備忘録
MEMORANDUM9(2022/10月〜2023/1月)
日々の瞑想や霊的なことなどを綴っていきたいと思っています
私はクラッシック音楽がとても好きなので、クラッシック音楽を取り入れた形の自由な瞑想をしております。
(マーラー作曲:交響曲9番の4楽章を2回聴く)
写真と内容は関係あるものとそうでないもがあります。(写真は主に私が撮ったものを載せてます)
私自身の記録用なので、参考程度に読んで頂けたらと思います。
下記の(アコーディオン形式)日付をクリックしてください。
過去の瞑想(2022/6月〜2022/9月) 現在の瞑想(2023/2月〜2023/5月)
皆様、今年もどうぞよろしくお願いします。
実は、年明け早々に主人の父が亡くなりました。けれど90歳なので大往生です。
しかも、ずっと血圧・酸素などの数値も安定しておりました。夜中に何度か見回って頂いていた時に呼吸が止まっていたそうです。
その時にはまだ体温は5度8分あったそうで、亡くなった直後だったみたいです。
穏やかな死だったようです。
父の魂もちゃんと地上生活をどうたどるかはわかっていたのだと思います。
幸せな一生だったと思っています。
同居の期間は短かったですが、義父、主人、息子、私の4人で暮らした楽しかった日々が思い出されて、涙が出ました。
けれど、父は肉体から解放されて、自由の身となりましたので、
喜ぶべきことだと思っています。
シルバー・バーチ霊のお言葉の
『死ぬということは生命を失うことではなく、別の生命を得ることなのです。
肉体の束縛から解放されて、
痛みも不自由も制約もない自由の身となって地上での善行の報いを受け、
叶えられなかった望みが叶えられる、より豊かな世界へと赴いた人のことを悲しむのは間違いです。』
今、このお言葉を実感しております。
(とは言え、もちろん残された者の寂しさはありますが)
お父さん、永い間お疲れ様でした。そして本当にありがとうございました。
心から感謝しております。
施設に入所して3年弱でした。
1064回目の瞑想
ーーー祝福の祈りとか呪咀は、目的の人物に対して、善とか悪の結果をもたらすのですか。
「神は悪魔の呪いに耳を傾け給わず。人を呪う者は神の目よりすれば罪ある者である。吾々は善と悪、二つの相反するものの影響を受ける。されば呪いは一時の行為である。しかし、この行為も神のご意志によらなければ決して起こるものではない、呪われた当人の大きな試練としてでなければ。しかも、呪いは通常悪人に向けられ、祝福の祈りは善人に向けられる。祝福といい呪いといい、どちらも神の正義から逸れることはあり得ない。悪者は呪われてその報いを受け、善人は祝福されて恵みを受ける」
今回は短いが祝祷と呪咀という内容である。前置きとして、神様は悪魔の呪いには耳を傾けないと言われ、人を呪うは神様の目からすれば罪であると言われている。けれど、最も肝心なのはこの呪いの行為であっても神様のご意志がなければ決して起こらないと断じておられることなのだ。しかもそれは呪われた本人の大きな試練になるならばとある。まさに善悪全てを司っている証なのだ。このことから、今のこの世の情勢も、やはり私達人間にとって必要だからこそ、起きていることなのだろう。神様のお許しがなければ起きることはないのだから。神様がお許しになっていればこそのこの世ということになる。だとしたら、私達人間は忍耐して生きて行かなければいけないということなのだ。また祝福と呪いという全く相反するもの、どちらも神様の正義から逸れることはあり得ないと断言されている。この真理を理解できれば、善悪どちらの体験をしようが、全ては神様の愛に護られているのだから、必ず乗り越えて行くことができるということを説かれているのだと思う。例え、それがどれほどの苛酷な体験であろうともだ。神様の愛を信じ切ることが、更に深まったように感じている
。
1065回目の瞑想
ーーー霊は自己改善の仕事の外に、何かすることがあるのですか。
「神の御意志を体し、宇宙の調和を生み出すために協同している。霊の仕事とは休む間のない仕事の連続である。しかし、地上の苦しい労働とは趣きが違っている。そこには肉体の疲労とか、肉体上の欲求からくる悩みなどはない」
ーーー低級未熟の霊も、宇宙のために役立つ仕事をしているのですか。
「誰しも為すべき義務を負っている。最低の石工にしても、殿堂の建設では、設計技師と等しく協同しているのである」
ーーー霊にはそれぞれ特質があるのですか。
「吾等はすべての部面にわたって住み、宇宙の隈々までも巧みに統べながら、万事にわたる知を獲得せねばならぬ。しかし、伝道書にあるように『すべてのものに時がある』されば、ある霊魂は今地上に在って、その運命さだめを果たしつつあり、他の霊は別の時代に、地上か水中や空間に在って、その運命さだめを遂行することになろう、またそうしてきたのであった」
ーーー仕事が捗はかどるために、霊は年がら年中同じ仕事を受け持つのですか。それとも、その特質は幾つかの段階に分かれているのですか。
「すべての霊が完全を目指して、段階を上がって行かねばならない。正義である神は労せぬ者に知を与えられたことはなかった。すべて労した後初めて知を得る」
[注解] このように人間の場合と同様で、どんな仕事においても最低から上へ向かって、すべての段階の技術を修練して、必要な知識を手に入れる。こうして最高の熟練の段階に入っていく。
ーーー至高の域に到達した霊は、絶対の休止の状態に入るのですか。それとも仕事がありますか。
「永遠の怠惰の状態にでも入ると思われるか。永遠の怠惰は永遠の苦痛である」
ーーーその仕事はどんなことですか。
「それらの霊は、神より直接指令を受け、これを宇宙の各面に伝え、その遂行を監督する」
ーーー霊は休む暇なく仕事に携わっているのですか。
「休む間もなく?左様。霊は思想によって生きており、その霊の思想が絶えず働いているとお考えなら、その通りである。しかし、霊の仕事を人間の物質的な仕事と同一視してはいけない。霊達にとり、働くこと即ち喜びである。役に立つことをしたい、この思いがあるが故に」
ーーー善霊の場合はそうでしょうが、低級霊の場合もそうでしょうか。
「低級霊には、それに相応した仕事がある。無知な者達に知的な仕事など、とお考えかな?」
ーーー霊の中には、怠け者とか、役に立つことをしようなどと思わぬ霊もいるのではありませんか。
「左様、しかしそういう怠惰は一時的なものであり、当人の知性の発展で変わってくる。確かに人間の場合と同様、霊の中にも、自分一人のためにしか生きようとしない者達がいる。しかし、かような怠惰は本人の負担となり、早晩、進歩への欲求が起こってくる。彼は何だか働きたくなり、こうして役立つことをする者となる。私が今話してるのは、自意識や自由意志をもつに至った霊達のことである。というのは、彼等も初めは赤ん坊と同様で、自由意志でなく、本能で行動する者であるからである」(明日に続く)
今回は霊の仕事と役割という内容である。霊の仕事は、宇宙の調和を生み出すために協同しており、休む間のなく仕事の連続であると言われている。しかも私達人間とは違って、肉体の疲労とか、肉体上の欲求からくる悩みなどはないとのこと。羨ましい限りである。また低級霊には低級霊なりの役目があるとのことで、すべての霊が為すべき義務を負っていると言われる。霊にはそれぞれの役割があり、宇宙の隅々で知を獲得しなければいけないと言われ、地上で修行している霊、別の時代に地上や水中や空間などで修行する霊等々、その運命を果たすために遂行して行くことになるし、そのようにしてきたのだと言われている。それはすべての霊が完全を目指して、段階を上がって行かなければならないと。神様は苦労せずに容易には知を与えることはないと言われ、すべては苦労の末に初めて知を得ると言われている。注解には人間と同様にとあるが、霊界の影である人間界は同じになって当然なのだろう。
至高の域に達した霊の仕事は、人間界の物質的な仕事と同一視してはいけないと言われ、働くことは即喜びであり、役に立つことをしたいとの思いが常にあるとのこと。それもそのはず、仕事の内容とは、神様より直接指令を受けて、これを宇宙の各面に伝え、その遂行を監督するとある。こんな素晴らしい偉大な仕事があるだろうか。感動を覚える。このような仕事が出来るようになることがすべての霊にとっての本望なのだと思う。そして、むしろ怠惰は苦痛とまで言われているのだ。また低級霊については、その霊に相応しい仕事があるようだ。しかも、人間と同じように怠け者や役に立つことなど思わない霊もいるとのことだが、けれど、それも一時的なものだと言われている。怠惰は本人の負担になり、早々に進歩への欲求が起こってくるとのことだ。やはり、どんな霊であろうとも、いずれは神様の愛が行き渡って行くということなのだろう。このことを想うだけでも胸がいっぱいになり満たされる思いだ
。
1066回目の瞑想
ーーー霊は私共の学術や芸術の仕事に、関心をもち調べたりしますか。
「霊は人間の進歩向上を示すものには、何なりとこれを調査する」
ーーー地上生活中、画家とか建築家とか専門職についていた霊は、そのような自己の好む方面の仕事に、依然として強い関心をもっていますか。
「すべての道はローマに通じる。善霊は何事によらず、他の魂を助けて神に向かわせることに関心を示す。地上生活の中に特定の仕事に献身してきた霊は、霊界に入っては、何か別の仕事に献身するやも知れぬ。と申すのは、完全に到達するには、全ての事を知らねばならぬから。こうして大いに進歩していけば、専門などということはなくなっていこうーー前に述べた通り、すべての道はローマに通じるのである。この故に、なお次のことにも意を向けられよ、過去の世界で権威あるふうに見えたものも、大いなる進歩の世界に入れば、児戯に類することになってしまう。諸君等には思いも及ばぬ芸術や科学が存在する世界の居住者達、かの霊が、ほんの初心者の仕事にすぎぬ者を見て、何ぞ褒め称えたり出来ようぞ」
ーーーそれはかなり進歩した霊の場合であると思われます。私共の質問は、物質界の観念が抜け切れていない、ごく普通の霊の場合なのですが。
「彼等の場合は違ってくる。まだ精神の視界が狭い。従って、諸君等が素晴らしいと思うものは、彼等も素晴らしいと思う」
ーーー霊は私共の仕事や趣味に関係をもっていますか。
「諸君等の言う普通の霊の場合は、関係している。彼等は間断なく諸君等の傍にあり、諸君のすること為すこと、その霊の性質に応じて、時には極めて重要な役を果たしたりしている。また、別の仕事に進出させたり、気持ちを引き立てたり、なだめたり、そういう目的で働いたりもする」(明日に続く)
今回も霊の仕事と役割の続きである。進歩した霊というのは、真理は一つであるとのことで、他の魂を助けて神様に向かわせることに関心があると言われている。そして、地上生活で特定の仕事に献身してきた霊は、霊界に入ると、別の仕事をするかも知れないと。それは完全に到達するには、全ての事を知らなければいけないからだと言われている。更に進歩していけば、専門などということはなくなっていくとのこと。それはすべて真理は一つだということに他ならない。なので、地上で権威あるように見えても、この霊界に入れば、幼稚なことでしかないのだ。霊界での芸術や科学は私達人間には思いも及ばないものであり、そこにいる方達にとっては、地上の芸術や科学はほんの初心者の仕事であり、それを褒め称えることが出来ようかとまで言われているのだ。地上でのことは、霊界から見るとそんな程度のものでしかないのだと愕然とするが、それは進歩した霊であって、ごく普通の霊となると話は違うらしい。少しホッとする。それはまだ精神の視界が狭く、私達人間が感じる素晴らしいと思うものを、同じく素晴らしいと思うとのこと。また普通の霊は、私達人間の仕事や趣味に関係もしているとのことで、常に私達人間の傍にいて、すること為すことに重要な役を果たしているらしい。そして別の仕事をさせたり、気持ちを引き立てたり、慰めたり、なだめたりとそういった目的で働くこともあるとのことだ
。
1067回目の瞑想
ーーー霊に使命が与えられる場合、彼等は霊としてこれを遂行するのですか、受肉をしてから遂行するのですか。
「そのどちらかの状態で使命を遂行する。使命によっては、霊のままで、大きな仕事を担っている霊がいる」
ーーーそのような霊が担っている使命とは、一体何ですか。
「それは色々あって、口で述べるのは難しい。諸君等には到底理解出来ないようなものもある。霊達は神の御意志を遂行しており、諸君等がその神のご計画のすべてに踏み入ることは、とてもかなわぬ事である」
ーーー霊達は自分が担わされている使命の計画について、理解しているのでしょうか。
「いや、彼等の中には何も分からない単なる通路の如き者もある。しかし中には、自分の使命の目的をすべてわきまえている霊もいる」
ーーー果たすべき使命を担っている霊は、すべて進歩した霊に限るのでしょうか。
「使命の重さは、それを担う霊の器の大きさ、進歩の度合いに見合っている」
ーーー霊達の使命は、与えられるのですか、本人の意志に基づくものですか。
「本人がこれを求めるのである。それを担うことを喜びとするのである」
ーーー同一の使命が、複数の霊から求められることがありますか。
「左様、一つの使命に足して複数の候補者がいることがしばしばある。しかし、彼等の全員がこれを引き受けるわけではない」
ーーー受肉した霊の使命とはどんなものですか。
「人を導き、進歩を助けること。また、直接的物質的方法を通じて、人間の制度を改善していくこと、これらの使命が大なり小なり一般的で且つ重要なものを為す。しかし、大地を耕作する者も、政治を担い、教導に携わる者に劣らず、使命を担う者である。自然のことはすべて一つに結ばれているのである。また、自ら受肉をもって自己の浄化の道を辿りつつも、各々の霊は、人間の形をとることによって、神のご計画の達成に協同しているのである。諸君等もそれぞれ使命を担っている。諸君等の一人一人がすべて、あれやこれやの道にあって有用であり得るが故に」
ーーー今生において、根っからの怠け者の使命とは一体何でしょうか。
「自分のためにのみ生き、一向に世のためになろうとしない者がいることは事実である。彼等こそ哀れむべき存在、何となれば、この無益さは、やがてひどい苦痛によって償われることになるからである。そしてこの懲罰は、現世において始まることも少なくないのである、生の倦怠と嫌悪を通じて」
ーーー彼等とて選択の自由をもっていたのに、何故に無益の生を選んだのですか。
「人々と同じく、霊の中にも働くことの嫌いな怠け者がいる。神は彼等の行く道を行かしめ給う。彼等とて、無益の人生の悪い結果を思い知っていく、高い代償を払いつつ、そうしてやがては心の底から、無為に過ごした時間を取り返したいと切願するに至る。彼等も、もしかしたら有用な人生を選んでいたかも知れない。しかし結局は、試練に背を向け、怠け心を誘う霊のささやきに身を屈し、道を誤るに至ったのである」(明日に続く)
今回も霊の仕事と役割の続きである。霊に使命が与えられる場合、霊として遂行する場合と受肉をして人間として遂行する場合とがあるとのことだ。但し使命によっては、霊のままで大きな仕事を担っている霊がいると言われている。その
霊が担っている使命
は、
色々あり、言葉では難しいと言われ、私達人間には到底理解出来ないようなものもあるとのことだ。霊達は神様の御意志を遂行しているけれど、私達人間がその神様のご計画のすべてに踏み入ることは、出来るわけがないとのこと。それは当然のことだと思う。そのことを叶えることが出来るであれば、もはや人間として生まれて来ることはないのだから。そして、
担わされている霊達の使命の計画については、何も分からず単なる通路如き人もいれば、
中には、自分の使命の目的をすべてわきまえている霊もいるとのことなのだ。また、
果たすべき使命を担っている霊というのは、その
使命の重さに準じて、それを担う霊の器の大きさや進歩の度合いに見合っているということだと言われている。またその
霊達の使命は、
本人が求めるのであり、使命を担うことが喜びとのことだ。
受肉した霊の使命は、
人を導き、進歩を助けることだと言われている。また、直接的物質的方法を通じて、人間の制度を改善していくこと、これらの使命が大なり小なり一般的で且つ重要なものを為すのだと言われているが、そんな大それたことを為せる人はそうはいないのではないだろうか。また、大地を耕作する人についても、政治を行い、教導に携わる人に劣らず、使命を担う人であると言われる。人間の大事な食に関することをして下さっている人なのだから、当然なのだと思う。そして、自ら受肉をもって自己の浄化の道を辿りつつ、それぞれの霊が人間の姿をとることによって、神様のご計画の達成に協同しているのであると言われている。これはすべての人に当てはまるということなのだろうか。もちろん、人間の姿をとることはこの世のすべての人と言えるが、自己の浄化の道に辿るということについては、すべての人とは言えないだろう。これは両方できて、神様のご計画の達成に協同しているということになるのではないのだろうか。けれど私達人間は、それぞれ使命を担っていると言われており、私達人間の一人一人がすべて、それぞれの道にあって有用であり得るからと言われている。ただそれぞれ使命は担っているのだと思うが、有用な道を歩いている人はそんなに多くはいないのではないかと思うのだ。
今の世には、根っからの怠け者のという人もいるが、そんな人に使命はあるのだろうか。
自分のためにのみ生き、一向に世のためになろうとしない人に対し、哀れむべき存在と言われる。それは、この無益さによって、やがてひどい苦痛によって償われることになるからだと言われているのだ。そしてこの懲罰は、この現世において始まることも少なくないのだと言われている。けれど、そんな人にも
選択の自由があったのに何故無益の生を選んだのか。それは他の人
と同じく、有用な人生を選んでいたのかも知れないが、試練に背を向けさせ、怠け心を誘う霊に屈してしまって、道を誤ったとも考えられると。その上で、無益で人生の悪い結果を思い知らされ、高い代償を払わされる。けれどそうやってやがては心の底から、無為に過ごした時間を取り返したいと切願するのだそうだ。それ故に、神様はそれぞれの霊の行く道を行かしめるのだと思う。すべてはその人の為になる神様のご配慮なのだ
。
1068回目の瞑想
ーーー日常の仕事は、私共には使命というよりも、義務と思われます。使命とは、現世的観念に従えば、自分のためでなく、普遍的な意味をもったものと思われます。この見地よりするとき、私共が地上に使命を担っていること、どうすれば確認できますか。
「彼が成し遂げる結果の偉大さによって、彼の力で人々が成し遂げる進歩によって」
ーーー重要な使命を受けている者達は、出生前からそのように運命づけられており、またそのことを本人は知っているのですか。
「知っている場合ものあるが、知らない場合の方が多い。地上出生の際には、漠然と何かを感じてはいる。誕生後、いろいろな状況下での行為を経て、漸次本人に使命が分かってくる。神はその計画達成に携わるべき道に、その者達を導き入れ給う」
ーーー人が何か世に役立つことをする場合、それは前から定まっていた使命によってやっているのですか。それとも、新しく使命を受けてやるのですか。
「人が為すことは何事によらず、予め運命づけられた使命の結果ではない。しばしば本人がある霊の通路となっており、霊が有用と考える仕事の遂行のために本人を使っているのである。例えば、ここに一人の霊がいて、有用な書物を出版したいと思う。それは自分がもしこの世になるなら、書きたいと思う、そういう本である。さて、彼は最もそれに相応しい筆者を探す。自分の考えをよく理解し表現してくれる人物を。霊はその者に仕事の計画を印象づけ、その実行に本人を導いていく。この場合、この人間はその仕事する使命を帯びて、この世に生まれてきたわけではない。芸術や科学のさまざまな制作や発見の場合、同じようなことが言える。肉体の睡眠中に、本人の魂はその例と直接交流し、両者はこの仕事の遂行のための協議を行う」
ーーー霊が自分の失敗によって、その使命をやり損なうことがありますか。
「それはある。もし、その霊が進歩を十分にしていなければ」
ーーーで、その失敗の結果はどういうことになりますか。
「もう一度その仕事をやり直さねばならない。つまり罰である。なお且つ、自分の失敗で招いたまずい結果も引き受けねばならないだろう」
ーーー霊が使命を受けるのは神からでしょう。その神が何故、大事な世の中と最も関わりのある使命を、それを果たす力のない霊に委ねたりするのですか。
「神の使徒が勝利するか、打ち負かされるか、神がこれを予見し給わぬのか。神は一切を予見し給うことを確信せよ。神の計画の遂行、それが重要なものなら、中途半端で投げ出すような人物に、神は委託されることはない。このことを確信せよ。諸君等が迷うのは、つまり神の御心の中にある、本来諸君等が理解し得ぬ、この先見性いかんにある」(明日に続く)
今回も霊の仕事と役割の続きである。最初の質問は私達人間にとって、最もな質問だと思ったが、そのお答えを読んで、やはり使命を帯びている人とはそれだけ偉大な仕事をされているのだと、複雑な思いになった。というのも、そうなるとそのような偉大な仕事をされている人はほんの一握りしかいないわけで、使命を帯びてこの世に誕生している人以外のほとんどは、やはり前生の償いややり残したこととか等々、自分のためということになるからだ。自分の霊的進歩を果たすためというのも、立派な神様に貢献していることではあると思うが、やはりそれだけでは物足りないように思ってしまう。だが、重要な使命を受けている霊は、知っている場合はもちろんのことだが、知らない場合でも地上出生の際には、漠然と何かを感じてはいるとのことなのだ。そして、いろいろな状況下での行為を経て、少しずつ本人に使命が分かってくるのだと言われている。最後の神はその計画達成に携わるべき道に、その者達を導き入れ給うとのお言葉には、心に染み入り、早くそのような立場になりたいものだと思ってしまった
。
また、人が何か世に役立つことをする場合については、
人が為すことは何事によらず、予め運命づけられた使命の結果ではないと言われている。少し意外だった。それと言うのは、本人がある霊の通路となっており、霊が有用と考える仕事の遂行のために本人を使っているのであると言われているのだ。それを例を使って分かりやすく説明して下さっている。確かにそういう方はいらっしゃる。そして世の中の多くの方がその本を読むことで、大きく影響を受ける。それがやはり重要な使命ということになるのだと納得する。
ただ、霊が有用と考える仕事が失敗に終わる場合もあるとのことだ。その時には、もう一度その仕事をやり直さねばならないと言われ、罰だとまで言われているのである。このことから、質問者のような疑問は人間なら誰しも出て来ると思うが、神様が予見出来ないことはないと確信せよと命令形で言われている。更に神様の計画の遂行が重要なものなら、中途半端で投げ出すような人物を委託することないと断言されて、更にもう一度確信せよと言われているのだ。ここは強い口調で言われていたのではないかと思われる。そして、私達人間が迷うのは、神様の御心の中にある、私達人間が理解し得ない、この先見性いかんにあると言われている。このように言われてみれば、その通りなのだと思える。神様は何もかもお見通しなのだ。それを私達人間が心から信じることが出来れば、迷うことなど一切ないということなのだ
。
1069回目の瞑想
ーーー使命遂行のために霊が肉体をとった時、試練として使命を身に引き受けさせられた霊と同じように、不安を覚えるのですか。
「そんなことはない。彼は道を開くに足る経験の成果を身につけているから」
ーーーもって生まれた天才によって人類の道を切り開く人物は、間違いなく使命をもっています。ところが彼等の中にも誤りを犯す人がいます。大事な真理に関することでも、重大な間違いを拡げたりする者が沢山います。一体その使命はどのように考えたらよろしいですか。
「本人が誤りを伝えたのである。彼等の担当した仕事に、彼等が耐え得なかったのである。しかしこの点については、彼等が置かれていた状況を斟酌しんしゃくしてやらねばならない。天才者というものは、その時代に応じて語らねばならなかった。後世から見れば誤り、ないし他愛ないと思える教えも、当時にあっては十分なものであったかも知れないのである」
ーーー親子関係は、いわば天職と考えてよろしいですか。
「その通り、天職である。のみならず極めて深甚な義務、つまり人が思うより以上に、本人の未来に重要な影響を及ぼす責務である。神はその子供を両親の後見のもとに置き給うた、廉直なる道に子の歩を踏み入れさせんがために。神は新しい印象を受け易くしてくれる繊細な肉体をその子に与え給うた。しかし親達の中には、子供の性格を鍛えるよりは、金の成る木を育てることに骨を折る者が沢山いる。もし子供がその欠陥の故に屈することがあったら、両親はその不誠実の罰を受けるだろう。未来における子供の災いは両親に返って来る、両親は幸福の道へと子供を薦める自分の役割を果たさなかったのだから」
ーーー両親の注意にも拘わらず、子供が道を誤れば、両親に責任がありますか。
「いやない。しかしながら、子供の性向が悪ければ悪いほど、両親の仕事が辛ければ辛い程、子供を悪の道から正すことに成功した親たちの場合は、その報いられるところが大きい」
ーーー両親が怠慢、ないし悪い手本であるにも拘わらず、子供が立派になる時、両親はそれによって得るところがありますか。
「神は正義であり給う」
ーーー自己の野望の満足を目的とした征服者、その目的のためなら災害をも辞さない、そういう征服者の使命とは何ですか。
「そのような人物は、概して、神の計画達成のため神に使われる道具にすぎない。これら災害は、時には人々を更に急速に進歩させる手段であることがある」
ーーー彼は自分一人の目的のためにこれをしたのですから、災害が過ぎた後の良い結果は、それを生む道具であった彼には関係ないことです。それでも、彼はその結果によって得るものがあるのですか。
「各人はその業に応じて報いられる。その業とは彼が望んでした善事、当人の意図の正しさである」
今回も霊の仕事と役割の続きである。使命遂行のために霊が肉体を得て人間となった場合、道を開くに足る経験の成果を身につけているから、不安はないと言われている。やはり試練のためのものとは違うのだろう。また、天才者であっても、その時代に応じて語らなければならず、後世から見れば誤りであるとか、他愛ないと思える教えも、当時には十分なものであったかも知れないと言われている。次の
親子関係については、私達人間はよくよく考えなければいけないことだと思った。親子関係とは、天職だと言われている。だからこそ、親子関係になるのだろうと得心できる。そして天職
のみならず極めて深甚な義務であり、人が思う以上に、本人の未来に重要な影響を及ぼす責務であると言われている。神様
はその子供を両親の後見のもとに置かれたと、清らかで私欲なく、正直になる道に進めるようにするためにと。また神様は新しい印象を受け易くなる繊細な肉体をその子に与えたと。けれど親達の中には、子供の性格を鍛えるよりは、金の成る木を育てることに骨を折る者が沢山いると言われる。確かにそのような親御さんはいる。その時にもしその子供がその欠陥に屈することがあったら、両親はその不誠実の罰を受けるだろうとも言われているのだ。そして更に未来における子供の災いは両親に返って来るのだそうだ。それは両親が幸福の道へと子供を薦める自分の役割を果たさなかったからだと言われている。親の役目、責任はやはり重大なのだと悟らされた。けれど、反対に親の忠告を無視して、子供が道を間違えたのなら、親に責任はないと言われている。ただ責任はないからと放置するのではなく、我が子なのだから、何とか正しい道に行くように親は努力するべきだと思う。ほとんどの親はそういう思いだとは思うが、それが真実の親子の愛なのだと思う。これは反対の場合でも同じで逆も又真なりなのだと思う。
