備忘録
MEMORANDUM10(2023/2月〜2023/5月)
日々の瞑想や霊的なことなどを綴っていきたいと思っています
私はクラッシック音楽がとても好きなので、クラッシック音楽を取り入れた形の自由な瞑想をしております。
(マーラー作曲:交響曲9番の4楽章を2回聴く)
写真と内容は関係あるものとそうでないもがあります。
私自身の記録用なので、参考程度に読んで頂けたらと思います。
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1183回目の瞑想
ーーー霊的に高い進歩を遂げている人は、どんな特徴がありますか。
「肉体をまとっている人間の霊の高さは、地上生活での行為のすべてが、神法と一致していること、及び、霊的生命をよく理解していること、これがその証拠である」
[注解] 真に高潔な人は、正義と愛と奉仕の法を、無上の純粋さで実践する人である。彼は常に自分の行為に関して良心に問う、悪い事をしなかったか、力一杯よい事をしたか、自分に対して不満を抱く者はいないか、自分が人からして貰いたいように人にもしてあげたかと。すべての人に対して寛容と愛の心に満ちており、報いを求めることなく善のためにのみ善を行い、正義のため自分の利益を犠牲にする。人種や宗教の如何にとらわれず、すべての人を兄弟と思い、寛容で優しくすべてに愛情を持っている。もし、神がこの者に力と富を与えられたら、彼はこれを全体の利益のために、彼に委された預かりものとみなす。彼はこれを自慢の種とはしない。何故なら、彼は、これを彼に与えた神は、彼からそれを取り上げることも出来ることを知っているから。もし、社会機構のせいで、彼に部下ができたら、神の目からは同輩なので、彼は愛と寛容をもって受け入れる。権力は彼等を精神的に高めるために使い、威張って相手を凹ますためではない。彼は他人の弱点に対して寛大である。それは彼も他人からの寛大さが必要な人間である事を知っているから。また、キリストの次の言葉を覚えているから、<罪のない者が、最初の石を投げなさい>
彼に復讐心はない、だが、恩恵だけは覚えている。イエスの範に習い、彼はすべての罪を許す。それは、自分が他者を許した分だけ、自分を許される事を知っているから。
彼は他者の権利を尊重する、自然法に基づいたものとして。彼は自分の場合も、権利が尊重されるのを望んでいるのである」
今回は高潔な人の特色という内容である。やはり、霊的に高潔な人とは、地上生活での行為のすべてが神法と一致しており、更に霊的生命をよく理解しているとのこの内容から、およそこの世には極々少ないのではないかと思える。私自身、このような人とは、一度もお目にかかったことはないし、またこのようなことが出来る人はこの世にいなくてもいいのでは?と思ってしまう。あまりにも気高いお方なのだ。私のような凡人には、目標にしたいとは思うが、おいそれとは叶うはずもない。いやはや先は遠いと思い知らされる。
注解でも、ため息しか出ない内容ばかりだ。一気に意気消沈してしまいそうになるが、それは本末転倒というものだ。少しでも近付く努力をすることが今の自分に出来ることだと信じて頑張るしかないのだと思う
。
1184回目の瞑想
ーーー毎日の生活で、自己の精神的向上を進め、悪の誘惑にびくともせぬ、そのための最も効果的な方法は何ですか。
「古代のある賢人が、既に諸君に告げている<汝自身を知れ>と」
ーーー私共はこの格言の知恵を十分に承知しています。しかし、この自己認識は、最も習得することの困難なものです。どうやったらこれが習得できますか。
「地上に在った時、私がやったのと同じ事をなされよ。一日の終わりには、私は自分の良心に問いかけ、その日のすべての自分の行為を省かえりみた。何か義務を怠らなかったか、誰か自分に不満のある理由を持つ者はいないかと。このようにして、私は自己認識を行い、自分の改善する必要のあるものは何か、これを確かめるのに成功した。毎晩こうして、その日のすべての行為を思い、良い事をしたのか悪い事をしたのか自問し、神や守護霊に導いて下さるように祈る者は、自己改善のための大きな力を得ることが出来る。と申すのは、神が彼を助け給うからである。これらの質問を自分にしてみるがよい。自分がした事を自分で調べなさい、どんなつもりでそれをしたのか。とくと自分に尋ねなさい。何かを人のせいにしなかったか、公言して恥じるような事をしなかったか。また、次のように自分に問いかけるがよい、<もし、いまこの瞬間、神が私を来世に呼び戻したいと望まれたら、何も隠し立て出来ない霊の世界に戻るためにあたって、私は誰かの目を恐れねばならないことはないだろうか>と。自分のした事を、先ず神に対して、次に隣人に対して、最後に自分自身に対して、どうであるかを審査してみよ。これらの質問の答えが、自分の良心に休息を与えるか、あるいは、何か精神的な痛みを示すか、いずれかであろう。この痛みが貴方の治さねばならないものである」(更に続く)
今回は自我ーー認識という内容である。確かに自己認識はとても困難なことだと思う。どうしても自分のことは欲目で見てしまうからだ。だが、この高級霊の方は、地上での日々の終わりに自分の行った行為について省みることをしていたと言われる。具体的にとてもわかりやすく述べて下さっている。ただ、確かめるのに成功したとあるが、成功しなかった場合はどうなるのだろう。自問自答したところで、全部理由をつけて肯定してしまえば、意味がない。いかに吟味するかが一番大事なことなのだと思う。試しに私も(成功するかしないかはわからないが)一日の終わりに自分の良心に問いかけ、その日の自分の行為を省みようと思う。更にこの後のお言葉も続くが明日記載しようと思う。
1185回目の瞑想
「それ故に、自己認識は自己改善の鍵である。しかし、諸君は尋ねよう<どのように、自分を判断したら良いのか。人間は自己愛の幻想に陥り、自分の欠陥など目に入らなくなり、自分を良い子にしてしまう。守銭奴は、自分は節約して先見の明を発揮しているだけだと思い、高慢な人間は、うぬぼれを権威だと考える>と。これは事実である。だが、諸君は自分を欺くことは出来ない、自己確認の手段を持っている。もし、諸君が自分の行為の何かに疑問を持ったら、自分に聞きなさい。もし他人がそれと同じ事を自分にしたら、自分はどう思うだろうかと。もし、それはその相手が悪いと思えたら、自分の場合も同じ事なのである。神は二つの秤を持ってはおられないのである。また、相手の立場に立って物を考えるよう、努力しなさい。決して相手の者の意見を見過ごしてはならぬ。神は諸君の傍に敵(相手)という鏡を、しばしばお置きになる。友人の言葉より、もっとはっきり諸君に警告してくれるものとして。次に、心に堅く自己改善の決意をしている者は、庭の雑草を引き抜くように、自分の悪の性向を根絶するため、良心に審問しなさい。毎晩、その日の自分の道徳上の収支を、清算せよ、商人が収入と損失を計算する具合に。本人は、収入の方が損失よりも、得なことに気付こう。一日の行為の後を辿ってみて、今日は収支計算はうまくいってる、こう言える者は安眠できよう、やがて死後の世界で目覚める、その瞬間を何の恐れもなく待つことができよう。
吾等に向ける諸君の質問は、はっきり正確に、これをしなさい。決してその増えることをためらってはならぬ。諸君等はほんの数分間、永遠に続く幸福を手にするために、捧げればよろしい。諸君等は毎日、老後の休息を手に入れるため、働いてはいないのかね。この休息こそ諸君等の目指す対象、疲れても苦しくてもじっと我慢をする目的、そうではないかね。だが、どんなに違いがあるだろうか、身体が弱ってしまってからの数日の休息と、徳を積んだ者を待ち受ける終わりのない休息と、この間に。この後者こそ、二、三の努力を払うに値するものではなかろうか。私にも分かっておる、多くの者達はかように言おう<現世は確実にある、死んでから先は分からない>と。だが、これは全く間違いである。吾々はこの間違いを諸君の心から取り除こうと、かように仕事をしておる。つまりは、諸君の心に一点の疑問も残さぬよう、左様な方法で、諸君に諸君の未来の生活をお見せしておる。かような訳で、吾等は諸君の感官に訴えながら、諸君の関心を引き付ける、左様な現象を生起させる、そういう方法で仕事を始めた。そうして今、かように諸君達に、精神的な教示を提供しておる。諸君等が、今度は代わって、これを世に広める役割となる。吾等が『霊の書』を口述してきたのは、この目的のためである」 聖アウグスティヌス
今回も前日の続きの自我ーー認識の続きである。最初のお言葉に、昨日私が書いたような内容があり、苦笑してしまった。どうあっても人間というものは自己愛が強いから仕方ないようにも思う。けれど、私達は自分を欺くことは出来ないと言われている。なので、自分の行為について善悪どちらなのかを知る手段として、自分を他人に置きかえて考えてみれば、自ずと分かると言われている。確かにその通りだと思う。そして、今回の内容の中で一番心に響いたのは「神は諸君の傍に敵(相手)という鏡を、しばしばお置きになる」とお言葉だ。要は敵であっても相手であっても、その姿は時として自分を映す鏡だと言われているのだ。これが真髄なのではないだろうか。だからこそ、相手を許すべきだということになる。相手を憎むということは自分を憎むということにもなるからだ。当然、相手を許せば自分をも許される。この事が分かれば、争いなど起きようはずもない。
真剣に自己改善を決意する人は、毎晩良心に審問し、その日の自分の道徳上の収支を清算しなさいとのことだ。そして、一日の行為を振り返ってみて、収支計算はうまくいっていれば、安心して眠ることができると。更には、やがて死後の世界で目覚めるその瞬間を何の恐れもなく待つことができると言われているのだ。私自身は、今現在も死後の世界で恐れるような思いは全くと言ってないが、真実の休息である「徳を積んだ者を待ち受ける終わりのない休息」を得るためにも毎晩良心に審問して行くことを続けて行きたいと思っている。
この「霊の書」はその目的のために口述してきたと言われている。少しでも広めるお手伝いが出来ればと私自身も記載させてもらっているので、この備忘録を読んで頂ける方々に伝わって欲しいと思っている。
1186回目の瞑想
ーーー地上で、人間が完全な幸福を味わうことは可能でしょうか。
「できない。と申すのは、地上での生命は、人間の試練のため、または罪の償いのため、そのいずれかのために与えられているから。だが、運命を好転さすのも、地上で出来る限りの幸福になるのも、本人いかんにかかっている」
ーーー人類が変革された暁には、人間の地上生活は幸福なものになろうと、想像しております。しかしですね、個々の人間の場合、自分である程度の幸福にはなれないものでしょうか。
「人間は自分自身の不幸を生み出す職人、これはよくある事だ。もし、人間が神法に従いさえすれば、それ程の悲しみを受けることはなく、また、地上生活の澱おりの中にあっても、すべての幸福を確保するものである」
[注解] 来世の実在を確信する者は、現世の生命を、単に旅人の一夜の宿りと思っている。それで、今の苦しみは未来の新しい幸福を開く束の間のものと、また、今しっかりやれば未来は一層よいものになると、心に慰めを持つことが出来る。現世でも、我々は現世の法に背くことで罰を受ける。その法違反及び不節制の結果の苦しみという形で、いわゆる病気もその源を探れば、道からの脱線の結果であることが分かる。この脱線で道を誤り、歩一歩と苦しみの深みに入ったのである。
(明日に続く)
今回は幸福と不幸という内容である。完全な幸福を味わうことは出来ないとは思っているが、はっきりできないと言われると、いささか辛いものがある。地上では、言われるように試練であったり、罪の償いであったりするわけだが、けれどその中にも、やはり完全とは言えないまでも幸せを感じることは出来ると私は思っているし、感じている。次の質疑応答ではそのような事が論じられている。
注解では、霊的実在を確信している人にとっては、この世は一時の旅のようなものだと分かっているし、来世で幸せになるために今を頑張れる。現世でも法に違反すれば、また不節制の結果は自ずと苦しみの結果になると言われている。その脱線で道を誤り、更に深みへと入ると警告している
。
1187回目の瞑想
ーーー地上の幸福は人によって違います。ある人には幸福であることが、他の人には不幸でもありましょう。しかしですね、人類すべてに共通の基準がありましょうか。
「肉体について申せば、生活に必要な資を持つこと。精神について言えば、良心と来世への確信である」
ーーーその立場が違えば、ある人には余分な物が、他の者には不可欠なものと、そういう事はありませんか。またその逆の場合も。
「それはある。諸君等の物質的な観念、偏見、野心、その他の馬鹿げた考え方、これらは物事の真実が分かればなくなっていくものではあるが、これがある間はそれに応じ、質問のような事がある。成る程、数千の収入がある人が何百かに減ったら、自分を全く不運だと思うだろう。何となれば、彼はもはや世間では問題にされず、地位も保てず、馬も馬車も従僕も置けず、趣味も欲望も充たせなくなるから。彼は生活に欠くべからざる物を失ったと思うだろう。だが、彼は本当に哀れむべき存在だろうか?その傍で、多くの人が飢えと寒さで死にかけている、寝るに枕する場所もない多数の人々がいる。賢い者は、自分より下のものと比較し、決して上のものとは比較しない、それが自分を無限へ向かって高めることでなければ」
ーーー本人の行為とは関わりなく、身に降りかかる災難があります。これは最も正直な人にも降りかかります。これから身を守る方法はありませんか。
「もし、諸君が進歩していれば、これら災難にぶつぶつ言うこともなかろう。だが、諸君が必要な努力さえすれば、未来が幸福になるという希望で、常に心が慰められていよう」
ーーー神は何故、そんな価値があるとも見えぬ人達に、富を与えたりなさるのですか。
「現在にしか目の向かない者にとっては、富は恵みのように見える。だが、心得られよ、富は貧困よりももっと危険な試練であることが多い」(明日に続く)
今回も幸福と不幸の続きである。確かに幸不幸は、人によって感じ方は違うと思う。すべての人に平等の幸福は難しいのではないかと思う。お答えを読んでも、肉体生活に必要な資とある、そして、肝心なのは精神であって、良心と来世への確信と言われている。ということは、やはり、霊的実在を知り、理解し、そして確信することで、真の幸福は得られるということになる。次の質疑応答でも、とても大切なことを説かれている。実際に収入が多い人が少なくなれば、がっくりもくるだろうし、働く意欲も湧かなくなると察することはできる。けれど、それでも飢えてはいないのだと、寝る場所もあるのだと言われ、それさえも出来ずに死にかけている人々がいることを取り上げておられる。そして賢い人のように、自分よりも貧しい人と比較して、自分の置かれている立場に満足し、感謝しなければいけないということを教えて下さっているのだと思う。また、身に降りかかる災難であっても、進歩した人は文句は言わないとのこと。それは私達人間が必要な努力さえすれば、未来が幸福になるとの思いで常に心が慰められるからと言われる。更に、富については意外なことを言われている。この世では富は恵みのように見えるが、富は貧困よりももっと危険な試練であることが多い、と。私達人間はどうしても富=幸せと考えてしまうが、霊的には富は危険な試練であることが多く、それによって学ぶべきことがあると言うことなのだろう。
1188回目の瞑想
ーーー文明は新しい必要を生み出すことによって、新たな苦悩の源になりませんか。
「地上の不幸は、諸君が自分の手で創り出した人為的な欠乏によるものである。自らの欲望を抑制し、自分より富む者を羨望の目を持たずに見ることが出来る者は、地上の数多の失望を味わわずに済む者である。最大の富者とは、最も欲しがらない者である。
諸君等は、恵まれた富者達の楽しみを見ては、これを羨む。しかし、彼等の多くを待ち受けているものを、諸君は知っているか。もし、彼等がその富を自分のためだけに使い、利己的であるなら、恐るべき逆転が彼等の前途にある。彼等を羨むことをするな、彼等は哀れむべき者達である。神は時折、悪人に繁栄を許し給う。しかしその栄えは羨むべきものではない。何となれば、やがてその者は涙と歯ぎしりで、それを償う者となろう。もし正直者が不幸に苦しむことがあったら、それは試練である。その者が勇敢にそれを耐えれば、豊かな収穫を刈り取る者となろう。イエスの言葉と思い出されよ、<苦しむ者は幸いである、その人は慰めを受けるであろう」
ーーー物が有り余っていれば必ず幸福だとは言えません。しかし、生活必需品に関しては別です。それを欠くことは、本当に不幸なことではないでしょうか。
「生活に健康に必要な物が欠けている時、人間はまことに不幸である。その窮乏が自分の誤りで起こったのなら、自分を責めねばならぬ。しかし、それが他者の過誤なら、その原因を作った者に重い責任がある」(明日に続く)
今回も幸福と不幸の続きである。地上の不幸は、私達人間が自分の手で創り出した人為的な欠乏によるものと言われ、最大の富者とは、最も何も欲しがらない者だと言われている。また私達人間は恵まれた富者達の楽しみを見ては羨むと。けれど、富者達の多くが待ち受けているものは、もし、その富を自分のためだけに使い、利己的であるなら、恐るべき逆転が前途にあると言われる。富者達を羨んではいけないと、それどころか哀れむべき者達であると言われるのだ。神様は時折、悪人に繁栄を許されるが、その栄えは羨むべきものではないと断言されている。何故なら、やがてその人達は涙と歯ぎしりで、それを償う者となるからだと。そして、もし正直者が不幸に苦しむことがあったら、それは試練であるとのことだ。更にその人が勇敢に試練を耐えれば、豊かな収穫を刈り取る人となると言われる。イエス様のお言葉を例に出されておられる。
次に生活必需品を欠くことは、まことに不幸だと言われる。もちろん、私達人間は痛いほど実感している。それに対して、自分のせいで窮乏するなら、自分の責任であると、けれど他人によっての原因であれば、その原因を作った人に重い責任があるとのことだ。この事から、今の政府のことが思い浮かぶ。年金は少なく、そして税金は多くという、この状態に国民の殆どの人は、ままならない生活を強いられているのではないかと思うからだ。いずれ、今の政治に関わっている人達には、重い責任が課せられるのではないかと思っている。
1189回目の瞑想
ーーー私共の素質の違いは、明らかに神が固有の職業を与えておられることと存じます。この世の諸悪は、私共がその職業に従事していないことから起こっているのではないでしょうか。
「その通り、両親は貪欲とか見栄から、子供が本来進むべき道とは別の方向へ押し進める。だが、彼等はこの誤導の結果の責任をとらされることになろう」
ーーーでは、貴方は、例えば、名士の子息に靴直しの才があれば、靴直しにするように勧められますか。
「馬鹿げたこと、また極端に走ってはいけない。文明には必要というものがある。名士の息子が、なぜ靴直しにならねばならないのか、もし彼に何かもっと重要な事が出来るとするならば。何かそんな事で彼はもっと役に立ち得るのだ、本人の能力の器に従うなら、常識の線を逸脱しなくても。例えば、本人が良い法律家に向いていなければ、良い技術者とか機械技師などになれるのだ」
[注解] 人が天性と違った職業につくと、失敗と絶望の原因になることが多い。本人に、ついた職業の素質がなければ、どこまでも悲運がつきまとうことになる。こうして一つの職業に失敗すれば、自尊心が邪悪になって、別の低い職業に道を見出すことは出来ない。そのため、屈辱に甘んじるくらいならばと、自殺に走ってしまう気持ちに駆られることが多い。もし、完全な精神教育によって、馬鹿げた誤りなどという偏見を超越しておれたら、本人が生活手段を得損なうことはなかっただろう。
(明日に続く)
今回も幸福と不幸の続きである。言われる通り、親が子供の人生のレールを敷いてしまうということはよくあることなのではないかと思う。特に公務員だったり、医者だったりと、お金に困らないという理由で。それは親の貪欲であり、見栄だと断じておられる。そして、いつかその間違った道に押しやった責任をとらされることになると言われる。次の質疑応答でも分かるように、本人に素質があり、向いている職業に進むことをよしとされている。
注解では、著者の霊界通信を得ての見解を述べられている。親が敷いたレールであっても、一旦その職業についてしまえば、後は本人の責任となってしまう。けれど、ついた職業に素質がなければ、失敗に終わる可能性も多い。けれど、それなりの職業であれば、それより低い職業へ転職することは自尊心が許さないと。そして最終的には死を選ぶことになってしまうと言われている。要は完全な精神教育だと言われており、それは他でもない、霊的真理のことなのだと思う。それさえ理解できれば、親自体も、子供に無理な要求は出来なくなる。何が子供の幸せかを考えたら、無理強い出来るはずもない、と思う。
私の母は6人兄弟で、早くに父親とは死に別れていた。なので、母本人の希望は弁護士になりたかったようだが、お金がなく、諦めてくれと母親から泣く泣く諭されたとのことだった。そしてやはり自分で決めて樺太師範を出て先生になった。全く真逆な経験をした母だったが、気持ちを切り替えると、先生としてもやり甲斐を感じたとのこと。生徒さん達からもとても人気があったらしく、教師を辞めた後も教え子さん達との交流は母が亡くなるまでずっと続いていた。また亡くなった後は母の追悼する会まで開催して頂いて、母の小雑誌まで作って下さった。私達娘3人も招待して頂いた。そんな母は私達娘3人に、本人が希望する道をどこまでも応援すると言ってくれていた。当時の実家は決して裕福ではなかったが、行きたい学校があれば何としても行かせてあげたいとの強い母の思いがあったのは、そのためであったようだ。生活するのも苦しかったが、母の思いは強く、狭い賃貸での部屋で学習塾や出張でピアノを教えたりして、私達3人をそれぞれの道へ行かせてくれたのだ。ここではあまり触れたくはないが、父は大変な人だったので、その苦労も一身に背負ってくれていた。そんな太陽のような母が亡くなった後、私達3人は父の大変さは知ってはいたが、身に沁みて感じることになったのだ。だが、母が霊能を開いたのは、その父の大変さを克服するためだったのだ。なので私は母を心底尊敬している。っと話が大分逸れてしまったが、親の敷いたレールで決めることなく、自分のやりたい道を選択することが何よりも自分を活かせることに繋がるということをお話したかったのだ
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1190回目の瞑想
ーーー周りはみんな豊かなのに、お金がないため、餓死するより外に道のないという人達がいます。こんな場合、本人達はどうすればいいのですか。彼等は餓死の道を選ぶべきなのですか。
「餓死しようなどという考えを持ってはならぬ。誇りが邪魔をして仕事と欠乏の間に立ち塞がらなければ、人は必ず食べていける道が見出せる。<正直にさえやれば、どんな職業も恥ずかしい職業はない>こういう言葉がある。だがこれは、自分に向かってよりも、他者に対して言う時に使われる。格言の一つだが」
ーーー野放しの偏見がもしなければ、かりにその地位は低くても、人は必ず生きていけるだけの仕事が何か見つかる筈である。この事は明白なことです。しかし、そういう偏見がない、あるいは拘らない人達の中にも、病気のため、または万止むを得ぬ事情のため、生きるに事欠くという人達はいないでしょうか。
「キリストの教えを基に社会が作られていれば、飢えのため死ぬ者は一人もいないだろう」
[注解] 英智と深慮で社会が組織されていれば、本人の過誤以外で場合、食べるに事欠くということはあり得ない。しかし、人間の過誤は、本人が置かれている環境の結果であることが多い。人間が十分に進歩を遂げ、神法を実践するようになれば、人間一人一人の本質が良くなるだけでなく、正義と愛の基盤に立った社会関係が組織されることになろう。(明日に続く)
今回も幸福と不幸の続きである。今回の質疑応答では、世の中の社会組織が正義と愛の基盤に立った社会関係に変われば、飢えて死ぬ人などはいなくなるということだ。けれど、それには私達人間の進歩が肝心なのだ。進歩するためには、やはり霊的存在を知らなければ始まらない。すべてのことは人間の本質が良くなるのも、社会関係が良くなるのも、先ずは霊的真理を知り、理解することから始める以外ないのだと思う。そうでなければいつまで経っても、自殺者や飢えで死ぬ人はいなくならない。
1191回目の瞑想
ーーー私共の世界には、富裕な者より、苦しむ者の方が多いのではありませんか。
「貴方方の中に、一人として完全な幸福という者はいない。世間が富裕と思うものの中には、恐るべき不幸が隠されている。苦しみは何処にでもある。しかし、貴方の質問の意味を斟酌しんしゃくして、次のように答えておこう。諸君等の言う苦しむ階級が地上に充ち満ちている、その理由は、地上が罪の償いの場所だということである。諸君等が地上を美徳と善霊の逗留地と変えた暁には、不幸は地を払うであろう。その時、すべてのそこに住む者にとり、地上は楽園と化すであろう」
ーーーこの世では、邪悪な者が善良な者を支配することが多いのですが、これはどうしてですか。
「それは善良な者の弱さの結果である。邪悪な者は陰謀を企てるし、また大胆であるが、善良な者は臆病であることが多い。もし善良な者が邪悪な者に打ち勝とうと決意すれば、善良な者はこれが出来るのである」(明日に続く)
今回も幸福と不幸の続きである。最初の質疑応答では、とても衝撃的なお言葉が胸を突く。地上は罪の償いの場所だということに、やはり少なからず意気消沈してしまう。もちろん、地上が美徳と善霊の逗留地になれは楽園となるのはわかるが、どうやったら、それが可能か、それを教えて頂きたいと思うのは私だけだろうか。
とかく善良な市民というのは、いい人だけに流されやすい。それを弱さであり、臆病だと言われている。そして邪悪な人ほど、陰謀を企て、大胆に悪いことを平気で行う。ただ、言われるように善良な人が邪悪な者に勝てるとは、固く決意したとしても到底思えない。それは邪悪な人には、権力や財力があるからだ。だからこそ、平気で悪いことも行えるのだ。権力や財力を振りかざされたら、善良な市民は太刀打ちなど出来ない。ドラマのように行かないのが世の常なのだ。
1192回目の瞑想
ーーー人は自分の世俗の災厄を生み出す職人です。人間はまた、自分の精神的な苦痛を生み出す職人でもありませんか。
「そちらの方が多い。と申すのは、世俗の災厄は本人の行為と関係ないことが割りにある。ところが精神の苦痛とは、傷つけられた誇り、挫かれた野望、貪欲、嫉み、あらゆる激情、このような魂の苦悶、かようなものなのである。
羨望と嫉妬、この二つの苦悩は種を知らない者は幸いである。羨望と嫉妬のあるところ、静穏も安らぎもない。この二つの奴隷となる者は、その目の前に、切願、憎しみ、怒りの対象が、幻のように立ちはだかり、眠りの中までもつきまとう。羨む者、嫉妬する者は、常に熱に浮かされている者である。これが望ましい状態だろうか。お分かりかな、この激情によって人は自分で地獄を作っている。地上はまさに彼等の地獄である」
[注解] 次の言葉を見れば、これら激情な感情がよく分かる。「のぼせ上がってる」「死ぬほど羨ましい」「悪意に充ち満ちている」「嫉妬に狂う」等々。随分と露骨な表現だが、大抵の場合、こういう悪感情にはこれと決まった相手がないのである。例えば、人の立身出世を羨む人、何事によらず目立った事には何でも嫉妬する人、こういう手合いがいるものである。それが自分に何の関係もない場合でも、自分がそういう成功が収められない、唯それだけの理由でそうなのである。他人が自分より優れていると、侮辱を受けたように思うのである。凡人の嫉妬は常に、出来るなら他人を自分のレベルまで引き下ろそうとすることである。
人生の不幸の多くは、人間が世俗時の事に余り重きを置きすぎる結果である。その悩みの多くは、自惚れ、挫かれた野望、、貪欲、そういうものである。もし志を大きく狭い世事から一歩踏み出すなら人間の思考を無限へ向かって高めるなら、世の浮き沈みは何程の事でもなくなるだろう。子供が壊れた玩具に泣きわめくようなもので、他愛もないことに思えよう。
高慢と物欲を満たすことに幸福を求める人は、これが満たされないと不幸に感ずる。他方、贅沢な生活を求めない人は、よそ目には不幸に見えても、本人は幸福なのである。
我々が今話しているのは、文明人についてである。未開人は、必要なものがずっと少ないから、羨望については同じ刺戟を受けることはない。物の見方が全く異なっている。文明国では、自分の不幸をあれこれ詮索したり、論じ立てたりするので、辛さが殊更ひどく思われたりする。だが、慰める方法を力の範囲で、いろいろ論及分析したりするわけである。
このような慰めはキリスト教によって、人間にもたらされる。これは人間に希望の未来を約束する。更にまた、心霊主義、これが人間にこの来世への確信を与えてくれるのである」
今回も幸福と不幸の続きである。精神的な苦痛を生み出すものとして、傷つけられた誇り、挫かれた野望、貪欲、嫉み、あらゆる激情と、このようなことは魂の苦悶だと言われている。特に羨望と嫉妬については、静穏も安らぎもないと断じている。そして、この激情によって人は自分で地獄を作っていると。地上はまさにそのような人にとっての地獄であると断言されている。地上に居ながらにして、地獄を体験しているとは、何と哀れなことなのだろう。前回、地上は罪の償いの場所だとも言われていた。罪を償うどころか、更に悪事を重ねてしまって地獄を体験するようでは、救いようがない。こういう人はまだまだ何度もこの地上に再生するしかないのだろう。
注解では、そのようなことを詳細に述べられている。やはり救いになるのは、霊的真理を知ること以外にはないように思う。そして、霊界の存在を確信することで、自分の行いを改めるしかないのだ。
1193回目の瞑想
ーーー愛する者を失うことは、取り返しのつかないことであり、また自分の力ではどう仕様もない事です。これこそ悲しみの中の悲しみではないでしょうか。
「金持ちにも貧者にも等しく襲いかかるこの悲しみの源こそ、人類普遍の法である。これは試練であり、罪滅ぼしであるのだから。しかし、諸君等は既に友人等と交通する方法をもっており、それから慰めを得ている。また、もっと直接的に諸君に感覚される別の方法が、将来あるだろう」
ーーー死者と交通することは、神聖を汚すものだという意見は、どのように考えられますか。
「思慮と共感をもって、敬虔な気持ちで心を込めてやれば、また招霊もそれにふさわしい敬意をこめて行えば、神聖を汚すなどということはない。その証拠に、諸君を愛している霊達が、諸君を訪れるのを楽しみにしているではないかね。彼等は諸君等に思い出して貰い、言葉を交わすのが嬉しいのである。だが、もし軽々しい気持ちでこれを行えば、神聖を汚すものとなるだろう」
[注解] 霊と交通できることは最大の慰めである。先立った身内の者や知友達と通信できるのだから。私達が招霊すれば、彼等は私達の傍に来る。私達が語れば、彼等は答える。彼と我との間には、もはや別離はない。彼等は私共に助言してくれ、我が家の我々が彼等を記憶していることを、彼等は喜んでくれる。私共は、彼等の新しい環境の詳細を知り、彼等が幸福であることを知り、やがて番がまわって、次は我々が確かに彼等に加わるのだと、こう悟ることは我々にとっての満足である。(明日に続く)
今回は愛する者の死という内容である。私達人間に平等に襲いかかるこの悲しみこそ、人類普遍の法と言われている。そしてそれは試練であり、罪滅ぼしであるとも言われる。どちらなのかは、その後の自分の気持ちの状態でわかるのではないかと思っている。もちろん、両方である場合もあるのだろう。ただ、私自身は試練であったと思っている。それは悲しみの極みと言っても過言ではない息子の死を、早い段階で乗り越えることができたからだ。それは本当に有難いことなのだと思わずにはいられない。また、息子との交信をさせて頂けたことは、大きな慰めになり救われたことに間違いはない。お言葉の最後に「直接的に諸君に感覚される別の方法が、将来あるだろう」とのことだが、それは今現在その方法はあるのだろうか。とても知りたいと思った。
次の質疑応答は、私自身が母と共に招霊を行って来たので、このお言葉には安堵した。
注解のお言葉は、愛する人を亡くした人にとって、とても励まされるのではないかと思う。私も全く同感である。
実は先日、携帯を買い替えた。今までは携帯を買い替える時には、すべて息子がやってくれていたので、私達夫婦は何もせずにすぐに新しい携帯を普通に使用することができていた。なので、息子が亡くなってからはそのままずっと同じ携帯を使って来ていたのだが、ついに主人の携帯が怪しくなってきて、買い替えることにしたのだ。
auの携帯だったのだが、我が家はjcomのアドレスも登録していた。だが受信は出来るのに、送信は何故か出来なかった。そこで、買い替える前に送信出来るようにしたいと思い立った。けれど、最初に書いたように私は全くの機械音痴で、すべて息子任せだったものだから、そんなことを思い付く事自体、不思議なことだった。けれど、結構とんとん拍子に進んで行き、新しいサーバーらしきものを見つける。(この時も導かれているとしか思えない感じで新しいサーバーに見つけたのだ)それで、もしかしたら今使っている受信用サーバーと送信用サーバーが古いのかも知れないと思い、新しいサーバーだと思うものを入れてみた。すると送信出来るのにようになったのだ。びっくりすると共にとても嬉しさがこみ上げてきた。今まではこのような類いは大の苦手だったので、やる気もなくやらずに来ていただけに、出来た瞬間、達成感を感じられて嬉しかった。その嬉しさが倍増するような、更にびっくりすることになる。それは息子のメルアドもまだそのままだったので、新しいサーバーにしようと息子のそのサーバーを確認すると、もうもうびっくりだった。既に新しいサーバーになっていたのだ。早い段階で切り替えていたようだった。そしてそれを見た時に直感で息子がテレパシーで私にそのやり方すべてを送ってくれたのだと確信したのだ。そもそも送信出来るようにと思い立つ事自体、私にはあり得なかったので、その時から息子からのテレパシーは来ていたのだと得心したのだった。
1172回目の瞑想
ーーーあらゆるあらゆる美徳の中、最も称讃に値するものは何ですか。
「美徳はすべて素晴らしい。これらは皆、上方に向かう進歩の印であるから、悪の誘惑に自ら抵抗する、一つ一つの行為が美徳である。しかし、美徳の極致は、他者の幸福のための自己犠牲、これである。最高の徳とは、最も私心のない、最も幅の広い親切、そのような形をとる」
ーーー特にあれこれ悩む事もなく、自然な気持ちで善を為す人々がいます。また、善を為すのに自分の心と葛藤し、抵抗を乗り越えて初めてそれを為す人がいます。これは前者と同じ価値がありますか。
「もはや利己心と闘う必要のない人は、既にある程度の進歩を遂げた人達である。それらの者は、過去において葛藤し、これに打ち勝っている。だから寛大な心になっており、もはや各別の努力を要しないのである。善を為すことは、全く自然なことと彼等は思う。彼等は既に親切の習慣を身につけているのである。彼等は葛藤の場の段階を乗り越えた、手練の人と尊敬を受けるべき人士である。
諸君が未だずっと完全から遠い処にいるので、彼等を見て驚くのである。彼等の行為は一般の人々の行為から見ると、甚だ対照的である、その珍しさから諸君はこれを称讃する。だが、諸君の世界で異例な事も、別の進歩した世界では常習であるということ、これを承知おき願いたい。其処では、いつでもどこでも、善は自然なものなのである。其処には善良な霊しか住んでおらず、ちょっとした悪意さえ、異常な極悪と考えられてしまうのである。これらの世界が幸福なのは、このように美徳が一般に習いとなっていること、そこにある。人類が変容を遂げ、愛の法を正しく理解して実践するようになれば、諸君の地上世界も同じようになる」
(明日に続く)
今回は美徳と悪徳という内容である。美徳はすべてが素晴らしいと言われている。それは上方に向かう進歩の印であるからと。そして悪の誘惑に自ら抵抗する一つ一つの行為も美徳であると言われている。けれど、美徳の極致は、言わずと知れた他者の幸福のための自己犠牲だと断言しておられる。更に最高の徳とは、最も私心のない、最も幅の広い親切、そのような形をとるのだと言われる。また、自然な形で善を行える人というのは、過去において善を為すのに自分の心と葛藤し、それに打ち勝って来た人だと言われ、もはや利己心と闘う必要のない人達で、既にある程度の進歩を遂げた人達とのことだ。更に親切を習慣として身につけており、葛藤の場の段階を乗り越えた手練の人と尊敬を受けるべき人士だと褒め称えている。なので、質問の後者に関しても
同じ価値があるということになる。ただ、このようなことは、別の進歩した世界では常習であるということだ。善良な霊しか住んでいないので、善は自然なものなのだそうだ。そして私達人間も変容を遂げて、愛の法を正しく理解して実践するようになれば、この地上世界も同じようになると言われている。一日も早くそのような日が来ることを願いたい
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1173回目の瞑想
ーーー誰が見ても分かる悪徳や悪行、これ以外に、不完全の最大の特徴といえば何ですか。
「利己心である。見せかけの徳は、金メッキした銅のようなものだ。それは試金石にあったらひとたまりもない。いま一人の人がいて、世界一般の目からは有徳の士とされるかもしれない。彼はある程度の進歩を遂げてはいる。しかし、その資質は試練に遭えば耐えられぬかも知れぬ、少々彼の自己愛が障害にぶつかると、本性が暴露されてしまうのである。地上世界では、絶対の無私は極めて稀なことであって、諸君は驚異的な事として吃驚するのである。
物質に対する執着心、これも未熟であることの印である。何となれば、人間が現世の物事に気を奪われれば奪われるほど、自分の道を見失っているということだから。この逆の場合は、来世の方まで目がはっきり広く見えているという事である」」
ーーー気前はいいが、ものを見る目がなく、金銭の使い方もどんぶり勘定で、そのため、何の役に立つこともなしに浪費してしまう人がいます。こんな人の行為に何か価値がありますか。
「利己心がないという点で評価される。だが、善行の点では評価できない。非利己は美徳であるとしても、無思慮な浪費は、控え目に言っても判断力の欠如である。財産は、これをちゃんと管理する人には与えられても、これを浪費する者には、もう与えられることはない。財産は、収支報告を要する貯金なのである。人は、もしかしたら出来たのに、実行しなかった善行すべてを報告せねばならぬ。人は無用に浪費した金で、もしかしたら泣かずに済んだ人達の、すべての流した涙に償いをせねばならぬ(明日に続く)
今回も美徳と悪徳の続きである。不完全の最大の特徴は、利己心だと言われ、そして、見せかけの徳は金メッキした銅のようなものだと言われている。それはあたかも、ある程度の進歩を遂げた人でも、試練に遭えば耐えられず、障害にぶつかると本性が暴露されてしまうのと同じだと言われる。また、地上世界では、絶対の無私は極めて稀なことであると言われているが、今の世ではそれは当然だと思う。そして更に物質に対する執着心は未熟の印であると言われ、それは人間が現世の物事に気を奪われれば奪われるほど、自分の道を見失っているとのことだ。けれど、この逆の場合には、来世までもが、はっきりと広く見通せるとのこと。
次は質問者が例を挙げている。そのような人は利己心はないとの評価はされるが、善行としての評価できないと。また、個々の財産はきちんと管理する人には与えられ、浪費する人には与えられないとのことだ。そして収支報告を必要とする貯金だと言われている。それと同じく、実行できたのにしなかった善行もすべて報告しなければいけないと言われている。そして、自分が勝手に浪費したお金は、貧乏で辛い思いをしている人達のために使えるお金になったかも知れないとのこと。それを為さなかったことは、その辛さを感じたすべての人に償いをしなければいけないとまで言われているのだ。浪費とは無駄にお金を使うことだが、自分としては、そんなお金の使い方はしていないとは思うものの、今後も心を律して行かなければいけないと思った次第である
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1174回目の瞑想
ーーーこの世で報いを受けるつもりはなく、あの世で良い報いを受けたくて、善行に励む者は、褒めた事ではないのですか。あの世での地位は、そのために良くなりましょうか。そういう計算は、本人の進歩のために、良いことでしょうか。
「人は愛によって善事を為すべきものーー即ち無私によって」
ーーーしかし、私共が現在の苦悩の状況から抜け出るために、進歩を望むのは当然のことです。霊達も、私共がこの目的を達成するため、正しい事をするよう、教えてくれています。ですから、いま地上の現状よりも、私共が良くなろうとする事が、間違いでしょうか。
「間違いではない。しかしながら、自分の事は何も考えず、神に喜んで頂くため、苦しむ隣人を助けるために、唯々進んで善を為す者は、既に高い進歩の段階に達している者、幸福の頂上に程近くにいる者。彼等を次の者に比べるとは、つまり、心情の自然から愛のためにのみ心せかれて善を行うのではなしに、もっと利己的で、計算をして善を行う者、こういう者と比較すれば、な」
ーーー隣人に善を行う事と、私共が自己の欠点是正のために払う配慮と、この間に線は引かれませんか。私達があの世で得になるからという考えで善をしても、殆ど価値がないという事は分かります。しかし、自分を高級霊の方に近づけたい、自分を霊界の高い地位へと高めたい、そう思って、自己を改善し、悪い感情を克服し、良からぬ性質はすべて正していくことは、やはり低俗なことですか。
「いや、いや、<善を為す>とは、彼等が意味したのは、愛が深いこと、これであった。計算する者、自分の行う愛の行為が、この世であの世で幾らになるか勘定する者は、利己的に事を行っているのである。だが、自己を神に近づけようと望む者、それがすべて努力の目的であって、自己改善に励むことの中には、いかなる利己もない」(明日に続く)
今回も美徳と悪徳の続きである。あの世で良い報いを受けたくて、善行に励む人はあの世での地位が良くなるかの質問には、無私の愛によって、善事を為すべきとのお答えだ。このお答えで分かる通り、例え、あの世での地位が高くなるとわかっていても、真の善行はなかなか出来ないものだと思う。善行をしているつもりでも、それは見せかけでしかないと思うからだ。また、私達人間がいま地上の現状よりも、良くなろうと思い為す事は間違いがないと言われている。だがそれは、計算で善を行う人と比べてという意味のようだ。けれど、苦しむ隣人を助けるために、進んで善を為す人とは、既に高い進歩の段階に達している人であり、幸福の頂上に程近くにいる人ということなので、その人たちとは比べること自体意味がないということになる。そして、善を為すには、無私の愛を持って為すべきであるが、自己を神に近づけようと望む人もまたそれがすべて努力の目的であって自己改善に励むのであれば、いかなる利己もないと断言されている。このお言葉は本当に有難いお言葉だった。なかなか他人に善を為すことが出来ずにいる私にとって、自己改善に重きを置いているので、それにはいかなる利己もないとのことに、とても勇気づけられた。斯かくなる上は、更に自己改善に励み、少しずつ進歩することによって、目標の他人に無私の愛を持って奉仕できるような人間になりたいと強く思った次第である
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1175回目の瞑想
ーーー地上の命は、低級な状況下での、ほんの一時の逗留にすぎません。それ故、来生こそ主として心に留めるべき生活です。従って、現世の事、現世の必要、それだけしか取り扱わぬ科学知識を習得して、何の役に立ちますか。
「絶対に有用である。と言うのは、この知識によって、諸君は同胞に利益をもたらせるからである。それだけではない、諸君の霊が、もし知的に十分に進歩すれば、他界に入って急速に進歩できる。地上で何年もかかった事が一時間で習得できる。どんな知識といえども、無役ではない。すべての知識が諸君の進歩に、大なり小なり寄与する。と申すのは、完成した霊はすべての事を知らねばならぬ。進歩はあらゆる方面でなされねばならぬ。すべての得た知が本人の進歩を進め、役立つのである」
ーーーいま二人の人物がいまして、共に金持ちです。二人とも、その富を自分の満足のためにだけ使っています、一人は富裕の生まれで、不足を知りません。もう一人は汗水流してその富を入手しました。どちらの方が咎が大きいですか。
「不足することが何であるかを知っている方が、咎が大きい。と申すのは、彼にはその痛みが分かるからである」
ーーー他者のために何も良いことをせず、ただ溜める一方の人が、それは子孫に残すためだとすれば、言い訳がたちますか。
「そのような弁解は、こじつけにすぎない」
