備忘録
MEMORANDUM12(2023/10月〜2024/1月)

  日々の瞑想や霊的なことなどを綴っていきたいと思っています
私はクラッシック音楽がとても好きなので、クラッシック音楽を取り入れた形の自由な瞑想をしております。
(マーラー作曲:交響曲9番の4楽章を2回聴く)
写真と内容は関係あるものとそうでないもがあります。(写真は主に私が撮ったものを載せてます)
私自身の記録用なので、参考程度に読んで頂けたらと思います。
下記の(アコーディオン形式)日付をクリックしてください。


 
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ペットのおうち

1418回目の瞑想

 
新しい年が明けて、1月も中旬過ぎとなってしまいました。
去年は「ベールの彼方の生活」の2巻を記載すると書きましたが、内容が高度なためになかなか難しいので、いろいろと考慮したあげく、「シルバー・バーチの霊訓」の総集編としての煌めく名言を集めてと題された12巻をお送りすることに決めました。
最初はシルバー・バーチ霊の巻頭言です。
本書は霊の世界の祝福を受けて物質の世界へ届けられるものです。願わくば今これを手にされたあなたが、本書を読まれることによって心の目を開き魂に感動を覚えられんことを祈ります。生命の物的諸相の背後にあるより高い、より深い、より尊い、そしてより雄大な側面に気づくまでは、その人は暗い霧の中で生きていることになるのです。
 
次にシルバー・バーチ霊の交霊会を主催されておられたハンネン・スワッハー氏のお言葉です。
「そわれわれがシルバーバーチと呼んでいる霊は実はレッド・インディアンではない。いったい誰なのか、今もって分からない。分かっているのは、その霊は大へんな高級界に所属していて、その次元からは直接地上界と接触できないために、かつて地上でレッド・インディアンだった霊の霊的身体を中継してわれわれに語りかけている、ということだけである。
いずれにせよ、その霊が〝ハンネン・スワッハー・ホームサークル〟と呼称している交霊会の指導霊である。その霊が最近こんなことを言った。 ≪いつの日か私の(地上時代の)本名を明かす日も来ることでしょうが、私は仰々しい名前などを使用せずに皆さん方の地上の人間の愛と献身とを獲得し、私の説く中身の真実性によってなるほど神の使徒であることを立証すべく、こうしてインディアンに身をやつさねばならなかったのです。それが神の御心なのです≫
ところで、私とシルバーバーチとの出会いは一九二四年スピリチュアリズムの真実性を確信して間もない頃のことだった(※)。以来私は毎回一時間余り、シルバーバーチの教えに耳を傾け、導きを受け、助言を頂き、いつしかその霊を地上のいかなる人物よりも敬愛するようになった。
(※スワッハーは招かれたある交霊会に大先輩のノースクリッフ卿が出現して、どうしようもない証拠を見せ付けられたことがきっかけで死後の存在を信じるようになった。折しも友人のバーバネルが霊能を発揮し始め、スワッハーの自宅で交霊会を催すようになった。それが〝ハンネン・スワッハー・ホームサークル〟と呼ばれるようになったゆえんである───訳者)
シルバーバーチの地上への最初の働きかけは普通より少し変わっていた。スピリチュアリズムを勉強中の十八歳の無神論者が、ある時ロンドンの貧民街で行われていた交霊会にひややかし半分の気持ちで出席した。そして霊媒が次々といろんな言葉でしゃべるのを聞いて、思わず吹き出してしまった。ところがその中の一人が「そのうちあなたも同じことをするようになりますよ」と諌(イサ)めるように言った。その時はバカバカしいという気持ちで帰ったが、翌週再び同じ交霊会に出席したら、途中でうっかり居眠りをしてしまった。目覚めると慌てて非礼を詫びたが、すぐ隣に座っていた人が 「あなたは今入神しておられたのですよ」 と言ってから、続けてこう言った。「入神中にあなたの指導霊が名前をおっしゃってから、今日までずっとあなたを指導してきて、間もなくスピリチュアリストの集会で講演をするようになると言っておられました」
これを聞いて若者はまた笑い飛ばした。が、それが現実となってしまった。
当時はシルバーバーチは多くを語ることができず、それもひどいアクセントだった。それが年をへるにつれて、入神させて語る回数が増えたことも手伝って英語がめきめき上達し、今日ではその素朴で流麗な英語は、私がこれまでに聞いたいかなる演説家もその右に出る者はいないほどである。
 ところで〝霊媒のバーバネルが本当に入神していることをどうやって確認するのか〟という質問をよく受けるが、実はシルバーバーチがわれわれ列席者に霊媒の手にピンを差してみるように言ったことが一度ならずあった。恐る恐るそっと差すと、思い切って深く差せと言う。すると当然、血が流れる。が、入神から覚めたバーバネルに聞いてもまるで記憶がないし、その跡形も見当たらなかった。
もう一つよく受ける質問は、霊媒の潜在意識の仕業でないことをどうやって見分けるのかということであるが、実はシルバーバーチとバーバネルとの間には思想的に完全に対立するものが幾つかあることが、そのよい証拠といえよう。
たとえばシルバーバーチは再生説を説くが、バーバネルは通常意識の時は再生は絶対にないと主張する。そのくせ入神すると再生説を説く。(晩年は信じるようになった──訳者)
ささいなことだが、もう一つ興味深い事実を紹介すると、シルバーバーチの霊言を〝サイキックニューズ〟紙に掲載することになって速記録が取られるようになるまでのことであるが、バーバネルがベッドに入ると、その日の交霊会で自分が入神中にしゃべったことが霊耳に聞こえてくるのだった。
これには訳がある。バーバネルはもともと入神霊媒となるのが嫌だったのであるが、自分がしゃべったことを後で全部聞かせてくれるのならという約束をシルバーバーチとの間で取り付けていたのである。速記録が取られるようになると、それきりそういう現象は止まった。
翌日その速記録が記事となったのを読んで、バーバネルは毎度の如くその文章の美しさに驚く───自分の口から出た言葉なのに。(この後の <シルバーバーチに最敬礼する> 参照)
シルバーバーチは教えを説くことに専念しており、病気治療などは行わない。また心霊研究家が求めるような、証拠を意図したメッセージもあまり持ち出すことをしない。
誠に申し訳無いが自分の使命は霊的教訓を説くことに限られているので・・・・・・と言って、われわれ人間側の要求のすべてに応えられない理由を説明する。
私は最近、各界の人物を交霊会に招いている。牧師、ジャーナリスト、その他あらゆる分野から招待しているが、シルバーバーチという人物にケチをつける者は一人としていない。
そのうちの一人で若い牧師を招いた時に私は前もって〝あなたの考える得る限りの難解な質問を用意していらっしゃい〟と言っておいた。日ごろ仲間の牧師からさんざん悪口を聞かされている〝交霊会〟というものに出席するというので、この機会に思い切ってその〝霊〟とやらをやり込めてやろうと意気込んできたらしいが、
シルバーバーチが例によって〝摂理〟というものを易しい言葉で説明すると、若者はそれきり黙り込んでしまった。難解きわまる神学がいとも簡単に解きほぐされてしまったからである。
さて、そのシルバーバーチを支配霊とする私のホームサークルは、毎週金曜日の夜に開かれる。(当初は週一回、中年からは月一回となり、晩年は不定期となった───訳者)その霊言は定期的にサイキックニューズ紙に掲載される。
その版権が私のホームサークルに所属するのは、サークルとしての私用を目的としてのことではなく、これを世界中に広めるためである。今ではシルバーバーチは地上のいかなる説教者よりも多くのフアンを持つに至っている。あらゆる国、あらゆる民族、あらゆる肌色の人種の人々に敬愛されている。
しかし実を言うと、いったん活字になってしまうと、シルバーバーチの言葉もその崇高さ、その温かさ、その威厳に満ちた雰囲気の片鱗しか伝えることができない。
交霊会の出席者は思わず感涙にむせぶことすらあるのである。シルバーバーチがどんなに謙虚にしゃべっても、高貴にして偉大なる霊の前にいることをひしひしと感じる。決して人を諌めない。そして絶対に人の悪口を言わない。
キリスト教では〝ナザレのイエス〟 という人物についてよく語るが、実際には本当のことはほとんど知らずに語っているし、イエスという人物が存在した証拠は何一つ持ち合わせない。シルバーバーチはそのイエスを、彼が連絡を取り合っている霊団の中でも最高の霊格を持つ存在に位置づけている。
永年にわたってシルバーバーチと親しく交わってきて私はその誠実な人柄に全幅の信頼を置いているので、われわれはシルバーバーチの言う通り、新約聖書の主役であるイエス・キリストは地上で開始した霊的革新の使命に今なお携わっていると確信する。
そう信じで初めて〝見よ!私はこの世の終わりまで常にあなた達とともにいる〟(マタイ28・20)というイエスの言葉の真実の意味が理解できる。今の教会ではこの説明はできない。
シルバーバーチの哲学の基本的概念はいわゆる汎神論である。すなわち神は大自然そのものに内在し、不変の法則としてすべてを支配している。要するに神とはその法則(摂理)なのである。
それをシルバーバーチは〝あなたがたは大霊の中に存在し、また大霊はあなたがたの中に存在します〟と表現する。ということは、われわれ人間もみな潜在的にはミニチュアの神であり、絶対的創造原理の一部としての存在を有しているということである。
もっともシルバーバーチは理屈をこね回すだけの議論には耳を貸さない。人間は何らかの仕事をするたためにこの地上へ来ているのだということを繰り返し説き、宗教とは〝人の為に自分を役立てること〟と単純明快に定義する。
そして、お粗末とはいえわれわれは、今この地上にあって戦争に終止符を打ち飢餓を食い止め、神の恩寵が世界中にふんだんに行きわたる時代を招来するための、霊の道具であることを力説する。
〝われわれが忠誠を捧げるのは一つの教義でもなく、一冊の書物でもなく、一個の教会でもなく、生命の大霊とその永遠不変の摂理である〟───これがシルバーバーチの終始一貫して変わらぬ基本姿勢である。

そして最後はシルバー・バーチ霊の霊媒であられたモーリス・バーバネル氏のお言葉です。
シルバーバーチの教えは言わば言葉の錬金術、つまりアルファベットの二十六文字を操って輝くばかりの美しい言葉を生み出す能力の典型である。年がら年中物を書く仕事をしている人間から見れば、毎週毎週ぶっつけ本番でこれほど叡智に富んだ教えを素朴な雄弁さで説き続けることそれ自体が、すでに超人的であることを示している。
ペンに生きる他のジャーナリストと同様、私も平易な文章ほど難しいものはないことを熟知している。誰しも単語を置き換えたり削ったり、文体を書き改めたり、字引や同義語辞典と首っ引きでやっと満足のいく記事ができ上がる。
ところがこの〝死者〟は一度も言葉に窮することなく、スラスラと完ぺきな文章を述べていく。その一文一文に良識が溢れ、人の心を鼓舞し、精神を高揚し、気高さを感じさせる。
シルバーバーチは宗教とは互いに扶助し合うことに尽きると言う。神とは自然法則であり、腹を立てたり復讐心をむき出しにする人間的な神ではないと説く。その言葉の一つ一つがダイヤモンドの輝きに似たものがある。
その人物像もまさしく〝進化せる存在〟であり、全人類への愛に満ち、世故たけた人間の目には分からなくても、童子の如き心の持ち主には得心のいく真理を説き聞かそうとする。
迷える人類のために携えてきたメッセージは〝人のために自分を役立てなさい〟ということしかないと言いつつも、そのたった一つの福音の表現法はキリがないかに思えるほど多彩である。
永年にわたってその霊言に親しんできた者として、ますます敬意を覚えるようになったこの名文家、文章の達人に私は最敬礼する。
 
明日から煌めく名言を記載していこうと思います。
最初はシルバー・バーチ霊の「霊団の使命」という題名です。  

1419回目の瞑想

 
1章 霊団の使命
(1)私たち霊団の者も皆さんも、ともに大霊への奉仕者です。ただ私たちは皆さんよりホンの少しばかり先を歩んでいるというに過ぎません。そこでこうして引き返してきて、これまでに学んだものの中から皆さんのお役に立つものをお分けしようというわけです。
お互いに扶助し合うということが生命の根本原理だからです。互助の精神のないところには荒廃があるのみです。互助の精神のあるところには平和と幸せが生まれます。地上世界はその互助の精神によって新しい社会を築かないといけません。原理はいたって簡単なのです。人間がそれをややこしくしているのです。
 
 
互助の精神のあるところには平和と幸せがあると言われています。世界の人々にこの互助の精神があれば、この地上も天国となるのでしょう。 また、新しい社会を築くためにはこの互助の精神がないといけないと断言されています。確かに原理は簡単でシンプルです。それぞれの立場、想いや考え方などを尊重し、お互いを思い合う思いやりさえあれば、可能なことなのだと思いますが、自分だけの、自分の家族だけの、そして自分の国だけの利益だけを考えていては、到底互助の精神は生まれません。 生命の根本原理であるお互いの奉仕の精神を思い起こして、この地上世界をよりよいものしていけたらと切に願っています。

1420回目の瞑想

 
(2)そもそも私たちが地上へ戻ってくる目的はそこにあるのです。すなわち、たった一冊の書物、たった一つの宗教、たった一人の指導者───それが地上の人間であっても霊界の存在であっても───そういう限られたものに自分のすべてを託してはいけない、それよりも神の摂理に従順であるように心掛けなさいと申し上げるためです。それだけは絶対に裏切らない、絶対に間違うということがないからです。
 
 
この世の中は、あまりにも間違った宗教、偽霊能者に依存する人が多すぎます。それは神様の摂理に無知だからだと思っています。知る機会もなかなかないのが現状です。だからこそ、シルバー・バーチの霊訓を、霊的真理を普及して行かなければいけないのだと思っています。
神様の摂理に適った生き方をすることこそが、人間の生きる意義なのだと思います。

1421回目の瞑想 

 
(3)地上世界にもこれまでに何度となく霊的啓示がもたらされ、そして失われていくということが繰り返されてまいりましたが、今度こそは前面に押し出して二度と失われることのないようにしようとの決意のもとに、大々的な努力がなされております。
私はそのための一個の道具に過ぎません。今度こそは物質万能主義と利己主義の勢力の跋扈ばっこを抑制し、人間がややもすると囚とりこになってしまいがちな煩悩に負けないようにするための努力がなされております。そのためには日常生活の中にそうした霊的真理を生かしていくしかないのです。
 
霊界側もかなりの決意のもとに、シルバー・バーチ霊を送られてきたのでしょう。シルバー・バーチ霊ほどのお方でも、一個の道具にすぎないと言われています。物質万能主義と利己主義の勢力をのさばらせないようにするために、です。また人間は煩悩にすぐに負けてしまいますが、日常生活にこそ、霊的真理を知り生かして行くことが最も大事なことなのだと説いて下さっているのです。

1422回目の瞑想

 
(4)私たちがこうした真理の普及に努力するのは、それが霊的摂理のみならず物的法則とも密接に係わりあっているからです。私たちの目から見れば物質界も大霊の支配下の全大宇宙の一部であり、絶望の淵にあえぐ地上人類の苦悩に無関心でいては、宗教心を説く資格はありません。
 
そうなのですね。霊的真理の普及の大切さは物的法則とも密接な関係があるからなのですね。確かに神様は物質界も司っておられますから、地上人類の苦しみに無関心であられるわけはありませんよね。いつも地上人類のことも見守って下さっているのだと確信できます。

1423回目の瞑想

 
(5)私は私をこの地上へ派遣した霊団の代弁者(マウスピース)に過ぎません。私自身の栄誉とか報賞とかを求める気持ちはみじんもございません。誇大に宣伝したり地上時代の偉そうな人物名を名乗ったりする趣味も持ち合わせません。
私はただこれまで申し上げたような霊的真理、永い間忘れ去られていた真理に改めて〝神の真理〟のシールをはって、こうして地上へお届けするための道具であることに喜びを感じているのです。
 
 
感想を述べるまでもなく、この文章だけでシルバー・バーチ霊がどれほどの霊恪の持主であるかということは分かります。私達人間のために、神様の摂理を、霊的真理を地上に普及すために降りて来て下さったのだと、改めて感謝の気持ちでいっぱいになりました。

1424回目の瞑想 

 
(6)私の役目は私の所属する霊団からのメッセージをお届けすることです。手塩にかけて養成したこの霊媒と私自身の霊力の力量の範囲内で受け取ったものを忠実に伝達する努力を続けてまいりました。私はただお役に立てばそれで良いのです。
もしも私がお伝えするささやかな教えが、人生の嵐の中にあるたった一個の魂の一服の憩いとなり、疑念の嵐をくぐり抜けた後の確信の港となれば、あるいは又、こうした一見何でもなさそうな素朴な霊的真理の聖域の中に幸せを見出し生き甲斐を覚えさせてあげることになれば、父なる神から仰せつかった仕事のいくばくかを成就したことになります。
 

愛する一人息子を亡くした時に、シルバー・バーチ霊のお言葉は、心に響きました。まるで私に言われているのではないかと思うほどでした。それだけに、救われた思いになったのです。あれだけ辛く苦しく悲しみに明け暮れていた日々が嘘のように、明日へと生きる希望に変わったのです。心から感謝致しております。
 

1425回目の瞑想

 
(7)こうして私たちが霊的真理の普及に努力している一方には、この真理そのものよりもそれを伝える道具つまり通信霊の身元の詮索の方が大事だと思っている人が大勢いるようです。
その霊が地上で白人であろうが黒人であろうが黄色人種であろうがレッド・インディアンであろうが、それでどう違ってくるというのでしょう。
神の真理が教養豊かな人によって届けられようと無学な人によって届けられようと、それが真理に間違いなければ、純粋の真理でありさえすれば、そんなことはどうでもよいことではないでしょうか。
 
 
確かに仰る通りだと思います。ただ人間はやはりこの世の肩書きや身元などに関心が向いてしまうものだと思います。霊的真理が本物であれば、それを伝えてくれる霊であれ人であれ、その中身が大事であり、伝えてくれる人がどのような生い立ちであろうと、関係ないことなのですよね。でも知りたくなるのが人間なのかも知れません。

1426回目の瞑想

 
(8)私たちは物質の世界の子等がいかにすれば伸び伸びと生きることができるか、いかにすれば霊的真理の光に浴することができるか、いかにすれば人間的産物である教義への隷属状態から脱け出せるかをお教えしようと努力しているところです。
もとよりそれは容易な仕事ではありません。なぜなら、いったん宗教的束縛を受けるようになると、その迷信の厚い壁を真理の光が突きぬけるには永い時間を要するからです。
 
 
このお言葉から、素直であること、聞く耳を持てる人間になることなどを示唆されているのだと感じます。間違った宗教にはまってしまうと、聞く耳を持つことは出来なくなり、本物の真理に素直に従うことが出来なくなるのだと思います。迷信の厚い壁と言われておりますが、その厚い壁は例え本物の真理の光でも、突き抜けるには永い時間を要するとのことです。肝に銘じるべきお言葉だと感じました。

1427回目の瞑想

 
(9)強大な霊の勢力があなた方の物質の世界へ差し向けられております。すべての国において霊力の強い働きかけが感じ取れるようになるでしょう。地上世界にはびこる利己主義と無知に対抗して、なすべき大切な仕事があるからです。いずれはそれも征服されることでしょうが、それまでの過程において大変な苦悩があることでしょう。
 
強大な霊の勢力が、100年前に地上世界へ差し向けられており、そして、地上世界にはびこる利己主義や無知を払拭されていたのだと思います。ですが、未だ征服には至らず、今現在も過渡期であるのか、この世の中は大変な状況を強いられています。いつになったら、征服されるのでしょうか、とシルバー・バーチ霊に問いたい気持ちになります。

1428回目の瞑想

 
(10)皆さんの味方として差し向けられる霊はいろいろです。地上で顔見知りだった人、血縁のあった人、さらにはそうした地上的縁とは無関係に、ただ地上人類への愛に動かされてやってくる高級霊もいます。
背後霊というと人間はとかく名前を知っている人たちのことを頭に浮かべがちですが、その他に、自分の存在を知ってもらいたいとも功績を認めてもらいたいとも思わず、ただ持てる霊力を役立てたい一心から働きかける霊が無数にいることを忘れないでください。
 
 
このことは、私達人間には視えないので、仕方ない面もあるのではないかと思います。それだけいろいろな霊の方に支えてもらい、助けてもらっているのに、感じることもできないのは本当に申し訳ない思いです。
ただ、私は護られていることだけは実感しております。それだけは身を持って体験しているので、自信を持って言えますが、霊を視ることができないので、それは残念です。

1374回目の瞑想

 
ーーー物語に出て来る妖精フェアリーとか小妖精ピクシーとか精霊エレメンタルといった類のことですか。
「その通り。みな本当です。それに大抵は優しい心をしています。ですが進化の程度から言うと人類よりは遙かに低く、それで人霊とか、天使と呼ばれるほどの高級霊ほどその存在が知られていないわけです。
さて地球それ自身についてもう少し述べてみましょう。地質学者は岩石の形成過程を沖積層とか火成岩とかに分けますが、よく観察すると、その中には蒸気状の発散物ーー磁気性の成分とでも言ってよさそうなものを放出していることがあることが判ります。それが即ち、その形成を根源において担当した霊的存在による”息吹き”の現れです。こうした性質はこれまで以上にもっともっと深く探求する価値があります。化学的成分の分析はほぼ完了したと言えますが、休むことなく活動しているより精妙な要素の研究が疎かにされている。岩石の一つ足りとも休止しておらず、全成分が整然と休むことなく活動しているというところまで判れば、その作用を維持し続けるためには何か目に見えざる大きなエネルギーが無ければならないこと、さらにその背後には或る個性をもった”施主”が控えているに相違ないという考えに到達するには、もうあと一歩でしかありません。
これは間違いない事実です。その証拠に、そうした目に見えない存在に対する無理解のために被害を被ることがあります。これは低級な自然霊の仕業です。一方”幸運の石ラッキーストーン”と呼ばれるものをご存知と思いますが、これはいささか曖昧ではありますが背後の隠れた真相を物語っております。こうした問題を検討するに際しては”偶然”の観念を一切拭い去って秩序ある因果律と置きかえ、その因果律を無知なるが故に犯しているその報いにすぎないとお考えになれば、吾々が言わんとすることにも一理あることを認めて頂けるでしょう。
便宜上、話題を鉱物にしぼりましたが、同じことが植物界や動物界の創造にも言えます。今夜はそれには言及しません。こうした話題を提供したのは、科学に興味を抱く人でこれまでの科学では満足出来ずにいる人に、見えざる世界に臆することなく深く踏み込める分野がいくらでも開けていることをお知らせしようという意図からです。
以上を要約してみましょう。それに納得が行かれれば、吾々が意図した結論も必然的に受け入れねばなりません。つまり物的創造物はどれ一つとってもそれ自体は意味がないし、それ一つの存在でも意味がない。それは高級神霊界に発した個性的意念が低級界において物質という形態となって表現されているもので、霊的想念が原因であり、物的創造はその結果だということです。ちょうど人間が日常生活において自分の個性の印象を物体に残しているように(※)、創造界の神々とその霊団が自然界の現象に個性を印象づけているわけです。
(※サイコメトリという心霊能力によって、物体を手にするだけでその物体に関わった人間のことが悉ことごとく読み取れるーー訳者)
何一つ静止しているものはありません。全てがひっきりなしに動いております。その動きには統一と秩序があります。それは休むことなく働きかける個性の存在を証明するものです。下等な存在が高等な存在の力によって存続するように、その高等な存在はさらに崇高なる守護神の支配を受け、その守護神は宇宙の唯一絶対のエネルギー、すなわち宇宙神の命令下にあります。が、そこに至るともはや吾々の言語や思索の域を超えております。
宇宙神に対しては、全てはただただ讃仰の意を表するのみであり、吾々は主イエスの御名において崇敬の意を表するのみです。全ては神の中に在り、全ての中に神が在 します。 アーメン 

1375回目の瞑想

 
4 霊的世界の構図
「今夜もまた貴殿のご母堂並びにその霊団の要請を受け、私の霊団と共にメッセージを述べに参りました。貴殿にとって何がもっとも興味があろうかと考えた挙げ句に吾々は、地上へ向けられている数々の霊力の真相をいくらかでも明かせば、貴殿並びに貴殿の信者にとって、地上生活にまつわる数々の束縛から解脱した時に初めて得られる厖大ぼうだいな霊的知識へ向けて一歩でも二歩でも近づく足掛かりとなり、天界の栄光へ向けて自由に羽ばたくことになろうとの結論に達しました。」
 
ーーーどなたでしょうか。
「前回と同じ者ーーアストリエルとその霊団です。第十界(※)より参りました。話を進めてよろしいか。」
(※界が全部で幾つあるかについての回答はこの先に出てくるーー訳者)
 
ーーーどうぞ。ようこそ、この薄暗い地上界へ降りて来られました。さぞ鬱陶しいことでしょう。
「”降りて来る”と仰いましたが、それは貴殿の視点からすればなかなかうまい表現ですが、実際の事実とは違いますし、完璧な表現でもありません。と言うのは、貴殿が生活しておられる天体は虚空に浮いているわけですから”上”とか”下”とかの用語の意味が極めて限られたものとなります。そのことはすでに貴殿の筆録したもの、と言うよりは霊的に印象づけられたものをお読みになって気づいておられるはずです。
最初に”地上へ向けられている数々の霊力”と申しましたが、これは勿論地上の一地域のことではありません。地球と呼ばれる球体全部を包括的に管理している霊力の働きのことです。地球の周りに幾つもの霊的界層があり、言わば同心円状に取り巻いております。下層界ほど地表近くにあり、距離が遠のくほど力と美が増して行きます。もっとも、その距離を霊界に当てはめる際は意味を拡大して理解して頂かないといけません。吾々にとっては貴殿らのような形で距離が問題となることがないからです。
例えば、私がそのうちの十番目の界にいる以上は、大なり小なりその界特有の境涯によって認識の範囲が制限されます。時折許しを得てすぐ上の界、あるいは更にその上まで訪れることは出来ますが、そこに永住することは許されません。一方、下の界に住むことは不可能ではありません。何となれば、私が住む第十界も球体をしていますから、幾何学的に考えても、下の九つの界を全部包含していることになるからです。従ってこれを判りやすく言い変えれば次のようになりましょう。すなわち地球は数多くの界の中心に位置し、必然的にその全ての界層に包まれている。故に地上の住民はその全ての界層と接触を取る可能性を有しており、現に霊的発達程度に応じて接触しているーーあくまで霊的発達程度です。なぜならその界層はすべて霊的であり、物質的なものではないからです。
その地球の物質性も実は一時的な現象にすぎません。と言うのは、地球はそれを取り巻く各界の霊力が物質となって顕現したものだからです。実はそれらの界の他にも互いに浸透し合っている別の次元の界の影響もあるのですが、それは措おいておきます。当面は今まで述べたもののみの考察に留めましょう。」

1376回目の瞑想

 
「さて、これで人間の抱く願望とか祈願とかがどういう意味を持つかが、ある程度お判りでしょう。絶対的創造神並びに(貴殿らに判りやすい言い方をすれば)最高界ないしは最奥界にあって他の全ての界の全存在を包含する聖霊との交わりの手段なのです。
従って地球は創造神より託された計画のもとに働く聖霊によって行使される各種の、そして様々な程度の霊的影響力によって取り囲まれ、包み込まれ、その影響を受けているのです。
しかし、向上して行くと事情は一段と複雑になってまいります。地球に属するそうした幾つかの界層に加えて、太陽系の他の惑星の一つ一つが同じように霊的界層を幾つも持っているからです。地球から遠く離れて行くと、地球圏の霊界と一番近くの惑星の霊界とが互いに融合し合う領域に至ります。各惑星にも地球と同じように霊的存在による管理が行き届いておりますから、それだけ複雑さが増すわけです。ここまで来ると、霊界の探求が地上の熱心な方がお考えになるほどそう簡単にできるものでないことが判り始めます。
ちなみに太陽を中心に置いてその周りに適当に惑星を配置した太陽系の構図を画いてみて下さい。それから、まず地球の周りに、さよう、百個ほどの円を画きます。同じことを木星、火星、金星、その他にも行います。太陽にも同じようにして下さい。これで神界までも探求の手を広げることの出来る、吾々の汲めども尽きぬ興味のある深遠な事情が大雑把ながら判って頂けるでしょう。
しかし、事はそれでおしまいではありません。いま太陽について行ったことを他の恒星とその惑星についても当てはめてみなくてはなりません。こうして各々の太陽系について行った上で、今度は太陽系と太陽系との関係についても考えなくてはなりません。これで、あなたがこちらへお出でになったら知的探求の世界が無限に広がっていくと述べた真意が理解して頂けるでしょう。
ところで、その霊的界層は全部で幾つあるかという質問をよく受けます。ですが、以上の説明によって、まさか貴殿が同じ質問をなさることはありますまい。万一お聞きになっても、たかが第十界の住民にすぎない吾々にはこうお答えするしかありませんーー”知りません。また、これ以後同じ質問を何百万回、何億回繰り返され、その間吾々が休むことなく向上進化し続けたとしても、多分同じ返事を繰り返すでしょう”と。」

