人は少ない。人間が霊であるということ自体を知らないのだから無理もない話だ。いつになったら、真実を知る人が増えるのだろうか。それが一番問題なのではないかと思ってしまう。

1237回目の瞑想

 
ーーーこの宇宙には、霊の真価に見合った喜びや悲しみの、特定の場所が存在するのですか。
「この質問については既に解答を与えている。喜びと言い悲しみと言い、霊が到達した浄化程度に見合ったものである。その幸福といい不幸といい、それは霊の内にあるもの。霊はいずこにも在るのだから、あそことかこことか、境界や境域で仕切られた場所があるわけではない。肉体に宿った霊の場所は、その住む世界の進歩いかんによって、幸福であったり、不幸であったりする」
 
ーーー天国と地獄は、それでは、人間が想像してきたようには、実在しないのですか。
「それは象徴にすぎない。至るところに、幸福な霊、不幸な霊がいる。だが、前に申したように、同じ発達程度の霊達は、共感によって集合する。だがそれも、霊が完全に到達すると、意のままに会えるようになる」
 
[注解] 良い報いや懲罰のために、特定の場所が配置されるというのは、人間の想像の中にしか存在しない。人間にはその深い本質が分からない場合、それに形を与え具体化して考えるのは、人間の本性から出ている。
 
ーーー懲罰というのは、どう受け取ったらよろしいですか。
「肉体的、精神的な苦しみをいう。償いの期間である。神は、人間に、懲罰に耐え自分の悪行の償いをさせ給う、それは概ね地上生活を通じてである」
 
[注解] いわゆる懲罰も、比喩的表現であって、そのための特定の場所があるわけではない。それは自己の罪咎を償う未発達霊達の状況を示すものである。彼等が浄化を遂げて幸福の域に達するまで、そうしたことがある。この浄化は度重なる再生という方法が有効なので、懲罰も地上での試練という形で行われる。(明日に続く)
 
今回は天国と地獄と懲罰という内容である。今回の質疑応答の内容は、今までも何度も繰り返し書かれていたことなので、天国とか地獄のような、ある一定の場所があるのではないことは承知している。今まで如何に人間が勝手な想像をしていたのかが分かる。懲罰についてだが、概ね地上生活を通じてと言われている。注解でも、地上での試練という形で行われると書かれている。確かに懲罰として、償う場合があるのだと思う。けれど、更に進化するための地上の試練もあると信じている。地上に生まれて来た人全員が懲罰のためだけとは、考えたくない。これは私の勝手な思いかも知れないが。そうあって欲しいと思っている

1216回目の瞑想

 
ーーー苦しむ霊達の姿を見ることは、善霊にとっては苦しみではないでしょうか。もしそうとすれば、善霊の幸福はどうなりますか、幸福が損なわれるわけですから。
「善霊が低級霊の苦悶を見て不幸になることはない。彼等はそれにはちゃんとした目的があることを心得ているから。善霊は進歩のために苦しむ者達に手を差し伸べる。これが彼等の仕事、また、これが上手く行く時、彼等の喜びがある」
 
ーーー成る程、その苦しむ霊が善霊にとって他人で、格別関心がない時は、納得できます。ですが、その苦しむ者が地上で自分の愛する者であった場合、その懊悩を見ることは、心安からぬものがあるのではありませんか。
「宗教はどの宗教も、あの世に行った霊は地上に残した者達に心を配り続けると教えている 。もし霊が諸君の苦しみに目を向けぬとすれば、彼等は死ぬと他人になるということになりはせぬか。霊は諸君の苦しみを見ている、だが観点が違っている。彼等はかように心得ている、もし諸君が苦難を甘んじて耐えれば、それが諸君の進歩の助けとなるのだと。彼等は苦しみは一時と判っているので、その事よりも、諸君の不屈の精神の欠如、これが進歩を遅らせるので、この方で心を痛ませる」(明日に続く)
 
今回も来世の喜びと悲しみの性質の続きである。私達人間が苛酷な試練を体験して、苦しく辛い思いをしていることは霊界側では見て下さっているのだ。シルバー・バーチ霊も言われていた。その人が苦難を耐えるのを、ただただ見守っていることほど、辛いものはないと。けれど、その人の進歩の為には手出しをすることは許されないのだと。そのお言葉を読んだ時にも思ったが、そのお辛いお気持ちは察して余りある。けれど、その本人のためには、それが真の愛なのだと思う。それは、肉親であろうが、愛する者であろうが、また全く関係ない人であっても、気持ちは同じなのではないかと思う。手を差し伸べることで、進歩が遅れるのだとしたら、やはりそれは神様の摂理に反することなのだから

1217回目の瞑想

 
ーーー霊にお互いに自分の心を隠すことが出来ず、また、生前の行為はすべてあけすけになっているとすれば、人を痛めたことのある者は、いつもその犠牲者の前に身をさらしているということですか。
「常識から言っても、まあ、そういう事だね」
 
ーーー悪事はすべて公表され、犠牲者の前にいつもいなければならないということは、罪を犯した霊にとって、一つの懲罰ではないでしょうか。
「その通りである。しかも、諸君等が想像するより、もっと重い罰である。だが、これは本人が悪行の償いをするまで続く、その償いが霊魂としてであれ、新しく肉体をとって人間としてであれ」
 
[注解] 我々が霊界に入ると、過去はすべて白日のもとにさらされる。自分の行った善事も悪行も等しく知らされてしまう。悪人は彼の犠牲者から目を背けようとしても、無駄である。その前から逃れようとしても、逃れることは出来ない。彼等がそこに居ることは、悪人にとり罰であり、良心の呵責の源となる。これに反し、誠実な霊は、絶えず親切と善意で囲まれることになろう。
現世においてもそうだ。悪人にとり、犠牲者の存在は、これ以上の苦痛はなく、それから逃れるため必死となる。迷いから醒めて、自分のした悪事を悟り、隠していた行為が明らかになり、偽善の数々が暴露され、これを目にし、しかも犠牲者の前から身を隠すことが出来ないと知った時、一体どうなるだろう。誠実の魂は、完全な平和を享受する時、邪悪な魂は、恥と後悔と良心の呵責に苛まれるのである」(明日に続く)
 
今回も来世の喜びと悲しみの性質の続きである。悪事をしている人は、肝に銘じて欲しいと思う。死後はすべてあからさまになり、その犠牲者の前にいつもいなければならず、逃れることは出来ないと言われる。しかも私達が想像するよりも、もっと重い罰とのことだ。そして、悪事を働いた本人がその償いをするまで続くのだと断じておられる。更にその償いが霊魂であっても、新しく肉体をとった人間としても続くとのことだ。余談だが、最初の質疑応答でのお答えが今までの感じとは違い、気さくというか、人間同士の会話のようで、親しみやすさを覚えた。また、注解でも書かれているように、誠実な霊は、完全な平和を享受出来、邪悪な霊は、後悔と良心の呵責に苛まれるのだ。この事がこの世にいる時に知っていれば、誰も悪事を働こうとは思わないだろう。知る知らないの違いの大きさに改めて感慨深く思った次第である。

1218回目の瞑想

 
ーーー霊が未発達の時代に犯した失敗の記憶があって、そのため、霊が浄化を遂げても、幸福の障害になるということはないでしょうか。
「そんなことはない。もうその罪は償われており、そのための試練も見事に耐え抜かれているのだから」
 
ーーー今後の浄化のために、なお試練を受けねばならない、そう思うと、辛い気がかりで幸福も失せてしまいませんか。
「それはある、だが、それは悪がなお染みついている魂の場合で、それが浄化された時、初めて十全の幸福が味わえる。しかし、ある程度まで進歩していれば、今後うける試練のことを思っても、一向に苦痛などは感じないのである」
 
[注解]  魂が浄化のある段階に達していると、既に幸福の予測を持っている、心は満足感で、一杯、目にするものすべて、周囲を取り囲むものすべてに幸福を覚える。万物の驚嘆すべきこと、神秘のヴェールも一部は既にはがされており、神の完全性が四囲に輝いて見え始めている。
 
今回も来世の喜びと悲しみの性質の続きである。
これについての感想はパスさせて頂こうと思う。
 
今朝、ペットロスから救ってもらった長女のミニチュア・ダックスの蘭が穏やかに逝きました。
実は今月の6月5日の狂犬病の注射で、病院に行った時に、呼吸がおかしいと言われました。検査の結果、副腎種大とのことで、ステロイドホルモンが出過ぎているとのことでした。MRIを撮っていないので、正確にはわからないけれど、結果から考えて下垂体に腺腫という良性の腫瘍があるのではないかとのことでした。そのせいでステロイドホルモンが出過ぎて、肺機能が低下し、呼吸が速くなっているとのことでした。呼吸が苦しくなるかも知れないとのことで、酸素ハウスを一応レンタルしましたが、ほとんど使わずにすみました。ただそれを持って来てくれた人とのご縁が出来たことが大変に有難かったです。シニア犬についての介護の仕方などを心得た方だったのです。
また、先日視て頂いたミディアムのTさんに 21日に蘭の思いを聞いてもらったのです。(この方には蘭の状態は一切言っていませんでした。直前の蘭の動画を送っただけでした)
その内容は、今のあるがままの状態を受け入れていると、そして準備段階に入っていると言われました。そして呼吸が少し苦しそうですね。息苦しいと言った感じですね。でも思ったほど、本人は苦しいとは思ってないですよ。と言われたのです。確かに呼吸は速くてなかなか寝られない時もあったので、苦しいのではないかと心配していたので、本当に蘭のことがわかっていると思いました。また、その方が蘭のことで瞑想している時に、金色の光の泡のようなものに蘭が包まれて上にフワーっと上がって行く様子が視えたそうで、あまり長くはないとその時思われたそうです。そして、私に心配しすぎないようにと、自分のためにあたふたしなくてもいいからとの蘭の気持ちが伝わってきたそうです。
動物は寿命が来たことがわかるそうで、しっかりとお役目を果たせたので、今はとても穏やかな心持ちだとのことでした。そして、いつも通りに過ごせるのが一番の幸せとのことでした。また、息子がそばについていて頭を撫でているとのことで、その時が来たら、僕が一緒に連れて行くから、大丈夫だから心配しないでいいからと何度も私に言っていると言われていたのです。なので安心していました。
そして、先程、亡くなったことをご連絡すると、私の頬にキスをしていかれたようだと。そして、蘭は沢山の注がれた愛情を礎に、素敵な進化の道をこれから進まれると言って下さっていました。本当に有難い限りです。
 
私自身も、起きる直前に光に包まれているような心地良さに目が覚めて、蘭に気付いたのです。なので、その時逝ったのではないかと思っています。
亡くなったことは悲しいし、寂しいですが、苦しむことなく逝けたことが本当に何よりでした。ミディアムシップよりも前の16日の私自身の瞑想時にも、 神様に、そして今回は息子に、安楽死をさせたリーザのことがトラウマになっていることはわかっているでしょ?と言って、苦しまないで逝けるならば、早くてもいいから連れて行ってとお願いしていました。
その時に浮かんだ言葉が、「心配はいけないよ。心配や不安は護る力を阻害するからね。蘭は護られているから大丈夫だよ。それを信じることが一番。信じることは母ちゃんの専売特許でしょ?!とにかく信じること!」と。そして今回のミディアムシップのお言葉で、温かく見守ることができました。蘭は本当に優しくて穏やかないい子でした。
奇しくも今日は私の誕生日ですが、その日に逝くことになろうとは。
やはりそれだけ深い縁だったのだと思います。
神様に霊界の方々に感謝の想いで一杯です。