ーーー二人の強欲な人間がいます。一人は生活に必要な物まで切り詰め、蓄財に囲まれ質素に死にました。一人は、他人にはけちですが、自分のためには出費を惜しみません。また、他者のための奉仕とか、高貴な目的のためとかには、爪の先程の犠牲も出し惜しみするくせに、自分の趣味や享楽のためとなると、まるで出費に締まりがないのです。この人物は、人から奉仕を頼まれれば、いつも金がないと言うくせに、こと自分の楽しみには湯水のように金が出るのです。この二人の中、どちらの方が罪深いでしょう、また、他界に入ればどちらの方の状況が悪いでしょう。
「自分の享楽のために金を使う方が罪深い。この人間は欲が深いというより、利己主義なのである。もう一人の方は、既に罰の一部を受けている」(明日に続く)
今回も美徳と悪徳の続きである。現世の科学知識は絶対に有用であると断言している。そして、この知識により、私達人間は同胞に利益をもたらすことが出来るとのことだ。しかも、それだけではなく、私達人間の霊が、もし知的に十分に進歩すれば、他界に入って急速に進歩できるのだそうだ。地上で何年もかかった事がたった一時間で習得できるのだと言われる。そしてどんな知識といえども、無役ではないと。すべての知識が私達人間の進歩に大なり小なり寄与するとのことだ。それは、完成した霊というのはすべての事を知らなければいけないとのこと。進歩はあらゆる方面で為されなければいけないと。そして、すべての得た知識が本人の進歩を進めることになり、役立つのであると言われている。
次の質問のお答えは意外ではあったが、得心できた。不足自体を知らない人よりも、不足することが何であるかを知っている人の方が、咎が大きいとのことだ。その理由は、その痛みが分かるからだと言われている。自分が体験して、その痛みを知っているからこそ、富を自分の満足のためだけに使ってはいけないということなのだろう。出来うれば困っている人に分け与えるべきことなのだと思う。
次のお答えは当然のお言葉だ。
次の質問の例えである後者のようなお人を知っている。お答えを読んで納得だった。利己主義以外の何者でもないと私自身もずっと思っていたからだ。だが、前者の既に罰の一部を受けているとは、何を指しているのだろうか。生活に必要な物まで切り詰めていたということなのか、それによって蓄財していてお金を使えなかったことなのだろうか。死は罰とは思えないから、どちらかなのではないかと思う。
1176回目の瞑想
ーーー善事を為す手段として、富を求めることはいけない事ですか。
「この願望は、純粋であれば褒めてもよい。だが、いつも全く私心がないだろうか、何か自分の隠れた気持ちが潜んでいないだろうか。良いことをしてあげたいという第一の相手が、自分自身であることが、余りに多くはないだろうか」
ーーー他人の欠点を詮索することは、間違ったことですか。
「ただ批判したり、すっぱ抜いたりするためだけなら、それは大変悪い。つまり、それは愛を欠いた行為だから。自分にある欠点を取り除いて、自分のために役立てようという考えでするなら、役に立つ場合もある。しかし、他人の欠点に寛容であることは、愛の要素の一つであることを、忘れてはいけない。他人の欠陥を非難する前に、先ず、他人が自分と同じような欠陥を非難していないか、これを考えるべきである。他者の欠点を詮索して役に立つ唯一つの道は、反面教師、これから学ぶことである。彼は欲が深い?そうしたら寛大になりなさい。彼は高慢?諸君は謙遜で慎み深くなりなさい。彼は無情?そうしたら親切でありなさい。彼は卑劣漢でけちんぼ?諸君は自分の行為すべてに崇高でありなさい。要するに、イエスの次の言葉が。諸君のことを言っているのだと言われぬよう、行動しなさい、<他人の目の塵は見えるのに、自分の目のンかのうつばりを見ない>と」(明日に続く)
今回も美徳と悪徳の続きである。お答えにあるように、純粋であれば、とても善いことだと思うが、果たして私心がなく、富を求めることができるのだろうか。良いことをしてあげたい相手が自分自身であることが多いのでは、というお言葉に苦笑してしまった。また、自分のことは置いておいて、とかく他人の欠点にはどうしても目がいってしまうことは、よくあるのではないかと思う。それは愛を欠いた行為だと言われる。更に他人の欠点に寛容であることは、愛の要素の一つであるとまで言われているのだ。しかも忘れてはいけないと再度念押しされている。そして、他人の欠点について役立つのは唯一つ、反面教師だと言われている。これは大いに得心できる。私は実際に体験しているからだ。例として書かれているように、「人の振り見て我が振り直せ」という諺は古くからあり、当を得ていると思う。これからも諺通り、心して行こうと思った。
1177回目の瞑想
ーーー社会の傷の部分を、はっきりさせる目的で、あれこれ詮議だてする事はいけないことですか。
「それは何のためにするのか、その動機いかんによる。スキャンダルを生むだけが目的なら、為にはならぬ。世を害する図を描いてみせて、自分一個の満足を得るものである。本人の心にはその社会の悪が分かっていながら、その悪を描きだして楽しむ傍観者は、その罰を受ける者となろう」
ーーーこの場合、その作者が誠実であること、その意図は純粋であること、それはどうやって判断できますか。
「それは必ずしも判断をする必要はない。もし作者が良いものを書けば、それによって利益を得る。悪ければ、それは本人の良心の問題である。どうしても本人が自分の誠意を証明したければ、彼自身が優れた手本であるように振舞わねばならない」
ーーー非常に素晴らしい道徳的教えが沢山書かれている書物があり、人類の進歩に役立っているのですが、作者達本人の道徳性には、大してプラスにはなっていないのです。作者達が著作を通じて行った善は、本人の霊に報いられることになるのですか。
「道徳原理は、これを実践しなければ、播かない種子のようなものである。種子はこれに身を結ばせ、食料としなければ、何もならない。左様な人物は、自分の言うことを人に理解させる知性をもっているのだから、尚更罪が重い。人に勧める美徳を自分は実践しないことで、彼等は本当は手に出来た収穫を失ったのであった」
ーーー善を為す人が、自分の行為が善であることを、また自分にとって良い事であることを意識するのは、良くない事ですか。
「人は自分の行う悪を意識する限り、また自分の行う善をも意識する。人は自分の善悪いずれを行ったかを知ることが出来るのは、この本人の良心の声に依るのである。人は自分のすべての行為を、神の秤、特に正義と愛と奉仕の秤で計量して初めて、自分が善であるか悪であるかを決定できる。また善しとできるか否かが決定できる。それ故に、彼が自分の悪に打ち克った事実を知り、これを喜ぶことは、もしこの認識を無駄にしなければ、それは悪かろう筈がない。何となれば、もし無駄にでもすれば、自分が克服したと同様な悪の道を歩くことになろうから」
今回も美徳と悪徳の続きである。今回の内容の全般として大事なことは、何を言うにしてもやるにしても、また描くにしても、正しい動機による実践ということが、最も大事なことだと言われているのだと思う。
1178回目の瞑想
ーーー私達の激情は自然に出てくるものですから、激情はその本性が悪なのでしょうか。
「いや、悪いのは過度の激情である。何故なら、過度は意志の乱用であるから。しかし、感情はすべてその根源おいて、人間のため、善のために与えられている。感情あればこそ、人間は拍車をかけられ、偉大な仕事をやり遂げようなどと目論む。害となるのは、感情の乱用、これのみである」
ーーー感情が良いものになるか悪いものになるか、どうやってその限界を定めればいいのですか。
「感情は馬のようなもので、管理下におけば役の立つが、思いのままにさせておけば危険である。感情は本人が支配を止めた瞬間、有害となる。また、本人ないし他者に害が及ぶ瞬間から、悪いものになる」
[注解] 感情は人間の力を十倍にも増大させる梃子てこであって、人間が神意を実現するに当たり助力となるものである。但し、これを支配せず、逆に支配されていると、あらゆる面で過度に陥り易い。また、上手に扱えば有用な力が、逆に人間を襲って、押し潰してもしまう。
激情はすべてその源は、自然の感情や自然の欲求にある。それ故、これは神によって定められた生命の在り方の一つであり、それ自体が悪ではない。激情とは、感情や欲求の誇張されたものである。この誇張とは、動機いかんで過度な働きとなるので、力そのものではない。悪となるのはこの行き過ぎた働きである。これがすべての悪い結果につながる。
激情はすべて、人間を動物の性質に近付け、人間を霊的性質から遠ざける。動物性の上に超然とする感情は、人間に動物性以上の霊性が存在する証拠であり、これによって、人間は完全に向かって進む。(明日に続く)
今回は激情という内容である。激情とは、激しく高ぶる感情であるとか、理性では抑えきれない激しい感情とか強い欲望という意味であるが、人間であれば、誰しもが経験済みであると思う。最も悪い感情だと思っていたが、お答えでは悪いのは過度な激情とのことだ。激情自体が過度だとばかり思っていたので、少し意外だった。また、感情はすべてその根源において、人間のため、善のために与えられていると言われている。感情があるからこそ人間は偉大な仕事をやり遂げる意欲が湧くとのことだ。なので、害となるのは、感情の乱用である過度な激情のみのようだ。更に感情を馬に例えられて、管理下におけば役立つが、思いのままにさせておけば危険だと言われる。感情は支配を止めた瞬間に有害になると。また、本人ないし他者に害が及ぶ瞬間から、悪いものになるとのことだ。
注解では、霊的通信の内容をまとめたものなので、一読すれば良いのではないかと思う
。
1179回目の瞑想
ーーー人間は努力によって、必ず、自分の悪い性向を克服出来るものですか。
「左様、ほんのちょっとの努力、それを時々やれば、それで十分だ。欠けているのは意志である。ああ!諸君等のうちの何人、本当に真面目に、自己改善の努力をしているだろうか」
ーーー激情を克服しようとする場合、霊からの援助が十分に受けられますか。
「神や守護霊に、援助を請う真摯な祈りを捧げれば、必ず助けが得られる。それがあの方々の使命なのだから」
ーーー場合によっては、激情が激しすぎて、意志の力ではとても抑えきれない、という事はありませんか。
「<よし、決心した>と言いながら、その決意は口先だけ、それが出来なくても残念がりもしない。そういう者達が余りにも多すぎる。人間が激情を克服できないのは、霊が後ろ向きになっていて、本人は激情のままになって楽しんでいる、こうことである。感情のコントロールが出来る人は、霊性をよく理解しているのである。激情の克服は、自分の霊が物質に打ち克つこと、こうその者は承知している」
ーーー物質支配と闘う最も有効な方法は何ですか。
「自制の発揮、これである」
今回も激情の続きである。自分の悪い性向を克服できると言われるが、そんなちょっとの努力では、まず無理だと思える。しかもそれを時々やれば十分と言われているが、そんなに簡単であれば、誰も苦労はしないのではないかと思う。欠けているのは意志とのことだが、確かに意志が強固であれば、成し遂げられるのかも知れない。少なくとも私は真面目に真摯に自己改善を目指し、努力しているつもりだが、なかなかどうして難しい。また、激情を克服する場合、援助を請う真摯な祈りを捧げれば、霊からの援助を頂けると言われている。だが、これも一朝一夕にはいかない。簡単にお祈りが通ってしまうということは、努力もいらないので意味がないようにも思う。次の質疑応答も、例に出されたような人は知っている。言われるように激情を楽しんでいるのかどうかはわからないが、そのような人は直す気はないのだ。また感情をコントロールの出来る人は、とあるが、例え感情をしっかりとコントロールできなくても、物質に打ち克たなければならないことは知っている。けれど、知っていても実際に打ち克てることとは違う。更に最後の質疑応答も自制の発揮とあるが、頭ではわかっていても、それが出来ないからこそ苦労しているのだ。どうやったら自制の発揮ができるのかを教えて頂きたいものだ。
1180回目の瞑想
ーーー数ある悪徳の中、それらの根源をなす悪徳は何ですか。
「利己主義、これは繰返し諸君等に述べた通りである。諸悪が生じるのは、この利己主義からなのである。悪徳をよく調べてみられよ、さすれば、その根源に利己主義があることに納得がいこう。決意をしたら悪と闘ってみなされ。その悪の根源に至り、悪を生じさせている利己主義を滅ぼさぬ限り、悪の根絶には成功せぬものである。すべての努力をこの目的に向けなさい。利己主義こそ、社会腐敗の根源であるのだから。自分の日常生活においても、何か心の進歩を求めるなら、自分の心から利己的感情を取り除かねばならない。利己心こそ、正義・愛・奉仕とは相容ぬもの。これがすべての良いものを、台無しにしてしまうのである」
ーーー利己主義の根は、個人的利益という感情にあります。従って、人間の心からこれを根絶することは、甚だ困難な事、このように思われます。それは出来ることなのですか。
「人間の目が霊的なものに開かれていけば、人間は物質にとらわれなくなる。こうして、物質の奴隷から解放されていくにつれ、利己主義をかき立てるような制度は改善されていく。教育はこのようなところを目指すべきである」
(明日に続く)
今回は利己主義という内容である。利己主義は悪徳の根源であり、諸悪はそこから生じると言われている。そして、悪を生じてさせている利己主義を滅ぼすための努力をしなければならないと断じておられるのだ。利己主義こそが、社会腐敗の根源であり、日常生活においても自分の心から利己的感情を取り除く努力をしなけばならないとのこと。利己心は正義や愛、そして奉仕には相容れないものであると言われ、すべての良いものを台無しにしてしまうと言われている。私達人間にとって、利己心とはそれだけ駆逐しなければいけないものだということなのだ。そして、霊的な目でこの世を見るということ、そして、それによって物質に執着せずに生活できるようなること、このような教育こそが大事なことだと言われている。言われている通りで、何にも増して霊的なことを知ることが大前提なのだと思う
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1181回目の瞑想
ーーー利己主義は人間にとって生来のものです。ですから、地上を美徳が完全支配するには、これが障害となるのではありませんか。
「確かに、利己主義は諸君の最大の敵である。しかし、利己主義は地上に生まれて来ている霊が持っている未発達性にあるのであって、何度も再生して浄化を重ね、利己主義を払い落としている霊もいるように、人類に属するものではない。地上には、利己心を脱して、奉仕に献身している人が居ないというのかね。そういう人士は、諸君が考える以上に居る。だが、彼等は殆ど人に知られていない。美徳というものは、人前に派手に身をひけらかすことを好まぬから。もしも諸君の中にそのような一人が居たら、どうして十人居ないだろうか?それが十人に居たら、どうして千人、等々、居ないだろうかね?」
ーーー利己主義は減るどころか、文明と共に増えています。その文明が利己主義を強化助長しているように思えます。どうすれば、このような結果が失くせますか。
「悪は太れば、いよいよ忌まわしく見えるもの。利己主義も目に余る害を及ぼすに至り、諸君はその根絶の必要を覚える。人間が利己主義を脱却すれば、兄弟のようになり、他を傷つけるということはなく、気心も一つになって相互に助け合う。強者は弱者の圧迫者ではなくなり、支持者となる。誰一人生活の資に事欠く者はいなくなる。正義の法、万人が従うのであるから。いま霊達がその新時代の到来を目指して従事しているのは、実にこの正義が支配する時代の到来のためである」(明日に続く)
今回も利己主義の続きである。利己主義は地上に生まれて来ている霊が持っている未発達性にあると言われる。そして、何度も再生して浄化を重ね、利己主義を払い落としている霊もいるように、人類に属するものではないと言われているのだ。人類に属するものではないとのことは意外であった。要は霊の未発達性が原因であるようなのだ。そうなると、簡単には克服できないのではないかと思ってしまう。だが、地上には、利己心を脱して、奉仕に献身している人は私達が考える以上に居るとのこと。ただ、表には出ていないだけのことのようだ。私は動物愛護の方達が、虐待されていたり、捨てられている動物達を救出し、ボランティアで動物のお世話をして下さっている皆さんはそういう方々だと思っている。更に里親が見つからない重い病気であったり、障害のある動物を面倒見ている方達もいる。利己心を脱していなかったら、あれだけのことが出来る筈がない。本当に頭が下がる思いなのだ。
いずれ、この世にも利己主義を脱却することが出来る日は来るのだろうが、今の世に生きている限りにおいては遙か遠い先のことではないかと思ってしまう。
1182回目の瞑想
ーーーどんな方法をとれば、利己主義は打破されますか。
「人間の不完全性の中で、最も根絶の難しいのが利己主義である。と申すのは、利己主義は物質の力と結び付いており、人間は未だ初等段階にあって、その力から自由ではないということ。それに、人間の法律、社会機構、教育などすべてが、この物質の力を維持する傾向にあるということである。人間の精神生活が物質生活より優位になっていくにつれて、利己主義は漸次弱まっていこう。それは心霊主義によって、寓話の覆いが外され、人間の死後生存の事実が明らかにされる。その知識を通じて進められる。心霊主義が正しく理解されるようになり、人類の信仰も習慣もこれと一つになる時、慣習・風習・社会関係の一切が変化していこう。利己主義は自分個人の重視、そこに立脚している。心霊主義はこれに反して、正しく理解されれば、個人という感情が消えた、いわば無限の観照とでも言うか、大変高められた観点、そこから一切を見る目を人に与えるのである。自尊の感情を打破する点で、人間の真性を示してくれることで、心霊主義は必ず、利己主義と闘うものである。
人間は他人の利己主義に触れる経験をすると、自分が利己的となることがよくある。相手の利己主義から自分を守ろうという欲求を覚えるのである。他人が自分のことを考えて、こちらの事は考えてくれないのを見ると、その本人も他人のことより、自分の事を考えるようになるのである。しかし、奉仕と友愛の原理を、社会制度の基礎に、また国際間及び人間間の法的関係の基礎に入れてみるがよい。そうすれば、人々は自分個人の利益という事をさほど考えなくなるだろう。何故かというと、自分の利益が他者によって配慮されていることが分かるからである。即ち、人は精神感化の実例や実際の体験を持つわけである。現代の利己主義が氾濫する中では、感謝も余りしてくれない他者のために、自己の利益を犠牲にする事は、余程の徳性がなければ出来ることではない。しかし、天国が開かれるのは、結局、この徳性の所有者に対してである。また、この者には選ばれた者の幸福も保証されるのである。これに対し、審判の日に、自分の事だけを考えてきた者は除外され、孤独の苦しみの中に取り残されるであろう」フェネロン
[注解] 人類の進歩を促進するために、称讃に値する努力が払われている。他のどの時代よりも、寛仁な心が大切にされ支持されているが、なお利己主義が社会の病気をなしていて、悩みの種である。人々にはこの社会の疾病が影響を及ぼすのであって、人々は多少ともその犠牲者である。よって、我々に伝染病と同じように、これと戦わねばならない。そのために、我々は内科医と同じように、疾病の原因にまで遡ることから始めねばならない。我々が、利己主義を温存させ発展させるすべての原因と作用を、家族関係、国際関係、あらゆる社会組織に至るまで、さがし探し出さねばならない。病気の原因が分かれば、治療法は自ずから分かってくる。病気の原因は多いから、治療は遅々たるものだろうが、しかしそれは不可能ではない。それは悪の根元にまで達すること、即ち教育の普及によって、効果をあげ得よう。それは単に知的進歩のための教育ではなく、道徳的な工場をはかる教育によってである。
人間は幸福になりたいと願っている。生来人間に備わっているこの願望によって、人間は促され刺激を受けて、地上生活の環境を改善しようと努力する。また、自分を苦しめる悪の原因を探し出して取り除こうとする。利己主義は悪の原因の一つであること、利己主義は苦の因である高慢、野望、貪欲、嫉妬、憎悪などを生み出すこと、すべての社会関係を混乱させ、意見を衝突させ、信頼関係を壊し、友人を敵に変え、隣人に対してはいつも警戒心を抱かせること、以上の事がはっきり理解出来れば、人間はこの悪徳が、自分の幸運だけでなく、安全とも矛盾するという事、これに気付くに至ろう。人間がこの事で悩めば悩む程、痛切にこれと闘うことの必要を感じるだろう。それは、病気や危険な動物や他の災厄の原因と闘うのに似ている。何となれば、彼は自分自身の利益のために、そうせざるを得ないのだから。
利己主義は、愛がすべての美徳の源であるように、諸悪の源である。利己主義を滅ぼし、愛を発展させることは、現世においても死後においても、自分自身の幸福を確保したいと願う、すべての人々の目的であるべきである」
今回も利己主義の続きである。言われている通りなのだと思う。だが、この内容は、160年以上前のお言葉なのだ。160年経った今現在もなお、利己主義は無くなってはいない。それどころか、益々利己主義は幅を利かせているようにさえ思える。いつになったら、このお言葉のような時代がやってくるのだろうか。それには何と言っても、霊的事実や霊的実在についてを知ることが絶対に必要なのだ。それを理解出来なければ、利己主義が無くなるわけがない。私達人間が霊であり、みな神様からのお力を備えており、力を合わせ、助け合って生きて行くことが出来れば利己主義などは、どこかに消えて無くなるのだと思う。霊であることを知らないばかりに、自分の利益ばかりを重んじることになるのだ。霊的真理が普及しなければ、いつまで経っても利己主義は無くならず、個人だけの問題だけではなく、国と国との争いも永遠に続くということなる。それを止めることができるのは私達人間だけなのだ。私達人間にすべてはかかっているのだ。それを肝に銘じなければいけないのだと思う。
注解に関しては、利己主義は社会の疾病に例えている。その疾病の原因が分かれば治療方も分かるが、病気の原因は多いから、治療は遅々たるものだろうが、しかしそれは不可能ではないと。また利己主義は諸悪の源であり、苦の原因である高慢、野望、貪欲、嫉妬、憎悪などを生み出すことをはっきりと理解出来れば、痛切にこれと闘うことの必要を感じるだろうと言われている。そしてその利己主義を滅ぼし、愛を発展させることは、現世においても死後においても、自分自身の幸福を確保したいと願う、すべての人々の目的であるべきだと締めくくっておられるのだ。すべての人間がそのような考え方になれれば、この世はどれだけ住み良くなるのだろうかと、思わずにはいられない
。
1158回目の瞑想
ーーー意志と努力で、人はもしかしたら起こる筈だった事件を、起こらずに済ますことが可能ですか。また、この逆もあり得ますか。
「自分の選択した人生と、この事が矛盾せぬなら、それは可能。更に、善を為すために、これこそ人生の唯一の目的であり、そうあるべき善を行うために、人は悪を避けてもよい、なかんずく、大きな悪の元になりそうな事を妨害してよろしい」
ーーー殺人者は、自分の人生選択の時、殺人者となることを知っていましたか。
「いや。本人は次のように知っていた。闘いの人生を選択することで、人を殺す危険を招くと。しかし、本人は自分が実際にそうするかしないかは知らなかった。と言うのは、その罪を犯す前の殺人者の心中には、だいたい間違いなく、解放状態があるから。解放状態にある本人は、それを置かす自由、犯さぬ自由、いずれかである。前もって霊が殺人することを知っていれば、罪を犯す宿命を持たされることになる。誰一人、罪を犯す宿命を負わされてはいない。どんな罪も、その他の行為と同じく、自由意志と決意の結果である。
諸君はどうも二つの事を、それも余りにも、混同しがちであるーー物質生活の出来事と、精神生活の行為とを。もし、一種の運命があるとすれば、それは物質生活の出来事でのみ起こるのである。その原因は諸君の行為の手の届かぬ彼方、諸君の意志から独立している。精神生活の行為はどうかというと、こちらは人間自身から発する行為である。それも常に本人の選択の自由の結果として生まれて来る行為、これである。従って、このような行為の中に、運命のようなものはない」
(明日に続く)
今回も運命の続きである。人間は自分の選択した人生と起こる筈の事件との矛盾がなければ
意志と努力で回避できるとのことだ。更に、善を行うためなら、悪を避けてもよいと言われている。ただ、こういうことは霊的な目で見られる人に限るのではないだろうか。次は殺人を犯した人のことについてだが、自分の人生を選択する時に人を殺すことになるかどうかの危険ついては知ってはいても、実際に殺すことになること自体は知らないと言われている。それは、前もって霊が殺人することを知っていれば、罪を犯す宿命を持たされることになるからだと。そして誰一人、罪を犯す宿命など負わされてはいないと言われる。更にどんな罪も、その他の行為と同じく、自由意志と決意の結果であると論じておられるのだ。また、私達人間は物質生活と精神生活を混同しがちであると言われている。そして次のことは、私も勘違いしていたようだ。運命があるとすれば、それは物質生活の出来事のみで起こるのだと言われ
、その原因として、私達人間の行為の手の届かない遙か彼方、私達人間の意志から独立しているものなのだと言われている。逆に精神生活の行為はというと、こちらは人間自身から発する行為であり、常に本人の選択の自由の結果として生まれて来る行為だと言われているのだ。ということで、精神生活の行為の中には、運命のようなものはないとのことなのだ。
1159回目の瞑想
ーーー何もやってもうまくいかない人がいます。する事なす事に悪邪霊がまといついているようです。これは宿命とでも言いますか、そうではないでしょうか。
「宿命と呼びたければ、確かに宿命である。但し、それは本人が受肉以前に自分で選択した人生の結果である。と申すのは、彼等は失意の人生を送ることによって忍従や辛棒を学びたいと望んだのだったから。しかし、この運命が絶対だと思ってはいけない。これは、自分で道を誤った結果、自分の知力や資質をうまく使わない結果であることが多いのだから。泳ぎを知らないで川を横切ろうとする者は、絶好の溺死の危険に立っているわけである。同じ事が、人生の大部分の出来事についても言える。自分の能力に叶った物事だけを手がける人は、概ね成功を勝ち取る。失敗の因となるものは、人間のうぬぼれや野心、これらは人間を正しい道から逸らしてしまう、また、自己満足の野望にすぎないものを、天職と思い違いをさせてしまう。このような者は失敗する、それは本人の欠陥によるものである。しかるに、自分を責める代わりに、彼は自分の星を呪う」
ーーー社会慣習のために、余儀なく別の道を辿ることがよくあるのではありませんか。自分の職業選択が周囲の人の意見で左右されることもよくあるのではありませんか。他人の判断をわりに重視する気持ちのために、自由意志の修練の障害となる、そんなことはありませんか。
「社会慣習は神ではなく、人間によって作られるもの。人がこれに従うのは、そうすることが相応しくあるからだ。またそれ故に、本人は自由意志でそれに従っているわけ、但し、それから離れたければ、離れられる場合だが。だから、ぶつくさ言うこともあるまい。人々が責めるべきは社会慣習ではなくて、自分のプライドである。このプライドのために、人は自分の権威を傷つけるよりはと、餓死を選ぶ。自分の意見を犠牲にしたって、誰も感謝はしない。神様は彼等の空しい犠牲をよくご存知であるが」(明日に続く)
今回も運命の続きである。何をやってもうまくいかないという人も、それは本人が受肉以前に自分で選択した人生の結果だと言われている。なぜなら、失意の人生を送ることによって忍従や辛棒を学びたいという本人の望みだからとのことだ。けれど、このような運命ばかりではないと言われている。大半は、自分で道を誤った結果であり、自分の知力や資質をうまく使わない結果のようだ。例えはわかりやすい。泳ぎを知らないで川を横切ろうとする者は、絶好の溺死の危険に立っていると。けれど同じ事が人生の大部分の出来事についても言えるとのことだ。概ね成功を勝ち取る人と言うのは、自分の身の丈に合った物事だけを手がけると。反対に失敗の原因となるものは、人間のうぬぼれや野心や見栄などが、人間を正しい道から外れさせてしまうと、また自己満足にすぎないものを天職と思い違いをするような人は失敗するのだと言われている。けれどそれは本人の欠陥によるものだそうだ。そしてそういう人ほど、自分を責める代わりに、この世だったり、自分の星を呪うことになるとのこと。
社会慣習とは人間によって作られるものだと言われ、人が従うのは、そうすることが自分にとって相応しいと自由意志で従っているからだと言われている。もちろん、強制ではなく、そのことから離れたければ、離れられる状況においての場合とのこと。だから、文句いう筋合いのものではないようだ。そして、私達人間が責めるべきは社会慣習ではなくて、自分のプライドだと言われている。このプライドのために、人は自分の権威を傷つけるよりはと、餓死を選ぶのだと。確かにそういう人は今までにもいて自殺されている。けれど自分を犠牲にしたところで、誰も感謝するどころか臭いものには蓋状態になってしまうのだ。けれど、神様はそういう方達の空しい犠牲をよくご存知であると言われている。それはその方達にとって、大変な救いになるのではないかと思う。
1160回目の瞑想
ーーー運の良くない人がいるかと思えば、何をやっても上手く行く、運の良い人もいます。いったい何からこうなるのですか。
「多くの場合、本人が事をどう処理するか。そのやり方である。しかし、試練の種類にもよりけりである。人は成功すると成功に酔ってしまう。そして自分の運を信じ切って、最後はどんでん返しを食う。もし思慮分別があったら、食う筈のなかったどんでん返しを」
ーーー意志や知性も関係なしに、思わぬ幸運が転がり込むことがあります。例えばサイコロ賭博のような場合、あれは何ですか。
「それは霊達の仕業である。人間として得た勝利が、霊としては失敗であることが多い。こういう※僥倖ぎょうこうは本人の虚栄心や欲心の試練である」※思いがけない幸運
ーーーでは、私共の物質上の運命をつくる、いわゆる運は自由意志の結果ですか。
「諸君は自らその試練を選択したのである。その試練が厳しく、また諸君がそれをよく耐えれば、一層諸君は高く向上しよう。人生をぬくぬくと利己的快楽に浮身をやつして生きる者は、進歩が停滞する臆病者である。この故に、今不幸な多数は、幸福である者達よりも、地上ではずっと偉大な者達である。何となれば、霊というものは一般に、自分に最も有効な試練を、選択するものであるから、霊達の目には、諸君等の壮麗さとか享楽の虚しさが、はっきり見えている。それだけでなく、最高に幸福な人生とは、必ずやある程度、波風のあるもの、ある程度悩み事もあるもの。ただ悲しみだけがなければ」
ーーー良い星の下に生まれる、という言葉は、どこから出て来るのですか。
「星と人間の運命とを結び付けた、古い迷信ーー一部の者達が愚かにも、そのまま真理と鵜呑みにしている天象図、それから出ている」
今回も運命の続きである。何をやっても上手く行き、運が良い人と言われる人はいる。だが、本人がその事をどう処理するかで変わるのだと言われれる。試練の種類にもいろいろあり、人は成功すると成功に酔ってしまうのだと。そして自分の運を信じ切って、最後はどんでん返しを食う場合もあると。そこにきちんとした思慮分別があれば、どんでん返しなど食わないとのことだ。またサイコロ賭博のような賭け事で、思わぬ幸運が転がり込むことがあるが、それは霊達の仕業であり、その思いがけない幸運は本人の虚栄心や欲心の試練であるとのことだ。また、再三再四言われていることだが、私達人間の物質上の運命は自らその試練を選択したと言われている。その試練が厳しく、また私達人間がそれをよく耐えれば、一層私達人間は高く向上するとのこと。逆に人生をぬくぬくと利己的快楽に浮身をやつして生きる人は、進歩が停滞する臆病者であると。なので、今不幸である人は、幸福である人達よりも、地上ではずっと偉大な人達なのだと論じておられる。それは、霊というものは一般に自分に最も有効な試練を選択するものであるからと。そして霊達の目には、私達人間の壮麗さとか享楽の虚しさがはっきり見えているとのことだ。更に最高に幸福な人生とは、必ずある程度の波風があり、ある程度悩み事もあるものだと言われ、ただ悲しみだけがなければと言われている。ということは、殆どの人が最高の幸福な人生になるのではないだろうか。悲しみも必ず乗り越えることが出来るからだ。やはり日々感謝することが大事なのだと思う。
最後の良い星の下に生まれる、というような言葉は、古い迷信とのことだ。迷信には惑わされないように気を付けたいものである。
1161回目の瞑想
ーーー未来のことが人間には分かりますか。
「原則として、本来は人間から隠されている。神がこれを洩らされるのは、極めて稀なこと、例外である」
ーーーなぜ本来は人間から隠されるのですか。
「もし未来が人間に分かれば、人間は現在を疎かにして、自由意志で行為をしなくなる。本人はこう思う、これこれの事が起こるのなら、自我がかかり合う余地は何もないと。さもなくば、それの起こるのを回避しようする。神はそうなることをお望みではない。何事も神慮に全く従って起こるようにと望まれる、どんな神が舌打ちなさりそうな物事についても。このようなわけで、諸君は人生の諸問題に対して、未来を知ることなしに、備え対処するのである」
ーーー未来が分からない事が有益であるとすれば、何故神は時折それをお洩らしになるのですか。
「この場合は、この予知によって、その者事の起こりをかくしておくよいりも、事がスムーズに運ぶ、その故である。これを予知させられた人間は、もし予知しなければ、横道に走って行ったであろう、これをちゃんと誘導するためである。また更には、それが一つの試練であることが多い。物事の見透かしがつけば、それによって有用な思想も湧いてこようというもの。たとえばある者が、自分が予期せぬ遺産を相続することを知ったとする。彼はふと、これで自分の人生は楽しいものになるとわくわくして、おかしな考えを持ち、いっそ早くそれを手に入れるため、その人を殺そうと思うことがあるかも知れぬ。また別の場合は、遺産相続の見通しによって、本人に、ただ善と寛仁の心を目覚めさせるかも知れぬ。万一、この予言が実現しない場合は、別の試練となる。即ち、失望を忍耐する試練の道ということである。いずれにしろ、未来予知の期待により、目覚めた善悪いずれかの思想で、本人は功罪どちらかを受け取ったこと、それは確かなことである」(明日に続く)
今回は予知という内容である。
未来の予知については、本来人間から
原則として、隠されていると言われ、もし神様が未来のことを洩らされるのであれば、それは極めて稀なことであり
、例外であると言われている。そして、
人間から隠されることについては、
もし未来が人間に分かれば、人間は現在を疎かにして自由意志で行為をしなくなるとのこと。更に本人はこう思うと、こんな事が起こるのなら、自我がかかり合う余地は何もなく、それが起こるのを回避しようとするとのことだ。だが神様はそうなることをお望みではなく、何事も神慮に従って起こるようにと望まれているのだと。そう言った理由から
、私達人間は人生の諸問題に対して、未来を知ることなしに、備え対処しなければならないようだ。けれども、
未来を予知出来ない事が有益であるのに対し、時には神様は未来を洩らされることもあるのだ。それは、そ
の予知によって、その物事の起こりを隠しておくよりも事がスムーズに運ぶからだと言われる。従って、もし予知することができれば、横道に逸れることなく、ちゃんと正しい道へと誘導できるためだと言われている。そしてまた更には、それは一つの試練であることも多いそうなのだ。そこで例を挙げて下さっている。たとえば予期せぬ遺産を相続することを知るとすると、人生が楽に生きられて、楽しいものになるというような、おかしな考えを持つと言われる。そして、更にそれを早く手に入れるために、相手を殺すまでの可能性をも秘めているとのこと。また別の場合としては、遺産相続の見通しによって、善と寛仁の心を目覚めさせるかも知れないこともあると。そして、この予言が実現しない場合は、別の試練となり、今度は失望を忍耐する試練の道になるということなのだ。だがいずれにしても、未来予知の期待で目覚める善悪いずれかの思想は、本人が功罪どちらかを受け取ったという事実は、確かなことなのだと言われている。どんな場合でも、必ず意味があり、意図があるということに、ただただ頭が下がる思いだ
。
1162回目の瞑想
ーーー神は何事もご存知である限り、人が与えられた試練を克服するか、挫けるかもご存知でいらっしゃる。では、このような試練の効用はどこにあるのですか。本人について神がご存知ではない事は、何一つ神にお見せする訳ではないのですから。
「貴方の質問は、神はなぜ人間を完全なものとして創造しなかったのか、と問うているのと同じ事である。または、人間は大人になる前に、なぜ子供の時代を通らねばならないのか、という問いでもある。試練の目的は、人間の功罪について、神を啓発することではない。神は人間が何であるか悉ことごとくご存知である。ただ、人間を自由にしておいて、人間が自己の行為に責任を持つようにさせておく、ここに目的がおありだ。人間は善悪の自由選択を持っているので、試練は人間に誘惑をもたらし、人間に抵抗力をつける、その効用がある。神は事前に彼が誘惑に勝つか負けるかもご存知ではあるが、正義であられるが故に、本人の為した行為に従って本人が賞罰を受け取る、その外に何も為さりはしない」
今回も予知の続きである。この質問は人間であれば当然の疑問のように思う。だが、人に与えられた試練に関しては、取り敢えず神様は関係ないのだ。私達人間にとってのみの問題ということだ。それが、お答えの内容を読むとよくわかる。私達人間にとって試練は必要なことで、その試練を体験しなければ前には進めないのだ。しかもその試練をどう対処するかで、進む道も違って来る。また本人の自由選択の結果、賞罰を受け取ることにもなるのだ。神様は私達人間のすべてをご存知であり、愛をもって見守って下さっているのだ。それを信じられるかどうかなのだと思う。信じられる人は神様の摂理に適った生き方をすれば、正しい道に進んで行けるということ、それ以外にはないと言うことを心にしかと刻み付けることが、最も肝要なことなのだと改めて感じさせて頂いた。
1163回目の瞑想
今回は「人間行為の起源」について、著者のカーデック氏自身が、霊示を受けた内容のまとめのように書かれていたので、記載してみる。一読して頂けたらと思う。(長いので何回かに分けて記載する)
自由意志の問題は次のように要約できよう。
人間は宿命によって悪に陥るのではない。人間の行為の筋書きは、前もって書かれているわけではない。人の犯す罪は運命の筋書きの結果ではない。人間は試練として償いとして、一つの人生を選択したのかも知れない、それは誘惑で道を踏み外しそうな環境や状況、それに囲まれている。しかし、本人は常に右にするか左にするかの自由を持っている。このように霊は、受肉以前にあっては、誘惑に身を委せたりまたはこれを拒否したりして、自由意志を鍛える。
霊は物質から解放され自由になると、自己の到達した浄化の程度に応じて、未来の地上生活を選択する。以前にも指摘したが、霊に自由意志があるから、この選択をする力があるのである。この自由意志は受肉しても消えることはない。何となれば、もし受肉した霊が物質の影響に屈することがあれば、それは本人が選択した試練に屈服するのであって、この場合、本人はそれを克服するため、神や善霊の援助を請願する自由を常に持っているのである」(明日に続く)
1164回目の瞑想
世間で言う運命とは、人生の出来事が前もって定まっていることと解されている。もし物事がそういう具合なら、人間は意志も何もない機械にすぎない。もし人間の行為が運命の力で縛られているのなら、人間の知性など何の用があろうか。このような予定は精神の自由の破壊に外ならない。そこには人間の責任のようなものは存在しない。従って、善もなければ悪もなく、徳も罪もない。まことに正義であられる神は、行為に自由のない者の犯す失策をもって、懲罰をなさることがあり得ようか、そのような者の善行にあらざる善に対して、報いられることがあろうか。更にまた、これは進歩の法の否定でもあろう。つまり、もし人間が運命に依存するものなら、自己改善など思いもよらぬだろう、自ら進んで行為することも不要、しても無駄であるのだから。
他方、運命とは単なる言葉だけのものでもない。運命はある。人間が地上に置かれている立場、そこで演ずる役割、霊が受肉以前に試練のたmか、償いや使命のためか、自ら人生を選択したその結果として、運命はある。この選択によって、彼は自分が選んだ人生の転変に、どうしても従わねばならぬ、善かれ悪しかれ、その中の趨勢すうせいに順応せねばならぬ。だが、運命はそこまでだ。後は、その趨勢に従うかどうかは彼の自由である。細かい事件は、本人がどんな行為をするか、また、本人が周囲の霊魂のささやきにどんな反応をするか、それ如何によって作り出されていく。そこで、我々の行為とは関係なしに起こる出来事そのものには、運命がある。それは我々の霊が受肉以前にした人生の選択から出て来るものであるから。しかし、それら出来事のもたらす結果には、何ら運命は存在しない。それは我々の思慮いかんによって変更できるものだからである。即ち、我等の精神生活の行為には、運命は存在しない。
人間が有無を言わせぬ絶対の法の下に置かれるのは、死についての事のみである。この人生に時があることは定められたことであり、これを断ち切る死の定めも避けられぬことである。
今朝の瞑想での内容を記しておこうと思う。深く入って行くように精神集中していると、ご神殿のような神棚のようなものが置いてある部屋の映像が出現した。その神棚にある幾つかの場所がクローズアップされていった。かなり大きく文字まで見えたのだが、何と書いてあるかも、それが何なのかもわからなかった。けれど、その時に「霊験あらたか」という言葉が浮かんだのだ。終了してから、意味を調べてみると、神や仏からの御利益が著しく現れること、と書いてあり、鳥肌が立ってしまった。実は瞑想の最初のお祈りで、必ず懇願しているあることがあったからなのだ。それが叶うということなのではないかと思い、びっくりすると共に、とても有難い気持ちにさせて頂いた。叶った暁には記載したいと思う。
1165回目の瞑想
俗信によると、人間の本能は本人自体に備わっているものという。それは彼の精神には責任のない、肉体器官から出て来るものであるとか、または人間の本性であるとか言われる。これは人間が不完全であることの弁明ともされ、人間にしてみれば、人間の有り様は人間の選択の余地のないものだという、尤もな口実ともされるのである。
心霊主義の主張は、上記よりも明らかに道徳的である。これは人間の自由意志を多分に認めていて、誤りを犯せば、邪霊のささやきに屈服したものとして、その誤りの全責任を本人にありとするのである。何故かというと、心霊主義は、邪霊への抵抗力が人間にあるとするのであって、この抵抗は、人間が自分の本性と闘うよりもずっと易しいと、こう考えるからである。このように、心霊主義によると、どんな誘惑も不可抗力ではないのである。人間は自分の内心にささやきかける不思議な声に対し、精神の耳を閉ざすことが出来る、それは丁度、人声に耳を閉ざすことが出来るのと同様である。人間は自分を悪へ誘うささやきに対し、身を背けることが出来る、誘惑する者に対し意志で反対することによって。同時に、神にその力をお与え下さるように願うことによって。また、善霊に誘惑を叩き潰す手助けを求めることによって。
上記の、人間行為のいとも妙なる源は、現在、霊界から示されている教示の結論なのである。これは道義性に於いて崇高であるだけではない、人間の自尊心を優れて高めるに相応しいものである。何となれば、これは、招かざる者の侵入に人間は戸を閉ざすべきことを示すと共に、人間は抑圧する者の奴隷ではないことを、教えるものであるから。また、人間は意志と関わりのない刺戟で動かされる機械ではないこと、また、人間は二つの声を聞き分け選択できる理性的存在であること、これを示すものである。更に次の事を付け加えておこう、人間は自分の行為の主であるということ。人間の行為はその自己の中に動機をもつものである。何となれば、人間は今物質の衣に覆われているが、しかし彼は依然として霊である。一個の人間として、霊として持っていた善悪その体質を、依然として保持する存在である。それ故に、我々が犯す誤りは、我々自身の霊のもつ不完全さ、そこに原因がある。その不完全さとは道徳的な卓越性が未だ獲得されていないということで、時間の経過の中でそれは獲得されるであろう。然しそうではあるが、そこには自由意志が十全な姿で込められているのである。地上生活で、我々は、霊の中の不完全さを消すために生きる、苦しい試練を通ることによって。そして、この不完全さこそ、明らかに、我々を腰砕けにし、未発達霊のささやきに身をよろめかす、その張本人である。未発達霊はこの我々の弱さを利用して、我々が身に課した仕事の完成を失敗させようと、試みるのである。もし、我々がこの闘いに勝てば、我々の霊は一層高い段階に上る。失敗すれば、旧態依然、良くはならず悪くもならず。但し、何度繰り返してもうまく行かぬ状態を残す。この同じ試練の繰り返しで、長期に渡り人間の進歩は停滞する。しかし、我々が自己改善を積むにつれ、弱さは消える。そうして我々を悪に誘い込もうとする者に手がかりを与えなくなっていく。こうして、我々の精神力の絶え間ない増大と共に、悪霊は遂に我々に働きかけることを止める。