1377回目の瞑想 

 
「さて貴殿にはこの問題を別の角度から考えてみて頂きたい。以上述べた世界は霊的エネルギーの世界です。ご承知の如く天体は科学者が”引力" と呼ぶところのエネルギーによって互いに影響しあっておりますが、各天体の霊界と霊界との間にも霊的エネルギーによる作用と反作用とがあります。先程の太陽系の構図をご覧になればお判りの通り、地球はその位置の関係上、必然的に数多くの界層からの作用を受け、それも主として太陽と2,3の惑星が一番大きいことが推察されます。
その通りです。占星術にもやはり意味があるのです。科学者はそれについて余計な批判はしない方がいいでしょう。と言うのは、霊的エネルギーというのものが厳として存在することを理解しない科学者には到底理解し難いことであり、ともすると危険でもあるからです。霊的エネルギーには実質があり、驚異的な威力を秘めております。それがあればこそ各界がそれなりの活動ができ、なおかつ他の天体の霊界との関係も維持されているのです。こうした問題になると最高の崇敬の念と祈りの気持ちを持って研究に当たらねばなりません。何となれば、そこは天使の経綸する世界であり、更にその上には全ての天使をも一つに収めてしまう宇宙の大霊が在しまし、吾々はただ讃仰を捧げるのみ。何とお呼びすべきかも知りません。近づかんとすれば即座に己れの力の足らなさを思い知らされます。距離を置いて直視せんとしても、その光の強さに目が眩み、一面真っ暗闇となってしまいます。
しかし貴殿に、そして未知なるものへ敬虔の念を抱かれる方に誓って申し上げますが、例え驚異によりて幾度も立ちすくまされることはあっても、神の存在感の消え失せることは決してないこと、神の息吹とは即ち神の愛であり、その導きは慈母が吾が子を導く手にも似て、この上なく優しいものであることを自覚せぬ時は一時いっときたりともありません。それ故、貴殿と同じく吾々は神を信じてその御手にすがり、決して怖れることはありません。栄光より更に大いなる栄光へと進む神々の世界は音楽に満ち溢れております。友よ来たれ。挫けず倦まず歩まれよ。と申し上げたい。行く手を遮る霧も進むにつれて晴れ行き、未知の世界を照らす光が一層その輝きを増すことでしょう。未知の世界は少しも怖れるに及びません。故に吾々は惑星と星辰の世界の栄光と神の愛の真っ只中を幼子の如く素直に、そして謙虚に歩むのです。
友であり同志である貴殿に今夜もお別れを述べると同時に、この機会を与えて下さったことに感謝申し上げます。吾々の通信が、例え数は少なくとも、真理を求める人にとって僅かでもお役に立つことを祈っております。では改め得てお寝みを申し上げます。神のお恵みを。
 
一昨日の瞑想でのことを記しておきます。
呼吸に集中していると次のようなお言葉が浮かんできたのです。
「心に悩みを持つことは悪い事ではない。だが、その悩みに翻弄されてはならぬ。どのように乗り越え、実践するか。それが、生きる意味である。
正しき道を進むがよい。正しき道を求めれば、正しき道しかないのである。
神の道を歩め。それには心の姿勢を正すことがもっとも大事なことである。
いつの世も真理は一つ。心の正しい姿勢は魂の現れである。
自らを律するのである。」   以上です。
今回の「挫けず倦まず歩まれよ。」との内容に符合しているように感じたので記載させてもらいました。

1378回目の瞑想

 
5 果てしなき生命の旅
「今夜も、もしよろしければ、死後の世界に関する昨夜の通信の続きをお届けしようと思います。
引き続き太陽系に関してですが、昨日の内容を吟味してみると、まだまだ死後の世界の複雑さの全てを述べ尽くしておりません。と言うのも、太陽と各惑星を取り巻く界層が互いに重なり合っているだけでなく、それぞれの天体の動きによる位置の移動ーーある時は接近しある時は遠ざかるという変化に応じて霊界の相互関係も変化している。それ故、地球へ押し寄せる影響力は一秒たりとも同じではないと言っても過言ではありません。事実その通りなのです。
また同じ地球上でもその影響の受け方、つまり強さは一様ではなく場所によって異なります。それに加えて、太陽系外の恒星からの放射性物質の流入も計算に入れなければならない。こうした条件を全て考慮しなければならないのです。何しろそこでは霊的存在による活発な造化活動が営まれており、瞬時たりとも休むことがないことを銘記して下さい。
以上が各種の惑星系を支配している霊的事情のあらましです。地上の天文学者の肉眼や天体望遠鏡に映じるのはその外面にすぎません。ところが実は以上述べたことも宇宙全体を規模として考えた時は大海の一滴にすぎない。船の舳先へさきに立っている人間が海のしぶきを浴びている光景を思い浮かべて頂きたい。細かいしぶきが霧状になって散り、太陽の光を受けてキラキラと輝きます。その様子を見て”無数のしぶき”と表現するとしたら、ではそのしぶきが戻って行く海そのものはどう表現すべきか。キラキラ輝く満天の星も宇宙全体からすればその海のしぶき程度にすぎません。それも目に見える表面の話です。しぶきを上げる海面の下には深い深い海底の世界が広がっている如く、宇宙も人間の目に映じる物的世界の奥に深い深い霊の世界が広がっているのです。」

1379回目の瞑想

 
「もう少し話しを進めてみましょう。そもそも”宇宙”という用語自体が、所詮表現出来るはずのないものを表現するために便宜的に用いられているものです。従って明確な意味は持ち合わせません。地上のある詩人が宇宙を一篇の詩で表現しようとして、中途で絶望して筆を折ったという話がありますが、それでよかったのです。もしも徹底的にやろうなどと意気込んでいたら、その詩は永遠に書き続けなければならなかったことでしょう。
一体宇宙とは何か。どこに境涯があるのか。無限なのか。もし無限だとすると中心が無いことになる。すると神の玉座はいずこにあるのか。神は全創造物の根源に位置していると言われるのだが。いや、その前に一体創造物とは何を指すのか。目に見える宇宙のことなのか、それとも目に見えない世界も含むのか。
実際問題として、こうした所詮理解できないことをいくら詮索してみたところで何の役にも立ちません。もっとも、判らないながらもこうした問題を時折探ってみるのも、人間の限界を知る上であながち無益とも言えますまい。そう観念した上で吾々は、理解できる範囲のことを述べてみたいと思います。」

1380回目の瞑想 

 
「これまで述べて来た霊的界層にはそれぞれの程度に応じた霊魂が存在し、真理を体得するにつれて一界また一界と、低い界から高い界へ向けて進化して行く。そして、先に述べたように、そうやって向上して行くうちにいつかは、少なくとも二つ以上の惑星の霊界が重なり合った段階に到達する。更に向上すると今度は二つ以上の恒星の霊界が重なり合うほどの直径をもつ界層に至る。つまり太陽系の惑星はおろか、二つ以上の太陽系まで包含してしまうほどの広大な世界に至る。そこにもその次元に相応しい崇高さと神聖さと霊力を具えた霊魂が存在し、その範囲に包含された全ての世界へ向けて、霊的・物的の区別無なく、影響力を行使している。ご承知の通り吾々はようやく惑星より恒星へ、そして恒星よりその恒星の仲間へと進化して来たところです。その先はまだまだ荘厳にして驚異的な世界が控えておりますが、この第十界の住民たる吾々にはその真相はほとんど判らないし、確実なことは何一つ判らないという有様です。
が、これで吾々が昨夜の通信の中で”神”のことを、何とお呼びすべきか判らぬ未知にして不可知の存在のように申し上げた、その真意がおぼろげながらも理解して頂けるのではないかと思います。ですから、貴殿が創造主を賛美する時、正直言ってその創造主の聖秩せいちつについて何ら明確な観念はお持ちでない。”万物の創造主のことである”と簡単に仰るかも知れませんが、では”万物”とは一体何かということになります。
さて少なくとも吾々の界層から観る限り次のことは確実に言えます。すなわち”創造主”という用語をもって貴殿が何を意味しようと、確固たる信念をもって創造主に祈願することは間違っていない。その祈りの念はまず最低界に届き、祈りの動機と威力次第でそこでストップするものとそこを通過して次の界へ至るものがある。中には更に上昇して高級神霊界へと至るものもある。吾々の界の遙か上方には想像を超えた光と美のキリスト界が存在する。そこまで到達した祈りはキリストを通して宇宙神へと届けられる。地上へ誕生して人類に父なる神を説いたあの主イエス・キリストである。(この問題に関しては第二巻以降で詳しく説かれるーー訳者)

1381回目の瞑想

 
「ところで、以上述べたことは全て真実であるが、その真実も、語りかける吾々の側とそれを受ける貴殿の側の双方の能力の限界によって、その表現が極めて不適切となるのです。例えば段階的に各界層を通過して上昇して行くと述べた場合、あたかも一地点から次の地点へ、更に次の地点へと、平面上を進むのと同じ表現をしていることになります。ですが実際は吾々の念頭にある界層は”地帯”というよりは”球体”と表現した方がより正確です。なぜなら、繰り返しますが、高い界層は低い界層の全てを包んでおり、その界に存在するということは低い界の全てに存在するということでもあるからです。その意味で”神は全てであり、全ての中に存在し、全てを通じて働く”という表現、つまり神の遍在性を説くことはあながち間違ってはいないのです。
どうやら吾々はこのテーマに無駄な努力を費やしすぎている感じがします。地球的規模の知識と理解力を一つの小さなワイングラスに譬えれば、吾々はそれに天界に広がる広大なブドウ畑からとれたブドウ酒を注がんとしているようなもので、この辺でやめておきましょう。一つだけお互いに知っておくべきことを付け加えておきますが、その天界のブドウ園の園主(宇宙神)も園丁(神々)も霊力と叡智において絶対的信頼のおける存在であるということです。人生はその神々の世界へ向けての果てしない旅であり、吾々は目の前に用意された仕事に精を出し、完遂し、成就し、それから次の仕事へと進み、それが終わればすぐまた次の仕事が待っている。かくして、これでおしまいという段階は決して来ない。向上すればするほど”永遠”あるいは”終わりなき世界”という言葉に秘められた意味の真実性を悟るようになります。しかし貴殿にそこまで要求するのは酷というものでしょう。失礼な言い分かも知れませんが。
では再び来れることを希望しつつお別れします。ささやかとは言え天界の栄光の一端をこうして聞く耳をもつ者に語りかけることが出来るのは有難いことであり、楽しいことでもあります。どうか、死後に待ち受ける世界は決して黄昏たそがれに包まれた実体なき白昼夢の世界ではないことを確信して頂きたい。そしてそのことを聞く耳をもつ者に伝えて頂きたい。断じてそのような世界ではないのです。そこは奮闘と努力の世界です。善意と努力とが次々と報われ成就される世界です。父なる神へ向けて不屈の意志をもって互いに手を取り合って向上へと励む世界です。その神の愛を吾々は魂で感じ取り鼓舞されてはおりますが、そのお姿を拝することも出来ず、その玉座はあまりに崇高なるが故に近づくことも出来ません。
吾々は向上の道を必死に歩んでおります。後に続く者の手を取ってあげ、その者のスソをその後に続く者が握りしめて頑張っております。友よ、吾々も奮闘していることを忘れないで頂きたい。まさに奮闘なのです。そして貴殿のもとに集まる人々と同じです。吾々が僅かでも先に行けば、つい遅れがちになる人も大勢おられることでしょう。どうかそういう方達の手を貴殿がしっかりと握ってあげて頂きたいーー優しく握ってあげて頂きたい。そこには私がおり、私の仲間がおります。絶対に挫折させません。ですから明るい視野をもち、清らかな生活に徹することです。挫折するどころか、視野が燦然たる輝きを増すことでしょう。聖書にもあるではありませんか。ーー心清き者は幸なり。神を見ればなり、と。
(マタイ5・8)

1382回目の瞑想

 
6 予知現象の原理
「吾々がこうして地上を訪れるのは人間を援助するためである、と思って下さるのは結構であるが、人間本来の努力が不要となるほどの援助を期待されるのは間違いです。地上には地上なりの教育の場としての価値があり、その価値を減じるようなことは許されません。これはもう自明の理と言ってもよいほど当たり前のことでありながら、人間にしか出来ないことまで吾々に依頼する人が多く、それもほどほどならともかくも、些か度を越した要求をする人が多くて困ります」
 
ーーーどなたでしょうか。
「ご母堂と共に参りました。アストリエルとその霊団の者です」
 
ーーーどうも。いつもの母の霊団の文章とは違うように思えたものですから。
「違いましょう。同じではないはずです。その理由わけは一つには性格が異なり、属する界が異なり、性別も違うからです。性別の違いは地上と同じく、こちらでも特有の性格が出るものです。もう一つは、地上での時代がご母堂達とは違うからです」
 
ーーー古い時代の方ですか。
「さよう。英国でした。ジョージ一世(1660〜1727)の時代です。もっと古い時代の者もおります」
 
ーーー霊団のリーダーとお見受けしますが、ご自身について何かお教え願えませんか。
「いいでしょう。ただ地上時代の細かい事柄は貴殿らには難なく分かりそうに思えても、吾々には大変厄介なものです。でも分かるだけのことを申し上げましょう。私はウォーリック州に住み、学校の教師ーー学校長をしておりました。他界したのが何年であったか、正確なことは判りません。調べれば判るでしょうが、大して意味のないことです。
では用意して来たものを述べさせていただきましょうか。吾々は援助することは許されていても、そこには思慮分別が必要です。例えば吾々霊界の者は学問の分野でもどんどん教えるべきだと考える人がいるようですが、これは、神が人間なりの努力をするための才能をお授けになっていることを忘れた考えです。人間は人間なりの道を踏みしめながら努力し、出来る限りのことを尽くした時に初めて吾々が手を差し伸べ、向上と真理探究の道を誤らないように指導してあげます」

1383回目の瞑想

 
ーーー何か良い例を挙げて頂けますか。
「すぐに思い出すのは、ある時、心理学で幻影と夢について研究している男性を背後から指導としていた時のことです。彼は夢の中に予知現象が混じっている原因を研究していました。つまり夢そのものと、その夢が実現する場合の因果関係です。私との意志の疎通ができた時に、私は、今まで通りに自分の能力を駆使して研究を続けておれば時機をみて理解させてあげようという主旨のことを伝えました。
その夜、彼が寝入ってから私は直接彼に会い(※)現在という時の近くを浮遊している出来事、つまり少し前に起きたことと、そのすぐ後に起きることとを影像の形で写し出す実験をする霊界の研究室に案内しました。そこでの実験にも限界があり、ずっと昔のことや、ずっと先のことまでは手が届かないのです。それはずっと上層界の霊にしか出来ません。
(※睡眠中人間は肉体から脱け出て、地上または霊界を訪れる。その時必ず背後霊が付き添うが、その間の体験は物的脳髄にはめったに感応しない。きちんと回想できる人が霊能者であるーー訳者)
吾々は器具をセットしてスクリーンの上に彼の住んでいる地区を映し出し、よく見ているように言いました。そこに”上演”されたのは、さる有名な人物が大勢の従者を従えて彼の町に入ってくる光景でした。終わると彼は礼を言い、吾々の手引きで肉体へ戻って行きました。
翌朝目を覚ました時何となくどこかの科学施設で実験をしている人達の中にいたような感じがしましたが、それが何であったかは思い出せません。が午前中いつもの研究をしている最中に、ふと夢の中の行列の中で見かけた男性の顔が鮮明に蘇って来ました。それと一緒に、断片的ながら夢の中の体験もいくつか思い出しました。
それから2、3日後のことです。新聞を開くと同じ人物が彼の住んでいる地区を訪問することになっているという記事を発見したのです。そこで彼は自分で推理を始めました。
吾々が案内した実験室も、スクリーンに上演してみせたものも思い出せません。がその人物の顔と従者だけは鮮明に思い出しました。そこで彼が推理したのはこういうことでした。ーー肉体が眠っている時人間は少なくとも時たまは4次元の世界を訪れる。その4次元世界では本来のことを覗き見ることが出来る。が、この3次元の世界に戻る時にその4次元世界での体験の全てを持ち帰ることは出来ない。しかし地上の人物とか行列の顔といった3次元世界で”自然”なものは何とか保持して帰る、と。
予知された夢と実際の出来事との関係は4次元状態から3次元状態への連絡の問題であり、前者は後者より収容能力が大きいために、時間的にも、出来事の連続性においても、後者よりはどうしても広い範囲に亘ることになります。
さて、こうして彼は自分の才能を駆使して、私が直接的に教示するのと変わらない、大いなる知識の進歩を遂げました。それは同時に彼の知能と霊力の増強にも役立ちました。むろん彼の出した結論はこちらの観点からすればとても合格とは言えず、幾つか修正しなければならない点がありますが、全体的に見てまずまずであり、実際的効用をもっております。私が直接的にインスピレーションによって吹き込んでも、あれ以上のことは出来なかったでしょう。
以上が吾々の指導の仕方の一例です。こうしたやり方に不満を抱き、人間的観点からの都合いやり方をしつこく要求する人は、吾々は放っておくしかありません。謙虚さと受容性を身につけてくれれば再び戻って来て援助を続ける事になります」

1384回目の瞑想

 
「ではこの話が差し当たって貴殿とどう関わりがあるかを説明しましょう。貴殿は時折吾々の通信が霊界からのものであることに疑念も躊躇もなしに信じられるよう、なぜもっと(貴殿の表現によれば)鮮明にしてくれないのかと思っておられるようであるが、以上の話に照らしてお考えなれば、貴殿が自ら考察して行く上でヒントになるものはちゃんと与えてあることに納得行かれるはずです。忘れないで頂きたいのは、貴殿はまだまだ”鍛錬”の段階にあるということです。本来の目的はまだまだ成就されておりません。いや、地上生活中の成就は望めないでしょう。ですが吾々を信じて忠実に従って下されば、事情がだんだん明瞭になって行きます。自己撞着どうちゃくのないものだけを受け入れていけばよろしい。証拠や反証を求めすぎていけません。それよりは内容の一貫性を求めるべきです。吾々は必要以上のものは与えませんが、必要なものは必ず与えます。批判的精神は絶対に失ってはなりません。がその批判に公正を欠いてはなりません。貴殿のまわり、貴殿の生活には虚偽よりも真実の方がはるかに多く存在しています。少しでも多くの真理を求めることです。きっと見出されます。虚偽には用心しなければなりませんが、さりとて迷信に惑わされて神経質になってはなりません。例えば山道を行くとしましょう。貴殿は二つの方向へ注意を向けます。すなわち一方で正しい道を探し、もう一方で危険が無いかを確かめます。が、危険が無いかというのは消極的な心構えであって、貴殿なら正しい道という積極的な方へ注意を向けるでしょう。それでよろしい。危険ばかり気にしては先へ進めません。ですから、滑らないようにしっかりと踏みつけて歩き、先を怖がらずに進むことです。怖がる者はとかく心を乱し、それがもとで悲劇に陥ることがよくあります。
では、失礼します。こちらでの神の存在感はただただ素晴らしいの一語に尽きます。そして地球を取り巻く霧を突き抜けて輝き渡っております。その輝きは万人に隔てなく見えるはずのものですーー見る意志なき者を除いては。神の光は、見ようとせぬ者には見えません。
 
<原著者ノート>読者は多分、母からの通信を中心とするこのシリーズの終わり方が余りに呆気なさ過ぎるようにお感じであろう。筆者もその感じを拭い切れない。そこで次に通信を引き継いだザブディエル霊にその点を率直に質してみた。(第2巻冒頭でーー訳者)
 
ーーー私の母とその霊団からの通信はどうなるのでしょう。あのまま終わりとなるのでしょうか。あれでは不完全です。つまり結末らしい結末がありません。
「さよう、終わりである。あれはあれなりで結構である。もともと一つにまとまった物語、あるいは小説のようなものを意図したものではないことを承知されたい。断片的かも知れぬが、正しき眼識をもって読む者には決して無益ではあるまい。
 
ーーー正直言って私はあの終わり方に失望しております。あまりに呆気なさすぎます。また最近になってこの通信を(新聞に)公表する話が述べられておりますが、そちらのご希望は、有りのままを公表するということですか。
「それは汝の判断にお任せしよう。個人的に言わせてもらえば、そのまま公表して何ら不都合はないと思うが、ただ一言申し添えるが、これまでの通信も今回新たに開始された通信も、これより届けられるさらに高尚なる通信のための下準備であった。それを予が行いたい」
 
結末について筆者が得た釈明はこれだけである。どうやら本編はこれから先のメッセージの前置き程度のものと受け取るほかはなさそうである。
                                                          G・V・オーエン
 
 
これで、霊界通信「ベールの彼方の生活」の第1巻を終わります。
だんだんと難しい内容になっていったにも関わらず、最後までお読み頂けたことに感謝致します。
第2巻は、来年の1月頃から記載していければと思っておりますので、またご都合がつく限り、お読み頂ければと思っております。
今年も残すところ後僅かとなりました。今年1年間お付き合い頂きましたことに御礼申し上げます。誠にありがとうございました。
また、来年もよろしくお願いします。
それでは、良いお年をお迎え下さいませ。

1363回目の瞑想

 
「『さあ、お出でになりましたよ。何でもお尋ねしなさい』男は疑念と不安の表情で言いましたーー『どうか教えて下さい。ここにおられるのであれば、なぜ私には見えないのでしょうか』『さっき言った通りあなたの精神構造に見えなくさせるものが潜んでいるからです。あなたがある面において盲目であるという私の言葉を信じますか』『私は物がよく見えています。非常にはっきり見えますし、田園風景も極めて自然で美しいです。その点では私は盲目ではありません。ですが、同じく実質的なもので私に見えないものが他にもあるのかも知れないと考え始めております。多分それもそのうち見えるようになるでしょう。でも・・・』『お待ちなさい。その”でも”はやめなさい。さあ、ここをよく見なさい。あなたの指導霊の手を私が握って見せますよ』そう言って指導霊の右手を取り、『さ、よく見なさい。何が見えますか』と聞きましたが、男にはまだ見えません。ただ何やら透明なものが見えるような気がするだけで、実体があるのか無いのかよく分かりませんでした。『じゃ、ご自分の手で握ってみなさい。さ、私の手から取ってごらんなさい』そう言われて男は手を差し出し、指導霊の手を取りました。そしてその瞬間、どっと泣き崩れました。
男にそうした行為が出来たということ、そして指導霊の手を見、さらにそれに触れてみることが出来たということは、男がその段階まで進化した人間であったことを意味します。手を出しなさいと言われた時はすでに、それまでのやり取りの間に男がそれが出来るまで向上していたということで、さっそくその報いが得られたわけです。指導霊はしばらくの間、男の手をしっかりと握りしめておりましたが、そのうち男の目に指導霊の姿がだんだん見え始め、且つ、手の感触も強くなって行きました。それまで相手をされた方はそれを見てその場を去りました。男は間もなく指導霊が見えるだけでなく語り合うこともできるようになったことでしょう。そして今はきっと着々と霊力を身につけて行きつつあることでしょう。
 
ルビーがあなた方両親にこんなメッセージを伝えて欲しいとのことですーー『お父さん、お母さん、地上の親しい人が良い行いや親切なことをしたり、良いことを考えたりお話したりすることが全部映像になってこちらへ伝わって来るのは本当です。私達はそれを使って部屋を美しく飾ったりします。リーンちゃんがあのお花で部屋を飾るのと一緒よ』と。
では、神の祝福を。お寝みなさい。
 
<原著ノート>最後のルビーからのメッセージの中の”あのお花”というのは、学校で寮生活をしている姉のリーンに私達が時折送り届けている花のことのようである。以上で母からのメッセージは全部終了し、このあと通信は私の守護霊であるザブディエルに引き継がれる。それが第二巻「天界の高地」篇である。

1364回目の瞑想

 
6章 見えざる宇宙の科学
1 祈願成就の原理
[本章は、これまでのオーエン氏の母親からの通信の中に時折割り込む形で綴られた、
アストリエルと名告る霊からの通信をまとめたものである。] (10月13日の<原著ノート>を参照)
「この度初めて同行して来た霊団グループの協力を得て私はこれより、ベールのこちら側より観た”信仰”の価値について少しばかり述べてみたいと思う。
キリスト教の”使徒信条”に盛り込まれた教義については今ここで多くを語るつもりはありません。すでに多く語られ、それ以上の深いものを語るにはまだ人間側にそれを受け入れる用意が十分に出来ていないからである。そこで吾々は差し当たってその問題については貴殿の判断にお任せし、その信条も解釈を誤らなければそれなりの真理が含まれている、と述べるに留めておきます。
そこで吾々としては現在の地上の人間があまり考察しようとしない問題を取り上げることにしたい。その問題は、人間が心理の表面ーー根本真理ではなく真理の上辺に過ぎないものーーについての論争を卒業した暁に必ず関心を向けることになるものである。それを正しく理解すれば、いま人間が血眼になっている問題の多くがどうでもよい些細なことであることが判り、地上だけでなくこちらの世界でも通用する深い真理へ注意を向けることになるでしょう。
その一つが祈りと冥想の効用の問題である。貴殿はこの問題についてはすでに或る程度の教示を受けておられるが、吾々がそれに追加したいと思います。
祈りとは成就したいと思うことを要求するだけのものではない。それより遙かに多くの要素をもつものです。であるからには、これまでよりも慎重に考察されて然るべきものです。祈りに実効を持たせるためには、その場限りの目先の事柄を避け、永遠不易のものに精神を集中しなくてはならない。そうすれば祈りの中に盛り込みたいと思っていた有象無象の頼み事の大部分が視界から消え、より重大で幅広い問題が創造力の対象として浮かび上がって来る。祈りにも現実的創造性があります。例えば数匹の魚を5千人分に増やしたというイエスの奇跡(ヨハネ6)に見られるように、祈りは意念の操作により創造的行為である。その信念のもとに祈りをささげれば、その祈りの対象が意念的に創造され、その結果として”祈りが叶えられる”ことになる。つまり主観的な願いに対し、現実的創造作業による客観的回答が与えられるのです。」
 
お祈りについて説かれています。お祈りは要求することだけではなく、瞑想のような状態となり、精神を集中しなければならないと言われています。そうすることで、どうでもよい要求などは消えてしまい、重大な問題が創造力の対象として浮かび上がってくると言われています。例にあるようなイエス様の為されたような現実的創造は無理だとしても、けれど、真摯な祈りは必ず叶えられると信じています。それが最後のお言葉の意味だと思っています。

1365回目の瞑想

 
「祈りの念の集中を誤っては祈りは叶えられません。放射された意念が目標物に当たらずに逸れてしまい、僅かに適中した分しか効果が得られないことになる。さらに、その祈りに良からぬ魂胆が混入しても効力は弱められ、こちら側から出す阻止力または規制力の働きかけを受けることになります。どちらを受けるかはその動機次第ですが、いずれにせよ望み通りの結果は得られません。
さて、こうしたことは人間にとっては取りとめのない話のように思えるかも知れませんが、吾々にとっては些かもそうではない。実はこちらには祈りを担当する専門の霊団がいて、地上より送られて来る祈りを分析し選別して、幾つかの種類に区分けした上で次の担当部門に送る。そこでさらに検討が加えられ、その価値評価に従って然るべく処理されているのです。
これを完璧に遂行するためには、地上の科学者が音と光のバイブレーションを研究するのと同じように祈りのバイブレーションを研究する必要があります。例えば光線を分析して種類分けが出来るのように祈りも種類分けが出来るのです。そして科学者にもまだ扱いきれない光線が存在することが認識されているように、吾々のところへ届けられる祈りにも、こちらでの研究と知識の範囲を超えた深いバイブレーションを持つものがあります。それは更に高い界層の担当者に引き渡され、そこでの一段と高い叡智による処理が任される。高等な祈りがすべて聖人君子からのものであると考えるのは禁物です。往々にして無邪気な子供の祈りの中にそれが見出されます。その訴え、その嘆きが、国家的規模の嘆願と同じ程度の慎重な検討を受けることすらあるのです。」
 
祈りを担当する専門の霊団がいることにびっくりでした。しかも地上から送られて来るお祈りを分析し選別して、種類を区分けした上で次の担当部門に送るとあります。このようなことが霊界で行われていることに、感謝の念に堪えません。また高等なお祈りが聖人君子からと考えるのは禁物とまで言われているのです。子供のお祈りの中に高等な内容が見出されるとのことで、それが国家的規模の嘆願と同じ程度だと言われるのですから、本当に素晴らしいと思いました。私自身のお祈りも、そのようなお祈りにして行きたいと強く思った次第です。

1366回目の瞑想 

 
「『汝からの祈りも汝による善行も形見として神の御前に届けられるぞよ』ーー天使がコルネリウス(※)に告げたと言われるこの言葉をご存知であろう。これは祈りと善行がその天使の前に形体をとって現れ、多分その天使自身を含む霊団によって高き世界へと届けられる実際の事実を述べたものであるが、これが理解されずに無視されています。
この言葉は次のように言い変えることが出来ようーー”貴殿の祈りと善行は私が座長を務める審議会に託され、その価値を正当に評価された。吾人はこれを価値あるものと認め、吾人より更に上の界の審議官によりても殊の外価値あるものとのご認知を頂いた。依ってここに命を受けて参じたものである”と。吾々はわざとお役所風に勿体ぶった言い方で述べましたが、こちらでの実際の事情を出来るだけ理解して頂こうとの配慮からです。
(※ローマ教皇251-253)
以上の事実に照らしてバイブルに出ている祈りの奇跡の数々を吟味して頂けば、吾々霊界の者が目の当たりにしている実在の相すがたをいくらか推察していただけるであろう。そして大切なのは、祈りについて言えることがそのまま他のあまり感心できぬ心の働きにも当てはまるということです。例えば憎しみや不純な心、貪欲、その他諸々の精神的罪悪も、そちらでは目に見たり実感したりは出来ないでしょうが、こちらでは立派な形態をとって現れるのです。悲しいかな、天使は嘆くことを知らぬと思い込むような人間は、地上で苦しむ同胞に対して抱く吾々の心中をご存知ない。神から授かれる魂の使用を誤っているが故に悩み苦しむ人々のために吾々がいかに心を砕いているかをご覧になれば、吾々に愛着を感じて下さると同時に、むやみに神格化してくれることもなくなるでしょう。
さて、この問題は貴殿がその価値をお認めになれば、あとはご自分でさらに、深く考究して頂くことにして、貴殿はもう少し通信を続けたいとのお気持ちなので、貴殿にとって興味もあり為にもなる別の話題を提供しようかと思います。」