自己の野望の満足を目的とした征服者については、釈然としない。
そのような人物は、神の計画達成のため神に使われる道具にすぎないとあるが、なぜそんなやからを道具してでも使うのだろうかと思ってしまうのだ。災害自体は、時には人類のために更に急速に進歩させる手段として起こすことはあるかも知れないとは思う。けれど、例え自分一人の目的のためにしたとしても、
その業に応じて報いられ、その業を望んでした善事、当人の意図の正しさだと言われているのだ。やはり解せない思いだ。
1070回目の瞑想
ーーー自然界を動物・植物・鉱物の三つに分ける分け方を、どう思われますか。これにもう一つ、人間、を加えて四つとする自然学者もいます。また二つに分ける分け方があります、即ち有機質・無機質です。これらの中、その分け方が好ましいでしょうか。
「これらはすべてよろしい。どれが最善かは、諸君等の観点による。物質という観点からすれば無機物・有機物、精神的観点に立てば、結局のところ四等級に分けられる」
ーーー植物は自己の存在を意識していますか。
「いや、植物は考えることをしない。単なる有機的生命である」
ーーー植物に感覚がありますか。千切られたら苦しみますか。
「植物は身体に加えられる物理的印象を受ける。しかし知覚は持たないので、痛いと感じることはない」
ーーー植物の意志ではなしに、植物同士を引き付け合う力が存在しますか。
「それはある。植物は考えることをしない。これは物体に働く物体の機械的な力である。植物はこれを拒み得ない」
ーーーある植物、例えばミモザや食虫植物は、秀れた感覚を持っているような動きを示します。場合によっては、一種の意志のようなもの、即ち葉に止まった蠅を葉で掴んで汁を搾り出したり、蛇を同じようにして殺すことさえあるようです。このような植物は思考能力を与えられているのですか。彼等は意志を持つのですか。これらは植物性と動物性の中間階層をなしているのですか。これらは過渡状態にあるのですか。
「あらゆるものは、本質において過渡状態である。それぞれが皆違っており、しかもまた、繋がっているのである。植物は考えることはしない、従って意志を持っていない。貝殻の口を開く牡蠣、また食虫植物はすべて考えることはしない。彼等はただ盲目の自然の本能を持つのである」
ーーー植物には、自己に有用なものを求め、有害なものを避けようとする、自己保存の本能はないのでしょうか。
「それを一種の本能、そう呼びたければ、そう言ってもいいだろう。ただその言葉をどこまでの意味にとるかだが。しかし、それは純粋に機械的なものである。例えば化学作用で、二つの物が一つに結合することがあるが、これは両者が互いに適合しており、つまり両者間に親和があるからである。しかし、これを本能とは呼ばぬであろう」
ーーーもっと高級の世界に行くと、植物も他の種のように、一層完全な性質を示しますか。
「上級の世界にあっては、すべてのものが一層完全である。但し、植物は植物、動物は動物、人間はあくまでも人間である」
今回は鉱物と植物という内容である。
自然界を動物・植物・鉱物のように三つに分ける分け方やこれに人間を加えて四つにする分け方、また二つの分け方をについては、すべて良く、どれを最善とするのかは私達人間の観点によると言われている。そして、
物質という観点からすれば無機物・有機物で、精神的観点に立てば、結局のところ四等級に分けられる、と言われているのだ。そして、
植物は考えることはしないと言われ、
単なる有機的生命であると言われている。また
植物の感覚については、
身体に加えられる物理的印象を受けるけれど、知覚は持たないので、痛いと感じることはないそうだ。だが、
植物同士を引き付け合う力は存在すると言われ、
これは物体に働く物体の機械的な力であるとのことだ。
ミモザや食虫植物などは、一種の意志のようなものがあり、思考能力を与えられているようだという質問に、
あらゆるものは、本質において過渡状態であり、それぞれが皆違っているが、繋がってもいると言われる。けれど、意志を持っていないと言われ、例えとして貝殻の口を開く牡蠣や食虫植物はすべて考えることはせず、ただ盲目の自然の本能を持つと言われているである。考えがあって、そのようにしているのではなく、自然の法に則っているということに改めて神様の偉大さを感じる。また
植物の自己保存の本能については、
それを一種の本能と呼びたければ、それでもいいと言われているが、それは純粋に機械的なものであるとのこと。例として化学作用を挙げておられ、二つの物が一つに結合することは、両者が互いに適合しており、両者間に親和があるからと言われ、これを本能とは呼ばぬであろうと言われている。要は両者は機械的に適合し、親和があって結合するということなだけのようだ。
植物だけでなく、上級の世界にあっては、すべてのものが一層完全であるとのことだが、そうであっても植物は植物、動物は動物、人間はあくまでも人間であるとのこと。それは大事なことなのだと思う。全てが更に完全であるにしても、それぞれの立場は変わらないということなのだ
。
1071回目の瞑想
ーーー動物と人間を、知性の面で比較する時、この間に明確な境界線を引くことは難しいように思えます。動物の中には、一部の人間よりも優れた知性を持つものがあること、これは周知のことです。両者間の確然たる境界線は可能なのでしょうか。
「地上の哲学者達はこの問題については、色々と意見が分かれているようだ。ある者は人間は動物の一つだと言い、ある者は動物性が人間であると言う。これらはすべて間違っている。人間とは別個の存在である。ある時は大地の底まで沈むかと思えば、ある時は天上高くも飛躍する。肉体について申せば、人間は動物のようなものだ、唯、多くの動物達のようにうまくは作られていない。と言うのは、人間には知性があって、この知性で自己の必要と自己保存を案出して行かねばならぬようになっている。この点、動物は初めからそれを補うだけのものが具えられている。人間の肉体も、動物と同じく滅びの法に従う。しかし、人間の霊には別の力が備わっている。人間のみが物事を理解できる。それは人間のみが完全な自由を持つからである。しかるに、けだもの以下に自らを落としている哀れな人間供。けものと人間との違いが、見分けがつかないのか。人間が万物の霊長たる所以を心得なさい。人間は神の存在を知ることが出来るではないか」
ーーー本能だけで行動するのものが動物ですか。
「これも単に理論にすぎない。確かに、大部分の動物の場合は、本能が優先している。しかし、動物のあるものには、一種の意志による行動が見られるのではないか。程度は低いが、それは知性である」
ーーー動物に言葉がありますか。
「言葉を、単語と音節から成り立つとすれば、言葉はない。言葉を相互伝達の手段とみれば、言葉はある。動物達は諸君が想像する以上に、相互に通信し合っている。しかし、その言語には限界がある。その観念の点でもそうだが、その伝達は肉体的欲求の枠の中での通信なのである」
ーーー声を持たない動物がいますが、それらには言語はないのですか。
「彼等は別の方法で通信し合っている。人間も話すこと以外でも、意思疎通が出来るのではないか。唖者これを何とお考えかな。動物体も相互依存の生命であるから、相互に伝達し合ったり、自分の気持ちを表現する手段をちゃんと与えられている。諸君等は、魚の間には何の相互理解もないと考えられるか。人間だけが言語という特権を持っているのではない。ただ動物達の言語は本能的であり、その欲求や観念の枠で縛られてはいるが。その点、人間の言語は完全であり、人間の知性の一切の概念を表現できるものではあるが」(明日に続く)
今回は動物と人間という内容である。動物と人間についての哲学者達の意見はすべて間違っていると言われている。それは人間というのは別個の存在であると言われ、時には地獄にも落ち、時には天にも昇るごとく飛躍すると言われるのだ。けれど、人間の肉体については動物のようだとも言われている。だが、動物のようにはうまく作られていないらしい。それは人間には知性があり、この知性で自己の必要と自己保存を案出して行かなければいけないようになっているとのこと。だが、動物は初めからそれを補うだけのものが具えられているとのことだ。そして、人間の肉体も、動物と同じく滅びの法に従うと。けれど、人間の霊には別の力が備わっており、人間のみが物事を理解でき、人間のみが完全な自由を持つからと言われている。それなのに、動物以下に自らを落としている哀れな人間がいるが、動物との違いを見分けられないのかと嘆いておられる。そして諭される。私達人間は万物の霊長だということを心得なさいと。人間には神の存在を知ることが出来るからと。
また、大半の動物は、本能が優先しているが、動物でもあるものには、一種の意志による行動が見られ、それは程度こそ低いとはいえ、知性だと言われている。TVなどで知ったのだが、火事の中、赤ちゃんを助けた犬とか、池に落ちないように赤ちゃんを見張っている犬とか、車が通る道にヨチヨチ歩きの赤ちゃんを行かせないようにする猫とか、数えればその数の多さにびっくりする。人間にはできない、ある種捨て身であり、献身する心は人間以上であると私は思っている。そして、言葉についてだがやはり、動物には相互伝達の手段としての言葉はあるようだ。要するにテレパシーなのだろう。動物は私達が想像する以上に、相互に通信し合っているとのことだ。ただ、その言語には限界があると。観念の点でも然り、伝達は肉体的欲求の枠の中での通信だからだと言われている。また
声を持たない動物についても、
別の方法で通信し合っているとのことだ。人間にも話すこと以外に意思の疎通はできると言われ、唖者の方を引き合いに出されている。確かにその通りだと思う。動物も相互依存の生命であると言われ、相互に伝達し合ったり、自分の気持ちを表現する手段をちゃんと与えられているとのことだ。そして魚の間にも相互理解があるようだ。人間だけが言語という特権を持っているのではないと断じられている。但し、動物達の言語は本能的であり、その欲求や観念の枠で縛られてはいると言われ、それに比べて人間の言語は完全であり、人間の知性の一切の概念を表現できるものではあると言われている。私達人間は言葉を普通に使っているが、やはり凄いことなのだと今更ながら思わされた。だからこそ、言葉は暴力にもなるのだ。言葉の使う意味を心しなければと思った
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1072回目の瞑想
ーーー動物の行動には自由意志が伴っているのですか。
「動物も、諸君等が考えるような、単なる機械ではない。但し、その行動の自由と申しても、彼等の欲求に束縛されており、人間の場合の自由と比較するわけにはいかぬ。人間に比し、はるかに程度が低いわけだから、人間と同様の義務を持つわけではない。動物の自由とは、その物質生活の行動に制約されたものである」
ーーーある種の動物に備わる、人間の会話に似たあの適性は、どこから来るのですか。また、鳥達にはこの適性がありますか。例えば猿類のように、人間にその構造が甚だ類似しているものよりも、なぜ鳥類の方に適性があるのですか。
「この適性とは、喉の器官の特殊に構造からくるものであり、また、模倣の本能ということでもある。猿は人間の行動を真似、島のあるものは人間の声を真似する」
ーーー動物に、ある程度の行動の自由を与える知性があるということは、動物には、物の原理とは別個の原理があるということですか。
「その通り。その原理は肉体の死後も存続する」
ーーーその原理とは魂ですか。人間の魂のような。
「魂、そう呼びたければ、魂である。ただ魂という言葉を、どんな意味で諸君が言っているのか問題だが。しかし、この魂は人間の魂より程度の低いものである。動物と人間の魂の間には多大の相違がある。それは人間と神との魂の相違のようなものである」
ーーー動物の魂は、死後、その個性や自意識を残しているものですか。
「個性は残る。しかし、個としての自意識というものではない。知的な生命が続くということである」
ーーー野獣の魂は自ら再生の選択をしますか。
「いや、自由意志がないので、そのようなことはない」
ーーー動物の魂は生き残るとすれば、それは人間と同じように、あちこち動き廻るのですか。
「そういう状態だとも言える。つまり肉体に結び付けられてはいないのだから。ただ徘徊する霊というわけではない。徘徊霊というのは、自分の自由意志によって考え行動するものであるから。その点、動物の魂にはその同じ能力はない。と申すのは、霊の主要特性は自己意識であるから。動物の魂は、死後ほどなく、相当の霊の手によって組分けされる。他のものとの結合に入るまでに、さほどの時間はかからない」
ーーー動物も人間と同様に進歩の法に従うのですか。
「左様。その故に、高級の世界に行くと、人間も一層進歩しているが、動物も一層進歩している。その意志疎通の方法もずっと進んでいる。しかしながら、動物は常に人間よりは劣っており、人間に従っている。動物は人間にとって知的な従者なのである」
ーーー動物も人間と同様、意志による行為を通じて進歩するのですか。
「物事の力、影響で進歩する。その理由は、動物には罪の償いということは存在しないからである」(明日に続く)
今回も動物と人間の続きである。動物の自由とは、物質生活の行動に制約されたものであると言われる。人間の会話に似た適性があるのは、やはり鳥だろうと思う。よくインコなどが、人間の声色まで似せて喋っている映像を度々目にするが、本当にびっくりするほど上手い。また猿に関していえば、やはり人間の行動を真似ているのだろうと思う。大分前の話だが、動物園に行った時に、猿の写真を撮っていた時だった。2頭の猿が小競り合いをしていて、一頭の猿が大きな岩におでこをぶつけたのだ。その直後いたたと言わんばかりにおでこに手を当てて、痛がる様子は人間とそっくりで、申し訳ないが笑ってしまったのだ。それを急に思い出してしまった。
動物には、物の原理とは別個の原理があるとのことで、
その原理は肉体の死後も存続すると言われている。その原理とは魂と呼んでもいいと言われている。そして、この魂は人間の魂より程度の低いものであると言われ、動物と人間の魂には多大な相違があるが、それは人間と神との魂の相違位の違いがあると言われている。それは本当に相当な違いだとわかる。また、
動物の魂は死後、
個性は残るが、個としての自意識というものはなく、知的な生命が続くということだと言われている。これはシルバー・バーチ霊も同じようなことを言われていたと記憶している。動物
の魂は
自由意志がないので、再生の選択はないと言われている。シルバー・バーチ霊も動物は再生しないと言われていた。また動物の魂は死後、浮遊しているようだが、ただ自分の自由意志によって考え行動する徘徊霊ではないと言われ、動物の魂にはその同じ能力はないと言われている。そして霊の主要特性は自己意識であるからと。動物の魂は、死後ほどなく、担当の霊の手によって組分けされ、他のものとの結合に入るまでに、さほどの時間はかからないと言われている。他のものとの結合とは類魂の事だと思う。シルバー・バーチ霊は動物は死後、類魂の中に入ると言われていた。但し、飼われていた動物は、飼い主が来るまで、待っていて、いずれ一緒に暮らすと言われていたのだ。私はそれを本当に楽しみにしている。
高級の世界に入ると、人間も一層進歩するが、動物も一層進歩していると言われ、その意志疎通の方法もずっと進んでいると言われている。けれど、やはり動物は常に人間よりは劣っていて、人間に従っているとのこと。動物は人間にとって知的な従者なのだそうだ。動物には罪の償いということは存在しないので、物事の力、影響で進歩すると言われている。確かに、動物には罪というものはないのだと思う。それだけに人間と同じような病気にかかることに、私は解せないでいる。動物に病気は無縁であって欲しいと切に願う。
1073回目の瞑想
ーーー高級の世界では、動物は神についての知識を持ちますか。
「いや、もたない。人間が動物にとっての神である。霊達が以前は人間にとっての神々であったように」
ーーー高級の世界の進歩した動物でも、動物は常に人間の劣位にあるということですが、これはいかにも神は永遠の劣等者に動物を始めからおとしめて創造しておられることで、神の御業にみられる計画と進歩の統一性とは一致していないように思われるのですが。
「あらゆるものはその本質において、諸君等の知性の及ばぬ鎖によって結ばれている。見た目には食い違って見える物も、人間の地上の理解では及ばぬところで理解の糸につながれている。人間も知的努力によって、ほのかにそれを伺うこともあるやも知れぬ。しかしながら、知性がすべて開花した暁、高慢の鼻をへし折り、無知の偏見を洗い尽くした後でなければ、到底神の御業の中に入ってこれを見ることは出来ない。それまでは、狭い視野をもって、低い卑小な見地から物を見ていねばならない。神は自らを縮小するわけにもいかぬ。一切のものは本質において、創造主の至高の英知にはずれぬ法の活動によって調和されていること、この事を心得られよ」
ーーーでは、動物の魂と人間との間の共通性、接点、それは知性ですか。
「そうである。しかし、動物の場合は、物質生活の知性のみを持つのに対し、人間は精神生活にも知性が及ぶ」
ーーー動物と人間の間にある接点を考えてみるとき、人間とは二つの魂を所有する者であると、こう考えられますか。つまり動物的魂と霊的魂です。従って、もし霊的魂を持たなくても、人間は生きておれましょう。それは野獣としてですが。換言すれば、動物とは人間から霊的魂を差引いた人間に等しいもの、こうでしょうか。以上より、人間の善と悪の本能は、これら二つの魂のいずれが優勢かの結果によりましょう。
「そうではない。人間に魂は二つない。ただ肉体には、その肉体の感覚からくる本能がある。人間の中には唯二重の性質があるのであるーーつまり動物性と霊性、これである。肉体を通じて人は動物性、本能を帯び、その魂によって霊性を示す」
ーーーそれでは、人は自己の不完全性を除く仕事の外に、更に霊は肉体の影響に対しても闘わねばならないのですか。
「左様、霊の進化度が低ければ、物質と人と結び付きは一層密接である。この事はそう思われぬか。人間とは二つの魂を持つものではない。魂とは常に一つ、単一なものである。動物の魂と人間の魂とでは明らかに違っている。従って、動物の魂が人間の肉体に生命を与えることはあり得ない。しかしながら、人間を動物のレベルに引き下ろす、感情の母体である動物の魂を人間が持たないとしても、人間には肉体がある。この肉体が人間を動物にしばしば引き下ろすのである。この肉体こそは活力を与えており、本能を持ち、非知的で、自己保存の関心だけに縛られているものである」(明日に続く)
今回も動物と人間の続きである。高級の世界であっても、動物は神様の知識はもたないと言われている。以前は霊達が人間にとっての神々だったと言われ、動物にとっての人間は神であると言われている。そして次の質問についてのお答えは、神様の偉大さを伝えていると思う。到底私達人間には理解は出来ないし、神様の御業の中に入ることなどは、以ての外だと思う。今はただ、神様の至高の英知によって定められている法を信じて行くより他にはないのだと思う。
人間と動物の魂との間の共通、接点は知性だと言われ、動物の場合は物質生活の知性のみを持つのに対し、人間は精神生活にも知性が及ぶと言われている。次の質問には完全に否定されて、人間に魂は二つないと断じておられる。そして、肉体の感覚からくる本能があり、人間の中には唯二重の性質があると言われている。それは動物性と霊性であり、肉体を通じて人は動物性である本能を帯び、魂によって霊性を示すと言われているのだ。
私達人間は、霊の進化度が低ければ、物質との結び付きは一層密接であると言われる。人間は二つの魂を持つものではなく、常に魂は一つ、単一なものであるとのこと。動物の魂と人間の魂とは明らかに違っており、動物の魂が人間の肉体に生命を与えることはあり得ないと言われる。けれど、人間には肉体があり、この肉体が人間を動物に引き下ろすのであると言われるのだ。そして、この肉体は活力を与えており、本能を持ち、非知的で、自己保存の関心だけに縛られているものであると言われている。要は肉体もって生まれたことでその動物性により、本能のまま生きるのか、それとも霊として霊性を活かすように生きるのかが問われているのだと思う。霊として少しでも進化して行くためには、本能に負けずに、出来る限りの努力をして行くことが、この世に生まれた意味があるのではないかと思う。
1053回目の瞑想
ーーー善霊にしろ悪霊しろ、私共の日常生活で更に緊密に接触したい目的で、肉体をとって生まれるということがありますか。
「しばしばそういうことがある。しかしそれよりも、目指す本人と共感する人間に、この使命を委託することの方が多い」
ーーー保護と助力の目的で、一家族の全員についている霊がありますか。
「そのような霊も中にはいる。一緒に住んでいて愛情で結ばれた家族についている霊だが、その家族が仮に栄えても、その霊の守護のせいではないが」
ーーー霊は共感によって個人につきますが、同じ目的で結ばれた団体につくことがありますか。
「霊は好んで、自分に似た者達のいる所へ行くもの。その方が一層確実に影響を受けて貰えるから。人は個人の場合でも、協会・都市・国家の一員の場合でも、その性向に応じて霊を引き寄せる。それ故、協会・都市・国家はその特色に応じて、何らかの進歩した霊の助力を受けている。もし団体の精神が秀れていれば、個人の場合と同様、邪霊を遠ざけ善霊を引き寄せる。善霊は集団の廉直さを高め、逆に邪霊は集団に悪感情をまき散らす」
ーーー協会・都市・国家などの集団は、固有の守護霊をもっているのですか。
「もっている。これら団体は個性の集合体であるが、一つの共通の目的を追求し、上方へ向かう性向をもつものであるから」
ーーー集団の守護霊は、個人についている守護霊より、その進歩の程度は高いものでしょうか。
「個人の場合と同じく、集団の進歩程度に見合っている」
ーーー芸術の修行をしている者を導く守護霊は、芸術の進歩を促進できますか。
「自分に祈りを捧げてくれる者で、助力に値いする者を導く、特殊の守護霊達がいる。彼等は助力に値いせぬ者は導かぬ、導いてもそこから何も生まれないから。盲人に見せることはできず、耳の悪い者に聞かせることは出来ないのだから」
[注解] 古人達はこれら守護霊に特殊の神格を与えた。詩神とは、美術や科学の守護霊と同じく、守護霊の諷喩的擬人化である。それは丁度家庭の守護神のようなものである。芸術・諸産業・都市・国家には守護神がいる。彼等は呼名は違っても、高級の守護霊なのである。
今回も守護霊・守護天使の続きである。私達人間に更に緊密に接触したい目的で、肉体をとって生まれることもあるとのことだが、その目指す本人と共感する人間に、この使命を委託することの方が多いと言われている。
また、保護と助力の目的で、一家族の全員についている霊がいるとのことだが、その家族がもし栄えたとしても、その霊の守護のおかげではないと言われている。それは何故なのだろう。保護と助力が目的であるのだから、その家族が栄えたのなら、その霊のおかげであってもおかしくないと思うのだが。
霊は共感によって個人につくように、同じ目的で結ばれた団体にもつくようだ。それはやはり、その性向に応じて霊を引き寄せるからだと言われる。協会・都市・国家などにもご守護霊様はいるとのこと。けれど、個人の場合と同じく、集団の進歩程度に見合ったご
守護霊様がつくとのことだ。
芸術を志す人には、その助力に値いする人を導く、特殊のご守護霊様達がいるようだ。この世でも、素晴らしい先生に指導してもらっても、才能のある人は伸びていくが、才能のない人はどれだけ努力しても報われないことが多い。やはり同じということなのだろう
。
1054回目の瞑想
ーーー虫の知らせは、守護霊からの警告なのですか。
「虫の知らせというのは、諸君の安全を願う霊魂から、諸君に伝えられる個人的な助言である。これはまた直感、本能の声と言えるかも知れぬ。と言うのは、霊は肉体をとって生まれる前に、自分の新しい人生の大様を知るーー即ち、彼がまさに経験することになる試練の種類などを知る。それが際立った性格を持っている時、彼は内心にその印象を刻み付ける。この印象である本能の声は、その危険が近付いた時、鮮明となり、虫の知らせとなる」
ーーー虫の知らせや直感の声は、はっきりしたものとは申せません。はっきりしてない場合はどうすればよろしいですか。
「疑わしい時は、守護霊に祈念するとか、神様にお願いするーー神のお使い、つまりは吾等の中の一人を遣わされるよう、お願いしなさい」
ーーー守護霊の警告というのは、私共の道義上の指導のためにのみ与えられるものでしょうか。つまり、私共の個人的な出来事の導き、これを目的としているのでしょうか。
「守護霊の警告は、本人に関わりのある事なら何なりと、これを目的としている。守護霊は、諸君等が進む道の全てに渡り、最善のコースを踏むように導いておる。しかるに、諸君等はその声に耳を閉ざすこと多く道を踏み外しては苦しんだりしている」
[注解] 私共を守ってくれている霊達は、私共に助言を与え、良心の声を目覚めさせてくれる。しかし、必ずしも私共がこれに重きを置くとは限らぬので、身近の人物を通じて直接私共に警告を発したりする。幸福といい不幸といい、人生の数々の場合を思い起こしてみれば、もしその忠告に従ってさえいれば、苦しまずに済んだのにと思える場合が、随分とあったのではなかろうか。
今回は虫の知らせという内容である。虫の知らせは、私達人間の安全を願う霊魂からの個人的な助言だと言われている。また直感、本能の声と言えるかも知れないとも言われており、私達が霊として肉体をとって生まれる前に、自分の新しい人生の大方を知るようだ。それは地上で経験することになる試練の種類などを知ると言われる。際立った強い試練などを私達霊は内心にその印象を刻み付けるとのこと。この印象である本能の声が、その危険が近付いた時に鮮明となって、虫の知らせとなると説明して下さっている。虫の知らせとはそのようなことなのだと得心する。ただ、次の質問のお答えには、いささか戸惑う。それは虫の知らせが疑わしい時には、守護霊に祈念するとか、神様にお願いすると言われているが、それがそう簡単にはいかないと言うことだ。神様のお使いである高級霊の方を遣わされるようにとお願いしたところで、やはり私達がその高級霊の方と同調できなければ、無理なのではないかと思ってしまう。その辺のところはどうなのだろうか。普通一般の人に関してのお言葉を頂戴したいところである。
次の質問といい、注解での内容といい、ご守護霊様のそのお声に耳を閉ざさずに従うことができれば、道を踏み外すことも、苦しむこともないとのことだが、その声に耳を閉ざしているつもりもなく、従いたいと思っていても、実際にそのお声が聞けなければ話にならないのではないだろうか。と書いた後で、何故かこの先のことは書かされているように、スラスラと書いていた。それは、そこはやはり私達人間の気付く力というものが必要になってくるのではとも思う。例え、ご守護霊様や高級霊の方のお声が聞けずとも、注解にも書かれているように、身近な人やTVや看板などまたその他諸々に注意を払い、気付くことができれば、自分に今必要なお言葉や感覚が分かるということなのではないか、と。これもまたまさに上からのインスピレーションなのかも知れない。言葉として聞くことが出来なくても、本人にその意志が強固であれば、必ず何かの形で、お答えをもらうことは出来るのだと今感じた次第である
。
1055回目の瞑想
ーーー人生の出来事に霊は影響を及ぼしますか。
「左様、間違いなく、霊は諸君等に助言を与えるものである」
ーーー私共の心に影響を及ぼす以外にも、何か影響を与えるのでしょうか。例えば、何か事件に直接作用を及ぼすとか。