善霊も悪霊も、霊の総体が受肉をして、この人類をつくっている。そしてこの地球は、善霊よりも悪霊の方の受肉が多く、最も遅れた世界の一つである。我の強さが一般的傾向となっており、人類の間に目立っている。そこで、この地球へ戻って来ないよう、最善を尽くそうではないですか、もっと高い世界へ入って行けるよう、功を積もうではないですか。そこは善が目立つ楽士の一つ、その楽園で、我々は地上に在った時代を、過去の異国の滞在の時期のように思い浮かべるだろう
。
1166回目の瞑想
ーーー正義の感情というものは、天性のものですか、それとも獲得された観念ですか。
「諸君の感情は、不正の観念に対し、自然に反撥を覚える、正義の感情はかように天性のものである。精神の発達で確かに正義の感情は発展する。しかし、精神の発達が正義の感情を創り出すわけではない。神はこれを人間の心中に置き給うた。それ故に、諸君は素朴で原始的な人々の間にも、知的に進歩した民族より、更に確かな正義をもつ民族を見るのである」
ーーーもし正義が自然の法とすれば、なぜ人によって受け取り方が違うのですか。同じ事を甲は正義とし、乙は不正義と思います。
「それは、正義の感情に人間の感情が混入して、品格を落とすからである。天与の感に感情が混入すれば、物事は歪んで見える。そのような事が多い」
ーーー正義はどうのように定義したらよろしいですか。
「正義は、他者の権利の尊重、この中に在り」
ーーーその権利とは何か、これを定義して下さい。
「二つある、人間の法と自然法。人間はその性格と慣習に合わせて法律を作った。この法律で権利を定めたが、それは開化進展と共に変化していくものであった。今日では、諸君の法は完全からほど遠いとはいえ、もはや中世で権利としたものをそうとは認めていない。諸君の目には奇怪に見えても、当時は正義であり当然だったのである。それ故、人間の定めた権利には必ずしも正義に適ったものではない。しかるに、この権利によって社会関係が規定されたりもする、個人的生活には、良心の裁きにのみ従うべきものが多々あるというのにである」
ーーー人間の法に定められた権利とは別に、自然法に従うと、正義の基盤は何ですか。
「キリストは申された、貴方が人からして貰いたいと望むことを人にしなさいと。神は人間の心の中に、すべての正義の真正の規準として、次の願いを置き給うた、自分の権利を尊重してもらいたいと、誰しもがその胸に感じる者として」(明日に続く)
また今回から質疑応答で、自然の権利と正義という内容である。最初正義の感情という言葉の意味が良くわからなかったが、お答えを読んで、なるほどと思った。不正の観念に対し、自然に反撥を覚えるこの感情こそが、正義の感情ということなのだと。そしてこの正義の感情は天性のものだと言われている。なぜなら、神様が人間の心中に置かれたということで、精神の発達で正義の感情は発展すると言われるが、精神の発達が正義の感情を創り出すわけではないとのこと。それを証拠に、知的に進歩した民族より、素朴で原始的な人々が更に確かな正義をもつと言われている。確かにその通りだと思う。ただ、天性のものである正義の感情に人間の感情が混入すれば、品格を落とすとのことで、天与の感に感情が混入すれば、物事は歪んで見えるとのことだ。そして、正義の定義とは、他者の権利の尊重だと断じている。その他者の権利とは、人間の法と自然法の二つあると言われる。だが、人間の定めた権利には必ずしも正義に適ったものではないとのこと。しかも、その人間が定めた権利によって社会関係が規定され、今現在私達はそれに則って生きている。けれど、言われるように個人的生活には、良心の裁きに従うべきものが多々あるのだ。それだけに理不尽な規定に従わなければいけないことに違和感を感じてしまう。
そして、最後の自然法に従って生きるということは正義の定義でもある他者の権利を尊重することでもあり、私達人間にとっては最も大切なことなのだ。それは神様が人間の心の中に、すべての正義の真正の規準として置いて下さっており、自分自身の権利を尊重してもらいたいという思いは、他の人も同じだということだ。だからこそ、キリスト様の言われた自分にして貰いたいと望むことを人にする、ということを肝に銘じて生きて行かなければいけないのだ。またそれは魂の進歩に繋がることでもあると思う。
1167回目の瞑想
ーーー人間が社会に生きる上で、何か特別に必要な義務がありますか。
「左様、その第一は、他者の権利を尊重することである。これを尊重する者はいつも正義であろう。地上では、正義の法を多くの者が実行しない地上世界では、諸君は報復に頼る。そしてこの事が人間社会に混乱と揉め事を起こしている、社会生活は権利を与える。そしてそれに応じた義務を課す」
ーーー人間は自分の権利について幻想を持ちがちです。どこまでが本当の自分の権利なのか、それを教えてくれる何かがありますか。
「同じ状況にある隣人の立場に立って、隣人は自分に対してどう認めるか、それが権利の範囲である。この逆も同じである」
ーーー各人が隣人の権利を自分の立場から計るとすれば、権力者に従属していればどうなりますか。そんな原理では、無政府的となり何もかも滅茶苦茶になりませんか。
「自然権はピンからキリに至るまで万人に同様である。神は一部の人を上等の土くれで飾られたわけではない。神の目からすべての人は平等である。自然権とは永遠である。人間が定めた権利は、人間の制度で滅びる。しかし、人は各々はっきり自分の力量や無力さを感じるものであり、また、その智徳の故に尊敬できる人へ、一種の恭順の意識を持つものである。で、次の一事は大事なことだが、自己を優者と思う者は、人が自分に従ってくれるこの権利に対して、自分も義務を心得ているということ。このように、権威に優者の英知が伴うところ、不従順もないということ」
ーーー純粋に正義を実践する人物の人格は何と申したら良いですか。
「イエスの範に従う者、これ真の正義の士と言えよう。彼こそ正義そのものである、隣人愛を実践する者である」
今回も自然の権利と正義の続きである。私達人間が社会に生きる上での義務はやはり、他者の権利を尊重することだと言われている。正義の法を多くの人が実行しない地上世界では報復に頼ると言われており、それが人間社会に混乱と揉め事を起こしているとのことだ。確かにそうだと思う。そして自分の権利を知るには、同じ状況にある隣人の立場に立って、隣人は自分に対してどう認めるかが、権利の範囲だと言われている。ただ一番肝心なことは、神様の目からご覧になれば、すべての人は平等であり、自然権は永遠であるとのことだ。そして人間が定めた権利は人間の制度で滅びると。けれど、人は各々はっきり自分の力量や無力さを感じるからこそ、智徳の故に尊敬できる人へ、一種の恭順の意識を持つと言われる。そこで、次の事は大事なことだと言われ、自己を優者と思う者は、人が自分に従ってくれるこの権利に対して自分も義務を心得ており、権威に優者の英知が伴うところ、不従順もないとのことだ。そして最後に正義を実践する人物とは、隣人愛を実践する者だと断じている
。世界の人々が正義の法を実践できれば、この世は地上天国と化すのだろう。
1168回目の瞑想
ーーー人間の自然権の中の第一は何ですか。
「生存権。それ故、何人も他者の生命を奪う権利はない。また、人の生命を危険にさらしてよい権利もどこにもない」
ーーー生存権は、人間が働かずに休むための蓄財の権利を認めますか。
「認める。しかし、そうするのなら、家族のため、蜂のように誠実に働くこと、自分一人の利己のための蓄財であってはならない。動物の中には、人間にこの種の範を示しているものもある」
ーーー人間には、自分の労働で蓄財した財産を守る権利がありますか。
「神は申されなかったか、<汝盗むなかれ>と。イエスは言わなかったか、<カエサルのものはカエサルに返せ>と」
ーーー所有欲は人間に自然なものですか。
「左様である。但し、それが自分のためだけの時、自己満足のための時、これは利己主義である」
ーーーですが、所有欲は合法的なものではありませんか。不安のない生活をする者は他人の重荷にはなりませんから。
「人の中には、貪欲で他者への利益など無視して蓄財する者がいる、唯ただ自分の満足のためにである。皆さんはこんな事を神が喜ばれるとお考えか。これに反して、額に汗して働きながら、他者を助ける手段を手にするために蓄財するものがいる。彼は隣人愛の法を実践する者であり、また彼の労働は神の祝福を受けるものである」
ーーー正当な財産の性格とは何ですか。
「人を傷つけないで手に入れたものでない限り、正当な財産などどこにもない」
[注解] 愛の法、イエスの法は、自分が人からして貰いたくない事を、人にするなというのだから、この法に違反する獲得方法は、暗黙のうちに罪とされるものである。
ーーー財産権は無制限のものですか。
「正当に獲得されたものは問題なく、すべて所有物である。しかし、前に述べたように、人間の法は不完全であって、自然法に反した因習的な権利を設定する。このため、人間は進歩に応じて、また正義の認識を重ねるに応じて、改変する。一つの時代に権利と思われたものは、他の時代には野蛮に見える」
今回は財産権ーー強奪という内容である。自然権の中の第一は生存権だと言われている。最もなことだと思う。だからこそ、人の命を奪うことなど論外なのだ。生命を奪う権利はないと、生命を危険にさらしてよい権利もないと断じている。そして生存権は人間が働かずに休むための蓄財の権利を認めると言われている。但しそれは家族のため、誠実に働くことが条件のようだ。自分のためだけの利己のための蓄財であってはならないと。動物の中に、このような模範を示してるものがあるとのことだ。また、自分の労働で蓄財した財産を守る権利については、神様やイエス様のお言葉を引用されている。これは人から盗んだものでなければ、守る権利があるということなのだろう。更に所有欲についてもこれは人間として自然だと言われている。だが、蓄財の権利の時と同様に、自分だけのため、自己満足のためなどは利己主義であるとのことだ。そして次のお答えも実際にそういう貪欲な人はいる。どれだけの利益を自分のものにすれば満足なのか分からないほどに、ただただ金の亡者になっているような人だ。このような人を神様が喜ぶはずはない。だが、次に挙げているような方は、ほぼいないのではないかと思う。けれど、それが隣人愛の法の実践だと言われ、神様の祝福を受けると言われている。確かにそのような心がけは霊恪が高いからこその実践であると思われる。凡人にはなかなか難しいことだ。
今度は正当な財産についてだが、人を傷つけないで手に入れたものとのことで、これは当然のことだ。また注解でも言われているように、自分が人にされたくない事をすることは、愛の法やイエスの法に違反するので、暗黙のうちに罪とされるようだ。
最後の財産権は無制限なのかについては、正当に獲得されたものは間違いなく、すべて所有物だと言われている。ただ、人間の法は不完全であり、自然法に反した因習的な権利を設定すると言われている。なので人間の進歩の度合い、また正義の認識を重ねて行くに従って、改変するとのこと。よって、一つの時代には権利と思っていても、他の時代には権利とは呼べない野蛮なものに見えるとのことだ。要は人間が進歩し、自然法をこの世の法として掲げて行くこと以外、常に改変していくことになるのだろう。一日も早く神様の創られた自然法が地上世界の法になって欲しいと願う
。
1169回目の瞑想
ーーーイエスが言われた人類同胞の愛という言葉の本当の意味は何ですか。
「すべての人への博愛、他者の不完全への寛容さ、人の非道の行為の許し、これらである」
ーーーイエスはまた、汝の敵を愛せよ、と言われました。しかし、我々の敵を愛するとは、我々の自然の性向に相反します。また敵意は、霊的に共感するものが欠けているから、生まれるのではありませんか。
「確かに、人間が自分の敵に、優しさや熱い思いを抱くなど、難しい事だろう。また、イエスもそのような事を命じたのではなかった。<汝の敵を愛すること>は、その者を許すことである。また悪に対して善を返すことである。その事によって、諸君は相手よりも優れた者となる、恨みを持ってすれば、相手の下に自分を置くことになる」(明日に続く)
今回は隣人愛についての内容である。隣人愛とは、他人に優しくするだけのことではなく、すべての人への博愛であり、他者の不完全への寛容さであり、非道の行為さえ許すことなのだと言われる。いやはや本当に難しすぎる。隣人愛と口にするのは簡単だが、果たしてどれだけの人がこのような行為ができるのだろうか。他者の不完全への寛容は努力すれば可能かも知れないが、非道の行為を許すということは、努力しても出来そうにない。またイエスのお言葉「汝の敵を愛せよ」も許すことだと言われている。更に悪に対して善を返すことだとも言われているのだ。その事が相手よりも優れた者となり、恨みで返せば相手の下に自分を置くことになると。だが、私が思うに相手というよりも、やはり自分との闘いなのではないかと思う。許すことや悪を善で返すことなど到底無理だと思えることが出来れば、自分の霊恪が上がり、魂が進化する。すべては自分を鍛えるための修行ということなのだと。自分の魂を浄化するためにも、できない努力をしなければいけないのだと痛感した次第である。
1170回目の瞑想
ーーー慈善についてのお考えをお尋ねします。
「乞食にされることは、肉体的にも精神的にも、人間の品格を落とすことになる。それは人間を動物にすることである。神と正義の法に基づく社会状況では、弱者を助けるにしても、自尊心を傷つけずに支給が行われる。生活の資は働けない全員に保障される。偶然のままに放っておかれたり、個人の善意に委されたりせぬように」
ーーー慈善を非難されますか。
「非難すべきものは、生活の資を与えることでなく、そのやり方である。イエスの説いたように慈善を理解する者は、手をこまねいて待つことをせず、貧しい者を探し求める。
本当の慈善とは、必ず愛と優しさを持つもの。それは慈善の行為と共に、慈善を行うやり方、その上に成り立つものだから。奉仕は、心遣いを込めて行われれば、二重の価値を生むもの。しかし、傲慢な態度ですれば、欠乏は無理にも無くなりはするが、受け取った者の心には少しも心が通わない。
また心得られよ、見栄は神の目の中で、善行の価値を滅ぼしてしまう。イエスはかように申した<自分の右手のした事を、左手に知らせるな>と。高慢と虚栄で慈善を曇らせることのないよう、諸君等にかように命じて教えてくれている。
諸君は物を与えるだけの慈善と、愛の慈善とを、しかと見分けねばならぬ。最も貧窮な者は、路傍で物乞いする者ではない。屈辱を恥じて物乞いをしない、本当に貧しい多数の者達である。これら無言で苦しみ黙している者達である。真実に愛の心を持つ者は、これら隠れた気の毒な人々を求め、見栄も何もなしに救いの手を差し伸べる。
互いに愛せよ、これが全宇宙を統べられる神の法である。愛は生きとし生ける有機体を引き付ける法である。この引力は非有機物体の愛の法である。
決して次の事実から目を逸らしてはいけない。進歩の程度のいかんを問わず、それが肉体をとっていようと、霊界にあろうと、すべての霊はいつも二つのものの間に置かれている。即ち、教え導いてくれる優れた者と、自分がこれを教え導く義務をもつ自分より劣った者達との、二つの間におかれていること、この事実から目を逸らしてはいけない。それ故に慈悲深くありなされ。貴方に一円を乞う乞食に銭を与えてやるだけでなく、貧窮を隠している貧者を見出すことによって。貴方の周辺にいるこれらの者達を発見することに心を込められよ。彼等の無知彼等の不徳を軽蔑せずに、導くことをしなさい。彼等をより良い状態にしてやりなさい。自分より劣っている人達に労りと愛を持ちなされ。それと同じ愛を、低い進化段階の生物達にも持つようにしなされ。これによって、諸君は神法に従う者となろう」聖パウロ
ーーー自分の欠陥のために、乞食に身を落としている人々はありませんか。
「それはある。しかし、もし良い精神教育によって神法実践の道を教えられていたら、このように身を滅ぼす乞食になることはなかったろう。地球改善の究極の実現は、このような教育が普及することに、主としてかかっている」
今回も隣人愛の続きである。今回の慈善についての内容は、とても考えさせれた。ここまですることが神法に従うということになるとは、やはり凡人には無理としか言いようがないように思う。ただ、それと同時に疑問も出て来る。それはこの世の試練は過去の自分の行いの償いだったり、魂の進化のためにあるものだと言われて来ている。だとすると、乞食だったり、貧窮生活を強いられている人達は、その体験が試練であって、自分の行いの償いなり、魂の進化なりを受肉以前に選択してきたということではないのだろうかと思うのだ。それを手助けするのはその人達の選択してきた道を阻むことにはならないのか、はたまた意味があるのだろうかと真剣に思ってしまった。もちろん、聖パウロ様が言われたことならば、意味があってのことだとは思う。けれど、矛盾してはいないのだろうかと、どうしてもそこに行き着いてしまうのだ。もちろん、それだけのことを今の私には出来ないからそう思ってしまうのかはわからない。
ただ、次のこのお言葉は、心に響いた。進歩の程度のいかんを問わず、それが肉体をとっていようと、霊界にあろうと、すべての霊はいつも二つのものの間に置かれている。即ち、教え導いてくれる優れた者と、自分がこれを教え導く義務をもつ自分より劣った者達との、二つの間におかれていること、この事実から目を逸らしてはいけない。
だからこそ、慈悲深くなけばいけないとの教えには、深く得心できるのだ。
そして最後の質疑応答だが、自分の欠陥のために、乞食に身を落としている人々がいると言われている。だが、それも良い精神教育によって神法実践の道を教えられていたら、このように身を滅ぼす乞食になることはなかったろう、と言われている。確かに神法実践できれば乞食と言われる人だけでなく、悪行を犯す人もいなくなり、この世は素晴らしい人達のみとなるだろう。けれど、世の中の人すべてがそのようになるためには、結びのお言葉である「地球改善の究極の実現は、神法実践の道を教える教育が普及することに主としてかかっている」これ以外にはないとは思うが、それが出来ないからこそ、今現在の状況なのだ。
今回の内容は、やはり霊恪の高い人だからこそ出来る内容なのではないかと思う。隠れて貧窮生活をしている人を見つけ出す事自体、出来るはずもない。それには見極める力が必須なのだ。だが、一見してわかる浮浪者などは街中には一杯いるが、その人達に対してさえ、まだ慈悲の心を持つまでには至れていない。その心が自然と出るようになれば、魂が進化したということなのだろう。まだまだ未熟なのだと逆に悟ることが出来たように思う。神法に従いたいと思いつつも、実行できないことに残念な思いで一杯だった。
1171回目の瞑想
ーーー母性愛は美徳ですか。それとも、人間や動物に共通の本能的な情ですか。
「その両方である。自然は母親に、その子供の生命を支えるために、子に対する愛を植え付けた。動物の中には、母性愛が子に対する食物の供与を限度として、限られているものもある。その仕事の必要がなくなると、母性愛も消える。人類の場合は、母性愛は生涯続く。それは非利己的献身という性格を持ち、美徳の座にそれを置く。これは死後も続き、死の彼方から子供の生涯を見つめる。それ故、人間の場合には、動物以上の何かが母性愛にある事が見てとれよう」
ーーー母性愛が自然の情なのに、なぜ母親が子供を憎むことがあるのですか。生まれる前からこれを憎むことさえありますが。
「母性愛の欠落、これは生まれる子供の霊にとって、試練であったり罪の償いであったりすることがある。その子が前生で、悪い父、悪い母親、悪い子供であったような場合に。どの場合でも、悪い母親は悪霊の再生に限る。この母親は子供の人生に障害を投げようとする霊、子供が選択した試練に子供を屈服させるために。だが、このような自然法への反逆は罰せられずにはおかれぬだろう。子供の方の霊は、人生に投げ入れられた障害を克服すれば、報いられる者となろう」
ーーー親を悩ます子供を持つ両親の場合、子供がまともだったら抱いた愛情を、子供に感じない事には、情状酌量の余地があるのではありませんか。
「ないですな。自分の子供を鍛えることは、親に与えられた仕事である。この使命とは、子供を正道に引き戻すための最善の努力を尽くすこと、これである。それだけではなく、親の流す涙は、生まれた時から子供に植え付けてきた、悪いしつけの結果である。身から出た錆、親は自分が播いた種子の悪い収穫を刈り取っているのである」
今回は母の愛と子の愛についての内容である。母性愛について、美徳でもあり、本能的な情でもあると言われる。神様は母親に子供の生命を支えるために子に対する愛を植え付けたとのこと。有難い限りだ。動物の中には母性愛が子に対する食物の供与を限度として限られているものもあると。そして、その仕事の必要がなくなると母性愛も消えるとのことだ。母性愛が消えてしまうとは驚きだ。また、人類の場合は母性愛は生涯続くと言われ、それは非利己的献身という性格を持ち、美徳の座にそれを置くとのこと。更に死後も続き、死の彼方から子供の生涯を見つめると言われる。母性愛の深さを感じる。確かに人間の場合には、動物以上の何かが母性愛にある事は事実だ。
次の質疑応答に関しては、現在でもニュースで報道されているが、子供を虐待している母親がいる。また産み落としてすぐに捨ててしまう母親も。動物以下の所業のように思う。これは母性愛の欠落でもあり、また生まれる子供の霊にとっての試練であったり、罪の償いであったりするとのことだ。だがその子が前生で悪い人間だったという事は、霊的なことが分からなければ理解できない。この世の見方はただただ子供が可哀想だと思ってしまう。けれど、どの場合でも、悪い母親は悪霊の再生に限る、と断じておられる。そうなのかと納得する。そのような母親の元へ生まれることを選択した子供の霊も、やはり罪の償いをしなければいけないのかも知れない。もちろん、この母親のような仕打ちは、自然法への反逆として罰せられずにはおかないと言われている。そして、子供の方の霊は、その人生の障害を克服すれば、報いられるとのことなのだ。すべては必然であり、偶然にそのような母親の元に生まれるわけではない。そのことを知ることで乗り越えることが出来るのだと思う。
今度は反対に子供が悪い場合のことだが、自分の子供を鍛えることは親に与えられた仕事であると言われ、やはり親にも問題があるということなのだ。そして親の使命とは、子供を正道に引き戻すために最善の努力を尽くすことだと言われている。また、親の流す涙は、生まれた時から子供に植え付けてきた悪いしつけの結果であると。身から出た錆、親は自分が播いた種子の悪い収穫を刈り取っているのであると断じておられる。同情の余地がないようだ。これは耳が痛いお母さん方もいるのではないかと思われる。
1144回目の瞑想
ーーー神の視点からは、男女は平等なのですか、同じ権利を持つのですか。
「神は男女共に、善悪の知を与えていないかね、それに進歩の能力も共にね」
ーーー婦人の軽視が国によってありますが、それはどこから来ていますか。
「男性の一方的な不当な婦人に対する優越感から来ている。これは社会的慣習と弱者に対する誤った圧力の結果である。進歩していない男性達の間では、力が権利と誤解されている」
ーーー婦人の体力が男性より弱いのは、どんな目的によるのですか。
「女性には女性の役目がちゃんと備わっている。男性が強いのは荒い仕事をするためであり、女性は優しい仕事をするためである。この両者の違いによって、辛い試練に満ちた人生を乗り切るようにと、そのためである」
ーーー体力的に弱いために、婦人はどうしても男性に依存しがちとなるのではありませんか。
「神が片方に力を与えられたのは、他方を守ってやるようにとのためで、それを服従させるためではない」
ーーー大自然の定めている婦人の機能は、男性に定められている機能と同じように大きなものですか。
「その通り。更にもっと大きいとも言える。男性に先ず生命を与えてくれるのは女性だから」(明日に続く)
今回は男女の同権という内容である。神様は男女共に善悪の知も進歩の能力も与えておられると言われる。女性の軽視は、日本にもあった。今回の朝ドラでも、酒作りの蔵には女性は汚れているとして、絶対に入らせない。女性が入ったら、お清めまでする始末なのだ。それは男性の一方的な不当な女性に対する優越感から来ているのだと言われている。また社会的慣習と弱者に対する誤った圧力の結果であり、進歩していない男性達の力が権利だと誤解されているからとのことだ。当然、神様は女性には女性の男性には男性の適したお役目を与えておられ、両者の違いにより、互いに力を合わせて辛い試練の人生を乗り切るようにとのご配慮をされているとのことなのだ。また、強い人が弱い人を守るようにとのご配慮もあり、決して服従させるものではない。最後の質疑応答は、女性にとっては嬉しいお言葉である。確かに男性の命を与えているのは女性だ。でもだからと言って、女性もそれで偉いと思うのは間違っている。神様がそのようにお役目を与えて下さっているだけなのだから
。お互いの立場を尊重した上で、助け合って行くことが、神様の意図されたことなのだと思う。
1145回目の瞑想
ーーー神法によれば人はすべて平等なのですから、人法によっても人はまた平等であるべきですか。
「この平等こそ、正義の第一原理である。貴方が人からされたくない事は、人にしてはいけない」
ーーー完全な正義のためには、男女同権の立法は当然の事ですか。
「左様、権利は平等、されど働きは平等ではない。各々の特性を生かすべきだ。男性は外の仕事に励み、女性は内の仕事を務め、性による資質の特性を生かせよ。正義のために、人間の法は男女同権を制定せねばならぬ。男女の権利が正義に反している。婦人の解放は文明の進歩に従う。即ち、婦人の地位が低いことは野蛮の証拠である。また、性の違いとは身体上の事にすぎぬ。霊は男女どちらの肉体でもまとうことが出来る。故に、霊にはこの点で何の相違も存在しない、従って霊からすれば男女同権が当然なのである」
今回も男女の同権の続きである。神法において男女問わず、人間はすべて平等とのこと。これは人法でもそうあるべきで、互いに助け合うことが大事なのだ。そして、男女の権利は平等であるが、働きについては平等ではないと言われている。それは前回にも書いたように、女性には女性の男性には男性の適したお役目を神様が与えておられるからだ。それぞれの資質の特性を生かすためにも、人間の法は男女同権を制定しなければならないと言われているが、その通りだと思う。そして、女性の解放は文明の進歩に従っているとのことで、女性の地位が低いことイコール野蛮な証拠なのだと言われる。更に男女の違いは身体上のことだけであり、霊にとっては男女どちらの肉体でも選ぶことが出来るとのことだ。確かに霊としては何も相違はないのだろう。それ故に一番肝心なことは、霊にとれば、男女同権は当たり前のことだということだ。これは要するに人間が霊的存在だということさえ、わかっていれば、男女同権は言わずもがな、なのだ。人が霊的な存在だと言うことを知らない人だけが、声高に男女差別しているということになる。それにはやはり霊的真理の普及こそが一番肝心なことであり、それ以外にはないとまで言えるのだと思う。
1146回目の瞑想
ーーー葬儀に金をかけて個人の記憶を永く留めたいという望みは、どこから来るのですか。
「最後の高慢な行為である」
ーーーしかし、そういう盛大さというのは、死者本人というより、死者の名誉を高めようとする、親戚の行為の場合が多いのではありませんか。
「その場合は親戚達が自分達の名誉のためにやっているのである。その葬儀一切は、必ずしも死者のためではない。他者に印象づけて虚栄心を満足させたり、自分達の金持ちぶりを見せびらかしたりするためである。諸君等は、愛する者の記憶は貧者の心には永く残らないと思われるか、貧者は墓に花を捧げてくれぬから、諸君等は、大理石はこの世を無意味に送った者の名を、空しさより救ってくれるとお考えか」
ーーー葬儀の偉大さは、どんな場合にも非難されるべきですか。
「いや、高貴な人生の名誉を称える場合には、正当なものである。また良い教訓になる」
今回は死の平等となっているが、今回の内容は死の平等というよりも、葬儀に関しての内容になっている。確かに葬儀に莫大なお金をかけている方もおられる。それが故人の思いであれば、最後の高慢な行為だと言われている。また、それが身内の人達の思いであれば、自分達の名誉であり、虚栄心を満足させるものでもあり、はたまたお金持ちということを見せびらかすことだと言われ、死者のためではないと断じている。
要はお金ではないことを言われているのだ。その人を想う気持ちこそが大事なのだということだ。また亡くなった人にとっても、その想いがあればこそ、救われるのだ。ただ、高貴な人生の名誉を称える場合は、偉大な葬儀でも、正当だと言われており、それはまた私達にとって、良い教訓になると言われている。
1147回目の瞑想
ーーー自分は完全に自由であると思えるような地位がありますか。
「ない。ピンからキリまで、すべての人は相互の存在を必要とするから」
ーーー人間はどんな生活をすれば、完全な自由の状態に入りますか。
「砂漠の中の隠者ならば。二人の人間があって、相手が目に入れば、その瞬間に相互の権利とか義務とかの関係が生まれて、もはや絶対の自由というものは存在しなくなる」
ーーー他者の権利を尊重する義務があれば、自分の権利は消えますか。
「そんな事はない。人間には生得の権利というものがある」
ーーー口では自由を唱えても、実際は、家の中でも部下に対しても専制的である、この二つはどうつながりますか。
「彼等は知性では自然法を知っているが、気持ちでは高慢や利己とつながっているのだ。自由の主張が偽りでない時は、彼等は何を為すべきかは
分かっている、だが実行しないのである」
今回は自然の自由という内容である。人間には完全な自由はないと言われている。それはお互いの存在を必要とするからとのことだ。砂漠の中や山奥深くの隠者であれば可能なようだが、相手が一人でもいれば、その瞬間にお互いの権利や義務などが生まれ、そこに絶対の自由は存在しないと言われる。他の人の権利を尊重する義務もあるが、自分自身の権利もまた既得権利というものがあるので消えることはないとのこと。そして、自由自由と口では唱えていても、人の上に立ち、独断で思いのままに事を制す人は知性では自然法を知ってはいると言われているが、高慢や利己につながっていると言われる。それは、自由の意味を分かって主張し、何を為すべきかもわかっているのに、実行には及ばない、とのこと。
1148回目の瞑想
ーーー人が人の財産となることが、本来あるのでしょうか。
「人が他人に絶対服従するなどは、神法に反する。奴隷制度は力の誤用である。それは漸次進歩と共に消えよう、その他の誤用がすべて消えて行くに連れて」
ーーー奴隷制度が既に人間の制度として成立している場合、この制度で利益を得る人達は、この制度を黙認していることで、非難に値いしますか。
「悪いものはいつだって悪い。どんなにうまくこじつけても、悪行を善行に変えるわけにいかぬ。しかし、悪行の責任は加害者がどんな考えでそれをやっているか、これに比例する。奴隷制度で利益を得る者は、自然法を破る罪を負う。但し、何事もそうだが、この場合もその罪は相対的なものだ。奴隷制はある民族に端を発している。人々はこれを悪とは思わず、全く自然なもののように思って、これを利用してきた。だが、理性の進歩、キリスト教の教えの弘布によって、彼等は奴隷も神の目から自分達と同じものだということを悟った。その時、彼等は弁解の余地を失った」(明日に続く)
今回は奴隷制度という内容である。人が人を絶対服従させることは神法に反すると言われる。奴隷制度も然りだ。力の誤用だと言われ、その他の誤用すべてが進歩と共に消えて行くに連れて奴隷制度も消えると言われている。確かに今では奴隷制度などはないのではないだろうか。但し、昔奴隷制度は、人間の制度として成立しており、利益を得る人々がいたのは事実だ。それに対して、悪行と断じておられる。その悪行である奴隷制度で利益を得る人は自然法を破る罪を負うと言われている。けれども何事においても同じで、罪は相対的だと言われる。奴隷制はある民族に端を発し、その人々は奴隷制を悪ではなく、自然のものとして利用して来たのだと言われる。けれど、理性の進歩やキリスト教の教えによって、奴隷である人達も神様の目からご覧になれば、奴隷制度を作った責任者である自分達と同じ命だということを悟ったのだと。それを知ったからには、もう弁解の余地はないとのこと。シルバー・バーチ霊も言われているが、悪行について悪いと思わずに正しいと思ってしていることは罪はならないとのことだが、悪いと知っていて手を染めれば、もちろん、罪になる。いずれその罪の償いをする時は必ず来るのだ。そういうことを理解していれば、悪行に走る人など一人もいなくなるのではないかと思う。この世だけと思い込むことがすべては間違いの始まりなのだ。
1149回目の瞑想
ーーー生得の資質の不平等の故に、ある民族は知的に進歩した他の民族の支配下に置かれるのではありませんか。
「左様である。知的に進んだ民族が、これを向上させるためにである。但し、これを隷属して更に獣に近付けるためではない。長期に渡り人間は、人間を腕と手を使って働く動物であるかのように、また、彼等を役獣のように売買する権利が自分達にあるかのように、信じてきた。人間は自分達を清浄な血を持つ者と思い込んでいる。愚か者よ、物質しか目に映らぬ愚物!清浄なるものは血ではない。霊、これであるぞ」
ーーー自分の奴隷を人間的に取り扱う人達がいます。彼等は奴隷に不足のないようにしてやり、また彼等はこう考えています。奴隷を自由にしたらたちまち飢えてしまうと。このような者達をどうお考えですか。
「左様だな、彼等は奴隷を手ひどく取り扱う者達よりは、自分の財産に良い判断を持っている。彼等は自分の牛や馬にも同様に配慮をしている。市場で良い値がつくようにな。彼等は悪い奴隷主ほど罪深くはない。しかし、彼等は奴隷の権利を奪い取っている、奴隷を商品として取り扱っているのと少しも変わりはない」
今回も奴隷制度の続きである。知的に進歩した民族が劣っている民族を支配下に置くことは、劣っている民族を向上させるためであると言われる。もちろん、それは隷属するためではないと。確かに昔人間はアフリカ人などを奴隷として動物のように扱ってきた時代があった。しかも売買してきたのだ。それに対して、いつになく厳しいお言葉を発せられている。当然のことだと思う。決して許される行為ではないからだ。けれど、奴隷を人間的に扱う方達がいたのも事実なのだろう。けれど、お答えは悪い奴隷主ほど罪深くはないと言われながら、奴隷であるその人間の権利を奪っていると言われ、商品として取り扱っているのと何ら変わりはないと断じておられる。そもそも同じ人間を奴隷として働かせること自体が間違っているのだ。第16代アメリカ合衆国のリンカーン大統領は、奴隷解放の父と呼ばれ、国内最高の大統領だったお人だ。この方は霊恪の高いお方だと、書かれていたのを読んだことがある。国のトップとなる方が、このように霊恪の高い方であれば、その国民は幸せに違いない
。
1150回目の瞑想
ーーー人間には拘束を逃れても、自由の天地に遊ぼうとする何かがあるのですか。
「ありますな。思想の中で限りない自由を楽しもうとしておる。思想活動は妨害を受けるが、それは根絶ねだやしにはならぬ」
ーーー人間は自分の思想に責任がありますか。
「人間は神に対して、自分の思想の責任を負う。神のみ思想の審理者、その正義に照らして、これを罪ありとし、または許す」
今回は思想の自由についての内容である。思想とは心に思い浮かべることであったり、考えることであるが、その思想の中で自由を楽しむことは悪いことではないと思うが、どうなのだろう。もちろん、悪い思想が良くないことは当然だ。更に人間は神様に対して自分の思想の責任を負うと言われている。そしてその思想の良い悪いを判断されるのは神様のみで、正義に照らし、罪であるか、許すかを決られるとのことだ
。
1151回目の瞑想
ーーー意志の自由は思想の自由の当然の結果でしょうか。
「すべて思想はそうであるが、意識とは人間に備わる内的な想念である」
ーーー意識の自由に防壁を立てて疎外する権利が人間にありますか。
「それは思想の自由を阻害すると同じ事、神のみが意識を裁く権利を持っておいでなのだから。もし、人間が法律で人と人との関係を規制するなら、神は自然法によって、神と人間との関係を規制なされる」
ーーー意識の自由に反対して妨害することの効果は何でしょうか。
「考えてもいない行為をさせぬこと、偽善者を作らぬこと。意識の自由は真実の文明や進歩の特色の一つである」
ーーー真面目な信仰は、それが間違ったものでも、尊敬に値しますか。
「真面目なものなら、また、善行の実践に導くものなら、それは敬意を表すべきだ。良くない信仰とは、悪行の実践と結び付くものである」(明日に続く)
今回は意識の自由という内容である。今回の質疑応答はなかなか難しい。やはり意志とか意識とか思想とかは漠然としてしかわからない。敢えてここは触れずに読み流すことにする。ただ、最後の真面目な信仰については、真面目であり、善行の実践に導くものは、敬意を表すべきだと言われている。どのような信仰であれ、善行の実践がこの世でしなければいけないことなのだ。悪行をしなければいいと言うことではないと前に言われていた。善を為さなければ意味がないと。心しなければいけなのだと思う
。
1152回目の瞑想
ーーー自分の信仰と違うからといって、悪く言うのは誤りですか。
「それは愛に反する行為であり、思想の自由をも侵す」
ーーー社会のために良くない信仰を妨害することは、意識の自由を犯すことになりますか。
「諸君に出来るのは行為を抑えることだけ、信仰は近付き得ぬもの」
ーーー意識の自由に対する尊重から、有害思想の普及を黙認すべきですか。また、その自由を侵害しないようにして、間違った原理のために道を誤っている人々を、真理の正道に引き戻すようにすべきですか。
「勿論、そうしてよいだけでなく、そうするべきである。ただ、イエスの範に従って、優しさと説得を持って、また力に頼ることなしで。力は諸君が説得したいと望む人達の悪い信仰よりも、更に悪いもの。確信は暴力によって植え付けることは出来ない」
ーーーどの主義も自分こそ真理の唯一の表現であると申しています。私達は何によって、それがホンモノであるかどうかを見抜けますか。
「最善なるものは、偽善者を作ること少なく、真実に有徳の士を沢山生み出すもの、これである。即ち、愛の法を心を込めて、また限りなく広く実行する人々、これを生むものである。真正の教えのしるしとはこれである。何となれば、神の子等に分裂と垣根を作る教えは、まやかしと有害の類以外の何物であり得ようや」
今回も意識の自由の続きである。信仰の違いで、お互いに争うのは、愛に反する行為であり、思想の自由も侵すと言われている。信仰が違っても尊重し合うことが大切なのだ。悪い信仰を妨害するのは、行為を抑えることだけだと言われる。間違った信仰をしている人達を、真理の正道に引き戻すようにすべきだと言われ、それは暴力ではなく、イエス様のように優しさと説得を持ってするべきだと言われている。暴力は悪い信仰よりも更に悪いとのことだ。人を暴力で説得しようとしても、説得は出来ないのだ。恐怖で従うまでのこと。
真理を見抜くには、偽善者を作ることなく、また愛の法を心を込めて、限りなく広く実行する人達を生むと言われ、それが真正の教えのしるしだと言われる。また私達人間の分裂や垣根を作るような教えは、まやかしであり、有害の類い以外の何物でもないとのことだ。まさにコロナワクチンは分裂を作り、有害であったのだと思う。
1153回目の瞑想
ーーー人間には行為の自由がありますか。
「人間に思想の自由がある限り、行為の自由がある。もし人間に意志の自由がなければ機械であろう」
ーーー人間の自由意志は生得のものですか。
「人は自分で何かをしたいという意志を持ったその時から、自由意志を持つ者である。人生の初めの頃は、自由意志は殆ど働かない。能力の発現と共に、それは現れ、その意志の対象も変化していく。子供は年齢相応の欲求に応じた思想を持ち、年齢相応の物に自由意志を働かせる」
ーーー人間に生まれつき備わっている直感の働きは、自由意志の発揮に障害となりませんか。
「直感作用は、人間の受肉以前からある霊の属性である。もし本人の進歩が十分でなければ、直感の刺戟で誤った行為へ傾いてしまうかも知れぬ。これをその行為と共感する霊達が後押し
よう。しかしながら、どんな刺戟といえども、これを拒否する決意さえあれば、はねのけられないものではない。心得られよ、意志することは、それが可能であるということである」
ーーー人間の身体が行為に影響を及ぼすことはありませんか。もし及ぼすなら、その影響で自由意志が侵害されたりしませんか。
「霊は物質の影響を受ける、物質が霊の表現を拘束するので。だから、地上より肉体の鈍重さが少ない世界では、能力がもっと自由に発揮できる。しかし能力を発揮させているのは、道具である肉体ではない。さてこの質問では、道義的能力と知的能力を区別して考えねばならぬ。もし人が殺意を抱いたとする、この直感は霊が持つのであって、肉体が持つのではない。彼は自分の考えを何もかも殺し、自分は物質の虜となり、野獣のように、極悪となる。もはや彼は悪から身を守る努力を放棄している。罪はかようにして犯される。この罪を犯す者は彼の自由意志、これである」(明日に続く)
今回は自由ーー意志についての内容である。人間の行為は、人間に思想の自由がある限り、自由であると言われる。また、人間に意志の自由がなければ機械ではないかと言われている。人生の初めの頃は自由意志が殆どないと言われ、自分で何かしたいという意志を持ったその時から自由意志を持つ者になるとのことなのだ。能力の発現と同時にその意志の対象も変わっていくものでもあるし、年齢相応の欲求に応じた思想を持ち、年齢相応の物に自由意志を働かせるとのことだ。とても大事なお言葉が、いとも簡単に言われている。直感作用は、人間の受肉以前からある霊の属性であると。直感とは霊の属性だったのだ。改めて認識させて頂いた。けれど、進歩の度合いによっては、その直感が間違った方向へ向かわせることもあるのだと警告されている。更にその間違った方向を共感する霊達が後押しするこにもなると言われる。良いことを後押しして下さるのなら有難いが、悪いことに後押しはご遠慮願いたい。だが、拒否する決意、断固とした意志で、はねのけられないものではないとのことで、如何に自分の意志にかかっているのかということなのだ。要は自分自身の意志ですべて物事は決まるということだ。他人のせいには出来ないのだ。その事は本当に大事なことだと思う。
次の質疑応答には、更に肝心なことを教えて下さっている。霊は物質が霊の表現を拘束するので、物質の影響を受けるとのこと。ということは、地上より肉体の鈍重さが少ない世界では、能力がもっと自由に発揮できるということだ。けれど能力を発揮させているのは、道具である肉体ではないとのことだ。また道義的能力と知的能力を区別して考えなければいけないと言われる。もし人が殺意を抱いたとすると、この直感は霊が持つのであって、肉体が持つのではないと言われている。自分のまともな考えを何もかも殺して、物質の虜となり、野獣のように極悪となるとのこと。そうなると、悪から身を守る努力を放棄してしまうことになる。罪とはこのようにして犯され、この罪を犯す者自身の自由意志なのだと言われている。このことでもわかるように、自分の自由意志での意志決定は、自分自身の責任であり、それが良いことであれ、悪いことであれ、その結果は自分が受けなければならないということなのだ。それが因果応報であり、霊的真理であるということなのだ
。
1154回目の瞑想
ーーー知的能力が普通でない人は、自由意志を失っていますか。
「何らかの原因で知性に狂いを生じた者は、もはや自分の思考を支配することが出来なので、自由を喪失している。このような変調は霊に対する罰であることが多い。前生で虚飾に耽ったとか傲慢であったとか、能力を悪用したとかで。このような者は白痴の身体に再生するかも知れぬ。同じく、暴君が奴隷に、悪らつな金持ちが乞食に再生することがあるように。霊はこの束縛をはっきり意識しており、この束縛に苦しんでいる」
ーーー酔っ払って精神の常軌を逸脱した者は、罪の償いをしているですか。
「いや、酔漢は動物的感情を満足させるために、自由意志で自分の理性を奪っているのだ。そのため、彼は一つの罪でなく、二つの罪を犯しておる」
ーーー未開状態の人間に、最も優越している能力は何ですか。本能ですか。自由意志ですか。