1219回目の瞑想 

 
ーーー同じ段階にある霊が共感の絆でつながっていれば、それこそ彼等には幸福の源ではないでしょうか。
「善意の愛で共鳴し合える霊の結びつきは、最大の喜びの一つである。それはもはや利己的な感情で脅かされる恐れが全くないのだから。現世でも、諸君等はいろいろな分類で集まり、その集まりを通じて喜びを享受する。そのように霊の世界でも、同じような心情者達が集まって集団を成し、その世界の幸福を形成している。進歩した霊達の抱く純粋で誠実な親愛の情、彼等自身そのものであるこの深い愛、これぞ至福の泉である。そこには人をだます者もなく、偽善の徒もいない」
 
[注解] 人は、誠実と高潔で結び付ける者同士が出逢った時、この世で第一の至福の果を手にする者である。地上よりはるかに純粋な生活の中では、このような幸福は、更に聖、更に無限なものがある。霊界れは、心と心がつながる者同士が集まり、利己でその親愛の情を冷やす者はいないのだから。まさに愛こそは生命、この愛を殺すものは利己である。
 
   今回も来世の喜びと悲しみの性質の続きである。今回の内容は、やはり、霊界に早く行きたくなる内容だった。善意の愛で共鳴し合える霊の結びつきは、最大の喜びの一つと言われている。それを考えただけでも、素晴らしい世界だと感じる。ただ、そこは進歩した霊なのだ。進歩すればこそ、体験できる至福の泉なのだと思う。人を騙す人もなく、偽善もないとのこと。本当に憧れる世界だ。注解でも、同じような説明がされている。生命である愛を殺すものは利己だと断じておられるのだ。利己のない世界、そんな世界を見てみたいと強く感じた次第である
※昨日は愛犬の話を読んで頂きまして、誠にありがとうございました。

1220回目の瞑想

 
ーーー地上に在る時、一人は、死を恐れた者、他は、死を冷静にむしろ喜びをもってすら待ち望んだ者、この両者が霊界に入ってから、その段階に差がありましょうか。
 「両者には、かなり大きな差があるかも知れない。但し、その恐れないし、その願望を引き起こした原因によって、相違が帳消しになることもある。死を恐れた者、これを待望した者、その心情はさまざまであろう。霊の段階を決めるものは、その動機である。例えば、自分の苦しみを終わらせたいがために死を望んだとしたら、それは神の摂理への不満、自分が受けねばならぬ試練への反抗、この事は明白である」
 
ーーー来世の幸福を確実にするためには、心霊主義の信仰告白をしたり、霊的現象を信じるなどの必要がありはしませんか。
「もしその必要があるとすれば、これを信じない者、これを学ぶ機会のない者は、その権利を失うことになる。これは馬鹿げたことだ。死後の幸福を保証するものは正しい行為である。どの道を通ってそこへ行こうと、正しい行為は常に正しい行為である」
 
[注解] 心霊主義の教えを信じることは、死後に関する自分の考えがはっきりしてくることになり、自己改善に役立つ。心霊主義は、個人及び民衆の進歩を促進する。それに我々の未来の姿をはっきり教えてくれるし、また同時に、進むべき道、心の支えを与えてくれる。心霊主義は、我々が試練を、忍耐と素直さをもって耐えるように教えてくれる。これによって、我々は進歩を遅らせる間違った道を避け、そのおかげで、我々は幸福に到達する。だが、それ以外の道を通っても、その幸福に到達はするであろう。
 
今回も来世の喜びと悲しみの性質の続きである。最初の質疑応答のお答えには、やはりどんな時にも動機、これが最も肝心なのだという事を、説いて下さっている。死を冷静にまた喜びをもって待ち望んでいるつもりでも、その動機次第では、大きな差も帳消しになってしまうと言われている。その動機が、自分の苦しみを終わらせたいための死の願望だとしたら、それは神の摂理への不満、自分が受けなければならない試練への反抗と断じておられる。確かにその通りだと得心する。霊の段階を決めるものは、その動機だということを、強く肝に銘じたいと思う。次の質疑応答は、シルバー・バーチ霊も言われていたが、何を信じるかではなく、どのようなことを行うかだと。ここでも、正しい行為とある。正しい行為こそが、来世の幸福を確実にするということ説いて下さっている。すべては自分の正しい行為が決め手となるのだ。そう頭では理解はしていても、正しい行為だけしているのかどうかもわからないし、出来ていない可能性も大いにある。本当に心して行かなければと改めて思った次第である。
注解では、心霊主義について、信じることの尊さを訴えているように思う。けれど、高級霊の言われたことに同調されて、それ以外の道でも、幸福には到達するだろうと締めくくっておられる。よく人生は山に例えられる。どこからどう登っても、そしてその道中いろいろなことがあろうとも、最後はみな頂上に辿り着くのだと。とは言え、頂上にたどり着けない人がいるのも事実だ。でもすべての人にその権利があることだけは間違いないのだ。

1221回目の瞑想

 
ーーー霊が再生して、自分の罪の償いをする場合は、物質上の災厄は受けないのですか。その場合、その者の死後、精神上の苦しみだけを経験する。こうでしょうか。
「魂が再生すれば、物質生活の悩みで苦しめられるというのが事実である。だが、その物質的災厄を受けているのは、肉体の方だけである。
諸君等は、人が死ぬと、苦しみから解放されたと言うが、それは必ずしも真実ではない。霊としても、もはや肉体的な苦しみはないだろう。しかし、自分が犯した罪に対して、肉体の苦しみ以上に、もっと辛い精神的苦痛が待っているかも知れぬ。また更に再生すれば、より一層の不幸を味わうかも知れない。前生で富を利己のために乱用した者は、自分のパンを乞わねばならなくなり、貧窮のありとあらゆる苦しみを味わう者となろう。高慢だった者はあらゆる屈辱を耐える者となろう。権威を悪用して、部下を軽んじ冷酷に取り扱った者は、自分よりもっとひどい主人に仕えねばならなくなるだろう。人生の艱苦は、今生で犯した過誤の結果でなければ、それは前生で犯した誤りの償いである。現世の生涯が終わる日、諸君はこのことを理解するだろう。何でも欲望が思い通りに叶えられて、現世の生活が自分で幸福だと思っている者は、自己改善のための努力をしない。そんな束の間の幸福は、この世においてさえ、それ以上の試練を受けて帳消しにされてしまう。さもなくば、生まれ変わって再生した時には、確実に帳消しにされてしまう」 (明日に続く)
 
今回は地上の悲しみという内容である。今回の内容は例えを出されていて、とても判りやすい。しかも、この世での悪い行いには、必ずその償いが霊界や地上生活であるということは、確かに平等なのだと得心できる。このことを胸に、これからも正しく生きることを心がけることが何よりも大事なことだと強く思い、実行して行こうと思った。
※昨日からレンタルサーバーの移行に伴うため、HPが表示できない状態になっています。
今日、改善されればいいですが、今の所不明です。
皆様にお知らせする手立てがないので、それだけが気がかりです。

1222回目の瞑想 

 
ーーー私達の現世の苦労は、いま今生で自分が犯した過誤の罰でしょうか。
「そうではない。前にも申したが 、それは、前生で犯した過誤の償いのために、神が本人に課したか、または、本人が再生前の霊の時代に、自分で選択したか、どちらかの試練である。何故かと申すと、神法違反、特に正義の法違反の場合は、罰せられずにすむということはないのである。もし今生で償わない時は、必ず次の再生で償わされるのである。諸君の目から立派な人が、苦しんでいるのをよく見ることがあるが、あれはこの理由による。彼等は前生での過ちを、今生で償わされているのである」
 
ーーー地球よりも濃厚鈍重ではない世界に魂が再生するのは、これは良い報いなのですか。
「それは、魂が一層浄化された結果である。と申すのは、霊はその浄化に応じて、高級の進歩した世界に再生する。そうして遂に、一切の物質的なものを脱し、あらゆる汚点を浄めつくした暁には、神の御前に、完全浄化した霊達の永遠の至福の中に入って行く」
 
[注解] 我々の地球より物質性の少ない世界では、住人達の求めるものは、物的要素がうすいし、従って肉体的苦痛もそれ程ではなくなっている 。もはや其処では、住人達は低俗な世界でのような、互いを敵視する悪感情を抱かない。憎悪にしろ嫉妬にしろ、そのような動機が存在しないので、彼等は専ら正義と愛と奉仕の法を実践しているからである。彼等には、羨望、高慢、利己心などなく、それらから生じる現世の苦労や不安など、悩みの種は存在しない。(明日に続く)
 
今回も地上の悲しみの続きである。私達の現世での苦労は、前生で犯した過誤の償いのために、神が本人に課したか、または本人が再生前の霊の時代に自分で選択したか、どちらかの試練であると言われている。そして、今生で償わない時は、必ず次の再生で償わされると断じておられる。それは神法違反、特に正義の法違反の場合は、罰せられずにすむということはないからだと言われている。
次の質疑応答だが、地球よりも濃厚鈍重ではない世界に魂が再生するということは、魂が一層浄化された結果だと言われている。更に霊はその浄化に応じて、高級の進歩した世界に再生し、遂には、一切の物質的なものを脱し、あらゆる汚点を浄めつくした暁に、神の御前に、完全浄化した霊達の永遠の至福の中に入って行くとのこと。その情景を想像するだけで心が満たされるようだ。けれど、シルバー・バーチ霊は完全にはならないと言われている。進歩したら、また先が見えて更に進歩するという、とてつもない長い道のりをただひたすらに前進していく、というような内容だったと思う。私としては、今回の内容のように、いつかは完全浄化した永遠の至福の世界へ入って行けるのであれば、大いなる希望として、頑張れるように思えるのだが。どちらが真実なのかは今は全くわからない。今は少なくとも、注解でも言われているように、物質性の少ない世界に再生できることを目標としたいと思う。

1223回目の瞑想

 
   
ーーー地上生活を通じて進歩向上に努めた霊は、また同じ地上に再生できますか。
「できる。本人が自分の使命を完遂していなかったならば、もう一度再生を求めることになろう。だがこの場合は、もはや罪の償いではないのである」
 
ーーー悪い事はしないにしても、物的影響は何一つ払い捨ててもいない人間はどうなりますか。
「彼は完成へ向かっての進歩を全くしていないわけだから、前生と同じような、次の人生をまたやり直すことになる。彼はストップしたままでいる。償いの苦を先へ引き延ばしているわけである」
 
ーーー波風もなく平穏に人生を送る人達がいます。彼等は自分のためには何もすることがないので、心を煩わすことが何もないわけです。このような幸運は、前生で罪を償わねばならぬような事は何もしていなかった、そういうことですか。
「諸君はそのような人物を沢山知っているかな?もし知っていると思うなら、それは誤解である。そんな一生は外見が穏やかに見えるだけである。霊本人がそのような人生を選んだということかも知れない。だが、本人は死に際して、こんな一生は自分の進歩のために何にもならなかったことに気付き、ぶらぶらと過ごした時間を後悔することになろう。活動があってこそ、霊は初めて知識を得、進歩が獲得できる、この事をよく心得られよ。眠り呆けている霊は、いささかも進歩しないのである。<地上の例で申せば>働かねばならない者が、何もする気がなく、ぶらりと外へ出たり、寝床に入ったりする、そのような者に等しい。よくよく心して貰いたいことは次の事、自分の怠け心で作った無益な時間は、必ず自分で償いをせねばならぬこと、その無益さは必ずや未来の幸福の致命傷となる、この事である。どれ程の幸福が得られるか、それはどれ程善を行ったか、互いにその合計に比例する。それ故に、未来の不幸の総計は、人が犯した悪の総計に、本人が人を不幸にさせたその数に、必ずや釣り合っている」
 
ーーー進んで悪意を持つわけではないのに、その不機嫌さのゆえに、周りの人々を不幸にする人がいます。その人の結果はどうなりますか。
「そういう者達は、はっきり言って良いとは申せぬ。このような者は、自分のために不幸になった人々を見せつけられ、これによって悪の償いをすることになる。これが彼等には、絶え間ない叱責となろう。更に生まれ変わった時には、自分が他者を苦しめる原因となったことで、今度は自分が苦しめられることになろう」
 