1367回目の瞑想

 
「貴殿の教会の尖塔に風見鶏が付いております。あれは貴殿があのような形にしようと決められたことは憶えておられることと思いますが、いかがであろう。」
ーーー今あなたから指摘されるまですっかりと忘れておりました。仰る通りです。建築家から何にするかと言われて魚と鶏のどっちにしようかと迷ったのですが、最終的には鶏にしました。でも、そんなことが何の意味があるのでしょうか。
「ごもっとも。貴殿にとっては些細なことでしょうが、吾々の世界から見ていると、些細なことというのは滅多にないものです。鶏の恰好をしたものがあの塔の先に付いている光景は実は5年前に貴殿の精神の中での一連の思念の働きの直接の結果でした。一種の創造的産物というわけです。こんな話を聞けばお笑いになる方も多いでしょうが、それは一向に構いません。吾々の方から見ても人間のすることに苦笑することが多々あり、なぜ笑うのか理解に苦しまれるであろうことがあるものです。
貴殿が何気なく決めた時の一連の思念の働きというのは、風見鶏を見ることによって信者の方に、ペテロが主イエスに反そむいたことを思い出してもらおうということでした。思うに貴殿は今の時代に二度とペテロと同じ過ちを繰り返さぬようにその警告のつもりだったのでしょう。しかし、ただそれだけの一見些細に思える決断が吾々の世界へ届き、吾々はそれを真剣に取り上げたのです。
申し上げますが、新しく教会を建立するということは実はこちらの世界からの大いなる働きかけを誘う大事業です。新しい礼拝の場の建立ですから、礼拝に出席する霊、建物を管理する霊、等々実に大勢の霊がそれぞれの役目を与えられてその遂行に当たります。貴殿の同僚の中にはその様子を霊視した人がおられますが、その数は極めて限られております。牧師、会集、聖歌隊、等々のそれぞれの性格を考慮に入れ、吾々の中の最適の霊つまり指導する対象にとって最も相応しい霊を選出し、更には建物の構造まで細かく配慮する。象徴性は特に念入りに検討します。人間には気づかない重要な意味があるのです。風見鶏もその意味で考慮したわけです。話題としてはもっと大きなものを取り上げても良さそうですが、一見何でもなさそうに思えるものにもちゃんとした意味があることをお教えしたくて、これを選んだわけです。」
 
私事で恐縮ですが、明日からしばらくの間、お休みします。
一応12月2日から再開する予定ですので、またよろしくお願いします。

1368回目の瞑想

 
「さてシンボルとして貴殿が雄鶏を選んだからには、吾々としてもそれに応えて教会に何かを寄贈しようということになった。それが吾々の習慣なのです。そこで選ばれたのが例の鐘で、そのために聖歌隊の一人に浄財を集めさせたのです。教会が完成して祝聖式が執り行われた時はまだ鐘はついておりませんでした。雄鶏は中空高く聳えていても、その口からは貴殿の目論む警告が発せられない。そこで吾々がその”声”を雄鶏に与えたという次第です。鐘の音が雄鶏の言葉ーー”夕べの祈り”の時も聞こえていた如くーーです。
貴殿はこうしたことを霊界での幻想とでも思われますか。ま、そういうことにでもしておきましょう。でも、とにかくあの鐘のことは有難いと思われたのではないですか。」
ーーーそれはもう、本当にうれしかったです。この度の通信にもお礼申し上げます。よろしかったらお名前を伺いたいのですが。
 
「吾々は貴殿のご母堂が時折訪れる界から参った者です。実はご母堂から吾々にもっと貴殿を身近に観察して、出来れば何かメッセージを送ってほしいとのご要望があった。仲間の方と一緒に来られたのです。霊団を代表して私から言わせていただけば、この度のことは吾々も喜んでお引き受け致しました。が実は貴殿のことも教会の建立のことも、ご母堂からお聞きする前から知っておりました。」
ーーーご厚意に感謝致します。お名前をお聞きするのは失礼に当たりましょうか。
 
「別に失礼ではありませんが、申し上げても貴殿はご存知ないし、その名前の意味も理解出来ないのではないかと思いますが。
ーーーでも、よろしかったら是非お教え下さい。
 
「アストリエル。神の祝福を。
 
<原著者ノート>アストリエル霊は通信のおしまいに必ず十字架のサインをした。

1369回目の瞑想 

 
2 神々の経綸
「この度も貴殿のご母堂の要請を受けて参じました。再びベールのこちら側より語りかける機会を得て嬉しく思います。こうして地上へ戻って来ることを吾々が面倒に思っているとは決して考えないで頂きたい。もちろん地上の雰囲気は吾々の境涯に比べて明るさに欠け、楽しいものでないことは事実ですが、こうして使命を仰せつかることの光栄はそれを補って余りあるものがあります。
今回は天体の科学について述べてみたく思います。貴殿にも興味がおありであろうし、役に立つと考えるからです。科学と言っても地上の天文学が行っている単なる物質の表面的分析のことではありません。その構成要素の内奥に関わるものです。
ご承知のように恒星はその一つ一つが周囲に幾つかの惑星を従えた一個の組織を構成しているというところまでは認識されていますが、実はそれのみでなく、組織全体に亘って地上のいかに精巧なる器機や秀れた頭脳をもってしても感識できないほど精妙な粒子が行き渡っております。その粒子は物質と霊質との中間的存在で、物質的法則と霊的法則の両方の働きに反応します。それというのも、両者は根源的には多面性を有する一個の進化性をもつ有機的組織の二つの面を表すにすぎず、あたかも太陽とその惑星の関係の如くに互いに作用と反作用とを繰り返しています。
重力もその粒子に対し物的・霊的の両面において反応します。吾々が心霊写真において写真の乾板に、さらには肉眼に感応するまでに霊体に物質性を付加する時に使用するのがこのエネルギーです。本当は貴殿には理解できない要素があるのですが、貴殿の知る用語としては”エネルギー”しかないので、取り敢えずそう呼んでおきます。それ以外にも広い規模で機能しております。例えば、もしその粒子が存在しなかったら大気は真っ暗になります。つまり太陽や恒星からの光線が地球まで届かないということです。なぜかと言えば、そもそも光線が肉眼に映じるのは光波がその粒子に当たった時の反射と屈折の作用のせいだからです。”伝導”というのは正しくありません。伝導とか伝達には別の要素が関わっており、それについてはここでは次のように述べるに留めておきます。すなわち、人間の肉眼に映じているのは光線でもなく光波でもなく、光線がその精妙な粒子に当たった時の衝撃によって生じる波動である、と。
この問題に関しては地上の科学者はまだまだ学ばねばならないことが沢山あります。と言って、それを吾々がお教えすることは許されません。人間が自らの才能を駆使して探るべきものだからです。もしその範囲を逸脱して教えてしまえば、地上という物的教育の場が地球ならではの価値を減じます。人間の個人的努力並びに協調的努力によって苦心しながら探ることの効用を台無しにすることのない範囲に援助を抑えているのは、そういう理由によります。この点をよく銘記して頂きたい。その点を理解して頂けば、こうした通信において吾々がよく釈明することがあることも納得いかれると思います。」

1370回目の瞑想

 
「さて恒星は光を放射している。が放射するためには内部にそれを蓄えておかねばならない。しかし恒星は自らを自らの力で拵えたわけではない以上、エネルギーを蓄えるにはどこからか与えてもらわねばならない理屈になります。では一体誰が与え、どういう過程で与えられるのであろうか。
『それは神が与えるのである。何となれば神は万物の根源だからである』ーーこう言ってしまえばむろん簡単である。そしてそれは確かにその通りなのであるが、実際にそのことに携わるは神の使徒たる天使(※)であり、その数は人間的計算の域を超えます。そしてその一人一人に役目が割り当てられているのです。
(※日本神道でいう八百万の神々であるーー訳者)
実は恒星は、整然たる秩序と協調性をもって経綸に当たるその数知れぬ霊的存在からエネルギーを賦与されている。霊的存在が恒星の管理に当たっているのであり、各々の恒星が天体としての役目を遂行するためのエネルギーはそこから受けるのです。
貴殿にぜひとも知って頂きたいのは、神の造化の王国には何一つとして盲目的ないし無意識的エネルギーは存在しないということです。光線一本、熱の衝撃波一つ、太陽その他の天体からの電波一つにしても、必ずそれには原因があり、その原因には意識的操作が加わっている。つまり、或る意志的存在による確固たる意図に基づいた、ある方角への意志の働きがあるということです。その霊的存在にも無数の階級と種類があり、霊恪は必ずしも同じではなく、形態も同一ではありません。(※)がその働きは上層界の霊によって管督され、その霊もまたさらに高い霊恪と崇高さを備えた神霊によって管督されているのです。
(※日本の古神道ではこれをひとまとめにして”自然霊”と呼んでいるーー訳者)

1371回目の瞑想

 
「これら物質の大きな球体は。ガス体であろうが液体であろうが固体であろうが、あるいは恒星であろうが彗星であろうが、すべて連動され、エネルギーが活性化され、それぞれに存在価値を与えられている。何か機械的な法則の働きによるのではなく、そうした意識的存在が内面より先に述べた法則に則って働きかけております。いま”知的存在”と言わずに”意識的存在”と言いましたが、創造神の元で造化の大事業に勤しむ霊的存在はその全てが必ずしも知的ではありません。貴殿が理解しているところの”知性”をもつ存在は全体の割合から言うと極めて限られております。但し驚かないで頂きたいが、貴殿が”知的存在”と呼ぶであろうところの存在は、実は下等な存在と高等な存在の中間に位置する程度のものであり、その下等な存在は知的とは言えませんが、全体の経綸に当たる高等な存在になると貴殿のいう”知的”という用語の意味を遙かに超えた、崇高なる存在ばかりです。
その下等と高等の中間に、知的存在と呼ぶに相応しい霊の住む界層がいくつも存在します。注意しておきますが、下等といい高等といい知的存在といい、その意味するところは地上の人間が使用するものとは違います。貴殿がこちらへ来られてある程度こちらの事情に慣れれば、その本来の意味が判るでしょう。私は地上の言語を使用しているのであり、貴殿の立場に立って説明していることを忘れないで頂きたい。
さて以上の説明によって霊と物質とがいかに緊密なる関係にあるかがお判りになるでしょう。そしてまた、先日の夜にお話した貴殿の教会の建立と指導霊の働き、なかんずく例の風見鶏に関するものは、今述べたのと同じ創造の原理を小規模の形で物語ったものに他なりません。
小規模とはいえ、全く同じ原理なのです。数知れぬ恒星と惑星の存在を維持するための機構と同じものが、各種の原子の集積体ーー石材、木材、レンガ等ーーの配列に関与し、その結果があの教会と呼ぶ一個の存在の創造となったわけです。その素材は奔流の如き意念の働きによって、それぞれの位置にあってしっかりと他と連動されています。他とのつながりなしに置かれているのではありません。もしそんなことをしたらすぐに崩壊が始まり、バラバラになってしまいます。
以上述べたことに照らして、貴殿らが教会とか劇場とか住居とか、その他諸々の建物に入った時の”印象の違い”について考えてみられるとよろしい。それぞれの機能に相応しい影響力が放射されておりますが、それは今吾々が解説したのと同じ原理が働いた結果です。言ってみれば霊から霊への語りかけーー物的身体を持たない霊が物的粒子を媒体として、その建物に入って来る人間の霊に働きかけているのです。
お疲れのようですね。通信がしにくくなって来ました。これにて失礼します。よろしければ改めてまた参りましょう。
貴殿並びにご家族、教会関係の皆様に幾久しき神の祝福のあらんことを。アストリエル

1372回目の瞑想

 
3 天体の霊的構成
「吾々が霊界の事情について述べることの中にもしも不可思議で非現実的に思えるものがある時は、こちらには地上の人間には捉えられないエネルギーや要素が沢山あることを銘記して頂きたい。そのエネルギーは地上の環境の中に全く存在しないわけではありません。大半が人間の脳では感知し得ない深いところに存在するということです。霊的感覚の発達した人にはある程度ーーあくまでもある程度でしかありませんがーー感知できるかも知れません。霊的に一般のレベルより高い人は平均的人間にとって”超自然的”と思える世界との境界線辺りまでは確かに手が届いております。その時に得られる霊的高揚は知能や知識をいくら積んでも得られない性質のもので、霊的に感得するしかないものです。
今夜もまたご母堂の要請で、人間界について吾々が見たまま知り得たままを語りに参りました。可能な範囲に限ってお話しましょう。それ以上のことは、すでに述べた如く吾々には伝達技術に限界があり、従って内容が不完全となります。
 
ーーーアストリエル様ですか。
 
「アストリエルとその霊団です。 まずは主イエス・キリストの名において愛と平和のご挨拶を申し上げます。吾々にとっての主との関係は地上における人間と主との関係と同じです。ただ、地上にいた時に曖昧であった多くのことがこちらへ来て明らかとなりました。そこで厳粛なる気持ちで申し上げますーー主イエス・キリストの神性の真意と人類との関わりの真相を知らんと欲する者は、どうか、恐怖心に惑わされることなく敬虔なる気持ちをもって一心に求めよ、と。そういう人にはこちらからの世界から思いも寄らない導きがあるものです。そしてまた、真摯に求める者は主の説かれた真理の真意がいずこにあるかをいかにしつこく問い詰めようと、決して主への不敬にはならないーー何となれば主がすなわち真理だからである、ということを常に心に留めて頂きたく思います。
しかしながら、吾々にもそれと同じ大胆さと大いなる敬意を込めて言わせて頂けば、地上のキリスト教徒の間で”正統派”の名のもとに教えられているものの中には、こちらで知り得た真相に照らしてみた時に、多くの点において適正さと真実性に欠けているものがあります。と同時に、それ以上のものを追求しようとする意欲と、神の絶対愛を信じる勇気と信念に欠ける者が多すぎます。神は信じて従う者を光明へと誘いざない、その輝ける光明が勇気ある者を包み、神の玉座へ通じる正しく且つ聖なる道を教え示して下さる。その神の玉座に近づける者は何事をも克服していくだけの勇気ある者のみであること、真に勇気ある者とは、怖じ気づき啓発を望まぬ仲間に惑わされることなく、信ずる道を平然と歩む者のことであることを知って下さい。」

1373回目の瞑想

 
「さて前回の続きを述べましょう。貴殿に納得のいくものだけを信じて頂けばよろしい。受け入れ難いものは構わないでよろしい。そのうち向上するにつれて少しずつ納得がいき、やがては全体の理解がいきます。
前回は天体の構成と天体間の相互関係について述べました。今回はその創造過程と、それを霊的側面から観察したものを少しばかり述べましょう。ご承知の如く、恒星にも惑星にも、その他物的なもの全てに”霊体”が備わっております。そのことは貴殿はご存知と思いますので、それを前提として吾々の説を披露します。
天体は”創造界”に属する高級神霊から出た意念が物的表現体として顕現したものです。全天体の一つ一つがその創造界から発せられた思念と霊的衝動の産物です。その創造の過程を見ていると、高級神霊が絶え間なく活動して、形成過程にある物質に霊的影響力と、その天体特有の言わば個性を吹き込んでおります。かくして、例えば太陽系に属する天体は大きな統一的機構に順応してはいても、それぞれに異なった性格をもつことになる。そしてその性格は責任を委託された大天使(守護神)の性格に呼応します。天文学者は地球を構成する成分の一部が例えば火星とか木星とか、あるいは太陽にさえも発見されたと言う。それは事実であるが、その割合、あるいは組み合わせが同じあると考えたら間違いです。各天体が独自のものをもっております。ただそれが一つの大きな統一体系としての動きに順応しているということです。太陽系を構成する惑星について言えることは、そのままさらに大きな規模の天体関係についても当てはまります。つまり太陽系を一個の単位として考えた場合、他の太陽系とは構成要素の割合においても成分の組み合わせにおいても異なります。各太陽系が他と異なる独自のものを有しております。
さて、そうなる原因わけはすでに説明した通りです。各太陽系の守護神の個性的精神が反映するわけです。守護神の配下にさらに数多くの大天使が控え、守護神の計画的意図に沿って造化の大事業に携わっている。とは言え、各天使にはその担当する分野において自由意志の行使が許されており、それが花とか樹木、動物、天体の表面の地理的形態といった細かい面にまで及ぶ。千変万化の多様性はその造化の統制上の”ゆとり”から生まれます。一方、そのゆとりある個性の発揮にも一定の枠が設けられているために、造化の各部門、さらにはその部門の各分野にまで一つの統一性が行き渡るわけです。
こうした神霊の監督のもとに、さらに幾つもの段階に分かれた霊恪の低い無数の霊が造化に関わり、最下等の段階に至ると個性的存在とは言いかねるものまでいる。その段階においては吾々のように”知性”と同時にいわゆる自由意志による独自の”判断力!を所有する存在とは異なり、”感覚的存在”とでも呼ぶべき没個性的生命の種属が融合しております。」

1352回目の瞑想

 
「私達は相談した結果これはすぐに引き返すべきだという結論に達しました。つまり、この女性には他にも数々の罪はあるにしても、それは後回しに出来る。それよりも今回の罪はこの光と愛の世界の聖霊に対する罪であり、それが償われない限り本人に心が安まらないであろうし、私達がどう努力しても効果はないと見たのです。そこで私達は彼女を連れて引き返し、”橋”を渡って門楼のところまで来ました。
彼女を救出に行かれた件くだんの天使に会うと、彼女は赦しを乞い、そして赦されました。実はその天使は私達がこうして引き返して来るのを待っておられたのです。私達よりも遙かに進化された霊恪の高い方で、従って叡智に長け、彼女がいずれ戻って来ずにはいられなくなることを洞察しておられたのです。ですから私達が来るのをずっと門楼から見ておられ、到着するとすぐに出て来られました。その優しいお顔付きと笑顔を見て、その女性もすぐにこの方だと直感し、跪ひざまずいて祝福を頂いたのでした。
今夜の話にはドラマチックなところは無いかも知れません。が、この話を持ち出したのは、こちらでは一見何でもなさそうに思えることでもきちんと片付けなければならないようになっていることを明らかにしたかったからです。実際私には何か私達の理解を超えた偉大な知性が四六時中私達を支配しているように思えるのです。あのお気の毒な罪深い女性が向上して行く上において、あんな些細なことでもきちんと償わねばならなかったという話がそれを証明しております。”橋”を通って門楼まで行くのは実は大変な道のりで、彼女もくたくたに疲れ切っておりました。ですが、自分が毒づいた天使様のお顔を拝見し、その優しい愛と寛恕かんじょの言葉を頂いた時に初めて、辛さを耐え忍んでこそ安らぎが与えられるものであること、為すべきことを為せばきっと恵みを得ることを悟ったのでした。その確信は、彼女のように散々神の愛に背を向けて来た罪をこれから後悔と恥辱の中で償って行かねばならない者にとっては、かけがえのない心の支えとなります。
 
ーーーその方は今どうされていますか。
「あれからまだそう時間が経っておりませんので、目立って進歩はしておりません。進歩を阻害するものがまだいろいろとあるのです。ですが間違いなく進歩しておられます。私達のホームにおられますが、まだまだ他人ひとのための仕事を頂くまでには至っておりません。いずれはそうなるでしょうが、当分はムリです。
罪悪というのは本質的には否定的性格を帯びております。が、それは神の愛と父性(※)を否定することであり、単に戒律おきてを破ったということとは比較にならない罪深い行為です。魂の本性つまり内的生命の泉を汚し、宇宙の大霊の神殿に不敬をはたらくことに他なりません。その汚れた神殿の清掃は普通の家屋を掃除するのとは訳が違います。強烈なる神の光がいかに些細な汚点をも照らし出してしまうのです。それだけに又、それを清らかに保つ者の幸せは格別です。何となれば神の御心のまにまに生き、人を愛するということの素晴らしさを味わうからです。
(※民族的性向の違いにより神を”父なる存在”と見なす民族と”母なる存在”と見なす民族とがある。哲学的には老子曰く”無”と表現する場合もあるが、いずれにせよ顕幽にまたがる全大宇宙の絶対的根源であり、神道流に言えば天御中主神アメノミナカヌシノカミであるーー訳者)

13453回目の瞑想

 
2 最後の審判
「今夜もまた天界の生活を取り上げて、こちらの境涯で体験する神の愛と恵みについてもう少しお伝え出来ればと思います。私がお世話している患者ーーほんとに患者なのですーーは明かりの乏しい、言わば闇が魂に忍び込むような低地での苦しい体験の後にここへ連れて来られ、安らぎと静けさの中で介抱されております。来た時は大なり小なり疲労し衰弱しておりますので、ここから向上して行けるようになるのは、余程体力を回復してからのことです。
あなたはここでの介抱の仕方を知りたいのではないかと思いますので申し上げましょう。これを煎じ詰めれば”愛”の一語に尽きましょう。それが私達の指導原理なのです。と言うことは、私達は罪を裁かず、罰せず、ただ愛をもって導いてあげるということですから、その事実を知った患者の中にはとても有難く思う人がいます。ところが実はそう思うことが原因となって、却ってそこにいたたまれなくなるものなのです。
例えばこんな話があります。最近のことですが、患者の一人が庭を歩いている時に、私達霊団の最高指導霊であられる女性天使を見かけました。その人はつい目を反らして脇の道へ折れようとしました。怖いのではありません。畏れ多い気がしたのです。すると天使様の方から近づいてきて優しく声を掛けられました。話をしてみると意外に気楽に話せるものですから、それまで疑問に思っていたことを尋ねる気になりました。
『審判者はどこにおられるのでしょうか。そして最後の審判はいつ行われるのでしょうか。そのことを思うといつも身震いがするのです。私のような人間はさぞ酷い罰を言いつけられるに決まっているからです。どうせなら早く知って覚悟を決めたいと思うのです』
この問いに天使様はこうおっしゃいました。
『よくお聞きになられました。あなたの審判はあなたが審判を望まれた時に始まるのです。今のあなたのお言葉から察するに、もうそれは始まっております。ご自分の過去が罰を受けるに値すると白状されたからです。それが審判の第一歩なのです。それから、審判者はどこに居るのかとお尋ねですが、それ、そこにおられます。あなたご自身ですよ。あなた自身が罰を与えるのです。これまでの生活を総点検して、自分の自由意志によってそれを行うのです。一つ一つ勇気をもって懺悔するごとに向上して行きます。ここにお出でになるまでのあの暗黒界での生活によって、あなたはすでに多くの罰を受けておられます。確かにあれは恐ろしいものでした。しかしもうそれも過去のものとなり、これからの辛抱にはあんな恐ろしさは伴いません。もう恐怖心とはおさらばなさならないといけません。ただし苦痛は伴うでしょう。大変辛い思いをなさることと思います。ですがその苦痛の中にあっても神の導きを感じるようになり、正しい道を進めば進むほど一層それを強く感じるようになるでしょう』
 『でも報酬を与えたり罰したりする大審判者つまりキリスト神の玉座が見当たらないのはおかしいと思うのです』
 『なるほど、玉座ですか。それならいずれご覧になれる日が来るでしょう。でもまだまだです。審判というのはあなたがお考えになっているものとは大分違います。でも怖がる必要はありません。進歩するにつれて神の偉大な愛に気づき、より深く理解して行かれます』
これは実はこちらへ来る人の多くを戸惑わせる問題のようです。悪い事をしているので、どうせ神のお叱りを受けて拷問に掛けられるものと思い込んでいるので、そんな気配がないことに却って戸惑いを感じるのです。
また、自分は立派なことをしてきたと思い込んでいる人が、置かれた環境の低さーー時には惨めなほど低い環境にとても落胆することがよくあります。内心では一気にキリスト神の御前に召されて”よくぞやってくれた”とお褒めの言葉でも頂戴するものと思い込んでいたからです。もう、それはそれは、こちらへ来てからは意外なことばかりです。喜ぶ人もおれば悲しむ人もいるわけです。」

1354回目の瞑想

 
「最近こんな人を見かけました。この方は地上では大変博学な文筆家で、何冊もの書物を出版した人ですが、地上でガス工場のかまたきをしていた青年に話しかけ、いろいろと教わっているところでした。楽しそうな様子なのです。と言うのも、その人は謙虚さを少しずつ学んでいるところだったのです。ですがこの人のいけないところは、そんな行きずりの若造を相手に教えを乞うのは苦にならないのに、すでにこちらへ来ているはずの曽ての知人のところへ赴いて地上での過ちや知的な自惚れを告白することはしたくないのです。しかし、いずれはしなければならないことです。青年との関係はそのための準備段階なのです。しかし同時に、私達の目にはその人の過去も現在も丸見えであり、特に現在の環境が非常に低いことが明白なのに、本人は相変わらず内心の自惚れは他人には知られてないと思い続けているのが哀れに思えてなりません。こういう人には指導霊も大変な根気がいります。が、それがまた指導霊にとっての修行でもあるのです。
ここで地上の心霊家を悩ます問題を説明しておきましょう。問題というのは、心霊上の問題点についてなぜ霊界からもっと情報を提供してくれないかということです。
これにはぜひ理解していただかねばならない事情があるのです。こうして地上圏まで降りて来ますと、私達はすでに本来の私達ではなく、地上特有の条件による制約を受けます。その制約が私達にはすでに慣染なじめなくなっております。例えば地上を支配している各種の法則に従って仕事を進めざるを得ません。そうしないとメッセージを伝えることも物理的に演出してみせてあげることも出来ません。実験会では出席者がある特定の霊の姿を見せてほしいとか話を交わしたいとか、あるいはその霊にまつわる証拠について質問したいと思っていることは判っても、それに応じるには私達は非常に制約された条件下に置かれています。例えばその出席者の有する特殊な霊力を活用しなければならないのですが、こちらが必要とする肝心なものは閉じられたままで、結局その人が提供してくれるものだけで間に合わせなくてはならないことになりますが、それが往々にして十分でないのです。
更に、その人の意念と私達の意念とが言わば空中衝突をして混乱を生じたり、完全に実験が台無しになったりすることもあります。なるべくなら私達を信頼して私達の思い通りにやらせてほしいのです。そのあとで私達が何を伝えんとしているかを批判的態度で検討して下さればいいのです。もし特別に情報が欲しいと思われる問題点があれば、それを日常生活におけるのと同じように、時折心の中に宿していただけばそれでよろしい。私達がそれを察知して検討し、もし可能性があり有益でもあり筋が通っていると判断すれば、チャンスと手段を見つけて、遅かれ早かれ、それに応じてあげます。実験その他、何らかの形で私達が側に来ている時に要求をお出しになるのであれば、強要せずに単に想念を抱くだけでよろしい。あとは私達に任せて下さい。出来るだけのことをして差し上げます。しつこく要求してはいけません。私達はお役に立ちたいという意図しかないのですから、あなたの為になることなら出来る限りのことをしていると信じて下さい。」

1355回目の瞑想 

 
「ちょうどその好い例があります。あなたはずっとルビーのことを知りたいと思っておられました。それをあなたがしつこく要求することがなかったので、私達は存分に準備することが出来たのです。これからその様子をお伝えしましょう。
ルビーは今とても幸せです。そして与えられた仕事もなかなか上手にこなせるようになりました。つい最近会ったばかりで、もうすぐあなたやローズにお話をしに行けそうだと言っておりました。なぜ今夜来れないのかと思っておられるようですが、あの子には他にすることがありますし、私達は私達で計画に沿って果たさねばならないことがあります。そう、こんなことも言っておりましたーー『お父さんに伝えてちょうだい、お父さんが教会でお説教をしている時の言葉があたしたちのところまで届けられて、その中の幾つかを取り上げてみんなで討論し合うことがあるって。地上で学べなかったことについてのお話が入ってるからなの』と。
 
ーーーちょっと考えられないことですね。本当ですか。
「おやおや、これまた異な事を。本当ですか、とは一体あなたはこちらの子供をどんな風に考えておいでですか。いいですか。幼くしてこちらへ来た者はまずこの新しい世界の生活と環境について学び、それが終わってから今度は地球と地上生活について少しずつ勉強することを許されます。そしていずれは完全な知識を身につけないといけないのです。そのために、慎重を期しつつあらゆる手段を活用することになります。父親の説教を聞いて学ぶこと以上に素晴らしい方法があるでしょうか。これ以上申しません。これだけ言えば十分のはずです。常識的にお考えになることです。少しは精神構造が啓発されるでしょう。
 
ーーーでも、もしもあなたのおっしゃる通りだと、人間はうっかり他人にお説教など出来なくなります。それと、どうか気を悪くなさらないで下さい。
「ご心配なく。機嫌を損ねてなんかいませんよ。実はあなたの精神に少なくとも死後の環境とその自然さについて、かなりの理解が見られるようになって有難く思っていたのです。ところが、愚かしい漠然とした死後の観念をさらけ出すような、あのような考えを突如として出されたので驚いたのです。
でも、他人に説教する際はよくよく慎重であらねばならないと思われたのは誠に結構なことです。でも、このことはあなた一人に限ったことではありません。全ての人間がそうあらねばならないことですし、全ての人間が自分の思念と言葉と行為に慎重であらねばなりません。こちらではそれが悉ことごとく知れてしまうのです。でも一つだけ安心して頂けることがあります。万が一良からぬこと、品のないことをうっかり考えたり口にしたりした時は、そういうものはルビーがいるような境涯へは届かないように配慮されております。ですからそちらではどうぞ気楽に考えて下さい。思いのままを遠慮なくおしゃべりになることです。こちらの世界では誠意さえあれば、例えその教えが間違っていても、間違いを恐れて黙っているよりは歓迎されるのです。
おやすみなさい。皆さんによろしく。神の祝福を。そして神が常にあなたに勇気と忠誠心をお与え下さいますように。」