「それはある。しかし、自然の法を踏み出して、霊が作用するということはない」
[注解] 我々は霊の作用というと、とてつもない現象というふうに思いがちである。奇跡を起こして援助を与えるとか、魔法の杖を振るうとか、そう思いがちである。しかしそれは違う、霊の援助とは自然の法に従ってなされるのであって、それも我々が気付かぬように関わっている。例えば、二人の人物がたまたま逢ったという具合に会せたりする。つまり、霊がある者の心に、これこれの場所に行きたくなるようにささやくのである。霊は諸君等の注意を特定の場所に向けさせる。本人は自分では気付かずに、霊のささやきの通りに行動とるなら、霊の思うつぼにはまったことになる。これならば本人の方は自分の気持ちでそうしたのだと思い込んでおり、本人の自由意志は犯されていない。
ーーー霊には物事に作用を及ぼす力がありますから、出来事が思い通りに運ぶように事件が起こせますか。例えば、ある人がある時ある事で死ぬ運命にあるとします。彼は梯子を上がる、梯子は壊れて死ぬ。これは本人に決まっている運命を実現するために、霊がこの梯子を壊れるようにしたのですか。
「霊に、物事に左様する力があることは確かである。しかし、それは自然の法を遂行するためであって、自然の法に反し、特定の時に予測できない事件を引き起こして、自然の法を損なうためではない。上記の事例の場合は、梯子が腐っていたか、本人の体重を支えるだけの強度がなかったか、いずれかである。しかし、本人がそのようにして死ぬ運命にあるのなら、霊はその者の心に、そのつぶれそうな弱い梯子に上がるように気持ちを向けさせたのであろう。従って、彼の死は自然に生じたのであり、奇跡によってそうさせられというものではない」
ーーーでは、通常ならそういう結果にはなりそうにもない、そのような事例で申します。ある人が死ぬ運命にあったとします。この者が嵐にあい、木の下に難を避けます。雷光がこの木を襲い本人は死ぬ。さて雷電を落ちるようにしたのは、また、この人物の上に落ちるようにしたのは、霊ですか。
「これの説明は上記の場合と同じである。特定の時に、雷電がこの木に落ちた。この事はそうあるべき自然の法に一致しているのである。雷電が落ちたのは、当人がこの木の下に居たからではないのである。まさに落ちようとする木の下に避難するよう、本人が心にささやきを受けたのである。本人がその木の下にいるいないに拘わらず、まさにその時、雷電はそこに落ちたのである」(明日に続く)
今回は人生の出来事に及ぼす霊の影響という内容である。私達の人生の出来事には、霊の影響は大いにあり、助言を与えてくれていると言われている。また、
私達の心に影響を及ぼす以外にも、何かしら影響はあると言われているが、
自然の法を踏み出して、霊が作用するということはないと言われる。注解の内容は興味深いことが書かれてある。もちろん霊の作用だからといって、奇跡のように援助を頂けるとか、魔法の杖を振るって頂けるわけはない。霊の援助というのは自然の法に従ってなされるとのことだ。しかも私達が気付かないように関わっているらしい。例えとして、二人の人物がたまたま逢ったという具合に会せたりすると。ここを読んで、つい顔がほころんでしまった。私達夫婦も神社の縁日で偶然出逢ったのだ。(もちろん、偶然などではなく、必然だったのだと思う)主人はテキ屋さんのアルバイトで夜店である物を売っていた。私はその縁日には毎年行っていたので、その年もいつも通りに行き、参拝して階段を降りてくると少し離れた所に主人の夜店が見えて、その人に一目惚れをしてしまったというわけなのだ。本当に縁とは不思議なものだとつくづく思う。その日までは全く知らない人なのに、今年で41年も連れ添う夫婦になろうとは、夢にも思っていなかったのだから。ただ私はずっと「自分の天命を全うできる配偶者をお与えください」と神様にお祈りはしてきていたので、お引き合わせ頂けたと思っていた。だが、今回初めて霊にささやかれて、ある特定の場所に行きたくなるように仕向けられることがあるということを知って、私自身、身をもって体験させて頂けたのだと有難い気持ちになった。確かに当時はそれが霊にささやかれて行動したとは思いもしないし、気付けるわけもない。だが、今なら納得できる。話が随分と脱線してしまったが、やはり護られて来たことを改めて確信した思いになれた。
霊には物事にも作用を及ぼす力があるのは確かなことだと言われているが、それは自然の法を遂行するためであり、自然の法に反し、特定の時に予測できない事件を引き起こして、自然の法を損なうためではないと言われている。なので、梯子の件にしろ、雷電の件にしろ、これは自然の法なのだ。これを犯してはいけないのだろう。
梯子の場合は霊が梯子を壊したわけではなく、何らかの事情で壊れることが決まっていた梯子を上がらせるように気持ちを向けたと言われ、雷電の場合も、その木に雷が落ちることは自然の法で決まっていたので、その木の下に行くような気持ちに向けたということなのだと言われているのだ。理に適ったお話に唸るしかなかった
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1056回目の瞑想
ーーー悪意の人物が、ある人に弾丸を発射します。それは間一髪、すれすれに通過します。この場合、その弾丸は善意の霊の作用で外されたのですか。
「狙われた人物がいての弾丸に当たる運命になければ、善意の霊は弾道をよけるよう本人に暗示を与えるとか、または狙いが外れるよう、その敵の目を狂わすとかしたでしょう。何となれば、弾丸は発射されれば、必ず弾道とおりに進むのであるから」
ーーーある聖徒物語にあるように、魔法の弾丸、これは不可思議な運命によって、必ず当たるのですが、これは何と考えたらよろしいですか。
「それは純粋に想像の産物である。人は目を見張るような出来事を喜ぶ、しかしながら、大自然の驚異では満足しない」
ーーー私共の人生を指導してくれている霊は、私共を横道にそらそうとする霊の働きで妨害されるものですか。
「神の意図し給うことはすべて起こる。もしそれが遅れたり妨害を受けることがあるとすれば、それが神のご意図なのである」
ーーーくだらぬ悪戯霊どもは、私共の計画を邪魔したり、思惑を外させてたり、こまごまと邪魔だてが出来るものですか。一言で申しますと、彼等は人生の些事と言われる揉め事や障害などの張本人ではないですか。
「そのような霊は、諸君等の忍耐の試練になるような悩み事を作り出しては喜んでいる。しかし、それで、諸君等を怒らせることが出来ないと分かると、このゲームに倦きてしまう。しかしながら、諸君等の思いのままにならぬこと、その一切を彼等のせいにするのは正しくない。その大部分は諸君等の不注意が原因で起こっているのである。土器が壊れたとする、これは霊の仕業ではなく、多くの場合、諸君等の愚行の結果が引き起こしたものである」
ーーー些事の悩み事を作り出す霊どもは、個人的な恨みがあってそうするのですか、それとも、これといった目的もなく、単純な悪の楽しみから、手近の人物に向かってそういう事をするのですか。
「動機はその両方である。ある場合には、この現世で、あるいは他世で作った敵であって、諸君を付け狙っているということであり、場合によっては、特定の動機もなしにそれをやるということである」
ーーー地上で私共に害を加えた者達の場合、彼等が霊界に戻ってから、彼等の悪事ははっきりするのですか。
「多くの場合、彼等はその行為の非を感じ、諸君に加えた過ちを悔いる。しかしそうでない場合には、神がもし許し給うなら、恨みを抱いたまま諸君を追い続ける、引き続き諸君等の試練のために」
ーーー私共はこのような追求を終わらせることが出来ますか。それはどうしたらよろしいですか。
「多くの場合、諸君が彼等のために祈ってやれば上手く行く。つまり彼等の悪に対して、善を為すこと。これにより彼等が自己の誤りに次第に気付く。そのように仕向けることが出来るのである。また、いかなる場合も、辛抱して、彼等の悪い企みにも超然としておれる諸君であるなら、彼等の方でその無効を悟って、攻撃を止めるに至るのである」(明日に続く)
今回も人生の出来事に及ぼす霊の影響の続きである。最初に出された弾丸の質問のお答えには、少なからず衝撃を覚える。弾丸に当たる運命になければ、善霊がどちらかに当たらないように仕向けるとのことなのだ。ということは、弾丸が当たる運命であれば、そのまま当たってしまうということだ。それは弾丸は発射されれば、必ず弾道とおりに進むからと言われている。要は弾丸が当たるか当たらないかは運命で決定づけられているということになるのだ。いやはや、本当に凄いことなのだと思った。また神様のご意志があれば、邪魔する霊に妨害を受けることもあるようだ。だが、私達の思いのままにならないことや邪魔されているように思えることも、悪霊達の仕業だけではないと言われ、むしろ、その大部分は私達の不注意が原因で起こっていると言われている。身につまされる。そのような霊達は個人的な恨みでする場合と単なる楽しみでする場合との両方があるとのこと。しかも個人的な恨みがある場合は、ほとんどが霊界入り後には、その行為の非を感じて、加えた過ちを悔いるとのことだ。だが、そうでない場合には、神様が許されるなら、恨みを抱いたまま追い続けるとのこと。けれど、それはその人の試練のためのようだ。
追求され続ける場合は、何らかの因果関係があるはずなので、その相手のために祈ることが肝要のようだ。それは悪に対して、善を為すことであると言われている。そしてその祈りによって、自己の誤りに次第に気付いていくようだ。また、どんな場合でも、辛抱し、悪い企みには超然として行けば、相手は無駄だとわかって、追求を止めるに至るようだ。これが私達人間がしなくてはいけないことなのだろう。悪には悪を持ってではなく、悪には善を持って対処するほかは、手立てはないのだと思う。そこで完全に終止符を打てるのだから
。
1057回目の瞑想
ーーー霊は、甲の災難を乙に転ずることが出来ますか。
「ある限られた範囲においてのみ可能である。何となれば、、天意によって諸君に降りかかる不運というものがあるから。しかし、霊は辛抱と忍従でそれを耐えるように諸君を導くことで、諸君の災難から学ぶところがあるのである。また、不幸を回避したり、小さくしたりするのは、諸君自身に依存することの方が多いこと、これを知って貰いたい。神は諸君に知性を与え給うておる、これをうまく活用するようにと。例えば善霊が諸君に良い着想をささやくとする、このように善霊が最大の助力を諸君に与えてくれるのは、諸君の知性の活用による。即ち、善霊は自らをよく助けるものをのみ助ける。真理は次の言葉の中にある、<求めよ、さらば見出さん、叩けよ、さらば開かれん>
しかも、諸君に不運と思える事が、必ずしもそうではないということを、知っておかねばならない。結果として善なるものは、見た目には悪に見えること、この方がはるかに多いのである。この事実を諸君等は余り御存知ない。諸君等の目は余りに近視眼であり、現在の満足をもって事を図るからである」
ーーー私共が切望するなら、霊は私共のために幸運のプレゼントをしてくれますか。
「時によっては試練のため、そのような要求を聞き入れることもあるかも知れぬ。しかし拒絶する場合の方が多い。それは諸君等が子供のくだらぬ要求を断るのと同じである」
ーーーそういう望みを聞き入れてくれるのは、善霊ですか悪霊ですか。
「その両方である。求める場合も、認める場合も、どんな目的なのかその動機いかんが問題だからである。しかし、人を迷わせたいと思っている霊の方が何でも聞いてくれる場合が多い。金で手に入れる物欲の楽しみ、この方が人を簡単にだませるからである」
ーーー私共の計画に何か障害が起こる場合、これは霊の作用と考えてよろしいですか。
「霊の作用でそのようになることはしばしばある。しかしながら、それ以上に
諸君自身のやり方が悪いためにそうなることの方が多い。正しい道に従わねば、諸君自身が悪邪霊になることになる。自分の我や過ちが原因で失敗したものを、悪邪霊のせいにすることはあるまい」
ーーー何か良いことが起こった時は、守護霊のおかげと感謝すべきなのですか。
「先ず、神に感謝申し上げよ。何一つ神の許しなくば起こるものではない。次に神の代理人である善霊達に感謝しないさい」
ーーーもし、上記の感動を怠った時、どういうことになりましょう?
「忘恩の徒にふさわしいこと、それである」
ーーー世の中には感謝も知らず、祈りも知らぬ者達がいます。しかし、彼等は万事うまくいっておりますが。
「左様。しかしその者達の最後の日までよく見なさい。その者が受けた成功の代価を狂いなく支払わされよう。その成功は本人に価いせぬもの、されば、その成功が大きければ大きいほど、そのために支払わされる代価も大きなものとなろう」
今回も人生の出来事に及ぼす霊の影響の続きである。最初の質問のお答えには霊的真理そのものだと思った。
天意によって降りかかる不運というものもあるらしい。だが、私達をその不運から辛抱と忍従でそれを耐えるように導いて下さることで、その災難からも学ぶことができると言われている。更に不幸を回避したり、小さくしたりするのは、私達自身に依存することの方が多いとのこと。神様は私達に知性を与え下さっていると。善霊が最大の助力を私達に与えて下さるのは、私達が知性を活用し、自ら向上しようと努力することだと言われる。というのは善霊は自らを努力し向上しようとする者をのみ助けると。有名なお言葉が真理なのだと言われている。<求めよ、さらば見出さん、叩けよ、さらば開かれん>
しかも、私達が不運と思える事は、必ずしもそうではないらしい。結果において善であるのに、見た目は悪に見えることもあるが、この方がはるかに多いと言われている。確かにこのような事実は私達人間にはわからないのではないか。それは近視眼的であり、今の生活の満足をもって事を図るからだと言われている。
私達人間が幸せを願って贈り物を期待しても、私達人間の試練のためには、そのような要求を聞き入れることもあるようだが、大抵は拒絶する場合の方が多いとのこと。それは私達親が子供のくだらない要求を断るのと同じだと言われている。確かにその通りなのだと思う。しかも、
そういう望みを聞いてくれるのは、善霊悪霊両方のようだが、その
目的の動機が肝心なのだ。それは人を迷わせたいと思っている霊の方が何でも聞いてくれる場合が多いとのことで、とかく人間はお金で手に入れる物欲の楽しみを目の前に出されると、簡単にだませてしまう、からと。苦笑するしかない。
次の質問は前にも同じような内容があったので省いておく。
何か良いことがあった時には、お言葉にあるように私は必ず神様と霊界の皆様方に感謝申し上げている。また悪いことがあった時でも、出来る限り、お祈りさせて頂いている。そして、それを怠った時については、忘恩の徒それであると言われている。それに対しての質問は、当然の疑問だと思う。けれど、そのお答えにはびっくりだった。成功した人の最後までを見届けることは私達には出来ない。けれど、その成功は本人に値しないと言われ、その人が受けた成功の代価は間違いなく支払わされると。更にその成功が大きければ大きいほど、そのために支払わされる代価も大きなものとなると言われているのだ。そうなのかと納得する。すべては神様の摂理に則って、この世を生きることが肝要なのだと改めて確信した次第である。
1058回目の瞑想
ーーー自然現象、それは元素の攪乱とでも申しますか。あれは偶然の因によるのですか、それとも神のご意図に基づくものですか。
「物事にはすべてことわりが存在する。何一つ神の御許しなくして生じるものはない」
ーーー自然現象の生起は、人間と何らかの関わりがあるのですか。
「人間と直接関わっていることもある。しかしながら、自然が物理的な力の平衡と調和を回復しようとする、その目的によって生起していることの方が多い」
ーーー私共は、万事そうであるように、自然現象の根本原因は神のご意図にあること、これはそのように考えます。しかしながら、私共はまた次のようにも思っております。霊は物質に作用する、霊は神意の代理者でもあると。ですからお尋ねするのですが、霊の中には、元素の種々なる動きや作用に影響を及ぼすものがあるかどうか。
「そうあるべきこと、それは明らかなこと、そうでない方がおかしい。神は御自ら物質に働きかけ給うような事はなさらぬ。神は宇宙の各段各層に、それぞれの役を果たす代理者を置いておいでになる」
ーーー古代の神話にはすべてその基礎に、心霊的な観念が存在します。ただ違っているところは、霊を神々と認めているところです。これらの神々はそれぞれの特性を代表しており、風の神、光の神、植物の司神等々。このような信仰は根拠のないものでしょうか。
「根拠がないというより、真理とはほど遠い」
ーーー地球の内部に霊が住んでいて、地質現象を支配しているのでしょうか。
「地球内部にはっきり存在するわけではないが、特性に応じて、それぞれの現象を支配統御している霊がいる。諸君等はやがてこれらの現象の説明が出来るようになり、一層理解できる日が来よう」
(明日に続く)
今回は自然現象の創造における霊の作用という難しい内容である。自然現象は、すべて神様のご意志によるもので、何一つ神様のお許しなくして生じるものはないと断言されている。ここを読んで鳥肌が立ってしまった。
自然現象の生起は、
人間と直接関わっていることもあるそうだが、自然が物理的な力の平衡と調和を回復しようとして、その目的によって生起していることの方が多いと言われている。これこそ、神様の為せる技だと思った。また神様は自ら物質に働きかけるようなことはされないとのことで、霊が宇宙の各段各層において、それぞれの役を果たす神様の代理者となって、種々なる動きや作用に影響を及ぼしているとのこと。神様ご自身は物質には直接働きかけはされないものの、すべては神様のご意志の元に、各段各層の霊の方々は動かれているのだと思うと、やはり鳥肌ものだと思った。次の
古代の神話には霊を神々と認めているとの質問だが、日本にも神話があり、いろいろな神様の話があるが、
根拠がない上に、真理とはほど遠いと言われている。やはり日本の神々様も真理ではなかったということになる。それは霊的真理を理解すればするほど、当然のことだと思う。
そして、霊が地質現象を支配統御されていると言われ、いつか私達もこの現象の説明が出来るようになり、一層理解出来る日が来ると言われている。私にはわからないが、それは現世ではもう可能になっているのだろうか
。
1059回目の瞑想
ーーー自然現象を司る霊達は、霊界でも特殊の部類をなすのでしょうか。別個に存在するとか、あるいは、私共のように肉体をとって生まれることのない霊であるとか。
「彼等とても肉体をもつことがあるだろうし、ないしは、これまでに肉体をもったこともある霊である」
ーーー霊界での階層から申しますと、このような霊は高級ですか、それとも低級なのですか。
「その仕事が物質的なものか、知的なものか、これ次第である。ある霊は支配するが、ある霊は作業する。人間の場合と同様、霊の世界でも現場の仕事をする者は低位の階層に属する」
ーーー例えば嵐を起こすとか、現象生起の場合は、一つの霊がやるのですか、それとも集団でやるのですか。
「集団でやる。むしろ、極めて多数の霊集団である」
ーーー自然現象に作用を与えている霊は、ちゃんとした自分の意図や知識に基づいてこれを行っているのですか、それとも本能であるとか、その場の衝動によって作用を与えているのですか。
「その霊によってやり方が違う。比較して申してみよう。先ず、海中に群島を形成する無数の微生物を思ってみられよ。この場合には、神のご意図は何もないとお考えか、地球の表面を形成していくこの作業には、何の調和も必要としないとお考えか。しかも、これらのことは最低級の生物達が自己の肉体の欲するがままに、神の手足となって働いている意識は少しもなしに、行われているのである。これと同様に、最低度の霊達も総体として役立っている。彼等は本能に従いつつ、また自分で何を意図し何を行為しているかも明確に意識せず、この無意識の活動家達は、大自然の各局面において、また自然現象の生起において、協同作業をしているのである。彼等はは上位の霊達の命令で動くことから始まり、ついには知性が進歩すれば、代わって命令を下す立場となって、物質世界の進化を司る。更に後には、精神世界の事を司ることも可能となる。つまり大自然のことは、最低の微小なものから大天使に至るまで、一環をなしているということである。大天使とは微小なものから始まったのである。諸君の心をもってしては、その総体をとらえようもない、驚くべき大調和である」
今回も自然現象の創造における霊の作用の続きである。
自然現象を司る霊達は、私達人間と同じように、肉体をもつこともあるし、これまでに肉体をもったこともある霊でもあると言われている。人間として生まれた霊も、自然現象を司ることができるようになるとは、驚きだった。そのような霊達の階層は、その仕事が物質的であるか、知的なものによると言われており、ある霊は支配をし、ある霊は作業するということで人間の場合と同様に、霊の世界でも現場の仕事をする人は低位の階層に属すると言われている。なるほど〜っと得心する。
現象生起を起こす場合は、
集団で、それも極めて多数の霊集団だそうだ。
自然現象に作用を与えている霊のみならず、大自然には驚くべき大調和があると言われている。大自然のことは、最低の微小なものから大天使に至るまで、一環をなしていると言われ、大天使とは微小なものから始まったと言われているのだ。このことは私達人間に思い量ることは無理である。けれど、その大自然の恩恵を私達人間は授かっているのだと思うと、恐れ多いことだと改めて実感させられるのである。
1060回目の瞑想
ーーー戦闘中には、それぞれの個を援助している霊がいるのですか。
「いる。やれやれ!と鼓吹こすいしている霊達がいる」
[注解] 古人は一国に味方をする神々を考えていた。これら神々も結局は霊なのである。
ーーーどの戦争でも、正しいのは片方です。どうして霊が正しくない側の味方をするのですか。
「ご承知の通り、争いや破壊を好む霊達がいる。彼等に取り戦争は戦争、どちらが正しいかどうかなどは関係ない」
ーーー霊達は戦略上で指揮官に影響を与えますか。
「間違いなくその目的をもって影響を加える。その他の面でも同様である」
ーーー敵方の霊は、やっつける目的で、相手方の指揮官に馬鹿な戦略をささやいたりできますか。
「出来る。しかし、敵方の指揮官とて自由意志を持っているのではないか。陰謀の是非が見分けられなければ、不明の結果を招こう。ハネつけるよりか、言うなりになってしまうであろう」
ーーー指揮官が、一種の第二の目のようなもので、つまり本能の直観のようなもので、その陰謀の結果を見抜くということはないのでしょうか。
「天才の場合にはそういうことがしばしばある。インスピレーションと言われる直観がこれで、この場合当人は確信をもって事を行う。これは本人を支配する霊からくるもので、この霊は本人に具わる能力を通じてこれを伝える」
(明日に続く)
今回は戦闘中の霊達という内容である。やはり戦争を煽る霊達がいるとのこと。注解に書かれているように、戦争に勝った国は自分達に神は味方してくれたように思ってきたが、それはみな神様ではなくて、霊達だったのだ。煽る霊達には正義などは通用しないのだろう。ただただ面白おかしく闘いを煽って楽しんでいるのだと思う。ただ、どの戦争も正しいのは片方だと言われているが、果たしてそうだろうか。私はやはり喧嘩両成敗でないかと思うのだが。また、
霊達は戦略上で指揮官に
間違いなくその目的をもって影響を加えるようだ。その結果、はね付けることができればいいが、言うなりになってしまう場合の方が多いようで、不明な結果を招くと言われている。ただやはり、霊達の陰謀を見抜く指揮官もいるようだ。それも天才の場合とあるが、霊恪が高いということではなかろうか、と私は思う。それは指揮官本人の支配する霊からのインスピレーション受けて、本人に具わる能力を通じて伝えてくると言われているからだ。やはり霊的に高くなければ受け取ることはできないと思う。受け取れるからこそ、言いなりにならずに、確実に悪い結果を未然に防げるということになる。やはり上に立つ人の霊格が高いということが、必須であるが、なかなかそうは行かないのが現状である
。
1061回目の瞑想
ーーー戦争中に倒れた人々の魂はどうなるのですか
。死後引き続いて戦闘をやり続けるのですか。
「一部の者は戦い続ける。また、そのまま止めてしまう者もいる」
[注解] 戦死した者の場合、これは事故死の場合と同様、最初の間は何が何だか分からない、丁度目を回したような状態である。自分の死を意識していない、生きていると思い込んでいる。徐々にではあるが、それから自分が一体どうなったのかが分かり始める。
ーーー生前互いに敵対して戦ってきた者達の霊は、死後もお互いを敵と思っているのですか。お互いに敵味方に分かれているのですか。
「戦死した霊は心安らかではない。従って、最初は敵の姿を見るといきなり立ってこれを攻撃する。しかし、自分を取り戻すと、自分の恨みがホンモノではないことが分かってくる。しかし、時間の長短の差はあれ、本人の性格に応じて同様な状況は残っている」
ーーー戦死者は戦場のドヨメキを聞き続けますか。
「まさにその通り」
ーーーある霊が、傍観者として、戦闘を冷静に見ているとします。この場合、戦死者の霊肉分離のさまがはっきり分かりますか。これを見てどんな感懐をもちますか。
「瞬間的に死に移行することは稀である。大多数の場合、身体に致命傷を受けた霊は、暫時気絶する。気が付いた時には、自分が自分の死体の傍を動いているという具合である。このことは極めて自然であって、肉体の目で嫌な状況を見るということはない。本人の生命は霊に結集され、周りの霊達もこの霊に気付く。これ以後は、霊同志の間に交渉が生じ事が進行する」
今回も戦闘中の霊達の続きである。最初の質問のお答えに、戦いを続けるとあるが、実際、私に戦死した方が降りて来た時も、戦っている真っ最中だった。岩の影に隠れているらしく、声をかけると敵に気付かれるからと、黙っててくれと言われていた。しばらく問答が続いた後で、やはり私の身体を触らせ、気付いてもらったというわけである。その時のことをふいに思い出してしまった。注解にも書かれているように、自分の死を意識していない、生きていると思い込んでいる、とその通りだったのだ。また、次のお答えにもあるが、敵を見たらいきなり攻撃するというのも、まさしく降りて来た霊にも言えることだった。今にも敵を見付けたら銃で撃ち殺すような状態だったからだ。このように、しばらくの間は戦場にいるという感覚から抜けきることは出来ないのだろうと思う。次の戦死者の霊肉分離のさまである肉体の目でその嫌な状況を見るということはないと断言されているのは、本当に救いだ。そんなものを目の当たりしたら、その方が気絶してしまうように感じられるからだ。
1062回目の瞑想
ーーー邪霊と契約を結ぶということが出来るという話ですが、これは本当ですか。
「そんなことはない。契約などは存在しない。しかし、邪霊と邪悪な心との間には共感が存在する。例えば申してみよう。今ある人が隣人を苦しめたいと思いながら、どうしたらよいか方法が分からないでいるとしよう。このことは、その者と同じく悪をなしたいと思っている低級霊をおびき寄せることになる。この低級霊は、その者の悪巧みの実行を助ける代わりに、彼等の悪事をその者が助けてくれることに期待を持っている。しかしそうであっても、隣人はその意志をもってすれば、また断固たる祈りをもってすれば、陰謀の餌食にならなくてすむのである。悪事をしたいと望む者は、その思いだけで、邪悪霊の協力者をおびき寄せることになる。その代わり見返りとして、彼は邪悪霊に奉仕せねばならなくなる。邪悪霊の方でもやりたい悪事の協力者として、その者を必要としているのである。諸君の言う契約とは、悪事を助ける場合の相互主義、そんな形では成り立つのである」