「本能である。しかし、事柄によっては、自由意志で行動することもある。しかし自由と申しても、子供が欲求を満足させるのと変わりない。知力の発達でのみ自由意志は発達する。従って、未開人より進歩している諸君は、誤りを犯せば、未開人よりも非難されるべきである」
ーーー社会的な立場の故に、自由な行為に支障がある場合が多いのではありませんか。
「左様、社会には止むに止まれぬそうした事情がある。神は正義であって、何一つ目こぼしされることはない。しかし、卑しくも諸君等がその障害を乗り越える努力に対し、責任を負わせ給う」
今回も自由ーー意志の続きである。
知的能力が劣っている人には、
自分の思考を支配することが出来ないので、自由を喪失しているとのことだ。このような変調は霊に対する罰であることが多いと言われる。それは前生で虚飾に耽ったとか傲慢であったとか、能力を悪用したとかだと。そして、このような人は白痴の身体に再生していたかも知れないと言われているのだ。また同じように、暴君だった人が奴隷となり、悪い金持ちが乞食に再生することがあるとのこと。この事さえ知っていれば、暴君になることも、悪い金持ちになることもないはずだ。すべては自分のしたことがいずれは自分に返ってくるのだから。霊としてはこの束縛をはっきり意識していると言われ、この束縛に苦しんでいるとのことだ。
酔っ払いは、動物的感情を満足させるためだと言われ、自由意志で自分の理性を奪っているとのこと。そのために一つの罪だけではなく、二つの罪を犯していると断じている。また
未開人の最も秀でている能力は
本能であると言われる。けれど、場合によっては自由意志で行動することもあるようだ。だが自由と言っても、子供が欲求を満足させるのと何ら変わりないとのこと。それは自由意志の発達は知力の発達でのみとのことだからだ。なので、未開人より進歩している私達人間は、もし誤りを犯せば、未開人よりも非難されるべきと言われている。進歩している人の罪が重くなるのはその責任が未開人よりも大きいのだから当然だと思う。
社会情勢においては、自由な行為に支障が出る場合が多々ある。けれど、神様は何一つ目こぼしはないと言われており、その障害を乗り越える努力に対し、責任を負わせるようにされているとのことだ。あくまでも人間の判断に対して責任があるということで、歯を食いしばって、乗り越えて行くより他にはないということなのだろう。
1155回目の瞑想
ーーー人生には運命(それは定義通りの普通の意味ですが)がありますか。即ち、予め定められている人生の出来事のことです。もしあるなら、自由意志はどうなりますか。
「運命があるとすれば、再生の時に、それぞれの霊がこれこれの試練を担おうと決意した、その結果があるだけである。この試練を選ぶことによって、彼は自分のための一種の運命をつくる。その運命なるものは、彼が自分をそこに置きたいと選択をしたその状況、その当然の結果である。今ここで話しているのは、肉体的試練についてだけである。と申すのは、精神的試練や誘惑ということについては、善悪いずれを選ぶか、それに従うか拒否するか、これには選択の自由を霊が残しておくのが通例であるからである。善霊は、尻込みをする人を見れば、やって来て助けてやる。しかし、本人の意志の働きを犯すところまではしない。これに反して悪霊はーーつまり未発達霊は、あれこれつべこべと不安を吹き込んでは、本人を悩ませ脅かす。しかし、そうではあっても、本人の霊がどんな選択をするのか、その意志の自由は残されている」
ーーー中には、自分の行為とは関係なしに、運命に翻弄されるように見える人がいます。この場合、この不幸は宿命の結果なのでしょうか。
「それは、本人が霊界で自ら選択したために、受けることになった試練であろう。諸君等は自分達の失敗にすぎない結果を、運命としてしまうことがよくある。しっかり目を開いて見なさい。そうすれば諸君等の不幸の大部分は慰めを得よう」
ーーー一難去ってまた一難、彼等はそういう人達です。彼等が死を免れることは不可能だったように思えます。こういう場合にも宿命はないのですか。
「宿命などは存在しない、宿命という言葉通りの意味では、あるのは死の時、これである。その時が来れば、どんな形であれ、死が顔を見せれば、人はそれを避けることは出来ない」
ーーーもしそうなら、どんな危険が迫っても、死の時が来ていなければ、我々は死ぬことはない、こうですね。
「そうだ。人は死ぬことはないだろうーーこのような例を諸君は沢山持っていよう。しかし、その時が来ていれば、人は何を持ってもそれを避けえない。神は諸君の一人一人がどのようにして現世を終わるかを、予め知っておいでになる。諸君の霊もこれをしっていることが多い。何となれば、諸君が自分の人生を選択する時に、それは示されるのであるから」(明日に続く)
今回は運命についての内容である。今回の内容は私達人間にとって、とても興味深い内容だと思う。大事な内容だからか、いつもよりも質疑応答は多いので、しばらく続く。
運命というものがあるとすればと言われ、それは再生の時にそれぞれの霊がこれこれの試練を担おうと決意した結果だと言われている。やはり、霊界で自分達がおおよその人生を決めているのだろう。そして、その試練を選ぶことによって、自分のための一種の運命をつくることになり、自分を今の場所に置きたいと選択をしたその状況は当然の結果だと言われる。またこのことは、肉体的試練についてだけとのこと。精神的試練や誘惑ということについては、善悪いずれに従うか拒否するかは、選択の自由を霊が残しておくのが通例であると言われている。なるほどと得心した。精神的試練こそが、この世に生まれてきた意義であるから、今生で自分の自由意志で肉体的試練に負けることなく、責任持って善悪いずれを選ぶかを決めることが重要ということなのだ。そして
善霊の方は、尻込みをする人を見れば、やって来て助けてくれるとのこと。けれど、本人の意志の働きを犯すところまではしないとのことだ。またこれに反して悪霊である未発達霊は、あれやこれやと不安を吹き込んでは、本人を悩ませ脅かすとのことだが、最後に決めるのは本人の霊で、その意志の自由は残されているとのことだ。また
運命に翻弄されているように見える人も、
本人が霊界で自ら選択したために受けることになった試練であると言われる。私達人間は自分達の失敗にすぎない結果を運命としてしまうことがよくあると言われ、しっかり目を見開ければ、私達の不幸の大部分は運命ではなく、単なる自分の失敗だったということで慰められると言われているのだ。確かにそういうことは多いのかも知れない。
更に宿命などは存在しないと言われているが、だが宿命という言葉通りの意味であるのは死の時だと言われている。そうなのだと思う。死に関しては宿命以外にはないのだろう。死期が来れば、どんな形であれ、人はそれを避けることは出来ないと言われているが、シルバー・バーチ霊も同じ様なことを言われていた。お医者様がどんなに手を尽くして延命処置を施そうと、その人が死ぬ運命にあれば避けることは出来ないと。逆に死の時でなければ、どんな危険な状況下に置かれようが,死ぬことはないとのことだ。そして最後のお言葉が、心に響いた。神様は諸君の一人一人がどのようにして現世を終わるかを予め知っておいでになる。諸君の霊もこれを知っていることが多い。何となれば、諸君が自分の人生を選択する時に、それは示されるのであるからと。私達はみな自分の死期を潜在的には知っているのだ。ただ、心の奥に埋もれているにすぎないのだろう。
1156回目の瞑想
ーーー死の時が避けられないとすると、危険を察知して注意しても無駄である、こうなりますか。
「いや、このような用心は、本人に迫る危険を本人が避けるようにと、与えられる暗示なのである。これは早すぎる死の時を避けるよう、本人に対して神慮が用いられる一つの方法なのである」
ーーー実際に結果は及ばないのに、危険が身を脅かす、このような摂理の目的はいったい何ですか。
「貴方の人生が危険にさらされている時、悪から身を転じて善に赴くため、貴方自身が望んだ警告である。危険から逃れる時、また自ら招いた危険になお心が高ぶっている間、人は真剣に考える、善霊から受ける暗示の程度に応じつつではあるが、どう自らの人生を改善して行くべきかについて。悪霊が立ち去ると、人はこうすれば危険は避けられるのだと思い、心に喜びを持ち、再び心の自在な活動の場を取り戻す。自ら招いた危険によって、神は諸君に思い出させる、自分の弱さを、人生のもろさを。諸君が免れた危険の原因や性質をよく調べてみるなら、諸君は多くの場合それが、自分の犯した過失や自分が逃げた責任の罰であったことに、気付くであろう。神はこのようにして人が自分の心を覗くようにと、自己改善の業を怠らないようにと、警告を与え給う」
ーーー地上生活でどんな死に方をするか、これを予め知っていますか。
「霊は、自分が自分の人生を選んだこと、そこである一定の死に方をすること、これを知っている。また霊は、その危険を避けるために自分がせねばならぬ努力を予見している。更に霊は知っている、もし神のお許しがあれば、自分はそれを免れるということを」
ーーー未だ死ぬ時ではないという確信をもって、雄々しく闘っている人々がいます。こういう確信には何か根拠がありますか。
「人は最後の時の予感を持つことがよくある。同様に、未だ死ぬ時ではないという予感を持つ。こういう予感は守護霊の為せる業である。守護霊は本人に逝く時の準備をさせておこうと思うわけで、また、特にその必要がある時、勇気を持つようにさせたいと、こう望むわけである」
ーーー死の予感を持つ人は、持たない人よりも怖れが少ないのは、どうしてですか。
「死を怖れるのは人間であって、霊ではない。死の予感を持つ人は、人間としてよりも霊として、それについて考える。で、彼はこう悟る、これは自分にとり救いであると。こうして静かに死の時を待つ」(明日に続く)
今回も運命の続きである。
死の時が避けられないとしても、早すぎる死の時を避けるよう危険を察知して注意することは、本人に対して神慮が用いられる一つの方法だと言われている。
実際の結果としては何もなくても、危険が身を脅かすような時は、
悪から身を転じて善に赴くため、私達自身が望んだ警告であるとのことだ。そして次の危険から逃れる時や自ら招いた危険になおも心が高ぶっている時には、どう自らの人生を改善して行くべきかについて人は真剣に考えると言われている。このことについては多くの人が少なからず経験があるのではないかと思う。更にその危険を回避して何事も起こらなければ、再び心の自在な活動の場を取り戻すということも。ただ、これに善霊や悪霊が関係しているとは夢にも思わないだろう。そして自ら招いた危険によって、神様は私達人間に自分の弱さや人生のもろさを思い出させるのだと。私達人間が免れた危険の原因や性質をよく考えれば、多くの場合それが、自分の犯した過失や自分が逃げた責任の罰であったことに気付くと言われる。神様はこのようにして人が自分の心を覗くようにと、自己改善の業を怠らないようにと、警告を与えて下さっているのだと論じている。
私達人間は地上生活でどんな死に方をするのかを、霊として
自分が人生を選んだことで、ある一定の死に方をすることを知っていると言われる。そして霊は、その危険を避けるために自分がしなければならない努力も予見しているとのことだ。更に霊は神のお許しがあれば、自分はそれを免れるということを知っているのだそうだ。
また、人は最後の時の予感を持つことがよくあると言われ、同様に未だ死ぬ時ではないという予感も持つが、この予感は守護霊の為せる業であると言われる。それは守護霊は本人に逝く時の準備をさせようと思われるのだと、特にその必要がある時に勇気を持つようにさせたいと望まれるとのことだ。やはりご守護霊様は有難いお方だと改めて感じさせて頂いた。また死を怖れるのは人間であって、霊ではないとのこと。死の予感を持つ人は、人間としてよりも霊として、それについて考えていると言われる。それは、死は自分にとり救いであるとこう悟るのだと。そして静かに死の時を待つのだと言われている。霊として考えられるということは霊的真理を理解しているからこそだと思う。死の恐怖は霊的実在を知ればなくなるはずなのだから。
1157回目の瞑想
ーーー定められた死の時が来たら、死は避けられないものなら、我々の人生航路で起こる出来事は、どう転んでも同じ事なのですか。
「出来事について吾々は余り諸君に警告を発しない。また吾々が指示を下して出来事を回避させることも少ない。吾々は物質上の問題に余り興味を持たない。諸君が選んだ人生にとって、この事は殆ど重要ではないから。真実の唯一の運命とは、人がこの世に出現する時間と、去っていく時間、そこにある」
ーーー人生の中で間違いなく起こる出来事、霊の方でもこれを変更しない。そのような出来事がありますか。
「ある。諸君が受肉以前に、自分の人生を選択した時、諸君はその出来事を予見している。しかしだからといって、人生に起こる出来事が、文字を書くように書かれていると、思ってはいけない。一つの出来事は、諸君が自由意志で行為したことの結果であることが多い。だから、もし諸君が行為しなかったら、その事件は起きていなかったであろう。もし指を火傷するとする、こんな事は前もって定められていたのではない、本人の不注意の為せるくだらぬ災難、物理的法則の結果である。神により予定されているものは、大きな悲しみ、深甚な重要な事件、本人の精神状態に影響を及ぼす出来事、これである。何となれば、それが本人の浄化と教化に効用を持つからである」(明日に続く)
今回も運命の続きである。最初の質疑応答での最後の「真実の唯一の運命とは、人がこの世に出現する時間と、去っていく時間、そこにある」とのお言葉は心に残る。いわゆる人間の誕生と死去こそが、真実唯一の運命であって、その間の人生については物質上の問題であり、霊的には余り重要ではないということになるようだ。ただ、人生については、そういうものなのかと少し疑問は残るが。また人生で必ず体験する出来事については、霊界でも変更しない場合があるとのこと。私達人間が受肉する前には自分の人生を選択するので、その出来事は予見していると言われている。けれど、人生に起こる出来事が詳細に何かに書かれているように思ってはいけないとのことだ。それは私達人間が自由意志で行為した結果であることが多いので行為しなかったら、その出来事は起きないことになると。例えば、指を火傷するような些細なことは前もって定められていたのではなく、本人の不注意であり、物理的法則の結果だと断じておられる。そして何と言っても、ここが一番肝心なことであり、私は大い鼓舞されたのだ。神様により予定されているものは、大きな悲しみ、深甚な重要な事件、本人の精神状態に影響を及ぼす出来事、これであると。それこそが本人の浄化と教化に効用を持つからだと教えて下さっている。これはまさに私達夫婦が息子を亡くした時のそのままの状態だ。ということは、神様により予定されていたことだったのだと思い、感動で心が満たされる想いになった。そして、私達夫婦にとっても、浄化と教化の効用があったのは言うまでもないと、確信している。
1130回目の瞑想
ーーー人間の内部には、進歩の更新をそそる力があるのですか。それとも、教育の成果が進歩となって現れているのですか。
「人間は自然にひとりでに進歩するもの。しかし、すべての人間が同じ歩調で進歩するのでなく、また進歩の方法も同じではない。このことはまた、進歩をすれば、社会的接触を通じて、他者の進歩に役立つ、そういう具合になっている」
ーーー精神の進歩は、知的進歩に従って起こるのですか。
「精神の進歩は知的進歩の結果である。しかし、必ずしも直ちにそうなるとは限らない」
ーーー知的進歩から精神の進歩へと、どうすればつなぐことが出来ますか。
「善悪の弁別がつくようになればよい。そうなれば、しっかりこれを見分ける。自由意志が進めば知性の進歩を来たし、人間行為についての責任感は増大する」
ーーーそれでは、最も開化した国民が最も堕落していることがありますが、これはどうですか。
「生存の目的は、完全な進歩を遂げることにある。しかし、個人の場合と同じく、国民もその進歩は歩一歩である。彼等に道義心が開発されるまで、彼等はその知性を悪に使っているかも知れぬ。道義心と知力は二つの力であって、長い道のりの末、均衡に到達する」
ーーー人間は進歩の行進を止める力をもっていますか。
「ない。しかしながら、進歩を妨害する力を発揮することがある」
ーーー進歩の行進を阻止しようとする人々がいます、また人類を退歩させようとする人達がいます。これはどうお考えですか。
「彼等は極めて哀れな弱者である。神は彼等を懲らしめられるであろう。彼等は彼等が阻止しようとした奔流によって押し流されるであろう」
ーーー進歩に対する見解の相違から、本人は真面目に努力しているつもりでも、実は進歩を阻んでいる、そういう人々はいませんか。
「いる。大きな車輪の下に小石を挟んで押して者達。しかし、車は一向に進まない」
ーーー人類の進歩は遅々たるものですか。
「物事の力からしてやむを得ぬことだが、進歩は絶えずゆっくり進行している。しかし、進歩が思うように進まぬ時も、神は絶えず進歩への配慮をなさっている。物理的にも精神的にも刺戟を与えて、変化を与えておいでになる」
ーーー人間の強情たるや大変なものです。ですから、進歩どころか、少なくとも精神的には、退歩しているように見えませんか。
「いや、貴方は間違っている。全体として人類を眺めてみなされ、さすれば、進歩していることが目に映ろう。人類は何が悪であるか、これが前よりも分かるようになってきた。また毎日、悪弊の改善を目にすることが出来る。悪の行き過ぎがあれば、諸君の目には、善の必要また改善の必要性が、見えるであろう」(明日に続く)
今回は進歩の行進という内容である。進歩というのは、自然にひとりでに進歩するものだと言われる。けれど、すべての人間が同じ歩調で進歩するのではないと言われ、また進歩の方法も同じではないとのことだ。そして、進歩をすることで、社会的接触を通じて他者の進歩にも役立つと言われている。
また精神の進歩は知的進歩の結果であるとのことだが、ただ、必ずしも直ちにそうなるとは限らないと言われる。
知的進歩から精神の進歩へとつなぐには、
善悪の弁別がつくようになればよいとのこと。それにより、しっかりこれを見分けることができると。そして、自由意志が進めば知性の進歩を来たし、人間行為についての責任感は増大すると言われている。
生存の目的は個人の場合と同じく、国民の場合も完全な進歩を遂げることにあると言われる。けれど、その進歩は歩一歩であり、道義心が開発されるまでは、その知性を悪用される場合もあると。道義心と知力は二つの力であり、それは長い道のりの末に均衡に到達すると言われている。また
人間には進歩の行進を止める力はもってい
ないが、進歩を妨害する力を発揮することは出来ると言われる。
その進歩の行進を阻止しようとしたり、退歩させようとする人達について、
極めて哀れな弱者であると言われている。神様はそのような人達を懲らしめるであろうと言われ、また阻止しようとした奔流によって押し流されるであろうとも言われている。また、
進歩に対する見解の相違で、実は進歩を阻んでいるという人もいるとのこと。そういう人は
大きな車輪の下に小石を挟んで押してるような人で、車は一向に進まないとのことだ。
人間の進歩は絶えずゆっくり進行していると言われるが、進歩が思うように進まない時も、神様は絶えず進歩への配慮をなさって下さっており、物理的にも精神的にも刺戟を与えて下さり、変化を与えて下さっているとのことなのだ。だが、この世の中を見ても、本当に進歩しているのだろうかと思ってしまう。けれど、その考えは間違っているとのことだ。ただお答えを読む限り、私達人間にはなかなか分かり辛いように思う。高級霊だからこそのお言葉とも感じる。ただ、悪の行き過ぎがあれば、善の必要また改善の必要性が見えるということは分かる。それは今の政府に言えることだと思うからだ。
1131回目の瞑想
ーーー進歩の最大の障害とは何でしょうか。
「うぬぼれと利己主義。これは精神の進歩の場合である。と申すのは、知的進歩は日々進んでおり、これは一寸見には、野心と金銭欲でうぬぼれと利己主義を倍加するように見えるが、しかし、これら悪徳はかえって精神を開明する探究心をそそるものでもある。とにかく、すべてのものは一つにつながっている、物理的世界だけでなく、精神の世界においても。そして善は悪からすら生まれるものであるから。しかし、上記の状態はしばらくの間だけで、やがて状況は変わる、地上的享楽の枠を越えて、無限に偉大にして更に永続する幸福があることに、人々が気付くようになる時に」
[注解] 2種類の進歩がある。それは互いに助け合う関係にありながら、並んで進歩することはないーーそれは知的進歩と精神の進歩である。開化した国民の間では、今日では、知的進歩が着々と進んでおり、それ故、過去の時代には思いも寄らぬ進歩の段階に到達している。精神の進歩の方は、その同じレベルからはなお遠い段階にある。しかし、数世紀を隔てた社会慣習を較べてみれば、精神の面でも進歩のあったことを認めざるを得ない。何故、精神の面で、知的面以上の進歩は起こらないとしなければならぬのか。何故、14・19世紀の間と同じ程の大きな進歩が、19・24世紀の間にあってはいけないのか。精神の絶えざる進歩を疑うことは、人類は完成の頂上に到達したなど馬鹿なことを思ったり、あるいは、人類は精神的には完全になり得ないなどと、経験上からも否定されるべきことを思ったりすることではなかろうか。
今回も進歩の行進の続きである。この質疑応答では、とても深く考えさせられた。進歩の最大の障害として、精神の進歩の場合はうぬぼれと利己主義と言われている。これは当然得心できる。そして、知的進歩は日々進んでいるとのことで、このことは野心と金銭欲でうぬぼれと利己主義を倍加するように見えると言われている。だが、これら悪徳はかえって精神を開明する探究心をそそるものでもあると言われているのだ。更に善は悪からすら生まれるものであるからとのこのようなお言葉に、今の世の中のことを考えさせられた。今や世界は混沌とした状態にある。だが、それは精神を開明するためであり、悪から善が生まれるということに、今がその時なのではないかと思ったのだ。そして、物理的世界だけでなく、精神の世界においてもすべては一つにつながっていると言われている。それは神様は善悪両方を司っておられることにも通じる。更にその先のお言葉には希望が見える。その状態はしばらくの間だけで、やがて状況は変わると、私達人間が気付くようになる時に、地上的享楽の枠を越えて、無限に偉大にして更に永続する幸福があるのだと言われている。ということは、その先の希望を実現実行するには、やはり私達人間にかかっているということになる。今の世の中を幸福にするには、私達人間が霊的真理に気付き、神様の摂理に適った生き方をすることなのだと改めて強く感じたのだ。
1132回目の瞑想
ーーー歴史を見ますと、国民性をぶち壊す打撃があって、多くの国民が野蛮に逆戻りしています。このような場合には、どんな進歩があったのでしょうか。
「自分の家が今にも倒れそうな音をたてたら、諸君は家を壊して、別のもっと頑丈で使い易い家を建てる。しかし、それが建つまでは、不便で混乱状態が続く。また、次のことを理解されよ。人は貧しければ小屋に住む。富めば小屋を捨てて、宮殿に住む。すると、以前のその人のような貧しい哀れな者がやって来て、その人が捨てた小屋に入る。彼はそれ以前は宿無しだったのだが、この移動で家持ちとなる。上記の事から次の事を知りなさい、諸君のいわゆる退化した国民に今宿っている霊は、以前の盛時の国民をつくっていた霊ではない。進歩していたそれらの霊は、更に高級な住居に住むために去り、進歩を遂げた。代わって、未熟な霊達が空き家に入ったのである、これらの霊達もまたいつの日か、家を空けることになる
」
ーーーその本質の点よりして、進歩の可能性のない民族はありませんか。
「ある。彼等は日毎にこの地上から絶滅の方向に向かっている」
ーーーこれらの民族を賦活させる魂達、その未来の図は如何なものでしょうか。
「これは全く別の魂達である。彼等は別の世界の経験を経て成熟した形でやって来る。神は誰からも後継者を奪い給うことはない」(明日に続く)
今回は退化する民族についての内容である。最初の質疑応答については、例えを出されていて、とてもわかりやすい。なるほどと得心せざるを得ない。また、絶滅する民族もあるということだ。この民族を賦活させる魂は全く別の魂達で、別世界の経験を経て成熟した形でやって来ると言われる。神様は誰からも後継者を奪うことはしないとのことだ。
1133回目の瞑想
ーーーどの民族も、個人の集合体です。それは個人と同じように、幼年・成年・老衰の過程を辿ります。これは歴史的にもその通りで、今日最も進歩した民族は、古代の進歩した民族と同じく、やがて衰退と終末の日を迎える、こう考えられませんか。
「肉体的にのみ生きている民族、つまり、勢力と領土拡張の面だけが偉大な民族は、生まれ、育ち、そして滅亡する。その民族の力が、人間の力と同じように消耗されるからである。自分に都合のよい法を振り回し、進歩と愛に敵対する民族は滅亡する。何となれば、光明は闇を破り、愛は利己を制するからである。しかしながら、個人と同じく、国民のためにも、魂のいのちというものが存在する。その国の法が永遠なる神法と調和している、そういう国民は生き残り、他国民を導く松明たいまつとなる」
ーーー進歩の暁、地上の民族は一つとなりますか。
「いや、一国民とはならない。これは不可能。と申すのは、気候が違えば習慣も欲求も違ってきて、違った国民性をつくる。その違いゆえに、それに応じた法が必要となり、ここに別個の慣習と欲求をもつ国民が形成される。しかし、愛に国境はなく、皮膚の色の差別をしない。神法があらゆる地域で人間の法の基盤であれば、愛の法が国と国の間、人と人の間に行われよう。その時平和と幸福がある。その時何人も隣人を犯すことなく、何人も他者を犠牲にして生きることをしないからである」
今回も退化する民族の続きである。最初の質疑応答では、疑問が残る。それは、自分に都合のよい法を振り回しとあるが、例えばそれが政府であった場合、進歩と愛に敵対するとして、その国民も滅亡するということなのだろうかということだ。最後にも書かれているが、国の法が永遠なる神法と調和している国民は生き残るとされ、他国民を導く松明になるとまで言われている。国のトップの考え方次第で、その国民の行き先も決まってしまうのだとしたら、末恐ろしいことだ。今の日本は間違いなく、神法に調和しているだけでなく、間違った方向に舵を切っているからだ。ただ、私は神様を信じている。国の法だけで国民の命までが犠牲になることはないと。一人一人の国民が神法に適った生き方をしているかしていないかだと、私は信じている。
地上の民族が一つになることはないと不可能だと断言されている。その理由に納得しかない。けれど、愛の法である神法が人間の法の基盤になれば、国と国、人と人の間には国境はなくなり、皮膚の色によっての差別もなくなるのだと言われている。これぞ地上天国となり、お互いを慈しみ、誰をも犠牲にすることなく、平和と幸福に満たされる世界になると言われているのだ。
1134回目の瞑想
ーーー人類の文明は、進歩していますか、それとも一部の哲学者の言うように退歩をしていますか。
「進歩しておる。但し不完全ではあるが。人間は唐突に、幼児から熟年にはならぬ」
ーーー文明の罪ということは、当を得ていますか。
「神の御業をあげつらうより、文明を誤用する者達の罪をあげつらうべきである」
ーーー文明は最後には浄化されましょうか。文明ゆえに生まれた悪が消滅していくほどに。
「そのようになる、人間の精神性が知性ほどに発展を遂げた暁には。実がなるのは花が開いた後である」
ーーー文明は何故に、その可能性としてもっている善なるもの一切を、早急に花開かないのですか。
「人間が未だその善いものを、受け入れるに足るほどの、準備が出来ていないからである」
ーーーそれはまたこうではありませんか、文明が新しい方向を指向すると、新しい感情がそそられるということで。
「左様でもある。また、霊がもっている能力はすべて一緒に開化するのではない。事にはすべてその時がある。なお未完の文明より、完熟した果実を期待するわけには参らぬ」
ーーー文明が最終の点に達した時、何によってそれを知り得ますか。
「精神の進歩によってそれが分かる。諸君は自ずからかなり進歩を遂げたと信じている。それは偉大な発見、すばらしい発明を成し遂げているし、また住む家も衣服も未開人に比してぐっと良くなっているから。しかし、諸君が自らを「文明人」と呼べるのは、その社会から不名誉な悪徳を消した時、隣人愛を実践して皆が兄弟となった時である。それまでは、諸君らは単に開化した国民、文明の第一局面を横切った人々、それにすぎぬ」
今回は文明という内容である。人類の文明は不完全とは言え、進歩していると言われている。幼児から一足飛びに熟年とはならないと。文明もまた神様の御業ということであろうか。文明を誤用する者達の罪をあげつらうべきだと言われている。実がなるのは花が開いた後だと言われ、人間の精神性が知性ほどに発展を遂げた暁には、文明は浄化されるとのことだ。文明がもっている善なる一切を早急に花開かせないのは、その善いものを、受け入れるに足るほどの、準備が出来ていないからだと言われる。また、霊がもっている能力はすべて一緒に開化するのではなく、事にはすべてその時があるとも言われている。シルバー・バーチ霊も言われていたが、その時期が来なければ何事も実現しないと。更に未完成である文明なのだから、完全な文明を期待するわけにはいかないということだ。文明が完全なものに達した時が分かるというのは、私達人間が精神の進歩が向上した時とのこと。真の文明人と呼べるのは、社会から悪徳を消し去り、隣人愛を実践し、世界中の人々が兄弟となった時だと言われる。何と先の遠いことか。まだまだ現代も私達人間は単に開化した国民であり、文明の一局面を横切っているだけにすぎないということなのだろう。
1135回目の瞑想
ーーー自然法は人間社会の準則として十分なものでしょうか。これは人間の法はないものとしてですが。
「もし自然法の理解が行き届き、人間がこれを積極的に実践するなら、それはそれでよかろう。但し、社会には危急を要するものがあり、その点、別の法の協同が必要である」
ーーー人間の法に移り変わりが多い原因は何でしょう。
「野蛮な時代にあっては、最大の強者が自分の都合のよいように法を定めた。それ故、人々が正義ということに漸次目が行くにつれ、法を改変する必要が生じた。今後も、人々が正義の規準に近付くにつれて、人間の法は不動なものになっていこう。つまり、法がすべての人々のために作られていくにつれて、自然法と一致したものとなっていこう」
ーーー現代の社会状況では、刑法の厳しさが必要ではありませんか。
「社会が堕落していれば、法の厳しさが必要。しかし不幸なことだが、諸君らの法は悪行に対する刑罰を目的としていて、悪行の芽を摘むことを目的としていない。人間を変えることの出来るものは教育である。これさえやれば、もはや諸君らは法の厳しさを求めることをすまい」
ーーー人間の法の変革はどうしたらできますか。
「それは物事の勢いということであろう。また、人間の進歩を推進する偉大な人物達の影響力が必要であろう。人間の法も随分と誤りを改変した、今後もなお多くの改変が為されるだろう。待て!」
今回は人間の法律の進歩という内容である。自然法を理解し、人間が積極的に実践するならば、それでもよいとされ、ただ危急を要するものがあるので、その時は別の法の協同が必要であると言われている。
人間の法の移り変わりについては、
野蛮な時代には、最大の強者が自分の都合のよいように法を定めていたが、人々が正義に目が行くにつれて、法を改変する必要が生じたとのこと。なので今後も、人々が正義の規準に近付くにつれて、人間の法というのは不動なものになっていくとのことだ。それは、法がすべての人々のために作られていくことで、自然法と一致したものとなって行くことに他ならないと言われる。
刑法の厳しさについては、
社会が堕落していれば、法の厳しさは必要だと言われる。けれど不幸なことに、私達人間の法は悪行に対する刑罰を目的としていて、悪行の芽を摘むことを目的としていないと言われる。そして唯一人間を変えることの出来るものは教育であると言われ、これが出来れば、法の厳しさを求めることはしないと言われている。
人間の法の変革については、
物事の勢いだと言われる。そして、人間の進歩を推進する偉大な人物達の影響力が必要であると。けれど人間の法は随分と誤りを改変したとのこと。そして今後もなお多くの改変が為されるだろう。待て!といつになく、とても力強いお言葉で締めくくられている
。
1136回目の瞑想
ーーー心霊主義は一般の信仰となりますか、それとも一部の者だけにとどまりますか。
「心霊主義は間違いなく一般の信仰となり、人類史上に一新紀元を画すことになろう。と申すのは、心霊主義は大自然の秩序であって、それゆえに今、人類の知識の分野に格付けされる時が来ている、この故である。しかしながら、心霊主義は今後かなり多くの攻撃に耐えねばならないだろうーーそれは信念よりむしろ利害から出た攻撃、と言うのは、うぬぼれとか世間体から、心霊を叩くことに関心をもつ連中が存在するということである。しかし、このような反対は勢力を失っていき、ばかばかしくなって、遂には大方の意見の下に集まらざるを得なくなろう」
ーーー心霊主義はどのような点で進歩に貢献できますか。
「社会の傷である唯物主義の打破、こうして、人々の真実の利益がどこにあるのかが、人々にも理解されるようになろう。人間の未来生活のヴェールが剥がれて見えて来よう。人々が現在の生活さえしっかりやれば、未来の幸福は保証されるということが、よく分かるようになって。宗派とか階層や皮膚の上の特権が打破されて、人間がやがて兄弟として一つに結ばれる大きな連帯が見えて来よう」(明日に続く)
今回は進歩に対する心霊主義の影響についての内容である。心霊主義は大自然の秩序であるから、間違いなく一般の信仰となり、人類史上に一新紀元を画すと言われる。但し、今後は心霊主義はかなり多くの攻撃に耐えねばならないと、それは信念よりむしろ利害から出た攻撃であり、またうぬぼれとか世間体という心霊を叩くことに関心をもつ人達が存在するからだと言われる。けれど、このような反対は勢力を失っていき、遂には大方の意見の下に埋もれてしまうとのことだ。
心霊主義は唯物主義の打破に貢献できると言われている。そして私達人間が真実の利益がどこにあるか理解し、未来生活のヴェールも剥がれて見えてくるとのことだ。次のお言葉は肝に銘じたい。私達人間が今現在の生活をしっかりとやることで、未来の幸福は保証されるとのこのお言葉は、本当に希望になる。努力する意欲が湧いてくる。そして、まだまだ先だとは思うが、宗派とか階層や皮膚の上の特権が打破される日が来ると、そして、私達人間がやがて兄弟として一つに結ばれ、大きな連帯となるとのことなのだ。
1137回目の瞑想
ーーー心霊主義が人々の不注意とか物質への愛着に負ける、という恐れはありませんか。
「何かの原因があれば、人類が魔法をかけたように変わると思うことは、人間性に関する随分と浅薄な知識を示すものだろう。観念というものは、個々の人間性の変化に応じて、徐々に変化するもので、古い習慣の根絶には数世代を要する。それ故、人類の変革は時間をかけて歩一歩、事実をもってする影響感化によってのみ進展する。一つ一つの世代を経て、ヴェールの一部ずつが融けていく。心霊主義は今このヴェールを消散させようとしている。さて、もしここに心霊主義が、一人の人のせめて一つの欠陥を癒すとすれば、この人を一歩前進させたこととなる、そしてこの事は、この人に多大の善を為したことになる。と言うのは、人は第一歩が肝心なのであって、これによりその人の以後の進歩は容易となるからである」
ーーー今日私達が霊から学んでいる事を、霊達はなぜ昔から教えてくれなかったのですか。
「諸君だって、大人に教える事を、子供達には教えまい。新生児に消化も出来ぬ食物を与えることをすまい。何事にも時がある。これまでに霊は多くの事を人々に教えている、人々が理解していなかった事、曲解していた事を。しかし今なお人々はこれを正しく理解していない。しかし、不完全ながら、過去の教示を通じて、人々は今、まもなく結実しようとしている種子を受ける地盤を整えたのである」
ーーー心霊主義が人類に進歩をもたらそうとしているのなら、何故霊達はですね、不信の徒が確信を持つような、明白で一般的な表現をどんどん与えて、進歩を早めようとしないのですか。
「諸君らは常に奇蹟を求めている。だが、神は一掴みずつの奇蹟を諸君らの足下に播いておられる。それにも拘わらず、諸君らの中には、その存在を否定する者達がいる。キリストは奇才を発揮して当時の人々の信を持たせたのだったか?今日も、事実の証拠が目の前に起こりながら、これを否定する人々がいる。目で見ても、これを信じたくないと言う人々がいるではないか。神は人々を奇才によって真理へ引き戻そうと望んではおられぬ。神は人々が理性を使って確信に至る道をとることを望んでおいでになるのだ」
今回も進歩に対する心霊主義の影響の続きである。今回の内容は解釈がとても難しいように思う。先ず心霊主義とは、魔法をかけたように変わるものではないということだ。そして、古い習慣の根絶には数世代を要すると言われるほど、人類の変革は時間をかけて歩一歩、事実をもってする影響感化によってのみ進展すると言われ、一つ一つの世代を経て、ヴェールの一部ずつが融けていくと言われている。簡単に変わるどころか、長い年月をかけて進歩していくということなのだ。また心霊主義は今このヴェールを消散させようとしているとのこと。そこで仮の話を持ち出され、もしここに心霊主義が一人の人の一つの欠陥を癒すとすれば、この人を一歩前進させたこととなるのだと言われる。そしてこの事はこの人に多大の善を為したことになるだと。それと言うのも、人は第一歩が肝心であり、それがその人の以後の進歩が容易になることなのだと言われている。
次は、私も何度も質問のようなことを思ったものだ。だが、そのお答えに得心する以外はないようだ。また更に次の質問も同じように疑問を持ったものだが、確かにお答えにあるように、事実の証拠が目の前に起こりながらも、それを否定する人達はいて、目で見てもこれを信じたくないと言う人達はいるものだ。しかも神様は私達人間を奇才によって真理へ引き戻そうとは望んでおらないとのこと。神様は私達人間が理性を使って確信に至る道をとることを望んでおられるとのことなのだ。すべてはゆっくりとではあっても、確実に個々の魂が目覚めて行くことを目指されているのだと思う。
1138回目の瞑想
ーーー神の目よりして、すべての人は平等なのですか。
「その通り。すべての者は同じゴールに向かっている。神はその神法を、誰にとっても等しく良いものとして、創っておいでになる。諸君等はこう言う「太陽はすべての人に輝いている」と。この言葉の中には、真理が諸君等の考える以上に、広大で普遍的であるという意味が語られている」
[注解] 人はすべて、同じ自然法の働きに従っている。すべて人は同じ弱さを持っている、同じ苦を背負っている。金持ちも貧乏人も死ぬことは同じである。人間の生と死、誰一人特権もなく、等しく神は創っておいでになる。神の目の中で人は平等である。
今回は自然の平等についての内容である。このことはシルバー・バーチ霊も言われているので、頭では納得している。また今回もまた改めて得心する。ただ、理性と感情は別ものなので、頭で理解しているつもりでも、つい比較して、他人を羨んだり、自分の立場を呪ったりしがちだ。けれど、注解にも書かれているように、すべての生命あるものは、同じ自然法の働きに従い、苦を背負っているのだと思う。生と死については、誰一人特権もなく、すべての人間に死はある。ただ、死について恐怖に思うことは、霊的なことを理解しない、または知らないから思うことで、霊的真理を理解または知ることが出来れば、死はまさに、この地上とは比べられないほど、快適な場所であり、懐かしい故郷ということなのだ。そう言った意味で、すべての人が霊的真理に従った生き方をすれば、平等ということになる。それを常に念頭において、自分の人生を謙虚に誠心誠意一生懸命に全うすることが出来れば、この世に生まれた意義であり、意味があったのだと思う
。
1139回目の瞑想
ーーー神はなぜ人に同じ資質を与えられなかったのですか。
「霊はすべて等しく神によって創られている。しかし、ある霊は多くの生存を重ね、他の霊は少ない生存の経験しか持っていない。この結果、過去の生存で得た発展に差が出ている。これらの相違は経験の差であり、意志の鍛錬の差である。この意志の鍛錬いかんが本人の自由いかんとなり、霊によってはそのため迅速な進歩をする者もある。諸君の目にする資質の多様性とはこれである。この資質の多様性が必要なのである。各人がその体力と知力の発展限度内で、神の計画をうまく果たしていくために。甲のできない事は乙がする、このように各人が自分の持ち味を全体の仕事に活かすのである。それだけでなく、この宇宙のすべての世界は、連帯によって結ばれているのであって、諸君に先例を示すためには、諸君のより先輩の高次世界の住人達が地上に来て住む、その必要もあるのである」
ーーー霊が高次の世界から低次の世界へ移る場合、従来獲得していた能力は、完全に持ったままですか。
「そうである。前に申したように、進歩している霊が退化するということはない。彼は肉体を付ける時に、前回よりも、更に感度の悪い肉体を、あるいは不安定な肉体を選ぶかも知れぬ。しかし、これというのもすべて新しい教訓のため、未来の進歩の一助のため、ここに結び付く」
[注解] 人間の資質の多様性
は、上述にように、人間の創造の差異によるものでなく、霊の受肉経験によって得られる発展の程度の差異によるものである。神は人間の能力を不平等に創造されたのでなく、発展の程度の違った霊が集まり交流するように為されたのである。進歩した霊が遅れた霊を助けるように、また、すべての者が相互援助を経つつ、人を一つに結び付ける愛の法の実際の理解に至るようにと、そのためである。
今回は資質の不平等についての内容である。神様は霊をすべて等しく創られていると言われている。けれど、人間の資質に相違があるのは、多くの地上経験を重ねた霊、また少ない地上経験しか持っていない霊と、その過去の生存で得た発展で差が出ていると言われ、それは経験の差の相違であり、意志の鍛錬の差であるとのことだ。この意志の鍛錬が本人を自由にし、霊によっては多くの地上経験を重ねたことで、迅速な進歩をする霊もいると言われる。私達人間が目にする資質の多様性とはそのようなことだと言われている。そして更にそれぞれがその体力と知力の発展限度内で、神様の計画をうまく果たしていくためには、この資質の多様性は必要とのことだ。自分ができない事は相手にしてもらう、というようなそれぞれが自分の持ち味を全体の仕事に活かすのだと言われる。そして、この宇宙のすべての世界は、連帯によって結ばれているとのことで、私達人間に先例を示すためには、私達人間のより先輩である高次世界の住人の霊が地上に来て住む必要もあるとのこと。そして、高次世界の霊は従来獲得していた能力を完全に持ったまま、地上に再生するようだ。しかも肉体を付ける時には、前回よりも更に感度の悪い肉体やあるいは不安定な肉体を選ぶかも知れないとのことなのだ。そのような肉体を選ぶこと自体、凡人には出来ないことだろう。けれどこれはすべて新しい教訓のためであり、未来の進歩の一助のためということだ。ご自分を犠牲にされて、世のため人のために買って出て下さっていることに頭が下がる。またそこにすべては結び付くとのことで、それは
神様がすべて意図されている、ということなのだろう。
注解は端的にまとめられていて、わかりやすい。
1140回目の瞑想
ーーー社会状態に不平等があるのは、自然法によるのですか。
「いや、これは人間が作り出したもの、神の仕業ではない」
ーーーこの不平等は最後には消滅しますか。
「不滅なものは、神法の外にない。諸君は見ないのか。その不平等が少しずつ、日毎に消えていっているのを。諸君の現在の不平等は、高慢と利己の消滅と共に消えていこう。なお残る不平等は、長所の相違のみであろう。やがて次のような日が来よう。神の大家族の成員達は誰も、自分が良い血統の出だと言う者はいなくなるということ。良い血統とは霊にのみ言えることで、社会的地位によるものではないのである」
ーーー社会的地位を悪用して、自己の利益のために弱者を圧迫する者達を、どうお考えですか。
「その者達は呪われるべき者達である。悲しみこそ彼等の辿る運命。と申すのは、彼等にその抑圧が戻って来よう。彼等が人を苦しめた、その同じ苦しみが自分のものとなる、その状態に彼等は再生しよう」
今回は社会的な不平等についての内容である。社会における不平等は神様の用意されたものではなく、人間が勝手に作り出したものとのことだ。そして、不滅なものは神法以外ないと言われている。また、不平等は高慢や利己と共に消滅して行くと言われる。しかも残る不平等は長所の相違のみと言われているのだ。何時の日か、神様の大家族として、社会的地位などで上下を競うことなく、みな兄弟として過ごせる日が来るとのことだ。