1356回目の瞑想

 
3 使節団を迎える
「これまでに私達が伝えたメッセージはすべてあなたの精神マインド(※)に私達の思念や言葉を印象づける方法で行われております。このためには私達はあなたの精神に宿されているものを出来るだけ多く取り出し、活用して、少しでもラクに伝わるように工夫します。ですが、それが上手く行かなくて、やむを得ずあなたの霊を地上環境から連れ出して、私達が伝えんとしている内容を影像の形で見せ、それをあなたに綴らせるという手段を取ることがよくあります。
(※霊側から見た精神には実体があり、そこに宿された想念や記憶が具体的に手に取るように見える、いわゆる潜在意識もこれに含まれるーー訳者)
いいえ、あなたをその身体から連れ出すという意味ではありません。だって、あなたはその間ずっとそこにいて意識を持ち続けているわけですから、私達が行うのは言わばあなたの内的視覚ーー霊体の視力ーーに霊力を注ぎ込むために一時的にあなたの注意力を私達が吸収してしまうのです。するとその間はあなたは環境をほどんと意識しなくなります。つまり周囲のことを忘れ、気を取られなくなります。その瞬間をねらって今述べた霊界の影像を伝達して、それに私達が実際に見た出来事の叙述を添えるということをするわけです。
例えばカストレル様の都市へ音楽の使節団が光のハーブの編隊を組んで到着するシーンを述べた時、シーンそのものは実際のものをお見せしてそれに群がる群集や正面入口での挨拶の様子、その他、伝えたいと思ったことをあとで私達が復元して添えたものです。そういう次第だったのです。具体的にどういう風にするかは、いずれこちらへお出でになれば判ります。
さて、これから私達はもう一つの光景をお見せしてみようかと思います。”みよう”という言い方をしたのは、大事なことについては私達はそう滅多にしくじることはありませんが、所詮私達も全能ではありません。いろいろと邪魔が入り、思うに任せないこともあるからです。
それではこれから暫くあなたの注意力をお貸し頂いて、私達のホームへ使節団が見学に訪れた時の様子を叙述してみましょう。」

1357回目の瞑想

 
「私達はよくお互いに使節団を派遣し合って、他のホームでの仕事ぶりを学び合うことを致します。
私達はホームの裏手にある丘の頂上近くに立って使節団の到着を待っておりました。やがて広々とした平野の上空遙か彼方にその姿が見え始めました。その辺りの空は深紅と黄金と緑の筋が水平に重なって見えます。それを見て私達はその使節団がどの地域からのもので、どんな仕事に携わっている人達であるかが判断できます。その使節団は主に儀式と式典の正しい在り方を研究している人達で、非常に遠方のコロニーからお出でになられたのでした。
虚空を翔かける様子を見つめておりますと、平地で待機していた私達のホームの出迎えの代表団が空中へ舞い上がりました。大空での出迎えの様子を見るのもまた一興でした。遙か上空でお互いが接近し、いよいよ距離が狭まると、こちらの一団の何人かが形も音色もポストホルン(※)に似たものを吹奏し、それに応じて他のグループが別の楽器を取り出し、演奏を始めると同時にさらに別のグループが歓迎の合唱を始めました。
(※昔駅馬車や郵便馬車の到着を知らせるために御者が用いた2〜3フィートの真ちゅうラッパーー訳者)
 
やがて歓迎の儀式が終わりました。後方に一台の2頭立ての馬車が用意してあります。昔の(天蓋のない)馬車にそっくりです。近代風の馬車を使用してもよいのですが、こちらでは天蓋は不要なのです。それで古代の馬車がずっと使われているわけです。使節団はさらに近づいて、こちらの一団と向かい合って並びました。そのシーンを想像して下さい。あなたには不思議に思えることでしょうが、私達の世界では至って自然なことであることがそのうちあなたにもお判りになる日が来るでしょう。さらに向上すると空中で立つだけでなく地上とまったく同じように跪いたり、横になったり、歩いたりすることまで出来るようになります。
さて、私達のお迎えのリーダーと使節団のリーダーとが進み出ました。そして両手を握り合い、互いに額と頬に口づけしました。それからお迎えのリーダーが右手で相手の左手を取って馬車まで案内し、迎えの残りの者が間を開け敬々しくお辞儀をしてお通ししました。お二人が馬車に乗ると、今度は双方の残りの人々が両手を広げて近づき合い、同じように額と頬に口づけをしあいました。それから全員が私達の方角を向き、ゆっくりとした足どりで降りて来て、ついに丘の麓まで来られました。
空中を行くとどんな感じがするかーーこれはあなたにはちょっと判っていただけないでしょう。私も一度ならず試してみたことがあります。が、その感じはあなたの想像を超えたものです。ですからそれを述べるよりも、見た目に実に美しいものだと言うに留めておきましょう。
カストレル様やアーノル様のような霊恪の高い天使になると、地面を歩かれる時の姿は単に気品があるというに留まらず、その落着いた姿勢や動作にうっとりとさせられる美しさがあるのです。空中になるとそれが一層美しさを増します。静かで穏やかな威厳と力に溢れた、柔らかで優雅な動きは、まさしく王者の風格と神々しさに満ち満ちております。いま目の前にしたお二人もまさにその通りでした。」

1358回目の瞑想 

 
「一行は曲がりくねった小道を歩いて私達のリーダーの住居に至りました。ここにおいて私達の指導霊である女性天使と共にこの領土を支配しておられます。私にはお二人の間に霊恪とか地位の差は無いように思われます。まったく同じではないにしても、どちらかが上でどちらかが下かは直接お聞きしてみないと判らないほどで、それはちょっとお聞きしかねることです。お互いの愛と調和性はとても程度が高く、命令と服従との関係が優雅で晴ればれとした没我性の中で行われるために、お二人の霊的な差を見分けることが出来ないのです。
そのお住まいはあなたがご覧になればきっと中世の城を思い出されるでしょう。山の中腹の岩の上に建てられており、まわりは緑と赤と茶と黄色の樹木と、無数の花々と芝生に囲まれております。
使節団は玄関道を通って中へ入り、そこで私達から見えなくなりました。が中へ入った一行の光輝によって、あたかも一度に何千もの電灯が灯されたように、窓を明るく照らし出しました。その色彩豊かな光輝は何とも言えない美しさでした。一つに融合してしまわずに、それぞれの色調を保ちつつ、渾然と混ざり合い、あたかも虹の如く窓を通して輝くのでした。
これまでの私の叙述に”出入口”がしばしば出て来ましたが、”門”については特に述べていないことにお気づきと思います。実は私はこれまで出入口に至る門を見たことがないのです。”ヨハネ黙示録”の中には天界の聖都とその門についての叙述があります。私はヨハネが霊視したと思われる都市に酷似した都市の門を思い出していろいろと考えたのですが、どうも今いる都市には出入口に通じる門は見当たらないように思います。で、私が思うに、ヨハネが”聖都の門は終日ひねもす閉じることなし”と述べておいて、そのあとすぐに地上の都市では昼間は戦いでもない限り門は閉じられることはなく夜はずっと閉じられていることを思い出してーー”(ここに夜あることなきが故なり)”とカッコして釈明を付け加えたのは、本当は地上と同じような門が無かったからではないかと思うのです。これは私個人の考えです。間違っているかも知れませんが、ぜひあなたも改めて黙示録を読み返し、私の意見を思い出して、あなた自身で判断してみて下さい。
お城の中でのフェスティバルのことは私自身出席しておらず、出席した方からお聞きしただけですので、ここは述べないことにします。それよりも、私が目撃したものを述べておきましょう。その方が生き生きと表現できますから。しかし、あれだけ多くの高級霊が一堂に会したのですから、それはそれは荘厳なフェスティバルであったろうことは容易に想像できます。
そうね。あなたやあなたの家族もこの神の愛と祝福が草原の露の如く降りて、辺り一面に芳香を漂わせる神の御国へお出でになれば、こうしたことを全部目の当たりにすることが出来ます。授かるよりは授ける方がはるかに幸であることを何かにつけて学ばされている私達が、その素敵な芳香を私達の言葉を通じて地上の方にも味わっていただき、いかに神の愛が有難く優しいものであり、神を信じる者がいかに幸せであるかを判っていただきたいと思うのは少しも不思議でないことが、これでお判りでしょう。
幾久しく神の祝福があらんことを。アーメン」

1359回目の瞑想

 
4 強情と虚栄心
「その手をご自分の頭部へ当ててみて下さい。そうすると通信が伝わりやすくなり、あなたも理解しやすくなります。」
 
ーーーこうですか。
「そうです。あなたと私達双方にとって都合がいいのです。」
 
ーーーどういう具合に。
「私からあなたへ向けて一本の磁気の流れがあります。いま言った通りにして下されば、その磁気の散逸が妨げるのです。」
 
ーーーさっぱり判りません。
「そうかも知れません。あなたにはまだ知っていただかねばならなことが沢山あります。いま述べたこともその一つです。それ一つを取り上げれば些細なことかも知れませんが、それなりに大切なのです。成功を支えるのは往々にしてそうした些細なことの積み重ねであることがあります。
ところで、私達はこうした通信で採用する方法については所詮あなたに完全な理解を期待するのは無理ですから、あまり細かいことは言うつもりはありません。でも、このことだけは述べておきたいのです。つまり私達が使用するエネルギーはやはり”磁気”と呼ぶのが一番適切であること、そしてその磁気に乗って私達のバイブレーションがあなたの精神に伝わるということです。そうやって手を当てがって下さると、それが磁石と貯蔵庫の二つの役目をしてくれて、私達は助かるのです。でも、この問題はこれ位にして、もっと判りやすい話題に移りましょう。
この”常夏の国”では私達は死んでこちらへやって来る人と後に残された人の双方の面倒をみるように努力しております。これは本当に切り離せない密接な関係があります。と言うのも、こちらへ来た人は後に残した者のことで悩み、背後霊がちゃんと面倒をみてくれていることを知るまで進歩が阻害されるケースが多いのです。そこで私達は度々地上圏まで出かけることになるのです。」

1360回目の瞑想

 
「先週も私達の元に夫と3人の子供を残して死亡した女性をお預かりしました。そして例によってぜひ地上へ行って4人のその後の様子を見たいとせがむのです。あまりせがまられるので、やむを得ず私達は婦人を地上へ案内しました。着いた時は夕方で、これから夕食が始まるところでした。ご主人は仕事から帰って来たばかりで、これからお子さんに食事をさせて寝せようと忙しそうにしておりました。いよいよ4人が感じのよい台所のテーブルを囲み、お父さんが長女にお祈りをさせています。その子はこう祈りました。”私達とお母さんのために食事を用意して下さったことをキリストの御名において神に感謝します”と。
その様子を見ていた婦人は思わずその子のところへ近づき頭髪に手を当てて呼びかけましたが、何の反応もありません。当惑するのを見て私達は婦人を引き止め、少し待つように申しました。暫く沈黙が続きました。その間、長女と父親の脳裏に婦人のことが去来しています。すると長女の方が口を開いてこう言いましたーー『お父さん、母さんは私達が今こうしているのを知ってるかしら?それからリズ伯母さんのことも』
『さあ、よく判らないけど、きっと知ってると思うよ。この2,3日、母さんがとても心配しているような、何だかな悲しい気持ちがしてならないからね。リズおばさんの念かも知れないけどね』
 『だったら私達を伯母さんのとこに預けないでちょうだい。○○婦人が赤ちゃんの面倒をみてくれるし、私だって学校から帰ったら家事のお手伝いするわ。そしたら行かなくて済むでしょ』 『行きたくないのだね?』
『私は行きたくないわ。赤ちゃんとシッシーは行くでしょうけど、私はイヤよ』『なるほど、父さんもよく考えておこう。だから心配しないで。みんなで何とかうまくやって行けそうだね』『それに母さんだってあの世から助けてくれるわ。それに天使様も。だって母さんはもう天使様とお話が出来るのでしょ?お願いしたらきっと助けてくれるわ』
父親はそれ以上は何もしゃべりませんでした。が、私達にはその心の中が見えます。そしてこんなことを考えているのが読み取れましたーー”こんな小さな子供がそれほど信仰をもっているからには自分もせめて同じくらいの信念は持つべきだと。元々子供を手離すのは父親も本意ではなく引き止めるための言い訳ならいくらでもあるじゃないか、と思ったのでした。
こうした様子を見ただけで母親が慰めを得たとはとても言い切れません。が地上をあとにしながら私達はその婦人に、あの子の信仰が父親の信念によって増強されたら私達が援助して行く上で強力な手掛かりとなりますよ、と言ってあげました。そうでも言っておかないと、今回の私達が取った手段が間違っていたことになるのです。
帰るとその経過を女性天使に報告しました。すると即座に家族が別れ別れにならぬように処置が取られ、その母親には、これから一心に向上を心がけ、早く家族の背後霊として働けるようになりなさいとのお達しがありました。それからというのもの、その婦人に変化が見られるようになりました。与えられた仕事に一心に励むようになったのです。私達の霊団に加わって一緒に地上へ赴き、彼女なりの仕事が出来るようになる日もそう遠くはないでしょう。」

1361回目の瞑想

 
「この話はこれ位にして、もう一つ別のケースを紹介してみましょう。先頃私達のコロニーへ一人の男性がやってきました。この方も最近地上を去ったばかりです。自分の気に入った土地を求めてさ迷い歩き、私達のところがどうやら気に入ったらしいのです。ずっと一人ぼっちだったのではありません。少し離れたところからいつも指導霊が見守っていて、いつでも指導する用意をしていたのです。この男性も私達が時折見かける複雑な性格の持ち主で、非常に多くの善性と明るい面を持ち合わせていながら、自分でもどうにもならない歪んだ性格のために、それが発達を阻害されているのでした。
その男性がある時私達のホームのある丘からかなり離れた土地で別のホームの方に呼び止められました。その顔に複雑な表情を見て取ったからです。実は出会った時点ですぐに、少し離れた位置にいた指導霊から、相図によってその男性の問題点についての情報が伝わり、その方は即座にそれを心得て優しく話しかけました。
『この土地にはあまり慣染なじみがない方のようにお見受けしますが、何かお困りですか』『お言葉は有難いのですが、別に困っておりません』
『あなたが抱えておられる悩みはこの土地で解決できるかも知れませんよ。全部というわけにはいかないでしょうけど』『私がどんな悩みを抱えているかご存知ないでしょう』『いや、少しは判りますよ。こちらで一人も知り合いに会わないことで変に思っておられるのでしょう。そして何故だろうと』『確かにその通りです』『でも、ちゃんとお会いになってるのですよ』『会ったことは一度もありません。一体どこにいるのだろうと思っているのです。実に不思議なのです。あの世へ行けば真っ先に迎えてくれるものと思っておりました。どうも納得がいきません』『でも、お会いになってますよ』『知った人間には一人も会っておりませんけど』
『確かにあなたはお会いになっていませんが、相手はちゃんとあなたにお会いしています。あなたが気づかないだけ、いや気づこうとなさらないだけです』『何のことだか、よく判りませんね』『こういうことです。実はあなたが地上からこちらへ来てすぐから、あなたの知人が面倒を見ているのです。ところがあなたの心は一面なかなか良いところもあり開かれた面もあるのですが、他方、非常に頑なでむやみに強情なところがあります。あなたの目に知人の姿が映らないのはそこに原因があるのです』
男はしばらくその方を疑い深い目でじっと見つめておりました。そしてついに、どもりながらこう言いました。
『じゃ、私のどこがいけないのでしょう。会う人はみな優しく幸せそうに見えるのに、私はどの人とも深いお付き合いが出来ないし落ち着ける場所もありません。私のどこがいけないのでしょう』

1362回目の瞑想

 
『まず第一に反省しなくてはいけないのは、あなたの考えることが必ずしも正しくないということです。因みに一つ二つあなたの誤った考えを指摘してみましょう。一つは、あなたはこの世界を善人だけの世界か、さもなくば悪人だけの世界と考えたがりますが、それは間違いです。地上と似たり寄ったりで、善性もあれば邪悪性も秘めているものです。それからもう一つ。数年前に他界された奥さんは、あなたがこれから事情を正しく理解した暁に落ち着かれる界よりも、もっと高い界におられます。地上時代は知的にはあなたに敵かないませんでしたし、今でも敵わないでしょう。ところが総合的に評価すると霊恪はあなたの方が低いのです。これがあなたが認めなくてはならない第二の点です。心底から認めなくてはダメです。あなたのお顔を拝見していると、まだ認めてないようですね。でも、まずそれを認めないと向上は望めません。認められるようになったら、その時はたぶん奥さんと連絡が取れるようになるでしょう。今のところまだそれは不可能です』
男の目が涙で曇って来ました。でも笑顔を作りながら、どこかさみしげに言いました。『どうやらあなたは予言者でいらっしゃるようですね』
 『まさしくその通り。そこで、あなたが認めなければならない三つ目のことを申し上げましょう。それはこういうことです。あなたのすぐ近くにあなたをずっと見守り救いの手を差し伸べようと待機している方がいるということです。その方は私と同じく予言者です。先覚者と言った方がよいかも知れません。さっき申し上げたことは全部その方が私に伝達してくれて、それを私が述べたに過ぎません』
それを聞いて男の顔に深刻な表情が見えてきました。何かを得ようとしきりに思い詰めておりましたが、やがてこう聞きました。
『結局私は虚栄心が強いと言うことでしょうか』『その通り。それもいささか厄介なタチの虚栄心です。あなたには優しい面もあり、謙虚でもあり、愛念が無いわけではありません。この愛こそ何にも勝る力です。ところがその心は裏腹にあなたの精神構造の中に一種の強情さがあり、それは是非とも和らげなくてはなりません。言ってみれば精神的轍わだちの中にはまり込んだようなもので、一刻も早くそこから脱け出て、もっと拘泥こだわりを捨て、自由に見渡さなくてはいけません。そうしないといつまでも”見えているのに見えない”という矛盾と逆説の状態が続きます。つまり、あるものは良く見えるのにあるものはさっぱり見えないという状態です。証拠を突きつけられて自説を改めるということは決して人間的弱さの証明でもなく堕落でもなく、それこそ正直さの証明であることを知らなくてはいけません。もう一つ付け加えておきましょう。今言ったように、その強情さはあなたの精神的構造に巣食っているのであって、もしそれが霊的本質つまり魂そのものがそうであったなら、こんなに明るい境涯には居られず、あの丘の向こう側ーーずっとずっと向こうにある薄暗い世界に落ち着くところでした。以上、私なりにあなたの問題点を指摘して差し上げました。あとは別の人にお任せしましょう』『どなたです?』『さっきお話した方ですよ。あなたの面倒を見ておられる方』『どこにおられるのですか』『ちょっとお待ちなさい。すぐ来られますから』
そこで相図が送られ、次の瞬間にはもうすぐ側に立っていたのですが、その男には見えません。」

1341回目の瞑想

 
3 ”童子が手引きせん”
「引き続きカストレル様の都市の見学旅行中の話です。中央通りを歩きながら私はなぜこの都市には方形の広場が多いのか、そしてその広い中央通りの両側にある塔のように聳える建物が何のために建てられているのかを知りたいと思っていました。そのうち中央通りの反対側の入口に到着してやっと判ったのは、その都市全体が平地に囲まれた非常に高い台地にあるということでした。案内の方のお話によりますと、そこに設けられている塔からなるべく遠くが見渡せるようにということと、まわりの平地の遠い住民からもその塔が見えるようにという配慮があるとのことでした。そこがその界の主都で、すべてがそこを焦点として治められているのでした。
帰途も幾つかの建物を訪れ、どこでも親切なおもてなしを受けました。その都市ではカストレル様のお住まいで見かけた以外に子供の姿はあまり見かけませんでした。ですが時折そこここの広場で子供の群れを見かけます。そこには噴水があり、まわりの池に流れ落ちて行きました。池の水はその都市を流れる大きな川につながり、無数の色彩と明るい輝きを放散しながら、下の平地へ滝となって落ちて行きます。その滝の流れはかなり大きな川となって平地をゆったりと流れて行きますが、その川のあちこちで子供達が水浴びをして遊んでいるのを見かけたのです。しきりに自分の身体に水をかけております。私はその時はあまり深く考えなかったのですが、そのうち案内の方から、あの子供達はあのような遊びをするよう奨励されているとの話を聞かされました。と言うのは、そこの子供達は死産児として来たので体力が乏しく、あのような遊びによって生体電気を補充し体力を増強する必要があるということです。
それを聞いて私が思わず驚きの声をあげると、その方は「でも別に何の不思議もないでしょう。ご存知のように、私達の身体は肉も血もないのにこうして肉体と同じように固くて実体があります。また現在の私達の身体が地上時代よりはるかに正確に内部の魂の程度を反映していることもご存知のはずです。その点あの子供達の大半がやっと成長し始めたばかりで、それを促進するための身体的栄養が要るのです。別に不思議ではないと思いますが・・・」とおっしゃいました。
別に不思議ではないーー言われてみれば確かにその通りです。私は先に天界を”完成された地上のようなところ”と表現しましたが、その本当の意味が今になってようやく判ってきました。多くの人間がこちらへ来てみて地上とあまりによく似ていることに驚くはずです。もっとも、ずっと美しいですけど。大抵の人間は地上とは全く異なる薄ぼんやりとした影のような世界を想像しがちです。が、よく考えてごらんなさい。常識で考えてごらんなさい。そんな世界が一体何の意味がありますか。それは段階的進歩ではなく一足跳びの変化であって、それは自然の理に反します。」

1342回目の瞑想

 
「確かにこちらへ来てすぐから地上と少しは勝手が違いますが、不思議さに呆然とするほどは違わないということです。特に地上生活でこれといって進歩のない生活を送った人間が落ち着く環境も地上と見分けがつかないほど物質性に富んでおります。そういう人間が死んだことに気づかない理由はそこにあります。低い界から高い界へと向上するにつれて物質性が薄れて行き、環境が崇高さを増して行きます。しかし、地上性を完全に払拭した界、地上生活と全く類似性をもたない界まで到達する霊は稀です。特殊な例を除いてまず居ないのではないかと思っております。が、この問題については私に断定的なことを言う資格はありません。何しろ地上生活と全く異なる界に到達していないどころか、訪れてみたこともないからです。今いる所はとても美しく、私はこの界の美と驚異を学ばねばなりません。学んでみると、実は地球はこの内的世界が外へ向けて顕現したものに他ならず、従って多くの細かい面において私達及び私達の環境と調和していることが判ります。もしそうでなかったら、今こうして通信していることも有り得ないはずです。
そして又ーー私みたいな頭の良くない人間にはそう思えるというまでのことですがーーもしもあなた方の世界と私達の世界に大きな隔たり、巨大な真空地帯のようなものがあるとしたら、地上生活を終えたあと、どうやってこちらへやって来れるのでしょう。その真空地帯をどうやって横切るのでしょうか。でも、これはあくまで私自身の考えです。そんなことはどうということは無いのかも知れません。ただ確実に言えることは、神と神の王国は一つしか無いこと、その神の叡知によって宇宙は段階的に向上進化して行くように出来ているという事さえ銘記すれば、死とは何か、その先はどうなっているのかについての理解が遙かに深くなるであろうということです。死後の世界にも固い家屋があり、歩くための道があり、山あり谷あり樹木あり、動物や小鳥までいるということが全くバカバカしく思える人が多いことでしょう。その動物が単なる飾り物として存在するのではなく、実際の用途をもっております。馬は馬、牛は牛の仕事があり、その他の動物も然りです。が動物達は見た目に微笑ましいほど楽しく働いております。私は一度ある通りで馬に乗ってやって来る人を見かけたことがありますが、何となく人間よりも馬の方が楽しんでいるように見えたものです。でも、こうした話は信じていただけそうにありませんから話題を変えましょう。」

1343回目の瞑想

 
「その広い市街地の建物の一つに地方の各支部から送られて来る情報を保管する図書館がありました。また、新しいアイディアを実地にテストするための研究所もありました。更には教授格の人が自分の研究成果を専門分野だけでなく他の分野の人を集めて発表するための講堂もありました。そしてもう一つ、風変わりな歴史をもつ建物がありました。
それは少し奥まった所に立っていて、木材で出来ておりました。マホガニー材をよく磨いたような感じで、木目には黄金の筋が入っております。ずいぶん古い建物で、カストレル様がその領地の管理を引き継がれるずっと前に、当時の領主のための会議室として建てられたものです。かつては領主がそこに研究性達を召集され、それぞれに実際的知識を発表することに使用されておりました。
こんな話を聞きました。その発表会のことです。青年が立ち上がって講堂の中央へ進み出て学長すなわち領主に向かって両手を広げて立ちました。立っているうちにその青年の姿が変化し始め、光輝が増し、半透明の状態になり、ついに大きな光の輪に囲まれました。そしてその光の輪の中に高級界からの天使の姿が無数に見えます。学長が意味有りげな微笑を浮かべておられますが、青年にはそれが読み取れません。彼ーー首席代表であり領主の後を継ぐべき王子のような存在でもありますーーが何か言おうと口を開きかけた時です。入口から一人の童子が入って、大勢の会衆に驚いた様子でキョロキョロ見回しました。
その子は光の輪のそばまで来て、層を成して座っている天使の無数の顔を見つめて気恥ずかしそうにしました。そしてその場から逃げ帰ろうとした時に、中央におられる学長の姿が目にとまりました。光と荘厳さに輝いておられます。瞬間、子供は一切を忘れて、両手を広げ満面に笑みを浮かべて学長めがけて走り寄りました。すると先生は両手を下げ腰を屈めてその子を抱き上げ、ご自分の肩に乗せ、青年のところへ歩み寄ってその子を青年の膝の上に置き、元の位置に戻られました。が、戻りかけた時から姿が薄れ始め、元の位置に来られた時は完全に姿が見えなくなり、その場には何もありませんでした。子供は青年の膝の上にいて青年の顔ーー実に美しいお顔立ちでしたーーを見上げてニッコリと致しました。
やがて青年が立ち上がり、その子を左手で抱き、右手をその頭部に当てて、こう言われました。
「皆さん、聖書に”彼等を童子が手引きせん”という件くだりがあります。(イザヤ書11・6)それをやっと今思い出しました。今我々が見たのは主イエス・キリストの”顕現”(※)であり、聖書の言葉通り、この童子は主の御国から贈られた方です。」そう述べてから童子に向かい、「坊や、さっきの先生に抱かれて私の所まで連れて来られた時、先生は坊やに何とおっしゃいましたか」と尋ねました。
(※これまでの”顕現”と種類が異なり、これは霊界における”変容現象”と見るべきであろう。イエス自身、地上時代に丘の頂上で変容した話がマタイ17・マルコ9に出ているーー訳者)
すると子供は初めて口を開き、子供らしい言い方で、大勢の人を前に気恥ずかしそうにしながらこう言いました。
「ボクが良い子にしてお兄さんの言いつけを守っていたら、時々あの先生がこの都市まちと領土くにのためになる新しいことを教えて下さるそうです。でもボクには何のことだかよく判りません」
それは青年も他の生徒達も最初のうちは判りませんでした。が青年が閉会を宣し、その子を自宅へ連れて帰ってその意味を吟味しました。その結果彼が辿り着いた結論は。あれはエリとサムエルの物語(サムエル書1・3)と同じだということでした。そして、事実その結論は正しかったのです。その後その子は研究所やカレッジの中を自由に遊び回ることを許されました。少しも邪魔にならず、面倒な質問もせず、反対に時折厄介な問題が生じた時などにその子が何気なく口にした言葉が問題解決のカギになっていることがあるのでした。時が経つにつれて、このことがあの顕現のそもそもの目的だったことが理解できました。つまり子供のような無邪気な単純さの大切さを研究生達は学んだのです。特殊な問題の解決策が単純であるほど全体としての解決策にも通じるものがあるということです。
他にも学生達がその”顕現”から学んだものはいろいろとありました。例えばキリスト神は常に彼等と共に存在すること、そして必要な時はいつでも姿をお見せになること。これは、あの時、学生の中から姿を現されたことに象徴されておりました。また広げた両手は自己犠牲を意味しておりました。あの後光が象徴したように、荘厳さに満ちたあのコロニーにおいてさえも自己犠牲が必要なのです。その後あの童子はどうなったかーー彼は例の青年の叡知と霊恪が成長するにつれて成育し、青年が一段高い界へ赴いたあと、青年の地位を引き継いだということです。
以上の話はずいぶん昔のことです。今でもそのホールは存在します。内側も外側も花で飾られて、常によく手入れされております。しかし講演や討論には使用されず、礼拝場として使用されております。その都市の画家の一人が例の”顕現”のシーンを絵画にして、地上でもみられるように祭壇の後ろに置いてありました。そこにおいて主イエスを通しての父なる神への礼拝がよく行われます。それ以上に盛大に行われるのはあの顕現の時の青年が大天使として、今では指導者格となっている例の童子を従え、あの時以降青年の地位を引き継いだ多くの霊と共に、そこに降臨することがあります。そこに召集された者は何か大きな祝福と顕現があることを察知します。しかしそういう機会に出席できるのはそれに相応しい霊恪を備えた者に限られます。一定の段階まで進化していない者にはその顕現が見えないのです。
神の王国はどこも光明と荘厳さに満ち溢れ、素晴らしいの一語に尽きますが、その中でも驚異中の驚異と言うべきものは、そうやって無限の時と距離を超えて宇宙の大霊の存在が顕現されるという事実です。神の愛は万物に至ります。あなたと私の二人にとっては、こうして神の御国の中の地上界と霊界という二つの世界の間のベールを通して語り合えるようにして下さった神の配慮にその愛を見ることが出来るのです。」