ーーー悪魔とのよしみを求めて、悪魔に魂を売る人の物語がありますが、これはどう考えたらよろしいですか。
「どんな物語にも、教訓や道のようなものがある。貴方の誤りはこれを文学と思ってしまうところにある。貴方が言いたいことは、下記に述べるような意味になるのではないだろうか。
邪悪霊とよしみを通じ、その恵みを求めて、邪悪霊を味方に呼び寄せる者は、神慮に反抗する者である。彼は自分の使命に背を向ける者、地上にあって耐えねばならぬ自分の試練から身を翻ひるがえす者。それ故に、彼は来るべき生において、この反抗の果実を刈り取る者となる。しかしこの故に、彼の魂は永久に呪われているとは申さない。しかし、物質から遠のく代わりに、ますます物質の中に沈りんしていき、地上の悦楽の享受と共に、霊界での苦しみはいや増す方向へ進んでいこう。遂には、今彼が反抗しているものより重い辛い新たなる試練を経て、悪のとらわれから償われていく、その日まで。彼は物質の快楽に耽溺しつつ、不純な霊の力の下に身を入れていき、かくしてその破滅に導く暗黒の契約を、邪霊との間にうちたてる者となる。しかし、この契約を打ち破ることは、高級霊の助力によって打ち破ることは、常に容易なのである。本人がもし固くそうしたいと思うならば」
今回は霊との契約という内容である。霊と契約などは存在しないと言われ、かなり詳細に例として説明してくれている。相手に対しての良くない思い、この思いだけで低級霊をおびき寄せるとのこと。そして実行へと低級霊にそそのかされるのだ。けれど、その相手が断固たる意志をもち、祈りをもってすれば、その餌食にはならないとのことだ。また悪事をしたいと望む者は、邪悪霊に味方になってもらう代わりにその見返りに、邪悪霊に奉仕せざるを得なくなる。持ちつ持たれつ状態になるということなのだろう。その悪循環から抜け出すことはなかなか容易なことではないのだと思う。また悪魔に魂を売るような人は、つまり邪悪霊を味方に呼び寄せるような人は、神様に反抗する人だと、自分の使命に背を向ける人だと、地上で耐え忍ばなければいけない自分の試練から身を翻す人だと言われる。けれど、このような人でも、魂が永久に呪われることはないと言われているのだ。もちろん、地上の快楽の享受と共に霊界での苦しみはなお一層増す方向へと向かう。そして今反抗しているものより重い辛い新たな試練を経て、悪から償われていくと。その日まで、物質の快楽に興じ、邪悪霊の力に屈服し、破滅の道へと進む暗黙の契約を邪悪霊と結ぶ。だが、この契約を打ち破ることは、高級霊の助力によって打ち破ることが出来るのだと言われている。しかもそれは常に容易であると。それこそ、本人の自由意志が物を言うのだ。すべては自己責任、ということだ
。
1063回目の瞑想
ーーー悪人は、その支配下にある悪霊の力を借りて、人に害悪を加えることが出来ますか。
「いや、神は左様なことを許し給わない」
ーーー他人に魔法をかける人物がいまして、その力が信じられていますが、これは何と考えたらよろしいですか。
「中には、強力な磁力の所有者があって、その魂が良くないため、この磁力を悪用している者があるやも知れぬ。この場合には、本人は悪霊達の後援を受けているかも知れない。しかしながら、見せかけの魔力に信を置いてはならぬ。かかる魔力とは、自然の法に無知な迷信的な人々の想像にのみ存在するものである。この見せかけの魔力をまことしやかに言うために、引用される事実は、本当は自然の原因から発した行為によるものである。唯それが不完全に観察され、詰まるところ、不完全に理解されたままになっている、そういう行為を指していっているのである」
ーーー霊の意志を左右できある儀式や作法があると言う人がいますが、これは如何でしょうか。
「そのような効果は、それを信じる者達に神秘感を与えるだけのもの。もし信じなければ、お前は罪深い嘘吐きだと言われるのがおち。そのような儀式は一切まやかしにすぎない。霊に作用を及ぼす秘跡の言葉とか、呪言とか、魔除けは存在しない。霊というのは思想によって引き寄せられるもの、物的なものには何の意味もない」
ーーー呪いの儀式を教えてくれる霊もいるのではありませんか。
「左様、いわゆる呪いということで、人に怪しげな仕草や呪言を勧める霊達がいる。しかし、それは霊が人を玩具にし、人の軽信を弄んでいると思いなされ」
ーーーそれが正しいかどうかは別として、いわゆる魔力を信じる者は、その信により霊を引き寄せるということがあるのではありませんか。この場合は、魔力とは自分の精神を集中し作用させる法のような働きをしており、そのための行為とは言えませんか。
「そのような行為は可能である。しかし、このようにしておびき寄せられる霊の性質は、引き寄せる側の意図や気持ちの良し悪しや、高下如何によって決まってくる。また、魔力を単純に信じるような人物は、精神よりも物的な動機で物事を行うことがある。結局のところ、そういう行為は精神の低さ弱さを示すものであって、未熟霊、まやかしの霊に道を開くことになるのである」
ーーー魔法使いとはどのように考えればよろしいですか。
「いわゆる魔法使いとは、その性善なる者は、特別の能力、例えば千里眼とか、催眠術的能力を持っている者のことである。このような人物は人の意想を超えた事を為すので、人はこれを超人的力の持ち主と思い込むわけである。これまでも学殖に富んだ人物の中には、無知な人々から、魔法使いと思われていた人もあるのではないか」
ーーーちょっと病人に触れるだけで、治病できる能力をもった人物がいるものですか。
「もし催眠術的な力をもった人物が、純粋な意図や善事を為す熱情に立てば、そのような事が行われよう。と言うのは、この場合には、善霊がこの人物を援助するために近付くからである。しかし警戒を要することは、熱狂軽信の徒が、単純自然の現象を見て、何か驚くべき事のように際立って誇張する、このようなことである。また同じく、利欲を目的として、うまく宣伝し誇張する、人物の口車に乗らぬことである」
今回は魔力、魔除け、魔法使いという内容である。悪い人が、悪霊の力を借りて人に害を加えることはないと言われ、神様がそのようなことは許さないと言われている。けれど、他人に魔法をかける人がおり、その力を信じる人もいるが、そのことについては、中には強力な磁力の所有者がいて、この磁力を悪用している者は、悪霊達の援助を受けているかも知れないと言われている。けれど、見せかけの魔力を信用してはいけないと、自然の法に無知で迷信を信じる人達のみの想像の中に存在するのだと言われている。また、霊の意志に影響を与える儀式や作用があるということについては、そのような儀式一切はまやかしにすぎないと断じておられる。そして呪いの儀式を教えるような霊もいるが、それは霊が人を玩具にして、信心を弄んでいるだけだと思いなさいとのこと。また、魔力を信じるような人は、霊を引き寄せることが可能だと言われ、その引き寄せる霊は、引き寄せる側の意図や気持ちの良し悪しで高い霊になるか低級霊になるかが決まると言われる。更に魔力を信じるような人は、精神面よりも物的なことへの動機で行うことがあるようだ。これは精神の低さ弱さを露呈しているとのこと。故に未熟霊やまやかしの霊に道を開くことになると言われている。
魔法使いとは、性善な人の場合は、千里眼とか催眠術的能力を持っている人のことだと言われている。ブライアン・ワイス博士のような人のことを言うのだろう。また、病人に触れるだけで治病する能力をもった人とは、催眠術的な力をもった人で、純粋な意図や善事を為す熱情にかられれば、そのような事もできると言われている。だが、警戒も要すると言われ、利欲を目的として誇張し宣伝している場合もあるから、簡単に口車に乗せられてはいけないと警告している。
1042回目の瞑想
ーーー邪霊の影響を骨抜きにする方法は何ですか。
「正しいことを為すこと、全き信を神に置くこと。これによって邪霊の影響ははねつけられ、その力が諸君に及ぶことはない。悪い思想をそそのかすもの、不調和な気持ちを起こさせるもの、邪悪な感情を刺戟するもの、かような霊のささやきに一切耳を傾けぬ注意が肝心。特に諸君に媚びへつらう者を信用してはいけない。と申すのは、このへつらいによって、彼等は諸君の弱点を突いてくるのである。イエスが主の祈りで、諸君等に言わせている理由はこれである<私共が誘惑に負けぬよう、私共を誘惑から救い出し給え>と」
ーーー私共を悪に誘い、私共の心を試そうとする霊達は、そういう使命を受けているのですか。またもしそうならば、彼等にはその責任があるということですか。
「悪へ誘う使命を受けている霊などは存在しない。彼等がそうするのは自分の意志でそうするのであり、従って、その悪業の結果は自分に返ってくる。神は彼等の悪の業を許し給う。しかし神がそれを命じられたわけではない。これをはねつけるのは諸君である」
ーーー私共はこれという原因もなしに、理由のない不安感、動揺、または内心の満足感を感じることがあります。あれは身体の状態からそうなるのですか。
「その多くは、諸君の周りにいる霊魂との、無意識の交流によって起こるのである。また、睡眠中にその交流がなされることもある」
ーーー霊が私共を悪へ誘うのは、私共のもっている状況をうまく利用してそうするのですか。それとも、霊が自分で都合のよい状況を作り出してそうするのですか。
「それは都合のよいチャンスを見付けてそうするのだが、彼等自身で作り出すこともよくある。つまり本人が気付かなくても、本人の欲望に沿ってささやきかける方法で、例えば、路傍で一束の紙幣を拾うとする、この金は霊がそこへ置いたと思ってはいけない。しかし、霊はそこを享ように本人にささやきかけるかも知れないのだ。本人がこの金を見付ける、すると霊はこれを着服するように本人にささやく。他方、落とし主に返せという声も聞こえる。試練はすべてこのように行われる」
今回も我々の思想や行為に霊が及ぼす影響についてである。
邪霊の影響をはねつけるのは、正しい行いをすることと、神様に全幅の信心をすることだと言われている。全くその通りだと思う。肝心なのは、邪霊のささやきに一切耳を貸さないことなのだ。次のお答えの「悪へ誘う使命を受けている霊などは存在しない」とのお言葉は、いささか疑問に思った。というのは、前回「人の信と善への節操を試みる手段として、未熟霊が使われる」と言われていたからだ。ということは、神様が使われており、使命を与えていると当然思っていた。だが、それは悪業自体はその霊自らが為すことではあるが、その悪業を神様は許しておられるという意味で未熟霊を使われているということになるだと考え直した。要は私達人間が、その誘惑をはねつけられるかどうかを試されているのだ。また、いろいろな負の感情を感じることがもちろんあるが、それは周りにいる霊達の影響によって起こるようだ。そして最後の例は大変にわかりやすい。お金を着服するかしないか、その分かれ目が最も肝心なことで、そうやって一つ一つ誘惑に打ち勝って行くことが、修行なのだろう
。
1043回目の瞑想
ーーー霊は生者の肉体を一時的にまとうことが出来ますか。つまり、生者の肉体に入って、本人の霊に代わって活動出来ますか。
「霊は諸君が家の中に入るように、肉体に入るわけではない。霊は自分と同様な長所短所をもつ本人の霊に自分を同調させ、両者が連合して活動できるようにするわけである。しかし、肉体を使って思うように行動するのは本人の霊の方であって、肉体所有者の本人の霊にとって代わるような霊は一つもない。霊と肉体とは、摂理により寿命が終わるその時まで、しっかり結合されているのである」
ーーー一般概念でいう「憑依」ーー 一つの肉体に二つの霊が住みつくとことーーはないとしても、次のようなことはあり得ますか。即ち、他の霊が取り憑いたために本人の霊の意志が麻痺して、その支配を受けるということです。
「それはある。諸君が憑依と呼ぶのはこの場合である。しかしながら、この支配は本人の弱さ(注)または自由意志が原因で起こるものであって、これ以外では決して、起こらぬことを知って貰いたい。人々はよくこの憑依と、てんかんや狂気を取り違える。後者の場合は除霊よりも医師の助力が必要である」
(注) 本人の意志が強く反抗しても、憑依霊の支配下に入れられてしまう「弱さ」とは、本人の悪行に対する懲罰と償いの結果である(その悪行とは、現在の地上生活の場合も、前生の場合も、どちらの場合もある)
[注解] 「憑依」という語は、常識では、悪魔が存在するということ、また、一つの肉体に本人と悪魔の二つの魂が共存するということ、このことを予想させる。しかし、悪魔という言葉に該当するものは存在しないし、二つの霊が一つの身体に共に住みつくということもあり得ない。だから「憑依」ということばで常識的に言われるような事は存在しないのである。「憑依される」というのは、本人の霊が、未発達の霊に従属させられて、言いなりになっている状態をさしていう言葉である。
(明日に続く)
今回は憑依という内容であるが、やはりとても興味深い。そして間違った観念で捉えていたと知ることもできた。というのは、霊が憑依すると言っても、肉体に入るわけではなかったのだ。憑依する人間に同調させて、活動するように仕向けるようだ。けれど、肉体を使って思うように行動できるのは本人の霊だけで、それに代われるような霊は一つも存在しないと言われている。また霊と肉体は神様の摂理のよって、寿命を全うするまでし
っかりと結合されているとのことだ。ただ憑依では、他の霊が本人の霊の意志を麻痺させて、支配することもあると言われている。けれど、この支配は本人の弱さや自由意志が原因で起こるものらしい。それ以外では決して起こらないと断言されている。更に憑依とてんかんや狂気を取り違える場合があるが、除霊よりも医師の助力が必要だと言われている。そこを見極めるのは難しいように思う。(注)では、本人の意志が強くても、憑依霊の支配下におかれてしまうのは、本人の悪行に対する懲罰や償いであるとのことだ。また、注解での憑依については、本人の霊が未発達の霊に従属させられて、言いなりになっている状態をさしていう言葉であると言われている。
1044回目の瞑想
ーーー人は自力で憑依している邪霊を追い払い、その支配から自由になることが出来ますか。
「固くそのつもりになるなら、軛くびきを振り切ることは可能である」
ーーー邪霊は取り憑き方がうまいので、本人は取り憑かれていることに気付かないのではありませんか。こんな場合、第三者がその縁を切ってやることが出来ますか。この時の縁を切る方法とは何ですか。
「高潔な人間の意志力が、善霊の協力を引き寄せ、この救いの仕事に有効である。人が高潔であればある程、邪霊を追い払い、善霊を引き寄せる力は強い。しかしながら、この場合も、憑依されている本人の方で
努力しなければ、どんなに力のある人でも力は働かない。何となれば、低級な欲求に仕え、他方に依存していてはどうしようもないからである。試に不純なものがある人は、どんな場合も、少しも救いの力を働かせることは出来ない。何となれば、善霊はこれを軽んじ、悪霊はこれを少しも恐れないからである」
ーーーお祓いの文句は邪霊祓いに効果がありますか。
「少しもない。一生懸命お祓いをやってる者を見て、邪霊どもはこれをあざ笑いながら、憑依を続ける」
ーーー善意の人が憑依されることがありますか。憑依霊から逃れる一番いい方法とは何でしょうか。
「辛抱しきれなくさせること。ささやきに耳をかさぬこと。無駄だということを思い知らすこと。何も出来ないことが分かれば、彼等は退散する」
ーーー祈りは、憑依を解くのに有効ですか。
「祈りは助力を得るに有効な方法である。しかし祈りの言葉などは何の効果もない。神は自らを助ける者を助ける。そして力の出し惜しみをする者を助けない。それ故、憑依された者は、邪霊を引き寄せている欠点を取り除こうと、最大の努力をすることが必要である」
ーーー聖書に、悪魔を追い払ったとありますが、あれはどう考えたらよろしいですか。
「悪魔という言葉のとりようで、いろいろになる。この言葉を、人間を支配している邪霊という意味でとるなら、その邪霊の影響をなくした時、明らかに悪魔は除去されたことになる。もし病気の原因を悪魔とみるなら、病気が癒やされた時、悪魔は祓われたことになる。言葉に含まれる意味によって、既述は真実にもなり偽りにもなる。表面に現れていることだけで、ものを見たり、例え話を事実と受け取ったりすると、一番大事な真理が荒唐無稽となる。この原理を心にとめておきなさい。これは普遍的な何にでも適用できる原理である」
今回も憑依についての続きである。人は自力で憑依している邪霊を追い払うことができるのは、固くそのつもりになるならば、その支配から自由になることが出来ると言われている。また邪霊との縁を切ってくれる高潔である人間の意志力が善霊の協力を引き寄せ、この救いの仕事に有効であると言われる。但し、
憑依されている本人の方で
努力しなければ、どんなに力のある人でも力は働かないと言われ、自分では努力せずに他方に依存だけしていてはどうしようもないと言われている。更に不純なものがある人は、どんな場合も少しも救いの力を働かせることは出来ないと。それは悪霊は少しも恐れないからだと言われているのだ。このことから、先ずは憑依されているのは、本人自身の問題であるということを当事者が理解していなければ話しにならない。そして他方に依存することではなく、努力して自らを戒めなければいけなということなのだ。次に霊能者と言えど、その霊恪が高くなければ、邪霊を追い払うことなどは出来ないのだ。善霊の協力を引き寄せられる霊能者でなければ、功は奏さないのだ。自分の努力と霊恪の高い霊能者という二つの条件が揃った時にこそ、邪霊を退散させることが出来るのだということを肝に銘じなければいけない。
また、お祓いの文句は邪霊祓いには全く効果ないと言われている。むしろ、それを見て邪霊は嘲笑っているとまで言われているのだ。憑依霊から逃れるためには、辛抱しきれなくさせるために、ささやきに耳をかさない、無駄だということを思い知らせるなど、何も出来ないということを分からせれば、邪霊は退散すると言われている。
祈りに関しては、憑依を解くのに有効な方法のようだ。だが、
祈りの言葉には何の効果もないと言われている。神様は自らを助ける者を助けると言われ、力の出し惜しみをする者、憑依された者が邪霊を引き寄せている欠点を取り除こうと最大の努力をしない者は助けないと言われる。神様は見ておられるのだ。人任せにして、自分の努力をしない者はそのまま放っておかれるのだろう。私達人間は何においても最大限の努力をすることが必要なのだと教えて下さっているのだ。それが最後のお言葉の内容にも通じるのだと思う
。
1045回目の瞑想
ーーー「けいれん」と言われる現象がありますが、あれにも霊が関係していますか。
「大いに関係がある。いわゆる磁気も作動因だが、霊も重要な因をなしている」
ーーーこの種の現象に関係している霊は、どの程度の霊ですか。
「ややましな霊である。高級霊がこんなことに時間を浪費すると思いますかな」
ーーー一団の人々が突如けいれんというか、異常な興奮状態に投げ込まれますが、あれはどういうことですか。
「あれは共感による。精神性向は時に極めて伝染性を示す。諸君には人間磁気の影響が判らぬこともないと思うが、この場合、霊魂も人々と交感しつつ、現象生起に一役買っているのである」
[注解]
「けいれん」には不思議な特性が色々あるが、夢遊病や催眠術が示めす例と一致するものが数々ある。無痛覚、読心、思想伝達、異常興奮等々。それ故、この原因は、無意識の相互作用で生起する、いわば覚醒時の夢遊病、これであろう。彼等は自分では無意識ながら、催眠術者であり、同時に被催眠者である。
ーーーけいれんの場合、時には無痛覚、他の者の場合は極度の苦痛が起こりますが、この原因は何ですか。
「ある者は、単に神経に人間磁気が作用して生起するのである。他の場合は、精神が興奮した結果、肉体感覚が失われるのである。つまり、霊に生命が集中され身体から後退する、そのようなことである。諸君も経験があるのではないか、霊が何かに没頭すると、身体は何も感覚せず、見ず、聞かずということを」
今回はけいれんについてである。痙攣というのも、霊が大いに関係していると言われている。その関係している霊はややましな霊であると。もちろん、高級霊が関係しているとは到底思えない。ある一団が突如けいれんやまたは、異常な興奮状態になるのは、共感によるのだと言われており、精神性向は時に極めて伝染性を示すと言われている。注解では痙攣には不思議な特性が色々あり、夢遊病や催眠術が示めす例と一致するものが数々あると説明されている。無痛覚、読心、思想伝達、異常興奮等々。いわば覚醒時の夢遊病だと言われている。
私自身、痙攣を経験したことがないので、よくわからないが、精神が興奮した結果、肉体感覚が失われるようだ。霊に生命が集中されると、身体から後退するようだ。そして、霊が何かに没頭すると、身体は何も感覚せず、見ず、聞かずということ、と言われているが、私達人間が没頭している状態というのは霊がさせているということなのだろうか。私自身も何かに集中すると目の前にあるものさえ、気がつかないことがある。また名前を呼ばれていても耳に入らないこともある。一番最たるものは、もう13年も前になるが、耳にヘルペスが出来て以来、耳鳴りはずっと鳴っている。だが、何かに集中している時には、その耳鳴りさえも聞こえなくなるのだ。そのこと自体に私自身が驚いた。当時あれだけの(蝉何万匹もが鳴いているような)音が頭の中で鳴り響いていてノイローゼになりそうだったのに。だが、次第に耳だけとなり、耳鳴りの機械音みたいな音が波打つように今も一日中聞こえている。でも、不思議なもので、慣れてしまうのだ。しかも前述したように、何かに集中している時には全く聞こえなくなるのだ。それは霊がさせてくれているということなのか。今はわからないが、向こうの世界へ行った時に、きっとわかるのだろう。そしてその時にこそ、この耳鳴りとはおさらばになるのだと思う。
ところで、早いもので明日は新しい年となります。
霊の書を楽しみにして下さっている方には、大変申し訳ありませんが、
お正月の三が日はお休みさせて頂くことにしました。
また4日から始めたいと思いますので、よろしくお願いします。
今年一年備忘録を読んで下さってありがとうございました。
それでは良いお年をお迎え下さいませ。
1046回目の瞑想
ーーー霊は人を選り好みしますか。
「善霊は、善良な人、自己を改善する人、すべてと交感する。低級霊は悪人、悪になじむ者と交感する。どちらの場合も、その接触は気持ちが同じであることによる」
ーーーある人に対するある霊の情愛というものは、もっぱら心情だけのものですか。
「本当の情愛には、肉感的なものは少しもない。しかし、霊が生者に接触する時は、必ずしも情愛だけではない。というのは、人間的な情の追憶があるかも知れないからである」
ーーー霊は私共の不幸や成功に関心を持ちますか。私共の幸福を願っている彼等は、私共が病気になると悲しみますか。
「善霊は、自分に出来る良いことを諸君等にしてやりたいと思っているし、諸君等が自分の不幸に耐えきれず投げ出せば、そのことを悲しむ。何となれば、この場合は、その不幸から何の成果も得られないから、つまり病気を治す良薬をはねつける病人のようなものだから」
ーーー霊友達を最も悲しませる病気とは何ですか。身体の病気、それとも道徳的な欠陥ですか。
「彼等が最も悲しむのは、諸君等の利己心と無慈悲な心。これが一切の諸君等の苦悩の原因となるからである」
ーーー故人となっている身内や友人達は、全く他人の霊達よりも私共に共感をもっているのでしょうか。
「それは間違いなくそうである。彼等は自分の力相応に、諸君等を霊として護っている」
ーーー彼等は私共が抱いている彼等への情愛を感じていますか。
「全くその通り。しかしながら、彼等を忘れる者達は彼等も忘れる」
今回は霊が人に及ぼす影響についての内容である。霊は人を選り好みするのではなく、その心に同調するということなのだ。要するに類友の法則以外にはないということになる。また本当の情愛には肉感的なものは少しもないと言われている。ただ、人間的な情の追憶がある場合には、必ずしも情愛だけではないと言われる。私達人間が自分の不幸に耐えきれず投げ出せば、そのことを善霊は悲しむと言われ、それは病気を治す良薬をはねつける病人のようなものだと言われている。そして、最も霊が悲しむべきことは、私達人間の利己心と無慈悲な心だと言われ、それはすべて苦悩の原因となると言われているのだ。また、先に亡くなった身内や友人達は、私達に共感をもち、自分達の力相応に、護ってくれているとのこと。そして、亡くなった方達を私達が忘れない限り、忘れないでいてくれるのだ。有難い思いであり、嬉しい
。
1047回目の瞑想
ーーー守護や救助の目的で、特定の個人に接触する霊魂がいるのですか。
「いる。霊的兄弟である。即ち諸君の言う守護霊である」
ーーー「守護天使」という言葉に当たるものは何でしょうか。
「高次元の守護霊である」
ーーー守護霊の使命は何ですか。
「子供に対する父の使命ーー守護される者を正道に導き、助言を与えて助けてやり、苦しむその者を慰め、地上の試練に耐える勇気を奮い起こさせる役目である」
ーーー守護霊は誕生の時から本人についているのですか。
「その誕生の時から、死の時までである。尚しばしば死後も、霊界に入っても本人に付き添うこともあり、その後の数次の地上再生にも付き添うことさえある。と申しても、この数回の再生にしても、本人の霊的生命からすればほんのささやかな部分にすぎないのだから」
ーーー守護霊の使命は、自発的なものですか。義務ですか。
「貴方の守護霊は、貴方を護るよう義務づけられている。というのは、守護霊本人がこの仕事を受け入れたのだから。しかし、霊が誰を守護するかは、自己に共感をもつ人々の中から選ぶことを許されている。ある場合には、この仕事は喜びであり、またある場合には、それは使命ないし義務である」
ーーー一人に付き添うことになると、その霊は他の者達への保護は差し控えるよう、義務づけられるのですか。
「いや、しかしながら、本人はひたすらそのように手控えをする」
ーーー守護霊は、その守護する人間に絶えず付き添っているのですか。
「霊は種々の使命遂行のため、その席を空けることがよくある。だがこの場合は、見張り役を交替して貰うことになる」(明日に続く)
今回は守護霊・守護天使についての内容である。守護霊とは霊的兄弟だと言われ、守護天使は高次元の守護霊だと言われている。そしてその守護霊の使命は、守護する人を正道に導き、助言を与え、苦しみを慰め、地上の試練に耐えうる勇気を奮い起こさせるのが役目なのだそうだ。しかも、守護霊は守護する人の誕生から死の時まで付き添ってくれるらしい。更には霊界入りした後も付き添うこともあり、次の地上再生にまで付き添うこともあるようだ。だが、数回の再生は本人の霊的生命からすれば、ほんのささやかな部分にすぎないと言われている。
守護霊の使命は、義務づけられていると言われているが、そこには守護霊自身がこの仕事を受け入れたからだと言われている。そして誰を守護するかは、守護霊に共感をもつ人達の中から選ぶことも許されているとのこと。この仕事は喜びであるようだが、使命でもあり義務でもあるとのこと。また、守護霊は始終その人間に付き添っているのではなく、守護霊の使命遂行のために、その席を空けることがよくあるようだ。そのような時は付き添いを交替してもらうとのこと。
そうやって、私達を護って下さっているのだ。それがもっとわかるようになれば、どれだけ私達人間も心強いかわからない。道を間違えることもなければ、助言をもらい、苦しい時には慰めてもらう。このようなことがはっきりと判れば、地上の試練も耐えることができるのだと思うが、なかなかそうは行かないのが現実だ。それは結局のところ、私達人間側の問題が大きいからだ。それは霊的問題を知らない人が多すぎる。また知っていても、守護霊からの導きを感じることができる人も多くはいない。霊的なことを知ることがスタート地点であり、更に感じられるようになるための努力が必要なのだ。そのことを切に願うのみだ。