その社会的地位を悪用する人は、その悪用によって苦しめられた人と同じ苦しみを味わうために、そのような環境に再生されると言われている。
1141回目の瞑想
ーーー富の不平等とは能力の不平等ではありませんか。能力が違いますと、富を手に入れる能力の違いとなってきますから。
「そうであり、そうではない。また、悪業であり、強奪でもあるか?貴方はこのことを何と考えなさるか」
ーーーしかし、遺産は悪意の成果ではありませんが。
「どうしてそうだと言うのかね。その源を尋ねれば、それが必ずしも純なものかどうか、お分かりだろう。そもそも初め、それは奪ったもの、ないしは不正の成果、そうではないと言えるかな。しかし、その初めが悪かったなどと言わないことにしても、富を追い求めること、それが真面目な追求の場合でも、それを早く手にしたいと心の奥底の願い、それが褒めてよい心持ちだとお考えか?これは神の裁き給うところ。神の裁きはこの者の思うところよりも、しばしば厳しいものである」
ーーー財産というものが、その源はよろしからぬ入手であるとしますと、これを相続した者はその責任を負っていますか。
「いや、他者の為した誤り、本人の関わり知らぬその事には、本人は何の責任もない。しかしながら、次の事を心得られよ。財産が特定の人に譲られるということは、不正の償いをその者にする機会を与える。そういう目的のためだけに譲られることがよくあるのだ。このことの納得がいけば、その本人には幸福がある。もしこの償いを、不正を為した人間の名においてするなら、その償いは両人のためとなる。何となれば、この事を仕組んだ当の人物は後者、不正の源となった人物のことがよくあるから」
ーーー法を犯していなければ、財産は概ね公平に配分するでしょう。我々は自分の行った財産の配分に、死後になって、責任があるということなのですか。
「種子の中にその果実はある。善行の果実は甘く、その他の果実は常に酸っぱい。この事は変わらずーー心得ておかれよ」(明日に続く)
今回は富の不平等についての内容である。今回の質疑応答には、いささか納得できない部分もある。質問の内容のように、
富の不平等は能力の違いではないかと、私もそう思う。けれどお答えは
そうでもあり、そうではないと言われる。更に悪業であり、強奪でもあるのではないか、などと言われているのだ。それに対し
、遺産は悪意の成果ではないとお返事されているが、そのお答えも
その源を尋ねれば、それが必ずしも純なものかどうか、そもそもの初めは、それは奪ったもの、ないしは不正の成果、そうではないと言えるかな。と。確かにそのような人はいるとは思う。けれど、真面目に働いて財産を築いた人もいるのだ。だがそれに対しても、その初めが悪かったなどと言わないにしても、富を追い求めること、それが真面目な追求の場合でも、それを早く手にしたいと心の奥底の願い、それが褒めてよい心持ちかとのお答えには、意外でしかなかった。しかもこれは神の裁き給うところであり、厳しいものであると言われている。けれど、この世はお金がなければ、生活していくのは困難だ。少しでも潤うためには、皆辛く苦しくても真面目に働いて稼いでいるのだ。このように言われてしまっては身も蓋もないのではないかと思ってしまう。
そして、そのよろしからぬ財産を相続した人についてだが、本人が関わっていなければ、何の責任もないと言われている。だが、またそこには財産を特定の人に譲られるということは、不正の償いをその者にする機会を与えると言われるのだ。しかも、この事を仕組んだ当の人物は後者、不正の源となった人物のことがよくあると言われる。やはり、よくよく吟味しなければいけないということなのだろう。私達人間は法を犯していなければ、財産について特に何も思わない。だが、種子の中に果実はあると。善行の果実は甘く、その他の果実は常に酸っぱいのだそうだ。覚えておこうと思う。
1142回目の瞑想
ーーー富の平等は可能なことですか。これまでにそんな事がありましたか。
「いや、可能ではない。能力や個性の相違のためにそれはそういかなくなる」
ーーーそうですが、中には、社会の病気は全部救済できると信じる人々がいますが、いかがですか。
「そのような者は組織作りの職人、または野心や嫉妬心で動かされている者達である。彼等が夢想する平等はたちまちに打ち倒されるもの、それは物事の勢いである。彼等はこの事が分かっていない。利己と闘いなされ、これが諸君等社会のペスト菌である。そして決して妄想を追わぬことだ」
ーーーもし富の平等は可能でないとしても、幸福という面では同じなのでしょうか。
「いいや、だが幸福とは相対的なものであって、人は自分の中で納得するものがあると、それで充たされるものだから。つまり、真の幸福とは、各々の性向に叶ったその人の時を持つということで、本人にとり気に食わぬ事にかかり合うことではない。また、各人は別々の資質を持つのだから、色々な事の中に価値あることが見出されよう。平等とは万物の中に存する。これを壊しているのは人間である」
ーーーお説のような理解に、皆が立つことが出来ましょうか。
「正義の法を行うようになれば、人はやがてそうなる」
ーーー自己の欠陥が原因で、困窮したり不幸になったりする人がいます。こういう人々に社会は責任はないのですか。
「責任はある。前に申したように、社会はそのような失敗の根元的原因であることが多い。またそれだけでなく、社会はその全成員の精神的教育に目を光らせておく義務がありはせぬか。社会は成員の悪い傾向を正すどころか、誤った教育でしばしばその判断を狂わしておる」
今回も富の不平等の続きである。やはり、富の平等は、能力や個性の相違のために可能ではないと言われている。次の質問だが、社会の病気は全部救済できると信じる人々がいると言われているが、そんな人はいるのだろうか。まゆつば物の教祖様とかだろうか。だとしたら、野心や嫉妬心で動かされている人達だと断じている。そのような人達の夢想、妄想は、社会のペスト菌とのことだ。また幸福とは相対的なもので、自分の中で納得するものがあれば、それで充たされ、幸福を感じる。そして、真の幸福とは、各々の性向に叶ったその人の時を持つということだと、また、各人は別々の資質を持つのだから、色々な事の中に価値あることが見出されると言われる。平等とは万物の中に存在しているが、それを壊しているのは人間だと論じている。真の幸福に世の中の人すべてが叶うには、正義の法を行うようになればと言われている。また、私達人間が自分が原因で、困窮したり不幸になったりするのは、社会の責任もあると言われる。実際、社会はそのような失敗の根元的原因であることが多いのとのこと。また社会は精神的教育をするべきであるにも拘わらず、悪い傾向を正すのではなく、逆に誤った教育で人々の判断を狂わせていると言われている。確かにそのように感じる。ただ、もちろん、社会が変わるべきことではあると思うが、やはり、個々の霊的レベルが重要なのだと思う。社会がどのようであろうと、霊的レベルの高い人は迷わない。自分の判断で正しい道を選ぶことができるのだ。一人一人が自分の霊的レベルを上げるように努力して行けば、社会も必ずレベルアップし、住み良い世界となるのだと思う。
1143回目の瞑想
ーーー神はなぜ、ある者には富と力を、ある者には貧困を与えられましたか。
「それぞれの道で試練を受けるため。しかも、ご承知の通り、この試練を選んだのは霊自身である。その霊が負けてしまうことがよくあるのだが」
ーーー恐ろしいのはどちらなのですか、金持ちと貧乏と、二つの試練の中で。
「どちららも同じように危険なもの。貧困は神の摂理を恨みかこつ。金持ちは万事に分を越えてしまう」
ーーー金持ちには悪への試練がたっぷりあるとすれば、また善を為す手段もたっぷりあるのではないですか。
「それこそ、金持ちが為さぬところのもの。金持ちは利己的で、高慢で、貪欲になりがちだ。財が多ければその欲望もそれと共に深い。彼等は飽くことを知らぬ、自分自身に対してさえも」
今回は金持ちと貧乏の試練という内容である。神様はお金持ちと貧乏というそれぞれの道での試練をご用意下さっているとのこと。けれどその試練を選んだのは私達霊自身だと言われる。それなのに、その試練に負けてしまうこともよくあるとのこと。またお金持ちと貧乏のこの二つの試練は同じように危険だと言われる。貧乏は神の摂理を恨み、お金持ちはすべてに分を越えてしまうと。確かにその通りだと思う。しかもお金持ちに関しては、利己的で高慢で、貪欲と鼻持ちならない。更に財が多ければその欲望も果てしなくなり、どこまでも追い求めることとなるようだ。確かにどちらも大変な試練なのだと思う。すべては物欲を超えなければいけないという鍛錬なのだろう。
1116回目の瞑想
ーーー人類を襲う災害には、神のどんな目的があるのですか。
「人類の進歩を早めること。前に申した通り、霊の新しい目覚めには破壊が必要。それでもって浄化の一歩が踏み出せるというもの。何事も正しい判断を下すには、その結果に目を向けねばならぬ。諸君は自分の立場からしか物を見ない。従って、たまたま自分に害を及ぼすものがあると、それをもって災害と見なす。しかし、その害が諸君の急速な進歩のためには、必要であることが多い。もしそれが起こらなかったら、その進歩のためには何世紀も要するという事がある」
ーーー神は災害などを使わずに、人類の改善を為さる方法はないのですか。
「それはある。それを毎日使っておいでになる。諸君には善悪を知る智が備わっている、神は諸君の進歩のためにそれを与え給うた。その方法を諸君は余りにも用いない。そのため、高慢な鼻をへし折って、自己の弱さを思い知らせる、その必要が起こって来るのである」
ーーーしかし、善人達も悪人同様、災害のために死にます。これが正義ですか。
「地上に在る時は、人は何事もその一生の長さで計る。しかし死後は、その計りが変わって、人間の一生などは一小事にしか感ぜられなくなる。地上の一世紀は、永遠に比すれば一瞬にすぎぬ。従って、諸君の数日とか、数ヶ月、数年に渡る災厄といっても、さしたる事ではない。この事を心にとめて将来に役立てよ。霊は万物に先立って存在し、万物の後に存在する実体。霊は神の子であり、神の最も心を掛け給うもの。肉体は地上でまとう外衣にすぎない。多数の死を招く大災害では、受難者は戦争の間に、その軍衣が破れ裂け失われていく、軍隊のようなものだ。将軍はその衣服などよりも、兵士そのものを気遣う」
ーーーしかしですね、その災害で傷つく者は、やはり犠牲者ではありませんか。
「もし諸君が、地上生活をあるがままに見て、永遠の生に比し如何に小さいかを思うなら、そんなに目くじらを立てる程の事もなくなろう。彼等犠牲者も、他界に入って、その苦しみの十分な償いを得よう、もし彼等がいつまでも恨みがましく思わねば」(明日に続く)
今回は災害についての内容である。自然災害についての神様の目的は、人類の進歩を早めるためであり、また霊の新しい目覚めのためにも破壊が必要と言われている。それでこそ浄化の一歩を踏み出せる、とまで言われているの
だ。また何事も正しい判断を下すにはその結果を見なければいけないと言われ、私達人間は自分達の立場からのみでしか物を見ないと言われる。だが、実際の災害の後の結果はどうなのだろうか。悲惨以外ないのでは?と思うのだが。最近のトルコの大地震然り、12年前の東日本大地震然り。この大災害で、人類は果たして進歩したのだろうか。ただただ、悲しみに暮れており、中には自殺する人まで現れているのが現状のような気がすのは、やはり、人間としての立場でしか物を見ていないということなのだろうか。今はわからない。
神様は毎日人類の改善を為される方法を使っておられると言われる。そして、私達人間は進歩するために、善悪を知る智が備わっているにも拘わらず、神様のその方法を余り使っていないとのことだ。そのことが高慢な鼻なのかはわからないが、それをへし折り、自己の弱さを思い知らせるために自然災害は必要なのだと言われている。だが、悪人だけでなく、善人までもが、災害の犠牲になっているということについて、要は悪人善人関係なく、永遠に比べたら、地上のことは一世紀と言えど、一瞬だと言われ、しかるに、日々のことは大した問題ではないということ、この事を心にとめて将来に役立てよとまで言われている。そして何よりも肝心なことは、人間の肉体は外衣にすぎず、外衣が破れ裂けて失われたとしても、魂そのものが大事なのだということを軍隊の例を挙げて教えて下さっている。また、犠牲者となった人々は死後、いつまでも恨みがましく思わなければ、その苦しみに匹敵する十分な償いを得ることが出来ると言われているのだ。
ただ、今回のお答えの内容にはいささか疑問が残る。災害が人類の進歩のために必要であるならば、死後、苦しみの十分な償いを得られるというのは何故なのか、苦しみは自分自身が乗り越えて初めて進歩出来るわけで、それなのになぜ霊界側が償いを与える必要があるのかということが疑問なのだ。進歩の為に必要な苦しみならば償いの必要性はないでのはないかと思う。また、
償いを必要とするなら、最初から災害などで犠牲者を出す必要はないのではないかと合点がいかないのだ。いつか分かる時が来るまで保留にしたいと思う。
1117回目の瞑想
ーーー大災害は、一時的には害悪を生みますが、現実面で効果があるものですか。
「左様、国家の状態に変化を起こすことがある。だが、その良い結果は、後の世代になってから分かることが多い」
ーーー災厄はまた、厳しい運命と闘わねばなりません。その事は人間に一つの試練を作ることになりませんか。
「それは、災厄は常に試練である。それは人間に知性の錬磨の機会を与える。それは忍従と神への服従を試す機会を与える。それは、もし人が利己心のとりこになっていなければ、隣人に対する自制、公正、愛の心を発現する機会ともなるのである」
ーーー人間の力で、いま起こっている災厄を、変えることが出来ますか。
「出来る、部分的には。しかし、一般の想像とは違うところがあるが。災厄の多くは、人間が先が読めないことから起こることが多い。従って、知識と経験が増えるに応じて、災厄は避けられるようになる。つまり、災厄の原因がつかめれば、その生起が防止出来るというわけである。だが、人間を苦しめる災厄の中には、天意によって課され、その影響も相当に感じられる、そういうものもある。
こういう災禍には、神意に従う外はない。人間の怠慢によっては、苦痛を一層ひどくもするし、またそういう場合が多いが」
今回も災害の続きである。確かに大災害は国家に多大な影響を与えるように思う。その変化が良い結果として、分かるのは後の世代になってからが多いとのことだが、悪い結果も同じではないかと思う。そして更に災厄は常に試練だと言われている。人間に知性の錬磨の機会を与え、忍従と神様への服従を試す機会を与えることだと言われる。また災害を通して、隣人に対して、自制や公正、そして愛の心を発現する機会にもなるとのことなのだ。確かにそれは言えるのだと思う。また、災厄の多くは人間には分からないことが起きるわけだが、それでも、知識と経験を重ねることで、原因をつかみ、その生起を防止できれば、災厄は避けられるようになるとのことだ。だが、東日本の大地震は過去にも遭ったように言われていたと思うが、けれど、過去のことは何の役にも立たず、防止できなかったということなのだろうか、と思うほどの大災害となってしまった。また更に災厄の中には天意によるものもあり、このような災禍は、神様に従う以外はないと言われている。そして、苦痛を一層酷くするのはやはり人間側の問題のようである。
1118回目の瞑想
ーーー人間を戦争に駆り立てる原因は何ですか。
「霊性より獣性が勝っていること、及び、感情を満足させたい欲求。野蛮状態では、どの民族でも、強いことが何よりの力である。従って、戦争がその常態である。人間が進歩すると、戦争は少なくなる、それは戦争の原因を作らないようにするからだ。それでも避けられなくなると、やり方は人間的となる」
ーーー地球上で戦争はなくなりましょうか。
「左様、人間は正義を重んじ、神法を履行する時に。その時、人類は兄弟となろう」
ーーー戦争を必要とする神慮の狙いは何ですか。
「自由と進歩」
ーーー戦争によって自由が生まれるのなら、なぜ、その目的が相手を屈服させることであり、またその結果もそうなるのは、なぜですか。
「その屈服も一時的にすぎない。屈服させられた側がうんざりして、やがて、前進したい気持ちをかき立てられる」
ーーー利得を目的とし戦争を引き起こす者達を、いかが考えられますか。
「まことに罪深い者達である。この者は犯した殺人の罪すべてを償うために、幾多の地上再生の苦しみを耐えねばならぬだろう。と言うのは、彼の野心によって殺された一人一人に、償いをせねばならぬから」
今回は戦争についての内容である。未だにこの地上では戦争がある。それは霊性よりも獣性が勝っているとのことで、自分の欲を満たしたいという欲求とのことだ。力でねじ伏せることが強いと思っているから、戦争はいつまで立ってもなくならない。だが、人間の進歩と共に、戦争は少なくなると言われる。それは戦争の原因を作らないようにするからだと。とは言え、それでも避けられないとやり方は人間的だと言われている。けれど、人間が正義を重んじて、神法を履行するようになれば、戦争はなくなり、人類は兄弟となると言われている。戦争の目的は自由と進歩だそうだ。戦争に負けたとしても、いずれ前へ進んでいく気持ちに駆り立てられるからだと。だが、戦争を利得を目的とした場合は、重い罪となる。戦争で亡くなったすべての人に償いをするために、苦しい地上再生に耐えなければいけなくなるとのことだ。この事が分かっていれば、戦争などあり得ないことなのだが、現状は戦うための武器を作り、それを誇っているのだから、まだまだ戦争はなくならないのだろう。一日も早く世界中が霊としての存在に目覚めることが最も肝要なことなのだと思う。
1119回目の瞑想
ーーー神の目より見て、殺人は罪ですか。
「左様、大きな罪である。何となれば、人の生命を奪うものは、人がこの世で行っている罪亡ぼしと使命遂行を中断する者だから」
ーーー罪人はすべて等しく極悪ですか。
「前に申した通り、神は正義である。神は行為よりも動機によって裁き給う」
ーーー自己防衛のため殺人を、神はお許しになりますか。
「全く止むを得ない場合に限って、お許しになる。自分を攻撃する者を殺さねば、自分が殺されるのならば、自分の生命を人は守るべきである」
ーーー戦争で犯した殺人にも、人は責任がありますか。
「その戦争を強制された場合は、責任はない。しかし、犯した残虐行為に対しては責任がある。また、人間的行為をしていれば、それには報いられよう」
ーーー親殺し嬰児殺しは、神の視点よりして、大罪ですか。
「その罪は共に大きい。何となれば、罪はどんな罪でも罪である」
ーーー相当進歩した民族でも、嬰児殺しの慣習があります、法律で認められていることすらあります。これはいかがですか。
「知的に進んでいるからといって、精神が進歩しているとは限らない。例には知的進歩があっても、徳性は遅れているかも知れぬ。それと申すのも、長期に渡り、その者が徳性の改善をしなかったということ、精神の浄化なしで知識の獲得をしてきたということである」
今回は殺人という内容である。神様だけでなく、人間はみな殺人は大きな罪だと分かっている。だが、人の生命を奪うことの大きな罪の理由として
、地上に再生し、人がこの世で行っている罪亡ぼしや使命遂行を中断させてしまうということについて分かっている人はほとんどいないのではないかと思う。そのことが分かれば、殺人自体なくなるのではないかと思うのだ。そして、殺人であっても、神様はその行為よりも、動機によってお裁きになると言われている。また、自己防衛のための殺人については、止むを得ない場合に限って、神様はお許しになると言われ、自分の生命を人は守るべきであるとも言われている。私も自己防衛の殺人については、どうなのかと思っていた。殺すよりは殺される方がいいのではないかとも思っていたが、自分の生命を守るべきとのお言葉に答えを教えて頂けた。戦争については、ほとんどの人は仕方なしに、戦場へ行き、自分が殺される恐怖から、相手を殺しているのではないかと思う。けれど、便乗する人も中にはいるのだと思う。そういう人の場合はやはり罪になるのだ。やはり、何事も動機が全てだということだ。
親殺し嬰児殺しについては、言語道断だと私も思っている。例え、前生からの因縁であっても、この世でそれを終わりにするべく、再生してきているのだから、決して殺してはいけないのだ。それだけは肝に銘じて欲しいと強く思う。最後の質疑応答は、知的だけ進歩してもダメだということを教えて下さっている。同時に精神的に進歩しなければ、知識だけの獲得では意味がないということなのだと思う。
1120回目の瞑想
ーーー残忍性は破壊本能と関係ありますか。
「残虐もその最悪のものは、破壊本能である。と申すのは、破壊は時には必要、しかし、残忍はこれを全く必要としないから。これは常に悪性の結果である」
ーーー未開人の特性が残虐性であるというのは、どういうことですか。
「未開人においては、物質が霊よりも上位である。彼等は動物的本能に身を委せ、肉体生命の外は顧慮せず、自己保存の方にしか頭が向いていない、故に自ずから残虐となる。それに、未発達の人間は、やはり未発達の霊に感応して、その影響を受けることにもなる」
ーーー残忍は、道徳性の欠如によるものですか。
「道義性の欠如ではなく、道義性の未発達と、かように言いなさい。道徳性は万人に備わっている。人が誰しも年を経れば、親切で慈愛をもつ
ようになるのはこのためである。従って、道徳性は未開人にもある。しかし、それが未熟なのである。花は開かずとも、芽の中に匂いの原理が存在しているように」
[注解] 人間には、あらゆる能力が、眠った状態で本来備わっている。その能力に適した状況が生まれるにつれ、能力が開発されていく。余り一つの能力が過度に開発されると、外の能力が押さえられ、中和されたりする。物質性が異常に高まれば、道徳性は息を止める。道徳性が開発されていくにつれ、次第に動物性は弱められていく。
(明日に続く)
今回は残虐という内容である。最初の質疑応答については、残虐も残忍も同じようにむごたらしいことをする行為だが
、破壊本能であると言われている。だが、破壊については時には必要とのことだが、残忍や残虐は常に悪性の結果であるとのことで全く必要としないと断言されている。また、未開人の残虐性については、言われている通りだと得心する。もちろん、未開人だけでなく、現代人においても、そのような人は存在するが。やはり、現代人においても、未発達である場合があり、未発達の霊の影響を受けてしまうのだろう。そして、残忍とは、道義性の未発達だと言われている。道徳性は万人に備わっているのだそうだ。人間が年を取ることで、慈愛の心をもつようになるのもそのためだと言われる。未開人にも道徳性はあるが、未熟なのだと言われている。花の例えでとてもわかりやすい。注解では、更に詳細に書いて下さっている。得心以外何ものでもない。
1121回目の瞑想
ーーー先端をいく文明社会にも、未開人と同じ残虐性の人物がいますが、何故ですか。
「それは丁度、良くできた果実を一杯つけた木に、しなびた実があるようなものだ。そのような者達は、洋服の他には文明らしいものは何もない野蛮人と言われよう。彼等は羊の群に迷い込んだ狼である。低級霊が、それも随分と後ろ向きの霊が、進歩を願ってずっと進んだ人々の間に受肉することがある。だが、荷が重すぎる場合は、彼等は全くお手上げとなる」
ーーー善人社会から悪人がいなくなる日が、やがて来ますか。
「人類は進歩している。性悪で善人の中の場違いのような人間は、次第にいなくなっていく。それは麦がから竿で打たれれば、良い麦から悪い麦粒は離れていくのと同じ事だ。しかし、彼等とて次は別の身体に再生する。次第に経験を重ねていけば、善と悪とのけじめがつくようになる。動植物の品種改良で新種が創り出されるのは、この例である。こうして完全な改善に達するのは、数世代の後である。誰しも再生を重ねてこのように歩く」
今回も残虐の続きである。私が昨日書いたようなことが質疑応答にもあった。果実の例を挙げて下さっているが、どの時代にも必ず残虐性をもった人物がいるということなのだ。だが、善人社会から悪人がいなくなる日は来ると言われ、人類は進歩しているので、次第にいなくなるとのことだ。そして、悪人であろうと死後はまた別の身体に再生し、経験を重ねて行くことで、次第に善悪のけじめがつくようになるとのことで、やはり未熟、未発達と言う言葉が適しているのだろう。だが、このように完全な改善に達するのは、数世代も後だと言われている。が、すべての霊はこのように再生を重ねて進歩して行くのだと言われているのである
。
1122回目の瞑想
ーーー決闘は最も合法的な自己防衛と考えてよろしいですか。
「いや、これは殺人である。野蛮と申すべき愚行である。文明が進み道義が進歩すれば、決闘がその昔、神の正義の判決と思われていた、あの馬鹿らしさと共に自明となろう」
ーーー弱いゆえに、殺されることが分かっている人にとって、決闘は殺人と考えられますか。
「この場合は、自殺である」
ーーーどちらが死ぬか分からない場合は、殺人ですか、自殺ですか。
「それは殺人であり、自殺行為である」
ーーー決闘はいわば名誉ある事とされますが、この点はいかがですか。
「誇りと虚しさ、この二つの人間愛の傷」
ーーーしかし、人間の誇りが危急存亡に瀕し、戦わねば卑怯者となる、そのような場合があるのではありませんか。
「それは慣習・慣行いかんによる。国により時代によって、それをどう見るかは違ってくる。しかし、人間が更に善良に更に道義的となれば、真の名誉とは地上的感情を超えたところにある事が分かる。また、人を殺したり殺されたりする事が名誉ではなく、誤りを正すことこそ真の名誉である事が分かるようになる」
今回は決闘についての内容である。決闘は殺人だと断じておられる。野蛮と申すべき愚行であると言われ、文明が進み道義が進歩すれば、決闘は馬鹿らしさと共に自明となると言われている。日本では「果たし合い」とか「敵討ち」のようなものだ。どんな理由があるにせよ、人が人を殺すことは言語道断ということだ。このようなことは名誉とされていたが、誇りと虚しさのこの二つの人間愛の傷と言われている。勝てば殺人であり、負ければ自殺行為とのことだ。また、国によっても時代によっても違いがあるが、真の名誉とは何か地上的感情を超えたところにあると、人間が道義的に進歩すれば分かるとのことだ。更に殺し合いを名誉とするのではなく、誤りとして正すことこそ真の名誉であることが分かると言われているのだ。本当にそれこそが正義なのだと思う。
1123回目の瞑想
ーーー斬首刑が人間の法律から消える日がありますか。
「斬首刑、これは間違いなく、やがてなくなる。またこれの禁止こそ、人類進歩のしるしである。人類が更に進歩すれば、死刑は地上から完全に姿を消す。人間が人間を裁くという事は無くなろう。私が申している事は、大分先の方まで見て申しておる」
ーーー自己保存の法によって、人間は自分の生命を守る権利をもっています。社会から危険人物を排除する場合、この権利が適用されませんか。
「殺さずとも、危険人物から自己を守る方法は、他にもある。また更に、人は罪ある者に償いのドアを開けておくべきである、彼の前にこれを閉ざしてはならぬ」
ーーー死刑が文明社会から消えるものなら、進歩が十分でない時代には、死刑は必要だったのではありませんか。
「必要、これは正しい用語ではない。人間とは、何かそれ以上の事がどうしても発見できない時は、別の何かをもって必要な事と考えてしまう。進歩が進めば、人間は正邪の判断がはっきりつくようになり、無知の時代の行き過ぎを、正義の名において廃止する」(明日に続く)
今回は斬首刑についての内容である。お答えのように、斬首刑という法律はなくなっている。ということは少なくとも当時の時代よりは進歩しているということなのだろう。だが、死刑はこの日本でもなくなってはいない。ということは、まだまだ進歩の途上にあるということだ。また死刑が地上から完全に姿を消すのは、大分先を見通されてのお話なので、それは相当先、現代よりも先を見通されていたのだろう。次の質疑応答は人間社会においてはかなり厳しそうなことだ。危険人物や罪人などに対して排除するのではなく、償いのドアを開けておくべきだと言われるのだ。償いのドアは閉ざしてはいけないとまで言われている。今の世界でそんなことができる国はあるのだろうか。霊的な視野で見れない限り、なかなか難しい問題であると思う。また、次の質疑応答も、人間的考えと霊的考えの差であるように思う。もっともっと霊的真理が普及されて、この世の人々が霊的に理解することができれば、可能なことだとは思うが、今の世の中の現状では難しい限りとしか言いようがない。
1124回目の瞑想
ーーー斬首される数を抑制することは、文明進歩のしるしでしょうか。
「そんな事おかしいと思われぬか。正義の名の下に、また神の栄光のためとか称して、これまで行われた人間虐殺の文書を読むにつけ、諸君は反感を覚えぬか。罪人にまた被疑者に、ありもせぬ罪を告白させるために、さんざん痛めつけた、そんな苦しみの記録を読んで、怒りを覚えませぬかな。諸君もその時代に住んでいたら、当たり前と思ったかも知れぬ。また、諸君が裁判官だったら同じ事をしただろう。これというのも、ある時代に正しいと思われたものは、他の時代には野蛮と思われるということ。永遠なるものは神法のみ。人間の作った法は時代の進歩と共に変化する。それは変化を重ねる。そして終ついには、神法と一致し調和するに至る」
ーーーイエスは言われました<剣をとる者は、剣に滅びる>と。この言葉は返報の原理を進めるものではないですか。殺人者を死刑にすることは、この原理の適用ではありませんか。
「しっかりしなさい。貴方はこの言葉の意味を取り違えている、取り違えている者は多いが。正しい返報とは唯一つ、神の正義である。何となれば、神が用い給うのはこの正義であるから。諸君らはすべて、いつの時も、この返報を受ける。諸君らは罪を犯せばこれで罰せられる、この世でもあの世でも。友を苦しめた者は、友が苦しんだものと同じ苦しみの立場に置かれよう。これがイエスの申した言葉の正しい意味である。イエスはまたかように申さなかったか、<汝の敵を許せ>と。また、イエスはかように祈ることを教えなかったか、貴方が貴方に背く者を許すように、神が貴方の背反を許して下さるようにと、それも、貴方が許したそれと全く同じ割合いでと。これらの言葉の意味を狂いなく受け取られよ」
ーーー神の名における死刑をどう考えたらよろしいですか。
「裁きを行うに神の名を汚すものである。かかる者達はいかに神を知らぬ者達であるか、いかに多くの償いをせねばならぬ者達であるか。斬首が神の名で行われれば罪である。これを命じる者達は多数の殺人者として、その償いをせねばならぬだろう」
今回も斬首刑についての内容である。この質疑応答については、得心しかない。斬首自体、してはならないと思うからだ。こんなことを正義として法にするなどあり得ないと思う。法は永遠に神法のみと断じている。神法こそ、この世の法とするべきなのだ。最後には神法と一致し調和に至ると言われている。いつになるかわからないが、早くそうなって欲しいと切望する。次の質疑応答も、因果応報ということだ。更に、自分を背いた人を許すという難題をイエス様は言われているのだと言われ、その意味をはき違えるなと言われている。確かにそれが出来れば、殺し合いなどこの世からなくなる。だが、今の世ではそれは敵わないだろう。
神様の名をもって、死刑のような裁きは神様の名を汚すと言われる。そしてその人達は神様を知らない者だと言われているのだ。斬首は罪であり、これを命じる人達は殺人者として、その償いをしなければならないとのことだ。霊的にこのようなことを知っていれば、死刑も斬首もなくなるのは当然のことなのだと思う
。
1125回目の瞑想
ーーー社会生活は自然を基盤としていますか。
「まさにそうである。神は人間を社会生活を営む者として創られた。神は人間に言葉の能力と、相互関係に必要な諸能力を与えられた。この事に目的がないわけではない」
ーーー絶対孤独の生活は、自然の法に反しますか。
「左様、人間が本能的に社会を求める限り、人間が相互に助け合って進歩して行こうと思う限り」
ーーー人間は社会を求めますが、それは個人の気持ちが求めるのですか。それとも、この個人感情の中に、神慮の目的が潜んでいるのですか。
「人間は進歩せねばならぬ。しかし、それは一人では出来ない。個人にあらゆる能力が備わっているわけではないので、他者との接触が必要となるからである。一人っきりでいると、人間は禽獣きんじゅうとなり、また色褪せてしまう」
今回は社会生活の必要性についての内容である。神様は人間を社会生活を営むようにとして創られたと言われている。そして、人間に言葉や相互関係に必要な諸能力を与えられたとのことだ。このことには目的があるようだ。また孤独の生活は本能的に社会を求め、相互に助け合って進歩しようと思う限り、自然の法に反しているようだ。
ここで重要なのは人間は進歩しなければいけないということだ。進歩するには一人では出来ないとのこと。お互いの能力を出し合って、助け合いが必要だと言われる。一人きりだと、鳥や獣のようになってしまうと言われ、色褪せてしまうようだ。
1126回目の瞑想
ーーー社会生活上の趣味嗜好は、自然を基盤としたものでなければなりません。これはどんな趣味や好みの場合もそうですが、独居生活は、本人は満足でも、そのような趣味は避難されますが何故ですか。
「そのような満足は利己的な満足にすぎない。飲酒に満足して浸りきっている者達がいるが、諸君はこれを是認するかな。誰の役にも立たぬ生活の仕方は、神を喜ばせることは出来ないのではないか」
ーーー世俗の害毒を逃れ、隠とん生活をする人達がいますが、どうお考えですか。
「このような生活には二重の利己がある。彼等は一つの悪から逃避している。また、そのために他の悪にはまり込んでいる。即ち隣人愛の法の失念、これである」
ーーーしかし、このような隠とんが罪の償いのためなら、つまり欠陥をもった一つの魂に課された罪滅ぼしなら、価値があるのではないですか。
「最もよい罪滅ぼしとは、過去に犯した悪に勝って、出来る限りの善を行うこと、これである」(明日に続く)
今回は孤独の生活についての内容である。独居生活についての満足は利己的だとして、断じている。そして誰の役にも立たない生活は、神様は望んでいないということだ。また隠とん生活についても、世俗から逃避していることを悪とされ、また隣人愛の法の失念という二重の利己だと言われている。そして、前世の罪亡ぼしのためには、過去に犯した悪より、更に上回る出来る限りの善を行うことだと説いておられる。要するに、独居生活や隠とん生活のような勝手気ままな生活は、当事者にとっては満足であっても、それは単なる利己的でしかないということなのだ。人と助け合っていくことが、地上生活にとって大切なことだということを教えて下さっている。
1127回目の瞑想
ーーー不幸な人々の救済に献身するため、世を捨てる人達をどうお考えですか。
「彼等は進んで身を卑しくすることで、自己を高めている。彼等には二重の価値がある、一つは物的享楽から超然とすること、他は労働の法を守って善行を積んでいること」
ーーー何か労働はするとしても、静穏を求めて隠退をする人達、これはいかがですか。
「そのような動機から隠退する者は利己的ではない。彼等は社会から遊離してはいない、彼等の労働が一般の善に役立つ限り」
ーーー古い時代から、ある宗派では沈黙の誓いを定めています。これはいかがですか。
「諸君のお尋ねは、話をすることは自然に適うことか、神は何故これを与えられたか、ということであろう。神はお与えになった能力の誤用を咎め給う、その使用ではない。しかしながら、沈黙は有用である。それは、沈黙において人は深く自己自身となる、つまり、その者の霊は自由となり、吾等とのつながりが一層深まる。しかし、沈黙の誓いは愚かである。このような沈黙の行を、道徳的な行為とする人々は、善意でこれに従っているのだろうが、しかし彼等は誤りを犯している。彼等は神法の何たるかを真に理解していないのだから」
[注解] 沈黙の誓いは、孤独の誓いと同じで、人間から社会的な関係を奪い取ってしまう。人はこの社会関係によって、善を為したり、進歩の法を完遂する機会を持つことになるのである。
今回も孤独の生活の続きである。不幸な人々の救済に献身するために世を捨てる人達は、自己を高めており、二重の価値があると言われている。その一つは物的享楽から超然とすることであり、もう一つは労働の法を守って善行を積んでいるとのこと。労働をし、静穏を求めて隠退をする人達については、その動機から隠退する者は利己的ではないと言われる。その理由は労働が一般の善に役立つ限り、社会から遊離してはいないからと。
沈黙の誓いについては愚かであると言われているが、沈黙については有用とのことだ。これは瞑想のことなのではないかと思うが、沈黙において人は深く自己自身となり、霊として自由になって、高級霊とのつながりが一層深まると言われている。けれど、沈黙の誓いのような行は、神法の何たるかを真に理解などしていなく、誤りを犯していると断じている。
注解では、社会関係の大切さを論じている。
1128回目の瞑想
ーーー動物の中には、子供が親の保護を必要としなくなると、親子が互いに忘れてしまうものがあります。これは何故ですか。
「動物の生活とは物質的な生活であって、精神的生活ではない。母親の子に対する愛は、自分から生まれたものへの自己保存の本能、これの為せる技である。子が一人立ちできるようになると、母親の仕事は終わる。自然もそれ以上の事を要求しない。そこで母は子を捨て去り、自分の次の仕事に没頭する」
ーーー動物の親が子を捨てることから、次のように推断する人達がいます。人間の家族の結び付きは、大自然の法ではなくて、単に社会的習慣の結果にすぎないと。これをいかにお考えですか。
「人間の歩む道は動物の道とは違っている。なぜ人間は動物と人間を一緒くたにしようとするのか。人間には物質への欲求以上の何かがある。即ち、進歩への渇望、これである。社会的結合、これは進歩に必要。そして家族的結合によって、社会的な結合が深められていく。この故に、家族の縁は自然法である。神は望み給うた、人間達が家族を通じて、同胞として互いに愛し合うことを学ぶようにと」
ーーー家族の結び付きが弛めば、社会にどんな影響が及びますか。
「利己主義の退化である」
今回は家族ー縁についての内容である。動物の親子に関する話は、とても興味深い。母親の子に対する愛について、自分から生まれた者への自己保存の本能だったとは、びっくりだった。だからこそ、子が一人立ちすれば母親は子を捨て去って、自分の仕事に没頭し、見向きもしなくなるのだということに得心した。しかも自然もそれ以上の事は要求しないとのこと。やはり根本的に人間とは違うことの意味がわかったように思う。次の質疑応答も、根本的に人間と動物は違うのだから、土台一緒に考える事自体間違っている。人間には進歩への渇望があるとのこと。しかもそのためには社会的な結合が必要であり、それは家族的結合によって、社会的結合が深められると言われている。それ故に家族の縁は自然法なのだと。そして、神様は私達人間を家族を通じて、同胞として互いに愛し合うことを学ぶようにと望まれたということなのだ。とても奥の深い話だと思う。更に家族の結び付きが弛むと利己主義の退化だと言われている。
1129回目の瞑想
ーーー自然状態と自然法とは同じものですか。
「いや、自然状態とは原始の状態である。文明と自然状態とは相矛盾したもの、これに対し、自然法は人類の進歩に寄与するものである」
ーーー自然状態の人間は、それほどの不足もなく、文明が進歩すれば生まれる嫌な事もありません。原始状態は地上にあり得る最も恵まれた状態だと、こういう意見がありますが、いかがですか。
「そのような幸福はけだものの幸福である。ところがそうではないと思っている人々がいる。それはけだものに倣ならった幸福状態である。子供達もまた大人よりは幸福なのである」
ーーー人類が自然状態に退化するということがありますか。
「ない。人類は絶えず進歩を続けねばならない。故に、幼年状態に戻る筈がない。もし、人間が進歩せねばならぬものなら、それは神がそのように望まれるからだ。この人類を原始状態に退化するなどと思うこと自体、進歩の法の否定となろう」
今回は自然状態という内容である。自然状態と自然法の違いは、自然状態は原始の状態であって文明とは相矛盾すると言われている。また自然法は人類の進歩に寄与しているとのことだ。自然状態いわゆる原始状態が幸福との考えは、けだものの幸福だと断じている。けだものに倣った幸福状態なのだと言われているのだ。また、人類が自然状態に退化するかについては、ないと断言している、それは人類は常に進歩を続けて行かなければならないと、それは神様が望まれるからだと言われる。更にその考え自体、進歩の法の否定だと論じている。
1102回目の瞑想
ーーー人間の法や慣習には、再生産を阻害する目的をもったものがあります。これは自然の法に反するものですね。
「大自然の働きを妨げるものは何なりと、全体の法に反する」
ーーーしかし、動物にも植物にも、これを野放しに殖やしては他種に有害なもの、ひいては人類にも害を与えるものが多数あります。これらの増殖に歯止めをかけることは間違いですか。
「神は人間に、地球上のすべての生き物に勝る力を与えて給うた。この力を全体のために使うようにと、決して乱用せぬようにと。人間は自己の必要のために増殖を支配することがあるかも知れぬ。しかし、増殖を無闇に妨げてはならぬ。人間の知的行為というものは、自然力の均衡を回復するために、神によって与えられた平衡力なのである。また、人間が動物と明瞭に違っている点は、人間は自然の均衡維持を自覚的にやれるが、動物は無意識的にしかやれぬという点である。動物もこれを生得の破壊本能でやる。それは自己保存のためではあるが、食用とする動物の過度な発展をこの本能で阻止する。そうしなければ危険の原因となるからである」
ーーー性的享楽のための避妊は何とお考えですか。
「かような者は、魂よりも肉体が優越しているということである。また、人間がいかに物質にのめり込んでいるかを示すものである」
今回は再生産の障害という内容である。大自然の働きを妨げるものは何であっても、全体の法に反すると言われている。また
動物や植物は、野放しに殖やしては他種に有害なものや、ひいては人類にも害を与えるものがあるのは事実だと思う。ただその原因を作っているのは多くは人間であるというのも事実なのだ。お答えでは、
神様は人間に、地球上のすべての生き物に勝る力を与えて下さっていると言われ、この力を全体のために使い、決して乱用してはいけないとのことだ。人間は自己の必要のために増殖を支配することがあるかも知れないと言われているが、増殖を無闇に妨げてはならないとも言われている。人間の知的行為というものは、自然力の均衡を回復するために、神様によって与えられた平衡力なのだと言われる。また、人間が動物と明瞭に違っている点は、人間は自然の均衡維持を自覚的にできるが、動物は無意識的にしかやれないという点であるとのこと。動物は生得の破壊本能でやるようだが、それは自己保存のために、食用とする動物の過度な発展をこの本能で阻止しなければ危険の原因となるからだと言われている。
最後については、当然のお答えだと思う。如何に肉体を優先して、物質本位であるかという証であるように思う
。
1103回目の瞑想
ーーー結婚、つまり二つの生命の永遠の結合、これは自然法に反しますか。
「これは人類の到達した進歩である」
ーーー結婚を廃止すれば、人類社会にどんな結果が生じますか。
「野獣生活への回帰である」
ーーー婚姻を絶対に解消せぬことは、天地の法ですか。それとも人間の法が勝手に定めたことですか。
「それは人間の法であり、自然の法とは一致せぬ。しかし、人間の法は代わるもの、大自然の法は不変であるが」
ーーー独身主義は神の目より見て価値がありますか。
「いや、利己的動機で独身を守る者を、神は喜ばれぬ。彼等は社会義務を分担しておらぬからである」
ーーー 一身をあげて人類に献身するため、独身を守る人がいますが、これは自己犠牲の献身ではありませんか。
「これは全く別のことである。私が申したのは利己的動機の場合に限る。その目的が善である時、自己犠牲はどれも価値高いものである。犠牲が大きいほど、その価値も大きい」
今回は結婚と独身についての内容である。結婚は、人類の到達した進歩であると言われ、廃止すれば、野獣生活への回帰であると言われている。但し、婚姻を解消しないということについては人間の法であり、自然法とは一致しないとのことだ。また独身主義については、利己的動機の場合のみ、神様は喜ばれないと言われている。だが、その目的が善であり、人類に献身するために独身を守る人は、価値が高いとのこと。自己犠牲が大きいほど、その価値も大きいと言われている。
1104回目の瞑想
ーーー一夫多妻制あるいは一夫一婦制、これは自然法に従っていますか。
「一夫多妻制は人間の作った制度であって、社会が進歩するとこれは廃止される。神のご意図によると、婚姻は愛情の上に成立すべきものである。一夫多妻に真の愛情は存在しない。肉欲があるのみである」
ーーー男女の人口比は殆ど同じですが、この事が結婚の釣合いを教えているわけですか。
「その通り。自然の姿はどの一つをとっても、ちゃんとした目的がある」