今回も地上の悲しみの続きである。本人が自分の使命を完遂していなければ、もう一度再生できると言われ、この場合は、もはや罪の償いではないと言われている。悪い事はしなくても、物的影響を捨てていない人にたいしては、完成へ向かっての進歩を全くしていないと、前生と同じような、次の人生をまたやり直すことになるとのこと。またストップしたままでいて、償いの苦を先へ引き延ばしているとのことだ。確かに波風もなく平穏に人生を送っているような人はいるように感じる。けれど、それは誤解とのことだ。外見はそのように見えるだけだと。この世は活動があってこそ、霊は初めて知識を得て、進歩が獲得できるのだと。眠り呆けている霊は、いささかも進歩しないとのことだ。地上の例を挙げて、働かなければいけない人が、何もする気がなく、ぶらりと外へ出たり、寝床に入ったりする、そのような人 に等しいと言われる。そして大事な事として、自分の怠け心で作った無益な時間は、必ず自分で償いをしなければならないと、その無益さは必ずや未来の幸福の致命傷となると言われる。このことは重々心しなければと思う。そして、どれ程の幸福が得られるかは、どれ程の善を行ったかの互いのその合計に比例するとのことだ。なので、未来の不幸の総計は人が犯した悪の総計に、本人が人を不幸にさせたその数に、必ずや釣り合っているとのことなのだ。
最後の問いのような人を知っている。いつも周りは顔色を窺っているのだ。そして、更に不機嫌にならないようにと気を遣う。ただ、不幸というほどのことではない。ここでは、自分のために不幸になった人々を見せつけられ、これによって悪の償いをすることになると言われ、更に生まれ変わった時には、自分が他者を苦しめる原因となったことで、今度は自分が苦しめられることになろうと言われている。そこで私は疑問に思うのだ。周りの人を不幸にした人が再生して、今度はその本人が苦しめられることになると言われているが、その本人を苦しめている人が、また再生すると、また苦しめられるというように、堂々巡りで何も変わらず、進化することができるのだろうかと思ってしまうのだ。どこかでピリオドを打たなければ、延々と続いてしまう。けれど、苦しめられることが、償いだとしたら、ピリオドを打つことで、償いができないとしたら、どうなるのかとも思う。やはり霊界で償い、それにより、改心する、と言うのが理想のように思う。

1224回目の瞑想

 
ーーー悔改めは地上生活中に起こりますか。死後霊界に入ってから起こりますか。
「それは死後である。だが、諸君が善悪のけじめさえはっきり分かれば、地上生活中にも起こるであろう」
 
ーーー死後霊界に入ってから悔改めた結果は、どうなりますか。
「浄化のための、再生の願望である。霊は自分の不完全さに気付く、これが幸福を奪っていたことを。そこで、霊は新しい人生を希求する、そこで自分の欠陥の償いをするために」
 
ーーー地上生活中に悔い改めたら、どうなりますか。
「自分の過ちを償う時間があれば、地上生活中でも進歩をみる。良心の声で自分を責めつけたり、自分の欠陥を目の当たり見る時は、人は常に進歩を見る」
 
ーーー悪い本能が強すぎて、改悛できないという人はいませんか。
「既述のように、進歩は絶え間なく行われることに違いはない。今生で悪い本能ばかりの持主である者は、いつかの人生では善の本能の持主になっていよう。彼が繰返し再生するのは、この目的を達せんがためである。すべての者、必ずや進歩を見、必ずやゴールに到達するもの。しかし、ある者の進歩は早く、他の者の進歩は遅い、それは本人の希求する力に応じている。いま善の本能のみ持つ者は、既に浄化を遂げている者、彼等は以前の人生に於いて、悪の本能の所有者だったかも知れなかったから」(明日に続く)
 
今回は罪の償いと改悛という内容である。悔い改めについての質疑応答だが、 死後霊界に入ってからの場合は、 浄化のための再生の願望だと言われている。霊は自分の不完全さに気付き、これが幸福を奪っていたことを知る。そこで、自分の欠陥の償いをするために新しい人生を希求するのだそうだ。また 地上生活中の場合は、 自分の過ちを償う時間があれば、地上生活中でも進歩をみるとのこと。良心の声で自分を責めつけたり、自分の欠陥を目の当たり見る時は、人は常に進歩していると言われている。
そして、進歩は絶え間なく行われると言われ、今生で悪い本能の持主である人は、やがて、どこかの人生で善の本能の持主になるとのこと。この目的を達成するために繰返し再生するとのことだ。更にすべての人は、必ずや進歩し、必ずやゴールに到達するものだと言われる。ただ、ある人の進歩は早く、他の人の進歩が遅いのは、本人の希求する力に応じているからなのだと。また、いま善の本能のみ持つ人は、既に浄化を遂げている人だが、その人であっても以前の人生に於いては、悪の本能の所有者だったかも知れないと言われている。だとすると、今悪いことのみしている人も、いつかは善を行える人になるということになる。それには一刻も早く、霊的真理を知ることにあるのではないかと思う。霊的真理を知れば、希求する気持ちは当然強くなるだろうから
ここまでで、書きましたが、レンタルサーバー会社とのやり取りが上手く行かず、全く表示できない状態のままでしたので、一旦ここでストップしました。

1225回目の瞑想

 
ーーー生涯自分の罪を認めず、道を踏み違えた者は、死ねば必ずその罪を認めることになりますか。
「左様、必ずそうなる。その時激しく苦しもう。どんな悪をしたかを感じ、自分のせいでそうなった事が分かるから。だが、即座に改悛するとは限らない。強情にも、苦しみながらも、なお悪に耽る霊達がいる。だが、遅かれ早かれ、道を間違っていたことが分かり、これが分かると次いで改悛が来る。高級霊の努力があって、彼等は目を開く」
 
ーーー悪いことはしないが、やる気のない霊というのがいますか。
「世の中のためになる事は何もせず、じっとしている霊達がいる。だが、そんな場合、本人がじっとしている分だけ、本人は苦しむのである。と言うのは、どんな状態、どんな環境にあっても、進歩につながらねば空しいし、その状況下で、本人がなめる苦しみによって、進歩は得られるものだからである」
 
ーーー彼等は自分の苦しみを、早く切り上げようとは願わないのですか。
「確かにその願いを彼等は持ってはいる。だが、苦痛を和らげるに足るエネルギーが不足しているのである。諸君等の周囲には、働くよりは餓死した方がましだと思ってる連中が沢山いないかね」 (明日に続く)
 
今回も罪の償いと改悛の続きである。今回の感想は省きます。
やっと、ネットに表示することができました。今まで、本当に大変でした。けれど、このサイト以外にも、かなり沢山サイトがありますので、古いサイトに関しては、作り直さなければいけない可能性もあるので、まだまだ大変さは続くようです。とりあえず、こちらのサイトを表示できるようになったので、一安心しています。

1226回目の瞑想

 
ーーー霊には、自分で人を傷つければ、痛めつけたその結果が目に見えます。それ故、自分の堕落だとか、進歩の遅れはそっちのけに、人間を邪道に引き入れる悪事をする霊がいます。これはいかがですか。
「こんな事をするのは、改悛の遅れた霊どもである。改悛しても、後になって、更に未発達の他の霊に、邪道へ引き戻されてしまう霊がある」
 
ーーー私共は時折、自分のために捧げられた祈りに、深く心を打たれている霊を見ることがあります。ところが、明らかにもっと進歩しているような霊が、祈りに冷淡でこれを頑として受け入れないことがあります。これはいかがですか。
「祈りは悔い改めた霊の場合には効果がある。思い上がって、神に反抗的で、悪行を続け、堕落の淵に沈んで行く、そういう霊には、祈りは無効である。少しでも改悛の情がきざせば、はじめて効果が現れる」
 
[注解] 人間は死んだからといって、すぐに変わってしまうわけではない。この事実から目を逸らしてはいけない。本人の生涯がよくなかったのは、本人が未熟だったからそうだったので、死ねば直ぐその人間が完全になるわけではない。学習、反省、苦しみを経て目が開かれるまでは、依然、行いも考え方も間違っており、偏見がある。(明日に続く)
 
今回も罪の償いと改悛の続きである。人間を邪道に引き入れる霊とは、得てして、未発達霊ということは当然のことと思う。また、その未発達霊が改悛したとしても、他の霊に邪道へ引き戻されてしまう場合もあるとのことで、よほど、意志が強くないと、霊であっても人間と変わりないようだ。次のお祈りに関してだが、質疑応答がかみ合っていないようにも思う。元々神様に反抗的であったり、悪行を続けているような輩が、お祈りなどするだろうか。と思うのだ。真の意味でのお祈りをはき違えている人は大勢いる。そういう方々のお祈りは、叶えられることはほとんどないと思う。シルバー・バーチ霊はお祈りに関して、「人間はとかく、そんな要求を叶えてあげたら本人の進歩の妨げになる、あるいは人生観をぶち壊してしまいかねない祈りします。祈るということは、叶えられるべき要求が自動的に授かるような条件を整えるために自分自身の波長を高めて、少しでも高い界層との霊的な交わりを求める行為です。」と言われている。これこそが、真のお祈りのなのだということを、知らなければいけないのだと思う。
注解では、死後すぐに人間性が変わるわけではないと言われている。この世でのいろいろな体験を通して、少しでも、レベルアップして死後を迎えることが必須なのだと教えて下さっているのだと思う。

1205回目の瞑想

 
ーーー自殺の結果は、本人の霊の上に、どのように及びますか。
「その結果は、個々の場合によって違う。と申すのは、罰が、どのような経過で自殺に至ったか、その状況に応じて色々と違ってくるからである。先ず、自殺者全員が等しく受ける罰は、失望落胆これである。他は、それぞれの事情で異なる。自殺者の中のある者達は、死後すぐに誤りの償いをさせられる。他の者達は、償いをするとしても、自分が放り捨てた人生よりも、更に辛い新しい人生で、やり直しをさせられるだろう」
 
[注解] 自殺の結果は個々の場合ですべて違っている。という上記の解答は、観察によって確かめられている。但し、その中の幾つか、突然に生命を失ったものの場合は、暴力で生命を奪われたものと同じ結果を示している。突然に生命を失った場合の特色は、霊肉をつなぐ紐が丈夫で切れにくい、切断の瞬間、非常な抵抗を示すことである。これに対し、自然な死の場合は、生命の紐は徐々に弱まり、生命がすっかり燃え尽きる前に、千切れていくのである。暴力的に生命を失った場合の結果の第一は、一般に死後に味わう精神的混乱の期間が長引くこと。第二に、自分は未だ地上で生きているという錯覚を、当分の間持ち続けるということである。
霊肉間にある引力のために、自殺者の幾つかの場合、まだ肉体の中にあるような意識をもち、自分は死んだ筈なのに死んでいないので、激しい苦悩と恐怖を経験する。これは本人が自分で縮めた生命の期間ほども続くものである。自殺の結果がすべてこうだとは限らない、しかし、自分で生命を縮めた者は、勇気と忍耐を欠いたことの結果から逃れるわけにはいかぬ。いつかは、何らかの方法で自己の誤りを償われることになる。実は、ひどく不幸な地上生活を送った霊達が、次のように言っている。自分達はその前生で自殺したということ、それで自ら志願して新しい試練を引き受け、甘んじてこれを耐えたのだということ。ある場合は、自殺したが現世との何かの引っかかりができていて、幸福な国を目指しても、道は閉ざされ、徒にもがいているということである。またある場合は、ただ唯あるのは無益な事をしたことの悔恨、それから受け取るのは失望ばかり、こういうことである。
宗教、道徳、及び全哲学体系は、自殺は自然法に反するものとして非難する。その根本原理は、人間には自分の意志で生命を縮める権利はないということである。しかし、なぜ我々にその権利がないのか。なぜ我々は自分の苦しみに終止符をうつ自由をもたないのか。この点、心霊主義は自殺の実例によって、下記のように主張できる。
自殺は道徳違反として、間違いであるだけでなく、得るものは何一つなく、更に償いまでしなければならないのであると。この心霊主義の教えは、単に理論に留まらず、我々の前に展開される事実なのである」
 