1048回目の瞑想
ーーー守護される当人が指導にどうしても従わぬ時は、守護霊がその守護を放棄するということがよくありますか。
「助言の効果がないと見てとった時、また低級霊の言うなりになってどうしようもない時、守護霊は手を引く。しかし、本人を全く見捨てるわけでなく、言うことを聞くよう努力を続ける。本人を捨てるのは守護霊ではなく、守護霊の言葉に耳を閉ざす人間の方である。人間の方で守護霊に心を向ければ、守護霊は直ぐ戻って来る。
最大の不信の徒の心を捉えて放さぬ教理がもしあるとすれば、この守護霊の存在、即ち守護天使の存在の教理であろう。貴方の傍にはいつも、貴方より優れた者がいる、その人は貴方に常に寄り添い助言を与え、進歩の坂道を登るのを支え助けてくれている。この世のどんなつながりよりも深い縁で結ばれ、その情愛は真実、貴方のために尽くしてくれる、その人が貴方の傍に居る。こう考える時ーーこれ以上の心の慰めがありますかな?このような存在が、神の命によって貴方の傍に居る、この者を貴方の傍に置かれたのは神である。彼等は神の愛によってそこに在る、彼等は高貴にして労多い使命を諸君等のために果たしてくれている。諸君等が行く処に彼等はあり、地下の牢獄、人里離れた処、らい病患者の家、どんな堕落漢の巣窟にも彼等は居る。何者も諸君等を、その見えぬ友から引き離すことをしない。その優しい刺戟はそこにあり、心の奥深くで賢者の誡告は耳に聞こえる。
この真理を、諸君等が心に更に深く刻まれんことを。必要の折には、この真理が幾度でも、諸君等を助けるであろう。悪霊どもの落とし穴より、諸君等を救い出すであろう。しかしながら、最後の審判の日に、守護の天使は繰返し諸君等に言わねばならぬ。私はきつくお前に勧めただろう、しかしお前は耳をかそうとしなかった。私は地獄を見せなかったか、しかるにお前はどうでも其処に身を投げ入れようとした。私は真理の声を耳に聞かせようとしなかったか?それでもお前は目の前の助言に従いはしなかった、と。
諸君の守護天使の言葉に耳を傾けよ、自分と天使等の間に信頼と愛の友ならではの、情愛の絆を築きなされ。何ものも天使の目から隠すな、彼等は神の目である。諸君は何一つ彼等を裁くことは出来ない。未来に目を向けよ、進歩向上の道を進みなされ。このとき試練の日は短くなり、幸いは更に増す。
人よ勇気をもて。すべての偏見と心の枠を取り払え。断固として、眼前に開かれている新しい道に踏み入れ。諸君等は守護霊をもつ、それに従いなされ。諸君等の終着点に狂いはない。そのゴールは神ご自身であるから。
高級霊が煩瑣はんさ極まりない辛抱のいる仕事に縛り付けられているなんて不可能なことだ。こう考えている人々に、次のように申したい。吾々は何千万㌔離れていても、諸君等の魂に交感できると。空間など吾々にとっては何ものでもない。他界に在っても、吾々霊視は諸君等とつながりを保っている。吾等は諸君の想像の及ばない特質をもつ。神は吾等に力を越える責務を与え給わず。また神は地に在る諸君等を、友もなく支持者もなしに捨て置き給わなかったと、かように確信されよ。一人の守護の天使が一人の守護される者をもつ。父が子供を見守るようにその者を守護する。その子が正道を歩めば、これを喜び、その助言に耳を傾けぬ時は、これを嘆く。
諸君等の質問で吾等を患わすことを恐れるな。逆に、常に吾等と接触を保っておられよ。これにより諸君等はいよいよ強靱に、いよいよ幸福になろう。この、人と守護霊とを結ぶ交感によって、人はついに霊との媒介者となり、世界から不信を追放する者となる。教えを受け取った諸君等は、今度は教える者となれ、才能ある者は、同胞らを進歩させる者となれ。これにより人はどんなに大きな仕事をする者となるか、お分かりかな。これぞキリストの仕事、神によって諸君等に課されている仕事。何故に、神は諸君に知慧と知識を与え給うたか、もし諸君等がこれを同胞等と共に分かち合わないとしたら。これぞ、永遠の至福へと導く大道を人々が進むことを助けんがために」(明日に続く)
今回も守護・守護天使の続きである。守護霊が護って下さっているのに、そのことに気がつかないのは人間の方だと言われている。本人を捨てるのは守護霊ではなく、守護霊の言葉に耳を閉ざす人間の方だと。だが、私はそれは無理もないことなのではないかと思う。霊的なことを信じていない人が殆どなのだから、守護霊という言葉にも怪しく思っている人が多いのではないかと思うのだ。先ずは、霊的なことを知ることが必須だと思うが、これがまたなかなか難しい。やはり守護霊や守護天使の存在が教理だと言われている。そして貴方の傍にはいつも貴方より優れた者がいる、その人は貴方に常に寄り添い助言を与え、進歩の坂道を登るのを支え助けてくれている。この世のどんなつながりよりも深い縁で結ばれ、その情愛は真実、貴方のために尽くしてくれる、その人が貴方の傍に居る、と。確かにこのことがはっきりと分かることが出来れば、大いになる慰めになる。更にそのような守護霊を傍において下さったのは神様だと言われている。この真理を私達人間が深く心に刻む必要があると言われる。確かにその通りだと思う。この真理を心の支えにどんな苛酷な試練をも乗り越えて行くことができるのだと思う。けれど、この真理を知る人がどれほどいるだろうか。また理解することが出来るだろうか。悪霊からも救って下さり、護って下さっているのに、最後の審判では、私達人間が聞く耳を持っていなかったと言われてしまうのだ。もちろん、守護霊様に護って頂いていることを知っている人は、出来るだけその教えに従うつもりではいると思う。しかし、なかなか守護霊様のお言葉を聞くことが出来ない。従いたくても従っているかどうかさえ分からない、と言ったことが現実なのではないだろうか。せめて守護霊様のお言葉に従いたいと思っている人には、はっきりとそのお言葉が分かるようになってくれればと思う。その上で自分が得た知識を、更に周りの人達に広めて行くことができれば、霊的な事実はもっともっと広がりを持つのではないだろうかと思うのだ。
1049回目の瞑想
ーーーもし霊がその守護すべき者を見捨てて、もはや導かなければ、いやしくも守護霊がこの者に害を与えようとするのですか。
「善霊は何人も損なうことをしない。彼等はとって代わる霊どものするがままに委せるのである。その時、人は損なった自分の不幸の運命を責め立てる。実際には、そうなったのは自分の悪行の結果であるのに」
ーーー守護霊が、守護している者に害を及ぼす霊のなすがままに、委せておくなどということがあるのですか。
「邪霊達は、善霊の行為を骨抜きにしようとして集まる。しかし、人間の方の気持ちが守護霊にピタリと向かえば問題ないわけである。そこで守護霊の方は、その間、他の善霊の助けてやれそうな人間に目をつける。つまり、本人の気持ちが守護霊に戻って来る間、守護霊は別の善を為す機会を利用しているというわけである」
ーーー守護霊がその守護すべき者を、迷いの道に放り出したままにしておくのは、彼が本人を迷わせる悪霊をうまく処理できないからですか。
「それは処理できないからではない。彼がそうすることを望んでいないのである。と言うのは、降りかかる試練を通じて、本人が一層賢くまた良くなることを知っているからである。守護霊の方は本人の心に向かって、賢明な助言を与えている。しかし不幸なことに一向に本人の注意を引かないのである。悪霊に力を与えるものは、人間の弱さ、不注意、高慢さである。即ち、悪霊が人間を圧服する力は、人間が悪霊に対して十分に抵抗しないこと、そこから出て来るのである」
ーーー守護霊はいつも本人と共に居るのですか。本人を放り出している時以外は、本人を目から離すことはないのですか。
「本人には、守護霊が必ずしも傍に居なくてもよい時がある」
ーーー霊にとって、守護天使の存在がもはや必要でない時が来ますか。
「来る。自分ひとりで歩いて行けるほどに進歩した時、つまり、生徒が先生を必要としない時が来るように。しかし諸君等の地上生活中には来ない」
ーーー私共に働きかける霊の行為は不可解に思える面がありますが、何故ですか。守ってくれるのなら、何故いつも守り続けてくれないのですか。
「もし諸君が彼等の支持をあてにすれば、自分で動こうとはしないだろう。それでは諸君の霊性の進歩はない。進歩のために人は各々の経験を必要とする。しばしば己が犠牲においてである。人間は自力を発揮することが大切。そうでなければ、一人歩きを許されていない子供に等しい。諸君の幸福を願う霊達の行為は、自由意志によって諸君を歩かせる、これが定まったコースである。もし自己責任がなければ、人は神に至る道を前進することはない。人は、その守護する者の姿を目にすることなく、自力を発揮する。しかし守護霊の方は、当人の姿を見守っており、時を分かたず呼びかけている、危険に気を付けよと」(明日に続く)
今回も守護霊・守護天使の続きである。要は、やはり私達人間側の問題であることが分かる。ご守護霊様と同調していれば、全く問題などおきないということだ。けれど、例え悪霊の為すがままになったとしても、その人の試練であり、それを乗り越えることによって、進歩できる可能性はあるということらしい。ご守護霊様は始終傍に居るわけではないようだが、肝心要の時には力になってくれるのだ。守護霊や守護天使の存在が必要なくなる時が来るとは言われているが、この地上生活中には来ないとのお言葉に苦笑いしてしまった。そして、ご守護霊様の姿が見えないことやお言葉が聞けないことに関しては、結局、私達人間は自分達の自由意志での行動に自己責任が課されることで、霊性の進歩が為されて行くからなのだろう。けれど、ご守護霊様が見守って下さっていることに、思いを馳せることで、間違った道には行きにくくなるのだろうと思う。それを確信させて頂けた
。
1050回目の瞑想
ーーー守護霊は、守護すべき者の指導がうまくいけば、それによって自ら得るものがあるのですか。
「それはやり甲斐のある仕事である。守護霊本人の進歩と幸福に役立つ。彼は自分の労苦が、成功と勝利の栄冠で報いられているさまを見て歓喜する。丁度、生徒指導で成功を収めた教師のように」
ーーー成功しなければ、責任をとるのですか。
「いや、左様なことはない。全力を奮ってそれをしている限り」
ーーー自分の守護している者が、間違った道を進んでいるのを見て、守護霊は胸を痛めますか。その悲しみは、その喜びの邪魔になりませんか。
「その誤った道を進むさまを見て悲しむし、その者を憐れに思う。しかし、この苦しみは地上的な性質の苦悩とは違う。彼は知っている、悪にはその正される日があることを。今日出来なかった事は、明日は為されることを」
ーーー私共は守護天使の名前を知ることが出来ますか。
「名前など無に等しいもの、その名をどうやって知るのかね?自分の知らない霊魂は、存在しないとでも思うのかね?」
ーーーそれでも、何処の誰だか知らなければ、どうやって私共は守護霊に呼びかければいいのですか。
「お好きな名を付けなされーー読者が共感し崇敬している、どなたか優れた霊魂の名を付けなされ。諸君の守護霊はその名を呼べば答えてくれる。善霊はすべて兄弟であり、相互にみんなが助け合っているから」
ーーー有名人の名を持つ守護霊達は、皆その名に値する人達なのですか。
「そうではない。しかし、その名の人達と心の通じ合っている霊達であり、しかも多くの場合、その人達の求めに応じてやって来る。諸君等は名前を求める、それ故に、彼等は断じて諸君等の心をそそる名前をつける。諸君等も自分で命令を実行出来ない時は、諸君の名で仕事してくれる、代役を送りますな」
ーーー霊界に入れば、自分の守護霊を認めることが出来ますか。
「できる。それは多くの場合は、地上誕生以前に知っていた霊魂であるから」
ーーー守護霊はすべて、高級な霊達ですか。平均的な進歩段階の霊も割合いにいるものですか。例えば、父親がその子供の守護霊になることが出来ますか。
「父親が守ることがあるかも知れない。しかし守護ということになると、ある程度の進歩段階が必要条件となる。更に、神により認められる力と徳がなければならぬ。自分の子供を守る父親の場合は、更に高位の霊の助力を必要とするだろう」(明日に続く)
今回も守護霊・守護天使の続きである。守護霊という役目は、やり甲斐のある仕事であり、守護霊本人の進歩と幸福に役立つと言われている。それは丁度、生徒指導で成功を収めた教師のようだと。また、守護している人が間違った道を進んでいても、悲しみ憐みに思うことはあっても、悪にはその正される日が来ること知っているから、地上的な性質の苦悩とは違うと言われている。更にご守護霊様や守護天使様のお名前は好きな名をつければいいと言われている。名前などは無に等しいとまで言われているのだ。ご守護霊様を私達が霊界に入れば、誕生前から知っていた霊魂だから、分かると言われている。それはとても楽しみに思う。また、守護霊になるには、神様に認められる力と徳が必須であり、ある程度の進歩段階が必要条件となるようである。
1051回目の瞑想
ーーー恵まれた状況下で他界した霊は皆、生き残っている人の中、愛する者の守護者となるのですか。
「必ずしも自由自在には活動できない現在の状況からして、彼等の力量は大なり小なり制約されている」
ーーー未開人<凶暴・残忍な人>や道義心の低い人達にも、守護霊はついているのですか。そうだとすれば、進歩した人々の守護霊と同じくらいに高いレベルの守護霊なのですか。
「誰しも守護してくれる霊をもっている。しかし、その役どころは夫々の目的に釣り合っている。人は読み書きを始めたばかりの子供に、哲学博士をつけたりはしない。守護する霊の進歩度合いは、守護される霊の進歩度合いに釣り合っている。貴方を守る霊が高い霊だとしても、貴方は貴方より低い霊の守護者となる。守護する者の進歩は、貴方自身の進歩に返ってくる。神はどんな霊に対しても、その本質、その進歩の程度以上のものを要求されない」
ーーー自分の子供を守っている父親が再生すれば、続けてその子供を守るのですか。
「この場合、その仕事は難しくなる。しかし、再生の前に、彼は心の通じ合っている霊に、この仕事の遂行を助けてくれるように頼む。但し、最後までやれない役割を霊達は引き受けない。
霊は肉体をとった場合、特に鈍重な物質世界に再生する霊は、身体が足手まといとなって、十分に他者に奉仕が出来ない。必要な援助を一人では与えられない。そのため進歩不十分で守護の務めを果たせない者は、複数の高級霊に助けて貰う。一人の霊でうまく行かぬ時は、いつでも他の霊に交替して助けて貰えるように」
ーーー守護霊の外に、一人の人に一つの悪霊が付き添っているものですか。本人に悪をそそのかしたり、これによって本人に善と悪の闘いの機会を与えるためにです。
「<付き添う>という言葉が適切ではない。実際のところ、悪霊達は機会がありさえすれば、諸君を正道から外らせようと努力している。しかし悪霊が人に憑くのは、自分の言う事を聞かせたいために、自由意志で憑くのである。この場合、善霊と悪霊との間に闘いが起こる。いずれが勝つかは、人間の方で、どちらに従うかの自由意志によって決まる」
ーーー私達には、守ってくれる霊が何人かいるのでしょうか。
「誰しもその周囲に、いろいろな進歩度合いの、愛情によって結ばれた霊がいる。またこれと同じく、悪をそそのかす邪霊達がいることも同様である」
ーーー一人の人に共感している霊達は、使命のゆえに働きかけるのですか。
「場合によっては、一時的な使命を帯びていることがある。しかし一般的には、単にその本人と善悪いずれにしろ、気持ちの上で同じものがあるから、引き寄せられているにすぎない」
ーーーそれでは、その共感する霊とは、善霊か悪霊のどちらかということですね。
「その通り、人間は常に、本人に共感する霊達によって取り囲まれている。どんな人物、性格の人でも皆こうである」
(明日に続く)
今回も守護霊・守護天使の続きである。先に逝った親しい人達が生きている私達を守護するにはやはり制約があるとのことだ。また、どんな人にも守護霊はついていると言われているが、その守護される人の進歩程度に釣り合った霊がつかれるようだ。例としてあげられているのでわかりやすい。また守護する相手は自分よりも低い霊に限るようだ。そして、その守護する人の進歩は自分自身の進歩に返ってくるとも言われている。神様はどんな霊に対しても、その進歩程度以上のものを要求されないとのことだ。また先に逝った親が子供を守っている場合、その親が再生する場合ももちろんある。その際は、他の心通じている霊にその役割をお願いするのだと言われている。だが、お願いされる方は、最後までやれない役割は引き受けないとのこと。鈍重な物質世界に再生する霊は、身体が足手まといとなって、十分に他者に奉仕が出来ないらしい。そのため進歩不十分で守護の務めを果たせない霊は、複数の高級霊に助けて貰うようだ。やはりうまく出来ているのだと得心する。
私達人間には守ってくれる霊もたくさん周囲にはいるが、またこれと同じ位に悪い霊も周りに沢山いるのだ。悪霊が人に憑くのは、自分の言う事を聞かせたいために、自由意志で憑くと言われ、善霊と悪霊との間に闘いが起こるとのこと。そのいずれが勝つかは、人間がどちらに従うかの自由意志によって決まるのだと言われている。要はやはり人間側の問題ということに尽きるのだ。人間は常に、本人に共感する霊達によって取り囲まれており、その本人の善悪、どちらに共感するかで、引き寄せられているにすぎないと言われる。自分が引き寄せているとも言えるのだと思う。悪霊を引き寄せないためにも、自分の心の見極めが最も大事なことなのだと思う
。
1052回目の瞑想
ーーー<親しい霊達>とは、<共通する霊達>や<守ってくれる霊達>と同じものですか。
「守ってくれる霊といい、共感する霊といい、その数は大変に多い。これらにどんな名を付けようとお好きなように。しかし<親しい霊>ということになると、家族の知人達とでもいうところである」
[注解] 人に接触をもつ霊について、上記の説明と霊の本質から観察する時、下記ように推論できる。
守護霊とは、生涯を通じて本人の進歩向上を助けるために、一人に一人ずつ付き添っている霊のことである。その進歩の程度は、守護される者よりも必ず高い。
親しい霊達とは、本人に接触する期間はさまざまだが、力の限界内で(小さな事の方が多いが)何か役に立つためについている。一般に好意をもっているが、時にはそうでないことも、くだらぬ場合もある。彼等は人間生活の日常の些事にかかり合いをもち、守護霊の命令ないし許可の下に働くだけである。
共感する霊達とは、本人と、善悪いずれにしろ波長が通じ合って、引き寄せられている霊達である。その接触期間は状況によってさまざまである。
悪霊とは、本人を邪道に引き込むことを目的としてついている。不完全にして邪悪な霊である。特別の使命があってそうしているわけでなく、個人的動機で働いているのである。そのしつこさは、本人がこの霊と通じ合う度合いで決まってくる。悪邪霊の誘惑にのるか、これをはねつけるかは、本人の自由である。
ーーー害を加えることが目的で、あるいは正道に導くことを目的として、ある人物に接触する人間達を,何と考えたらよろしいですか。
「人々の中には、実際、ある種のいかんともし難い魅力を他者に働かせる者達がいる。この影響が悪いことのために使われる時、その原因は悪霊から出ている。悪霊は、目指す犠牲者を一層うまく屈服させるために、悪人達を利用するのである。神はこのことを諸君等の試練のために許し給うている」
(明日に続く)
今回も守護霊・守護天使の続きである。共通する霊達や守ってくれる霊達のその数は大変に多いと言われる。しかし、親しい霊とは、家族の知人達という括りだそうだ。注解では,今までのまとめ的なことが書いてある。また、人間が人間を悪に誘う時のその原因は悪霊から出ていると言われている。悪霊はその狙った人間を一層うまく屈服させるために悪人を利用するとのこと。しかも神様はこのことを私達人間の試練のために許されていると言うのだ。私達は常に試されているということなのだろう
。
1031回目の瞑想
ーーー夢遊病と夢との間に何らかの連関がありますか。
「夢遊病の方が、夢の場合より、魂の独立性が強く、働きもしっかりしている。また夢遊病では魂が知覚をもつが、夢ではこれがない。夢とは不完全な夢遊病である。
夢遊病の場合は、霊の方は身体の機能から完全に切り離されている。従って、身体の各器官は一種の硬直状態にあって、外界の刺戟しげきに対して何の反応も示さない。
睡眠中にもこのような状態はよく起こるものである。つまり、肉体は物質である以上どうしても休息をとらねばならない、この間霊の方は肉体を留守にすることが可能なのである。夢遊病が起こると、睡眠者の霊は何かしたい意図をもって、肉体の助けをかりて肉体を使う。それは、霊が現実生活で自己表現のために、テーブルや色々な道具を使ったり、手紙を書くには人間の手を利用するのと似たようなことなのである。本人の意識に残る夢の場合は、肉体器官は目覚め始めているのである。つまり、肉体器官は、不完全ながら外界の事物や出来事の印象を単純に受け取ったり、霊の方へ伝えたりしている。従って、その時休止状態にある霊の方も、何のつながりもないとりとめも無い意味のこの印象を単純に受け取っている。だからその意味は多くの場合、本人の現世や他界生活でのおぼろげな記憶まで混じっているので、甚だ混乱したものになってしまう。それ故、夢遊病では何故やったことの記憶が残らないのか、なぜ夢の多くは意味の辻褄が合わないのか、容易に理解できよう。私が述べているのは一般論である。この外夢には、前生の出来事のはっきりした記憶、ある種の未来の直感、こうしたものの混じることが往々にしてあるのである」
(明日に続く)
今回は夢遊病についてである。最初のお答えにはただただびっくりだった。夢遊病とはそういうものなのかと、全く思い違いをしていたことを知る。夢遊病というと、やはり一種の病気だと思っていたからだ。けれど、夢遊病の方が、魂の独立性が強く、働きもしっかりしていると言われ、魂が知覚をもっていると言われている。しかも夢とは不完全な夢遊病であるとまで言われているのだ。本当に意外だった。更に夢遊病は、霊の方は身体の機能から完全に切り離されていると言われている。その時の身体の各器官は一種の硬直状態にあるとのこと。だからこそ、外界に対して何の反応も示さないという状態になるのだろう。
睡眠中に夢遊病の状態がよく起こるとも言われている。肉体が休息をとる時に、霊の方は肉体を留守にすることが可能なのだそうだ。夢遊病が起こると、その霊は何かしらの意図をもち、肉体を使うようだ。それは霊が自己表現するために、テーブルなどの道具を使うことや人間の手を利用することなどと似たようなことだと言われている。この後のお答えはよく意味が分からなかったが、要するにいろいろな要因があり、夢の場合も夢遊病の場合も、記憶が残らなかったり、辻褄が合わなかったりするということなのだろう。これは私達人間の考える範疇を超えている問題なのだと思う
。
1032回目の瞑想
ーーーメスメル的(催眠的)夢遊状態と、自然の夢遊病との間に、何か関連がありますか。
「この両者は同じものである。ただ相違をあげるとすれば、その一方が人為的な夢遊状態だというだけである」
ーーー磁気とかメスメルの液状体(fluid)と言われるものは一体何ですか。
「それは活力液状体、動物電気、即ち宇宙的液状体が形を変えたものである」
ーーー夢遊状態下での霊視現象、これの本質は何ですか。
「前に述べた通り、千里眼である」
ーーー夢遊病者は不透明な物体をどのようにして透視するのですか。
「物体が不透明といっても、それは単に肉体器官に対してそうであるにすぎない。前にも申したではないか、霊にとり物質は何ら障害ではない、自由自在にこれを貫通すると。夢遊病者は次のように言う、私は額で、膝で、その他で物を見ると。物質にはまり込んでいる諸君には、夢遊病者が肉体器官の助けなしで、物が見えるというのが理解できない。諸君等の観念の影響を受けると、夢遊病者も肉体器官が必要だと思い込む。しかし、彼等を一人にしておくと、彼等は、自分は肉体のどの部分でも物が見えると、いやむしろ、肉体などなしで物が見えると思うのである」
ーーー夢遊病者の霊視が本人の魂ないし霊の視力であるとするなら、なぜ彼等は何でも見えないのですか。また何故よく見間違いをするのですか。
「第一に、程度の低い霊には何でも見えたり分かったりはしない。ご承知の通り、皆さんと同じ間違いをやらかすわけである。第二に、彼等とて多少は物質との関わりを残している。だから、自分の全霊能力を発揮しているわけではない。神は、大事な役立つことのために使うよう、人間に霊視能力を与えられた。知ってはならないことを人間が知るためではない。これが、夢遊病者が何もかもは分からない理由である」
ーーー夢遊病者の内に隠れている観念は何処から来るのですか。また、彼等が目覚めている時には少しも分かっていない事を、どうして正確にしゃべれるのですか。それが本人の知性を越える事柄であるにも拘わらずです。
「夢遊病者というのは、諸君が思っている以上に、色々の事を知っているものなのである。但し、この知識は覚醒時には内に隠れてしまっている。それは本人の霊が知っているものを思い出すには、肉体は余りに不完全すぎるということである。一体、彼は何者なのか?彼も一個の吾々と同じ霊である、自分の使命を達成するために肉体に宿った。ただ、彼は夢遊状態に入ると、肉体に宿った無気力の状態から目を覚ますのである。私はこれまで何度も、人間は数多くの再生を重ねると伝えた。前生で知り得たことを見失ってしまうのは、この生まれ変わりによる。つまりは、物質との接触を持つことによってである。諸君が夢遊状態に入る「峠」と呼ぶ状態に入ると、本人は以前に知っていたことを思い出す。但し完全にというわけにはいかぬ。本人には分かっていても、何処からその知識を得たか、どのようにしてその知識を得たのか、これは何とも言いようがない。[峠」が過ぎると、記憶が遠のいてゆき、再び物質世界の混沌の中に舞い戻る」(明日に続く)
今回も夢遊病の続きであるが、中々理解するのが困難な内容が多い。最初の催眠的な夢遊状態と、自然の夢遊病とは同じものであり、催眠の方は人為的という違いだけだと言われているが、これは納得だ。だが次の質疑応答はさっぱり意味が分からない。夢遊病自体、どんなものかをよく知らないので、無理もない。書かれてあることを取り敢えず頭に入れておこうと思う。夢遊状態下の霊視現象の本質は千里眼なのだそうだ。また夢遊病者は不透明な物体の透視は、肉体器官などなくても見えるとのこと。夢遊病者の霊視が本人の魂ないし霊の視力であったとしても、低い霊は間違いも多く、物質との関わりも多少なりともあるから自分の全霊能力を発揮しているわけではないと言われている。次のお言葉が一番肝心な部分ではないかと思う。神様は霊視能力を大事なことに役立つために使うようにと人間に与えられたが、知ってはならないことは人間には知られないようにされているのだ。それが、夢遊病者の何もかもは分からない理由だと言われている。
夢遊病者の内に隠れている観念というものは、夢遊状態にのみ現れる。なので、いろいろな知識は覚醒時には内に隠れているのだと言われている。夢遊状態の「峠」と呼ばれる状態に入り、前生で知り得たことなど、本人が以前に知っていたことを思い出すようだ。けれど完全にというわけにはいかないらしい。そして、その[峠」を過ぎると、記憶が遠のいていき、再び物質世界の混沌の中に舞い戻ると言われている。夢遊病というものはそういものなのだと初めて知って、霊的には凄いことだったのだと今更ながら驚かされた。
1033回目の瞑想
ーーー夢遊病者の中には、遠隔地透視能力をもつ者がいますが、これはどういうことですか。
「魂が睡眠中に遠隔地へ出かけて行くのではないか。夢遊病ではこれと同じ事が行われる」
ーーー夢遊病的千里眼は、大なり小なり、肉体器官の関係から、または本人の霊の性質から生じるのですか。
「その両方である。但し、霊魂を肉体から遊離させ易い肉体的特質というものがある」