今回は一夫多妻という内容である。一夫多妻というのは、男性が作った制度なのだろうと思う。そのお答えには、得心しかない。男女の比率に関しては現在はどのようになっているか私はよくわからない。ただ、人間が起こした戦争などでは男性が戦場に行ってしまい、そのまま亡くなる方が多かったので、当時の女性は大変だったと聞く。だが、これもすべて人間が原因を作ったのだから仕方ないのだ。神様はちゃんと釣合いがとれるように計らって下さっているのに、人間とは本当に勝手な生き物なのだとつくづく思う。だが、それはごく一部の人間によって、作られているのだから、多くの国民が反対の意を唱えれば、防げるのではないかとも思う。
1105回目の瞑想
ーーー自己保存の本能は大自然の法ですか。
「まさしくその通り。知的段階は違っても、すべての生物に自己保存の本能がある。あるものは純粋に機械的に、あるものの場合は理性と結び付いて存在する」
ーーー神が生きとし生けるものすべてに、自己保存の本能を与えられたのは、いかなる目的によるのですか。
「生物はすべて、神の計画の遂行に不可欠なものである。従って、神はこれらすべてが生きることを願って、これを与え給うた。それだけではない。生物は生命あって初めて進化出来るのである。すべてのものが理屈ではなく、本能的にこのことを感じている」
今回は自己保存の本能という内容である。
自己保存の本能は大自然の法であると言われ、
知的段階が違っても、すべての生物に自己保存の本能があるとのこと。そして、あるものは純粋に機械的に、またあるものの場合は理性と結び付いて存在するとのことだ。要するに動植物や人間のことを言われている。そして、
生きとし生けるものすべての自己保存の本能の目的は、
神様のご計画の遂行に不可欠なものであると言われ、神様は生きとし生けるものすべてに生きることを願い、自己保存の本能
を与えたと言われている。また、それだけではなく、生物は生命あって初めて進化出来ると言われている。更にすべてのものが理屈ではなく、本能的にこのことを感じていると言われている。だが、皆が皆、本能的に感じているのだろうか。成長しなくてはいけないとは思っても、進化ということについて感じる人は少ないのではないかと思うのだが
。
1106回目の瞑想
ーーー神は生の意欲を人間に与えておられますが、生きていく手段も常に与えておられたのですか。
「そうである。人間にそれがいつも見えていないとしたら、人間が周囲の資源を利用する方法を知らないからである。人間に神が生命の愛を植え付けられたのは、生きていく手段を人間に与えておいでになるからである。従って、神は大地に、生きるに必要な物が、すべての生き物を充たすに足るだけの、再生産力を与えておいでになる。有用な物はすべて必要なものである。余っている物は有用でない」
ーーー大地は何故に、人間が生きるに必要な糧をたっぷり手に入れられる程、常に生産してくれないのですか。
「それは、人間が母なる大地に、感謝の心もなく顔を背けているからである。その上、人間は大自然にぶつくさ文句を言う、本当は自分のまずさのせいであり、自分の配慮の不足のせいであるのに。もし人間が満足の心を持つことが出来たら、大地は必ずや必要な糧を産み出してくれるのである。もし必要な糧のすべてが手に入らぬとしたら、それは、人間が必要のために産み出された物を、湯水のように使っているからである。砂漠のアラビア人を見よ。彼は常に生活の資を十分に持つ。それは殊更に余分の欲求を作らないからである。しかし、大地の生産物の半分が気まぐれな欲求のために消費されれば、後は欠乏が生じ、人間は驚かされることになる。もし飢餓のために、物が手に入らなくなったら、誰に向かって文句を言うのか。もう一度繰り返す。大自然に備えがないわけではない、人間が大自然の賜物の使い方を心得ていないのである」
ーーー<大地の賜物>この言葉は、単に土からの産物と受け取ればいいのですか。
「土は一切の生産物の源である。事実、すべての物は土から生まれた物の色々な変形なのである。この故に、人が此の人生で手に入れる物一切は、<大地の賜物>として理解すべきである」(明日に続く)
今回は自己保存の方法という内容である。神様が
生きていく手段を人間に与えられたのは、人間に生命の愛を植えつけたからだと言われている。なので、
人間にそれが見えないとしたら、周囲の資源を利用する方法を知らないからなのだと言われる。神様は大地に、生きる上で必要な物を、そしてすべての生き物を充たすのに十分な再生産力を与えて下さっていると言われている。それなのに人間は母なる大地に、感謝の心もなく顔を背けていると言われ、更に人間は大自然にぶつくさ文句を言うと呆れておられる。それは、大自然に文句を言う前に自分のまずさのせいであると、自分の配慮の不足のせいと反省すべきだと言われる。仮に人間が満足の心を持つこと出来れば、大地は必ず必要な糧を産み出してくれるのだと言われている。また、必要な糧のすべてが手に入らないとしたら、それは、人間が必要のために産み出された物を湯水のように使っているからだとも言われる。大地の生産物の半分が勝手な欲求のために消費されれば、欠乏のみが生じ、人間は驚かされることになるとのことだが、飢餓のために、物が手に入らなくなったら、誰に対して文句を言うのかと人間に厳しく言われている。そして再度肝心なことを繰返えされる。大自然に備えがないわけではないと、人間が大自然の賜物の使い方を心得ていないのだと。私達人間は心に深く刻む必要があるのだと思う。そして、更に大事なことを言われている。人がこの人生で手に入れる物一切は、大地の賜物として理解すべきであるのだと
。今は農作物は困窮している問題を抱えている。政府は農作物にお金をかけるよりも、コオロギ食に補助金を与えているが、今回の内容からも、間違っていることは明白なのだと思う。コオロギは人間の食べる物ではないと私は思っている。
1107回目の瞑想
ーーー生産の資を欠いている人達が常に存在します。豊かさが満ちている中においてもです。これは誰のせいですか。
「場合によっては、人が他者に対して公正でなくなる利己主義のせい。またある場合には、この方がもっと多いことがあるが、自己自身のせいである。キリストは申された<求めよ、さらば与えられん>と。この言葉は、欲しい物を見つけるために、目をべったりと土に向けておけという意味ではない。人は望むものを追求せよ、倦あぐむことなく、熱望と忍耐をもって、どんな障害があっても決して挫けてはならぬ、これぞ人の忍耐と信念と節操の試金石であるから、こうした意味である」
ーーー働く意欲の起こらぬ職場、働いても必要なものも手に入らぬ仕事、そのようなものがありますか。
「ある。それは試練である。しかし、どんなに辛くても、そこの人達は、霊界に在った時に、それに耐えねばならぬことを知っていたのである。その価値は神意に素直であること、これである。もしも彼が知性の働きで、その苦しみから救われる道を見出さねば、死が近づく時、その事に愚痴は起こるまい。そしてこう思うであろう、いま解放の時が近付いている、最後になってボヤいたら、折角の忍従の成果を失うことになろうと」
ーーー飢餓から逃れる道が外にないので、仲間を食べてしまいました。これは罪悪であるか。そうだとしても、異常な自己保存の本能のしたことで、罪は減ぜられますか。
「この質問には、前に答えた通り、人生の試練はすべて勇気と自制をもって服すべきこと。この件では、殺人と自然違反の罪の二つがある。二重の罰を受けるべき二重の罪が」
ーーー地上より精妙な身体器官を持っている人々が住んでいる世界で、彼等住人は食物の必要がありますか。
「必要がある。但し、その食物は彼等の身体の自然に一致したものである。そこの動物は、諸君の鈍重な胃袋にとっては、食物の用をなすまい。逆に、そこの住人達は諸君等の濃厚な食物を消化できまい」
今回も自己保存の方法の続きである。
豊かさがある世の中でも、生産の資を欠いている人達について、もっとも多い原因は
自己自身のせいであると言われている。また、人が他者に対して公正でなくなる利己主義のせいであるとも言われている。キリスト様の言われたことを例に挙げられて、そのお言葉の真意とは、欲しい物を見つけるために固執するのではなく、望むものを追求し、飽きずに熱望と忍耐をもって、どんな障害があっても決して挫けてはならないということだと言われており、これこそが人間の忍耐と信念と節操の試金石であるという意味なのだと断言されている。
次に
働く意欲が湧かない職場や働いても必要なものが手に入らない仕事というのは、試練だと言われている。けれど
、どんなに辛くとも、そのような体験は霊界に在った時に、それに耐えなければいけないことを知っていたとのことなのだ。そして、その価値となるのは神意に素直であることと断じておられる。例えば人が知性の働きで、その苦しみから救われる道を見出すことができれば、死が迫った時に愚痴ることはなく、それよりも、肉体からの解放の時が近付いている今、最後にボヤくことは、折角の忍従の成果を失うことになることなのだと言われている
。これがこの世に生まれた本当の意味であり、意義なのだ。次の質問は唐突で衝撃な内容だ。だが、実際飛行機事故で孤立してしまった際に人肉を食べたという事件があったように思う。この時は死んだ人を食べたので、殺人の罪にはならないにしても、自然違反の罪になるのだろうか。ただ、人間であれば、人肉を食べたいなどと思う人はいないと思う。けれど、人間が空腹の限界を超えた時の状態を私自身も経験したことがないので、罪だとわかっていても、自分がどうなるかはその状態に置かれてみないと全くわからない。
最後の質問では、そのような精妙な世界に住みたい思いになってしまった。そのような世界であっても食物の必要はあるようだが、こちらの世界の食物とはかなり違うようだ。今は濃厚な食べ物は欲していないので、そちらの世界の食べ物を食べてみたいと思ってしまう。来世はそのような世界に生まれたいものだ。
1108回目の瞑想
ーーー人にはすべて大地の産物を使用する権利がありますか。
「生きねばならないのだから、権利がある。神は生きるよう命じておられるから、生きるための手段を与えておいでになる」
ーーー神はなぜ、人間の心に、物質享楽の魅力を植えつけられたのですか。
「先ず、人間の心をそそり、神の使命を果たす者となるよう。第二に、人間を試みに合わせるため」
ーーーこの試みの目的は何ですか。
「理性の開発、彼が度を過ごさぬ者となるよう、そのためである」
ーーー物質享楽の適正な限度を、大自然は何か教えていますか。
「左様、人間の必要とするところ、その幸福、そこが限度である。これを人が踏み外す時、飽きてしまい、果ては罰を受ける」
ーーー人為的な細工や工夫で、物質享楽の度を高めようとする者達、これは如何考えられますか。
それは羨むべきでなく哀れむべき者、気の毒な卑しい者、左様考えられよ。と申すのは、彼は死の傍に居る」
ーーーそれは肉体の死ですか、精神の死ですか。
「両方の死である」
今回は大地の賜物の享受についての内容である。神様は人間に生きるよう命じておられるとのことで、生きるための手段を与えて下さっている。それが、大地の産物を使用する権利だと言われているのだ。
また神様が人間の心に物質享楽の魅力を植えつけたのは、
人間の心をそそり、神様の使命を果たす人になるようにとのこと。そして第二は、人間を試みに合わせるためだと言われる。そ
の試みとは、
理性の開発、また度を越えない人となるためであると。更に
物質享楽の適正の限度は、
人間の必要とするその幸福が限度であるとのことだ。これを人が踏み外すしてしまい、飽きがくると、果ては罰を受けるとのこと。
人為的に細工や工夫をして、物質享楽の度を高めようとする人達については、
羨むべきでなくて、哀れむべき者、気の毒な卑しい者と考えなさいと言われている。と言うのは、その者は死の傍に居るからと。しかも
それは肉体の死でもあり、精神の死でもある
両方の死であると言われている
。
1109回目の瞑想
ーーー必要な物の限度は、どうすれば分かりますか。
「賢者は直感でそれが分かる。それ以外の者達は経験で知る。それも、ひどい目にあって知る」
ーーー身体的要求の限度は、自然が示してくれるようになっていないのですか。
「左様、そうなっている。だが、人間は飽くことを知らない。身体は限度を教えてくれたのだが、悪徳によって体質が悪化しており、本来は必要としないものまでも欲しがらせる」
ーーー自分の欲得のために、生活に事欠く人々を犠牲にしてまで、地上の物資を独占する人々がいます。これをどう思われますか。
「彼等は神法を忘れている。彼等は他者から搾取したものについて、後日、答えねばならなくなろう」
今回は必要と過剰についての内容である。必要な物の限度については、賢者は直感で分かると言われ、そうでない人は経験で、それもひどい経験で知ると言われている。身体的要求の限度は自然が示してくれるようになっているにも拘わらず、人間は欲深いと言われ、身体はちゃんと限度を教えてくれているのに、すでに悪によって体質が悪化していて、必要としないものまで欲しがるようになっていると言われている。また、生活に貧している人達を犠牲にして、自分の欲得を貪る人々は、神法を忘れており、いずれ、犠牲にした人達から搾取したものについては、罪を償わなければいけなくなると言われているのだ。それは当然のことと思う。今の世はまさにその事が浮き彫りにされているように思う
。
1110回目の瞑想
ーーー自己保存の法によると、自分の肉体の要求に応えることは義務ですか。
「左様、健康と体力がなければ、労働をすることが出来ないから」
ーーー地上生活の喜びや享楽を追求することは、良くないことですか。
「物質的幸福を望むことは、人間の自然である。神の禁じられるのは度を過ごすことである。過度は自己保存には有害だからである。人間が享楽を求めても、神はこれを罪とは為されぬ。もしその享楽が他者を犠牲にして得られるのでなければ、また、本人の精神や肉体を弱める性質のものでなければ」
ーーー罪滅ぼしの意味で、耐乏生活することは、神の見地から見て価値がありますか。
「他者のために善い事をしなさい。それはどんな耐乏生活にも増して、価値があることである」
ーーー価値のある耐乏生活がありますか。
「ある。つまらぬ悪習に対する禁欲、これは物質に対する執着を弱め精神を高めるからよろしい。価値があるのは、無益なものに深入り耽溺する誘惑に対する抵抗である。この場合は、困っている人に与えるため、必要なものまでも切り詰める。もし耐乏が見せかけだけなら、徒労である」
ーーー過去いつの時代にも、またどの民族の中にも、禁欲的難行苦行の生活を送った人達がいました。こういう生活はある観点からすれば価値があるのですか。
「人のそのような生活が、貴方に役立っているか、胸に手を当てて考えてみられよ。自ずから回答が得られよう。その生活が単に本人だけのため、本人はそのために他者に役立つことをしないのなら、それは単なる自己主義にすぎない、その人がどんなにうまい口実でそれを弁護しても、難行苦行と申すものは、世のため人のために、自らに耐乏と労働を課すること、これである」(明日に続く)
今回は耐乏生活についての内容である。人間の肉体は健康と体力がなければ、労働をすることは出来ないと言われ、自分の肉体の要求に応えることは義務だと言われている。また、地上生活の喜びや享楽を追求すること、即ち、物質的幸福を望むことは、人間の自然の欲求であると言われ、神様が禁じられているのは度を越すことであると言われる。それは過度は自己保存には有害だからとのことだ。神様は、その享楽が他者を犠牲にして得られるのでなく、また本人の精神や肉体を弱める性質のものでなければ、人間が享楽を求めても、これを罪とは為されないと言われている。
罪滅ぼしの意味であっても、耐乏生活することよりも、他者のために善い事をしなさいと言われている。それはどんな耐乏生活にも増して、価値があることなのだと、かなり強調されて言われていたのではないかと思う。
価値のある耐乏生活というのはあると言われ、
つまらぬ悪習に対する禁欲、これは物質に対する執着を弱め精神を高めるからよいと言われている。また価値があるのは、無益なものに深入り耽溺する誘惑に対する抵抗だと言われる。この場合としての例を挙げて下さっているが、困っている人に与えるため、必要なものまでも切り詰めるとのことだ。ここまでのことが出来る人というのは、やはりキリスト様やお釈迦様くらいのレベルの方なのではないだろうか。
次に禁欲的難行苦行の生活を送った人達に対してだが、荒行をされている人にも同じ事が言えると思う。それが単に本人のためだけのものなら、自己主義であると。難行苦行と言うのは、世のため人のために、自らに耐乏と労働を課することなのだと断じておられる。要するにどんな難行苦行をしたとしても、人のために役立つことにつながらなければ、何の価値もないということなのだ。前出した困っている人に与えるために、自分の必要なものまでも切り詰める、このような事以外、価値のある難行苦行はないということなのだ。
1111回目の瞑想
ーーー幾つかの民族で実施されていることですが、ある種の食物の禁止、あれには尤もな根拠がございますか。
「健康に有害でない限り、何を食べようと、これは許される事である。立法者は有用な目的のためにその禁止をしたかも知れぬ。また、その禁令に重みをつけるために、神の御意志のように申したかも知れぬ」
ーーー肉食は自然の法に反しますか。
「人間の体質から申して、肉は肉体を養うに役立つ。これがないと、人間の体力は衰える。自己保存の法から申して、人間は自己の健康と体力を維持する義務がある、労働の法を実行するためにである。従って、人間は人体の要求に応じて食事をとるがよろしい」
ーーー動物その他、特定の食物を、罪滅ぼしの意味で禁止することは、何か効用がありますか。
「他者のためにそれを実行するのなら、結構。ただ、神は、忍従を伴わないもの、真剣にして有用な目的のないもの、そのような苦行は一切よしと為されぬ。この故に吾等はかように申しておる。上辺だけの断食を行う者は偽善者であると」(明日に続く)
今回も耐乏生活の続きである。食物の禁止について、健康に有害でない限り、何を食べようと、これは許される事だと言われている。そして次のお答えには少々びっくりだった。それは肉食についてだが、人間の体質を考えて、肉は肉体を養うに役立つと言われているのだ。更に、肉がないと人間の体力は衰えると言われる。自己保存の法からも言えるとされ、人間は自己の健康と体力を維持する義務があり、労働の法を実行するためには人間は人体の要求に応じて食事をとることがいいと言われているのだ。最初はこのお言葉に、シルバー・バーチ霊とのお言葉とは違っていて本当なのかとさえ思ってしまった。それはシルバー・バーチ霊は肉食は良くないと言われていて、肉食が良くないことを知っていて肉食すれば、それなりの償いがあると言われていたからだ。だが、その時にも思ったのだが、肉食を好むのではなく、摂取しなければいけない人もいるだろう、そういう人はどうすれば良いのだろうと。なので、今回のお言葉は、そういう方にとっては救いとなるのではないだろうかと思ったのだ。もちろん、そう言う方だけではなく、働き盛りの方なども、今回のお言葉で言われている通り、肉食は肉体を養うのに大事な役割を担っていると思うからだ。私はもう何年も肉食はしていないので、今更、食べたいとも思わないので、このままで行くと思うが、まだ食べ盛りだったり、働き盛りの人はお肉を食べたからと言って、問題はないのではないかと今回のお言葉で思った次第である。また、罪滅ぼしの意味で
動物その他、特定の食物を禁止することについては、
他者のために実行するのならよしとされる。けれど、神様は忍従を伴わないものや有用な目的のないものなど、そのような苦行は一切よしとされないと言われている。上辺だけの断食を行う者は偽善者であると断じておられるのだ
。
1112回目の瞑想
ーーー人間や動物の身体を切断することについて、どのようにお考えですか。
「何のためにこのような質問をするのか、ほどほどにされたい。その事が役に立つのか立たぬのか、自分に問いなさい。有用でないものは神の喜ばれる筈がない。有害なものは神はこれを嫌い給う。神は、人の魂を神へと高めるもの、この事のみを喜び給うこと、しかと肝に銘じられよ」
ーーーこの世の苦を、私共が耐えさえすれば、進歩出来るものなら、自分で作った苦によっても私共は進歩しますか。
「人を進歩させる苦とは、自然に自分に降りかかってきたものだけである。それは神が本人に課せられたものであるから。自分が作った苦は、それが他者の役に立たなければ、無意味である。仏教の苦行僧、回教の托鉢僧、諸々の狂信者の行う異様な苦行、そのために生命を縮める者達が、それで進歩を早めているとお考えか?彼等は何故に他者のために役立つ仕事をしないのか?着物のない者に着物を与えよ、悩んでいる者に慰めを与えよ、病む者のために働け、貧しい者不幸な者のために自ら窮乏に耐えよ。これが価値ある生活であり、神はこれを喜び給う。自己目的のために自ら苦しみを作る者は、単なる利己主義である。人が他者のために苦しむ時、愛の法に従っている。キリストが申された事はこの事である」
ーーー人のためにはなりもせぬ苦しみを、自分で作っていけないのなら、自分で予感する苦しみ、我々を脅かす苦しみ、これらは受け流す努力をすべきですか。
「自己保存の本能が、危険や災いから身を守るように、すべての生物に与えられている。霊に鞭打て、肉体にではなしに。高慢の鼻をへし折り、心に食い入る利己を克服せよ。この方がよほど進歩のためになる、少々の断食で身をすり減らして得るものよりも」
今回も耐乏生活の続きである。最初の質問は愚問であろう。普通に考えて至極当然のことを言われている。またこの世の苦について、私達人間が進歩できる苦とは、神様から課せられた自然に自分に降りかかってきた苦だけだと言われている。自分で作る苦は、それが他者の役に立つものでなければ無意味だと断じられている。その例として書かれている自己目的の苦行は単なる利己主義であると言われる。目から鱗であった。他者のために苦しむことこそ、愛の法に適っていると、イエス様が言われたのはこの事だと言われているのだ。更に自己保存の本能で、危険や災いから身を守るように、すべての生物には与えられていると言われているが、肉体ではなく、霊にこそ鞭打てと、高慢な鼻をへし折れと、そして、心の利己を克服することが、少々の断食で身をすり減らして得るものよりも、よほど進歩のためになるとのことなのだ
。
1113回目の瞑想
ーーー破壊は自然法ですか。
「すべてのものは破壊されること、これが必要である。その再生と更新のために。諸君の言う破壊とは形の変化にすぎない、その目的は生命体の刷新改善にある」
ーーーでは、破壊本能は神慮によって、すべての生き物に与えられた、このように思われますが。
「神の創造物は、神がその目的を遂げられるための道具である。生き物達は食物のためにお互いを滅ぼし合う。それがなければ殖え過ぎてしまうだろう。こうして再生産の均衡がこれで守られている。そのために、外衣である身体が利用されている。この外衣と申すは装飾にすぎぬのであって、肝心な部分、思考する生命ではない。破壊されるのは、この外衣の部分にすぎぬ。この肝心な部分、知性原理これこそは破壊されぬもの、また、これは通り抜ける数々の変容の過程を経て、入念に仕立てられていくもの」
ーーー生物の再生のために破壊が必要なら、どうして自己保存などというものが生物にはあるのですか。
「破壊つまり死が、起こるべき時以前に起こらないように。早すぎる破壊は知的原理の発達を遅らせる。この故に、神はすべての生き物に、生と生殖の意欲を与え給うた」(明日に続く)
今回は必要な破壊と不条理な破壊についての内容だ。破壊=死は、すべてのものに再生と更新のために必要だと言われている。破壊=死は、形の変化にすぎないと。そしてその目的は生命体のそれまでの弊害などを除き、全く新しいものに改善されるためだと言われている。また、神様が創造されたすべてのものは、神様の目的を遂げるための道具であると言われ、再生産の均衡が守られるようになっており、そのために外衣である身体が利用されていると言われる。なので、破壊されるのは、装飾である外衣の部分であって、思考する生命ではないと断言されている。要するに霊または魂は破壊されることはなく、数々の段階を通り抜けて行く時に変容の過程を経て、完成に近付いて行くということなのだ。更に、破壊=死は必要であるが、早すぎる破壊は知的原理の発達が遅れると言われ、破壊が起きる時以前には起こらないようにするために自己保存があるのだと言われる。神様はすべての生命に生と生殖の意欲を与えて下さっているとのことだ。
1114回目の瞑想
ーーー死によって私共は一層良い生活に入れます。死によって私共は現世の苦から解放されます、従って死は恐るべきものでなく願わしいものです。しかるに何故、人は身震いする死の恐怖の本能を持っているのですか。
「前に申したことがあるが、人間は長生きして、仕事の達成を求めるべきである。この目的のために、神は人間に自己保存の本能を与え給うた。この本能があるから、人間は試練に耐えている。だが、そのために随分と、心が萎えてしまうこともあるが。内在の声が彼にささやく、死に負けるなと、進歩のためにもうひと踏ん張りせよと。危険な目に合うことがあるが、あれは警告である、神から与えられていると寿命を生かしてしっかりやれという。しかるに、人は感謝もせず、神よりも自分の運に感謝する始末である」
ーーー自然はなぜ自己保存を破壊の二つを、並べて置いたのですか。
「前に申した通り、平衡を保つため、その二つが釣り合う力となるのである。病気と治療の二つは並んで置かれている」
ーーー破壊は何処の世界においても、同じ様なものですか。
「それは夫々の世界の物質的レベルによって違いがある。上の方の、物質的にも精妙で、精神的にも浄化した世界では、破壊はなくなる。地上より進化した世界では、情況はすっかり違うのである」(明日に続く)
今回も必要な破壊と不条理な破壊についてである。最初の質疑応答の質問にあるように、すべての人間が分かっていれば、死を恐怖に感じることはないのだ。霊的真理を理解し、神法に則った生き方をしていれば、自然と神様に感謝し、謙虚になれるのだと思う。だが、人間の多くは、霊的存在であることに全く気付いていない。それが死を恐れる原因と言わざるを得ないのだと思う。相反する自己保存と破壊があるのは、平衡を保つためと言われ、その二つの釣り合う力が平衡を保つのだと言われる。それは病気と治療にも言えるとのことだ。
世界の物質的レベルの違いにより、破壊も違いがあると言われ、物質的に精妙で、精神的に浄化した世界では破壊はなくなると言われる。また地上より進化した世界の情況は全く違うと言われている。早くそのような世界に行ってみたいものである
。
1115回目の瞑想
ーーー地上の人類にとって、破壊は常に必要なものですか。
「人間の霊が物質の主となっていく割合に応じて、破壊の必要は減っていく。それ故、人間が知性や精神を外に発揮するという事は、破壊の怖れが付きまとうという事だ」
ーーー現況において、人間には、動物を無制限に殺戮する権利がありますか。
「食用のため、人間の安全のため、これ以外は権利ではない。乱用は権利とは申せない」
ーーーその必要とか安全を超えた破壊は、如何なものでしょう。例えば、狩猟、良い目的などではなく、ただ殺戮の楽しみだけで、ちょいちょい出かけるような場合。
「それは獣性が霊性を支配している状態である。必要を越える破壊は、すべて神法違反である。動物は必要を限度として他を殺す。しかし、人間は自由意志があって、不要な殺戮を行う。人間はこのような自由の乱用の責任を問われることになろう。人間はむしろ戒めるべき悪の本能に、こうして身を委ねているのだから」
ーーー動物の生命を奪うことについては、極端に神経質になる人がいますが、これは良いことですか。
「その事自体は立派だが、余り神経質になりすぎるのは、神経の乱用である。従って、その効果は差し引きゼロとなる。その気持ちは、真実の愛というより、迷信的恐怖の所産なのである」
今回も必要な破壊と不条理な破壊の続きである。最初の質問のお答えは何度か読んだが、意味がよくわからなかった。動物の殺戮については、食用や安全のためには、権利があるとのことだ。それ以外は権利はないと断言されている。乱用などは論外だろう。昔から狩猟などあったようだが、これは単なる殺す楽しみでしかないと私も思っていた。それは獣性が霊性を支配している状態だと言われ、更に必要を越える破壊はすべて神法違反だと断じておられる。当然のことだと思う。動物においては、必要を限度として生きるために他を殺すと言われ、人間の不要な殺戮には必ず責任が伴うと言われている。人間は動物よりも理性があるはずで、悪への本能は戒めなければいけないのに、その悪の本能に身を委ねている、とのお言葉に呆れ果てておられるのではないかと思う。また、反対に動物の生命を奪うことに、とても神経質な人についてだが、その考えは立派であっても、神経質のなりすぎは神経の乱用であり、その効果は差し引きゼロになると言われているのだ。というのも、それは真実の愛というよりも、迷信的恐怖の所産だと言われている。どのような事でも、過度なことや度を越すようなことは、神法違反ということなのだろう。
1088回目の瞑想
ーーー自分の信じていない宗教の儀式を行うのは良くないことですか。それは関係者の信仰は違ってもその人に敬意を表して行う場合ですが。
「この場合は、何れの場合もそうだが、どんな意図で行うのか。その気持ちが問題である。その人の信仰に対する敬意で行うのなら、それは間違いではない。それを物笑いの種にするような者に比べれば、それは遙かに良い。後者は愛を欠いた罪である。しかし、単純に興味本位のためとか、見栄のためとかで行えば神の目からも人の目からも、賤しむべきことである。人に良く思われたいために、唯々神の前に平つくばって見せる手合いを、神が喜ばれよう筈がない」
ーーー礼拝は一人でするより、集まってやった方がよろしいか。
「思想や感情が同じ者達が一堂に集まれば、善霊を引き寄せる力は一層強くなる。神の礼拝の場合も同じ事である。しかしそのために、個人の礼拝は価値が低いと早合点してはいけない。個人の場合は、その人の思い通りの礼拝が可能になるのである」
今回も崇拝の実践の続きである。自分の信じているのとは違う宗教の儀式を行うことについてだが、どの場合でも同じで、どんな意図で行うのかという、その気持ちが問題であると言われている。そして、相手の信仰に対する敬意で行うのならば、それは間違いではないと断言されている。あってはならないが、それを物笑いの種にするような者に比べれば、それは遙かに良いと言われ、後者は愛を欠いた罪であるとまで言われているのだ。更に、興味本位のため、見栄のためなどで行えば神の目からも人の目からも、賤しむべきことであるのだと。これは人間として、あり得ないと思う。まさに人に良く思われたいためだけに、唯々神様の前に平つくばって見せたとしても、神様が喜ばれる筈がないのは明白だ。
礼拝は一人より、大勢でした方がいいのかについては、思想や感情が同じ人達が一堂に介せば、善霊を引き寄せる力は一層強くなると言われ、神様の礼拝の場合も同じ事であると言われている。けれど、個人の礼拝は価値が低いと早合点してはいけないと。個人の場合は、その人の思い通りの礼拝が可能になるのであると言われている
。だが、このお言葉には少し疑問が残る。思い通りの礼拝が可能になったとしても、それは自分よがりになってしまう場合もあるだろう。そうなると善霊を引き寄せることなど出来はしないのではないかということだ。真摯な態度での礼拝であれば、個人と言えど、神様に善霊に届くということなのだと思うのだが
。
1089回目の瞑想
ーーー悪を為さず、神にのみ思いを向け、瞑想の生活に沈潜している者は、神の目よりする時、格別の功があるものですか。
「そうではない。彼は悪を為さない、ということは善を為さないという事である。更に付言すれば、善を為さぬとは、それ自体が悪なのである。神は、その子等が神を思うことを望み給う。しかし、神のみを思う事を望み給わず、神は人間が大地の事に関わるよう務めを与え給うているから。瞑想と観照にその人生を消費する者は、神の目よりすれば、何の役立つことをしていない。何となれば、その人生は自分一人のもので人類に何も役立っていないから。されば、神はその者が為さなかった善事の計算書を提出するように求められる」
今回は瞑想の生活についての内容である。この内容は本当に手厳しいように感じた。悪を為さない、ということはひいては善を為さないということであると言われ、善を為さないことは、それ自体が悪なのであると。これは救いようがないのではと思ってしまう。悪を為さないということでは嘉しとされないのだ。善を為すことがこの世に生まれてきた使命ということになる。私達人間が神様を思うことは神様も望まれている。だが、神様のみ思うことではいけないと、神様はこの地球において人間に務めを与えおられるからと言われている。瞑想や観照のみにその人生を終わらせる人は、神様の目からすれば、何の役立つことをしていないと言われ、その人生はその人一人だけのものであり、人類に何も役立っていないと言われている。故に、神様はその人が為さなかった善事の計算書を提出するように求められると言われているのだ。要は瞑想やお祈りだけに終始し、拘っていてはいけないということだ。他人に善いと思われることは、どんどん実行して行くべきで、それが私達人間の使命であると言われているのだと思う。
1090回目の瞑想
ーーー神は祈りをきいて下さいますか。
「心からの祈りなら、神は常にこれを聞き入れ給う。願うところのものはすべて神の御手の中にあるから。そして心よりの祈りなら読書に勝る、どんなに美しくそれを読もうと、頭の中だけでなく声を出してそれを読もうと、信と愛と誠意を込めて祈れば、神はこれを聞き届け給う。しかし、高慢で利己的で虚栄的な人間の祈りに、神は耳を傾け給わず。しかし、その者の祈りが悔恨とへりくだった気持ちから出たものなら別である」
ーーー祈りとは一
体何でしょうか。
「祈りは崇敬の行為である。神に祈ることは神を思うこと、神に近付くこと、自己と神を一つに結び付けること。祈る者は三つの事をしている、神を褒め称えること、求めること、感謝」
ーーー祈って人は良くなるものですか。
「左様。熱意と確信をもって祈る者は、悪の誘惑に耐える力を得、善霊の助力を受け取る力を更に増す。真剣に求める者は例外なくこの助力を受ける」
ーーー沢山のことを祈る者は、得てして嫌な奴で、ひがみっぽく、嫉妬深くて、荒っぽく、愛も慎みもなく、ひどく背徳的でさえある、これはどういう事でしょうか。
「大切なのは沢山の事を祈ることでなく、正しく祈ることである。そのような人物は、祈りの効き目はその長さにあると、自分の欠点に目をつぶることであると、かように思っている。彼等のとって、祈りは仕事であり、暇つぶしであって、学ぶことにはなっていない。このような祈りは癒やしとはならず、形だけのものである」
ーーー神に自分の過ちの許しを請うことは有効ですか。
「神は善人も悪人もお見通しである。祈ったとて神の目から過ちが消えることはあり得ない。自己の過ちの許しを神に求める者は、その行いを変えることで、その許しを得る。善を行うこと、それは最高の祈りである。何となれば、行為は言葉に勝るからである」
ーーー他者のために祈ることは効果がございますか。
「祈る者の霊は、その善への願いによって、影響力を発揮している。その祈りが善霊達を引き寄せる。善霊達は本人の願う善行に参加協同する」
[注解] 我々は、その思念や意志によって、地上を越えて働く行為の力を、内部に持っている。他者への祈りは我々の意志の行為である。もし我々の意志が熱烈で真剣なら、その祈りに応じて善霊達が集まり助けてくれる、良い想念を示唆したり、必要な体力精神力を与えたりしてくれる。ただこの場合も、心を込めた祈りが条件である、口先だけのものは何のしるしもない」(明日に続く)
今回は祈りという内容である。神様は心からのお祈りなら、常にお聞き入れて下さるとのことだ。それは願うものはすべて神様の御手の中にあるからだと。なので、信と愛と誠意を込めて祈れば、神様はお聞き届け下さるのだ。けれど、高慢であったり、利己的であったり、また虚栄的な人間の祈りには、神様は耳を傾けられないと言われている。但し、その人のお祈りが悔恨であり、謙虚な気持ちから出たものなら別だと言われている。そういう場合は、神様はお聞き入れ下さるのだろう。そして、祈りについてだが、祈りは崇敬の行為であると。神様に祈ることは神様を思うことであり、神様に近付くことになり、自己と神様を一つに結び付けることだと言われている。そして、祈る人は三つの事をしているのだと。それは神様を褒め称えること、求めること、感謝だと言われている。このようなお言葉から、神様にお祈りすることの意義を感じて、気持ちが強まった。そして更に熱意と確信をもって祈る人は、悪の誘惑に耐える力を得ることができ、善霊の助力を受け取る力を更に増すと言われ、真剣に求める人は例外なくこの助力を受けるとのことなのだ。例外がないということは、凄いことなのだと思う。もちろん、その熱意や確信の強さには、差はあれど、ただひたすらに真摯に求めることが大事なことなのだと思う。ただ、お祈りに効果があるからと言って、長ければいいということではないと言われている。大切なのは正しく祈ることと言われており、これが一番大切なことなのだ。お祈りを形だけのものにはせずに、癒やしにしなければ意味がないのだ。また、神様に自分の過ちの許しを請う人は、その行いを変えることで、その許しを得るとのことだ。それも善を行うことが、最高の祈りであるとのこと。それは、行為こそは言葉に勝るからであると言われている。これは善を行うことについては、一貫して言われていることなので、人間にとって一番肝心なことなのだ。また、
他者のために祈ることは
、その善への願いによって、影響力を発揮すると言われ、そのお祈りが善霊達を引き寄せるのだと。そして、善霊達は本人の願う善行に参加し、協力してくれるのだ。これまた強力な助っ人が協力してくれるということで、他者のお祈りをすることの大切さを教えて下さっている。
注解はこの内容を要約してくれている。
1091回目の瞑想
ーーー自分のために祈れば、試練を回避したり、試練の性格を変えたり出来ますか。
「人の試練は神の御手の内にある。その中には最後まで耐え忍ばねばならぬものもある。しかし、神は常にその忍従を心に止めていて下さる。祈れば善霊が救いの手を差し伸べてくれて、勇気を与え力を与え、その苦しさを和らげてくれる。真摯な祈りに応えられぬものはない。何となれば、それに応える力は必ずや重要な結果をもたらしてくれるものだから。『天は自ら助ける者を助ける』これは真実である。神はその子供達の願いによって、自然の秩序を変更なさろうとすればお出来になる。何となれば、元々世の不幸といい、人間の狭い視点や有限の命からすれば大不幸に思えるのであって、宇宙的秩序に立てば大幸福であるのだから。それに人間の悩みと申すのは、人間の近視眼と過ちのせいで、いかに多く人間が次々と創作していることか。人は己が犯した罪の中で罰せられるもの。それにも拘わらず、神は人の筋の通った願いなら聞き入れておいでになる。人は自分の祈りは重視されたと思い込んでいる。それは神が自分のために奇蹟を起こされたことが、これまでなかったから。だが、人は意想外に多く神の助けを受けている。それが余りに自然な方法なので、人はこれを偶然だとか、自然の成り行きと思っているだけだ。いやそれ以上に、神は人の心にささやきかけておいでになる、その者を難儀から救い出すために、かようにすればよいぞというその思念を」(明日に続く)
今回も祈りの続きである。自分のためのお祈りは、善霊が救いの手を差し伸べて下さり、勇気や力を与えて下さり、その苦しさをも和らげて下さると言われている。そして、真摯な祈りに応えられぬものはないと断言して下さっている。これには本当に有難い思いになる。しかも、それに応える力は必ず重要な結果をもたらしてくれるものだからと。けれど、人間の試練は神様の御手の内にあり、その中には最後まで耐え忍ばねばならないものもあると言われる。やはり真摯なお祈りをしても自分が進化するための試練は乗り越えなければいけないということなのだろう。それでも、神様は常に私達の忍従を心に止めおかれておられるのだと言われている。『天は自ら助ける者を助ける』このお言葉は真実とのこと。やはり自分で先ずは乗り越える努力をしなければ誰も助けてはくれないということなのだ。そして神様は私達人間の願いによって、自然の秩序を変更なさろうとすればお出来になると。ただ、このお言葉だが、シルバー・バーチ霊は神様が創った自然の法、摂理と言えど、変更することは出来ないと言われていた。どちらが真実なのかはわからないが、一応頭に入れておこうと思う。そして、世の不幸は、人間の狭い視点や有限である命からすれば大不幸に思えるのだと言われ、宇宙的秩序に立てば大幸福であると言われているのだ。更に人間の悩みと言うのは、人間の近視眼と過ちのせいであり、いかに多く人間が次々と創作していることかと嘆かれている。そして、人は己が犯した罪の中で罰せられるものだが、それにも拘わらず、神様は人の筋の通った願いなら聞き入れておいでになるとのことなのだ。それなのに私達は自分の祈りが重視されたと思い込む。それは神様が自分のために奇蹟を起こされたことがこれまでなかったからだと。私達は意想外に多く神の助けを受けているのだそうだ。それが余りに自然な方法なので、私達は偶然とか、自然の成り行きとかと思っているだけだなのだと言われている。更にそれ以上に、神様は私達の心にささやきかけておいでになると言われ、その人を難儀から救い出すために、このようにすればよいぞという思念を下さっていると言われているのである。
1092回目の瞑想
ーーー死者のために祈ることは、苦しむ霊のために祈ることは、効果がありますか。もしあるとすれば、どんな祈り方をすれば、その苦しみを和らげ小さくすることが出来ますか。祈りに、神の裁きを逸らす力があるのですか。
「祈りによって神の計画を動かすことは出来ない。しかし、祈る相手の霊は祈りによって慰められる。それは、この祈りによって、霊は自分に向けられている関心を知るから。それに、苦しむ者は自分の苦しみに共感してくれる心遣いに、常に深く心が慰められるものだから。また一方では、この祈りがその霊に改悛の思いをそそり、潜在している幸福になりたい願いをかき立てるのである。もし霊の方でその気になって、その祈りに力を添えるなら、この時霊の苦しみの期間は短縮される。祈りによって、苦しむ霊の心中に引き起こされた改善の意欲に、高級の諸霊をその霊の方へ引き寄せる。諸霊は来て彼に光明を注ぐ、これに慰め希望の光を点ずる。イエスは迷った羊のためにも祈った。これをもってする時、諸君も諸君の祈りを必要とする者のために祈らねば、咎ある者となろう」
ーーー死者のための祈りは、聖書で指示されていないから認めない、こういう意見がありますが、どうお考えですか。
「キリストは人類に対してかように申された<互いに愛せよ>と。この戒めは、すべての者が出来る限りの愛を、互いに分かち合うべきことを申されている。但し、何から何までべったりと世話をやけとまでは申しておられぬが。もし、神の象徴である神の絶対の裁きが、霊の行った行為に必ず下ること、この神の手を止め得ないとすれば、次の事はまた真実であろう。即ち、人が愛と共感によって苦しむ霊のために、神に捧げる祈りは、神によって必ずや受け入れられる、誤ることのない苦しむ者への救いと慰めの手が必ずある、この証拠として。霊がもし一粒の罪なりともその改悛の思いを示せば、立ち所に、救いの手が向けられる。この時この霊は気付く、自分のために一つの愛の心が働いていたこと、その心に支えられ助けられ、今もそれは慰めの心として自分の中に在ることを。このように人が霊のために行う取りなしは、助けてくれた者への感謝と愛の心をひき起こさせる。キリストが万人に課した相互愛は、このようにして、その人とその霊との間に目覚め発展していく。双方は宇宙がすべての上に課している、愛と一体の法に従う者となる、これぞ霊の進化の目的であり、終点である一体化の時の到来、その神法に従った者となる」
ーーー霊に向かって祈ってもよろしいですか。
「善霊に向かって、神の使徒であり、神の御意志の実行者として、これに祈ってもよい。しかし、その力は(進歩の程度に応じた程度のものだが)万物の長である神に依存している。神の許しなくして何事も起こらないのである。この故に、諸君が霊に祈った場合、神が受容なされるような祈りなら有効である」
今回も祈りの続きである。
苦しむ霊のために祈ることについて、神様のご計画を祈りによって動かすことは出来ないと前置きされてから、
祈る相手の霊は祈りによって慰められると言われている。それは、その祈りによって、霊は自分に向けられている関心を知るからであり、苦しむ者は自分の苦しみに共感してくれる心遣いに常に深く心が慰められるものだからだと言われている。更に、その祈りがその霊に改悛の思いにさせることもあり、幸福になりたい願いをかき立てるのでもあるとのことだ。そこで、もし霊の方でその気になり、その祈りに力を添えるなら、この時霊の苦しみの期間は短縮されるとのこと。それは祈りにより、苦しむ霊の心中に引き起こされた改善の意欲によって、高級の諸霊をその霊の方へ引き寄せるのだそうだ。諸霊は彼に光明を注ぎ、慰め希望の光を点じてくれるのだと。これだけの効果があるお祈りは、少なくとも、死後の世界を知らないまま亡くなった方には祈るべきなのだと思う。イエス様は迷った羊のためにも祈られたとのこと。諸君も諸君の祈りを必要とする者のために祈らねば、咎ある者となろう、このお言葉の通りだと思い、私もこれからそういう方のために祈りたいと思う。