今回も生の倦怠ーー自殺の続きである。自殺をした人の霊として、どのような影響があるかということだが、やはり個々の状況によって違うと言われている。だが自殺者全員が等しく受ける罰は、失望落胆とのこと。また、状況に応じて、ある人は死後すぐに誤りの償いをさせられ、他の人達は、償いとして、自分が放り捨てた人生よりも、更に辛い新しい人生で、やり直しをさせられるとのことだ。如何に自殺というのもが自分にとって、苛酷なものになるかがわかる。このことを知っていれば、自殺など思ったとしても実行には移せない筈なのだ。知らないからこそ、逃げるための自殺をしてしまう。逃げても無駄とわかれば、この人生で頑張るしかないという気持ちになれるのだと思うが。
また注解でも詳細に自殺に関して書かれている。自殺した場合の状態だが、暴力で生命を奪われたものと同じ結果だと言われ、霊肉をつなぐ紐が丈夫で切れにくく、切断の瞬間、非常な抵抗を示すのだと言われるのだ。自然の死とは対照的だ。そして、暴力的に生命を失った場合の結果として、死後に味わう精神的混乱の期間が長引くということ、更には自分は未だ地上で生きているという錯覚を当分の間持ち続けるということがあるとのことだ。これは自殺した人にも言えることなのだろう。
自殺の結果がすべてではないとは言え、霊肉間にある引力のために、まだ肉体の中にあるような意識をもち、自分は死んだ筈なのに死んでいないので、激しい苦悩と恐怖を経験するとのことだ。更に本人が自分で縮めた生命の期間ほども続く場合もあると。自分で生命を縮めた人は、勇気と忍耐を欠いたことの結果から逃れるわけにはいかず、いつかは、何らかの形で自己の誤りを償うことになるとのことだ。そして自殺した人の例として、ひどく不幸な地上生活を送った霊達の言葉を書かれている。それは自分達はその前生で自殺をしたので、自ら志願して新しい試練を引き受けて、甘んじてこれを耐えたのだと。またある場合は、自殺したが現世に対する思いの重さで、幸福な国を目指しても道は閉ざされ、もがいていると。更にある場合は、ただ唯あるのは無益な事をしたことの悔恨、それから受け取るのは失望ばかりだと。このようなことが自殺した先には待ち受けているということなのだ。逃げられるどころか、更に追い打ちをかけられるようなものだろう。今この世の苛酷な試練はどんなに苛酷でも、必ず乗り越えられるものなのだ。耐えるのは辛く苦しいものであることは当然だが、だが、自殺した先のことを思えば辛抱できるのではないだろうか。と思う。自殺の実例をこのように知ることができれば、今増えていると言われている自殺を止めることが出来るのだと確信する。そのためにも霊的真理の普及は欠かせないのだと思う。一人でも多くの方がこの事実を知って欲しいと願って止まない

1206回目の瞑想

 
ーーー人間はなぜ、死滅に対して本能的な恐怖を感じるのですか。
「それは、無ほど恐ろしいものはないからである」
 
ーーー死後も生命があるのではないか、その感じを、人間はどこから引き出すのでしょうか。
「それは、受肉以前に霊であった時の生活の知識からである。肉体に宿っても、霊 の時代のおぼろげな記憶が残っているものである」
 
[注解] いつの時代も、人間は死後の問題に取り組んできた。これは人間にとり当然のことである。現世の生活をどんなに大事にしたところで、その時はほんとに短い、また、いつどんなことで死なないとも限らない、明日のことは分からないし、不安に満ちている、こう感じるからである、死んだらどうなるのか?これが大問題となる、それは永遠に続くのかどうか、それが知りたくなる。これから未知の国で暮らそうとする者は、先ずその国の状況が知りたくなるもの。死んだら何処へ行くのか、永遠に続くのか、これは問わずにはおれなくなるところだ。
消滅の観念は理性に反する。どんなに尻軽の人間でも、いざ自分が死ぬという時には、これから先どうなるのか、自問自答し、自ずから希望を持ちたくなるものだ。来世を信じないで神を信じることは理屈に合わぬ。未来の良い生活の予感というものが、すべての人の胸の奥にある。神はいわれなくそれをお与えになってる筈がない。
大自然の生命、そういう観念が存在するが、これは我々個々人の存在も失われないことを暗示している。何故なら、もし仮に霊的実体が無限の大海に埋没するとすれば、我々の肉体が生き長らえたとて、何になろう。それは我々の死滅に等しいのだから。
 
今回は死滅ーー来世の生命という内容である。確かに知らないということは恐怖に繋がるのだと思う。私自身も死に対して恐怖しかなかった時もあった。それはやはり、死というものがどういうことなのかを知らなかった無知のせいだ。だが、未だに多くの人は知らないままだと思う。だから怖れてしまうのだ。死後も生命があるということは、受肉以前に霊であった時の生活の知識からだと言われ、肉体に宿っても、霊の時代のおぼろげな記憶が残っていると言われている。ということは、死に関して無知でいる人達は、霊であった時から知識がなかったということなのだろうか。または、肉体に宿ってしまったことで、おぼろげな記憶すらも残らなくなってしまったのだろうか。まだまだ疑問は残る。
注解では、人間はいつの時代にも、死の問題に取り組んできたと言われている。分からないことは、不安でしかないから、知りたいと思うことは当然だ。だが、取り組んできたわりには、真実の死の意味は広がっていない。相変わらず、恐いものとして存在しているのだ。未知の国で暮らす時に、その国の状況を知りたくなると言われているが、それは旅行にも当てはまる。行ったことない場所に旅行する場合も、必ずどんな所なのかと、取り敢えず状況を調べるだろう。だが、死に関してはほとんどの人が一向に調べることをしない。ただ怖がっているだけで、臭いものに蓋をする式だ。それではいつまで経っても、死に向き合うことは出来ない。
神様は、未来の良い生活の予感というものを、すべての人の胸の奥にお与えになっていると言われている。その通りなのだと思う。潜在意識ではすべての人は分かっているのだと思う。ただ、顕在意識が勝ってしまっているだけなのだと思うのだ。そのためにも苛酷な体験は必要で、それにより、潜在意識が目覚めてくるのだと思う。でなければ、永遠に目覚めるチャンスがないことになってしまう。神様は公平にチャンスを与えて下さっているのだ。けれど、人間である私達も出来る限り、同胞のために役立てることはできる。少なくとも、真の死の意味を、怖れている人達に教えて差し上げたいと切に願っている。

1207回目の瞑想

 
ーーーどこの国にもあることですが、死後の報いと罰の信仰、あれはどこから来るのですか。
「それは自分の霊が自分にささやく虫の知らせである。それは何らかの目的があって、霊がささやきかけるのである。人間はこれに余り注意を向けない、だから道を誤る。もし、人間が心して、よくよくそれを聞くようにすれば、そのささやきは本人にとって有益なものとなろう」
 
ーーー死の瞬間の時、一番心にかかる思いは何ですか。疑い、怖れ、それとも希望ですか。
「疑いに深い者には疑い、罪ある者には怖れ、善人には希望、これらである」
 
ーーー魂は本人に、霊についてあれこれささやいているのに、懐疑論者が存在するのはどうしたことですか。
「諸君等が想像するよりその数は少ないもの。生前は高慢さの故に無神論の影響下にあっても、いざ死ぬとなると、完全な無神論者ではなくなっている」
 
[注解]  死後生存の信があるところ、道義的責任の信条が生まれてくる。我々の理性や正義感からすれば、万人が欲しがっている幸福が、善人悪人の区別なく分け与えられるということは許されない。ある者は努力してい幸福を得、ある者は怠けていて幸福になる、そんな事が神の思し召しであろう筈がない。神は正義であり善であるとの我等の確信、これよりすれば、神法もまた正義であり善であることは明白であるから、善人と悪人が
神の御前において平等であるとか、善因善果・悪因悪果などはないなどと、そういう考えにはなり得ないのである。このように、我々の内にある正義の感覚よりして、我々は来世の応報と懲罰の直観を引き出している。
 
今回は死後の喜びと悲しみの直観という内容である。最初の質疑応答でのお答えに、自分の霊が自分にささやく虫の知らせだと言われている。自分の霊が自分にささやきかけるということは知らなかった。これは直感のことを言われているならわかるが。ささやくわけだから、直感とは違うようにも思う。今までそんなことは一度も経験がないので、私にはよくわからなかった。死の瞬間に心に思うことは、希望であって欲しいと願わずにはいられない。
懐疑論者については、かなり理屈っぽく、話されているのを耳にするが、いずれはみな死ぬわけで、その時には理屈ではなく、実体験として、わかる日が来るのだろう。
注解での見解と少し違うが、神様は善悪すべてを網羅しておられるのだ。決して、善だけではない。その上で、善人と悪人との来世の応報と懲罰を考えるべきなのではないかと思う。神様は善人だけでなく、悪人に対しても寛大なのだ。だが、因果律という摂理がある。それに従っての応報であり、懲罰であると私は思っている。自分の蒔いた種は自分で刈り取る以外にないということだ。それこそ公平であり、平等なのだと思う

1208回目の瞑想 

 
ーーー神は個々の人間に心をかけておいででしょうか。神は余りにも偉大にすぎ、私達は余りにも小さすぎます、ですから神の御目の中では、さしたることもないかと思われますが。
「神は、御自身で創造されてもののすべてに心をかけておいでになる。どんな小さなものであろうと、神の御前で、小さすぎるということはない」
 
ーーー神は私共に良い報いを与えたり、罰を与えたりするために、私共の行為の一つ一つを気にかけておられるのでしょうか。
「神法が諸君等すべての行為を照らしている。一人の人間が法の一つを破ったとて、神は宣告を下される訳ではない。例えば「汝の貪欲の故に、罰を与える」などとは。しかし、神は貪欲には枠を設けておいでである。病気、また死さえも、この枠を踏み越えた結果である。いかなる場合でも、罰とは、法を犯したその結果なのである」
 
[注解] 我々の行為はすべて神法の下にある。我々が誤った行為をすれば、それが自分には大したことでなくても、それは神法違反である。その違反の結果を身に受ける時は、常に感謝をもってすべきである。何となれば、上記の教訓に示されているように、自分達の幸不幸の創造者は、唯一人自分であるからである。
『一人の父があり、息子を教え導き、生きて行く上の方法を伝授した。息子に土地を与え、さて父は息子にこう告げる、<私はお前に、必要な知識と必要な道具を与えた、だから、お前はこの土地をよく保ち、ちゃんと生活の資が得られる筈だ、だから、もしお前がその通り守るなら、土地は豊かな収穫を与えてくれ、老後の保障までちゃんとしてくれるだろう。もしそれを守らなければ、生えるのは雑草だけであり、お前は飢えて死ぬだろう>と。以上のように教えて、父は、後は息子が自由にやっていくように委せる』
こうして、土地はちゃんと耕され、努力を払うなら、それに見合った作物が実る。息子に怠慢や誤りがあれば、生産に悪い結果が出る。このことは疑いを入れぬことだ。故に、息子は父の指示に従うか、その如何によって、晩年に至り豊かであるか貧窮となるか道が分かれる。神は地上の父親より、もっと先々の事まで配慮していおいでになる。例えば、我々の方では気付いていなくても、神はいついかなる説きでも、霊を我々の元へ送り給い、我々が正しく行っているか、誤っているか、この忠告をなさしめておいでになる。それだけでなく、父親との違いは、息子がもしブラブラと怠慢であれば、彼は過去生の誤りを償うチャンスを逸してしまったことになる。神は常に人間が再生によって過去を償うようにしておいでになるのだから。
 