ーーー夢遊病者の発揮する能力は、死後に霊が発揮する能力と同じものですか。
「同じものである、但しある程度までということ。というのは、肉体にあるうちはこの肉体の影響を考慮に入れねばならぬからである」
ーーー夢遊病者は、他の霊達の姿が見えるのですか。
「それは当人の能力いかんである。大多数の者は他の諸霊の姿をはっきりと見る。しかし、直ぐにはそれが霊だとは気づかない、肉体をもった人間だと思うわけである。これは夢遊病がよくやる間違いで、特に心霊主義の知識がない者がよくやる間違いである。霊についての知識が何もないので、人間と同じ姿をしているから、驚いて生者と思い込んでしまうのである」
ーーー遠方の物を夢遊病者が見る場合、肉体で見ているのですか、魂で見ているのですか。
「なぜこんな質問をするのか。魂で見ているのだ、肉体などではない」
ーーー魂は遠くへ行っているのに、夢遊病者が自分の身体に冷熱の感覚を、それも、肉体からはるかに遠くに魂がいっている、その場所の暑さ寒さを覚えるのは何故ですか。
「本人の魂は完全に肉体から切り離されているわけではない、両者を結ぶ紐がなおつながっているのである。感覚を伝えているのはこの紐である。遠く離れている二人が電波で通信する場合、両者の思想を伝えているのは電波である。この電波で二人は恰も傍に居るように通信できるのである」
ーーー夢遊病者が生前に能力を使ったことで、死後になって影響を受けますか。
「大いにあり得る。神が与え給うた能力は何にしても、その使い方の良し悪しによって影響を受ける、これと同様である」
今回も夢遊病の続きである。最初の夢遊病者の中には、遠隔地透視能力をもつ者がいるとあるが、私はそんなことを夢遊病者の方ができるというのは、やはり初めて知ったのだ。それは魂が睡眠中に遠隔地へ出かけて行くからではないかということだ。
夢遊病的千里眼は、肉体器官の関係や本人の霊の性質から生じるもの
その両方であると言われ、更に霊魂を肉体から遊離させ易い肉体的特質があると言われている。また
夢遊病者の発揮する能力は、死後に霊が発揮する能力と
同じものであるが肉体の影響もあるのである程度までと言われている。夢遊病者の中には、霊的知識のない人もいるので、霊を見ても生きた人間だと思ってしまうこともあると言われている。次の質問は魂が見ていることは当然で、肉体であるわけがないと少し呆れたような感じである。
夢遊病者が自分の身体に冷熱の感覚を感じるのは両者をつなぐ紐があるからで、その紐が感覚を伝えているとのこと。例えを電波で通信することを挙げているが、とてもわかりやすい。
夢遊病者が生前に能力を使う影響は
大いにあり得ると言われており、神様が与えた能力は何にしても、その使い方の良し悪しによって影響を受けるとのことなのだ
。
1034回目の瞑想
ーーー夢遊病と没我状態(トランス状態)との相違は何ですか。
「没我状態は上等の夢遊病というところである。没我状態下では、魂は一層独立したものとなっている」
ーーー恍惚状況(エクスタシー)下の魂は、高級の世界に入っているわけですか。
「その通り。彼はその高い世界を見ている、その高い世界の住人達の喜びを受感している。しかし、霊が十二分に浄化していなければ、なお入っていけない高い世界がある」
ーーー没我状態下の人が、地上を離れたい希望を示す時は、本気でそう言っているのですか、自己保存の本能からそうなるのですか。
「それは霊の浄化程度による。もし、本人が未来の状況が現在より良いことを見てとれば、自分を地上につないでいる紐を破る努力をするだろう」
ーーー恍惚状態下の人をそのままにしておけば、魂は完全に肉体から離れてしまいますか。
「左様、死ぬかも知れない。従って、地上につなぎ止めるためのあらゆる方法で本人を呼び戻さねばならない。なかんずく本人に次のことを分からせる必要がある、自分を地上につなぎ止めている鎖を断つことは、もしかしたら幸せになれるかも知れない世界との接触を、自分で切断することになるということ」
ーーー恍惚状態下の者が、時に次のように申します。自分には、地上特有の思想や偏見にまみれた想像の産物が見えると、ということは、彼に見えるのは真実のものばかりとは限らぬということですか。
「本人にとっては真実なものである。ただ本人の霊は常に地上的観念の影響下にあるから、その方向でものを見るわけである。もっと正確に言えば、本人の偏見通りの、本人が身につけた観念通りの、本人好みの言葉で表現しているということである」
ーーー没我状態下の人の啓示は、どの程度信用できますか。
「間違いは大変多い。特に神秘的な問題に首を突込んだ時に多い。本人が自分の考えに酔ってしまったり、あるいは欺瞞霊の玩具にされて、本人の熱心さを利用し、インチキ通信を押し付けられたりする」
ーーー夢遊状況や没我状況下の現象は、結局のところ何と考えたらよろしいですか。未来生命への門と考えてはいけませんか。
「次のように言えばより正確になろう。夢遊病者はこの状況下で、自分の過去・未来の生活をチラリと見るかも知れない。これらの現象を研究してみなされ。理屈では入っていけない一
個の神秘などより、更に多くのものの解釈に役立つだろう」
ーーー夢遊病や没我状況下の現象は、唯物論と一致しますか。
「この現象を誠実に先入見なしに研究する者は、唯物論者にも無神論者にもなる筈がない」
今回は没我状態についてである。夢遊病は、夢より魂の独立性が強く、また没我状態は上等な夢遊病だと言われ、魂は一層独立したものとなっていると言われている。なので、瞑想時に寝てしまうと瞑想になっていないと言われていたことに得心する。やはりトランス状態時の方が魂がその力をもっとも発揮できるということなのだ。また恍惚状態下でも高い世界を見ており、その高い世界の住人達の喜びを受感していると言われている。だが、霊が十二分に浄化していなければ、なおも入っていけない高い世界があるとのことだ。また没我状態下の人も恍惚状態下の人も霊界へ行きたい思いになるようだ。けれど、それを実行に移したら、霊界との接触を自分で切断することになると言われている。また没我状態下の人も恍惚状態下の人も、その啓示の内容は大変に間違いが多いと言われている。特に神秘的な問題においてはインチキ通信を押し付けられたりすると警告している。夢遊病者や没我状態下では自分の過去や未来の生活を見るかも知れないが一個の神秘よりも、その現象を研究することで、更に多くのものの解釈に役立つと言われている。そして、この現象を誠実に研究する者は唯物論者にも無神論者にもなる筈がないと断言されているのだ。
1035回目の瞑想
ーーー千里眼と呼ばれる現象は、夢や夢遊病の現象と何らかの関連がありますか。
「これらは全く同一物である。いわゆる千里眼は、肉体は眠ってはいないが、霊がある程度自由になっている状態。千里眼は霊視である」
ーーー千里眼能力というのは永久のものですか。
「その能力は永久のものだが、その行使はそうではない。地上より物質性の少ない世界では、霊は容易に物質から自由となって、互いに思想で交流し合う。しかし言語を使わないというわけではない。このような世界では、千里眼は大多数の住人にとって、永久能力である。彼等の通常の状態は、諸君等の清浄な遊魂状態に比較できる。このため、彼等は鈍重な肉体をまとって生まれた者達より、易々と自己表現できる」
ーーー千里眼は自然に起きるのですか。それとも、その能力者の意志の働きでそうなるのですか。
「一般には自然に起こる。しかし、この現象生起には、意志がしばしば重要な役割を果たしている。例えば、占い師と呼ばれる人々の場合ーーその中には本当に能力のある者達もいるーー彼等の意志の働きは、千里眼の生起の助けとなっている」
ーーー千里眼は、訓練で発展できるのものですか。
「左様、努力は常に進歩をもたらす。物事を覆っている覆いは薄れるもの」
ーーーこの能力は、肉体の体質と関係がありますか。
「肉体は確かに大きな関わりをもつ。即ち、この能力には不適当な肉体もある」
ーーー千里眼の家系は遺伝しますが、あれはどういうことですか。
「肉体の体質の同一性からそうなる。この体質は他の体質と同様に遺伝する。また、教育訓練でこの能力が発展すると、その能力は次々と遺伝される」
ーーー環境によって千里眼が開発されるというのは本当ですか。
「病気、危険に瀕した時、大きなショック、そういう場合には千里眼が起きるかも知れない。肉眼では見えないものを霊眼で見る。そうなることが肉体にはしばしばあるのである」
ーーー千里眼能力者はいつもその能力を意識しているものですか。
「いや必ずしもそうではない。本人にとってそれは極めて自然なことに思える。彼等の多くはこう思っている、もし自分の見るものを誰しもが見るならば、自分にも同じ力があることが分かるだろうと」
ーーー千里眼能力がはっきり出ているわけではないが、日常生活で常識を超えた判断を下せる人々がいますが、その明敏性は一種の千里眼と見てよろしいですか。
「そういう判断の明敏性というのは、魂が人より自由に放射するからで、そのため肉体が重くて感性が閉ざされた人達より、一層物事を見る目が正確になるということである」
ーーーこういう判断の純粋性というのは、場合によっては、未来の出来事を予見しますか。
「左様、そういうこともある。何となれば、この能力には多くの段階があって、ある程度能力を示す人がそのすべての段階の能力をもっているかもしれないからである」
今回は千里眼についての内容である。またしても驚かされる。と言うか知らないだけだったのかも知れないが、千里眼とは霊視のことだったのだ。千里眼がそのような意味だったとは、本当にびっくりだった。また、夢や夢遊病と千里眼は全く同一物であると言われている。ただ千里眼の場合は、肉体は眠っておらず、霊がある程度自由になっている状態だと言われているのだ。とても勉強になる。ここでは千里眼の能力と限定されたお答えではあるが、すべての霊的能力というのは、物質から離れれば離れるほど、発揮できるものだとわかる。一番のネックはこの鈍重な肉体なのだ。この肉体の重さで霊的な能力がほとんど発揮することが出来ないということだ。だが、その肉体を携えて生まれて来なければいけなかった霊的レベルの低さにもあるということなのではないだろうか。ただ、千里眼については肉体は確かに大きな関わりをもつと言われ、不適当な肉体もあるとのこと。また千里眼の家系は肉体の体質の同一性で遺伝するのだそうだ。後先になるが、千里眼は一般的には自然に起こるようだ。更に訓練することついて、努力は常に進歩をもたらすとも言われている。また千里眼が開発される環境、病気や危険に瀕した場合や、大きなショックなどで千里眼が起こる場合もあるようだ。私の場合は大きなショックはあったが、千里眼は起こらなかった。
千里眼の能力はそれほどではなくても、日常生活で常識を超えた判断を下せる人々の明敏性は一種の千里眼なのかについては、魂が人より自由に放射するからだと言われ、肉体が重くて感性が閉ざされた人達よりも一層物事を見る目が正確になると言われている。更にこの能力には多くの段階があるとのことで、ある程度能力を示す人がそのすべての段階の能力をもっているかも知れず、未来の出来事を予見できる場合もあると言われている。
1036回目の瞑想
夢遊病・没我状態・千里眼の解説
「自然の夢遊病現象は自然発生的に、また何ら外的原因もなしに生起するものである。しかし、特殊の体質者の場合は、催眠術者の術で人為的に生起させられるものである。この両者間の相違は、一方が人為的なのに対し、たほうが自然発生的である。唯この点だけである。
自然的夢遊病はよく知られている事実で、この存在について、その現象の驚くべき特性にも拘わらず、今日異議を唱える者はいない。ではなぜ催眠的夢遊病の場合は、特別に不審の目で見られるのか。それは単に人為的現象だからという理由ではないのか。それは香具師やしがやってきたことだと、そう言う人達がいる。だが、その事実は単に蛇足とも言える理由にすぎない。将来科学がこれを取り上げる時が来たら、詐術などは問題にされなくなり、他方、夢遊病は自然的人為的いずれにしろ、事実なのだから、また否定され得ないことなのだから、反対者らの悪意にも拘わらず、道を開いてくれるのだろうし、また色々な分野で取り上げられ、科学の中に所を得ていくことになろう。程なく、それが科学の中での立場が十分に認められていくことになろう。
催眠下の霊視の原因も、自然発生的の夢遊病霊視の原因も同じものである。これは魂の属性、人間に内在する霊的なものが引き継いている能力であって、この力を遮るものはない。夢遊病者はどんな遠方でも、魂の行くところのものを見るのである。
遠方透視の場合、夢遊病者は、肉体のある場所から望遠鏡で見るように見ているのではない。本人は恰も其処に自分が居るように見える。というのは、本人の魂が実際そこに居るからである。彼の肉体はいわば無いに等しい、感覚は消え失せたようにみえる、魂が戻って来ればまた元にかえる。この霊肉の分離は正常な状態ではない、ある程度の時間は続くが、いつまでもそれが続くわけではない。これがしばらく続くと肉体疲労の原因となる、特に霊肉の分離の間の魂の活動が激しい場合はそうである。霊視に枠ははめられない、何処に行くかの所在も定められない。というのは、夢遊病者には霊視をする特別な器官はないということ、焦点も定められないと言うこと、これを裏書きするものである。彼等は見える故に、見える。それが何故、どのようにしてかは分からずに。もしその見える感覚と肉体と関係づけようとすれば、その焦点は、肉体中枢、特に脳、あるいは霊肉間の結び付きの最大箇所、そこだと本人には思えるだろう。
夢遊病の活動範囲は無制限ではない。霊は肉体から完全に自由な状態でも、本人の進歩程度に応じた能力と知識を持っているに過ぎない。増して肉体とつながってその影響に従っている時には、その制約はもっと大きい。こういうわけで夢遊病的霊視は不変的でもないし、無謬でもない。(明日に続く)
今回からは最初に記したように、夢遊病と没我状態、そして千里眼についての解説を記載してみる。かなり長いので何回かに分けて記載する。
これについては一読してもらえたら、それで良いと思っているので、私の感想などは書かないでおこうと思う
。
「亡き息子との交信記録」を更新しましたので、ご興味もある方は
ご覧下さいませ。
1037回目の瞑想
ーーー夢遊病者本人が比較的自由になっている感じの状態の時には、彼は他界の霊や生者の霊と容易に交流する。この交流は複体を構成している液状体との接触を通じて行われる。この液状体は電線のような役目をするわけで、思想の伝達をする。それ故、夢遊病者の方は意志を伝えるのに言語を必要としない。
夢遊病者は、自分の霊と肉体の双方を同時に見る。これは自分が霊と物質の二重存在であること、併も紐で一つに結ばれた存在であることを教えてくれる。夢遊病者はこの二重性について必ずしも理解していない。しばしば彼は独り言を言う、恰も他者に話している具合に。ある場合には肉体が霊に向かって、ある時は霊が肉体に向かって話す具合に。
霊は地上生活ごとに、知識と経験を加えていく。だが地上生活中は、折角獲得したその一部を見失っている。それは物質の鈍重さのため、全部を記憶に留めておくことが出来ないのである。しかし、霊魂としてはこのすべてを記憶している。従って、夢遊病者の中に、本人の教育程度以上の知識や知能を発揮する者があるのはこのためである。それ故、覚醒中に本人が知的に科学的に劣っているからといって、霊視中に示す知識を本人が持っていないという事にはならない。その時の状況に応じ、また目的に応じて、彼は知識を引き出す、自己の経験の貯蔵庫から、またその時生起している事物の霊視から、あるいは他の霊達からの助言から。本人の進歩の程度に応じて、その情報は正確といえる。
自然的にしろ催眠的にしろ夢遊病現象を通じて、神は吾等に霊魂の存在、霊魂の独立、この証拠を与え給うている。神は吾等に、とらわれの身体より発する崇高な光景を見せ給う、神は吾等に、開いた書を読むように吾等の未来の運命を読ませ給う。
夢遊病者が遠隔地で起こっていることを述べている時には、彼はその通りのものを見ている。それは肉眼で見ているのではない。この事は明瞭である。彼は遠く離れたところにある自己を見ており、また、其処へ自分が来ていることを感じている。それ故に、彼の或るものがその遠隔地に実際に居るのであり、その或るものとは自身の肉体ではなく、まさに自分の魂、霊である。
人間は自分の精神の根源を尋ねて、遂には抽象の中へ、わけの分からぬ形而上のモヤの中に迷い込むのであるが、神は人間の目の前に、手の届くところに、最も単純にして正確な人間心理実験の手段を与え給うておられるのである。
没我状態は、魂が肉体から独立していることを最も鮮やかに見せてくれる、いわば観察者が手で触られるような状態である。
夢や夢遊病で、魂は地上世界との間をさ迷う、つまり没我状態となって、魂は異次元の世界いわば幽霊達の世界へと入り込み、其処でこれら精霊達と交流するのである。但し、霊と肉をつなぐ紐を断ち切らねば行けない限界を踏み越える境までは入って行けない。新奇な光輝に包まれ、地上では知り得ぬ調和で心躍らされ、言語に絶する祝福にまみれ、魂は天上の美を毒味する形となる。それはまさに永遠の敷居に片足置いたというべきか。
(明日に続く)
1038回目の瞑想
ーーー没我状態下では、地上は殆ど絶縁した状況となる。肉体はもはや物理的な生命を留めるだけとなる。魂は一本の糸でつながれているにすぎず、この糸をそれ以上、魂は自分の力で断ち切ることはしないであろう。
この状態下で、一切の地上的思想は消滅し、吾等霊的存在の精髄である純粋感覚が現れる。この厳粛な沈思に突入して、本人は次のように思う。地上生活とは、わが永遠の旅路の小駅にすぎないと。また、この世の成功といい不幸といい、喜怒哀楽も、いま喜びにうち震えて予見している旅路の中での、些細な出来事にすぎないと。
このことは夢遊病者の場合も、恍惚状態下の人の場合も同じである。彼等は大なり小なり完全に正気なのである。その霊の進歩に応じ、物事の真実を見抜く力も秀れている。彼等は異常な状態に入ると、正気の時よりも、神経が興奮する。もっと正確に言えば、この興奮によってその正気さは後退し、そのため現象はしばしば真実と誤謬との混交、崇高な観念と奇妙な馬鹿らしい幻想との混乱したものとなる。低級霊はこの神経興奮を利用して、しばしば恍惚者を支配することがある。(この神経興奮は、これをコントロール出来ない者達にとっては弱点となる)邪悪霊は本人の目に尤もらしい現象を見せつけ、そのため本人の覚醒時にこれが本人の観念となり、偏見となるようにさせるのである。このような欺瞞による霊視支配は、霊示現象の中での「暗礁」なのである。しかし、彼等のすべてがこの危険な誘導に従うわけではない。また、これら霊示を冷静慎重に考慮して、科学性と理性の光に照らし判断を下すのは吾々の側なのである。
千里眼能力のある人には、時として、覚醒状態の時に解放が起こり、五官を超えた霊視・霊聴・第六感が発揮されることがある。彼等は自分の魂の働きの及ぶ遠い場所での物事を感受する。彼等は普通の視力を超えて、蜃気楼でも見るようにものを見る。
千里眼現象が生起した瞬間は、霊視者の肉体的状態は目に見えて変化する。視点はぼんやりして、目前に、見ることなしにものが見えてくる。その顔付きは神経の異様さを反映して異相となる。本人の目はその霊視とは何の関係もない、本人は目を閉じているのに霊視は続いているからである。
このような能力は、肉眼と同じ程度に霊視能力に恵まれている人の場合に起きる。本人達は当たり前の事と思い、特殊のことだとは気付いていない。一般に、はっきり見えているのは一時で、やがて記憶もうすれ、夢のように遠のいてしまう。
千里眼能力は、初歩の段階では混乱があるが、次第に近くの物でも遠くの物でもはっきり見えてくるようになる。人によってはその判断や行動の面に機転・明敏さ・正確さなどが出て来て、精神もしゃんとしてくる。能力が進むと、虫の知らせのようなものが分かるようになり、更に発展すると、過去の出来事、まさに起ころうとする出来事が見えるようになる。
夢遊病、没我現象、千里眼も原因は皆一つで、形式の相違にすぎない。夢と同じくこれらは自然現象の技なのである。従って、いつの時代にもこれらは存在したし、また歴史を見ても分かる通り、誤用虐待はされたが、遠い昔から知られてきている。迷信や偏見のため、人間は異常現象というレッテルをはってきたが、そういう出来事に正しい説明を与えられるのはこれなのである。
これをもって、夢遊病・没我状態・千里眼の解説は終わる
。
1039回目の瞑想
ーーー霊は我々のしていることを何でも見ているのですか。
「そうしたいと思えば、それは出来る。霊が貴方の傍にいつもくっついていればだが。しかし、実際には霊は自分が注意を向けたものだけを見ている。自分に興味のないものには注意を向けないのである」
ーーー私共のいちばん隠している気持ちを霊は見抜けますか。
「諸君が隠したがっていることを、霊が見抜いてしまうことはよくある。思想でも行為でも、霊から隠すことは不可能である」
ーーーでは、人間同士でも、その人が生きてる間に隠せても、死んでしまえば隠せぬという事ですか。
「その通り。どんなに人の目から隠したいと思っても、貴方の周りには沢山の霊魂がいて、貴方を見ている」
ーーー私共の周りにいて私共を見ている霊は、私共のことを何と思っていますか。
「それは霊の質によって違う。つまらぬ霊共は、諸君等に些細な悩みを引き起こしては楽しみ、焦だてては笑いものにしている。真面目な霊は、諸君等の欠陥を哀れんで、それを直してやろうと助力を与える」
今回は霊が我々の思想をのぞくということについての内容である。どうも霊はその気にさえなれば、私達を見ることはできるようだ。しかも隠したいと思っても、思想や行為に関して霊から隠すことは不可能とまで言われている。更に生きている間の人間同士も、死ぬことで霊となれば、隠せないようである。いやはや、悪いことは出来ないということだ。また、私達人間のことを、未熟霊などは、悪さをして笑いものにしているようだが、善霊は、私達人間の欠けた部分を哀れんでくれて、それを直す助言を与えてくれようとしているとのこと。有難い限りである
。
1040回目の瞑想
ーーー霊は私共の思想や行為に影響を与えますか。
「その影響は諸君が想像するより大きい。諸君の思想も行為も、これを動かしているのは霊達であるから」
ーーー私共は、自分自身から生まれる思想と、他より伝えられる別の思想とをもつのですか。
「諸君の魂は、思考する霊である。諸君等はこれまでに、同じ問題についても多くの思想が、時としては丸反対の思想が同時に起こることも知っておろう。その場合、そのあるものは諸君自身のものだし、あるものは吾々霊のものである。これが諸君等をためらわせる、諸君等はこのように心中に互いに相対する二つの観念をもつものであるから」
ーーーどうしたら自分の思想と、外部から受け取った思想を見分けられますか。
「外部から思想が来る時は、ささやきかける、声のような具合にである。自分の思想の場合は、先ず心内に湧き起こるものである、実は、この区別は諸君等に実際上は重要ではない。区別出来ないことの方が諸君のために良いことが多い。これにより、人間の行動は大いに自由になるわけだ。もし正しい道を選べば、一層自発性を発揮することになり、誤った道を選べば、はっきり自分の誤りの責任となるから」
ーーー知的な人や天才は、常に自分の心中から、その観念を引き出しているのですか。
「その観念は本人の霊から湧くこともあるが、他の霊から来ることもしばしばある。その場合、霊の方は、その観念を本人が理解できること、それを伝えるに値いすることをちゃんと判断して伝える。求める着想が自分の中に無ければ、彼等は無意識でインスピレーションを求める。即ち自分では気付かずに、一種の口寄せを求める」
ーーー思想は最初の発想が最も善い、と言われますが本当ですか。
「当人の霊の性質いかんで、善でもあり、悪のこともある。大事な事は、良いインスピレーションに常に耳を傾けることである」
ーーーささやかれた思想が善霊から来たのか、邪霊から来たのか、これを確かめる方法がありますか。
「その性質で見極めなさい。善霊は常に良い助言を与えるもの、この善か悪かを見極めるのは貴方である」
ーーー未熟霊はどんな目的で、私共を悪に誘うのですか。
「自分等と同じ災いに諸君等を陥れようとしてである」
ーーーそれによって、彼等は苦しみが減るのですか。
「いや、彼等は自分達より幸福な者への嫉妬心からそうするのみである」
ーーー彼等はどんな災いを私共に与えようと思うのですか。
「下劣な者達、神からずっと隔った者達がもたらす、そういう災いである」(明日に続く)
今回は我々の思想や行為に霊が及ぼす影響についての内容である。
私達人間の思想や行為に与えるその影響は私達が想像するより大きいと言われ、私達の思想も行為も、これを動かしているのは霊達であると言われている。つい本当なのだろうかと思ってしまう。ただ、同じ問題についての思想が、時として正反対の思いが同時に起こることもあると言われている。その場合、一つは私達自身のものであり、あるものは霊のものであると言われており、それが私達をためらわせているとのこと。そして、私達は心中に互いに相対する二つの観念をもつものだと言われている。
自分の思想と霊からの思想との見分け方については、霊からの思想は、ささやきかけるような感じだと言われており、また自分の思想の場合には、心内に湧き起こるものだと言われている。けれど、この区別は私達には重要ではないらしい。区別出来ない方が私達のためになることも多いとのこと。更に正しい道を選べば、一層自発性を発揮出来るが、間違った道を選べば、その責任は自分にあるという当然のことが起きる。また知的な人や天才も、自分の心中からの観念である場合もあるが、霊からの場合もあると言われる。その場合は、その観念を当事者に理解できるように、またそれを伝えるに値いすることをきちんと判断して伝えるとのこと。やはり霊からの伝心は素晴らしいの一言。
そして、思想の発想については、霊の性質で善にもなり、悪にもなるが、最も大事な事は、良いインスピレーションに常に耳を傾けることだと言われている。
また、ささやかれた思想が善悪どちらの霊から来たのかを、見極めるのは
私達人間であると言われている。それは本来出来なければいけないことなのだと思う。
未熟霊や邪霊などは、私達人間を常に陥れようと企んでいるようだ。幸福な人を嫉み、羨み、憎むのだろう。そういう悪霊の的にされないように、私達人間が心正して、正道を歩んでいれば寄せつけることはないし、できないのだと思う。
1041回目の瞑想
ーーー神はなぜ、霊達が私共に悪へ誘うのを許し給うのですか。
「人の信と善への節操を試みる手段として、未熟霊が使われる。諸君、霊である者達は、無限なるものへの知を深めねばならない。善に至るためには、諸君は悪の試練を通らねばならない、この目的のためである。吾等の使命は諸君等を正道に導くことにある。もし諸君が悪の影響に踊らされるなら、それは諸君等が自らの意志によって邪悪霊を呼び寄せたのである。何となれば、邪悪霊どもは諸君等の望む通りに、悪の手助けをしようと常に待ち構えているのであるから。諸君の方で悪の道を希望する時のみ、彼等は諸君のために悪の手助けが出来るのである。もし貴方が殺人したい気持ちをもてば、貴方の周りには、この希望を実現させてやりたいと、待ち構えている霊魂がひしめいているのである。同じく、貴方の周りには、貴方を善へと誘おうとしている諸霊も取り巻いている。これでバランスがとれるのであり、決断は貴方に委されている」
ーーー私共は、悪に誘おうとする霊達の影響を受けないように出来ますか。
「出来る。彼等が近付く人間というのは、本人の思想や欲求の中に、彼等を引き付ける悪い性質があるからである」
ーーー私達が反撥すれば、彼等は誘惑が出来ないので、あきらめますか。