1344回目の瞑想 

 
4 炎の馬車
「カストレル様の都市についてはまだまだお話しようと思えば幾らでもあるのですが、他にも取り挙げたい問題がありますので、あと一つだけ述べて、それから別の話題へ移りたいと思います。
宮殿のある地域に滞在していた時のことです。そこへよく子供達が遊びに来ました。中には私の例の死産児も含まれておりました。他の子供達はその子の母親つまり私と仲間の4人と会うのが楽しみだったようです。そして私達がそれまで訪れた土地の話、特に子供の園や学校の話をすると、飽きることなく一心に聞き入るのでした。来る時はよく花輪を編んでおみやげに持って来てくれたのですが、実はそのウラにはゲームで一緒に遊んでもらおうという下心があったのです。もちろんよく一緒に遊んであげました。その静かで平和な土地で可愛い幼児とはしゃぎまわっている楽しい姿は容易に想像して頂けると思います。ある時、あなたも子供のころ遊んだことのあるジョリーフーパーゲームに似た遊びで、子供達が考え出したゲームに興じておりました。大抵私達5人が勝つのですが、そのうち私達と向かい合っている子供達が突然歌うのをやめて立ち尽くし、私達の頭越しに遠くを見つめているのです。振り向くと、その空地の端の並木道の入口のところに、他でもないカストレル様のお姿がありました。
笑みを浮かべておられます。風采からは王者の威厳が感じられますが、その雰囲気には力と叡智が渾然となった優しさと謙虚さがあるために、見た目には実に魅力があり、つい近づいてみたくなるものがあります。こちらへゆっくりと歩を進められ、それを見た子供達が走り寄りました。するとその一人一人の頭を優しく撫でてあげておられます。やがて私達のところまで来られると『ご覧の通りガイドなしで一人でやってまいりましたよ。どこにおられるかはすぐに判りますから、ところで、悪いのですが、遊びを中断して頂かねばならない用事が出来たのです。あなた方もぜひ出席して頂きたい儀式がもうじき催されます。こちらにおられる”小さい子供さん”はそのままゲームを続けなさい。あなた方”大きい子供さん”は私と一緒に来て下さい』とユーモラスにおっしゃるのです。
すると子供達は私達の方へ駆け寄ってきて、嬉しそうに頬にキスをして、用事が終わったらまたゲームをしに来てね、と言うのでした。
それからカストレル様の後について、頭が届きそうなほど枝の垂れ下がったトンネル状の並木道を進み、やがてそこを通り抜けると広い田園地帯が広がっていました。そこでカストレル様は足を止めてこう仰いました。
『ずっと向こうを見てご覧なさい。何が見えますか。』
私達5人は口を揃えて、広いうねった平野と数々の建物、そしてさらに向こうには長い山脈のようなものが幽かすかに見えます、と答えました。
『それだけですか』とカストレル様が聞かれます。私達が目立ったものとしてはそれだけですと答えると、『そうでしょうね。それがあなた方の現在の視力の限界なのでしょうね。いいですか。私の視力はあなた方よりは発達していますから、その山脈のさらに遠くまで見えます。よく聞いて下さいよ。これから私の視力に映っているものを述べていきますから。その山脈の向こうに一段と高い山脈が見え、さらにその向こうにそれよりも高い山頂が見えます。建物が建っているものもあれば何もないものもあります。私はあの地方に居たことがあります。ですから、あそこにも、ここから見ると小さく見えますが、実はこの都市を中心とした私の領土全体と同じくらいの広さの平野と田園地帯があることを知っております。
私は今その中の一つの山の頂上近くのスロープを見つめております。地平線ではありません。あなた方の視力の範囲を超えたところに位置しており、そこにこの都市よりも遙かに広くて豊かで壮大な都市が見えます。その中央へ通じる道の入口がちょうど吾々の方を向いており、その前は広い平坦地になっております。今の通路を騎馬隊と四輪馬車の列が出て来るところです。集合し終わりました。いよいよ出発です。今その中からリーダーの乗った馬車が進み出て先頭に位置しました。命令を下しております。群集が手を振って無事を祈っております。リーダーの馬車が崖の縁まで来ました。そして今その縁を離れて宙を前進しております。それを先頭に残りの隊がついて来ます。さあ、こちらへ向かっていますよ。私達も別の場所へ行って到着の様子を見ましょう。』
何のためにやって来るのか、誰一人尋ねる者はいませんでした。畏れ多くて聞かなかったのではありません。お聞きしようと思えばどんなことでもお聞きできたのですが、なぜか以心伝心で納得していたようです。ですがカストレル様は一応私達の心中を察して『皆さんはあの一隊が何のためにやって来るのかを知りたがっておられるようですが、そのうち判ります』と仰って歩を進められ、私達も後についてその都市を囲む外壁のところまで至り、そこから平地の向こうの丘の方へ目をやりました。が、さっき述べたもの以外は相変わらず何も見えません。」

1345回目の瞑想

 
「『隊の姿を誰が一番に見つけますかな』とカストレル様が仰います。そこで私達は目を凝らして一心に見つめるのですが、一向に見えません。そのうち私の目に遙か山脈の上空に星が一つ輝いて見えたような気がしました。それと時を同じくして仲間の一人が『先生、あそこに見える星はここに来た時は無かったように思います』と大きい声で言いました。『いえ、最初からあったのですが、あなたには見えなかっただけです。では、あなたが最初ですか、見えたのは』と聞かれます。
私はどうも”私にも見えておりました”とは言いたくありませんでした。先に言えば良かったのでしょうけど。するとカストレル様は『私にはもう一人見える方がいるような気がするのですがね。違いますか』と言って私の方を向いてにっこりされました。私は赤くなって何だか訳の分からぬことを口ごもりました。するとカストレル様が、『よろしい。よく見つめていて下さい。他の方もそのうち見え始めるでしょう。あの星は現時点では数界を隔てた位置にあります。まさかあの界まで見える方がこの中に居られるとは予想しませんでした』と仰って、私達二人の方を向かれ『ご成長祝福申し上げます。お二人は急速に進歩を遂げておられますね。この調子で行けばきっと間もなく仕事の範囲も拡大されます』と言って下さいました。二人はそのお言葉を有難く拝聴しました。
気がついてみますと、その星がさっきよりずっと明るく輝いて見え、みるみる大きく広くなって行きます。その様子を暫く見続けているうちに次第にそれが円盤状のものではなくて別の形のものであることが判り、やがてその形が明確になってきました。それは竪琴リラの形をした光のハープとも言うべきもので、まるでダイヤモンドを散りばめた飾りのようでした。が、だんだん接近すると、それは騎馬と馬車と従者の一団で、その順序で私達の方角へ向けて虚空を疾走しているのでした。
やがて都市の別のところからも喚声が聞こえて来ました。同じものを発見したのです。『あの一隊がこの都市へやって来る目的がそろそろお判りでしょう』とカストレル様が仰るので、『音楽です』と私が申し上げると、『その通り。音楽と関係があります。とにかく音楽が主な目的です』と仰いました。さらに近づいたのを見ると、その数は総勢数百名の大集団でした。見るも美しい光景でした。騎馬と炎の馬車ーー古い伝説に出で来るあの炎の馬車は本当にあるのですーーそれが全身から光を放つ輝かしい騎手に操られて天界の道を疾走して来たのです。ああ、その美しさ。数界も高い天界からの霊の美しさはとても私達には叙述できません。その中の一番霊恪の低い方でもカストレル様と並ぶほどの方でした。が実はカストレル様はその本来の光輝を抑え、霊恪をお隠しになっておられました。それはこの都市の最高霊であると同時に一人の住民でもあるとのご自覚をお持ちだからです。ですが、高級界からの一隊がいよいよ接近するにつれてカストレル様のお姿にも変化が生じ始めました。お顔と身体が輝きを増し、訪問者の中で一番光輝の弱い方と同じ程度にまで輝き始めました。なぜカストレル様が普段この天界の低地の環境に合わせる必要があるのか。私は後で考えて理解がいきました。それは、こうして普段より光輝を増されたお姿を目の前にしますと、まだまだ本来の全てをお出しになっておられないのに、私達にはとても近づき難く、思わず後ずさりさせられるほどだったのです。おっかないというのとは違います。意外さに思わず・・・というより他に表現のしようがありません。
一隊はついに私達の領土の上空まで来ました。最初の丘陵地帯と私達のいる位置との中ほどまで来た時、速度をゆるめて徐々に編隊を変えました。今度は・・・の形(※)を取りました。そして遂に都市の正面入口の前の広場に着陸しました。
(※末尾のところで説明が出るーー訳者)

1346回目の瞑想

 
「カストレル様はその時にはすでに私達から離れておられ、一隊が着陸すると同時に正面入口からお付きの者を従えて歩み出られました。光に身を包まれて・・・と表現するのがその時の印象に一番近いでしょう。王冠は曽て見たこともないほど鮮やかに光輝を増しております。腰に付けられたシンクチャー(帯の一種)も同じです。隊長リーダーの近くまで来るとそこで跪ひざまずかれました。カストレル様より遙かに明るい光輝を発しておられます。馬車から降りられるとカストレル様に急ぎ足で歩み寄られ、手を取って立ち上がらせ、抱き寄せられました。その優雅さと愛に満ちた厳かな所作に、一瞬、全体がシーンと静まり返りました。その抱擁が解かれ、私達に理解できない言語での挨拶が交わされてから、カストレル様が残りの隊へ向かってお辞儀をし、直立の姿勢で都市の外壁の方へ向かわれ片手を挙げられました。すると突如として音楽が鳴り渡り、全市民による荘厳なる賛美歌が聞こえて来ました。前に一度同じような大合唱のお話をしたことがありますが、それとは比較にならない厳かさがありました。この界があの時より一界上だからです。その大合唱と鐘の音と器楽の演奏の中を二人を先頭に一隊から都市の中へ入って行きました。
こうして一隊はカストレル宮殿へ向かう通りを行進し、いよいよ例の並木道へと入る曲がり角で隊長が馬車を止め、立ち上がって四方を見回し、手を挙げて沿道の市民にその都市の言葉で祝福を述べ、それから並木道へと入り、やがて一隊と共に姿が見えなくなりました。
でも、ダメですね、私は。今回の出来事の荘厳さを万分の一でもお伝えしようと努力してみましたが、みじめな失敗に終わりました。実際に見たものは私が叙述したものより遙かに遙かに荘厳だったのです。私が主として到着の模様の叙述に時間を費やしたのは、今回の一隊の訪問の使命についてはよく理解していなかったからです。それは私ごとき低地の住民には理解の及ばないことで、その都市の指導的地位にある方や偉大な天使が関わる問題です。せいぜい私が感じ取ったのは、あのコロニーの中で音楽の創造に関わっている人の中でも最高に進化した人々による研究に主に関連している、ということだけです。それ以上のことは判りません。もちろん私以上に語れる人が他にいるのでしょうけど。
さっき出なかった言葉(前日の記事)は”惑星”です。編隊を変えた後の形のことです。いえ”惑星”ではありません。”惑星系組織”です。地球の属する太陽系なのかどうかーーたぶん他の太陽系でしょうが、私にはよく判りません。
今夜はこれでおしまいです。祝福の言葉をお待ちのようですね。では神の祝福を。目を真っ直ぐに見据えて理想を高く掲げることです。そして私共の世界の本当の栄光に比べれば、地上で想像し得る限りの最高の栄光も、太陽に対するローソクのようなものでしかないこと、それほど霊の世界の栄光は素晴らしいことをお忘れにならぬように。」

1347回目の瞑想 

 
5 ”縁”は異なもの
「もしも地球全体が一個のダイヤモンドか真珠のようなものであったら、太陽や星の光を反射して地球のまわりがどんなにか明るく輝くことでしょう。もちろん地球に輝きが無いわけではありません。少しは輝いております。ただ表面にツヤが無いために至ってお粗末なものに見えます。その輝きと真珠の輝きとを比較して頂けば、地上生活と私達が今居る光と美の境涯、いわゆる”常夏の国”(※)との違いが想像して頂けると思います。
(※曽ては”常夏の国”が天国とされていたが、近代の霊界通信によってそれがまだまだ霊界の入口辺りに過ぎないことが明らかとなってきた。本通信でも”天界の低地”に属し、善と悪、暗黒界と光明界の二面性があることが窺えるーー訳者)
この常夏の国の平野や渓谷に遠く目をやっておりますと、地上の大気による視覚への影響を殆ど忘れております。もっとも、地上独特のものでこちらに存在しないものを幾つか思い出すことは出来ます。例えば距離です。距離感覚はぼやけて行くのではなく、少しずつ消失して行くのです。樹木や植物は地上のようにシーズンが来ると咲き、シーズンが終わると枯れて行くというのではありません。いつも咲いております。それを摘み取ってもすいぶん永い間生き生きとしております。やがて萎しおれるのかと思うとそうではなく、これもいつの間にか大気の中へ消滅して行くのです。大気は地上と同じような感じがしますが。必ずしも無色透明ではありません。カストレル様の都市はどこか黄金の太陽の光のようなものに包まれております。モヤではありません。それが視力を妨げることもありません。それどころか、他の様々な色彩を邪魔することなく一切を黄金の光輝の中に包み込んでいるのです。うっすらとしたピンク、あるいは青色をしている地方もあります。各地方に独特の色調または感じがあって、それがそこの住民の本性と性向と仕事の特徴を表しているのです。
大気の色調はこの原理に基づいているようです。が同時に、その色調が住民の言動に反映しています。他の地域を訪れるとそれがよく判ります。霊恪が高くなると、その土地へ足を踏み入れるとすぐに、そこの住民の一般的性向と仕事の内容が判るようになります。と同時にその人もすぐにその影響を受けることになります。もちろん根本的性格は変わりません。感覚的な面で影響を受け、それがすぐに衣服の変化となって表れます。
ですから、見知らぬ土地へ行っても、内面的にも外面的にもすぐに同胞意識を覚えるようになります。これは私が知った最大の喜びの一つです。どこへ言っても兄弟姉妹が居るようなものです。もし地上がそういうところだったらどうなるか、想像してごらんなさい。居ながらにして天使の平和と善意のメッセージが現実となり、地上が言わば”天界の控えの間”となることでしょう。」
 
お花がいつも咲いているとのことで、羨ましい限りです。また摘み取っても長いこと生き生きしていて、更にしおれるのではなく、大気の中に消滅すると言われています。地上でもそうあってくれたらと思わずにいられませんでした。また、 今回の内容を読んで、地上がなぜ天界の控えの間として存在しないのかと思ってしまいます。霊界との差が余りにもあるのではないかと感じるのです。今世界中の状態は地獄のようです。これが天界の控えの間になるための産みの苦しみならいいのですが・・・そうなるように祈りたいものです。

1348回目の瞑想

 
「私達はカストレル様の都市の訪問を終えての帰路、今回の体験で私達がどう変わったか、いかなる教訓を学んだかを反省致しました。私自身について言えば。それはもう、あの死産児に会えたということだけで十分であったという気持ちです。思いも寄らなかった神からの贈り物です。が、平野をのんびりと歩きながら、私だけでなく仲間の一人一人がその人なりの祝福を得ていたことを確かめ合ったところでした。
都市を訪れる時は天空を飛行しました。そこで帰りは山脈のところまでは歩いて行きましょうということになったわけで、その道すがらずいぶん色んなことを語り合いました。それを全部綴れば大変なページ数になります。そして内容も興味深いものばかりですが、私達と違い、あなたにとって、また新聞社にとっては、時間と紙面が大切な要素ですから(※)それは割愛して、どうしても語っておかねばならないことだけを述べることにしましょう。
(※この霊界通信は1920年から21年にかけて新聞に連載されている。霊界側は当初よりこういう形での公表を念頭において通信を送って来たことが窺えるーー訳者)
 
私達5人が本来の界へ帰り着いた時、私達の属する霊団の最高指導霊であらせられる女性天使も例の”かけ橋”での用事を終えてすでに帰っておられました。この度はあなたもよくご存知の婦人を連れて帰られました。
 
ーーーどうぞその方のお名前を!
「S婦人です。あの方は、死後、不如意な体験が重なりました。こちらへ来られた当初は急速な進歩が得られる境涯へ案内されたのですが、あの方の場合は複雑でした。性格が複雑な方だったために、どこに置かれてもしっくり来なかったのです。いろいろと工夫して援助してあげたのですが、しかしーーこれはあなたも是非知っておくべきことですがーーこちらでは自由意志と個性が非常に重要視され、いくらその人のためになることでも押し付けることは許されないのです。S婦人は間もなく気持ちが落ち着かなくなり、私達も本人の好きにさせるほかないと判断しました。そこで警告と忠告を十分に与えた上で二つの道の岐路に案内して、好きな方角を選ぶに任せたのです。但し指導霊を付けて蔭から監視させ、必要とあらばいつでも援助の手を差し伸べる用意をした上でのことです。」

1349回目の瞑想

 
「婦人は自分の求めるもの、つまり”心の落着き”を得るためにはどこへ行けばよいか、何をすれば良いか迷っておりました。それで相当永い間、例の”かけ橋”の近くをウロウロしておりました。そのS婦人がようやく自分の誤りに気づいて光明の方へ足を向け、女性天使に連れられて最初の境涯へ戻って来ることになったのは、我が儘を通せば通すほど暗闇が増し、会う人も見る光景も聞く音も心地良さが薄れ、時には恐怖さえ覚えさせるものになって行きつつあることに気づいてからでした。今もまだまだ進歩は遅いようです。ですが、頑なな心が次第に和らかさを増し、謙虚さと信頼心が強まりつつあります。そのうち立派になられるでしょう。これまで私がS婦人の消息が分からずお役に立てなかったのも、こうした経緯があったからです。これからは時の経過と共に少しずつ力になってあげられることと思います。私がこれから当分の間仕事に従事することになっているこの土地へ連れて来られたのも、多分そのためでしょう。あの方のことは私は地上ではあなたを通じて存じ上げていただけで、あまりよく知りませんでした。私とのこの度のご縁は多分あの方のお子さん達とあなたとの情愛がかけ橋となっているのでしょう。
こちらでは地上でのご縁がすべて生かされております。ふとした縁、行きずりの縁も意味があるものです。人生におけるあらゆる出会いが何らかの影響を及ぼしております。たまたま隣り合わせに腰掛けた人と交わした会話、偶然の出会い、ふと買い求めた一冊の本、友人の紹介で握手を交わし、それきり生涯会うことのなかった人等々、すべてが記録され、考慮され、整合されて、必要に応じて利用されます。今回の私とS婦人との関係もその一つの例と言えましょう。ですから、日常の行為一つ、言葉の一つにも気を付けなくてはいけません。神経質になるのではなく、常に人の為を思いやる習慣を身につけることです。いつでも、どこでも親切の念を出し続ける習慣です。これは天界では大変重要なことで、それが衣服に明るさを、そして身体に光輝を与えるのです。
ではお寝みなさい。この挨拶は”良い夜”をお過ごしくださいという意味ですから地上の方には意味がありますが、私達には意味がありません。こちらでは”善”を愛する者にとっては全てが”良い”ことばかりであり、絶対的な光に満ちておりますから、”夜”が無いのです。」

1350回目の瞑想

 
5章 天使の支配
1 罪の報い
「天界における向上進化の仕組みは実に細かく入り組んでおり、いかに些細な要素も見逃さないようになっておりますから、それを細かく説明していったら恐らくうんざりなさることでしょう。ですが、ここで一つだけ実例を挙げて昨晩の通信の終わりで述べたことを補足説明しておきたいと思います。
最近のことですが、また一人の女性が暗黒界から例の”橋に到着するという連絡を受け、私ともう一人の仲間二人で迎えに行かされたことがありました。急いで行ってみますと、件くだんの女性がすでに待っておりました。一人ぼっちです。実はそこまで連れて来た人達がその女性に瞑想と反省の時を与えるためにわざと一人にしておいたのです。これからの向上にとってそれが大切なのです。
一本の樹木の下の芝生の坂にしゃがんでおり、その木の枝が天蓋のようにその方を覆っております。見ると目を閉じておられます。私達はその前に立って静かに待っておりました。やがて目を開けると怪訝そうな顔で私達を見つめました。でも何も喋らないので、私が『お姉様!』と呼びかけてみました。女性は戸惑った表情で私達を見つめていましたが、そのうち目に涙をいっぱい浮かべ、両手で顔を覆い、膝に押し当ててさめざめと泣くのでした。
そこで私が近づいて頭の上に手を置き『あなたは私達と姉妹になられたのですよ。私達は泣かないのですから、あなたも泣いてはいけません』と言いました。『私が誰でどんな人間か、どうしてお判りになるのでしょう』ーその方は顔を上げてそう言い、しきりに涙をこらえようとしておりましたが、その言葉の響きにはまだどこか、ちょっぴり私達に対する反撥心がありました。
『どなたかは存じませんが、どんなお方であるかは存じ上げております。あなたはずっと父なる神の子の一人でいらっしゃるし、従って私達と姉妹でもありました。今ではもっと広い意味で私達と姉妹になったのです。それ以外のことはあなたの心がけ一つに掛かっております。つまり父なる神の光の方へ向かう人となるか、それともそれが辛くて再びあの”橋”を渡って戻って行く人となるかは、あなたご自身で決断下されることです』と私が述べると、暫く黙って考えてから、『決断する勇気がありません。どこもここも怖いのです』と言いました。『でも、どちらかを選ばなくてはなりません。このままここに留まるわけにはいきません。私達と一緒に向上への道を歩みましょう。そうしましょうね、私達が姉妹としての援助の手をお貸しして道中ずっと付き添いますから』『あなたはこの先がどんなところなのかをどこまでご存知なのでしょう』ーその声には苦悶の響きがありました。『今までいたところでも私のことをみんな姉妹のように呼んでくれました。私を侮あなどっていたのです。姉妹どころか、反対に汚名と苦痛の限りを私に浴びせました。ああ、思い出したくありません。思い出すだけで気が狂いそうです。と言って、この私が向上の道を選ぶなんて、これからどうしてよいか判りません。私はもう汚れ切り、堕落しきったダメな女です』
その様子を見て私は容易ならざるものを感じ、その方法を断念しました。そして彼女にこういう主旨のことを言いました。ーー当分はそうした苦しい体験を忘れることに専念しなさい。そのあと、私達も協力して新しい仕事と真剣に取り組めるようになるまで頑張りましょう、と。彼女にとってそれが大変辛く厳しい修行となるであろうことは容易に想像できました。でも向上の道は一つしかないのです。何一つ繕うことが出来ないのです。すべてのことーー現在までの一つ一つの行為、一つ一つの言葉が、あるがままに映し出され評価されるのです。神の公正と愛が成就されるのです。それが向上の道であり、それしか無いのです。がその婦人の場合は、それに耐える力が付くまで休息を与えなければならないと判断し、私達は彼女を励ましてその場から連れ出しました。」

1351回目の瞑想

 
「道すがら彼女はしきりに辺りを見回しては、あれは何かとか、この先にどんなところがあるかとか、これから行くホームはどんなところかとか、いろいろと尋ねました。私達は彼女に理解できる範囲のことを教えてあげました。その地方一帯を治めておられる女性天使のこと、そしてその配下で働いている霊団のこと等を話して聞かせました。その話の途中のことです。彼女は急に足を止めて、これ以上先へ行けそうにないと言い出しました。”なぜ?お疲れになりましたか”と聞くと、”いえ、怖いのです”と答えます。
私達は婦人の心に何かがあると感じました。しかし実際にそれがなんであるかはよく判りません。何か私達に掴み所が無いものがあるのです。そこで私達は婦人にもっと身の上について話してくれるようにお願いしたところ、ついに秘密を引き出すことに成功しました。それはこういうことだったようです。”橋”の向こう側の遠い暗闇の中で助けを求める叫び声を聞いた時、待機していた男性の天使がその方角へ霊の光を向け、すぐに救助の者を差し向けました。行ってみると、悪臭を放つ汚れた熱い小川の岸にその女性が気を失って倒れておりました。それを抱きかかえて橋のたもとの門楼まで連れてきました。そこで手厚く介抱し、意識を取り戻してから、橋を渡って、私達が迎えに出た場所まで連れて来たというわけです。
救助に赴いた方が岸辺に彼女を発見した時のことです。気がついたその女性は辺りに誰かがいる気配を感じましたが姿が見えません。とっさに彼女はそれまで彼女をイジメにイジメていた悪わるの仲間と思い込み、大声で「さわらないで!こん畜生!」と罵りました。が次に気がついた時は門楼の中に居たというのです。彼女は私達と歩いている最中に急に足を止めたのは、ふとそのことが蘇ったからでした。彼女は神の使者に呪いの言葉を浴びせたわけです。自分の言葉が余りに酷かったので光を見るのが怖くなったのです。実際は誰に向かって罵ったか自分でも判りません。しかし誰に向けようと呪いは呪いです。そしてそれが彼女の心に重くのしかかっていたのです。」

1330回目の瞑想

 
「ここの研究生達が”創造”についての進んだ科学的学習を行うためには、創造に使用される基本的成分について十分に勉強しておかねばならないようです。それは当たり前と言ってしまえば確かに当たり前のことです。この建物は研究生が最初に学習する施設の一つで、例の文字盤は上の操作室にいる研究生が自分なりに考えた成分の組み合わせやその比率などの参考資料が記されているのです。
案内して下さった方はその道の研究で相当進んだ方で、さっきの森のシーンも同じ方法でこしらえたものでした。進歩してくると、その装置を使用しなくても思い通りのものが創造できるようになります、つまり一つずつ装置が要らなくなり、ついには何の装置も使わずに自分の意念だけで造れるようになるわけです。
そこで私達は、そうした能力が実生活においてどのような目的に使用されるかを尋ねてみました。するとまず第一に精神と意志の鍛錬が目的であるのことでした。その鍛錬は並大抵のものではなく大変な努力を要するとのことで、それが一通り終了すると次は同じくこの界の別のカレッジへ行って別の科学分野を学び、そこでもさらに多くの段階の修練を積まねばなりません。その創造的能力が本当に自分のものとなり切るのは、幾つもの界でそうした修練を経たのちのことです。その暁にはある一人の大霊、大天使、あるいは能天使(本当の呼び方は知りません)の配下に属することを許され、父なる宇宙神の無限の創造的活動に参加することになります。その時に見られる創造の過程は荘厳を極めるとのことです。お話を聞いた時はそれは多分新しい宇宙ないしは天体組織の創造ーー物的か霊的かは別のとしてーーのことかも知れないと考えたりしました。が、そんな高い界のことは現在の私達にはおおよその概念程度のことしか摑めません。しかも、そこまでに至るには人智を絶した長い長い年月を要することです。もちろんそういう特殊な方向へ進むべき人の場合の話です。どうやらそこを訪れた私達5人の女性にとっては、向上の道は別の方角にあるようです。
でも、たとえ辿るべき宿命は違っても、さまざまな生命活動を知りたいと思うものです。全ての者が宇宙の創造に参加するとは限らないと私は思います。遙か彼方の、宇宙創造神の玉座に近いところには、きっと創造活動とは別に、同じく壮大にして栄光ある仕事があるものと確信しております。
芝生の外郭を通って帰る途中で、別の科学分野を学ぶために別のカレッジへ行っていた研究生の一団と出会いました。男性ばかりではありません。女性も混じっております。私がその女性達にあなた方も男性と同じ分野を研究しているのですかと尋ねると、そうですと答え、男性は純粋に創造的分野に携わり、女性はその母性本能でもって産物に円まるみをもたせる働きをし、双方が相俟って完成美を増すことになるということでした。もちろん完成美といってもその界での能力の範囲内で可能な限り美しく仕上げるという意味です。まだまだ天界の低地に属するこの界では上層界への進歩が目的であって、完璧な完成ということは有り得ないのです。」
 
今回の内容はため息しか出ませんでした。何と言っても、創造的能力を兼ね備えることが出来れば、ある一人の大霊(この意味はよくわかりませんが)大天使等の配下に属することを許されて、神様の無限の創造的活動に参加することが出来るとのことで、そのような立場になれることはそれがどれほどのことかと考えると、ため息しか出ないわけです。私などは科学にはとんと疎いですから、無理と思っていましたが、それは特殊な方向へ進むべき人の場合の話とのことで、少し安堵しました。けれど、向上への道は辿るべき宿命が違えども、 そこまでに至るには人智を絶した長い長い年月を要することに変わりはないのだと思っています。
何しろ、このことは天界の低地のお話であって、それよりもかなり下層界である人間の私には、本当に遙か彼方の遠い先のお話なのですから。けれど、いつか辿り着けることを夢見て今を頑張ろうと思います。

1331回目の瞑想

 
「やがて私達はこの円形のコロニーの校長先生と出会ったところに帰り着きました。」
 
ーーーなぜその方のお名前を出されないのですか。
「お名前はアーノルとおっしゃいます。少し変わったお名前で、地上の人間はとかく霊の名前に拘るので、出すのを控えていただけで他意はありません。霊の名前の由来はあなたには理解し難いので、これ以後もただ名前を述べるに留めて意味には言及しないことに致します。」
 
ーーーそうですね。その方がまわりくどい説明が省けていいでしょう。
「そうなのです。でも私達がこうして霊界の生活を説明する時の霊的情況の真相がもし理解できれば、手間が掛かるほど間違いが少ないということが判っていただけると思います。例のアーノル様のコロニーでの私達の体験と教訓を思い出して下さい。」
 
ーーーそれにしても、名前を出すという事がなぜそうまで難しいのでしょうか。難しいものであるという話は再三聞かされておりますが。
「その難しさを説明するのがまた難しいのです。人間の立場から見れば何でもないことのように思えるでしょうけど。こういう説明ではどうでしょう。あなたもご存知の通りに古代エジプト人にとっては神並びに女神の名称には、頑迷な唯物主観の英語系民族アングロサクソンが考える以上に深い意味があったのです。名前に何の意味があると言うのかーーそう思われるかも知れませんが、私達霊界人から観ると、そして又(こちらへ来てから得た資料で知ったのですが)古代エジプトの知恵から観ても、名前には大いに意味があるのです。名前によっては、それを繰返し反復するだけで現実的な力を発揮し、時には危害さえもたらすものがあります。地上にいる時は知りませんでしたが、こちらへ来てそれを知ったのです。それで私達は、あなたには多分愚かしく思えるかも知れませんが、”名前”という実在に一種の敬虔さを抱くようになるのです。もっとも、物分かりの悪い心霊学者が期待するほどに霊界通信で名前が出て来ないのは、それだけが理由ではありません。
こうして地球圏まで降りて来ますと、名前によっては単に口にしたり書いたりすることさえ、あなたが想像する以上に困難なことがあるのです。その辺の事情は説明が難しいのです。こちらの四次元世界の事情にもっともっと通じていただかないと理解できないでしょう。この四次元とう用語も他に適当な用語がないから使用しているまでです。では、2,3の例を挙げて、それで名前の問題は終わりにしましょう。」