   今回は応報と罰への神の介入という内容である。最初の質疑応答でお答えには、感謝の気持ちで胸が一杯になった。本当に有難いと思う。次のお答えも素晴らしい。神法が私達人間のすべての行為を照らしているとのことだ。だが、仮に一人の人間が法の一つを破ったとしても、神様は宣告を下される訳ではないと。神様は貪欲には枠を設けておいでだと言われている。この枠えを踏み越えた結果が、病気であり、また死さえもあると。どんな場合でも、罰とは、法を犯したその結果なのだと論じておられるのだ。
注解では、更に詳細に神様を父親として例を挙げて説かれておられる。
一読して欲しい。

1209回目の瞑想

 
ーーー死後の魂の喜びや悲しみに、物質的要素はないのでしょうか。
 「常識に従えば、その喜びや悲しみに物的要素があろう筈がない、魂とは物質ではないのだから。その喜びや悲しみに肉欲的なものはいささかもない。しかも、喜びや悲しみも、地上の時より千倍も鮮明である。肉体から解き放されると霊は感受性が鋭くなる。肉体がその感受性を殺しているのである」
 
ーーー人間は、来世の喜びや悲しみについて考えることを、愚劣で下賎のことと思いがちですが、どうしてですか。
「それは、人間の知性の進歩が不十分なためだ。子供は大人ように物を考えることが出来ない。それに、人間の死後についての考え方は、それまで教えられてきた教育の結果であってーーーそれは即刻修正を要するものである。
地上にはない事柄を説明するのに、地上の言葉は余りに不完全すぎる、そこで地上の事柄を使って比喩で話しをせねばならなくなる、すると、諸君等は実在とは違った形や姿でそれを受け取ってしまうのである。だが、人間の啓発が進むにつれて、人間は、言葉ではうまく表現できなことが分かってくるのである」(明日に続く)
 
今回は来世の喜びと悲しみの性質という内容である。死後の魂の喜びや悲しみについて、魂とは物質ではないから、物質要素があるわけがないと断じている。しかも死後の喜びや悲しみは、地上の時よりも千倍も鮮明なのだそうだ。すべては肉体が感受性を殺しているとのこと。そして、この世での来世の喜びや悲しみについては、人間の死後についての考え方を教えてきた教育の結果だと言われ、即刻修正を要すると論じている。また、霊界通信では、地上にはない事柄を地上の不完全すぎる言葉で、比喩しなければいけないと言われ、そのために、実在とは違った形や姿で受け取ってしまうのだと言われている。だから、誤解や勘違いなどがおきるのだろう。けれど、人間の啓発が進むにつれて、言葉ではうまく表現できないため、正確には実相が伝わらないということがわかるのだと言われている

1210回目の瞑想

 
ーーー完全に到達した霊の幸福とは、どんな事なのでしょうか。
「すべての事を知ること。その心には、憎しみ、嫉妬、羨望、野心、そのようなもののないこと。人々を不幸にする感情がいささかもないこと。これが幸福である。愛し愛されること、それこそ彼等の至福の源泉である。彼等には物質生活のような、欠乏感、苦しさ、悲しみの一切がない、善を為すこと自体が喜びである、何となれば、霊の感じる幸福とはその進歩に応じたものだからである。まことに、最高の幸福とは、最高度の浄化を遂げた霊にのみ味わえるものである。かと申して、その他の者に幸福がないというわけではない。邪悪霊と完全に到達した霊の間には、進歩と幸福の点で無限の段階のひらきがある、霊の感じる喜びとは、常に、本人の精神的地位に比例しているものだからである。ある程度まで進歩した霊にとっては、上位にある霊達の幸福が予感できる。彼等はその幸福を熱望する。しかし、それは羨望と申すより、心を奮い立たせる目標なのである。そこに到達できるかどうかは、一つに自分にかかっていることを承知している。彼等はそこに向かって獅子奮迅する。しかし、心は安らかで明るさに満ちている。それに、彼等は悪霊に患わされるうるささがないので、幸福である」
 
ーーー霊の幸福とは、物質的欠乏感がないこと、と言われました。人間にとっては、物質の欲求を満足させることに、喜びがあるのではないですか。
「その通り、但し、それは動物としての享楽ではあるが。だが、人間がこの充足が得られない時は、苦悩を味わう者ではある」(明日に続く)
 
今回も来世の喜びと悲しみの性質の続きである。完全に到達した霊の幸福とは、本当に素晴らしい!! 物質生活のような、欠乏感、苦しさ、悲しみの一切がない、善を為すこと自体が喜びであるとのお言葉に心が震える思いだ。霊の感じる喜びとは、常に、本人の精神的地位に比例しているものだと言われている。そして、ある程度まで進歩した霊にとっては、上位にある霊達の幸福が予感できるとのこと。私自身はそこまで進歩しているとは思わないが、完全に到達した霊のその幸福を熱望している。そしてそれは、羨望と言うよりも(羨望がないわけではないが)心を奮い立たせる目標と言われているが、まさにそれなのだ。更にそこに到達できるかどうかは、一つに自分にかかっていることを承知しているとのことだが、私もそう思っている。そこに向かって獅子奮迅ほどではないが、一生懸命に努力はしているつもりだ。また、心は安らかで明るさに満ちているとのことだが、そのように努力もしているが、時には気落ちすることもある。そして最後の悪霊に患わされるうるささがないとのことは、実感している。確かに、それがないのは幸福なのだと思う。でもやはり、更に上を目指したい思いは常にある。完全に到達するのは、まだまだ遙かに遠いとは思うが、少なくともある程度まで進歩した霊にはなりたい。そう思って日々努力して行く以外にないと思っている。

1211回目の瞑想 

 
ーーー浄化した霊達は、神の御胸に抱かれ、神の賛歌を歌うという話ですが、どう考えたらよろしいですか。
「それは、神の完全性を教えるための例え話の絵のことである。人々はこの絵を見、神を理解するのである。だが、諸君はこれと似たような話が色々あるが、文字通りにそれらを受け取ってはならぬ。自然界のものはすべて、一粒の砂に至るまで、神の御力を、英知を、その美を歌っている、即ち表現しているのである。だが、至高の城に到達した霊は永遠の黙想に浸っているなどと考えてはならぬ。左様な単調な物憂い黙想など益のないものである。彼等はこの世の煩わしいものから既に解放されており、その事自身がもう喜びなのである。その上、既述のように、彼等は万事を知り尽くしており、これら自分の得た知識を活用して、他の霊達の進歩に役立てている。この段階の仕事に彼等は喜びを感じるのである」
 
ーーー未発達の霊はどんな事に苦しみを感じますか。
「その苦しみは様々、その苦しみの原因が様々であるのと同じように。秀れた霊の喜びが、その進歩の度に応じて様々であるように、未発達霊の苦しみも、その発達の度に応じて様々なのである。その概要は次の通りである。彼等の手の届かない幸福を見ること。他の霊を幸福にする力、その力が自分にはない、その事へのひがみ。自分を不幸に陥れているもの、その事への悔恨、妬み、怒り、絶望。良心の呵責やら言語に絶する道徳的苦悶。彼等は喉から手が出るほど喜びに飢えている。だが、それを手にする力が無いことに悶々としている」(明日に続く)
 
今回も来世の喜びと悲しみの性質の続きである。浄化した霊達について、この世の煩わしいものから既に解放されていると言われ、その事自身がもう喜びなのだと言われている。そうなのだと思う。その上、万事を知り尽くしており、これら自分の得た知識を活用して、他の霊達の進歩に役立てているとのこと。そして、この段階の仕事に喜びを感じていると言われている。だからこそ、早く浄化した霊になりたいのだ。それは誰もが願うことだと思う。それに比べて未発達霊は、手の届かない幸福を見るだけで、他の霊を幸福にする力はないとのこと。更にその事をひがみ、自分を不幸に陥れていると。そしてその事への悔恨や妬みや怒り、更には絶望にと、道徳的に苦悶しているようだ。喉から手が出るほどに喜びに飢えているのに、それを手に出来ないことに悶々としていると言われている。このような状況にならないように、肝に銘じなければと思った次第である。

1212回目の瞑想

 
   
ーーー霊が霊に及ぼす影響は、常に良いものでしょうか。
「善霊同志の場合は常に良い。だが、邪悪霊の場合は、惑わされ易そうな霊、地上生活中に悪の道に引きずり込んだことのある霊、これらが改悛改善の道へ入ることを、執拗に邪魔をする」
 
ーーーでは、死んでも、試みから救われることはないのですか。
「左様、なくなるものではない。だが、邪悪霊の影響力は、人間に対するより霊に対する方が、はるかに小さい。何となれば、霊達はもはや誘惑の手がかりとなる物質欲を持っていないからである」
 
ーーー手がかりとなる欲望がないのに、邪悪霊どもは、どうやって他の霊達を誘惑するのですか。
「欲望が物質的なものではなくなっていても、少ししか進歩していない霊の場合は、その思いの中には残っている。邪悪霊どもは、その欲望が何でも構わない、とにかく目指す犠牲者の霊を、欲望を刺戟しそうな場所へ連れて行って、良からぬ欲望の目を覚まさすのである」
 
ーーーだが、霊にとっては、現実に欲望の対照物は存在しないのですから、欲望を持ったとて何の役に立ちますか。
「これがその、霊に苦しみの種となるのである。守銭奴が自分の手に入るあてのない金を見ること、道楽者が自分の参加できない酒宴を見ること、高慢な人物が望んでもありつけない名誉の前にあること、これに等しい」(明日に続く)
 
今回も来世の喜びと悲しみの性質の続きである。霊が霊に及ぼす影響については、善霊同志の場合は、常に良い影響ということだが、邪悪霊の場合は、他の霊が改悛改善の道へ入ることを執拗に邪魔をするとのことだ。但し、邪悪霊の影響は、人間に対するより霊に対する方が少ないと言われる。それは、肉体をもっていないので、物質欲を持っていないからなのだそうだ。けれど、進歩していない霊の場合は物質欲が思いの中に残っているとのこと。邪悪霊は、どんな欲望でも構わず、その欲望を刺戟しそうな場所へ連れて行き、欲望の目を覚まさせるのとのことだ。それは霊にとって苦しみの種となるのだと、例を挙げて分かりやすく説明して下さっている。

1213回目の瞑想

 
ーーー邪悪霊が身に受ける、最大の苦悩とは何でしょうか。
「犯した罪への罰、それは幾つもあるが、その精神的苦しみたるや言語に絶する。それを経験した者でも、それがどういうものか、人に伝えることが難しいことは、心根に徹して分かっている。だが、その中で最も怖ろしい事は、本人自身が、自分の罪の判決は金輪際変わらず、永遠に続くと、かように信じ込んでいあることである」
 
[注解] 死後の魂の喜びや悲しみについてどう考えるか、これは人間の進歩の程度が上がれば、それに応じたものとなっている。進歩していれば、その分だけ、その概念は洗練され、物質生も少なくなる。見解が理性的であれば、字義通りには受け取れないものとなる。進歩した理性は、魂が霊的なものであることを教えており、また、魂に及ぶ影響が物質に作用するものとは違うことを教えている。しかし、そうだから、もう苦しみはないとか、悪業への罰はないというわけでもない。
霊からの通信は、死後の魂の状態を、理論ではなく事実として教えてくれる。死後の出来事が、我々にはそれでもってあけすけに分かる。それによると、来世の生活は現世の生活の当然の結果であること、想像や空想のデッチ上げでなく現実に、現世で自分の能力を悪用した者にとって、あの世は苦痛であることが示されている。その結果はさまざまで限りないが、概して、各々の魂は犯した罪を罰をそれぞれ受けると言えよう。ある者は、自分の犯した悪事を次から次と絶えず見せつけられるという罰。後悔、恐怖、恥辱、疑念、孤独、真暗闇、また愛する者から引き裂かれること、等々。 (明日に続く)
 