次の質問のお答えも同じような内容でありながら、感動を覚える。神様の絶対のお裁きが、霊が行った行為に必ず下り、この神の手を止め得ないとすれば、次の事はまた真実だと言われる。人が愛と共感によって苦しむ霊のために、神様に捧げるお祈りは、神様によって必ずや受け入れられるのだと。苦しむ者への救いと慰めの手が必ずあるだと。その証拠として、霊がもし一粒の罪なりともその改悛の思いを示せば、立ち所に、救いの手が向けられるだと言われている。そしてその時にこそ、この霊は自分のために一つの愛の心が働いていたこと、そして、その心に支えられ助けられ、今もそれは慰めの心として自分の中に在ることに気付くのだと言われている。更にこのような、人が霊のために行う取りなしは、助けてくれた者への感謝と愛の心をひき起こさせるのだと。キリスト様が万人に課した相互愛は、その人とその霊との間に目覚め発展していくのだと言われ、双方は宇宙がすべての上に課しており、愛と一体の法に従う者となると言われるのだ。そして、これが霊の進化の目的であり、終点である一体化の時の到来、その神法に従った者になると断言されている。更に善霊に向かってのお祈りは、神様のご使徒であり、神様の御意志の実行者として、祈ってもよいと言われている。けれど、その力は万物の長である神様に依存しているとのことだ。神様のお許しなくしては何事も起こらないとのこと。それだけに、私達人間が霊に祈る場合は、神様に受容して頂けるようなお祈りをしなければいけないと忠告して下さっている。
1093回目の瞑想
ーーー多神教についてですが、これは間違いなのですが、しかし古来広く行き渡った信仰の一つとなっています。どう考えたらよろしいですか。
「一神という観念は、人間の観念の発展の結果、初めて到達されたものである。未開の時代は、形なしでは、非物質的存在を知ることが出来ない。そこで人間は大自然界の諸徳性を、姿を持ち、顔を持つ「神」に結び付けた。かくして人間知性を超えるものは何でも神様、人間に理解できないものは何でも超常力の仕業、このように祭り上げられてしまった。この発想から、人間が見ても説明ができないものは、その数ほどの別個の存在があるとの信仰に到達した。これが第一歩である。しかし、いつの時代にも秀れた人物はいるもので、彼等は多神では世界のことは理解できない、すべてを統轄する方向がなければならない、かように考えた。こうして一神の概念に辿り着いたのである」
ーーー霊の働きを示す現象はいつの時代にも起こっており、早くよりそのことは知られていたと思います。この事が多神教の信仰の起縁になっていませんか。
「その通りである。人間は神という言葉を、人間を超えるものの何にでも適用する。従って、霊は人間にとり多くの神々であった。この理由で、ある人間が、その働きや天分、また風俗に理解できぬ超能力をもっていると、神に祭り上げられ、死後は神として礼拝された」
今回は多神教についての内容である。多神教についてのお答えは、得心できる内容だ。ただ見えないものではなく、見えるものを崇拝し、神様とするのはわかるような気はする。やはり人間というのは弱いもので、何かにすがりたい思いになってしまうのだ。しかもすがるには実体があり、見えるものがよりいいわけだ。そして人間の知性を超えるものは何でも神様になり、人間に理解できないものは何でも超常力の仕業と、祭り上げられてしまったとのことだ。またこの発想から、人間が見ても説明ができないものの数は多く、その数ほどの別個の存在があるとの信仰に到達したと言われ、これが多神教の第一歩であるとのことだ。けれど、いつの時代にも秀れた人物はいると言われ、彼等は多神では世界のことは理解できない、すべてを統轄する方向がなければならないと考え、一神の概念に辿り着いたと言われている。更に次の質問ではとても興味深い箇所があった。それは霊は人間にとり多くの神々であったというお言葉である。霊能者の方の中には、神様から教えて頂いたとか、神様のお声がしたとか言われる。けれど、これこそ、神様ではなくて、その方の近しい霊なのではないかと思うのだ。真の神様が低次元である人間に直接コンタクトを取れるはずもない。高級霊であるシルバー・バーチ霊でさえ、人間に直接コンタクトを取ることは出来ないのだから。(途中仲介役を入れて人間にコンタクトを取れる状態になっていることが証明している)このことを知っていれば、霊能者の方の発言が正しいのか正しくないのかは一目瞭然なのだ。正しい霊的知識を持っていれば、騙されることはない。騙す方はもちろん、論外であるが、やはり騙される方にも責任があるのだ。だからこそ、霊的真理の普及が大事なことは言うまでもないのである
。
1094回目の瞑想
ーーー人身御供ひとみごくう、かような習慣が太古よりございます。こんな極悪が神を喜ばせるなどという信仰に、人間はどのようにしてなったのでしょうか。
「まず第一点は、人間が神は一切の善の本源であることを知らなかったこと。原始民族の間では、物が霊よりも優れていること。未だ精神の発達が充分でないので、動物的本能のままに身を任せていること。第二点は、原始期の人間達はこう思った、生きているものは、神の目からすれば、単なる物体よりも価値あるものに違いないと。かような考え方で神への供犠が始まった。最初は動物、後には人間が。彼等の誤った観念によると、犠牲の価値に捧げ物の重要性は釣り合っていると思ったから。諸君も地上生活では、誰かに贈物をする場合、相手の人に示したいと思う愛着や
配慮に見合った値段の品物を選択する。神性を知ることもなかった人間が、同じ事をしたとて当然のことであろう」
ーーーでは、動物の犠牲が人間の犠牲に進展したのですか。
「左様、その通りである」
ーーーこのご説明からしますと、人身御供というのは、人間の残忍性が起源ではないのですね。
「そうではない。神が喜んで下さるだろうという間違った考えからである。例えばアブラハムの話に目を向けなされ。後世に至り、人々はこの間違った観念を一層悪いものにしてしまった。個人的な怨恨の対策、その敵を犠牲に供することによって。しかし、神はいかなる種類の犠牲をも求められぬ、人間のみならず動物の犠牲も。無益な神の子等の殺傷によって、神の名が高められる筈のものでもあるまい」(明日に続く)
今回は犠牲についての内容である。人身御供について、その時代の人達が
神様について一切の善の本源であるということを知らないこと、物が霊よりも優れていると思っていたこと、精神の発達が充分でないので、動物的本能のままに身を任せていたということを第一点とされている。そして第二点は、原始期の人間達は、生きているものは、神の目からすれば、単なる物体よりも価値あるものに違いないと思ったからと。そのような考え方から神への供犠が始まったとのことだ。それも最初は動物が犠牲になり、後に人間が犠牲になったと言われる。それは誤った観念から、犠牲の価値と捧げ物の重要性は釣り合っていると思ったからなのだということだ。そして、地上生活に例えられて、誰かに贈物をする場合には、相手の人を思う愛着や
配慮に見合った値段の品物を選択するのと同じことであると言われている。このことから、人身御供というのは人間の残忍性からのものではなく、神様が喜んで下さるだろうという間違った考えからそのような習慣ができたと言われているのである。アブラハムについては、私はよく知らないが、神様がいかなる種類の犠牲をも求められないということは、周知の事実であり、それは人間のみならず動物の犠牲もあってはならないことなのだ。そして、無益な神の子等の殺傷によって、神の名が高められる筈はないと言われている。その当時は、神性を知ることもなかった時代だったので許されたのかも知れないが、今の時代でそれをやってしまったら、単なる殺戮ということになるのではないだろうか。
1095回目の瞑想
ーーー敬神の意図で捧げられた場合には、人間の犠牲を神が喜ばれたことがありましたか。
「ない、あり得ない。しかし、神は常に物事を行う時の意図を重視し給う。未開の故に、人々は同胞を犠牲にして、褒め称えるべき事をしたと信じていたかも知れぬ。この場合、神は彼等の意図を受け入れ給う。しかしその行為ではない。このような供犠を続けた結果、人類はこの誤りを知るに至った。更に高級な精神には受け入れられようもない犠牲の観念を忌避するに至った。私は「高級な」と申したが、その理由は次の通りである。どんなに肉の衣が厚く鈍重でも、その当時でも自由意志さえ働けば、人間の源や運命がチラリとくらいは分かったのである。現に既にその頃、直観によって自分達が行っている、悪感情の満足のために少なからず行った犠牲の悪を、理解している者が沢山いたのである」
ーーー「宗教的」と呼ばれる戦争を何と考えられますか。あの感情に昔同胞を犠牲にしたのと同じ根拠から出ているのではありませんか。とにかく、神に自分達を認めて頂くために、自分達の信仰と違う者は根絶やしにしてしまおうと、狂信の国民を駆り立てるのですから。
「ああいう戦争は邪悪霊によってけしかけられている。戦争する者達は、自分のように兄弟を愛せという神の御意志とは、正反対の場に自己を置いているのである。いずれの宗教も、いかなる人も、その呼び名は違っても、同じ神を崇拝しているのである。しかるに何故、片方が片方を根絶やしにするための戦争をするのか。その理由は単純、宗教が違うから、相手の宗教がいけないから。神から遣われた者の言葉を
信じなくても、その者を見ない者にとっては、未だ弁解の余地はある。ともかく、火と剣で相手をねじ伏せて、平和の言葉を聞かせようとして、何が期待できようか。相手が進歩せねばならぬこと、諸君がキリストの教えを聞かせるよう努力せねばならぬこと、これはよろしかろう。しかし、これは穏やかに説得によって為されるべきことである、暴力と流血によってではない」
ーーー動物の供犠よりも、果物を供えた方が、神の目からはよろしいわけですか。
「流血の供犠よりも、果物を供えたの方が、明らかによろしい。しかし、前にも質問に答えた通り、神の裁きの目はその意図に向けられている。神の目には物はあまり意味をもたない。心を込めての祈りこそ、どんな供物にも増して、神には好ましい。もう一度繰返す、意図、それがすべてである。物、それは無」
ーーー供物も、貧しい人の救済に捧げるなら、神には好ましいものではありませんか。
「神は常に善を為す者を祝福される。貧しい者、苦しむ者を助けることは、神に仕える最善の道である。吾等はここで、諸君が神の礼拝のためにする儀式を、神は好まぬと言うつもりはない。しかし、そのために多額の金が使われる。それはもっと有効に使える金である。神は万事単純を好み給う。心よりも外的な事に重きを置く者は、心の狭い霊である。されば、示されている心持ちよりも、神が形を重視されるという事が、いやしくもあり得ようか」
今回も犠牲についての続きである。神様を敬う気持ちで為されたとしても、人間が犠牲になることは神様が喜ぶことはあり得ないと言われているが、当然のことだと思う。ただ、神様はどんなことでもその意図を重視されると言われている。それはシルバー・バーチ霊が言われている動機のことと同じなのだ。すべてはこの意図や動機が肝要で、それを神様は重視されておられるということだ。なので、純粋に神様を敬う気持ちについては受け入れて下さるが、行為についてでは決してない。またその時代は神性を知ることもなかった時代だったとは言え、またどんなに肉の衣が厚く鈍重でも、その当時にでも自由意志さえ働けば、人間の源や運命が少しくらいは分かっていたと言われ、現に既にその頃、直観によって自分達が行っている、悪感情の満足のために行った犠牲悪を、理解している者が沢山いたと言われている。
次の質疑応答についてだが、私も宗教戦争については何のためにと思っていた。宗教とは名ばかりで、単に縄張り争いしているだけのことなのではないかとずっと思っていたのだ。だが、あのような戦争は邪悪霊によってけしかけられているとのことに大いに納得した。そして戦争する人達は、兄弟を愛せという神様の御意志とは、正反対の場に自己を置いていると言われている。正にその通りなのだと思う。そしていずれの宗教も、いかなる人も、その呼び名は違っても、同じ神様を崇拝していると言われている。それなのに何故、片方が片方を根絶やしにするための戦争をするのか。それは単純に、宗教の違いであり、相手の宗教を認めないことから始まると。けれど、火と剣で相手をねじ伏せておきながら、平和の言葉を聞かせようとしたところで、相手が聞く耳を持つわけがない。真の宗教とは、暴力と流血によってではなく、穏やかに説得によって為されるべきことであると当然のことを言われている。また流血の供犠も、果物のお供えも、神様のお裁きの目はその意図に向けられているので、物はあまり意味をもたないとのこと。そして心を込めてのお祈りこそが、どんな供物にも増して、神様には好ましいと言われるのだ。そして再度繰返し言われる。意図、それがすべてであると。物、それは無であると。
ただ、お供物を貧しい人の救済のために捧げるならば、それは貧しい人や苦しむ人を助けることになり、神様に仕える最善の道だと言われている。神様は常に善を為す人を祝福されるのだと。また、私達が神様の礼拝のためにする儀式を、神様は好まないわけではないと言われ、ただ、そのために多額の金銭を使うよりも、もっと有効に使えることに金銭を使えと言われている。神様は万事単純を好まれるのだと。そして、心よりも外的な事に重きを置く人は、心の狭い霊とのことだ。要するに神様は形や物を重視するのではなく、何よりも心持ちだと言われている。私達の心が真摯で、一生懸命に努力することは、どれだけのお金を持っていようが、勝るということで、それ以外にはないということに他ならない。
1096回目の瞑想
ーーー労働の必要性、これは天地の法ですか。
「労働は天地の法である。労働はなくてはならぬものであるから。文明と共に人間は一層働かねばならなくなる。益々享楽の度が進むから」
ーーー労働というと、物質的な仕事だけと、こう考えてよろしいですか。
「そうではない。肉体労働と同じく精神的労働がある。何でも有用な仕事は労働である」
ーーーなぜ人間には労働というものがあるのですか。
「人間は地の上で生きるもの、この故である。それは罪の贖あがないであり、同時に、知性の開発の道でもある。労働なしでは人間はいつまで経っても知的には子供のままだろう。この故に、人間は労働と活動によって、食物と安全と福祉を支えるように造られている。肉体的に人間は余り苛酷な仕事には向かない、従ってそれを補うために、神は人間に知性を与えた給うた。しかし、知的活動もこれまた労働なのである」
ーーー大自然は動物の必要物をすべて充たしてくれますが、何故ですか。
「自然界のすべてのものは労働している。動物も人間と同じように働いている。しかし、その仕事は自己保存の限界内で行われている。そのため動物は働いても、それが進歩に結び付かない。この点、人間の場合は、労働には二つの目的がある。一つは肉体の維持、他は思想の進歩、この思想の進歩は人間には大事な事であって、これにより人間は絶えず上方へ向かって進歩している。ここで私が、動物は自己保存の限界内で働くと申しておるのは、自己保存が動物の働く目的だと、そういう意味においてである。しかしながら、動物にしても、やはり造物主のお役に立つ何かをしている。無意識で、ただ物ばかりを追っているようだが。また、動物の労働というのは、大自然の目的遂行にも、少なからず協同している、人間はこのことに余り気付いていないが」
(明日に続く)
今回は労働の必要性についての内容である。労働は天地の法であり、労働はなくてはならないものだと言われている。享楽の度が益々進むにつれて、文明と共に人間は一層働かなければいけなくなるとのことだ。有用な仕事は何でも労働であると言われ、肉体労働と同じく精神的労働もあると言われている。人間に労働が必要なのは、地上で生きるためであると言われ、またそれは罪の贖いでもあり、同時に知性の開発の道でもあると言われている。労働なければ人間はいつまで経っても知的には子供のままとのことだ。人間は労働と活動によって、食物と安全と福祉を支えるように造られているとのこと。また肉体的に人間は余り苛酷な仕事には向かないので、それを補うために、神様は人間に知性を与えた下さったのだと言われている。なので、知的活動もまた労働ということになるようなのだ。
次の質疑応答だが、大自然の動物についてであるが、自然界のすべてのものは労働していると言われ、動物も人間と同じように働いているのだそうだ。けれど、その仕事というのは自己保存の限界内で行われているとのこと。そのために動物は働いても、それが進歩に結び付かないと言われている。だが、人間の場合には労働は二つの目的があると言われている。一つは肉体の維持、そしてもう一つは思想の進歩とのこと。この思想の進歩は人間にはとても大事な事であり、これによって人間は絶えず上方へ向かって進歩しているのだそうだ。また、動物が自己保存の限界内で働くと言われているのは、自己保存が動物の働く目的という意味においてとのこと。無意識で、ただ物ばかりを追っているように見える動物も、神様のお役に立つ何かをしており、動物の労働というのは、大自然の目的遂行にも、少なからず協同しているとのことなのだ。人間はこのことに余り気付いていないと言われているが、確かにそうだ。動物が大自然の目的遂行に一役買っているとは思ってもみなかった。やはり、神様のご計画というのは言葉では表現できないほど偉大なことなのだと改めて知った思いになったのである
。
1097回目の瞑想
ーーー地球より進歩した世界でも、人間に労働はやはり必要ですか。
「労働はどれだけの物が必要か、それに見合っている。従って、物を必要とすることが少なければ、それだけ労働も少ない。しかし、それらの世界では、働きもせずにぼんやりしていると思ってはいけない。怠惰は楽ではなく苦しみであるから」
ーーー生活に必要な物資に恵まれた人達は、労働の法から解放されますか。
「多分、肉体労働からは。しかし、資力に応じて自己を役立てること、また、自己及び他者の知性を発展させる仕事、これも労働であるが、この義務からは解放されはしない。もし、食べるに十分な糧に恵まれていて、額に汗して働く必要がなければ、その人は他者のために役立つ事が一層大きな努めとなる。何となれば、善を為すに足るだけの十分な時間が、その人には割り当てられているから」
ーーー何も仕事が出来ない、そのため何の役にも立たない、そういう人はいませんか。
「神は正義である。自ら他に役立つことをせぬ者を神は咎め給う。そのような者は人の労働に寄食するもの。神は人が各々その能力に応じて役立つことを望み給う」
ーーー自然法によると、子供は親のために働く義務を負わされていますか。
「まさにその通り。親が子供のために働く義務を負わされているのと同じ事である。この故に、神は親子の情愛を自然なものとして与えておいでになる。家族の者達が相互の情景によって、助けられたり助けたりするようにと、それは社会の現状では滅多に見かけられなくなった義務である」
今回も労働の必要性の続きである。
地球より進歩した世界であっても、労働は必要のようだ。だが、その
労働は物の必要性が少なければ、労働も少ないと言われている。けれど、労働が少ないからと言って、働きもせずにぼんやりしているわけではないと。それは怠惰が楽ではなく、苦しみだからとのことだ。また、
生活に恵まれた人達については、
肉体労働からは解放されるとしても、その資力に応じて自己を役立てることや自己及び他者の知性を発展させる仕事という義務からは解放されないと言われ、これも労働だということだ。更に、食べるに困らず、働く必要のない人は、他者のために役立つ事が一層大きな努めとなると言われる。それは善を為すに十分な時間が割り当てられているからとのことだ。自分の楽しみだけに興じていては、いけないということ。要するに霊的真理の根本である奉仕することの大切さを説かれている。
神様は私達人間が各々その能力に応じて役立つことを望まれていると言われている。それは仕事が出来る出来ないや役に立つ立たないには関係なく、
能力の範囲内で精一杯努力の限りを尽くすことが大事だということを言われているのだと思う。
また、親が子供のために働く義務を負わされているのと同じく、子供も親のために働く義務を負わされていると言われている。神様はそのために親子の情愛を自然なものとしてお与え下さっているとのこと。家族が相互に助けられたり助けたりするようにと考えて下さっていると。だが、社会の現状では滅多に見かけられなくなった義務だとも言われている。確かに今の世の中は自分が食べて行くだけで精一杯で、親の面倒まで見られない状況にあるのが現実なのではないだろうか。義務ではなく、親の面倒を見たいと思っても、適わないということのように思うのだが
。
1098回目の瞑想
ーーー働いた後には休息が必要です。この事は自然の法ではありませんか。
「左様である。休息によって肉体は力を回復する。また、心にゆとりを与えるためにも休息は必要であり、これによって心は物資を超えるゆとりを持つ」
ーーー労働の限度とはどのようなものでしょう。
「力の限度、これである。しかし、神はこの点を、自分で決めるように自由をお与えになっておる」
ーーー自分の権力を使って、目下の者に重労働を押し付ける者達を、どうお考えですか。
「それは最も重い罪の一つである。権威を振りかざして支配下の者に労動させる者は、過度な労働の分だけ責任がある。それはその分だけ神法に違反しているからである」
ーーー年をとったら、休む権利が人間にありますか。
「ある。人間は力に応じて働けばよいのである」
ーーー生活のために働く必要のある老人達に、そんな救いの手がありますか。そんなものはあり得ないことですか。
「
強者は弱者のために働かねばならぬである。家族の救いの手がない場合は、社会がこれに代わって助けるべきである。これが愛の法である」
今回は労働の限度、休息についてである。至極当然のことを言われているが、時には、神様から自分で決めるように自由を頂いているにも拘わらず、無理をしすぎて限度を超えると、入院生活を余儀なくされる場合もある。そのような時には、神様が休めと言って下さっているんだ、などと思うことがある。やはりちゃんと潜在意識ではわかっているのだ。
権力を笠に着て、部下に対して非道なことをする人は、過度な労働の分だけ責任があり、神法に違反している罪でも、最も重い罪の一つだと言われている。また、年老いたら、休む権利はあると言われ、年相応の力に応じて働ければ良いと言われているのだ。だが今の世の中は、年金が少ないために、少しでも多く貰うため先延ばしにして、年老いた人が働いているのが現状だ。お答えにもあるように、家族の救いの手がない場合は、社会がこれに代わって助けるべきであると言われ、これが愛の法であると言われている。だが、その助けるべき社会が全く当てにならないのである。これも愛の法に違反しているということなのだろう。そうなると今の国の政策に携わっている人達は重い罪を受けなければならなくなるのではと思う
。
1099回目の瞑想
ーーー生物の生殖・再生産は自然の法ですか。
「まさにその通り。生殖なしでは地上は滅びてしまおう」
ーーー地球の人口は従来通り殖え続けたら、やがては溢れてしまいましょうか。
「そんなことはない。神の力は常に平衡を生み、均衡を維持している。人間の目は宇宙のパノラマのほんの一点を見ているにすぎないのであって、全視野に立った調和を見通す力を持たぬ」
今回は地球の人口についての内容だ。地球の人口について、増え続けたら食物危機になるとかと人口削減しなければいけないように考えている人達もいるようだが、神様の為されることに間違いはないのだ。すべてが常に完璧であることは何度も言われている。人間の浅知恵で神様の為されることに疑心暗鬼してはいけない。神様は全視野の調和を見通されているのだから。このことを信じる以外にないのだと思う。人口の増減などは人間に出来ることではないのだということを肝に銘じるべきである
。
1100回目の瞑想
ーーー地上のこの時点で、はっきり減少に向かっている人間の種族がいますか。これは絶滅するのですか。
「ある。それは他の種族がこれにとって代わる、その故である。諸君の種族もいつの日かは、他の種族と入れ代わるだろう」
ーーー現人類は新種ですか。それとも、原始人類が進化したものですか。
「これらは同じ霊である。同じ霊が新しい肉体に戻って来て自己改善を図ろうとしているのである。ただその道は遠いが。こうして増え続け、地上に拡がり、滅びる種族と入れ代わっていく現人類も、いつか減少して消滅していく時代が来る。現人類はその子孫であり、更に進化した他の種族にとって代わられる。丁度、文明開化した現代の人間が、原始未開の野蛮人の子孫であるのと同じように」
ーーー身体上の観点から見ます時、現人類の肉体は新種ですか、あるいは原始人の肉体から生まれて来たものですか。
「人類の起源は時間の闇の中に隠されている。しかしながら、その各々に源があっても、人類はすべて一大家族なのだから、その各々は一つにつながることが出来る。また従って、新種を生むことも出来たわけである」(明日に続く)
今回は種族の維持と改善についてである。減少に向かっている人間の種族というのはいると言われ、それはまた他の種族がこれにとって代わると言われている。その上びっくりすることに、私達もいつの日か、他の種族と入れ代わる時が来ると言われているのだ。そして現人類も原始人類も同じ霊であると言われ、同じ霊が新しい肉体に戻って来て自己改善を図ろうとしているとのこと。このことは再三再四言われていることだ。ただその道は遠いとのこと。また滅びる種族と入れ代わっていく現人類も、いつしか減少して消滅していく時代が来るのだと。そして更に進化した他の種族にとって代わるのだと言われている。それは丁度、文明開化した現代人が、原始未開の野蛮人の子孫であるのと同じようにだと。
人類の起源は時間の闇の中に隠されていると言われながらも、人類はすべて一大家族なのだから、その各々は一つにつながることが出来るのだと言われている。よって、現人類は新種を生むことも出来たとのこと。
1101回目の瞑想
ーーー身体上から申しますと、原始種族の特色・特徴は何でしょうか。
「それは、知力に反し、野蛮性が強い点である。現代はこれと丸反対の現象が起こっている。即ち、現代人は体力よりも知力をより多く使っている。そのため、現代人は動物には不可能な自然力の利用を学び知っており、原始人に比し各段の進歩を遂げている」
ーーー科学を用いて、動植物の改良を図ることは、自然の法に反しますか。自然のままにしておいた方が、自然法に適うことになりますか。
「大自然の進歩に協同することは、すべての生命の義務である。しかし、人間は神の目的達成のための手足として、神によって使われている。完全こそ大自然の万物が目指している目標であるから、改善によって進化に助力することは、神のご意図に協力することである」
ーーーしかしですね。人間が下級種族の改良をやる場合は、利己を動機とすることが多いのです。しかも個人的享楽を目的とする以外の何ものでもないのです。こんな事でそれをやるメリットがございますか。
「それで進化が進められるのなら、メリットがなくてもよいのではないか。労働によってメリットを受けるには、先ず動機が良くなければならない。しかし、物事を改善することで、自己の知性を伸ばすこともまたメリットである。そして、労働から受ける最大の利益は、この知性の進歩にある」
今回も種族の維持と改善の続きである。160年以上も前に、現代人は体力よりも知力をより多く使っており、現代人は動物には不可能な自然力の利用を学び知り、原始人に比し各段の進歩を遂げていると言われている。となると、現代は更にこの時代の人達よりも進歩を遂げていなければならないが現実はどうなのだろうか。次の質疑応答についてだが疑問が残る。科学によって動植物を改良することについてだが、改善によって進化に助力することは神様に協力することだと言われているのだ。質問者の言われるように、利己的な動機だったり、個人的享楽の目的の場合もある。それでも、進化するのならいいのだろうか。一応お答えの中には先ず動機が良くなければならないとある。この基本の上にあっての話なら納得できるのだが、興味本位の改良などは、絶対にあってはならないと私は思うのだ。
1074回目の瞑想
ーーー動物はどこから知性を引き出して来るのですか。知性は動物の魂の特性をなしているようですが。
「宇宙の知的要素から引き出してくる」
ーーーそれでは人間の知性も動物の知性も、一つの同じ本源から生まれて来るわけですか。
「そうである。ただ人間の場合は、獣性を超えた上方を指向するよう、知性が上等につくられている」
ーーー既述の回答でこう言われました。人間の魂は初源において、赤ん坊のようなものだ、知性といってもやっと芽を吹き始めたばかり、生きることを試しつつあるところだと。では、この人生の最初の状態を、魂はどこで克服するのですか。
「人間と呼べる段階以前の時期に」
ーーーそれでは、魂は劣性の低い知性の状態にあったと考えてよろしいですか。
「以前かように申した筈である、自然のことは万事つながりがあって、統一に向かう傾向があると。諸君等にはここのところが何とも理解できないことと思うが、人間の知性は上等につくられており、次第に個性をもっていき、発芽ともいうべき準備段階を経過して、終局において、知性は変容して「霊」となる。かように前に申したが、<まさに生命に震えるもの>である。こうして、人間としての時代がそれぞれの霊の中に芽吹き、未来への感覚、善悪の弁別力、自己の行為への責任感が生じる。丁度幼児期の後に、少年期、青年期、青春期時代、大人の時代が来るのと同様である。最高の天才も母の胎内で、形も定まらぬ胎児の時代を経て、人間となったのである。一体何がこの天才を人間としたのかと申せば、その未熟さや低さ、神の計画の深遠な響きも聞こえぬ無力さ、宇宙の調和を整える神法の英知に耳塞いだ非力さ、これである。自然のあらゆるものの間に、連関を生み出す驚くべき調和、この神の偉大さを心得られよ。神は何の目的もなしに物を創造したとか、神は先のことを何も考えずに知的生命を創ったとか考えることは、万物にくまなく及ぶ神の善意を罵ることになろう」
ーーーこの人間時代は、この地球上で始まったのですか。
「地球は、人間受肉の最初の段階のスタート地点ではない。一般にこの地球よりもっと低い世界で人間時代は開始されている。しかしながらこれが絶対的な方式ではない。場合によっては、霊が人間段階に入るに当たって、地球生活が適応している場合もある。しかしそのような場合はあり得るとしても、度々あるわけではない。一般方式の例外というところだろう」(明日に続く)
今回も動物と人間の続きである。
動物の知性も、人間の知性も一つの同じ本源である
宇宙の知的要素から引き出してくると言われている。けれど、
人間の場合には、動物性を超えた上方を指向するよう、知性が高くつくられているとのことだ。
人生の最初の状態を魂はどこで克服するかについては、
人間と呼べる段階以前の時期にと言われている。人間と呼べる以前の時期とはいつなのであろうか。私には全くわからない。
また、
魂は劣性で低い知性の状態にあったかという質問だが、
自然のことは万事つながりがあって、統一に向かう傾向があると言われており、人間の知性は上等につくられており、次第に個性をもっていき、発芽ともいうべき準備段階を経過して、終局において、知性は変容して「霊」となると言われているのだ。霊とは知性が変容したものなのかと驚くと同時によくわからなくなる。霊というものは神様が創られたもので、最初からあったと思っていたからだ。更に人間としての時代がそれぞれの霊の中に芽吹き、未来への感覚、善悪の弁別力、自己の行為への責任感が生じると言われている。例えられているが、幼児期の後に、少年期、青年期、青春期時代、大人の時代が来るのと同様とのこと。また次の例では、最高の天才であっても母親の胎内で胎児の時代を経て、人間となると。けれど、一体何がこの天才を人間としたのかとの理由が、未熟さや低さ、神の計画の深遠な響きも聞こえぬ無力さ、宇宙の調和を整える神法の英知に耳塞いだ非力さ、だと言われているのである。天才であっても、霊的にということだと思うが未熟であり、神様を信じず、摂理に耳塞げば、人間に生まれなければいけないということを言われているように思った。そして、自然のあらゆるものにある調和、これをもって神様の偉大さを心しなければいけないと諭されている。更に神様が何の目的もなしに物を創造したり、先のことを何も考えずに知的生命を創ったなどと考えることは、万物に網羅されている神様の善意を罵ることになるとのことだ。
驚くことにこの地球は、人間受肉の最初の段階のスタート地点ではないと言われているのだ。一般に(と言われているが、人間界では一般ではないだろう)この地球よりもっと低い世界で人間時代は開始されているとのことなのだ。地球よりもっと低い世界とはどこのことなのだろうか。幽界の下層界のことなのだろうか。けれど、これが絶対的な方式ではないと言われる。場合によってはと言われているが、霊が人間段階に入るに当たって、地球生活が適応している場合もあるとのことだが、今はそれが殆どなのではないだろうか。けれど、そのような場合はあり得るとしても、度々あるわけではないと言われ、一般方式の例外というところだろうと言われているのだ。どちらが例外なのだろう。地球よりもっと低い世界で人間時代を過ごす事の方が例外なのではないかと思うのだが
。今回の内容には腑に落ちないことが多かったが、取り敢えず、頭には入れておこうと思う。
1075回目の瞑想
ーーー霊は死後に至って、自分の人間期以前の生活を思い出すことがありますか。
「ない。本人の生命が、霊となり人間の生活を開始するのは、人間期に入ってからであるから。人間としての最初の段階も殆ど思い出せない。それは丁度、人が幼児期の一番初期をもはや覚えていないのと同じように。増して母の胎内の時期は一層覚えていないように。この故に、霊達は告げる、自分達はどのようにして始まったのかを知らないと」
ーーー 霊が人間期に入った時、それは以前に存在した痕跡、即ち、いわゆる先人間期の状態の痕跡を何か残していますか。
「それは二つの時期を隔てる距離、及び達成された進歩の量、これら如何による。初めの数世代の間は、原初状態の反映が、多少ともはっきりあるかも知れぬ。と言うのは、実際問題として、何事も急に何もかも変わってしまうという事はあり得ないから。また常に、物事はその鎖の端を結び付ける輪が存在するのだから。しかし、その痕跡は自由意識の発展とともに消える。進歩は最初の段階ではゆるやかに行われる、また意志が働かない状況であるから、霊が自我意識をもつにつれて、進歩の歩みは早まる」
ーーーでは、人間は他の生物とは違った生き物だと、霊達は申しましたが、これは間違いですか。
「そんなことはない。しかし、この問題は十分に話が展開されていなかった。それに、ある点まで話が進まねば分からない事もあるのです。事実、人間とは違った存在である。人間は他の生物とは違った能力を持っており、また別の運命を辿るものであるから。人間という種は、神が、神を知る者となるべき受肉者として、神が選び給うた生き物なのである」
今回も動物と人間の続きでこれで終わりとなる。
自分の人間期以前の生活を思い出すことはないとあるが、当然だと思う。例に挙げて下さっているように、母親の胎内での記憶もなければ、幼児期の一番最初であっても覚えている人は殆どいないだろうに、人間期以前の生活など覚えているわけがないと思うからだ。次の質問も普通は思いもつかない内容に思う。お答えを要約すると、痕跡は自由意識の発展とともに消えるとのことだ。そして、意志が働かない状態では、最初の段階では進歩はゆるやかに行われ、霊が自我意識をもつにつれて、進歩の歩みは早まると言われている。更に人間と他の生物についてだが、人間とは違った存在であると言われ、人間は他の生物とは違った能力を持っているとのこと。また別の運命を辿るものであり、人間という種は、神が、神を知る者となるべき受肉者として、神が選び給うた生き物なのであるとの、このお言葉に、人間であるということに誇りを持って、神様のご期待に沿う人間となるよう努力したいと、心から思った次第である。
1076回目の瞑想
ーーー生物の知性が共通の起源をもつということは、輪廻の教義とつながりがある、ということではありませんか。
「この両者は同一起源のものかも知れぬが、後世に至っては、似ても似つかぬものとなっている。発芽した種子の胚は形を失っているのに、誰がその葉や花や実を見て、その木を認め得ようか。知性が霊となるに必要な状況にまで発展し、人間の段階に入った時、その瞬間から、知性はもはや原初状態との接合点を失い、木が種子である以上に、動物の魂を越えたものとなったのである。人間はもはや、その肉体とその感情以外は(感情とは、肉体と、物質体にすべて生得の自己保存の本能、この二つの合成物)いかなる点も動物ではないのである。それ故に、これこれの人間が、これこれの動物の生まれ変わりである、とは言えないのである。従って、俗説で行われている輪廻の教義は、真実ではない」
ーーー人体に生命を与えている霊が、動物に宿ることが出来ますか。
「出来ない。そのような受肉は退化となろう。霊は決して退化しない。川は水源には逆流しない」
ーーー輪廻思想にもっていくことは間違いだとしても、輪廻教義は、人間の前存在に関する、直観的な追懐ついかいの故ではないでしょうか。
「その直観的追懐が、この信仰の中にも、他の多くのものにもあるように認められはする。しかしながら、人間の直観的観念の大部分がそうであるように、これも人間がひねくれねじ曲げたものなのである」
今回は輪廻という内容である。最初と最後の内容は私には難しかった。もちろん、人間が動物の生まれ変わりではないということはわかる。だがその理由については想像の域を出ない。けれど、輪廻の教義については真実でないものが多いのだと思う。人間の理解を越えたものだからだろう。また、人体に生命を与えている霊は、動物に宿ることは出来ないと言われている。それは霊は決して退化しないからだと。川が水源に逆流しないことと同じだと言われている。輪廻教義については、難しいことはわからないが、人間の理解を越えたことだからこそ、人間が勝手にねじ曲げてしまったのだろうと思う
。
1077回目の瞑想
[注解] 輪廻思想は、この用語が、魂が低次から高次へと進歩し、その性質を変えて行くという意味で解されるなら真理だが、ある動物が人間に直接輪廻したり、また人間が動物に輪廻するという、退化や混合の観念の意味で捉えられるなら、それは誤りである。霊の教示によると、再生とは自然の上昇運動に立脚しており、また人間のその種としての進化である、ということである。従って、人間が退化することは、人間が神から与えられた進化のための能力の誤用、ということになる。
霊の出発点は、物の起源及び神の計画の神秘、これと拘わる問題である。人間は未だここのところを理解し得ていない。人間の知るところは未だ想像や理論の域を出ていない。霊自身達もなお万事を知るに至っていない。霊達もこの件については、事実と矛盾せぬ域で、大なり小なり個人的見解をとっているようである。
結局は、どの霊も動物と人間との関係については、同じ見解をとっていないということ。ある霊によると、低級な生物の種々の段階を経て発展し、個性化して、霊は人間に達したと言う。また他の霊によると、人間の霊は初めから人間であって、動物から進化したものではないと言う。前者は動物の将来に希望を与えるものであり、後者の説は、人間の権威と一致するものである。これは下記のように、要点を概括できる。
動物の種は、進化の過程で、他の種から発したのではない。牡蠣の霊は、魚の霊、鳥の霊、四足動物の霊にはならない。それぞれの種は初めから固定している、身体的にも精神的にも。・・・地球よりも進歩した世界がいろいろあり、そこには、その世界に相応しい別個の種がいる。しかし、それらは地球の種から、霊的にみて発したものではない。それは同じものではない。人間が肉体的に生物の鎖の中で一つの輪をつくっていることは明瞭である。しかし精神的な面で、動物と人間の間の継続を示す解答はどこにもない。何となれば、人間のみが魂ないし霊、即ち精神性と、動物に欠けている視野を与える神性の火花をもっているから。この魂、霊、火花こそ、人間において重要なるもの、肉体に先行する存在、身体の死後も生き残るもの、また個性を提供するもの。この霊の源とは何であるか、その出発点が何であるか、それは知性の個性化によって成立しているものか。それは見破ろうとしてもせんない、神秘なのか。もはやそれに理論を与えようとしても出来ないものか。確かなことは、理性と経験によって等しく言えることは、死後、霊魂は存在する、個性は生きながらえるということ。また、その永遠の進歩向上、つまりはその後の幸福も不幸も、浄化の過程での進歩か停滞かに応じて生じるということ。
動物と人間に間にある神秘の類似については、言葉を重ねれば神の秘密、他の多くのことと同様、現時点にあっては我々の進歩には殆ど重要性を持たぬ知識、言い張っても益のない知識。
今回の内容は注解のみで、霊界通信を受け取られたアラン・カーデック氏の注釈である。書いてある内容はおおよそ納得できる。だが、シルバー・バーチ霊の霊訓には、動物にはそれぞれに類魂があると言われている。動物が死ぬと例外はあれど、それぞれの類魂の中に入って行くとしている。そして、その類魂全体が進化した時に、その類魂全体が一人の人間として、この地上に誕生すると言われているのだ。もちろん、何が正しくて正しくないかは私にはわからない。後は自分自身が納得でき、理性に適っていると思えたものを信じるしかないのではないだろうか。ただ、最後に書いてあるように、神様がお決めになった神秘中の神秘には、私達人間には、理解不能であるから、取り敢えず必要はないのだろうと思った次第である。
1078回目の瞑想
ーーー自然法とは何でしょうか。
「自然法とは神法のことである。これが人間に幸福をもたらす唯一の法である。人が為すべきこと、してはならぬこと、これをこの法が教えてくれる。この法に背いた者は不幸となる」
ーーー神法は不変のものですか。
「永遠であり、不滅である。神ご自身の如く」
ーーー神は一つの時代にこれを是として、他の時代にはこれを非となさることがありますか。
「神は誤りを犯し給わず。人間は不完全であるから、自分の作った法を変更せざるを得ない。しかし、神法は完璧である。物的宇宙にしても、精神的宇宙にしても、永遠の彼方より神の定め給うた法により調和が保たれている」
ーーー神法の目的とは何でしょう。私達の道徳的行為以外のことにも、関係をもっているのでしょうか。
「自然の法はすべて神法である、神は一切の創造者であるから。科学を探究する者は、物質界の自然の法を探求しているのであり、善を追求する者は、魂の中にある自然の法を学び、且つことれを実行しているのである」
ーーーこの二つの自然の法の分野を極めることは、人間に可能でしょうか。
「左様、出来よう。片方だけでは十分とは申せぬ」
ーーー神法はすべての世界を通じて同じものですか。
「理性をもって推し量ってみられよ。神法はそれぞれの世界の特性に相応しいようになっており、そこに住む生命体の進歩の程度に釣り合っている」
今回は自然法の性格という内容である。自然法とは神法であると断言されている。そしてこれが人間を幸福にしてくれる唯一の法だと言われているのだ。更にこの法が、人が為すべきことやしてはならないことを教えてくれると言われている。またこの法に背いた人は不幸になると。神法は永遠であり、不滅であり、神様ご自身のようであるとのこと。神様がお決めになった神法なのだから、当然のことなのだ。神様は完璧で絶対的な存在であるから、誤りを犯すことは絶対にないと言われる。けれど、人間は不完全であり、人間の作った法は完璧ではないから、度々決めた法を変更してしまう。それも自分に都合のよい法に変更してしまう場合さえあるのだ。
すべては神様のお決めになった完璧な神法で物的宇宙も、精神的宇宙も、調和が保たれていると言われている。神法の目的については、科学者は物質界の自然法を探求し、善を施す人は、魂の中にある自然法を学び、更に実行していると言われる。この二つの自然法を極めることは人間には可能だと言われ、片方だけでは十分とは言えないと言われている。だが、これに関しては、疑問が残る。一つを極めるだけでも相当に大変なことだと思うのだが、更に科学者が自然法を探求することについては、普通の人には無理な話で不可能だ。ということは、人類全体という意味で捉えるべきなのだろう。また、神法はそれぞれの世界の特性に相応しくなっていると言われ、そこに住む人の進歩の程度に釣り合っていると言われている
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2月2日に京大名誉教授の福島先生が致死率の公開を厚労省に求めて訴訟をおこされた時の記者会見です。
ぜひ、ご視聴くださいね!