1332回目の瞑想

 
「その一つは例のモーセが最高神の使者から最高神の名前を教えてもらった話(※)ですが、今日まで誰一人としてその名前の真意を知り得た者はおりません。
(※この説話は旧約聖書『出エジプト記三章』に出ているが、ステイントン・モーゼスの『霊訓』の最高指導霊イムペレーター、実は旧約聖書時代の予言者マラキによると、これは紀元前130年頃の予言者、今で言う霊言霊媒チョムを通じて告げられたもので、その時の言葉はNuk-Pu-Nuk、英訳すれば Iam the Iam すなわち”私は有るがままの存在である”となり、宇宙の普遍的エッセンス、生命の根源をさすというーー訳者)
次はそれより位の低い天使がヤコブから名前を聞かれて断られています。アブラハムその他、旧約聖書中の指導者に顕現した天使はめったに名を明かしておりません。新約聖書におていも同じように殆どが”天使”と呼ばれているだけです。名前を告げている場合、たとえばガブリエルの場合(※)も、その深い意味は殆ど理解されておりません。
(※同じく『霊訓』によると、ガブリエルは同じ大天使の中でも”守護救済”の任に当たる天使団の最高位の霊であり、ミカエルは悪霊・邪霊集団と”戦う天使団”の最高霊であるというーー訳者)
 
ーーーところで、あなたの名前ーーそちらでの新しいお名前は何でしょうか。明かすことを許されているのでしょうか。
「もちろん許されておりますが、賢明ではありません。明かした方が良ければ明かします。でも差し当たっては差し控えます。理由わけはよく判っていただけなくても、あなたの為に良かれと思ってのことであることは判っていただけるでしょうから。」
 
ーーー結構です。あなたの判断にお任せします。
「そのうちあなたにも判る日が来ます。その時は『生命いのちの書』(※)の中に記されている人々にいかなる栄光が待ち構えているかを理解されるでしょう。この書の名称も一考に値するものです。軽々しく口にされておりますが、その真意は殆ど、あるいは全然理解されておりません。
(※正式には Book of Life of the Lamb で『キリストの生命の書』 天国に召されるのを約束された聖人を意味するとされているーー訳者)
 
ではあなたにもローズにもそしてお子達にも、神の祝福のあらんことを。ルビー(オーエン氏の僅か15ヶ月で亡くなった娘さん)が、間もなく行けるようになると言ってちょうだい、と私に可愛らしく告げてます。指図を書き留められるようになってほしいなどと言ってますよ。まあ、ほんとに無邪気な子ですこと。皆から可愛がられて。ではさようなら」

1333回目の瞑想 

 
4 暗黒界からの霊の救出
「自分のすぐ身の回りに霊の世界が存在することを知らない人間に死後の存続と死後の世界の現実味と愛と美を説明するとしたら、あなたなら何から始められますか。多分第一に現在のその人自身が不滅の霊であることを得心させようとなさることでしょう。そしてもしそれが事実だったら死後の生活にとって現在の地上生活が重大な意味を持つことに気づき、その死後の世界からの通信に少しでも耳を傾けようとすることでしょう。何しろその世界は死というベールをくぐり抜けたあとに例外なく行き着くところであり、否応なしに暮らさねばならないところだからです。
そこで私達は、もしも地上の人間が今生きているその存在も実在であり決して地上限りの儚いものではないことを理解してくれれば、私達のように身をもって死後の生命と個性の存続を悟り、同時に地上生活を正しく生きている人間には祝福が待ち構えていることを知った者からのメッセージを、一考の価値あるものと認めてくれるものと思うのです。
その死の関門をくぐり抜けてより大きい自由な世界へと足を踏み入れた人間が、滞りなく神の御国での仕事に勤しむことになるのは何でもないことのようで、実はただ事ではないのです。これまで私達は地上生活と死後の世界との因果関係について多くのケースを調べてみて、地上での準備と自己鍛錬の重要性はいくら強調しても強調しすぎることはないという認識を得ております。多くの人間は死んでからのことは死んでからで良いと多寡をくくっておりますが、イザこちらへ来てみるとその考えが認識不足であったことに気付くのです。
 
ーーー今お書きになっているのはどなたですか。
「あなたの母親と霊団の者です。アストリエル様は今夜はお見えになっておりません。またいつかお出でになるでしょう。霊団と共に通信に来られた時はお知らせしましょう。
では話を続けましょう。”橋”と”裂け目”の話は致しました・・・
 
ーーーええ、聞きました。それよりもアーノル様のコロニーでの体験と、あなたの本来の界へ戻られてからのことはどうなりました。ほかに面白いエピソードはもう無いのですか。
「いろいろと勉強になり、知人も増え、お話したことより遙かに多くのことを見学したということ以外には申し上げることはありません。それよりも、ぜひあなたにお聞かせしたいと思っていることがあります。あのコロニーでの話を続けてもいいのですが、これも同じように為になる話です。
”裂け目”と”橋”ーー例の話を思い出してください。(9月14日参照)その橋ーー地上の橋と少し趣きが異なるのですが、引き続きそう呼んでおきましょうーーが暗黒界から延びてきて光明界の高台へ掛かる辺りで目撃したエピソードをお話しましょう。
私達がそこへ派遣されたのは恐ろしい暗黒界から脱出して首尾良くそこまで到達する一人の女性を迎えるためでした。その方は”光”の橋を渡ってくるのではなく、”裂け目”の恐怖の闇の中を這い上がって来るというのです。私達にはもう一人、すぐ上の界から強力な天使様が付いて来て下さいました。特別にこの仕事を託されている方で、首尾良く救出された霊が連れて行かれるホームを組織している女性天使団のお一人でした。
 
ーーーお名前を伺いたいのですが。
「ビーニ・・・・いけません。出て来ません。後にしましょう。書いているうちに思い出すかも知れません。」

1334回目の瞑想

 
「到着してみると、谷を少し下った岩だらけの道に一個の光が見えます。どなたか男性の天使の方がそこで見張っていることが判りました。やがてその光が小さくなり始め、谷底へ下りて行かれたことを知りました。それから少しすると谷底から上に向けて閃光が発せられ、それに呼応して”橋”にいくつか設けられている塔の一つから照明が照らされました。それはサーチライトに似てないこともありません。それが谷底の暗闇へ向けられ、一点をじっと照らしています。するとビー・・・私達に付いて来られた天使様が私達に”しばらくここに居るように”と言い残してその場を離れ、宙を飛んで素早く塔のてっぺんへ行かれました。
次の瞬間その天使様の姿が照明の中に消えて失くなりました。仲間の一人が天使様が光線に沿って斜めに谷底へ下りて行くのを見かけたと言います。私には見えませんでしたが、間もなくその通りだったことが判明しました。
ここで注釈が要りそうです。その照明は見え易くするためのものではありません。(高級霊は自分の霊眼で見えますから)その光には低級界の陰湿な影響力から護る作用があるのです。最初に谷底へ下った霊から閃光が発せられ、それに呼応して、常時身勝手いる塔から照明が当てられたのも、そのための相図だったのです。私には判りませんでしたが、その光線には生命とエネルギーが充満しておりーーこれ以上うまい表現が出来ませんーー谷底で援助を必要としている霊のために発せられたわけです。
やがて二人の天使が件くだんの女性霊を連れて帰って来られました。男の天使の方は非常にお強い方なのですが、疲れ切ったご様子でした。あとで聞いたところによりますと、途中でその女性霊を取り返そうとする邪霊集団と遭遇したのだそうで、信号を送って援助を求めたのはその時でした。お二人はその女性霊を抱きかかえるようにして歩いて来ましたが、その女性は光の強さに半ば気絶しかかっておりました。それを気遣いながら塔へ向けてゆっくりと歩いて行かれました。私にとってこんな光景は初めてでした。もっとも、似たような体験はあります。例の色とりどりの民族衣装を来た大集団が集結した話(9月18日参照)をしましたが、今度の光景はある意味ではそれよりも厳粛さがありました。というのは、あの光景にはただただ喜びに溢れておりましたが、いま目の前にした光景には苦悩と喜びとが混ざり合っていたからです。三人はついに橋に辿り着き、そこで女性霊は建物の一室に運び込まれ、そこで十分に休養を取り、回復したあと私達に引き渡されたのでした。
この話には私達にとって新しい教訓が幾つかあり、同時にそれまでは単なる推察に過ぎなかったものに確証を与えてくれたものが幾つかあります。そのうちの幾つかを挙げてみましょう。」

1335回目の瞑想

 
「まず、女性霊を救出した二人の天使を見れば判る通り、霊恪の高い天使が苦しみを味わうことが無いかのように想像するのは間違いだということです。現実に苦しまれるし、それも度々あるのです。邪悪な霊の住む領域に入ると天使も傷られます。ならば、その理屈でいくと邪霊集団が大挙して押し寄せれば全土を征服出来そうに思うのですが、やはり光明と善の勢力の組織がしっかりしていて、且つ常に見張っておりますので、現実にそうした大変な事態になった話を聞いた事がありません。しかし彼等との闘いは真実”闘い”なのです。しかも、大変なエネルギーの消耗を伴います。これが第二の教訓です。高級霊でも疲労することがあるということです。しかし、その苦痛も疲労も厭いとわないのです。逆説的に聞こえるかも知れませんが、高級霊になると、必死に救いを求める魂のために自分が苦しみを味わうことに喜びを感じるものなのです。
また例の照明の光ーーエネルギーと活力の光線とでも言うべきかも知れませんーーの威力は強烈ですから、何かで光を遮断してあげなかったら女性霊は危害を被こうむったはずです。あのように光に慣れない霊にとってはショックが強すぎるのです。
さらにもう一つ。その光線が暗闇の地帯の奥深く照らされた時、何百マイルもあろうかと思える遠く深い谷底から叫び声が聞こえて来ました。それは何とも言えない不思議な体験でした。と言うのは、その声には怒りもあれば憎しみもあり、絶望の声もあり、はたまた助けとお慈悲を求める声も混じっていたのです。それらが混ざり合ったものが至るところから聞こえて来るのです。私にはそれが理解できないので、あとで件くだんの女性霊を待っている間にビーニックス Beanixーーこう綴るよりほかないように思えますのでこれで通します。綴ってみるとどうもしっくり来ないのですがーーその方に何の叫び声でどこから来るのかお聞きしました。するとビーニックス様は、それはよくは知らないが霊界にはそうした叫びを全部記録する装置があって、それを個々に分析し科学的に処理して、その評価に従って最も効果的な方法で援助が差し向けられるとのことでした。叫びの一つ一つにその魂の善性または邪悪性が込められており、それぞれに相応しいものを授かることになるわけです。
件の女性をお預かりした時、私達はまずは休養ということで、心の安まる雰囲気で包んであげるよう心がけました。そして十分に体力が回復してから、用意しておいたホームへご案内しました。今もそこで面倒見てもらっています。
私達はその方に質問は一切しませんでした。逆にその方から二、三の質問がありました。なんと、あの暗黒界に実に20年以上も居たと言うのです。地上時代のことは断片的にしか聞いておらず、一つの話につなげられるほどのものではありません。それに、そんな昔の体験をいきなり鮮明に思い出させることは賢明ではないのです。現在から少しずつ遡って霊界での体験を一通り復習し、それから地上生活へと戻って因果関係ーー原因と結果、タネ蒔きと収穫ーーを明確に認識しないといけないのです。
今日はこの程度にしておきましょう。ではさようなら。神の祝福と安らぎを。アーメン。」

1336回目の瞑想 

 
4章 霊界の大都市
1 カストレル宮殿
「前回のあのお気の毒な女性ーー今は十分祝福を受けておられますがーーをお預けするホームへまだ到着しないうちから私はもう一つの使命を思い出しました。そこから遙か東方にある都市まで行くことになっていたのです。あなたはまた”東”という文字を書き渋っているけど、私達はその方角を東と呼んでいるのです。と言いますのは、こちらへ来てはじめてイエス様の御姿と十字架の像を拝見したのがその方角だったのです。その方角にある山の上空は今も明るく輝いております。私にはそれが地上の日の出を象徴しているように思えてなりません。
私達5人はその山の向こう側にある都市を目指して出発いたしました。出発に先立ってよく道順をお聞きしておきました。上の方のお話ではその都市の中央には黄金色のドームを頂いた大きい建物があり、その都市の中心街はコロネード(列柱)で囲まれているとのことでした。初めは徒歩で行きましたが、あとは空を飛んで行きました。歩くより飛ぶ方が難しいのですが、飛んだ方が速いし、それに場所を探すのには空から見た方が判りやすいという事になりました。
やがてその都市の上空に来て目標のドームを見届けてから正面入口めがけて着陸し、そこから本通りへ入りました。本通りはその都市のド真ん中を一直線に横切っており、その反対の端の裏門から出るようになっています。その幅広い通りを境にして両側にはとても敷地の広い、宮殿のような建物がズラリと並んでおります。そこはその地域一帯を治められる高官の方が住んでおられ、そこが主都になります。
畑仕事に精を出している光景も見られます。また建物がたくさん見えます。一見して住居ではなくて別の目的をもっていることが判ります。やがてコロネードで囲まれた中心街に出ました。さすがに建物も庭園もそれはそれは見事なものでした。どの建物にも必ずその建物に相応しい色彩とデザインの庭園がついております。それらを見て歩きながら、この辺で待ち合わせて下さると聞いていた方からの合図を気にしておりました。こうした場合には連絡が先に届いて待ち受けて下さっているのです。
歩いて行くうちに、いつの間にか公園のような所に入りました。とても広い公園で、美しい樹木がほどよく繁り、ところどころに噴水池が設けてあります。それ以外は一面緑の芝生です。その噴水が水面に散る時の音はメロディと言えるほど快く、またそれぞれの噴水が異なったメロディを奏でており、それらが調和して公園全体を快い音楽で包んでおります。その噴水にある細工を施すと、得も言われぬ霊妙な音楽が聴けるとのことです。その細工を施すのは度々ではないのですが、時折行われますと、その都市に住む人は無論のこと、ずっと郊外の丘や牧草地帯に住んでいる人までが大勢集まってくるそうです。私達が行った時は素朴な音楽でしたが、それでもそのハーモニー、その快さは見事でした。
暫くその公園の中を散歩しました。とても心の安まる美しいところです。芝生に腰を下ろして休んでいますと、そこへ一人の男性が優しい笑みを浮かべて近付いて来ました。私達を迎えに来られたのだということはすぐに判ったのですが、お姿を拝見して、私達とは比較にならぬほど霊恪の高い方であることが知れましたので、しばらくは言葉が出ませんでした。
 
ーーーどんな方ですか。出来れば名前も教えて下さい。
「そのうちお教えしましょう。焦ることが一番いけません。こちらの世界では焦らぬようにということが一番大切な戒めとされているほどです。焦ると、判りかけていたものまで判らなくなります。」

1337回目の瞑想

 
「その天使様はとても背が高い方で、地上で言えば7フィート半は十分あったでしょう。私は地上にいた時よりも背が高くなっていますが、その私よりはるかに高い方でした。その時の服装は膝まで垂れ下がったクリーム色のシャツを無雑作に着ておられるだけで、腕も脚も丸出しで、脚には何も履いておられませんでした。私は今、あなたの心に浮かぶ疑問にお答えしているのですよ。帽子?いえ、無帽です。髪型ですか。ただ柔らかそうな茶色の巻き毛を真ん中で左右に分けておられるだけで、それが首の辺りまで垂れ下がっておりました。頭には幅の広い鉢巻きのような帯を締めておられましたが、その帯は金で出来ており、真ん中と両側に一つずつ宝石が付いておりました。また胴にはピンクの金属で出来た帯シンクチャーを締めておられましたが、何も飾っていない丸出しの手足から柔らかい光輝が発しておりました。これらは全部その方の霊恪の高さを示しておりました。
お顔は威厳に満ちていましたが、その固い表情の中にも言うに言われぬ優しい慈悲がにじみ出ており、それを見て私達の心に安心感と信頼心が湧いてきました。また尊敬の念も自然に湧いてきました。やがて天使様は私達の波長に合わせていることがすぐに判るような、ゆるやかな口調でこう言われました。ゆるやかでも、その響きの中に心に沁み渡るものを感じ取ることが出来ました。「私の名前はカス・・・」いけません。名前は私の弱点のようでして、地上へ降りて来るとどうも名前を思い出すのが苦手です。そのうち思い出すでしょう。とにかくご自分のお名前をおっしゃってから、こんなことを言われました。「私の事は既にお聞きになっておられると思います。やっとお会いできましたね。では私の後に付いて来て下さい。早速あなた方をお呼びした目的をお話致しましょう。」私達は言われるまま天使様の後から付いて行きましたが、その道すがら気軽に話しかけられるので、いつの間にかすっかり気安さを覚えるようになりました。
天使様と一緒に通った道は公園を出てすぐ左手にある並木道でしたが、やがて別の公園に入りました。入ってすぐに気がついたのですが、そこは私有の公園つまり公園と行ってもよいほど広い庭園ということです。真ん中にはそれはそれは見事な御殿が建っていました。一見ギリシャ風の寺院のような恰好をしており、四方には階段が付いております。よほど偉い方が住んでおられるのだろうと想像しながら天使様の後についてその建物のすぐそばまで近付きました。
近付いてみてその大きさに改めて驚きました。左右の幅の広さもさることながら、アーチ形の高い門、巨大な柱廊玄関、そして全体を被う大ドーム。私達5人はただただその豪華さに見とれてしまいました。黄金のドームを頂いた大きな建物と聞いていたのは、その建物のことでした。近付いて見るとドームの色は純粋の黄金色でなく少し青味がかっておりました。私は早速どんな方がお住みになっておられるのかお聞きしてみました。すると天使様はあっさりとこう言われました。「いや何、これが私の住居ですよ。地方にも二つ私宅を持っております。よく地方にいる友を訪ねることがあるものですから、それではどうぞお入り下さい。遠路はるばる、ようこそいらっしゃいました。」
天使様の言葉には少しも気取りというものがありません。”気取らない”ということが霊恪の偉大さを示す一つの特徴であることを学びました。地上でしたらこんな時には前もって使いの者が案内して恭々うやうやしく勿体ぶって拝謁するところでしょうが、この度はその必要もないので全部省略です。もっとも必要な時はちゃんとした儀式も致します。行うとなれば盛大かつ厳粛なものとなりますが、行う意味がない時は行われません。
カストレル様ーーやっと名前が出ましたね。詳しいことは明晩にでもお話致しましょう。あなたもそろそろ寝やすまなくてはならないでしょう。ではおやすみ。」
 
今回の内容を読んで、疑問に思ったことがあります。それはこの世の物質と思われるものが、霊界にあるのは当然のことなのでしょうが、それだけ立派なおうちに住むということは、物欲につながることではないのかということです。更に地方に私宅が二つもあると言われており、しかもその理由は地方にいる友に会いに行くからだと言われているのです。
霊恪の高い方が、立派なおうちに住まわれることは当然とも思えると同時に、それではこの世のお金持ちと何ら変わらないのでは?という思いにもなってしまうのですよね。皆さんはどう思われたでしょうか。

1338回目の瞑想

 
2 死産児との面会
「カストレル様のご案内で建物の中に入ってみますと、その優雅さはまた格別でした。入口のところは円形になっていて、そこからすぐに例のドームを見上げるようになっています。そこはまだ建物の中ではなく、ポーチの少し奥まったところになります。大広間の敷石からは色とりどりの光輝が発し、絹に似た掛け物などは深紅色に輝いておりました。前方と両側に一つずつ出入口があります。見上げると鳩が飛び回っております。ドームのどこかに出入口があるのでしょう。そのドームは半透明の石で出来ており、それを通して柔らかい光が射し込みます。それらを珍しげに眺めてから、ふと辺りを見廻すと、いつの間にかカストレル様が居なくなっております。
やがて右側の出入口の方から楽しそうな談笑が 聞こえて来ました。何事だろうとその方向へ目をやると、その出入口から子供を交えた女性ばかりの一団がゾロゾロと入って来ました。総勢20人もおりましたでしょうか。やがて私達のところまで来ると、めいめいに手を差し出してにこやかに握手を求め、頬に接吻までして歓迎してくれました。挨拶を済ませると中の一人だけが残って、あとの方はそのまま引き返して行きました。大勢で来られたのは私達に和やかな雰囲気を与えようという心遣いからではなかったろうかと思います。
あとに残られた婦人がこちらへお出でになりませんか、と言って私達を壁の奥まったところへ案内しました。5人が腰掛けると、婦人は一人一人の名前を言い当て、丁寧に挨拶し、やがてこんな風に話されました。
「さぞかし皆さんは、一体何のためにここへ遣わされたのかとお思いのことでしょう。また、ここがどんな土地で何という都市なのかといったこともお知りになりたいでしょう。この建物はカストレル宮殿と申します。そのことは多分カストレル様から直々にお聞きになられたことでしょう。カストレル様はこの地方一帯の統治者にあらせられ、仕事も研究もみなカストレル様のお指図に従って行われます。話によりますと皆様はすでに”音楽の街”も”科学の街”もご覧になったそうですが、そこでの日々の成果もちゃんと私共の手許へ届くようになっているのです。届けられた情報はカストレル様と配下のお方が一々検討され、然るべく処理されます。この地方全体の調和という点から検討され処理されるのです。単に調和と申しますよりは協調的進化と言った方がよいかも知れません。
例えば音楽の街には音楽学校があり、そこでは音楽的創造力の養成に努めているのですが、そういった養成所があらゆる部門に設置されており、その成果がひっきりなしに私達の手許に届けられます。届きますとすぐさま検討と分析を経て記録されます。必要のある場合はこの都市の付属実験所で綿密なテストを行います。実験所はたくさんあります。ここへお出でになるまでに幾つかご覧になられたはずです。かなりの範囲にわたって設置されております。しかし実はその実験所の道具や装置は必ずしも完全なものとは申せませんので、どこかの界で新しい装置が発明されたり改良されたりすると、すぐに使いを出してその製造方法を学んで来させ、新しいのを製造したり古いものに改良を加えたりします。
そんな次第ですから、その管理に当たる方は叡知に長けた方でなければなりませんし、また次から次へと送られてくる仕事を素早く且つ忍耐強く処理していく能力が無くてはなりません。実はあなた方をここにお呼びしたのはその仕事ぶりをお見せするためなのです。ここにご滞在中にどうか存分にご見学なさって下さい。もちろん全部を理解していただくのは無理でしょうし、特に科学的な面はなかなか難しい所が多かろうと思いますが、たとえ判らなくても、あなた方の将来のお仕事に役立つことが多かろうと思います。それでは話はこれ位にして、これからこの建物を一通り案内して差し上げましょう。」

1339回目の瞑想

 
「婦人の話が終わると私達は丁寧にお礼を述べて、早速建物の中の案内をお願いしました。すべてが荘厳としか言いようがありません。どこを見てもたった一色というものがなく、必ず何色かが混ざっています。ただ何色が混ざっていても実に美しく調和しているので、ギラギラ輝くものでも、どこかしら慰められるような柔らかさを感じます。宝石、貴金属、装飾品、花瓶、台石、石柱、何でもがそうでした。石柱には飾りとして一本だけ立っているものと束になったものとがありました。それから、通廊には宝石類で飾られた美事な掛け物が掛けてあります。通りがけにそれが肩などに触れると、何とも言えない美しいメロディを奏でるのです。庭に出ると噴水池がありました。魚も泳いでおりました。中庭には芝生と樹木と灌木かんぼくとが地上と同じような具合に繁っておりましたが、その色彩は地上のどこにも見られないものでした。
それから屋上へ案内されました。驚いたことに、そこにもちゃんとした庭があり、芝生も果樹園も灌木も揃っておりました。噴水池もありました。この屋上は遠方の地域と連絡を交わす所です。時には見張所のような役目も果たします。通信方法は強いて言えば無線電信に似たようなものですが、通信されたものが言語でなしに映像となって現れますから(※)、実際には地上の無線とも異なりましょう。
(※この通信が書かれた頃はまだテレビジョンが発明されていなかったこと、そして、地上の発明品はことごとく霊界にあるものの模造品であることを考え合わせると興味深いーー訳者)
私達女性グループはずいぶん永い間その宮殿にご厄介になりながら、近くの都市や郊外まで出ていろんなものを見学しました。その地域全体の直径は地上の尺度で何千マイルもありましょう。それほど広い地域でありながら全体と中心との関係が驚くほど緊密でした。その中心に当たるのが今お話した大ドームの建物すなわちカストレル宮殿というわけです。その全部をお話していると幾ら時間があっても足りません。そこでそのうち幾つかをお伝えして、それによって他を推察していただきましょう。もっとも、それもあなた方の想像の及ばないものばかりですけど。
第一に不思議に思ったことはその都市に子供がいることでした。なぜ不思議に思ったかと言いますと、それまで私は子供には子供だけの世界があって、皆そこへ連れて行かれるものと思い込んでいたからです。最後に居残ってお話をしてくれた婦人はそこの母親のような地位にあられる方で、その他の方々はその婦人の手助けをされてるらしいのです。私はその中の一人に、そこの子供達がみんな幸福そうで愛らしく、こんな厳かな宮殿でいかにもくつろいでいることには何か特別な理由わけがあるのですかと尋ねてみたところ、大よそ次のような説明をしてくれました。
”ここで生活している子供はみな死産児で、地球の空気を吸ったことのある子供とは性格上に非常な違いがある。わずか2,3分しか呼吸したことのない子供でも、全然呼吸していない死産児とはやはり違う。それ故死産児には死産児なりの特別の養育が必要であるが、死産児は霊的知識の理解の点では地上生活を少しでも体験した子より速い。まだ子供でありながらこうした高い世界で生活できるのはそのためである。が、ただ美しく純粋であるだけでは十分とは言えない。ここで一応の清純さと叡知とを身につけたら、今度は地球と関係した仕事に従事している方の手に預けられ、その方の指導のもとに間接的ながら地上生活の体験を摂取することになる・・・”

1340回目の瞑想

 
「私は初めはこの話を興味本位で聞いておりました。ところがその呑気な心の静寂を突き破って、この都市へ来たのは実はそのことを知るためだったのだという自覚が油然として湧いて来ました。私にも実は一度死産児を生んだ経験があるのです。それに気がつくと同時に私の胸にその子に会いたいという気持ちが止めどもなく湧いて来ました。”あの子もきっとここに来ているに違いない”そう思うや否や私の心の中に感激の渦が巻き起こり、しばし感涙にむせびました。その時の気持ちはとても筆には尽くせません。そばに仲間がいることも忘れて木陰の芝生にうずくまり、膝に顔を押し当てたまま、湧き出る感激に身を浸したのでした。親切なその仲間は私の気持ちを察して黙って私の肩を抱き、私が感激の渦から脱け出るのを待っておりました。やがて少し落ち着くと、仲間の一人が優しくこう語ってくれました。「私もあなたと同じ身の上の母親です。生きた姿を見せずに逝ってしまった子を持つ母親です。ですから今のあなたのお気持ちがよく判るのです。私も同じ感激に浸ったものです。」
それを聞いて私はゆっくりと顔を上げ、涙にうるんだ目をその友に向けました。すると友は口に出せない私の願いを察してくれたのでしょう。すぐに腕を取って一緒に立ち上がり、肩を抱いたままの姿勢で木立の方へ歩を進めました。ふと我に返ってみると、その木立の繁みを通して子供達の楽しそうなはしゃぎ声が聞こえてくるではありませんか。多分私はあまりの感激に失神したような状態になっていたのでしょう。まだ実際に子供に会ってもいないのにそんな有様です。これで本当に会ったら一体どうなるだろうかーー私はそんなことを心配しながら木立に近づきました。
表現がまずいなどと言わないでおくれ。そう遠い昔のことではありません。その時の光景と感激とが生き生きと甦ってきて、上手な表現などとても考えておられないのです。地上にいた時の私は死産児にも霊魂があるなどとは考えてもみませんでした。ですから、突如としてその事実を知らされた時は、私はもう・・・ああ、私にはこれ以上書けません。どうかあとは適当に想像しておくれ。とにかくこの愚かな母親にも神はお情けを下さり、ちゃんと息子に会わせて下さったのです。私がもっとしっかりしておれば、もっと早く会わせていただけたでしょうにね。
最後に一つだけ大切なことを付け加えておきましょう。本当はもっと早く書くべきだったんでしょうに、つい感激にかまけてしまって・・・その大切なことというのは、子供がこちらへ来るとまずこちらの事情に慣れさせて、それから再び地上のことを勉強させます。地上生活が長ければ長いほど、こちらでの地上の勉強は少なくて済みます。死産児には全然地上の体験が無いわけですが、地球の子供であることに変わりありませんから、やはり地球の子としての教育が必要です。つまり地上へ近づいて間接的に地上生活の経験を摂取する必要があるのです。もちろん地上へ近づくにはそれなりの準備は必要です。また、いよいよ近づく時は守護に当たる方が付いておられます。死産児には地上の体験がまるで無いので、地上生活を体験した子に比べて準備期間が長いようです。やはり地上生活が長いほど、またその生活に苦難が多ければ多いほど、それだけこちらでの勉強が少なくて済み、次の勉強へ進むのが速いようです。
もちろんこれは大体の原則を述べたまでで、個々に適用される時はその子の性格を考慮し、その特殊性に応じて変更され、順応されます。
ともかく全てがうまく出来上がっております。では神の祝福を。おやすみなさい。」