今回も来世の喜びと悲しみの性質についての続きである。邪悪霊が受ける最大の罪とは、犯した罪への罰で、その精神的苦しみたるや言語に絶すると言われている。それを経験した者でも、人に伝えることが難しいということは心底分かっているとのこと。けれど、更にその中で最も怖ろしい事は、本人自身が、自分の罪の判決は金輪際変わらず、永遠に続くと信じ込んでいることだと言われている。
注解では詳細に書かれているので一読して頂ければと思う。
※昨日、UPしたつもりだったが、されてなかった。慌てて今日UPさせてもらった。

1214回目の瞑想

 
ーーー永遠の業火という教説はどこから出るのですか。
「他にも同じ間違いを人間は沢山やっているが、これも例え話を現実と思い込んだのである」
 
ーーーだが、これに対する恐怖は、結果として役立ちませんでしたか。
「周囲を見廻して、それによって自粛する者達が沢山いるかどうか、その通り教え込まれた者達はどうか、よく調べてみられよ。理性に反することを教えても、その印象は永続性もないし、有用でもないのである」
 
[注解] 人間の言葉は 、霊の苦悩を表現する力がないので、人間としては、火という例え以上に的確な言葉を見出せなかったのである。火は人間にとり、そのものズバリ最も耐え難い苦痛の表現であり、また、最も有力な作用の象徴なのである。そこで、<永遠に燃え続ける>という信仰が古人の胸に描かれ、今日まで受け継がれてきた。同じ理由で、どこの国にも、俗な表現がある。<火のように激しい情熱><燃える愛><燃えるような憎悪><嫉妬に身を焼く>等々。 (明日に続く)
 
今回も来世の喜びと悲しみの性質の続きである。今回の内容は人間の浅はかさがよくわかる。どれだけ言葉で苛酷な表現をしたところで、お答え通り、理性に反することは、その印象の永続性もないし、有用でもないとのことなのだ。要するに何の役にも立っていないということだ。
注解での説明が納得いくものだと思う。

1215回目の瞑想

 
ーーー未発達霊に公正な霊達の幸福が判りますか。
「判っている。この幸福が彼等にとり苦痛の種である。何となれば、自分の過誤によって、自分にはそれがないことが判っているからである。しかしながら、霊が物質から解放されると、また新しい肉体生活に憧れるようになるもの。と申すのは、肉体生活はうまくやれば、上記の苦痛の期間を短縮するからである。こうして、彼等は、自分の過失を償う新しい試練を選択する。彼等がそうするわけをよく心得ておかれよ。彼等は各々苦しみを胸に抱いている、自分が犯した悪、自ら進んで行った悪、やれば出来たのにしなかった善、その善をしなかったことの悪、これらのすべてに対する苦しみを。
肉体から切り離されると、霊の視界からヴェールがなくなる。霧が晴れた時のように自分と幸福の間に、はさまっている障害物が見える。それ故、霊は一層自分の過失を十二分に理解できて、苦悩するのである。霊にもはや錯覚はない、あるがままに物が見えるのである」
 
[注解] 肉体を脱した霊には、一目で自分の過去の生活が見えてくる。また、一方では自分の進むべき未来も予見できる。従って、そこへ至るための欠けたものが理解である。彼は恰も丘の頂上に辿り着いた旅人である。彼は見る、過ぎ越し方の道と、これから目的地に至るまでの、未来の道のりを。 (明日に続く)
 
今回も来世の喜びと悲しみの性質の続きである。この内容には、とても考えさせられた。未発達霊は、公正な霊達の幸福が判り、判るだけに苦痛だと言われる。また霊が物質から解放されると、また新しい肉体生活に憧れるようになると言われている。これにはやはりびっくりだった。今は肉体生活から一日も早く脱け出したいと思っているので、憧れるにようになるとはとても思えない。けれど、その理由に肉体生活はうまくやれば、その苦痛の期間を短縮するからとのこと。そして、自分の過失を償う新しい試練を選択するのだと言われる。私達が今この世に存在しているということは、やはり、このような理由からなのだろうか。そして、それぞれに苦しみを胸に抱いていると言われ、自分が犯した悪、自ら進んで行った悪、やれば出来たのにしなかった善、その善をしなかったことの悪、これらのすべてに対する苦しみと断じておられる。ここで、思うのはやれば出来た善をしなかったことで悪となるということだ。これが苦しみになると論じておられるのだ。私自身、どこまでの善をすれば苦しみにならないのかが、わからない。これだと、また来世も肉体生活をしなくてはいけないのかと思うと少しがっくりくる。でも、歎いてばかりいても仕方ない。歎くよりも、今できる限りの善をして行く他ないと気持ちを切り替えて頑張ろうと思う。注解も一読して頂ければと思う。

1194回目の瞑想

 
ーーー後に残された者達の慰めようもない悲しみ、これは当の悲しみの対象である霊自身に、どんな影響を及ぼしますか。
「霊は人が自分を思ってくれることには感銘するし、また自分を愛した人達を名残惜しくは思っている。だが、いつまでもひどく悲しみ続ければ、霊本人にも苦痛を与える。と申すのは、このように悲しみ深ければ、来世への確信とか神への信が欠けていることが目に映るから。また、このことは、悲嘆者の進歩の障害、やがて二人が再会するための障害ともなりかねないと、かように思うからである」
 
[注解] 霊は肉体から解き放たれると、地上にあった時より、ずっと幸福になるので、彼の新しい生命への変化を悲しむことは、彼の幸福を歎なげくことになる。いま二人の友人があり、牢に閉じ込められていたとする。二人はいつか釈放されることになっているが、一人が先に放免されたとする。この友人が釈放されたことを、獄に残った一人が歎くことは、思いやりがある事だろうか。自分と同じように、その友人が獄にとらわれたまま永く苦しむことを望む事は、愛情ではなく自分本位の気持ちではなかろうか。地上で互いに愛し合っている二人の間についても、同じ事である。最初に地上を去る者は、最初に釈放されるのである。もう一人は、彼の釈放を、やがて来るべき自分の番を耐えて待ちながら、喜んであげるべきなのである。
来世が実在し、しかも我々の身近に存在し、それに、いとしい者達は今でも愛情を持ち続けている確かな証拠がある。それだけでなく、我々は彼等と別れ別れになってしまったわけではない。この事もはっきり教えてくれる。この心霊主義こそ、世の最も深く切ない悲しみのもとでも、最も大きな慰めを与えてくれるもの。これは孤独も別れも追い払ってくれるもの。心霊主義こそ、人間が深い孤独にあっても、いつも親しく言葉を交わせる多数の友等に囲まれている事実を示してくれる。
我々は辛い試練に遭えば、もう耐えられないと思う、それはひどく耐え難いので、もう駄目だと、そういう気持ちになってしまう。だが、勇気を奮ってこれを耐え、愚痴をぐっと抑えるなら、この世を終えた時、きっと苦難を耐え切ったことを喜びに思うだろう。それは丁度、治りかけている病人が、辛い治療を耐え忍んだ後の喜びに似ているだろう。
 
今回も愛する者の死の続きである。愛する人の死は、やはり辛いし苦しいし悲しみは深いと思う。それは体験したからこそ、わかる。けれど、その悲しみを長く引きずるのは、相手の霊にとっても、また自分にとっても良いことではないのだ。それを障害と言われているが、やがて霊界で再会するための障害にもなりかねないと言われている。けれど、このようなことを理解している人は極めて少ないのではないだろうか。霊界で障害なく再会するためにも、ぜひ、知ってもらいたいと切望する。
注解では、例として、牢屋に閉じ込められたこととしてわかりやすく説かれている。だが、牢屋であれば、みな喜ぶだろう。そこがとても難しいところだ。この世から姿も声も何もかも消えてしまうから、辛いのだし、悲しいのだ。しかも霊的真理を知らない人は、永遠に会えないと思っている。少なくともまた会えるということが分かれば、少しは気持ちは和らぐのではないだろうか。ただ、私のような霊的実在を信じている者は、牢屋から解放されたと思えば、本当に有難いことだと思える。そして私もこちらでしばらく辛抱すれば、解放されて、再会できるとの希望に胸を膨らませることができるのだ。だからこそ、霊的真理の普及の大切さをひしひしを感じる。一人でも多くの方に死は牢からの解放だということを知ってもらいたい

1195回目の瞑想

 
ーーー忘恩、そして世の友情のはかなさ、それが原因で味わう失望は、また人間の心の悲しみそのものではないでしょうか。
「左様、だが、吾等は諸君等が、これら忘恩、また誠意を欠く友等に対して、憐れみの心を持つよう教えたい。彼等の無情は、諸君等に対してより、彼等自分自身を傷つけることになろう。忘恩は利己主義から出る。利己的な人間は、いつか、自分と同じ冷酷な人間達に会うだろう。次の事を思いなされ、諸君等より善行の士達が、諸君等に優って価値ある人士が、しかも、その愛の行為の見返りとして忘恩をもって報いられた事を。また、イエスの事を思い出してみなされ、その生時、あざけられ軽侮を受け、悪漢か詐欺漢のように取り扱われていたということ。諸君等が同じように取り扱われたとしても、だから驚くことはない。自分自身が良いことをした、この思いこそ、現世の報酬としておくがよい。自分が親切にしてあげた人達について、あれこれ頭を悩ますでない。忘恩があって初めて、諸君等は自分が善事をなす際の、忍耐力が試される。その事が諸君の今後のためになる。諸君の親切を心に留めなかった者達は罰せられる。その忘恩が大きければ、それに応じ罰も大となる」 (明日に続く)
 
今回は失望・忘恩・裏切られた愛情という内容である。私自身にも経験があるので、この思いは本当によく分かる。けれど、その相手に憐れみの心を持つようにと説かれている。しかも、忘恩があって初めて、諸君等は自分が善事をなす際の、忍耐力が試されると言われているのだ。更にそれが今後のためにもなるとのことなのだ。そこまで相手を許すことができないと自分自身の向上にも影響するということなのだろう。また、その相手は自分でしてしまった同じようなことが降りかかるのだと思う。愛の行為の見返りに忘恩をもって報いられた例として、イエス様を挙げておられるが、イエス様を出されては、納得する以外にない。けれど、イエス様ほどの霊恪の持ち主でない私などは、簡単にはできない。だが、今回のお言葉を肝に銘じて、あれこれと頭を悩ますことはやめようと思う。自分が相手を思ってした行為を報酬と考えることで、思い煩う気持ちを吹き飛ばそうと思う。今回はとても身になるお言葉を頂戴できて、本当に有難かった。

1196回目の瞑想

 
ーーー忘恩で失望すれば、人は心を無慈悲、無情にしようと思いませんか。
「実際はそうばかりではない。心の広い人々はただ善行をしたことを喜ぶものだから。彼等は心得ている、かりに彼等の善行をそれを受けた者が現世では忘れても、あの世では思い出し、恥じて忘恩の責めに苦しむということを」
 
ーーーそうは分かっていても、だからといって、現世で心が傷つかないというわけではありますまい。この苦で本人はこう思いませんか、もっと自分が薄情なら、もっと案配がいいのだかと。
「左様だな、本人が利己的な喜びを求めるならば。だが、その種の幸福は誠に憐れむべきものである。そのような人には次の事を理解させたがよい、つまり、彼を見捨てた忘恩の徒は、彼の友情に値しない者達である。また、自分が彼等を見損なっていたのだから、彼等を失ったとて別に悔やむことはないのではないのかと。今に自分をよく理解してくれる、別の友人達が沢山できるだろう。まことに憐れむべきは、自分に言われなき苦しみを与えた彼の者達である。彼等は今に重い罰をもって報いられよう。諸君等はこのような不義に、必ず傷つき冒されることのないよう。この不当な行為に超然としていてこそ、諸君は彼等を超える者であり得よう」
 
[注解]  自然は人間に愛し愛されたいという思いを植え付けた。地上で得られる最大の喜びの一つは、自分と共感する心の持主と巡り会うことである。この共感は、これすべて愛と献身に満ちた至高の霊の世界で、いつの日か彼が味わう、それの毒味である。いささかの利己もないその幸福。
 