1079回目の瞑想
ーーー神はすべての人に、神法を知る手段を与えておられますか。
「すべての者がこれを知るが、すべての者がこれを理解するわけではない。最もよく神法を理解する者は、善を追求する者達である。しかしながら、やがてすべての者が神法を理解するに至る。進歩の彼方に完成の時が来るからである」
ーーー霊は肉体に宿る以前の段階では、神法をよく心得ているものでしょうか。
「その霊の発達程度に応じて、神法を心得ており、地上に受肉しても直感的な記憶をとどめているものである。しかし、邪悪な本能が働くとこれを忘れてしまうことが多い」
ーーー神法はどこに記されているのですか。
「意識の中にである」
ーーー神法が意識に記されているなら、人間に神法を啓示する必要があったでしょうか。
「人間は神法を忘れた、これを誤解した。神は人間がこれを想起することを望み給うのである」
ーーー神は誰かに、神法啓示の使命を与えられたことがありますか。
「ある。いつの時代にも、この使命を担う者達がいて、人類を進歩させるために、高級霊達は地上に受肉した」
ーーー人類を導くなどと言いながら、過ちを犯し、間違った論法で人類を迷わせた者はいませんでしたか。
「神霊に感じもせぬのに、野心によって、受けてもいない使命を受けたと僣称した者達が、人類を誤り導いたかも知れぬ。それにも拘わらず、結局は、彼等は天才であったが故に、その誤りの教えの中にも、偉大な真理がなかったとは申せぬ」
ーーー本当の預言者の性格は何ですか。
「真正の預言者は、神の霊気を吹き込まれた高潔な人物である。彼は、その言葉とその行為によって認められる。神は真理を伝えるのに、虚言者の口を使われることはない」(明日に続く)
今回は自然法に関する知識についてである。神様はすべての人に、神法を知る手段を与えておられると言われているが、すべての人がこの神法を理解するわけではないとのことだ。そして、神法を最も理解する人は、善を追求する人達であると言われている。けれど、やがてすべての人が神法を理解するに至るようだ。それは、進歩の彼方に完成の時が来るからだと言われている。このことはシルバー・バーチ霊とは違うようだ。シルバー・バーチ霊は完成する時は来ないと言われ、永遠に完成に向けて進化し続けて行くと言われている。どちらが正しいのかはわからないが、どちらにしても、遠い遠い先の話であるから、わからなくても問題はないだろう。また、
肉体に宿る以前の段階の霊は、その霊の発達程度に応じて神法を心得ていると言われ、
地上に受肉しても直感的な記憶をとどめているものだと言われている。けれど、邪悪な本能が働くと直感的な記憶を忘れてしまうことが多いとのことだ。
神法は
意識の中にあるが、
人間が神法を忘れ、これを誤解したために、神様は人間にこれを想起することを望み、啓示する必要があったということなのだ。神様は
神法啓示の使命をいつの時代にも与えられると言われ、
この使命を担う人達がおられるとのこと。そして、人類を進歩させるために、高級霊の方々が地上に受肉されたとのことだ。
人類を導くと偽って、
神霊に感じもせず、野心によって、受けてもいない使命を受けたと豪語した人達が、人類を誤り導いたかも知れないと言われている。だが、それにも拘わらず、その人達は天才であったが故に、その誤りの教えの中にも、偉大な真理がなかったとは言えないと言われているのだ。そうなると誤りの教えの中にも、偉大な真理があると言うことは、余程心してその内容を吟味しなければならないということになる。
真正の預言者とは、その言葉とその行為によって認められ、神様の霊気を吹き込まれた高潔な人物であると言われる。神様は真理を伝えるのに、虚言者の口を使われることは決してないと断じておられる
。
1080回目の瞑想
ーーー神が選び給うたその典型は誰ですか。
「イエスである」
ーーー神法すなわち自然の法を、人類に伝えたのはイエス一人だったのですか。イエス以前には、人類に、自分等の直感以上の知識はもっていなかったのですか。
「神法はどこにでも書かれている。このように申したことはなかったか。それ故に、知恵を求めて沈思した者達はすべて、太古よりこれを理解し教えることが出来た。彼等は完全だったとは申せぬが、その教えによって、種を播く地盤が準備されたのである。神法は大自然の書物に記されている故に、これを求めさえすれば、人はこれを知ることが常に可能である。この故に、彼等が選びとる教訓は、高潔な人士の手により、いつの時代にも伝えられてきた。また同じ理由によって、神法は、なお不完全で知を欠き迷信的とはいえ、野蛮の域を出た民族には、いずれもこれが認められる筈である」
ーーー真実の神法を既にイエスが教えているわけですから、今更霊からの教示にどんな役割がありますか。更に私共に教える何かがあるのでしょうか。
「イエスの教示は寓話的であり、例え話をもって語られている。それは当時の時代と地域状況に応じたものである。今日では、真理は知的にこれを語るべき時代となっている。諸君等の中、何人がこれを理解しこれを実践しておられるか。故に、今日神法を述べ、これを拡げていく必要があるのである。吾等の使命は、すべての者の目と耳を打つことである、その鼻柱を叩き潰すために。また、人々の偽善の覆いを剥ぎ取ることである。道義と神への信を卑怯にもその手で覆い隠している偽善を暴くために。吾等はイエスの述べた神の国の到来を準備するものである。つまりは、人がその感情に委せて勝手に神法の解釈をしていたり、また、全き愛である神法の意味を曲解したりしている、これらを不能とするための解説を与えることによってである」(明日に続く)
今回も自然法に関する知識についての続きである。やはり神様が選ばれたお人はイエス様なのだ。だが、神法を伝えられたのはイエス様だけでなく、大自然の書物に記されていると言われる。そして、求めさえすれば、人はこれを知ることが常に可能であると言われている。だが、求めさえすれば、本当に知ることは出来るのだろうか。私は息子を亡くしてから、求めに求めてはいるが、未だに神法を漠然としてしか理解できていない。求め方が弱いのだろうかとも思ってしまう。また私達人間が選びとる教訓は、高潔な人士の手により、いつの時代にも伝えられてきたと言われているが、今の時代はどうなのだろう。そんな方がおられるのなら、すぐにでもお会いしたいと思っているのだが。そんな私の気持ちはさておき、イエス様が神法を説かれていても、実際にそれを理解し、実践している人は言われているようにどれほどの人がいるのだろうか。神法は教えてもらうだけでは意味をなさないのだと思う。自分自身にその深い理解ができ、実感できて初めて実践出来るのだと思うからだ。全き愛である神法を霊的に感じる取ることが出来、そして実践することができれば、この世に生まれた意義は果たされたのだと思う
。
1081回目の瞑想
ーーー真理は、誰の手にも届く所に置かれていませんでした。これは何故ですか。
「物事は何事も、その時が来なければ、近寄っては来ない。真理とは光の如きもの。人はこれに一歩一歩目が馴れていくもの。そうでなければ、人は目がくらんでしまうのである。
今日まで、神はいま人が受け取っているような、深く示唆に富んだ真理の通信を受けることを許し給わなかった。しかし古い時代にあっても、それを真理なりと信じ、世俗から知識をしっかりと守り続ける人々が存在した。世には御承知の通り、いかがわしい顕幽通信が沢山まき散らされているが、古いものはあるいはその中のほんの真理の断片と、諸君は左様お考えかも知れぬ。それにも拘わらず、これら古い時代の哲学、伝承、宗教、いずれも無視してよいものではない。その中には偉大な真理の種子が混じっている。ーーそれらは相互に相矛盾しており、つまらぬ装飾物が多すぎて、ねじ曲がっているけれどもーー今日では、その真実性が見分けられる心霊主義の鍵を使えば、容易にこれらは整合され得るのである。それ故に、古いものは無視してはならぬ。その中に多くの学ぶべきものがある。学べば得るところが極めて大なるものがあろう」
今回も自然法に関する知識についての続きである。今回のこの内容には、かなり深い意味が込められていると私は思う。真理とは光のようなものだと言われている。その光に少しずつ馴れて行かなければ、目がくらんでしまうと。確かにその通りだと思う。そして何より、真理について(もちろん、真理だけではないが)その時が来なければ近寄っては来ないと言われている。要はタイミングなのだ。その人の受け入れる準備が整っていれば、向こうから近寄って来て、受け入れてくれるのだろう。早くそうなりたいものである。けれど、今日まで、私達人間が今受け取らせて頂いているような深く示唆に富んだ真理の通信を神様は許されなかったと言われている。それにも拘わらず、古い時代の人達は真理をしっかりと守り続けてきたようだ。そこには偉大な真理の種子が混ざっているとのこと。だからこそ、古いからと言って、無視してはいけないと言われている。今の時代にあって、なおのこと、その真実性が見極められるのだと思う。そしてその中には大いに学ぶべきものあり、得るところも極めて大になると言われているのだ。この通信自体、150年以上も前のものであるが、私達人間にとって、知らないことが沢山網羅されており、学ぶべきことが沢山ある。すべてを理解できなくても、それこそ一歩また一歩と歩を進めて行くことで、いずれ大きな進歩に繋がることになると確信している。
1082回目の瞑想
ーーー道徳法を定義すれば、何と言ったらよろしいですか。
「道徳法とは間違いのない人生を送る法、換言すれば、善と悪を見分けるための法と申すべきか。それは神法の遵守を基本とする。人が善をその目的、その道として選ぶ時、人は正しく道を踏んでいる、これが神法の道である」
ーーー善と悪をどのようにして見分けたらよろしいですか。
「善とは神法と一致するもの、悪とは神法から外れるもの、これが目安。従って、善行を為すとは神法に従うこと、悪を為すとは神法にもとること、これである」
ーーー人は善悪を見分ける手段を持っているのですか。
「然り、神を信じ、善を為す望みを抱く時、それがある。神は善悪二つを見分けるようにと、知性を授け給うている」
ーーー人が道を誤っている時は、善悪のけじめが狂っていることなのですか。これも、明らかに間違っていながら、自分では正しいと思い込んでいるのですか。
「イエスは申した<人から自分がして貰いたいと思う事を、人にも為せ>と。すべての道徳法は、この戒めの中にある。これを諸君の法と為せ、その時、道を誤ることはない」
ーーー善悪の法、互恵と連帯の法、これは言うは易く、中々行うは難いものがあります。自然の法の中に、この行為をうまく規制してくれる安全弁がありますか。
「過食すれば身体を害する。この不快感、神は人に必要な秤を与え給うた。この物差しを越えれば人は罰せられる、万事がこの通りである。自然の法はすべての人に、この必要の限度を刻み付けている。この限度を踏み出せば、人は苦しみを受けて罰を受ける。人は何事においても、「もう充分」この声に注意を向けておれば、身を苦しめる病気の多くは避けられるのである」
ーーーこの自然界に、なぜ悪などがあるのですか。悪とは道徳上の悪のことですが。神は人類をもっと良い環境の中に創ることが出来なかったのですか。
「霊は素朴で汚れのないものとして創られている。神は自ら道を選択するように、人間に自由を与えられた。もし誤った道を選んで悪になじめば、その分だけ彼の人生航路は長くなる。もし彼の前に山がなければ、人は上り下がりのあることを知る機会はない。もし岩がなければ、世に固いものがあることを知ることもない。霊には経験が必要である。そのゴールに至るには、善悪ともに知らねばならぬ。このために、魂は肉体を身にまとうのである」(明日に続く)
今回は善と悪についての内容である。道徳法とは善と悪を見分けるための法であり、間違いのない人生を送る法であると。それは神法の遵守を基本として、人が善をその目的とし、その道として選ぶ時、人は正しく道を踏んでいるとのこと、これが神法の道であると言われている。また善と悪の見分け方についてだが、善については神法と一致するとし、悪については神法から外れるものとしてそれを目安に見極められるとのことだ。
人が善悪を見分ける手段としては、神を信じ、善を為す望みを抱く時だと言われている。これは正に私が今していることなので、お墨付きをもらえたようで、自信になった。更に神様は善悪の二つを見分けることができるようにと知性を私達人間に授けて頂いているとのことだ。
道を誤らないようにするためには、イエス様が言われた『人から自分がして貰いたいと思う事を、人にも為せ』とのこのお言葉を実行することなのだ。確かに言われる通りではあるが、実行に移すのは難しい。けれど、このお言葉の戒めの中にすべての道徳法はあると言われており、これを私達人間の法としなさいとのことだ。肝に銘じたいと思う。
善悪の法について、自然の法の中にこの行為をうまく規制してくれるものとしての例を挙げて下さっている。中には耳の痛いものもあるが、その通りなのだ。過食すれば身体を害するとあるように、自然の法はすべての人に、必要の限度を刻み付けており、この限度を踏み外せば、人は苦しみを受けて罰も受けるのだと言われている。人は何事においてもこの限度、限界という声に注意すれば、身を苦しめる病気の多くは避けられるのだということだ。心したいと思う。
最後のお言葉のこの内容こそ、霊的真理であると心に響く。神様は私達人間を霊として素朴で汚れのないものとして創られ、私達が自ら道を選択するように自由を与えられたのだ。誤った道を選んで悪に染まれば、その分だけ人生航路は長くなるが、けれど、私達の前に山がなければ、私達人間は山あり谷ありのあることを知る機会はないのだ。そのように霊には絶対的な経験が必要であり、その最終ゴールに至るには、善悪両方を知ることが肝要なのだ。そのために魂は肉体を身にまとってこの世に生まれ、この世のあらゆる経験を通して進化していくことが霊として、人間として果たすべき責務なのだということを教えて下さっている。
1083回目の瞑想
ーーー社会的立場が違えば、人の抱く欲求もまた夫々それぞれ違ってきます。それ故、自然法は、万人に通用するとは思えませんが。
「地位や状況の違いは自然であり、進歩の法に従っている。そのために、万有に働く自然の法の統一性が否定されるわけのものではない」
ーーー善悪は誰にとっても絶対的なものですか。
「神法は誰にとっても同じ。しかし悪は悪を犯そうとする思いの中に住む。善は常に善であり、悪は常に悪である。人の立場が何であろうと。相違があるとすれば、責任の度合いだけである」
ーーー野蛮人が本能のままに人肉を食べる時、これは罪を犯したことになりますか。
「悪の本質は意志にあると、先程申しましたな。されば、人はその心の光に応じて罪であり、罪ではない」
ーーー悪は、時にはものの弾みと思えるものがあります。例えば、ある場合には、それは物の生命を奪うに至るまでの破壊の必然と申しますか。このような場合も神法の違反と言えますか。
「この場合も、事の成り行きとは申せ、悪は悪である。魂が浄化していけば、それに応じてこのような必然性と申すか、それも消えて行く。この場合、過ちを犯せば彼は前以上にけしからんことになる。というのは、自分が何をしているか、その行為を前よりもはっきり知る者となっているから」
ーーー人のせいで、そういう立場に置かれて、我々が悪を犯すという事がしばしばあります。この場合、どこに一番の不都合な点がありますか。
「過ちを犯す原因となった者にある。つまり、人のせいでその立場に置かれ、過ちを犯す破目になった人は、道を誤らせた者よりも罪は軽い。何となれば、人は自分の犯した悪の罰だけでなく、人をそこに誘い込んだことの罰を受けねばならぬものだから」
ーーー他者の悪行で利益を受ける者は、その犯行に参加していなくても、その犯行に参加した者と同じように罪がありますか。
「ある。ある罪から利益を受ける者は、その罪に参加することである。恐らく、その罪の実行には尻込みしたのであろう。しかし、悪が実行され、それから利益を受ければ、それはその行為をしたのと同じ事だ。そのことはまた、もしそれが自分に可能なら、敢えてしようとすれば、彼はその犯行に参加していたという事であるから」(明日に続く)
今回も善と悪の続きである。
社会的立場が違っても、その違いは自然であると言われ、進歩の法に従っているとのこと。なので、自然法の統一性は否定できないと言われている。また、
善悪は、神法に則ってみな同じであると言われている。そして、悪は常に悪であり、善は常に善であると。違いがあるとすれば、それは責任の度合いであるとのことだ。次の質問のお答えはその内容の取りようではあるが、驚きを隠せない。食人族のような人達が
本能のままに人肉を食べることは、意志というよりは本能ということで、罪にならないのではないかと思ったからだ。そうだとすると、それで殺されて食べられてしまう人というのは、どういう人なのだろうかと思ってしまう。やはり、前生からのカルマと言うことなのだろうか。
この後の質疑応答は、当然と言えば当然なのだが、興味深い内容だ。
ものの弾みで悪を行ってしまう場合、それが生命をも奪ってしまうことについて、事の成り行きとは言え、悪は悪だと言われている。そして、
魂が浄化していけば、それに応じてこのようなことは必然的に消えて行くとのことだ。やはり、ものの弾みとは言え、悪を行ってしまうこと自体、魂の浄化次第ということになるのだ。心しなければいけないと思う。だが、この時に、正当防衛はどうなのだろうかと、ふと思った。けれど、これもやはり、そのような状態になること自体が魂の浄化がなされていれば、あり得ないということなのだろう。次は
人のせいで、そういう立場に置かれて悪を犯すという事についてだ。この場合は、先ずは
過ちを犯す原因となった人にその罪はあると言われている。なので、人のせいでその立場に置かれて過ちを犯す破目になった人は、道を誤らせた人よりも罪は軽いのだということだ。それは過ちを犯す原因となった人は自分の犯した悪の罰だけでなく、人をそこに誘い込んだことの罰をも受けねばならないのだからと言われている。至極当然のことだと思う。更に、
他者の悪行で利益を受ける人について、実際に犯行に参加していなくても、その
罪から利益を受ける人は、その罪に参加していることだと言われている。その罪の実行には尻込みしたとしても、悪が実行され、それから利益を受ければ、それはその行為をしたのと同じ事なのだと。尻込みしていなければ、確実にその犯行に参加していたという事だからだと言われている。犯行を実行するしないには関係なく、利益を受け取ること自体が犯行したことと同じであり、その思いは犯行を実行した人と一緒ということなのだから、その罪に参加していることに他ならないということだ
。
1084回目の瞑想
ーーー悪をしようと思うことは、その悪をすることと同じですか。
「それは場合による。悪への欲求を自分で抑えることは良いこと、特にそれがやれる状況にある時には。しかし、やりたくても機会がなくて、それをやらなかった場合は、その悪をしたのと同じ事である」
ーーー神の目から見てよしとされ、未来の幸福を確実にするには、悪を為さなかった、この事で充分でしょうか。
「いや、そうではない。善を為すこと、自分に出来る限りの、この事がまた必要なのである。人は自分の為した悪のすべてに対してだけでなく、し損なった善すべてに対しても、その報いを受けなければならぬのである」
ーーーその立場上、善行が行えないという人がいましょうか。
「善行が出来ないという人は一人もいない。善が行えないというのは利己主義のためである。他者と交わっているという事実がある限り、人は善行を為す機会を持つ。人が利己的でない限り、人は日毎善行の機会を持っている。何となれば、善事を為すとは、人に物を施すことに限らない、他者が助けを必要としている時、出来る限りの手助けをその人にしてあげること、これであろう」
ーーー人の置かれている立場によって、悪徳や罪が非常に犯し易い、そういう事がよくあるのではありませんか。
「左様。しかし、これは本人の霊が出生の前に既に選んだ、試練の一つなのである。これによって抵抗の力を得んが為に、試練に身をさらすことを彼は選んだのである」
ーーー悪徳の雰囲気の中に人が投げ入れられれば、悪への衝動は抑えられないのではありませんか。
「衝動は強い、しかし、堪えられないわけではない。というのは、人は悪徳の中にあっても、徳行を為す機会を見出すものだから。悪徳の誘惑が充ちている中で、徳をしっかりと守る人は、元々誘惑に負けないだけの力を充分に備えている人であり、また、この試練を通じて、彼は衆院の人々に良い影響を与える使命を果たしているのである」
ーーー徳行の価値は、その時本人が置かれていた立場で、評価が違って来るのでしょうか。換言すれば、善行には程度の差がいろいろあるのかという事ですが。
「徳行の価値とは、それを為す困難度にある。もし自己犠牲と努力がなければ、善事の価値はない。神はそれを、富者の多額の献金よりも、貧者の一灯をもって計り給う。イエスはその事を老婆の例え話をもって教えたではないか」
今回も善と悪の続きである。
悪をしようと思う人について、
悪への欲求を実行できる状況にあるのに、その欲求を自分で抑えることは良いことだと言われている。だが、悪への欲求がありながら、その機会がなく、実行できなかった場合は、その悪を実行したのと同じ事であると言われているのだ。例え、思うことでも、その欲求を抑えることが出来なければ、その悪を実行したのと同じになるとは、いやはや肝に銘じないといけない。それは悪への欲求だけではないからだ。思いというのは実体があるとシルバー・バーチ霊も言われている。だからこそ、その思いも実行するのと同じように心しなければならないのだ。次の質問は読んでいてお答えはすぐにわかった。悪だけをしなければいいわけではないことを。最も大事なことは善行を行うということなのだと思う。それは言うは易く行うは難しなのだ。自分としては、善行をしているつもりでも、それが本当に価値ある善行なのかはわからない。後先になってしまうが、最後に徳行の価値とは、とあるが、「それを為す困難度にある。もし自己犠牲と努力がなければ、善事の価値はない」と断言されているのだ。ここまでの善行はなかなかできるものではないので、価値ある善行をしている人というのはほとんどいないということになるのではないだろうか。それとも「善事を為すとは、人に物を施すことに限らない、他者が助けを必要としている時、出来る限りの手助けをその人にしてあげること、これであろう」と言われている程度のことでもいいのだろうか。私のような平凡な人間には少なくともこのお言葉ある善事は為して行きたいと思っている。
次の人の置かれている状況によっては、悪時を犯し易い場合があるについてだが、
これは本人の霊が出生の前に既に選んだ試練の一つなのだと言われ、これによって抵抗の力を得んが為に、試練に身をさらすことを彼は選んだのだと言われているのだ。大変な試練を選んで出生される霊もいるのだと改めて思った。ただ、
悪徳の雰囲気の中に投げ入れられることで、悪への
衝動は強くなると言われる。けれど、堪えられないわけではなく、悪徳の中にあっても、徳行を為す機会を見出すものだからと言われているのだ。そして、悪徳の誘惑が充ちている中で、徳をしっかりと守る人は、元々誘惑に負けないだけの力を充分に備えている人であり、また、この試練を通じて、彼は周囲の人々に良い影響を与える使命を果たしているのであると言われている。ということは、やはりそれだけ霊恪の高い人でなければ、結局は悪に染まってしまうのだろうと思う。悪の誘惑にも負けず、更には周囲の人達にまで良い影響を与える使命があるのは決して
凡人では出来ないからだ。
ところで、最後のお言葉である「神はそれを、富者の多額の献金よりも、貧者の一灯をもって計り給う。イエスはその事を老婆の例え話をもって教えたではないか」は、確かにその通りだと思う。お金持ちで裕福な人は、多額の献金であっても、楽に出せるが、毎日のご飯もまともに食べられないような人が施すお金は同じ価値とは言えない。真心のこもった思いが込められている。それをイエス様が老婆の例え話で教えられたとのことで、調べてみたがわからなかった。
どなたかわかる方がおられたら、ぜひ教えて頂きたいと思っています
。
1085回目の瞑想
ーーーイエスの隣人愛の教えの中に、神法の一切は含まれるのですか。
「確かに、隣人愛の教えの中に、人が人に為すべき義務の一切が包含されている。しかし、これを具体的にどう実行するかを、人々に示さねばなるまい。でないと、今日これを実行するにしても、尻ぬけになってしまうのではないか。更に、天地の法とは、人生のすべての局面を包含しているものであって、諸君が指摘する法はその一部にすぎない。人には明確な指示が必要である。金言は余りに漠然としていて、さて、どう適用するかの段になると、戸惑うものである」
ーーー自然法は十区分に分類したら如何でしょうか。即ち、崇拝・労働・再生産・保存・社会・平等・自由・正義・情愛・隣人愛。
「神法を十区分に分けることは、モーゼの十戒にある。またこう分ければ、大事な点を逃さず、人生の全局面を覆うことになろう。それ故、この分類でよかろう。但し、この分け方が絶対だということでなしに、状況に応じて別の分け方もあり得る、という含みを残すことにして、上記のうち、最後のものは最も重要である。と申すのは、この隣人愛の中に、他の区分の一切が含まれるから。またそれ故、人間の霊性の長足の進歩は、この法の遵守いかんにかかっているのである」
今回は自然法の区分という内容だ。イエス様の隣人愛には、神法の一切が含まれていると言われている。けれど、これを具体的にどう実行するかを私達人間に示さなければならないとのお言葉に、大きく頷いてしまった。私自身も日頃から思っていたことだ。この世のお役目があるとしたら、具体的に教えてもらたいと常にお祈りさせて頂いている。金言は余りに漠然としていて、とはその通りだと思う。人には明確な指示が必要で、どう適用するかについて知ることで、戸惑うことはなくなるのだと思うからだ。ただ、ここではその明確な指示はないので、残念に思う。
また次の十区分に分類したとしても、それこそ漠然で、私はどう行動していいのかわからない。ただ、最後のお言葉にある隣人愛が最も重要だと言われている。それはこの隣人愛の中に、他の区分の一切が含まれるからと。だとしたら、今は少なくともこの隣人愛を目標に些細なことから日々実行していくことが肝要なのだということを肝に銘じて行きたいと思う
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1086回目の瞑想
ーーー人はなぜ崇拝するのですか。
「神へ向かう思いの高まりによって。この崇拝を通じて、魂は歩一歩神に近づく」
ーーー崇拝は内心の声の発動なのですか、それとも教育の所産なのですか。
「神への信などは、内心の声の所産である。人は弱さの自覚によって、自分を守ってくれる存在にすがる気持ちになる」
ーーー崇拝の感情を全く持たない人間がいるものでしょうか。
「いない。今まで無神論の民族は一つもなかったから。どの民族も自分を超える何かの存在を感じている」
ーーー崇拝は自然法の中にその起源があると考えてよろしいですか。
「崇拝は自然法の中に含まれる。それは人間の内心の感情の発露であるから。それ故に、崇拝がその形式は違うにしろ、すべての民族に具わるものだから」
今回は崇拝の目的という内容である。人が崇拝するのは、神へ向かう思いの高まりにより、魂は歩一歩神に近づくと言われている。崇拝は神様に近付くための所以なのだ
。よって
崇拝は神への信への内心の声の所産であるのだ。それは
人は弱さの自覚によって、自分を守ってくれる存在にすがる気持ちになるからだと言われている。確かに自分を守って下さる存在は何にも代え難い。また、人間には限りがあるが、神様は無限であり、不可能なことはない。そのような偉大な存在に対する崇拝する気持ちというのは、内心の声以外にはないのだと思う。そして、
崇拝の感情を全く持たない人間は
いないと言われ、どの民族も自分を超える何かの存在を感じていると言われている。それは潜在的にわかっているからだと思う。
更に、人間の内心の感情の発露である崇拝は自然法の中に含まれると言われ、崇拝がその形式は違うにしろ、すべての民族に具わるものだと言われている
。
1087回目の瞑想
ーーー崇拝は形の上の実践が大切なのでしょうか。
「真実の崇拝は心にある。崇拝を行う時は常に、神の目が貴方に注がれていることを、心に止められよ」
ーーー礼拝の行為は効果がありますか。
「左様、それが形だけのものでないならば。その態度がよろしければ礼拝は常に有効である。しかし、虚飾や形だけの礼拝、尤もらしいばかりで心が伴わぬもの、これは悪い態度であって、本人は気付かぬが害のあるものである」
ーーー神は一定の法式に従って礼拝を行う人達を嘉しとされますか。
「神は心から真摯に礼拝する者を好み給う。また善を為し悪行を避け、自己のために祈らず人の為に祈る者を嘉しとし給う。
人はすべて兄弟であり、神の子等である。故に、神は神の法に従うすべての者を御許に呼び集め給う、その礼拝の形式が何であろうと。形だけの祈りを捧げる者は偽善者である。格好だけの祈り、祈りと行状の違う者、これは悪い礼拝を捧げる者である。キリストの名を口で唱えながら、高慢で、嫉妬深く、ひがみっぽく、人を許すことを知らず、地上の財貨を追い求める者は、口先だけの信仰で心の伴わぬ者達である。すべての事を見行みそなはす神は、このような者にこう申されておる、『真理を知りながらこれに従わぬ者は、野蛮人に比して、同じ悪行でも百千倍の罪に値する、やがての日それ相応の報いを受けようと』盲人が道で貴方にぶつかれば、貴方はこの者を許す。しかし目明きが同じ事をすれば、貴方はこれを咎める。これは道理である。だから、どんな礼拝の仕方がよいかなど、問わぬこと。それは、神に向かってどちらの御世辞がよろしいですか、と問うているに等しい。神への賛歌は、心のドアを通って神に届く、この事を心得られよ」(明日に続く)
今回は崇拝の実践についての内容である。最初のお答えには感動すら覚えた。真実の崇拝は心にあり、崇拝を行う時は常に神の目が貴方に注がれていると言われているのだ。そして、心に止められよと。瞑想時に真摯なお祈りをしている私にとって、これほど有難いお言葉はない。その時に神様が私を見ておられるとのことに心が震えた。本当に有難いことだと思う。また礼拝に関しても、真まことの心からの礼拝は有効であると言われている。だが、心が伴わず、形ばかりの礼拝は害すらあると言われているのだ。ということは、心が伴わないお祈りはしない方がましだということになる。更に次の質疑応答の素晴らしさには感服する。特に「善を為し悪行を避け、自己のために祈らず人の為に祈る者を嘉しとし給う」とのお言葉は心しなければと早速、そのようなお祈りを始めた次第だ。また「祈りと行状の違う者」このお言葉には苦笑してしまう。私自身がそうだからだ。ただ、これはお祈りと同じ行為をしたいと思いながらも、なかなか出来ないということなのだ。お祈りの内容を実行できるように努力はしているが、なかなか思うようには行かない。けれど、改めて悪いお祈りを捧げる者とならないよう心に深く刻もうと思う。更に神様が言われる「真理を知りながらこれに従わぬ者」とのお言葉は、従わないのではなく、真理を知ったからこそ、従いたい気持ちは言葉では言えないほどあるのだが、なかなか実行が伴わないということなのだ。けれど、例えにもあるように、どのような人が道で私にぶつかってこようとも、それを許せるような心になるべく努力して行きたいと心底思わせて頂いた。それはもちろん、例えにあることだけではなく、私に対してどのような被害があろうともその相手を許せるようになるということだ。言うは易く行うは難しではあるが、努力して行く以外にないと思っている。そして、真まことの心で、真摯に神様にお祈りを唱えれば、必ず神様に届くのだということを肝に銘じたいと強く思った。必ず神様は見ていて下さるのだから。そう思うと涙が溢れた。