1320回目の瞑想

 
6 念力による創造実験
「私達からの通信の奥深い意味を理解なさろうとする方にとって大事なことが幾つかあります。今夜はそうした表面を見ただけでは判らないことーー普通の物の考え方では見落とされがちな問題を扱う上で役に立ち指針となるものをお教えしようと思います。
その一つは人間界から放射された思念がこちらへ届く時の様子です。善性を帯びた思念には輝きが見られますが、善性が欠ける思念にはそれが見られません。その光輝はもともと本人の身体から出ており、それで私達はその色彩オーラを見て霊的正確を判断することが出来ます。単に明るいとか暗いとか、明るさの程度がどの段階であるといったことだけでなく、その人のどういう面が優れていて、どういう面に欠点があるか ということまで判断します。その判断に基づいて、長所を更に伸ばして欠点を矯正していく上で最も適当な指導霊を当てがうことになります。こうして一種のプリズム方式によって性格を分析し、それに基づいて診断を下します。
これは肉体に包まれた人間の場合であって、こちらではそんなことをする必要はありません。と言うのは、こうしたことは霊的身体(※)に関わる問題であり、こちらでは霊体は当然誰の目にも丸見えであり、それが言わば魂の完璧な指標なのですから、その人の霊的性格が全部判ってしまいます。言い落としましたが、そうした色彩は衣服にも反映しますから、その中の支配的な色彩を見て、この人はどの界のどの程度の人だという判断を下すわけです。しかし思念は精神的行為の”結果”ですから、その霊が生活している環境を見てもどういう思念を抱いている人であるかが判ります。単に見えるだけでなく肌で感じることが出来ます。地上より遙かに正確でしかも強烈です。
(※ 日本の心霊学ではこれを幽体と霊体と神体とに分けるのが常識となっているが、本書では霊体という用語を肉体とは別の霊的な身体という意味で用いることにする。霊界についても同じであるーー訳者)
 
こういう風に考えていけば私達が強烈な思考を働かせれば、その念が目に見える客観的存在となって顕現することが当然有り得ることになります。と言うことは、美しいものを意識的に拵えることも出来るというわけです。」
 
ーーー何か例をあげていただけませんか。
 
「よろしい。その方がよく判っていただけるでしょう。」

1321回目の瞑想

 
「ある時、こうした問題を勉強している仲間が集まって、どの程度進歩したかを試してみましょうということになりました。そこで美しい森の空地を選び、全員である一つの像を念じてその出来具合を見ました。私達が選んだのは、後で調べるのに都合が良いように、固くて長持ちするものということで象に似た動物でした。象とは少し違います。こちらにはいますが地上ではもう絶滅しました。
私達は空地で円座を組み、その動物を想像しつつ意念を集中しました。すると意外に速くそれが目の前に姿を現しました。こんなに速く出来るものかとみんなで感心しました。しかし私達の目には二つの欠点が見えました。一つは大きすぎるということ。全員の意念を加減することを忘れたのです。もう一つは、確かに生きた動物ではあるけど、部分的には石像のようなところもあることです。生きた動物を想像して念じた者が多かったからそうなったので、結局は石と肉の混合のような、妙なものになってしまいました。他にも挙げれば細かい欠点がいろいろと目立ちます。例えば頭部が大きすぎて胴が小さすぎました。念の配分が片寄っていることを示すものです。こういう具合にして欠陥を知り、その修正方法を研究します。実験してみてはその成果を検討し、再びやり直します。今紹介したのがその一例というわけです。
そうして拵えた像から注意を逸らして語り合っていると、その像が徐々に姿を消して行きます。そこでまた新たにやってみるわけです。私達は同じモデルは二度と使用しないことにしました。想念の仕方が一つのパターンにはまってしまう恐れがあるからです。そこで今度は果実の付いた樹木にしました。オレンジの木に似ていますが、少し違います。
今度は前よりは上手く行きました。失敗点の主なものとしては、果実が熟したものと熟してないものがあったこと。それから葉の色が間違ってましたし、枝の長さにまとまりがありませんでした。こうして次から次へと実験し、その度に少しずつ上手くなって行きました。あなたにはこうした学習の愉しさや、失敗から生まれる笑いやユーモアがある程度は想像していただけると思います。死後の世界には冗談も、従って笑いもないかのように想像している人は、いずれその考えを改めていただかねばなりません。そうしないとこちらへ来てから私達とお付き合いがしにくいーーいえ、私達の方がその方達とお付き合いしにくいのです。でも、そういう人でもやがてこの世界の愛に目覚め、至って自然にそして屈託なく振舞うことが出来ることを知り、そうならないとまともに相手にしてもらえないことを悟るようになります。地上というところはそれとは反対のように思いますが、いかがですか。いえ、地上は地上なりに生きてそれなりの教育を得ることです。そうすればこちらへ来てーーただブラブラするだけ、あるいはもっと堕落すれば別ですがーー当たり前に生活すれば進歩も速いのです。そして学べば学ぶほど自由に使いこなせるエネルギーに感嘆するのです。」
 
今回の内容はまさに思念や意念に実体あるということを裏付けるもののように感じました。またとても興味深い内容でした。霊界ではこうやって意念に集中することで、実現化するのですよね。だからこそ、この世でも、その訓練をしておかないと、霊界に行ってから苦労することになるのだと思います。何の本に書いてあったのか、だいぶ前に読んだ本なので、覚えていませんが、霊界通信してきた方が、もっと地上で思念や意念の訓練をしておけば良かったと言われていて、その方が何度も自分の思うものを出現させようとして試してもなかなか上手く行かなかったことが書かれていたのです。そしてこの世にいる人は、霊界で自分の思いを実現させたいならば、その訓練を必ずしておくべきだと忠告されていたのです。今回の内容を読みながら、そのことを思い出していました。しかも、霊界でさえ、なかなか完璧には行かないことを知って、思念や意念に集中することの難しさを痛感しました。ということはこの世で実現させることは至難の技なのかも知れませんよね。でも訓練することはとても大事なことなのではないかと思っています。そして霊界での学びの愉しさは格別のようにも感じます。またユーモアや笑いそして冗談などあることに、本当に楽しみでしかありません。早く霊界へ行きたいものだと更に強く思ってしまった次第です。

1322回目の瞑想

 
ーーーアストリエル霊、昨日出られた方ですが、ここに来ておられますか。
「今夜はお出でになりません。お望みであれば、またお出でになりましょう。きっと。」
 
ーーーどうも。でもあなたにも来て書いていただきたいですね。
「ええ、それはもちろん、あの方も私も参りますよ。あなたのためでもあり、同時に私達にとっても、こうして霊感操作をすることが、今述べたのと同じように意念や霊力の使い方を勉強する上でも良い訓練になるのです。私達が述べていることが映像となってあなたの意識に入って来るのが見えませんか。」
 
ーーー見えます。時には実に鮮明に見えることがあります。そういうことだとは思ってもみませんでした。
「おやおや、そうでしたか。でもこれでお判りでしょう。さっきのことを書いたのもそれなりの目的があったということが。あなたはそれがどうもピンと来ないーー多分その通りだったでしょう。それは私達も認めますーーと思っておられましたし、一体何を訴えんとしているのかと、いささか不愉快にさえ思っておられた。でね、そうではなかったかしら。私達はあなたのその様子を見てニコニコしていたのですよ。でもあなたは私達の思念をほぼ私達が念じた通りに解釈しておられましたし、そうさせた私達の意図も、意念というものがあれほど鮮明に、そして実感をもって眼前に現れるものであることを判っていただくことにあったのです。
ではさようなら。あなたに、そしてあなたのお家族に神の祝福を。」
 
<原著者ノート> アストリエル霊のメッセージは数多く書かれているが、全体に連続性が見られない。なぜかはよく判らない。が結果としては母の通信の合間に割って入るために、アストリエル霊自身の通信はもちろん母の通信の連続性も破壊してしまう。そこでアストリエル霊の通信は日付の順に出さずに、巻末の第6章にまとめて紹介する。
(私は日付は入れずに記載しています)

1323回目の瞑想 

 
3章 暗黒から光明へ
1 愛と叡知
「私達の日常生活とあなた方の日常生活とを比較してみられれば、結局はどちらも学校で勉強しているようなものであること、実に大きな学校でたくさんのクラスがあり、大勢の先生がおられること、しかし教育方針は一貫しており、単純なことから複雑なことへと進むようになっていること、そして複雑ということは混乱を意味するのではなく、宇宙の創造主たる神を知れば知るほどその知る喜びによって一層神への敬虔なる忠誠心を抱くように全てがうまく出来上がっていることを悟るようになります。
そこで今日も従来からのテーマを取り上げて、こちらの世界で私達が日頃どんなことをして過ごしているのか、神の愛がどのように私達を包み、謙虚さと愛を身につけるにつれて事物が益々明快に理解されていくかを明らかにしてみましょう。
こちらの事情で大切なことの一つに叡知と愛のバランスが取れていないといけないことが挙げられます。両者は実に別個のものではなく、一つの大きな原理の二つの側面を表しているのです。言わば樹木と葉との関係と同じで、愛が働き叡知が呼吸しておれば健全な果実が実ります。解りやすく説明するために、私達が自分自身のこと、及び私達が指導することを許された人々の世話をする中でどういう具合にその愛と叡知を摂り入れて行くか、一つの具体例を挙げてみましょう。
つい先頃のことですが、私達は一つの課題を与えられ、そのことで私達5人で遠く離れたところにある地域コロニーを訪れることになりました。目的は神の愛の存在について疑念を抱き、あるいは当惑している地上の人間に対して取るべき最良の手段を教わることでした。と言うのも、そうしたケースを扱う上でしばしば私達の経験不足が障害となっていましたし、又あなたもご存知の通り地上にはそういう人が多いのです。
そこにあるカレッジの校長先生は地上では才能豊かな政治家だった方ですが、その才能が地上ではあまり発揮されず、こちらへ来て初めて存分に発揮できるようになり、結局地球だけが鍛錬の成果が発揮される場ではないことを身をもって理解されたわけです。
訪問の目的を述べますと、その高い役職にも拘わらず、少しも偉ぶらず、極めて丁重で親切に応対されました。あなた達なら多分天使と呼びたくなるだろうと思われるほど高貴な方で、もしもそのお姿で地上に降りたら人間はその輝きに圧倒されることでしょう。容姿もお顔も本当に美しい方で、それを形容する言葉としては、さしずめ”燦然たる高貴に燃え立つような”というところでしょう。親身な態度で私達の話に耳を傾けられ、時折静かな口調で”それで?”と言って話を促され、私達はついその方の霊恪の高さも忘れて、恐れも遠慮もなく話しました。するとこうおっしゃいました。
「生徒の皆さんーーここにいる間は生徒ということにしましょうーーお話は興味深く拝聴いたしました。と同時に、そういうお仕事によくある問題でもあります。さて、そうした問題を私が今あっさりと解決してあげれば、皆さんは心も軽くお仕事に戻ることができるでしょう。が、イザ仕事に携わってみるとまたアレコレと問題が生じます。なぜか。それは一番心に銘記しておくべきことというものは体験してみなければ解らない細々こまごまとしたことばかりだからです。それがいかに大切であるかは体験してみて初めて解るということです。では私についてお出でなさい。大事なことをこれからお教えしましょう。」

1324回目の瞑想

 
「私達は先生の後について敷地内を歩いて行きました。庭では庭師が花や果物の木の剪定などの仕事に専念しておりました。小道を右に左に曲がりながら各種の植え込みの中を通り抜けました。小鳥や可愛い動物がそこここに姿を見せます。やがて小川に出ました。そしてすぐ側にエジプトの寺院のミニチュアのような石の東屋があり、私達はその中に案内されました。天井は色とりどりの花で出来た棚になっており、その下の一つのベンチに腰掛けると、先生も私達のベンチと直角に置いてあるベンチに腰を下ろされました。
床を見ると何やら図面のようなものが刻み込まれております。先生はそれを指差してこうおっしゃいました。
「さて、これが今私があなた方を案内して回った建物と敷地の図面です。この印のところが今いる場所です。ご覧の通り最初に皆さんとお会いした門からここまで相当の距離があります。皆さんはおしゃべりに夢中でどこをどう通ったかは一切気に留められなかった。そこでこれから今来た道を逆戻りしてみるのも良い勉強になりますし、まんざら面白くないこともないでしょう。無事にお帰りになってお会いしたら、さきほどお聞きしたあなた方の問題についてアドバイスいたしましょう。」
そうおっしゃって校長先生は立ち去られました。私達は互いに顔を見合わせ、先生が迷路のような道を連れて回られた目的に気付かなかったそのうかつさを互いに感じて、どっと笑い出しました。それから図面を何度も何度も調べました。直線と三角と四角と円がごちゃごちゃになっている感じで、初めはほとんど判りませんでした。が、そのうち徐々に判り始めました。それはそのコロニーの地図で、東屋はその中心、ほぼ中央に位置しております。が入口が記されておりません。しかもそれに通じる小道が4本あって、どの道を辿れば良いかが判りません。しかし私はこれは大した問題ではないと判断しました。と言うのは4本ともコロニーの外郭へつながっており、その間に何本もの小道が交叉していたからです。その判断に到達するまでのすったもんだは省きましょう。
とにかく私の頭に一つの案が浮かび、参考までに提案してみたところ皆んなそれはなかなか良い考えだと言い、これで謎が解けそうだと喜びました。と言って別に驚くほどのことではないのです。どの方向でも良いから、とにかく外へ出て一番直線的な道を進んでみるというだけの話です。言い方がまずいようですね。要するに東屋からどちらの方角でも良いから一番真っ直ぐな道を取るということです。そうすると必ず外郭へ出る。その外郭は完全な円形をしているから、それに沿って行けば多かれ早かれ門まで来ることになるわけです。

1325回目の瞑想

 
「いよいよ出発しました。道中は結構長くて楽しいものでした。そして冒険的要素が無いわけではありませんでした。と言うのも、そのコロニーはそれはそれは広いもので、丘あり谷あり森あり小川ありで、それがまた実に美しいので、よほど目的をしっかり意識していないと、道が二つに岐れたところに来るとつい方向を誤りそうになるのでした。しかし、必ずしも最短で直線的な道を選んだわけではないと私は思うのですが、私はついに外郭に辿り着きました。ついでに言うと、その外郭は芝生の生い茂った幅の広い地帯になっていて、全体は見えなくても、その境界の様子からして円形になっていることはすぐに判ります。そこで左へ折れ、そのまま行くと間違いなく円形をしていて無限軌道のように続いておりました。どんどん歩いて行くうちに、ついに最初に校長先生にお会いした門のところまで来ました。
先生は、よく頑張りました、と言って迎えて下さり、その足で建物の前のテラスに上がり、それまでの冒険談ーー私が書いたものより遙かに多くの体験ーーをお聞かせしました。先生は前と同じように熱心に耳を傾けて下さり、「なるほど、結構立派にやり遂げられました。目的を達成し、ここまで帰って来られたのですから。ではお約束通り、あなた方の学ばれた教訓を私から述べさせていただきましょう」と言って次のような話をされました。
「まず第一に、行きたいと思う方向を確認すること。次に近道と思える道ではなく一番確実と思える道を選ぶこと、その道が一番早いとは限りません。限りなく広がると思えたこのコロニーの境界領域まで先ずやって来る。その境界線から振り返ると、それまで通り抜けてきた土地の広さと限界の見当がつく。要はそれまでの着実さと忍耐です。望むゴールには必ず達成されるものです。又、その限られた地域とその先に広がる地域との境界領域に立って見渡すと、曲がりくねった道や谷や小森がたくさんあって、あまり遠くまで見通せなくても全体としては完全に釣り合いが取れているーー要するに完全な円形になっており、内部は一見すると迷路でごった混ぜの観を呈していても、より大きい、すりはより広い観点から見ると、全体として完全な統一体で、実質は単純に出来ていることが判るはずです。小道を通っている時は迷うでしょうけど。それに、その外郭を曲線に沿って行くと限られた範囲しか目に入らなかったでしょう。。それでも、その形からきっと求める場所つまり門に辿り着けると判断し、その理性的判断に基づいた確信のもとに安心して辿って来られた。そして今こうして辿り着き、少なくとも概略においてあなた方の指摘推理が正しかったことを証明なさったわけです。
さてこの問題は掘り下げればまだまだ深いものがありますが、私はここでなた方をこの土地にいて私を援助してくれている仲間達にお預けしようと思います。その人達がこの建物や環境を更に案内し、お望みならもっと広い地域まで案内してくれるでしょう。面白いものがたくさんあるのです。その方達と私が述べた教訓について語り合われるとよろしい。少しで後でもう一度お会いしますので、その時に話したいことや尋ねたいことがあればおっしゃって下さい。」
 
そうおしゃって私達にひとまず別れを告げられると、代わって建物の中から楽しそうな一団が出て来て私達を中へ招き入れました。
まだまだ続けたいけど、あなたにはまだお勤めが残っているから今日はこの辺でやめにしましょう。少しの間とはいえ、こうして交信のために降りて来るのは楽しいことです。あなたを始め皆さんに神の祝福を。母とその霊団より。」
 
前回と今回の内容は、方向音痴の私にとって、ちょっと耳が痛いお話でした。多分、私もおしゃべりに夢中になって、どこをどう通ったかなどとは、全く気にもしなかったと思います。全体を通して見ることの大切さを実感しました。余談になりますが、主人は地理感覚に優れていて、地図があれば上からの目線で全体を思い浮かべることが出来るそうなのです。なので知らない道を車で運転するときも、地図さえあればそれを頭に入れれば全体がわかるとのことで間違わずにどこへでも行けるようです。随分昔の話になりますが、母の実家は秋田県なのですが、そこへ母と私達家族で遊びに行った時に、母も知らなかった素晴らしい景色の道をドライブしたという思い出があるのです。脳出血後も、その能力だけは衰えることなく、今も健在なんですよ。
ところで〜次回の内容は、霊界の科学館という題名なのですが、若い頃に読んで衝撃を覚えたものだったのです。けれど、何の本だったのか、ず〜っと思い出せずにいたのですよね。それが今回の「ベールの彼方の生活」だったことが分かり、びっくりしています。
霊界に行けたなら、音楽ホールなどに音楽を聴きに行くのはもちろんのことですが、この科学館にも絶対に行ってみたいと思っているのです。この世では到底考えられない内容でした。なので、明日を楽しみにして下さいね。

1326回目の瞑想 

 
2 霊界の科学館
「昨夜は時間がなくて簡単な叙述に終わってしまったので、今日は引き続きあのコロニーでの体験の幾つかを述べてみたいと思います。そこには色んな施設があり、その殆どは地上の人間で死後の世界について疑問に思っている人、迷っている人を指導するにはどうすれば一番効果的かを研究するためのものです。昨夜お話した私達の体験に比喩として吟味されれば、その中に託された教訓を膨らませることが出来ると思います。
さて、あのあと指導霊の一団の引率で私達はすでにお話した境界の外側へ出ました。そこは芝生地ですが、それが途方もなく広がっているのです。そこは時折執り行われる高級界の神霊の”顕現”する場の一つです。招集の通達が出されますと各方面からそれはそれは大勢の群衆が集合し、その天界の低地で可能な限りのさまざまな荘厳なるシーンが展開します。
そこを通り過ぎて行くうちに次第に登り坂となり、辿り着いたところは台地になっていて、そこに大小さまざまな建物が幾つか建っております。その中央に特別に大きいのが立っており、私達はそこへ案内されました。入ってみるとそこは何の仕切りもない、ただの大きなホールになっております。円形をしており、まわりの壁には代わった彫刻が施されております。細かく調べてみますと、それは天体を彫ったもので、その中に地球もありました。固定されているのではなく回転軸に乗っていて、半分が壁の中にあり半分が手前にはみ出ております。そのほか動物や植物や人間の像も彫られていて、その殆どが壁のくぼみ、つまり入れ込みに置いてあります。尋ねてみますとそこは純粋な科学教育施設であるとのことでした。
私達はその円形施設の片側に取り付けられているバルコニーに案内されました。そこは少し出っ張っていますので全体が一望できるのです。これからそこの設備がどういう風に使されるかを私達のために実演して見せて下さることになりました。腰掛けて見ておりますと、青い霞のようなものがホールの中心付近に立ち込め始めました。と同時に一条すじの光線がホールの中をさっと走って地球儀の上に乗っかりました。すると地球儀がまるでその光を吸収していくかのように発光し始め、間もなく光線が引っ込められた後も内部から輝き続けました。と見ているうちに今度はもう少し強烈な別の光線が走って同じように地球儀の上に乗りました。するとその地球儀がゆっくりと台座から離れ、壁から出て宙に浮きました。
それがホールの中央部へ向けて浮上し、青い霞の中へ入ったとたんに膨張し始め、輝く巨大な球体となって浮かんでおります。その様子は譬えようもなく美しいものでした。それが地球と同じようにゆっくりと、実にゆっくりとした速度で回転し、その表面の海洋や大陸が見えます。その時はまだ地上でよく使われる平面図にすぎませんでしたが、回転を続けていくうちに次第に様子が変わってきました。
山脈や高地が隆起し、河や海の水がうねり、さざ波を立て、都市のミニチュア、建物の細々こまごまとした部分までが見え始めたのです。きめの細かさがどんどん進んで、人間の姿ーー最初は群衆が、やがて一人一人の姿が見分けられるようになりました。直径80フィートから100フィートもあろうかと思える球体の上で生きた人間や動物が見えるシーンは、とてもあなたには理解できないでしょう。がそれがこの施設の科学の目的なのです。つまり各天体上の存在を一つ一つさいげ再現することです。
その素晴らしいシーンは益々精度を増し、回転する球体上の都市や各分野で忙しく働いている人間の様子まで見えるようになりました。広い草原や砂漠、森林、そこに生息する動物類の姿まで見えました。更に回転して行くうちに、今度は内海や外洋が見えて来ました。あるものは静かに波打ち、あるものは荒れ狂っております。そして、そこここに船の姿が見えます。つまり地上生活のすべてが目の前に展開するのでした。
私は長時間そのシーンに見入っておりました。するとその施設の係の方が下の方から私達に声を掛けられました。おっしゃるには、私達が今見ているのは現時点での実際の地上の様子で、もしお望みであれば過去へ遡って知性をもつ存在としての人類の起源までを再現できますということでした。是非その美事な現象をもっともっと見せていただきたいと申し上げると、その方は現象のすべてをコントロールしていると思われる器機のあるところへ行かれました。」
 
如何でしたでしょうか。このようなことが実際に見れるとしたら、見てみたいと思いませんか。私は絶対に見たいです。また、未来はどうなっているのかとも思いました。ただそれは例え、霊界で見れたとしても、この世の人間には教えたもらえないのでは、とも思います。
とにもかくにも、この科学館にはとても関心があるので、楽しみの一つにしておこうと思います。

1327回目の瞑想

 
「その話の続きは後にして、ここで今あなたの心の中に見えるものについて説明しておきましょう。そのホールは暗くはありません。全体が隅々まで明るいです。ですが球体そのものが、強烈でしかも不快感を与えない光が輝いているために、青い霞の外側が何となく薄暗く見えるまでです。その霞のあるところが球体の発する光輝の領域となっているようでした。
さて、程なくしてその回転する球体上の光景が変化し始めました。そして私達は長い長い年月を通り、人間がようやく森林から出て来て平地で集落をこしらえるようになった頃の地上の全生命ーー人間と動物と植物の太古の姿を目の当たりにし始めました。
ここでお断りしておかなければならないのは、太古の歴史は地上の歴史家が言っているような過程を辿ってはいないということです。当時の現象は”国家”と”世紀”の単位でなく”種”と”累代るいだい”(※)の単位で起きておりました。何代もの地質学的時代がありました。人間が鉄器時代とか石器時代、氷河期と呼んでいる時期を見ますと実に面白いことが発見されます。予めある程度の知識を持つ者には、どうもそうした名称がでたらめであることが判るのです。と言いますのは、例えば氷河期は当時の地球の一、二の地域には当てはまるかも知れませんが、決して全体が氷で覆われていたわけではないことが、その球体を見ていると判るのです。それも大抵一時代に一つの大陸が氷で覆われ、次の時代には別の大陸が覆われていたのです。が、そうした歴史的展開の様子は地球が相当進化したところで打ち切られました。そうして、さっきも述べたように人類の出現はその時はすでに既成事実となっておりました。(※地質学的時代区分を二つ以上含む最大の単位ーー訳者)
どんどん様相を変えて行くこの多彩な宝石のような球体に魅入られ、これが他ならぬ我が地球なのかと思い、それにしては自分達が何も知らずにいたことを痛感していると、その球体が次第に小さくなって、元の壁の入れ込みの中へ戻り、やがて光輝が薄れていき、ついには最初に見かけた時と同じただの石膏の彫り物のようなものになってしまいました。
この現象に興味をそそられた私達が指導霊に尋ねると、そこの施設についていろいろと解説して下さいました。今見た地球儀にはもっと科学的な用途があること、あのような美しい現象を選んだのは科学的鍛錬を受けていない私達には美しさの要素の多いものが適切と考えたからであること、科学的用途としては例えば天体と天体との関連性とか、それぞれの天体の誕生から現在までの進化の様子が見られるようになっていること、等々でした。」
 
何とも、呆気に取られるとはこのことですよね。この地上でどれだけの研究し議論しようが、わからないはずです。霊界の科学館には太古からのすべてがちゃんとわかるようになっているのですから。やはり霊界がメインということの証のような気がします。地球が影であることを納得せざるを得ません。
科学には全く疎い私ですが、この科学館には、是非とも見学したいとの思いが強まってしまいました。

1328回目の瞑想

 
「壁にはめ込まれた動物も同じような目的に使用されるとのことでした。地球儀の時と同じように光線が当たると光輝を発してホールの中心部へやって来ます。そこでまるで生きた動物のように動きまわります。事実ある意味でその間だけは生きた動物となっているのです。それが中央の特殊な台に乗っかると拡大光線ーー本当の科学的名称を知らないので仮にそう読んでおきますーーを当てられ、更に透明にする光線を当てられます。するとその動物の内臓が丸見えとなります。施設の人の話によりますと、そうやって映し出される動物あるいは人間の内部組織の働き具合を見るのは実に見応えがあるものだそうです。
そのモデルに別の操作を施すと、今度は進化の過程を逆戻りして次第に単純になって行き、ついには哺乳動物としての原初形態まで遡っていくことが出来ます。つまりその動物の構造上の発達の歴史が生きた姿のまま見られるというわけです。面白いのはその操作を過ると間違ったコースを辿ることがあることで、その時は初期の段階が終わった段階で一旦元に戻し、もう一度やり直して、今度は正しいコースを取って今日の段階まで辿り着くという事があるそうです。又、研究生が自分のアイディアを組み入れた進化のコースを辿らせてみることも出来るそうです。動物だけでなく、天体でも国家でも民族でも同じことができるそうですが、それを専門的に行う設備が別のホールにあるとのことでした。一度話に出た(10月6日参照)子供の学校の構内に設置されていた球体は実はこの施設の学生の一人がこしらえたのだそうです。もちろんここにあるものよりはずっと単純に出来ております。もしかしたらこの施設の美しさを見たあとだからそう思えるのかも知れません。
今日はこれ位にしておきましょう。他にもいろいろと見学したものがあるのですが、これ以上続けると長くなりすぎるので止めにします。
何か聞きたいことがあるみたいですね。その通りです。私は月曜日の勉強会に出席しておりました。あの方が私に気付いておられたのも知っておりました。私の述べた言葉は聞こえなかったようですけど。では明日お会いしましょう。
 
<原著者ノート>最後のところで言及している勉強会のことについて一言述べておく必要がある。前の週の月曜日のことである。私はその日、礼拝堂の手すりと手すりの間に着席し、勉強会のメンバーは聖歌隊席で向かい合って着席していた。聖歌隊席の至聖所側の一番端で私の右手になる位置にE婦人が着席していた。そのE婦人が後で語ってくれたところによると、私が会の最後の締めくくりの言葉を述べている最中に私の母親が両手を大きく広げ情愛溢れる顔で祭壇から進み出て、私のすぐ後ろまで来たという。その姿は輝くように美しく、まるで出席しているメンバーと少しも変わらない人間の身体をまとっているよだったという。E婦人の目には今にも私を抱きしめるかに見えたそうで、あまりの生々しさに一瞬自分以外の者には見えていないことを忘れ、今にも驚きの声を出しそうになったけど、どうにか堪えて目を逸らしたという。私が質問しようと思っていたのはそのことだった。