今回も失望・忘恩・裏切られた愛情の続きである。やはり自分のしたことは必ず霊界で報いを受けるということなのだ。それがわかる人は、そのことを心得ているので、自分のした善行を喜ぶだけで満足ということになると。確かにそうなのだろう。だが、なかなかそうは思えないのが人間なのだ。けれど更に、不当な行為に超然としていてこそ、恩を仇で返すのような人を超える者になると言われている。要は、それで頭を悩ますようではそのような人と同じということなのだ。一歩先に行けるようになるためにも、そして霊恪を高めるためにも、必須なことなのだと得心し、実行するしかないと心に誓う。
注解でのお言葉も人間ならばみな思うことだ。ただ、その共感を毒味であると言われている。なぜ、毒味と言われたのであろうか。意味がよくわからなかった

1197回目の瞑想 

 
ーーー共感し合う霊は互いに引き付けられるのに、霊が肉体をとると、愛が一方通行となることが多いのはどうしてですか。真底深い愛が片思いであったり、肘鉄を食ったりします。更にまた、命をかけた相思相愛なのに、その愛が冷めたり、憎しみに変わったりもします。
「そういう感情の不一致は一つの罰である。しかしそれは一時的なものだ。それに、本当に愛し合っていると思ってる人はどれだけいるだろう。と申すのは、二人はお互いを外観だけで判断しており、さて一緒に生活する段になると、お互いの愛が気まぐれにすぎなかったことに、やっと思い当たるのである。感じが良くて、素敵な人と、そう思うだけでは不十分。貴方の心を捕らえた外観の裏にある真価が分かるのは、共に住んでからである。その反対に、初めは愛など芽生える筈ないと思えたのに、時を経て、不変の愛に入っていくカップルがどんなに多いことだろう。彼等の間には、互いの長所をしっかり認め合った、そこから生まれた相互畏敬の念が根ざしているのである。霊が愛するのであって、肉体が愛するのではない、この事を心得られよ。また、肉体的な魅力の迷妄が消えた時、霊は結ばれたものの真義に思い及ぶのである。
愛には二種類あるーー一つは肉体の愛、他は、魂の愛。この二つはよく間違えられる。魂の愛は、純粋でうまく共感し合っていれば、永続する。ところが、肉体の愛は壊れやすい。永遠の愛と思い込んでいる二人が、夢うつつの時が過ぎれば、憎み合ったりすることが多いが、これはそのためである」
 
ーーー一緒に暮らさねばならない二人に、心が通い合ってないということは、悲哀の種ではありませんか。それも生活全体が傷つけられるわけですから、ひどい悲しみではないでしょうか。
「それは確かに辛い。だが、それは常に諸君等の方に原因があって、そういう巡り合わせになっているのだ。第一に、諸君等の物差しが間違っている。好き合ってもいない二人が、一緒になるよう神が定めているなど、なぜそう考えたりするのか。第二に、その罪は諸君等自身にある、と言うのは、この結婚で、二人の愛による幸せよりも、プライドだとか野望の満足を目的としたりすることが多いのだから。その歪められた結果が、自ずからそこに現れているのである」
 
   今回は相性の悪い結婚という内容である。今回の内容はいろいろと考えさせられる。確かに、結婚してもすぐに別れてしまう夫婦もいれば、喧嘩ばかりしている夫婦もいる。また年老いてもなお手を繫ぎ合う微笑ましいご夫婦もいる。実は私は主人に一目惚れだった。確かに最初は外観だったのだと思う。けれど、主人の性格はいや人格は稀にみる素晴らしさで、人間としても男としても尊敬できる人だったのだ。亡くなった息子も主人のことを目標にするには高すぎて無理だと言っていた。また私の親類や知り合いなども、主人のようなできた旦那様はなかなかいないと口々に言われていたほどなのだ。例え外観であっても、私の場合は、神様に天命を全うできる配偶者を与えて下さるようにお祈りしていたこと、そして出逢った場所が神社だったことに、お導き頂けたものと信じている。何十年も一緒にいて幸せなのは何よりの証拠なのではないだろうかと思う。
だが、世の中を見れば千差万別だ。言われるように幸せな結婚になるか、不幸な結婚になるかは、それぞれの責任なのだ。後悔しないためには、やはり、神様信じ、霊的真理を理解することが一番なのではないかと思う

1198回目の瞑想

 
ーーー死の恐怖のために多くの人が戸惑いを覚えます。来世を信じる者達の死の恐怖は、いったいどこから来るのですか。
 「そのような恐怖は全くお門違いだ。だが、人々は若い時に、次のように信仰として叩き込まれている。即ち、天国があれば地獄もあると。そして、俗世の事は魂にとっては罪悪だから、大抵の者は地獄に落ちると。それ故、もしそういう信仰が心に残っているとすれば、当然、生きながらの永劫の火の中に投げ込まれる恐怖感を、人は覚えたりするものである。しかし、幼少時の教えがそうであっても、長じて判断力をつけば、多数の者はその信仰を捨て去り、無神論者か唯物論者になってしまう。その結果、当然のことだが、現世の外の何も信じなくなる。
死はまともな人間にとっては、少しも恐いものではない。彼等は来世を確信しているからである。そこの生活は現世より幸福である。その希望が彼等にはあるからである。彼等の日々の生活原理は愛、愛の心が彼等にささやく、やがて入る他界に行き会う人達は、みんな良い人達ばかりだ、この思いが彼等の胸にあるから」
 
[注解] 物的欲望の強い人間は、霊的生活より物質的生活に心を奪われるので、彼等の知り得るのは、この世の喜怒哀楽だけ。その幸福とは唯一、地上の悦楽の満足だけ。だから、心はいつもこの世の成り行きに奪われ、そのためいつも心安まる時なく、目の前の心配事で塞がっている。死は恐ろしい。何故かと言うと、彼等は来世を信じない。死ねば、喜望も愛する者も、みんなこの世に置いて行かねばならないから。
霊的精神的な人物は、感情の所産である人為的な欲望に超然としているから、かりに生活は慎ましくても、俗人共には分からない楽しみを持っている。欲望を統制するので、心は平静で清々としている。善を為す幸せ、その心には、人生は坦々として、波風があってもそれは心を軽く通り過ぎる風、後には何一つ心配の欠けらなどはない。
 
ーーー現世で幸福になる方法、こういう助言は、多数の人にはいかにも定まり文句に聞こえませんか。自明の理のようには思えませんか。結局、幸福の一番の秘訣は、自分の困難に耐えて乗り越えること、こうではありませんか。
「多数の者はそういう見方をするだろう。しかし、その中の少なからざる者達は病人のようなものだ。つまり、医師は正しい食養を提示してくれているのに、本人は一向に生活習慣を改めず、胃弱には悪いに定まっている食事を続けたままで、医師に治してくれとせがんでいるようなものだ」
 
今回は死の恐怖という内容である。死に対しての教えは、教える方もわからないままに間違ったことを教えるので始末に負えない。言われるように、だからこそ、無神論者や唯物論者などになってしまうのだろう。となると、やはり小さい頃に死は恐いものではないという本当のことを知る大切さを痛感する。
注解には、物的欲望が強い人間と言われているが、通常は人間はみな最初は霊的生活より物的生活に心を奪われるのだと思う。そうなれば当然、この世の喜怒哀楽だけになってしまい、その幸福も地上の悦楽の満足だけになってしまうのだ。そうなると心はいつもこの世の成り行きに奪われて、いつも心安まる時はなくなり、目の前の心配事で心は塞がってしまう。そして来世を信じないので、死は恐ろしいと、死ねば、すべてこの世に置いて行かなくてはならず、自分も無くなってしまうという考えになってしまうのだ。けれど、霊的真理を知って理解すれば、死自体については恐怖には思わなくなる。だが、人生を坦々として、波風があっても心はただ軽く通り過ぎる風のように感じることが出来るのかどうかはわからない。何一つ心配の欠けらなどはないと言えるほどの心境にもなれるかどうかもだ。それはやはり霊的真理を知っただけでは、なかなか困難なことなのではないかと思っている。要するに頭ではなく魂で知り理解できなければ、ここまでの心境にはなれないのではないかと思う。
最後の質疑応答でのお答えも例を出されて、とてもわかりやすく説明して下さっている。人間とは如何に自分勝手であるかということが分かる。

1199回目の瞑想

 
ーーーはっきりした理由もないのに、人は時々生の倦怠に陥ります。あの原因は何ですか。
「何もやる事のない状態、何か信念の欠如、食い飽きて飽きあきした状態、これである。自分の資質に合った、有用な目的に向かって努力をしている人には、苦労は少しも不愉快ではない。彼の時間は自分に叶った仕事をしているので、坦々と過ぎて行く。彼は人生の波風にも、甘んじて耐えていける。彼の目は未来の揺るがぬ永遠の幸福に向けられているから」
 
ーーー人間には自分の命を絶つ権利がありますか。
「いや、その権利は神にのみある。我意によって自殺する者は、彼を地上に送った神の命に背くものである」
 
ーーー自殺は常に自由意志から出るのですか。
「自殺する狂人は、自分のしていることが自分に分かっていない、ということである」
 
ーーー厭世自殺をする人達、これはどう考えたらよろしいですか。
「愚か者よ!なぜ世に役立つ仕事をしようとしないのか?そうすれば、人生とは一向に退屈なものにはならぬだろうに」
 
ーーーこの世の苦しみや失望から、自殺に逃げ道を求める者達を、どうお考えですか。
「彼等は人生の些細な苦悩を耐える勇気を欠いた、弱虫である。神は勇敢に耐える者には手を貸し給う、勇気も強さも持ち合わさぬ者達には力を貸し給わぬ。人生の艱苦は試練であり、罪の償いである。黙って耐え忍ぶ者は幸いである、彼等に返って来るものは大きい。他方、自分の幸福を偶然や運に期待する者は、不幸である。偶然や運は、彼等の言い草ではないが、一寸の間は案配が良い。だが時が経てば、その言葉の虚しさが、一層手厳しく思い知らされるだけ」
 
ーーー人を自殺に追い込んだ者達には、その責任はないでしょうか。
「ある。しかもその罪は甚だ重い。何故なら、これは殺人である。彼等はその責任を負わねばならぬ」(明日に続く)
 
今回は生の倦怠ーー自殺という内容である。私達人間は時として、やるせなくなる時は必ずあると思う。例え、有用な目的に向かって努力をしていても。なので、一概には言えないのではないかと思う。もちろん、魂が目覚めていて、霊的真理を深く理解出来ている人ならば、書かれているような状況になるのだと思うが。ただ霊的真理を知っているからと言って、そう簡単に達観できる境地にはなれないと思う。自殺については言わずもがな、だ。神様以外に権利がありよう筈がない。自殺する多くの人はノイローゼになっているのだと思う。なので、考える力もなくなっているように思う。言われるように、世の中に役立つとか、人の為とか、そんなことを考えることが出来るのならば、自殺などしないだろう。次の質疑応答では自殺者を一刀両断しているように思う。確かに自殺は逃げという行為なのだとは思うが、人間はみなその弱さを持っている。だからこそ、霊的実在を知ることで、逃げずに苦しさに耐える勇気が持てるのだ。そうすれば自殺などする人はいなくなる。改めて霊的真理の普及の大切さを感じる。
最後の質疑応答については、実際自殺に追い込まれた人はかなりいるのではないかと思う。この世では自殺に追い込んだとしても、しらを切ることは出来る。だが、当然因果律として、その罪は霊界で、またはこの世で償わなければならなくなる。お答えには、その罪は殺人だと言われ、甚だ重いと言われている。またシルバー・バーチの霊訓に、このようなお言葉がある。
「善か悪か、利己主義か無私か、慈悲か残酷か、その選択はあなたの自由ということです。但し忘れてならないのは、どちらの方向へ進もうと、神との縁は絶対に切れないということです」
そして、必ず因果律は働き、善を選んだ人には善が、悪を選んだ人には悪が、待っている。神様の摂理は絶対だということなのだ