「その外に何が出来るか。目的が達成できないと見てとれば、彼等はあきらめる。しかし、彼等は虎視眈々とチャンスを狙っている。猫が鼠を狙う具合に」(明日に続く)
今回も我々の思想や行為に霊が及ぼす影響についてである。
今回の質疑応答では、なるほどと得心できた。私達人間が善に至るために悪の試練を通らなければいけないと言われており、そのために神様は未熟霊を使わされていると言われているのだ。その未熟霊の誘惑に負けて、悪の道へ行くのか、それともその誘惑には負けずに毅然と善の道へ行くのかは、私達人間が決断すべきことなのだ。そのための悪の誘惑ということなのだ。もちろん、元々悪い感情をもっている人間は類友の法則のごとく、悪の道にそそのかす霊に見事にはまってしまうのだろう。だからこそ、神様は善悪両方を司っておられるということなのだと、納得だった。そして今の世にも言えることだ。何が正しくて正しくないかは、自分が判断し決断するしかない。すべてはやはり自己責任ということになる。そしてその決断がこの現世でも、また来世をも決定するということになるのだと、今回は実感させて頂いた。本当に勉強になり、指針となることに有難い限りである
。
1020回目の瞑想
ーーー子供に宿っている霊は、大人に宿っている霊と同じくらい、進歩するものですか。
「それ以上のものもあり、それは前生での進歩いかんによるわけだ。霊がその実力を子供に発揮できないのは、子供の身体器官が未だ出来上がっていないためである。この世では肉体が霊の自己表現機関であって、肉体の状況いかんに応じて霊は行為するのである」
ーーー子供の身体が未発達のため、霊は完全発揮が出来ないと言うことは別としまして、霊がものを考える場合、霊は子供なのですか大人なのですか」
「身体が未だ子供である限り、思考器官も未発達だから、大人のように物事が通じるわけではない。その知性の幅も狭く、従って年を重ねるにつれて、物の考え方も成熟していくのである。受肉に伴う混乱は、誕生と共に直ぐに終わるわけではなく、肉体の成長に伴って、漸次消散していくのである」
ーーー子供が死ぬと、その例は直ぐに本来の力量を取り戻しますか。
「そうあるべきだ、彼は肉の被いから解放されたのだから。しかし実際のところは、霊は霊肉の分離が済むと、サッパリした気分になるにすぎない」
ーーー子供の状態にある間は、霊は肉体未発達のための不自由な苦しさを感じるものですか。
「そんなことはない。その状態は必然的なものであり、自然の理であり、神の定め給う摂理の一つであるから。それは霊にとって安息の時でもあるのだ」
ーーー幼年期を通るということは、霊にとってどんな効用があるのですか。
「地上出生の目的は霊の進歩にある。さて幼年期は、自分のことに万事鋭敏な時である。このことが霊の進歩に役立つのである」
ーーー何故、生まれた当座の子供は泣いてばかりいるのですか。
「これは母親の気を自分の方にひきつけ、よく大切に面倒見て貰うためである。もし話せるようになる前に、笑い声ばかりたてていたら、周りの者は、赤ん坊の欲しいものに殆ど気付かずに心を使わないだろう。神の英知の美事なるこの摂理」(明日に続く)
今回は幼年時代という内容である。子供の場合でも宿っている霊は、その進歩いかんで、大人よりも進歩していることがあるということ。ただ、その霊が実力を発揮できないのは、ただ肉体が未発達だということにすぎないということだ。また受肉の際の混乱は、すぐに終わるわけではなく、肉体の成長と共に、なくなっていくようだ。子供が亡くなった場合の霊が本来の実力を発揮することが望ましいようだが、サッパリした気分になるにすぎないと言われている。やはり本来の力量を取り戻すのはしばらくかかるのかも知れない。次に子供の状態である霊は、安息の時であると言われている。肉体が成長するまでの間の霊は安息の時を過ごすということを初めて知る。しかも、幼年期を過ごすということは、地上に誕生した霊にとって、目的である進歩のために、その期間が自分のことに万事鋭敏な時であると言われ、役立つのだと言われている。このお言葉で、霊にとって幼年期というのは進歩のためには欠かせないものだということがわかる。また赤ちゃんが生まれてすぐに泣くのは、やはり、母親の気を引くためであり、周りの人達にも心を向けて欲しいためのものなのだ。それはすべては神様の采配とのことで、本当に凄いことだと思う
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1021回目の瞑想
ーーー成人に近付くと、若者の性格が変わるのは何故ですか。霊に変化が起こるのですか。
「霊が、本来の自己を取り戻して、再生以前の自己を示すのである。諸君は、子供達の無邪気さの下に隠されている秘密を知らない、子供達が今何であるか、かつて何であったか、また将来何であるかを。それにも拘わらず、諸君は子供達を可愛がり慈しむ、恰も自分の一部分のように、また、母性愛こそは愛の中の愛と言われる程にも。異邦人さえもその子に抱くこの愛、甘い優しい情、それはどこから来るのか、いまこの点について、お話しておこう。
子供等は、神によって新しい人生へ送り出される者達である。だから、神は彼等が文句をつけようがない程に、顔形の隅々に至るまで無邪気さをもって包み給う。極悪の性の子供の場合でも、その悪行も本人もそれと気付かぬ無邪気さによって包まれている。その無邪気さのゆえに、子供等が過去の実際の自分以上に、優れているとは言えぬ。それは彼等がかくあるべき理想の姿である。そしてもし、彼等がそうならなければ、罪は自らの上に下ることになるのみである。
神が無邪気さを子供等に与え給うたのは、子供等のためばかりではない。それはまた、両親のために・・・その愛こそ、独り立ち出来ぬ子供等に必要である・・・その両親を引き寄せるためにでもある。何となれば、もし荒々しくねじけた性質が丸見えになれば、親の愛も大いに滅んじてしまうから。これに反して、親が子供等を善良で優しいものと信じれば、子供に愛情を注ぎ深甚の注意をもってこれを守るのである。しかし、もはや保護や助力を必要でなくなる15歳から20歳くらいの間になると、本人の真の性質や個性がはっきりと現れてくる。真に善良なる者は善良のままに留まる。しかしこの場合でも、幼時には隠れていた特質や陰影が沢山現れてくる。
神の道は、常に至善なるものを目指してい給う。本性において至純なるもの、そのことは明らかなこと、諸君もお判りのところと思う。
次のことを心に留めておかれたい。諸君の元に生まれる子供の霊は、あるいは諸君とは全然違った習慣の世界からやって来たかも知れない。されば、この新人は情も傾向も嗜好も全く諸君と違ったものを持っている。それがもし神の定められた道であるーー幼年期の篩ふるいの家庭を通らなければ、どうして諸君等の世界に調和があり得よう。この幼年期があればこそ、初めて、多種多様の世界から来た思想や特性や生命が、一つに融け合えるのである。諸君もまた、死ねば一種の幼年の状態となる。兄弟知友に囲まれて、その新世界では何もかも不案内である、慣習も、礼儀作法も、事物関係も。言葉だって不慣れで、この世とは比較にならぬ生きた言葉で、一向に自己表現など出来ぬ。
幼年期にはもう一つの効用がある。霊が地上生活をするのは、ただ進歩と自己改善のためである。若さゆえの頼りなさは、地上経験を積んだ人達の助言に耳を傾けさせる。この素直さである。これによって悪い傾向は抑えられ、性格も漸次改善されていく。そうして、この改善と制御こそ、神から親たるものに委託された義務であり、聖なる使命である。
それ故に、既にお判りであろうが、子供であることは、有用であり必要であり、欠くことの出来ぬものである。それだけでなく、これこそ神の定め給うた法の当然の成り行きであり、またこの法が宇宙を支配しているのである」
今回は幼年時代の続きだが、最初の質問で、かなり長いお答えとなっている。大体の内容は納得できるのだが、いくつか腑に落ちないこともある。それは子供の無邪気さは、両親のためにとある。だが、生まれたばかりだったり、1歳から3歳くらいまでの本当に可愛い盛りであるにも拘わらず、虐待する親もいる。また殺してしまう親もいるのだ。これについてはどうお答えになるのだろうか。また、子供ができない親もいる。最後のお言葉には、子供であることは有用であり、必要で欠くことができないと言われており、それは神様の定めた法であるから当然であり、この法が宇宙を支配していると言われている。神様の定めた法であるのならば、子供ができない人達には神様から委託された義務もなければ、聖なる使命もないということになるのだろうか。それは余りに切ない話のように思えてしまう。もちろん、過去世からのいろいろな原因があってのことだとは思うが、懲罰ということになってしまうのか、それとも、子供を持つことではなく、別の問題に取り組む必要があったからなのだろうか。今回の内容では、逆にいろいろな疑問が出て来てしまっていた。
1022回目の瞑想
ーーーかつて互いに愛し合った二人が、地上に再生し、めぐり逢って互いに認め合うということが出来ましょうか。
「昔のお互いだということには気付かぬだろうが、互いに引き付けられることになるだろう。前生に結んだ縁というものは、次の再生にあたっては、更に更に強い愛の原因となることが多い。地上の世界では、二人の者がほんのちょっとした偶然によって引き付けられるということがしばしばある。しかしながらこれらは、千里の靄もやの中、求め合う二つの魂の相寄る力によってそうなるのである」
ーーー二人が前生でのお互いを認め合うということは、もっと具合のよいことではないでしょうか。
「必ずしもそうとは言えぬ。それは諸君の想像以上に具合の悪い点が多々ある。死後に至り二人はめぐり逢い、その時になって、初めて前生での二人の事を思い出す」
ーーー愛は常に前生でお互いが知り合っていたことから生まれるのですか。
「いや、知り合っていなくても、互いに共鳴を感じる二つの霊は、自然に互いに求め合うのである」
ーーー二人の者がゆくりなくもめぐり逢う、これを偶然と人は呼びますが、本当は何か共感的関係というものがあって、その作用によって引き付けられると、こう考えてはいけませんか。
「人間の間には、まだ諸君等には分かっていない、幾段階かの関係というものがある。将来、磁気学はこういう関係を諸君に示してくれる、科学の水先案内となる」
ーーー初対面の人に対し、本能的に反発を感じることがありますが、どうしてですか。
「両者の霊に潜在的な反感があり、これが言葉を交わさなくても、相手の気持ちを知り気持ちを見抜くからだ」
ーーー本能的に反感を覚えるというのは、片方または双方に悪い性質があるということなのでしょうか。
「親しみをもてないからといって、必ずしも両者が悪いというわけではない。反感とは、同じ考え方がもてない同士の間に起こるものだから。しかし、両者が進歩向上していくと、こんな相違はなくなり反感も消滅する」
ーーー両者の反感は、先ず善良な側に起こるのですか。それとも性悪の方から起こるのですか。
「それは両方一緒に起こる。だがこの場合、両者の原因と結果は違っている。性悪の霊の場合は、自分を見抜いて批判できる者にはすべて反発を感じる。初めてそういう人に会うと、自分が余りよく見られそうにないことを知り、反感が憎悪や嫉妬に変わり、何か相手を傷つけたい衝動に変わってしまう。善良な霊の場合は、性悪な者に会うとやはり反感を覚えるが、それは、自分は相手に理解されないだろう、二人の気持ちはとても同調できないと悟るからである。しかし、彼はその善良さの故に、相手に憎しみや嫉妬をもたず、ただ相手をさけ、これを哀れんで満足する」
今回は地上での愛情や反感についてである。過去世で愛し合った二人は、やはり地上に再生すると、引き付けられるようだ。前生に結んだ縁は、次の再生では更に強い愛となることが多いと強調されている。出逢いは偶然であるかのようだが、そこはやはり必然で出逢うべくして出逢っているのだと思う。それは求め合う二つの魂の相寄る力によってと言われている。私自身も前生でのお互いを知ることで、もっといい関係になれるのではと思っていた。だが、必ずしもそうではないと言われている。私達人間にはわからない想像を越えた具合の悪いことが多いようだ。死後二人がめぐり逢い、その時に初めて前生での二人がどんな関係だったかを思い出すそうだ。主人と私も前生を知るには死後に、ということのようだ。また、知り合っていなくても、共鳴し合う二つの霊は、自然に互いに求め合うと言われている。だから地上生活では、一人だけでは済まないということになるかも知れない。ただ、このようなめぐり逢いの関係については、私達人間にはまだまだ分からない幾つもの段階の関係があるとのこと。けれど、いつの日か分かる日も来ると言われている。逆に初めて会った人に反発を感じるということもある。これも過去世から来るものであり、潜在的に感じるものなのだろう。ただ、それは悪いわけではなく、同じ考え方ではないというだけのことなのだ。進歩向上して行くことで、反感は消滅すると言われている。けれど、反感を感じても、善良な霊と、性悪な霊とでは、その後の気持ちが違っている。出来れば、みな善良な霊のような気持ちになれれば、傷つけ合うことも憎み合うこともなくなると思うが、そこはなかなか難しいのだと思う。
今日の瞑想では、私自身のことについてのお言葉が沢山浮かんだので、記録として、残しておこうと思う。
(私の)過去は神様にお仕えしてきた人生が何千回とある。神様を信じる心を更に揺るがないようにするための今生である。それには恐怖心を捨て、あるがままを受け入れる。全ては神様が司っておられるということを心底信じることができれば、恐怖心など微塵も感じることはない。神様一筋に徹すること。自分の霊の心を感じよ。何もかもを達観せよ。今は心の修養に努める時期。如何にこの世のことに惑わされずに生きられるか、である
。
このお言葉と共に、涙が出てきていた。ただただ神様と霊界の方々に感謝の気持ちでいっぱいだった。
1023回目の瞑想
ーーー地上に生まれてくると、なぜ過去を忘れるのですか。
「人は何事も知ることは出来ず、また知ることもないであろう。神は英知をもってこのように定め給うた。もし目を遮ってくれる幕がなければ、急に闇から光へ出て来る人のように、目が眩んでしまうだろう。過去を忘れ去ることによって、人は一層自己自身であり得るのだ」
ーーー生前の記憶がないのに、どうやって生前の行為に責任をもったり、過去を償ったりすることが出来ましょうか。また前生の経験をどうやって生かすことが出来ますか。人生の苦難も、それが前生の悪行の報いであることが分かってこそ、初めて効果があるものでしょう。しかし前生を忘れてしまえば、人生はこれが初めてだと自分に思われ、同じ行為を何度も繰返すことになるでしょう。これをもって、一体なお、神の正義ということが出来ますか。
「再生毎に、霊はその知性も、善悪判断の能力も進歩していく。もし霊が前生を何もかも記憶していたら、どこに彼の自由があろうか。霊が死後霊界に帰って来ると、その眼前に過去の一切がパノラマのように見えてくる。彼はそこに自分の犯した過失を、苦しみの原因を見る。また、こうすれば過ちを犯さずにすんだであろう事情も分かってくる。こうして彼は自分が今置かれている境涯の正当さを噛みしめる。すると、もう一度人生をやり直したい、今度こそ過去の失敗を償いたいと思う。過去には失敗したが、それと同じ試練をもう一度試みたい、あるいはまた、進歩に役立つような試練を受けてみたいと希望する。そこで先輩の霊魂に、来たるべき自分の事業に援助してくれるように頼む。彼は知っている、次の人生で自分の指導役に任命される霊は、彼が前生で犯した失敗について、何らかの直感を与えてくれることによって、失敗を償うように一生懸命努力してくれるということを。この直感とは、悪い考え罪在る欲求として、しばしば本人の心に起こるが、本人は本能的にこれを拒絶する、本人はこの拒絶を両親から受けた本性によるものとするが、本当は本人の良心のささやきによるのである。このささやきこそ、過去の追憶のささやき、過去の失敗をもう一度繰返さないようにとの警告である。新しい人生で、不屈の意志でこの試練に耐え、誘惑に抗して失敗を犯さない者は、霊性進化を遂げ、再び霊界に戻って来た時、一段と高い境涯に入るのである」
[注解] もし我々が地上生活中に、前生について、自分が行った善悪いずれの行為についても、正確な記憶をもたなくても、我々は過去についての直感をもつ。それは本能的なささやきで、過去の過ちを再び繰返すまいとする心の要求とも言うべき意識であって、それが我々にそれを避けるようにと警告してくれるのである。
(明日に続く)
今回は前生の記憶を失うことについてである。最初の質疑に対するお答えは、はっきりとは意味がわからなかった。だが次の質問のお答えは圧巻であった。私は読みながら魂が震えるのを感じ、涙していた。質問の内容を読んでいた時には、いい質問だと思っていたし、私自身もそのような質問をしたいと思っていたのだ。だが、そのお答えの見事さに、ただただ感服するしかなかった。注解にも端的に書かれているので、私がことさら書く必要はないと感じる。ただ、昨日頂いたお言葉についてだが、実は瞑想の前にこの内容を読んでいたのである。けれど感動しながらも、ささっと読み流していたので、思いもしなかったが、今日改めて読み直してみると、昨日頂いたお言葉はこの人生においての援助を頼んだお方だったのではないかとふと思ったのである
。
1024回目の瞑想
ーーー貧乏とか病気とかない、私共よりもっと進歩した世界の人達は、私共が感じる以上に幸福を感じていますか。幸福とは一般に相対的なもので、不幸な状態と比較して幸福だと思うものです。私共よりましだとは言っても、完全というわけではありません。従って、そういう世界の住人達にも悩みや心配事がある筈だと思います。地上でも金持ち達は、貧乏人のような苦しみはないとしても、それ相応の悩みがないとは申せません。つまりですね。我々には我々の幸福度の基準というものがあるように、そういう進歩した世界の住人達にも、独自の幸福度の基準があって、その尺度によって自分達を不幸と考えないのかと、こういうことです。また彼等も私共のように、自分の運命に不足を言うことはないのかと、幸福度の尺度になるような過去の悪い状況の記憶はないのかと、こういう質問です。「この問いには二種の回答がある。先ず、お尋ねのような住人達の中、過去生の記憶が明晰正確にあって、それ故に神から授かったままの幸福が享受できる、また享受している、そういう人々の世界が存在するということ。またこれとは違って、質問のような地上より進歩した状況にありながら、多大な苦悩や不幸さえも背負っている、そういう世界もある。彼等は過去の不幸な状況の記憶がないために、現在のより進んだ状況を、そのように感じとれないのである。しかしながら、彼等には正しくその状況が感じ取れないとしても、霊界に戻った時には、正しい評価が分かるのである」
ーーー私共は前生について、何らかの啓示を受けることが出来ますか。
「それは全く不可能である、しかし、前生で自分が何であったか、何をしたか、この事を知っている者は多い。もしあからさまに彼等にそれを話させたら、その過去生とは、奇妙な話になってしまうだろう」
ーーー人々の中には、おぼろげな前生の記憶をもっていると、信じている人達がいます。それは思い出そうとしても、思い出せない夢幻のようなものだと、こう思っています。これはやはり、幻影なのですか。
「時には本物もあるが、多くは無理につくられた幻影である。一心に想像をめぐらすと、そういう結果になることがある」
ーーー私共の地上よりも更に進歩した物質世界では、前生の記憶は、もっとはっきりしているものですか。
「肉体の物質性が少ないから、その肉体に宿った霊には、前生の記憶はもっとはっきりしている。その世界の程度が高ければ高いほどそういうことになる」
ーーー人の性向は過去性の反映だとするとき、この性向をよく検討すれば、過去に犯した過ちが何であるかを自ら発見できる、こう考えてよろしいですか。
「ある程度までそれは可能である。だが、その霊性に及んでいる進歩とか変化を考慮に入れなければならない。本人の現在は、前生より大いに改善されたものと言えよう」
ーーー悪化するということはありませんか。たとえば、前生で犯さなかった失敗を、今生で犯すような場合に。
「
これは本人の進歩いかんにかかっている。もし誘惑に勝てなければ、その結果として、新しい失敗を犯すことになろう。しかしその失敗も、退歩よりむしろ停滞とみるべきだろう。何となれば、霊には進歩や停滞はあっても、退歩ということは決してないのだから」
ーーー現世での栄枯盛衰は、過去生の失敗の償い、また未来のための教訓とするなら、その事から、過去生でのありようを推測することが出来るのではありませんか。
「大いにそれはあり得ることだ。過去生での失敗が、この世での罰となって現れるものであるから。しかしながら、それは絶対的というわけではない。本能はその性向として、一定の方向をとろうとする。つまり、霊が身に受ける試練とは、過去生の結果のものでもあり、また未来のためのものでもあるからである」
今回も前生の記憶を失うことの続きである。最初の質問のお答えは、興味深い内容だと思った。この地上よりも進歩した世界では、かたや過去生の記憶が明晰正確にあって、神から授かったままの幸福が享受できたり、享受しており、そういう人々の世界が存在すると言われている。だが、同じ地上よりも進歩していても、過去の不幸な状況の記憶がないために現在のより進んだ状況を感じとれないで、多大な苦悩や不幸さえも背負っているように感じている世界もあるとのこと。けれども、霊界に戻れば、正しい評価は分かるそうだ。そしてきっとより進歩しているのではないかと思う。
また前生の啓示についてだが、全く不可能と言われているが、この霊訓は150年以上も前のことなので、やはりいろいろな面で進化してきているのではないかと思っている。今では、過去生を催眠療法などで、はっきりとわかるようにもなってきているし、霊視でわかる場合もある。もちろん、まがい物も沢山あるとは思うが、それでも全く不可能ではなくなっているのではないかと思う。それは前生の記憶についても言えることなのではないかと思っている。また世界が高ければ高いほど、前生の記憶がはっきりするということは当然のことだと思う。
人の性向は過去生の反映であれば過去に犯した過ちが何であるかを自ら発見できるのではないかとの問いに、ある程度までは可能であると言われているが、その霊性に及んでいる進歩とか変化を考慮に入れれば、本人の現在は、前生より大いに改善されたものと言えると言われている。ということは、今生きている私達人間は前生よりは進歩していると言うことなのだ。嬉しいような気持ちになる。しかもこの地上でのことは、本人の進歩いかんにかかっているのはもちろんのことだが、いろいろな誘惑に勝てなければ、新しい失敗を犯すことになる。
けれどその失敗は、退歩というよりは、むしろ停滞とみるべきだと言われ、それは霊には進歩や停滞はあっても、退歩ということは決してないのだからと断言されている。私達人間が今の段階から退歩するということはないとのことで、とても有難く感じた。今の自分のレベルからは下にさがることはないとのことで、安堵する。また、今現在の環境から、過去生でのありようを推し量ることができるのではないかということには、霊が身に受ける試練とは、過去生の結果のものでもあるが、また未来のためのものでもあると言われているのだ。だとしたら、過去生ばかりに囚われるのではなく、今現在のあり方が未来をも創るのだとしたら、どう生きればいいかは自ずと分かるのではないかと思う。その選択こそが、未来を決定するのだから
。
1025回目の瞑想
ーーー受肉の時、霊は自分の意志で肉体をまとうのでしょうか。
「その問いは、囚人に自分から進んで牢獄につながれるのかと、問うのと同じことである。受肉した霊は絶えず解放を願っている。肉体の衣が鈍重であればあるほど、それから解消を求める気持ちは強い」
ーーー睡眠中、魂は肉体と同様に休息しますか。
「いや、霊は少しもじっとしていない。睡眠中には肉体に霊を結び付けている鎖が弛められる。この間、肉体は霊の存在を必要としないので、霊の方はあちこち空間を歩き回り、他の霊達と直接交流する」
ーーー睡眠中は、霊が自由になっているという事実を、私共はどうやって知ることが出来ますか。
「それは夢によって分かる。肉体の睡眠中に霊は、覚醒時には気付いていない能力を発揮しているのである。過去を思い出す、未来を予見することもある、力量が一層増しているので、この世やあの世の諸霊と交流することも出来る。
諸君はこう言うことがある『おかしな夢を見たよ、この世とのも思えぬ怖い夢を』と。その見方は間違っている。その夢とは、過去生で見た事物や場所を思い出している事がしばしばだし、また、次の世界で、ないしは未来のこの世で見るものを予見していることもあるのである。肉体の方は活動を停止しているので、霊は鎖を断ち切ろうとする。そこで、過去や未来に入り込んで、やりたいことをやろうとするのである。
人間とは哀れなものよ。自分が生きているごくありふれた事実についても、殆ど知っていない。自分では沢山知っていると思い込んでいる。しかし、ごく当たり前のことにも目をパチクリする。子供が『眠っている時、僕等は何をしているの?』『夢ってなあに?』と尋ねても、一向に答えることも出来ぬ。
睡眠中に、人は肉体から離れると、ある程度の魂の自由を味わっている。眠ると、霊の方は暫時、死後本人が入るであろう状況の中に入る。死んで直ぐに物質から解放されるような霊は、生前、いわば<知的な睡眠>をしていた人々である。このような人物は、眠ると自分達より秀れた霊のいる世界へ入っていく。其処でこれらの霊と行動を共にし、語り合い、種々の啓示を受ける。彼等はまた霊界で仕事をしたりもする。死んだ時、彼等は自分がその仕事をもう始めていたこと、あるいはやり終えていたことなどに気付く。これらの事実よりする時、死とは何ら恐るべきものではないことが分かるだろう。聖パウロが言ったように人は『毎日死んでいる』のである。
今まで述べたことは、進歩した霊達のことである。ごくごく普通の大衆の場合はどうかというと、彼等は死後、長時間混乱と不安の状態のままでいる。というのは、彼等は睡眠中に地上よりもっと低い世界へ行っていたのであって、そこへの執着、下劣な楽しみの魅力、そういうことで、その古巣へと戻って行くのである。そんな処で彼等が耽るものは、地上生活中の彼等の生活より、更に下卑た愚劣な幼稚な思想ばかりである。現世でも、心ひかれるものは楽しいひと時を共にもった人達のこと、この事実ではないか。これに反し、話を聞いただけでも毛嫌いしたくなるような人達もいる。それは肌が合わないという感じてあって、未だ一度も見たことのない人達の場合にはそういうことがある。人と人とが無関心なのはこういう事実の中にある。さて、彼等、かの霊達は新しい友を求めたりはしない、古い馴染みの連中が其処にいるからである。一言でいうと、睡眠とは、人が思っている以上に大きな影響を及ぼしているものである。
睡眠の効果を通じて、肉体をまとっても霊魂は、常に霊の世界と接触を保っているのである。またこの事実あるが故に、高級の霊も大した反対もなしに、地上に受肉する気になるのである。神はかように望まれたのであるーー彼等が悪徳の中に混じっても、また清廉の源泉へ行き、身の浄化が出来るようにと。また、他者を導くために現界に入った彼等が、悪によって身を滅ぼすことのないようにと。睡眠とは、神が彼等のために開いた門である。彼等はこの門をくぐり、霊界の友等の元に行き、疲れた身に元気を取り戻す。前途には大いになる解放が待っている、死後の自由、それこそ彼等にふさわしい真実の世界、そこに入って行くための門である。