1329回目の瞑想

 
3 霊界のパビリオン
「例のコロニーでの、あなたの喜びそうな体験をもう一つお話しましょう。私にとっても初めての体験で興味深いものでした。全体として一つのグループを形成している各種の施設を次々と案内して頂いていると、屋外パビリオンのようなものに出ました。何本もの高い円柱の上に巨大なドームが乗っているだけで、囲まれている内部に天井がありません。建物のまわりについている階段から壇上に上がると、その中央に縦横3フィート、高さ4フィートばかりの正方形の祭壇が設けてあります。その上に何やら日時計のようなブロンズ製の平たい板が立ててあり、直線やシンボル、幾何学的図形等がいろいろと刻まれてありました。
その真上のドームの中央部に通路があり、そこから入って行くとその施設の器械の操作室に出るとの話でした。
私達をその文字盤(と呼んでおきましょう)のまわりに並ばせて、案内の方はその場を離れてドームの天井へ上がり操作室へと入られました。何が起きるのか判らないまま、私達はじっとその文字盤を見つめておりました。すると様子が変化し始めました。まず空気の色彩と密度が変わってきました。辺りを見ますと、さっきまでの光景が消え、円柱と円柱との間に細い糸で出来たカーテン状のものが広がっておりました。さまざまな色調の糸が編み合わさっています。それが見る見るうちに一本一本に分かれ、判然とした形態を整えていきました。すっかり整え終わった時、私達はまわりを林によって囲まれた空地の中に立っておりました。そしてその木々がそよ風に揺れているのです。やがて小鳥のさえずりが聞こえ、木から木へと飛び交うきれいな羽根をした小鳥の姿が目に入りました。林はなおも広がり、美しい森の趣きとなってきました。ドームも消え、屋根のように樹木が広がっているところを除いては一面青空が広がっておりました。
再び祭壇と文字盤に目をやると、同じ位置にちゃんとありましたが、文字盤に刻まれた図形やシンボルは祭壇の内部から発しているように思える明かりに輝いておりました。
やがて上の方から案内の方の声がして、文字盤を読んで見るように言われます。最初のうち誰れにも読めませんでしたが、そのうち仲間の中で一番頭の鋭い方が、これは霊界の植物と動物の身体を構成する成分を解説しているものですと言いました。その文字盤と祭壇とがどのような関係になっているのかも明らかとなりましたが、それは人間の言葉で説明するのはちょっとムリです。ですが判ってみると成る程と納得がいきました。その後案内の方が再び私達のところへ来られ、その建物の使用目的を説明して下さいました。」

1310回目の瞑想

 
「私がそのコロニー、あるいは総合研究所と呼んでもよいかも知れませんが、そこを出て中央のドームが見上げられる少し離れた場所まで来た時、私達のこの度の見学旅行を滞りなく進めるために同伴していた指導霊が私達の足を止めて、出発の時から約束していたお別れのプレゼントをお見せしましょうとおっしゃるのです。何だろうと思って見つめたのですが、何も見えません。少し間を置いてから皆んな怪訝けげんそうな顔で指導霊を見つめました。すると指導霊はにっこり笑っておられます。私達はもう一度よく見ました。やがて仲間の一人が「さっきここで足を止めて見上げた時、あのドームは何色だったかしら」するともう一人が「赤色だったと思うけど」と言いますが、誰一人確実に憶えている者はいませんでした。ともかくその時の色は黄金色をしておりました。そこで「暫く見ていましょうよ」とみんなで見つめていると、やがてそれが緑色に変わりました。いつどの辺りから緑色に変化し始めたのかは見分けられませんでした。その調子で次から次へと一様に色彩が変化して行くのです。それが暫くの間続きましたが、何とも言えない美しさでした。
やがてドームは完全に見えなくなりました。指導霊の話ではドームはちゃんと同じ場所にあるのだそうです。それが、各ホールからある種の光の要素を集めて組み合わせることによって、そのように姿が見えなくなるーーそれがその建物で仕事している人が工夫した成果の一つだということです。そう見ているとドームと林の上空にーードームは見えないままですーー巨大なピンクのバラが出現しました。それがゆっくりと色調を深めて深紅に変わり、その大きな花びらの間で美しい容姿をした子供達が遊び戯れていたり、大人の男女が立ち話をしていたり、歩きながら話に興じたりしています。みんな素敵で美しい、そして幸せそうな姿をしております。一方では子鹿や親鹿、小鳥などが走り回ったり、飛び回ったり寝そべったりしています。花びらが膨張して丘陵地や小山などの自然の風景の舞台と化し、その上を子供達が動物と楽しそうに可憐な姿で遊び戯れているのです。それがやがてゆっくりと薄れて行き、そのうちただの虚空に戻りました。私達はその場に立ったままの姿でそうした光景を幾つか見せて頂いたのです。」

1311回目の瞑想

 
「もう一つ見せて頂いたのは光の円柱で、ちょうどドームのある辺りから垂直に伸び、そのまま天空に直立しておりました。純白の光で、その安定した形を見ていると、まるで固形物のように見えました。そのうち、先程のホールの一つから一条の色彩を帯びた光が斜めに放たれて光の円柱に当たりました。すると各々のホールからさまざまな色彩の光が放たれました。赤、青、緑、紫、オレンジーー淡いものから中間のもの、そして濃いものまでーーいろいろで、あなたの知っているものはもちろん、ご存知ないものも幾つかありました。それらのすべてが純白の光の柱の中間部に斜めに繋がりました。
見ているとそれが形を整え始めました。一本一本が道となり、沿道にビルや住居、城、森、寺院、その他が建ち並んでおります。そしてその傾斜した道を大勢の人が上がって行きます。一つの道は全部同じ色をしておりますが、色調は多彩でした。それはそれは素敵な光景でした。円柱まで近付くと、少し手前のところで、それを取り囲むような形で立ち止まりました。すると円柱の頂上が美しい白百合の花にように、ゆっくりと開きました。そしてその花びらがうねりながら反り返って、下へ下へと垂れて行き、立ち止まっている群衆と円柱との間に広がりました。すると今度は円柱の底辺が同じように開き、円い踊り場のような形で、群衆が立ち止まっている場所との空間を埋めました。これで群衆は上へあがることが出来ます。今や全体がーー馬も乗り物もーーそれぞれの色調を留めながら渾然となっております。その様子はまるで祝宴か祭礼にでも臨むかのように、多彩な色調をした一つの巨大なパビリオンに集まり行く素敵で楽しい大群衆を見ているという感じでした。その群衆の色調が天井と床つまり舗道に反映し、その全体から発する光輝は何とも言いようのないほど素晴らしいものでした。やがて群衆は幾つかのグループに分かれました。すると中央の光の円柱が巨大なオルガンのような音を鳴り響かせました。何が始まろうとしているかはすぐに判りました。
間もなく声楽と器楽による”グロリア・イン・エクセルシス・デオ”(※)の大音楽が始まりました。高き光の中に在します神ーー全ての子等に生命を与え、その栄光を子等が耐え得るだけの光の中に反映され給う全智全能なる神よーーと、大体そういう意味の賛歌が歌われ、そしてこのシーンも次第に消えて行きました。多分この後その大群衆は光の道を後戻りして帰って行ったのでしょうが、それは見せて頂けませんでした。確かに、その必要もなかったのです。
時間が来ました。残念ですが、これにて終わりにしなければなりませんね。では、神の御加護のあらんことを。」
(※Gloria in Excelsis Deo ”天なる神に栄光あれ”の意のラテン語で、キリスト教の大頌栄しょうえいの最初の句。ルカ2・14ーー訳者)
昨日突然に、アップロードしたら、サーバーが見つかりませんとの文言が出て、HPが表示されない状態のままになってしまっています。
サーバー会社へは連絡しておりますが、まだ返事はありません。早く正常に表示されるよう、祈っております。

1312回目の瞑想

 
3 意念の力
「”イスラエルの民に申すがよいーーひたすらに前進せよ、と”(※)これが私達が今あなたに申し上げたメッセージです。ひるんではいけません。行く道はきっと明るく照らして下さいます。全能なる神と主イエスを固く信じる者には何一つ恐れるものはありません。(※モーセが神のお告げに従ってイスラエルの民を引き連れてエジプトを脱出する時、ひるみかける民を励ました言葉であるが、この頃オーエン氏は国教会の長老から弾圧を受けて内心動揺を来していたことが推察される。ーー訳者)
私達が今更このようなことを書くのは、あなたの心にまだ何かしら疑念が漂っているからです。私達の存在を感じ取っておられることは私達にも判っております。ですが前回に述べたような話が余りにおとぎ話じみて信じられないようですね。では申しますが、実を言えばこうした天界の不思議さ美しさは、地上のいかなるおとぎ話も足元にも寄れないくらい、もっともっと不思議で美しいのです。それにおとぎ話の中に出て来る風景や建物は、こちらで見られるものと似ていないこともないのです。まだホンの僅かしか見物しておりませんが、その僅かな見聞から判断しても、地上の人間の創造力から生まれるものなどは、その不自由な肉体をかなぐり棄ててこの天界の光の中に立った時に待ち受けている栄光に比べれば、全く物の数ではないことを確信しております。
さて今夜お話したいのは、これまでとは少し趣は異なり、私達新米を教え楽しませるために見せて下さった現象的なことではなくして、こちらの事物の本質に関わることです。
今辺りを広々と見下ろす高い山の頂上に立ったとしましょう。そこから見晴らす光景はどこか地上とは違うのです。例えば、まず空気の澄み切り具合と距離感が地上とどこか違うことに気付きます。遠いと言っても、地上での遠さとは違うのです。と言うのは、その頂上から地平線の近く、あるいは更にその向こうのある地点に行きたいと思えば、わざわざ山を下りなくとも、そう念ずるだけで行けるのです。速く行けるか遅いかは意念の性質と霊恪次第です。また今おかれている境涯の霊的性質より一段と精妙な大気ーーとでも呼ぶより仕方ないでしょうーーに包まれた地域へ突入できるか否かも、その人の意念と霊恪次第なのです。
高級界からお出でになる天使のお姿が私達に必ずしも見えないのはそのためです。見え方も人によって異なります。みんなが同じお姿を拝するのは、私達の視覚に合ったように容姿を整えられた時だけです。もしその方の後について行く、つまりその方の本来の世界へ向かって行きますと、途中で疲労を覚え、ついて行けなくなって来ます。霊力次第でもっと先まで行ける者もおりますが。
更に、その頂上に立ってみますと天空が不透明に見えるのですが、それは天空そのものの問題ではなくて、霊的な光の性質つまり下の景色から距離が大きくなるにつれて強度を増して行く性質をもつ霊的な光の問題であることが判ります。ですから、霊力次第で遠くまで見通してそこに存在する生命や景色が見える人もおれば、見えない人もいるわけです。」
※ サーバー会社からは何の連絡もないまま、HPが表示されるようになりましたが、またいつ表示されなくなるかわからないので、サーバー会社を変更したいと思っております。ただ、HPは膨大にあるので、簡単にできるのかどうか、全くわかりません。得意ではないですが取り敢えずやってみようと思っております。もし詳しい方がいらしたらご教授お願いしたと思っております。教えて頂ける方がいらしたら、メルアドにご連絡頂けると有難いです。よろしくお願いします。

1313回目の瞑想 

 
「見渡せば一面に住居やビルが建ち並んでいるのが見えます。そのうちの幾つかは私が説明した通りです。しかしビルと言っても単なる建物、単なる仕事場、あるいは研究所というのではありません。その一つ一つの構造からはその建物の性格は愚か、それを建築した人及びそこに住まう人の性格も読み取れないことでしょう。永遠に朽ちることなく存在していることは確かです。が地上の建物がいつまでも陰気に立ち残っているのとは違います。常に発展し、装飾を改め、必要に応じて色彩、形、素材を変えて行きます。取り壊して再び建て直すという手間はいりません。建っているままの状態で手直しをします。時の経過による影響は出て来ません。崩れたり朽ちたり致しません。その耐久性はひとえに建築士の意念に掛かっており、意念を維持している限り立っており、意念次第で形が変えられます。
もう一つ気がつくことは、小鳥が遠くから飛んで来て、完璧な正確さで目標物にとまることです。こちらにも伝書バトのように訓練された鳥がおります。でも地上とは躾け方が違います。第一、こちらの鳥は撃ち落とされたりいじめられたりすることがありませんから、人間を怖がりません。そこで小鳥を一つの通信手段として使用することがあります。もちろん不可欠の手段というわけではありません。他にもっと迅速で能率的な通信方法があるのですから。ですが、必需品でなくても美しいからというだけで装飾品として身につけることがあるのと同じで、小鳥を愛玩動物として通信に使用するわけです。そんなのがしょっちゅう飛び交っており、とても可愛くて愛すべき動物です。小鳥も仕事をちゃんとわきまえていて、喜んでやっております。面白い話を聞きました。在る時そんな鳥の一羽が仲間を追い抜こうとして、ついスピードを出しすぎて地球の圏内に入り込んでしまいました。それを霊視能力のある人間が見つけて発砲しました。驚いた小鳥はーー銃の音に驚いたのではありません。撃とうとした時の意念を感じ取ったのですーーここは自分のいるところではないことに気付き慌てて逃げ帰りました。感じ取ったのは殺そうという欲念でした。それを不気味に思った小鳥はその体験を仲間に話して聞かせようとするのですが、うまく話せません。それはそうです。何しろそんな邪念はこちらの小鳥は知らないのですから。こちらでの小鳥の生活を地上の小鳥に話しても判ってもらえないのと同じです。そこで仲間が言いましたーー君が話せないような話なら、もう一度地球に戻ってその男を見つけ、それをどう話して聞かせたらいいか尋ねて来たらどうか、と。
そう言われて小鳥はその通りにしました。するとその人間ーー農夫でしたーーが”ピジンパイ”と言えば分かってもらえるだろうと答えました。小鳥はその返事を携えて帰って来ましたが、その言葉をどう訳せばよいのかが判らず、第一その意味も分からなかったので、自分の判断で次のような意味のことを伝えました。すなわち、これから地球を訪れる者はsこが本当に自分にとって適切な界であるかどうかをよく確かめてからにしなさい、と。
この話が教えんとしているのはこういうことです。与えられた仕事は、自分で納得がいき仲間も納得する範囲で努力すべきことーー熱心のあまり自分の立場、あるいは”領域”を確かめずに仲間を出し抜いてはならない。さもないと自分では”進んでいる”つもりでいて実はスタートした界より下の界層へ堕落し、そこの最高の者さえ自分本来の界の最低の者より進歩が遅れており、仲間として連れ立っていく相手としては面白くないといった結果になるということです。
これなどは軽い小話エピソード程度に聞いて頂けば結構です。が、これで私達も時に笑いころげることやバカげた上段を言ったり、真面目なつもりで間の抜けたことしたりすることもあること、そして地上を去ってこちらへ来ても、取り立てて成長していない面もあることがお判り頂けることでしょう。
ではさようなら。常に愉しい心を失わないようにね。」
※ サーバー会社から、あの後すぐに連絡があり、対処して下さったとのことでした。なので、もうしばらくここのサーバー会社を使用することにしました。何しろ移動はかなり大変そうなので。お騒がせ致しました。

1314回目の瞑想

 
4 死の自覚
「もしあなたが霊的交信の真実性に少しでも疑念を抱いた時は、これまでに受け取った通信をよく検討なさることです。その意図とは、霊の世界が不思議な面もあるにせよ、極めて自然に出来上がっていることをあなたに、そしてあなたを通じて他の人々に理解して頂くことです。
実は私達は時折地上時代を振り返り、死後の世界を暗いものに想像していたことを反省して、いま地上にいる人々にもっと明るく明確なものを抱かせてあげたいと思うことがあるのです。死後にどんなことが待ち受けているかがよく判らず、従って極めて曖昧なものを抱いて生きておりました。それでよろしいと言う人が大勢おりますが、こうして真相の見える立場に立って見ると、やはり確固たる目的成就のためには曖昧ではいけないと思います。確固たる来世観をもっておれば決断力を与え勇気ある態度に出ることを可能にします。大勢でなくても、地上で善のために闘っておられる人々に霊界の実在と明るさについての信念を植え付けることが出来れば、その明るい世界からこうして地上へ降りて来る苦労も大いに報われるというものです。
これから、地上の人間がこちらに来た時に見せる反応をいろいろ紹介してみましょう。もちろん霊的発達段階が一様ではありませんから、こちらの対応の仕方もさまざまです。ご存知の通りその多くは当分の間自分がいわゆる死んだ人間であることに気付きません。その理由は、ちゃんと身体をもって生きているからであり、それに、死及び死後について抱いていた先入観が決して容易に棄てられるものではないからです。そうした人達に対して最初にしてあげることは、ここがもう地上ではないのだということを自覚させることで、そのために又いろいろな手段を講じます。
一つの方法は、既に他界している親しい友人あるいは肉親の名前をあげてみることです。すると、知っているけど、もうこの世にはいませんと答えます。そこで当人を呼び寄せて対面させ、死んだ人もこうしてちゃんと生き続けていることを実証し、だからあなたも死んだ人間なのですよと説得します。これが必ずしも功を奏さないのです。誤った死の観念が執拗に邪魔をするのです。そこで手段を変えることになります。
こんどは地上の住み慣れた土地へ連れて行き、あとに残した人々の様子を見せて、その様子が以前と違っていることを見せつけます。それでも得心しないときは、死の直前の体験の記憶を辿らせ、最後の眠りについた時の様子と、その眠りから醒めた時の様子とを繫いで、その違いを認識させるようにします。
以上の手段が全部失敗するケースが決して少なくはありません。あなたの想像以上にうまく行かないものです。というのも性格は一年一年じっくりと築き上げられたものであり、それと併行して物の考え方もその性格に染み込んでおります。ですから、あまり性急なことをしないようにという配慮も必要です。ムリをすると却って発達を遅らせることにもなりかねません。もっとも、そんなに手こずらせる人ばかりではありません。物分かりが良くて、すぐに死んだことを自覚してくれる人もおります。こうなると私達の仕事もラクです。」

1315回目の瞑想

 
「あるとき私達は大きな町のある病院に行くことになりました。そこで他の何名かの人と共にこれから他界してくる一人の女性の世話をすることになっておりました。他の人達はそれまでずっとその女性の病床で様子を窺っていたということで、いよいよ女性が肉体を離れると同時に私達が引き取ることになっておりました。病室を覗くと大勢の人間が詰めかけ、みんなまるでこれから途方もない惨事でも起きるかのような顔をしております。私達から見るとそれが奇異に思えてならないのです。なぜかと言えば、その女性はなかなか出来た方で、ようやく長い苦難と悲しみの人生を終え、病いに冒された身体からもうすぐ解放されて、光明の世界へ来ようとしていることが判るからです。
いよいよ昏睡状態に入りました。”生命の糸”を私の仲間が切断して、そっと目醒めを促しました。すると婦人は目を開き、覗き込んでいる人の顔を見てにっこりされました。暫くは安らかで満足しきった表情で横になっておられましたが、そのうちなぜ周囲にいるのが看護婦と縁故者でなくて見知らぬ人ばかりなのだろうと、怪訝に思い始めました。ここはどこかと尋ねるのでありのままを言うと、不思議さと懐かしさがこみ上げて来て、もう一度あとに残した肉親縁者を見せてほしいと言います。
婦人にはそれが叶えられました(※)ベールを通して地上の病室にいる人々の姿が目に映りました。すると悲しげに首を振って「私がこうして痛みから解放されてラクになったことを知って下さればいいのに・・・」と歎息たんそくまじりに呟き、「あなた方から教えてあげて頂けないかしら」と言います。そこで私達が試みたのですが、そのうち一人だけが通じたようです。が、それも十分ではなく、そのうちその人も幻覚だろうと思って忘れ去りました。
(※ 誰にでも叶えられるとは限らないーー訳者)
私達はその部屋を出ました。そしてその方の体力が幾分回復してから子供の学校へ案内しました。そこにその方のお子さんがいるのです。そのお子さんと再会した時の感激的シーンはとても言葉では尽くせません。お子さんは数年前に他界し、以来ずっとその学校にいたのです。そこでは今やお子さんの方が先生格になってお母さんにいろいろと教えていました。微笑ましい光景でした。建物の中や構内を案内していろいろなものを見せてまわり、また友達を紹介しておりました。その顔は生き生きとして喜びに溢れ、お母さんも同じでした。それから暫く私達二人はその場を離れたのですが、戻ってみるとその母子おやこは大きな木の下に腰掛け、母親が地上に残した人達の話をすると、子供の方はその後にこちらにへ他界してきた人のことや、その人達と巡り会った時の話、学校での生活のことなどを話しておりました。私達は二人を引き離すのは辛かったのですが、遠からず再び、そして度々、きっと面会に来られるからという約束をして学校を後にしました。
これなどはうまく行った例であり、こうしたケースは少なくありませんが、また別の経緯いきさつを辿るものが沢山あるのです。
ところで、母子が語り合っている間、私達は学校の構内を回って各種の教育器機を見学しました。その中に私が特に目を引かれたものがありました。直径6〜7フィートもあろうかと思われる大きなガラスの球体で、二本の通路の交叉する位置に置いてあり、その通路の辺りの様子が球体に映っておりました。ところがその球体の内部をのぞくと、花とか樹木とか植物が茂っているだけでなく、それが遠い過去から枝分かれしてきたその根元の目もくまで見分けられるようになっているのです。それはさながら地上における地質学の化石による植物進化の学習のようなものでした。ただ地上と異なるのは、そこにあるのは化石ではなく実際に生きており、今も生長しているということです。それも原種から始まって今日の形態になるまでが全部揃っているのです。
子供達の課題は次のようなものであることを教わりました。すなわち実際にそこの庭に生長し球体に反射して見える植物、樹木、花などがどういう過程を経て進化してきたかを勉強し、そこから今度は、それが将来さらにどういう具合に進化して行くかを心像として創造してみることです。知的才能のトレーニングとして実に素晴らしいものですが、創造されたものは大体において苦笑を誘うような微笑ましいものが多いようです。
続きはまた書けるようになってからにしましょう。神のお恵みを。」

1316回目の瞑想 

 
5 天界の祝祭日
「この度の”収穫感謝祭”はまたずいぶん楽しかったのではありませんか。あなたは気付かなかったようだけど、私達はずっとあなたの側にいたのですよ。忙しくて私達のことを考える余裕がなかったのでしょうけど。地上にいる方々と共に礼拝に参加して何らかのお役に立てるのは嬉しいものです。驚かれるかも知れませんが、こちらの光明界でも時折、あなた方と同じような儀式を行い、豊かな稔りを神に感謝することがあります。地上の同胞の感謝の念を補うためでもあり、同時に私達自身の霊的高揚のためでもあります。こちらには地上のような収穫はありません。ですが、それに相当する他の種類に感謝する儀式を執り行うのです。例えば私達は周りに溢れる美と、仕事と向上への意欲を与えてくれる光明と愛を神に感謝する儀式を行います。そのような時には大抵高い界からの”顕現”が見られます。その一つをこれからお話しましょう。
川のある盆地(※)で聖餐式ユーカリストを催していた時のことです。流域に二つの丘がその川を挟むような形で聳えております。私は智は讃仰さんごうと礼拝の言葉を述べ、頭を垂れ、こうした時に必ずみなぎって来る静かな安らぎの中で、その日の司祭を勤められている方からの祝福の言葉を待っておりました。その方は丘の少し高い位置に立っておられるのですが、何一つおっしゃらないので私達はどうしたのだろうと思い始めました。(※ 原文では渓谷バレーとなっている”谷”というと日本人は切り立ったV字型の谷間を想像しがちであるが、本来は川を挟んだ広い低地を意味することが多いので、ここは盆地としたーー訳者)
暫くして私達は頭を上げました。まるで”内なる声”に促されたように一斉に上げたのです。見ると司祭の立っておられる丘が黄金色の光に包まれ、それがベールのように被かぶさっておりました。やがてそのベールがゆっくりと凝縮し、司祭の身体のすぐまわりに集まって来ました。司祭はそうしたことにも一切気付かないような態度で立っております。その時ようやく我に帰られ、その光のベールの中から出て私達の方へ近付き”少しお待ちください。高き界から降りてこの儀式にご臨席になっておられる方のお姿を拝することが出来ます”とおっしゃいました。そこで私達は有難い気持ちでお待ちしました。こちらではおっしゃったことは必ず実現するのです。」

1317回目の瞑想

 
「見ると、凝縮していた光が上昇して流域全体を覆い、さらに止まることなく広がり続けて、ついに天空を覆い尽くし、覆ったかと思うと今度はゆっくりと下降して来て私達を包みました。私達はまさに光の海ーー私が本来属する界の光よりも遙かに明るいのですが、柔らかくて心地良い光の海ーーに浸っておりました。浸っているうちにその光で視力が増し、やがて目の前に約束の影像が展開するのが見えて来ました。
まず二つの丘が炎のように煌々こうこうと輝き始めました。よく見ると両方の丘が”玉座”の側部ないしは肘掛けとなり、そのまわりがイザヤ書と黙示録の叙述を彷彿とさせるように虹の色に輝いておりました。しかし玉座におれらる方の真の姿は私達には見えません。少なくとも形体をまとったお姿は見えません。私達の目に映ったのは父なる存在を示すための顕現の一つでした。そして丘の中腹の台地ーーそこがちょうど玉座の”座”の位置になりますーーのところに大勢の天使が集まっており、側にある大きな揺り籠の中を覗き込む姿で礼拝しているのです。その揺り籠の中に一人の子供がいて天使団に向かって微笑んでおります。やがてその子供が両手を高々と伸ばしますと天空から一条の光が射し込んだように見えました。
見るとその子供の両腕の中に黄金色に輝く一個の球体が降りてまいりました。すると子供が立ち上がってそれを左手で捧げ持ちました。それは生命の光で躍動し、きらきらと輝き、燃えさかり、いやが上にも明るさを増して、ついにはその球体と子供以外は何も見えなくなり、その子の身体を貫いて生きた光が放射されているように見えました。やがてその子は球体を両手で持ち、それを真二つに割り、その割れた面を私達の方へ向けました。一方にはピンクの光線が充満し、もう一方には青の光線が充満しております。よく見ると後者には天界の界層が同心円状に幾重にも画かれており、その一つ一つが輝くばかりの美しい存在に満ち溢れております。その輝きは内側ほど強烈で、外側になるほど弱まりますが、私達の目には外側ほど鮮明に見えます。それは私達の界がそれに近いからです。一番中心部になると光輝が強すぎて私達には何があるのか全然見えません。反対に外側の円は私達の界層であることが判りました。」

1318回目の瞑想

 
「もう一つのピンクの半球はそれとは違って中に何の円も見えませんが、地球を含めた惑星上の動植物の全ての種が見えます。もっとも、あなた方が見ているものとは少し様子が異なり、完成された姿をしております。人間から最下等の海の動物までと、大きな樹木や美味な果実から小さな雑草までがありました。私達が暫くそれを見つめていると、その子が両半球すなわち荘厳なる天界と完成された物質界とを一つに合わせました。合わさった途端に継ぎ目が見えなくなり、どっちがどっちだか見分けがつかなくなりました。ところが見る間にそれが大きくなり始め、ついに子供の手から離れて浮上し、天空へ向けて少しばかり上昇したところで止まりました。美事な光の玉です。その時です、その玉の上にイエス・キリストの姿が現れたのです。左手に十字架を持っておられます。その一番下の端は球体の上に置かれ、一番上は肩の少し上辺りまで来ております。右手で先程の子供を支え持っておられます。見るとその子供の額のところに紐状の一本の黄金の環が冠かぶせてあり、胸の辺りには大きなルビーのような宝石が輝いております。そう見ているうちに光の玉はゆっくりと天空へ向けて上昇し始め、視界の中でだんだん小さくなって行き、ついに二つの丘の中間辺りの遙か上空へと消えて行きました。
そこで全てが普通の状態に戻りました。仲間達と一緒に腰を下ろして今見たものに感嘆し合い、その意味を考え合いました。が、こうではないかといった程度のことを言い合うだけで、確信を持って述べられる者は一人もいませんでした。その時ふと司祭のことを思い出しました。光に包まれ、見た目には私達より遙かに強烈な影響を受けたように思えました。見ると司祭は岩の上に腰掛けておられ、静かな笑みを浮かべておられました。何だか私達が最後にこうして自分のところへやって来ることを見越して、思い出すのを待っておられたみたいでした。司祭は私達にもう一度座るように命じられ、それから先程の幻想的シーンの説明を始められました。」

1319回目の瞑想

 
「実は司祭はすでにあの現象について予め説明を受けておられ、それを私達に授け、より高尚な意味、より深い意味については私達自身でよく考え、自分なりの理解力に応じたものを摂取することになっていたのです。今回のような手段による教育が授けられる時はいつもそうなのです。
ピンクの半球は私達の界より下層の世界の創造を意味し、青の半球は私達の界及び上層界の創造を象徴しておりました。が両者は”二種類の創造”を意味するのではなく、実は全体として一つであって、二つの半球にも他の小さな区分にも隔たりはないということを象徴していました。子供は始まりと進歩と終わりなき目的を具象化したもので、要するに私達の限りなき向上の道を象徴していたわけです。ルビーは犠牲を象徴し、黄金の環は成就を象徴し、光球が上昇したこと、そこへキリストが出現し片手に子供を捧げ持ったことは、現在の私達には到達できない高い界層への向上心を鼓舞するものでありました。もちろん以上は概略であって、まだまだ多くの意味が込められております。さっき述べたように、それをこれから自分で考えて行くことになっているわけです。私達の慣習として、それをこれから先、折に触れて発表し合い議論し合うことになりましょう。
 
ーーーどうも有難うございました。ここであなたに尋ねてほしいという依頼があった質問をさせて下さい。
 
「お書きになるには及びません。あなたの心の中を読み取ることが出来ますから。上の言葉も書かれる前から判っておりました。Eさんが教会の祭壇で見かけたというハトは、私が今述べた類いの一種の”顕現”です。あの儀式には目に見えない集会も催されておりました。祭壇のまわりに大勢の霊がいて、受け入れる用意のある人にはいつでも援助を授けようと待機していたのです。その霊達の心の優しさがハトとなって具現して、人を怖がることなく飛び回っていたのです。進歩の遅れた人にとっては、そうした怖れを知らない純心さを高級霊の前で維持することは容易に出来ることではありません。その輝かんばかりの崇高さが時として、僅かながらも持っている彼等の徳を圧倒してしまい、気の毒なことですが、疑いを宿す者を怖じけさせることがあるのです。」
 
<原著者ノート> この通信を受ける数日前のことであるが、オックスフォードで催されたハローマス(※)の集会で出席者の一人が聖餐式の行われている最中に、祭壇の上を一羽のハトが飛び回っているのを霊視したと私に語ってくれていた。(※ 天上界へ逝った諸賢人の霊をまつる祝祭日ーー訳者)
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