1200回目の瞑想 

 
ーーー自殺する者は、逆境と闘い、絶望の挙げ句自殺したのだと、こう考えることは出来ませんか。
「そういう自暴自棄が自殺なのである。だが、自殺に追い込んだ人物、すなわち、もしかしたら自殺させずにすんだ人物は、自殺した本人より罪が重い。従って、本人は寛大に裁かれよう。とは申しても、彼に何の罪科がないわけではない。もし、彼が堅実さと忍耐に欠けていたのなら、困難を乗り切るため知恵を奮ってベストを尽くさなかったのなら。それにまた、もっと罪のある場合がある。プライドが邪魔をして知恵を働かさなかったとか、肉体労働で生計を立てるのを恥としたとか、社会的地位を落とすくらいなら飢えた方がましだと、そういう考え方をしたのだったら、逆境にめげずこれを耐え、つまらぬ利己的な悪意の批判を物ともせぬ、そういう姿勢の中にこそ、百層倍の高貴さと真実の威厳があるのではなかろうか。つまらぬ悪意の陰口を叩く者共は、少しも困ってない人には善意を示しても、本当に困っている人には手も差し出さない、そういう手合いなのだ。こういうやからのあれこれのために、生命を断つなどは二重に馬鹿げている。死んだからといって、彼等は鼻もひっかけない、そういう事を見ればね」
 
ーーー絶望により自殺と同様に、不法行為の恥辱から逃れるための自殺も、非難に値いしますか。
「不法行為が、自殺によって拭い去られるものではない。それどころか、初めの不法にもう一つの誤りを付け加えることになる。誤りを敢えて犯す勇気があったのなら、その不法行為の結末を見届ける勇気があって然るべきである。神は唯一の審判者であり、不法を犯した諸般の事情を考慮して、その不法の罪一等を減じられることもあるのである」
 
ーーー子供や家族へ恥辱が及ぶのを避けるため、自殺をしたとすれば、これは許されますか。
「そのような手段に頼ることは間違っている。しかし、本人がこれが一番良い方法と考えた末での決行なら、神は本人の意図に目を留められる。と申すのは、これが本人が自分に課した罪の償いであるから。彼の誤った行為は、その動機によって情状酌量されるが、それでも罪は罪である。もし、世間から偏見や中傷や陰口が取り払えるなら、自殺はこれ以上増えないだろう」
 
[注解] 悪事をして面目がつぶれるのを逃れるため、自殺する者は、神の評価よりも人間の評価に重きを置いている。と言うのは、償いのため現世で自殺した、その罪の償いの手段のため、不法行為の罪の重荷はそっくり背負ったままで、あの世へ行く羽目になるのだから。神は人間より冷酷ではない。神は心から悔いる者を許し給う。我々が過ちを努力して償おうとすれば、これを斟酌しんしゃくして下さる。しかし、自殺をしても何一つ償いとはならない。(明日に続く)
 
今回も生の倦怠ーー自殺の続きである。最初の質疑応答でのお答えは、得心できることばかりだ。自殺に追い込む人の方が罪が重いのは当然であると思う。だからといって、自殺する人にも問題はあるのだ。出来る限りの忍耐と知恵とで、ベストを尽くすべきだったと言われている。そして、更に重い罪になるのは、プライドが邪魔をして知恵を働かさなかったとか、肉体労働で生計を立てるのを恥としたとか、社会的地位を落とすくらいなら飢えた方がましだと、そういう考え方をした人だと。つまらぬ悪意の陰口を叩く者達は、少しも困ってない人には善意を示しても、本当に困っている人には手も差し出さない、(ここで大きくうなずいてしまった)そういう手合いなのだ。確かにその通りだ。こういうやからのあれこれのために、生命を断つなどは二重に馬鹿げている。死んだからといって、彼等は鼻もひっかけないと言われている。やはり霊界側はすべてお見通しなのだと、恐れ入る。
また次の不法行為についてだが、神様は唯一の審判者であり、不法を犯した諸般の事情を考慮して、その不法の罪一等を減じられることもあると言われている。自殺をする前に、せめて霊的事実を知ることができれば、神様の采配を知ることができれば、と思ってしまう。
また子供や家族に、恥辱が及ぶような時の自殺については、手段としては間違っていると。けれど、本人がこれが一番良い方法と考えた末での決行なら、神様は本人の意図に目を留められると言われる。それは自分に課した罪の償いであると言われ、更に彼の誤った行為は、その動機によって情状酌量されると。だが、罪は罪だと言われている。ただ、世間から偏見や中傷や陰口がなくなれば、自殺する人もこれ以上増えないとのことだ。
注解での「自殺する者は、神の評価よりも人間の評価に重きを置いている」とのこの言葉に、とても大事なことを教えて下さっていると思う。
神様は目には見えない、けれど人間は見える、結局人間は目に見えることだけに執着してしまうということなのだ。何に重きを置かなければいけないかは、霊的真理を知れば、当然わかる。また、霊的真理を知っていれば自殺もしないだろう。最終的に辿り着くのはそこなのだ。霊的実在を知ること、そこがスタートなのだ

1201回目の瞑想

 
   
ーーー早く楽になりたいと願って、自殺する者について、どうお考えですか。
「これも愚か者の行為である。かような者には、人に役立つ事をさせなさい。そうすればもっと確実に楽に幸せになれる。この者は自殺によって、幸せな国に入る時を遅らすことになる。と申すのは、彼は地上へ逆戻りすることを請い求めることになろう、愚行で切断された人生をやり直すために。善人の聖域は愚行によっては決して開かれることはない、たとえその動機が何であっても」
 
ーーー他人の生命を救うために、または、他者に役立つために、生命を投げ出した犠牲行為は、価値あるものではないでしょうか。
「そのような目的で行われれば、それは崇高である。かような自ら進んでの生命の犠牲は、自殺ではない。神我喜ばれないのは無益な犠牲的行為である。また、自尊心による薄汚れた行為である。犠牲行為は利害が絡んでいない時だけ価値がある。もし、利己の目的で行われるなら、その分だけ神の前では値引きされる」
 
[注解] 他者のために、自分の利益や楽しみを犠牲にする事は、神の前では最大の価値がある。それが愛の法に適っているからである。生命は地上の所有物の中で、人間が最も価値をおくものである。従って、同胞のためにこれを投げ出す者は、罪を犯すものではない、彼は献身を行うのである。だがその前に、彼は自分の生命が死よりも大事ではないのかと、一度問うてみねばならない。(明日に続く)
 
今回も生の倦怠ーー自殺の続きである。自殺の問題は、霊的実在を知ることで、なくなると私は思っている。それ以外、方法はないと断言できる。次の犠牲的行為について思い出されるのが、前にも記したと思うが、命をかけて日本を救った陸軍大臣・阿南惟幾陸相なのだ。映画では、役者さんではあったが、何度かその雄姿を拝見させて頂いた。若き将校のクーデターを抑えるため、日本国のために自分を犠牲にされたそのお姿には、頭が下がる。今の日本にこのような方がおられたら、今のような世の中にはなっていなかっただろうと思ってしまう。日本人としての魂を持った気骨ある人格者だったのだと思う。

1202回目の瞑想

 
ーーー自分で、それが死を早めると分かっている、恐ろしい激情に落ち込んでいる者、しかし、それが習慣になって自分でもどう仕様もなくなっている者、彼は自殺をしているのでしょうか。
「彼は精神的に自殺している。この場合は、三重の罪があるという事が、お分かりだろうか。一つは意志の固さが欠けている、二つには獣のようになっている、三つには神を忘れている罪」
 
ーーーこのような者は、絶望で自殺する者より、なにがしか罪が大きいのでしょうか。
「この者の罪の方が大きい。と言うのは、自分はまさに自殺といえる道を歩いている事を、反省してみる時間があったのだから。時のはずみで自殺する者がある。この場合、狂気といえなくもないある程度の戸惑いがある事がある。だが、質問の彼は狂人よりずっと罪が重い。何故かと言うと、罪の報いである罰は、その犯行をする際の本人の意識がどうだったか、これと常に関係があるからである」(明日に続く)
 
今回も生の倦怠ーー自殺の続きである。最初の質疑応答での例えのような人は、精神的な自殺だと言われ、三重の罪があるとのこと。はずみで自殺する人と比べても罪が重いと重ねて言われている。ここでもやはり本人の動機が重要ということを説かれているのだと思う。

1203回目の瞑想

 
ーーー自殺で自分の苦しみを短くしようと、死の淵へ身をさらす者の場合、間違っていますか。
「神の定められた死の時を待たないのは、常に誤りである。それに、自分の生命の終わりの時が今来ていると、誰に分かるだろうか。自分で最後の時と思っていても、どんな救いの手が現れないとも分からないではないか」
 
ーーー自殺は、普通の状況下では、悪い事は当然のことです。しかし、もう死ぬことが分かり切っていて、ほんのちょっとその時間を早めるだけ、という場合がありますが。
「この場合、神の御意志のままに従う、その気持ちが常に欠けているのである」
 
ーーーこの場合、自殺したら、その結果はどうでしょうか。
「他の場合と同様である。自殺した状況に応じて罪の重さが定まり、罪の重さに応じて罪の償いがある」(明日に続く)
 
今回も生の倦怠ーー自殺の続きである。どんな事情があろうが、神様の定めた死の時を待たないのは常に誤りだと説かれている。人間はみな自分の生命の終わりを知る術はないのだからと。また、最後の最後でどんでん返しがあるかも知れないと言われている。また死ぬことが分かっていたとしても、すべては神様にお任せするということが肝要なのだ。お任せせずに、自殺してしまった結果は、他の場合と同様だと言われ、自殺の状況に応じた罪が決まり、その罪の重さに比例した償いがあるのだと言われている

1204回目の瞑想

 
ーー軽率な行為のために、たまたま命を失った場合、罪がありますか。
「傷つけようという意図も思いもないのだから。罪はない」
 
ーーーある国では、夫人達は夫が死ぬと焼身自殺を遂げます。これはいわゆる自殺ですか。彼女等はその罪を負うことになりますか。
「彼女等は迷信の偏見に従ったのであり、また多くの場合、自由意志というより、権力の犠牲者である。本人達も義務を遂行しているのだと信じている。かような行為は自殺の性質をもっていない。彼等が何と言おうと、これは民衆大多数の無知、精神の低さ、その所産である。文明が発達すれば、かような野蛮なたわけた慣習は消え去るだろう」
 
ーーー愛する者を失った悲しみに耐え切れず、来世で一緒になる期待をもって自殺する者は、望み通り目的を遂げられますか。
「自殺しても、その結果は、期待とは逆になる。愛する人に会えるどころか、この悲しい誤りを犯したために、長期に渡り、目指す相手からは切り離されたままになる。神は、この心根の卑怯、神慮を信じぬ神へ向けられた軽侮、この行為に対しては、いかにも独りよがりの本人の願いに、お応えになる筈はないのである。本人は悲しみの時を短くしようとしたばかりに、却って大きくなった悲しみによって、己が愚行の償いをさせられるのである。かねてよりの望みが叶えられることはないのである」(明日に続く)
 
今回も生の倦怠ーー自殺の続きである。たまたま意図しない死には、罪はないと言われている。次の質疑応答の内容は、そんなことがあるとは全く知らなかったのでびっくりだった。民衆大多数の無知であり、精神の低さの所産だと断じておられる。確かに今の時代にそんなことはあり得ない。次の質疑応答は、愛する者の死で自殺してしまう人は今もかなりいるのではないかと思う。けれど、ここで説かれているように、決して、自殺したからといって、亡くなった愛する人に会えることはないのだ。どんなに辛くても、その悲しみ、辛さ、苦しさを乗り越えることで、また乗り越えるために、この人生を選んだと言えるのだと思う
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