夢とは、霊が睡眠中に見聞したことの記憶である。しかし、人はいつも夢を見るわけではない、それは見たことすべてを記憶しているとは限らぬから。また、魂の見聞だけが夢になるとは限らない。睡眠に入る時や終わる時の単純な反映による雑夢もある。また覚醒時の行為や思考の記憶もまじっている。さて、最高の賢者が、最低の愚者が見るような馬鹿げた夢を見ることがある。これを何と説明したらよろしいか。それは、邪悪霊は弱く小心な魂を痛めるつけるために夢を利用する、ということである。
そのうち、諸君は古い昔の夢、自分でも知らないある種の夢を見ることがあろう。その夢というのは、ジャンヌ・ダーク、ヤコブ、ユダヤの預言者、印度の苦行僧たちの夢ーー魂が肉体から完全に自由になり、第二の生活、先程述べた霊の世界での記憶が夢となったものである。
夢を見たら、その夢が二種類の中のどの夢かを、しっかり見分けることである。これをしないと、矛盾撞著、偏見に陥る危険性があるからである」
(明日に続く)
今回は睡眠と夢という内容である。かなり長いお答えもあり、内容自体もはっきりと意味がわかないものもあるが、取り敢えず記載した。最初の質問のお答えには、びっくりする。地上に行くために肉体を身にまとうことの例えが、囚人に自ら進んで牢獄につながれるかと同じだと言われているからだ。それくらい地上に誕生するということは苛酷なことなのだと思った。母から聞いていたこともあって、私は昔から睡眠中に霊界に行っているということは知っていたし、その間、いろいろな体験をしているということも知っていたので、大半は納得だった。ただ睡眠中の出来事についての詳細は今回いろいろと勉強になった。ただ、ごくごく普通の大衆の場合の状態についての様子は、かなり酷いものであるように感じた。もちろん、普通の大衆と言っても、千差万別で、その中でも上のレベルの人や中くらいのレベルの人達もいるのではないかと思う。ここに書かれている様子については下のレベルの人達のことなのではないかと思うが、どうなのだろうか。それとも、霊的なことがわかっていない普通の大衆はすべて、このような状況に置かれるのだろうか。だとしたら、やはり今生で霊的真理を知ることは必須なのではないかと思う。
睡眠とは、人が思っている以上に大きな影響を及ぼしていると言われており、神様が望まれたとある、私達人間が悪徳の中にあっても、睡眠で霊界に入れることで身を浄化できるようにして下さっていると。また他者をも導かれるために現界に入られた霊界の方々が悪によって身を滅ぼさないようにと開いて下さった門であると。私達はみな毎晩霊界入りしているのだ。もちろん、死後入るべき段階の世界に行っているのだ。そこで、十分にエネルギーを充電してまたこの地上に戻ってくるということなのだ。睡眠中に見る夢は、霊界で体験した記憶であると言われているが、ほとんどの場合、記憶には残らないのではないかと思う。また霊界の体験だけではなく、雑夢などもあると言われ、覚醒時の行為や思考の記憶がまじっている場合もあると言われているのだ。そうなると、一般の人にとっては、睡眠中に霊界で体験しているなどという事実を認めることは甚だ難しいのではないかと思う。
私も今日起きがけに夢を見た。何人いたかも誰かということも分からなかったが、意見を言い合って(と言っても場の雰囲気は悪くはなかった)おり、かなり長く話していたように感じていたが、私自身がおトイレに行きたくなり、中断することで、夢から覚めたのだった。最近、詳細には覚えてはいないが、そんな夢をよく見るようになっている。死後、霊界に行ったら、きっとどんなことを話していたのかわかるのだろう。今はそれでいいと思っている。
それとは別に今日の瞑想でのことなのだが、最近は神様や霊界の方々に感謝の気持ちと、自分の今生のお役目を果たせるようにお導き下さいとのお祈りさせて頂いている。そのお祈りが終わったと同時のことだった。いきなり「母ちゃんはどうしたいの?」という問いかけを感じ、すぐに息子だと思ったので「私のお役目を全うさせて頂きたいと思っているのだけどね」と心で思うと「お役目とかではなくて、母ちゃんがどうなりたいか、自分がどうしたいかを先ずは決めないとだめなんだよ」と。更に「目的を具体的に決めて、お祈りすることが大事なんだよ。母ちゃんの目的は?どうなりたいの?」すると「神様を今よりももっと深く信じて、どんなことがあろうとも、あるがまま何もかも受け入れられるようになりたい」そう答えるとジンワリとした温かい気持ちになり、涙がゆっくりと流れてきていたのだ。息子は「それなんだよ!それをお祈りすることが大事なんだよ」と。その言葉で私は確信したのだ。私の目指すところはそこなのだと。息子はそれを教えに来てくれたのだとわかって、更に涙が出続けていた。そして先日頂いたお言葉とやはり符合することに気がついたのだ。「神様を信じる心を更に揺るがないようにするための今生である」と。このことは簡単なようで、実はかなり難しいことではある。頭でわかるのはたやすいが、心でわかるのは至難の業だからだ。それは例え、ライオンに食べられようとも恐怖に思わないということなのだ。あるがまま何でも受け入れるということはそういうことだ。神様を心底信じて神様にすべてをお任せするということは、自分が死ぬとわかっていてもなおそれを甘んじて受けるということに他ならない。それはイエス様もお釈迦様もされてきたことなのだ。私もいつか実践できるようになりたいと心から強く思うことが出来たのである
。
1026回目の瞑想
ーーー私共が必ずしも夢を記憶しておれないのは何故ですか。
「睡眠とは、単に肉体の休止にすぎないのであって、霊の方では常に活動している。睡眠中、霊は自由を回復して、現世や他界の親しい者達と交流をする。しかし目覚めた時、肉体の物質は鈍重なので、霊は睡眠中の印象をそのまま持ち続けるのことが困難である。つまり、これらの印象は肉体器官によって受け取ったものではないからである」
ーーー夢の意味の解釈は、どのように考えたらよろしいですか。
「夢とは、占師の言うような夢判断にあたるものではない。一つの夢が一つの出来事の表現であるなどというのは馬鹿げたことである。しかしながら、それは次の意味でならば表現と言えるーー即ち、その夢が現世の出来事とは関係ないにしても、霊にとっての真実のイメージの表示であるという意味ならば、夢はまた、多くの場合既述のように、記憶である。また、もし神の許しがあらば、未来の虫の知らせである場合もある。また、魂が出かけて行った場所での、その時に生起している事柄の光景でもある。諸君は幾つもの事例を御存知ではないかな、夢の中で、家族や知人の前に出現した者が、何か事件について注意を与えるということを。幽霊とは何ぞや? 何か通信したくて其処に来ている人の霊でないとしたら。目に見えた通りのことが、実際に生起したのが確かならば、それは自分の幻影ではなかったことの証拠ではないか。特にそれが自分の覚醒時に考えたこともなかったものだったとしたら」
ーーー私共は、よく予告と思えるような夢を見ることがありますが、実際は何事もありません。これはどういうことですか。
「その事は本人の霊的体験の中で生起するかも知れない。肉体的経験でなくて。即ち、霊は見たいと望むものを見る、霊はそういう方向に進むから。霊は睡眠中も多少は物質の影響下にあるということを忘れないで貰いたい。つまり霊は完全に現界の観念から自由というわけに行かぬ、従って、彼の願望や恐怖が夢の中に形をとって出現することがある。これをもって想像の産物と言われるような様相を呈するのである。心がある観念で一杯になっている時は、何もかもその観念と結び付けてしまいがちなものである」
ーーーよく知っている人物が夢に出現して、本人が考えてもいないことをする夢をみることがありますが、あれは想像の産物ではありませんか。
「それを彼が考えていない?なぜ貴方にそうだと分かるのですかな。彼等の霊は貴方の夢に出現する、貴方が彼等の夢に現れるように。貴方は目が覚めている時には、彼等が何を考えているか一向に分かっていない。それなのに、貴方は自分の欲求のままに、勝手にその知友に、過去に自分が起こったことの追憶やら、今生起しつつあることの追憶やらを、押し当ててしまっているのである」
ーーー魂の解放には、肉体の熟睡が必要ですか。
「いや、霊は感覚が遠のくと、直ぐに自由となる。霊は肉体の拘束が止まると、どんな瞬間をもりようして自由を発揮するのである。身体の活力の低減、即ち霊の肉体からの解放、つまりは肉体の力が弱くなればなるほど、霊の方の自由は増していく、こういうわけである」
今回も睡眠と夢の続きである。夢を記憶してられないのは、肉体は鈍重なので、霊は睡眠中の印象をそのまま持ち続けるのことが困難だと言われており、夢としての印象は肉体器官によって受け取ったものではないからと言われている。納得である。続いて夢の意味の解釈についてだが、霊にとっての真実のイメージの表示としての記憶であり、虫の知らせである場合もあると言われ、霊界でのその時に生起している事柄の光景でもあると言われている。母は予知夢なども見たようだったし、また霊夢と言われる起きてしまったその結果を見たこともあったようで、私は何度かそれで救われた思いになったものだ。私自身は殆どそういった夢は見たことがないと思う。ただ、霊は睡眠中とは言え、多少は物質の影響下にあると言われている。なので、その時の願望や恐怖などが夢の中に出現することもあるし、心がある観念で一杯になっている時にはその観念と結び付けてしまうこともあると忠告されている。次は個人的見解のようにも感じるし、私には経験がないので、スルーさせてもらった
。
1027回目の瞑想
ーーー私共は時として、胸の内で何か語るような声を聞くことがあります。別に自分が何かを考えているわけではありません。これはどういうわけですか。
「左様、そのような事がよくある。特に感官の働きが微弱になりかける時には、全文が聞こえることもある。それは貴方に通信したがっている霊魂の声のおぼろげな反響、そのようなことがある」
ーーー半睡で目をつぶっている時、はっきりとした幻像が細かい点まで見えることがありますが、あれは想像の産物なのですか。
「肉体の力が弱まると、霊の方はその拘束を打ち破ろうとする。霊は肉体から離れて、ものを見る。眠りが深まると、その見るところのものが夢となる」
ーーー睡眠中、ないし半睡中に、これは大事だと思える観念が浮かぶことがよくあります。しかし目が覚めると、いくら思い出そうとしても思い出せない、あの観念はいったい何処から来るのですか。
「霊は肉体から解放されると、この間にいろいろな力を発揮する。その観念というのは、この霊の働きの結果である。また、他の霊達からの諸君に対する助言、そういうこともよくある」
ーーーしかし、私達の方でその記憶を失ってしまうとすれば、その観念なり助言なりの効果は何ですか。何か役に立つことがありますか。
「これらの観念はどちらかというと、現界より霊的世界に関係したことの方が多い。しかしながら概して申すと、かりに肉体が記憶を失っても、霊の方では憶えているものであって、本人が目覚めている時、適当な時に、恰も直観のような具合いに、際限されるものである」
ーーー肉体に宿っている霊が、一時肉体を離れて霊として活動している時に、自己の死の時を知ることがありますか。
「しばしばそれを知ることがある。それもはっきりと予知することがよくある。覚醒時に、ふと死の時を直感するということがあるが、それはこの理由による。また人によっては、正確に自分の死の時を予言する者があるが
、あれも同じ理由による」
ーーー肉体の静止ないし睡眠中、霊の活動が原因で、肉体が疲労を覚えるということがありますか。
「ある。霊は肉体につながれている。それは丁度、柱に繫留された気球のようなものだ。気球の活動で柱が揺すられる、それと同時に、霊の活動が肉体の方に反動を及ぼす、そのため肉体に疲労を感じさせることがある」
今回も睡眠と夢の続きである。胸の内で何か語るようなとあるが、私の場合は頭に浮かぶようなと言った感じだ。しかも瞑想している時が多い。また半睡の状態で目をつぶっている時とあるが、私の場合はやはり瞑想時に目をつぶっている場合に、幻像が見えることがある。細かい点まではなかなか見ることができないが、肉体から離れて霊として見ているのだろうか。次のことも、もちろん瞑想時にお言葉が浮かぶ。またその内容の一部など、思い出そうとしても思い出せないとは、よくあることだ。ただこれは霊の働きであると言われている。また他の霊達からの助言とも言われており、よくあるとのことだ。そして、肉体に記憶に残らないとしても、現界よりも霊的世界に関係したことが多いと言われ、霊の方では憶えているとのことだ。自己の死の時については、私はまだ予知したことはないが、ただ、長生きだけはしたくないと思っている。次の霊の活動が原因で,肉体が疲労を覚えるということはあるのだそうだ。その例えが気球のようだと言われており、おかげでわかりやすく感じた。
夢についての記載をしているからなのか、ここ最近、立て続けに夢を見ており、結構に覚えているのだ。昨日の夢になるが、見知らぬ同志を何らかの方法で(この方法は夢の中でははっきりと認識していたのだが、起きて思い出そうとしても思い出せなかった)共感し合える、またいい関係なれるという研究をしていた。男性二人を実験台にしていたが、二人とも私自身がこの世では会ったことはない知らない顔だった。また、今日は衝撃的とも言える初めて見る夢だったのだ。それは明日記載することにする。
1028回目の瞑想
ーーー睡眠中に霊が解放されるというのは、私共が同時に二つの生活をしているということを示していると思います。肉体の方は外的な生活、魂の方は霊的な生活、ということですか。
「魂の開放中は、霊の生活の方が肉体の生活よりも優先している。しかし厳密に言うと、それは二つの生活ということではない。むしろ一つの、即ち同一の生活の二面ということである。何となれば、人間とは二重生活を生きているものではないから」
ーーーよく知り合ってる仲の二人の人が、睡眠中に交流するということがありますか。
「ある。また、覚醒中には面識がない人達同士で語り合うこともある。諸君は間違いなく、他国に友人達を持っているかも知れない。睡眠中に友人達を、身内の者を、知人を、自己のためになる人々を、諸君が訪問するという事実は実に多いのである。毎晩、実は諸君はこれをやっている」
ーーー夜中の訪問は一向にその記憶がないのですが、その効用はいったい何ですか。
「この訪問した時の直観は、覚醒中にも諸君の中に残っている。この直観は後日、理由もなしに自動的に、ふと心に観念として蘇ることがある。その感じは睡眠中の霊交に起源があるのである」
ーーー意志の働きによって霊的訪問が出来るでしょうか。例えば、寝る前に次のように自分に言い聞かすことによって「今晩これこれの人に会って、これこれについて語り合いたい」と。
「そのようなことはある。人が眠りにおちる。霊の方は別の生活に入る。しかしながら、霊は本人がこうと決めた計画には中々従わぬことが多い。というのは、人間の生活は霊が肉体から離れると、霊の行動には殆ど掛かり合わないからだ。しかし、ある程度進歩した人の場合は、上記の言葉はその通り
実現される。そうでない人の場合は、霊の行動は全然違ったものとなる。つまり霊は感情の赴くままに行動したり、あるいは何もしなかったり、ということである。それ故、たまたま計画通りに目的のその人を訪れることもある。だからと申して、本人が覚醒時に意志したが故に、必ずそうしたのだということではない」
ーーー多数の人々が、睡眠中に、互いに訪問し合ったり、集まったりが出来るのですか。
「出来る。交友の結び付きは、新しきも古きも、親しみのある霊魂達を互いに引き付けるのである」
[注解] 「古い」という言葉は、他界での交友の結び付きと解すべきである。我々は目覚めた時、霊的交流をしたような一種の感覚を思うことがある。が、その出所については一向に分からない。
ーーー死んでいない友人を、死んでいると思い込んでいれば、その人は霊として友人に会うことが出来ますか。またその結果、友人が生きていることを知ることが出来ますか。この場合、彼はこの事実を目覚めてからも、直感として持ち続けることが出来ますか。
「出来る。霊としてこの友人に会い、その建在を知ることが出来る。もしこの友人が死んでいるという思い込みが、当人の罪の償いのためそう思い込んでいるのでなければ、友人の建在の印象は覚醒後も残るだろう。逆に罪の償いのためなら、死の印象の方が残っている」
今回は生霊間の交通についての内容である。睡眠中に霊が霊界での活動することについて、同一の生活の中のこの世とあの世の二面だと言われている。また、この世での知り合いの人とは睡眠中に交流すると言われている。(この本では覚醒中にはとあるが睡眠中のことだと思う)面識のない人とも語り合ったりしているとのこと。ということで、他国での知り合いも間違いなくいるようだ。とにもかくにも睡眠中には、自分のためになる人達を訪問し、会っているようだ。記憶になくても毎晩そのようにしているらしい。(最近の夢で、私もかなり実感してきている)
確かに訪問しているという記憶はないのだが、だが、記憶にないからと言って、訪問していないということでもないだろう。そこは信じるかどうかだと思う。ただ、ふと心に思うことは誰にもあるのではないだろうか。それは睡眠中の霊交に起源があると言われているのだ。
睡眠中の出来事を自分の意志で実現できるのかとういうことについては、私自身、今試しているのだが、だが私はあくまでも睡眠中の出来事を覚醒時にも記憶させておいて欲しいとのお願いしている。ある程度進歩した人の場合は実現されるとのことだ。そうでない人の場合はたまたま計画通りに行くこともあるらしいが、霊の行動は違ったものとなり、感情の赴くままだったり、何もしなかったりということらしい。殆どの人が霊の存在を信じていないのだし、また夢で霊界に行っているなどとは思いもしていないのだから、当然のことと言える。それでも、多数の人達は睡眠中に互いに訪問したり、集まったりしているようだ。それは親しみのある霊達が互いを引き付けるのだと言われている。注解には古きというのは、他界した人と解釈するべきだと書かれている。また霊的交流をしたような感覚というのは残っているのだと思う。私にも経験はあるので、はっきりした記憶がなくても、感覚だけが残っているということはわかる。
次の質問は経験がないので、よく分からないが、確かに音信不通になってしまった友人とか、知り合いなどの健在を確かめる方法としては、いいのかも知れない。ただ、あくまでも心から知りたいと思う人だけにした方がいいのではないかと思う。
今朝もまた夢の一部分ではあるが記憶に残っている。だが、昨日の衝撃的な夢の内容を記載しようと思う。
場面は海の中で、外人男性二人が苦しそうな表情で、絡まりながら揉みあいながら、海の中でもがいている感じだった。すると形がエイのようなのだが、かなりグロテスクな、この世のものとは思えない大きな生物?というような物が、いきなりその一人の男性に近付くと身体の一部に磁石のようにくっつき、海の底へと連れ去られてしまったのだ。咄嗟に私はもう一人の男性を助けようとしたのだが、すぐにまた(先程のものと同じものなのかはわからないが)同じようなグロテスクなものが、その男性めがけてくっつき、下へ引きずり降ろして行く。海の底で、その男性は横たわり、全く動かなくなった。亡くなってしまったことがわかったのだ。すると今度は場面が変わり、今度は女性が、その男性を心配して探している場面になる。女性の後を追う形で着いて行ったのだが、その途中で死体が入っているであろう袋が見えると、その袋とその女性の間を取り抜けて行ったのだ。そしてその先には左横に階段(どこに続いているかはわかなかった)があり、その二、三段あたりの所に(先程の女性なのかそうでないのかはわからなかったが)女性が座っており、長い裁ちバサミのようなもので喉を突き刺しているのが見え、一瞬目を覆ってしまった。そしてまた見ると、首をうなだれており、血がドバドバと流れ落ちていたのである。
これ以外にもショッキングな映像が結構あったように思うのだが、はっきりと覚えているのはこれだけだった。何とも恐ろしい衝撃的な内容で、起きた後も心臓がドキドキしており、身体は熱く感じた。だが、少しすると落ち着いた。後から感じたことなのではっきりとはしないが、外人男性二人は同性愛者ではなかったかと思ったのだ。何にしてもこんな夢は初めてだった。一応記録として残しておこうと思う。
1029回目の瞑想
ーーー同じ観念がーー例えば、同じ発見のアイディアがーー同時に複数の人に現れることがよくありますが、彼等がどもに遠く離れているにも拘わらず、あれは何処から来るのですか。
「前にも言った通り、霊は睡眠中に互いに交流し合っている。そこで、肉体が目覚めている時に、霊はその学び知ったことを思い出す。人はその時自分でそれを思い付いたのだと思う。この故に、同時に複数の人物が同一のことを発見出来るわけだ。諸君は着想は『空間にあり』と言う。それは真理は思いがけず近くにあるという意味だ。人は誰しも無意識のうちに、思想を伝達し合っているのである」
ーーー肉体の覚醒時にも、霊の方は相互に交流できるのですか。
「霊というものは、箱の中にあるように、肉体の中に閉じ込められているわけではない。それは四方八方に肉体の周囲に放射している。それゆえ覚醒時と言えども、他の諸霊と交流することは可能である。ただ相当な困難はあるが」
ーーー覚醒時に、二人の人間が同時に同一の思想を持つと言うことがよくありますが、どうしてそうなるのですか。
「心の通じ合っている二人の場合は、覚醒時でもお互いの思念を交流し合っている、この故である」
今回は思想伝達についての内容である。複数の人と同じようなことを思い付くのは、睡眠中に互いに交流し合っているからだと言われている。それが覚醒時にはふと思いつき、自分の考えだと思うのだと。だからこそ、複数の人が同じことを思い付けるのだと言われている。しかも覚醒時にも他の霊と交流することが相当に困難なようだが可能だと言われているのだ。
最後の二人の人間が同時に同一の思想を持つということは、私達夫婦もよくある。もちろん、たわいも無いことも含めてだ。私が口にしようとしていると主人が先に同じことを言い、以心伝心だね〜っと笑いながらよく言っているのだ。このお答えの「心が通じ合っている二人」ということなのだと改めて感じた次第である。
昨日の夢も一応記載しておく。
手渡された長い手紙のようなものの中の、一節をしらべのように、声にだして読み上げていたのだ。なので、その箇所だけははっきりと記憶していた。ただ、夢の中ではその手紙がどういうもので、相手は誰なのかもわかっていたのだが、起きた時には、その一節だけが繰返し繰返し頭に浮かんでいて、それ以外のことは一切思い出せなかった。その一節とは
「あなたにまた逢うことができてよかったのです。本当によかったのです。また、好きになれて幸せでした。」
また瞑想時には、トンネルのような先にまぶしいほどの光りが溢れているのが見えた。(トンネルのような場所も明るかった)だが、全くまぶしくはなくしっかりと見ることが出来たのだ。ただ、その先に行くことはせず、見ているだけだったのだが、素晴らしい光りに包まれているような感覚になった。
1030回目の瞑想
ーーー昏睡と硬直の状態のままで、一般に患者は自分の周りに起こっていることを見たり聞いたりします。しかし、この印象を表現することは不可能です。この印象を受け取っているのは肉体の目と耳なのですが。
「違う。これを受け取っているのは霊の方だ。霊は意識していても。これを表現することは出来ない」
ーーーなぜ、表現出来ないのですか。
「肉体の状況のため、霊の思い通りにならないのである。肉体器官のこの特殊の状況からして、人間とは肉体以上の何者かであるということが分かる。肉体は作動していないのに、霊の方は活動しているのであるから」
ーーー身体硬直に陥り、霊は肉体を離れてしまい、外見上は全く死んだようになってしまったのに、霊がその後肉体に戻って住むことが出来ますか。
「身体硬直下では肉体は死んではいない。依然として、多少の肉体機能を働かせている。活力は残存しており、微々たるものだが無くなってはいない。肉体が生きている限り、霊魂はつながっている。両者を結んでいる紐が、身体器官の死と停止によって切断されると、両者の分離が実現され、もはや霊魂は二度と肉体には戻らない。明らかに死んだように見える人間が生き返るのは、死の過程が完全に終了していなかったからである」
ーーー適切な救助により、切れかかっている紐を更新させ、もしこの救助がなかれば決定的に死んだ筈の人間に、生命を呼び戻すことは可能ですか。
「可能である。間違いなく、諸君はこの種の証明を毎日もっている。メスメリズム(催眠術)はこのようなケースで、しばしば強力な気付けの施術を演じてみせる。それは肉体に活力液を供給するからである。この活力液をその肉体は欠いていて、そのため器官の活動がうまくいかなかったのである」
今回は昏睡・
硬直・死についてである。昏睡や硬直の時に、周りを見ているのは霊の方だと言われている。臨死体験した人が、その時の様子を語ることがあるが、霊として見たことを記憶しているということなのだろう。だが、肉体が昏睡状態だったり、硬直している時などに、霊としてみていたとしても、肉体が停止している以上、それを伝える術がない。だが、依然として霊は活動していると言われている。また、身体硬直の段階では肉体は死んでいないと言われており、多少の肉体機能は働かせていて、活力も残存しており、微々たるものだが無くなってはいないとのこと。そして、肉体が生きている限り、霊魂はつながっていると言われているのだ。だが、両者を結んでいるシルバーコードが、身体器官の死と停止によって切断され、両者の分離が実現されると、もう二度と霊魂は肉体には戻らないと言われている。シルバーコードが切断されることによって、死ということになるのだ。ということはシルバーコードが切断されない限りは、生き返る可能性はあるということになる。けれど、そのシルバーコードが切断されたかどうかは私達人間にはわからない。結局、死をもってシルバーコードが切断されたことを知るしかないということになる。
次の質問のお答え
には驚かされる。切れかかっているシルバーコードを更新させることが、催眠術で可能だと言われているからだ。活力液というものがどういうものかわからないが、その活力液が肉体に欠いているからだと言われていて、そのため器官の活動がうまくいかないとのことだ
。その活力液を催眠術で供給することができるらしい。そんなこともできるということを初めて知って、驚くばかりである。
実は昨日も夢を見ていた。
それも何とお久しぶりに母の後ろ姿がいきなり目の前に現れたのだ。(お母さんだ!!)と心で叫び、懐かしさのあまり、声をかけようと近付くと、母の影に隠れて見えなかったのだが、そこには若い時の姿の自分がいたのだ。びっくりして声をかけるのをやめてしまっていた。
過去に行っていたのだろうか。
せめて振り向いてもらって顔を見たかったと起きてから思っていた。
1009回目の瞑想
ーーー前生での苦しい出来事を霊は記憶していますか。
「よく覚えている。この記憶があるから、霊が享受できる至福の有難さが、一層はっきりと理解できる」
ーーー幸福な地上生活を送った者は、現世を去る時、地上の喜びに哀惜をの情を抱きますか。
「低級霊の場合は、そういう物質的快楽の喜びを愛しがる。だがそういう態度は、苦しみをもって報われることになる。高級霊の場合は、永遠の至福の方が、地上の一時的な快楽などより、比較にならぬほど好ましい」
ーーー世のため人のために、ある仕事をしていた人が、死によってこれが中断された場合、他界に入って彼はそのことを残念がりますか。
「いや、彼は他の人々がその感性の役を果たしてくれることを知るので、残念に思うことはない。むしろ、彼は自分の始めたその仕事を、他の人々が達成してくれるよう、それらの人々の心に働きかける努力をする。地上にある時、彼の目的は人類のためになることだったので、他界に入っても、彼のその目的は変わらないのである」
ーーー地上に美術や文学作品を残してきた人は、他界に入っても、地上でその作品に対して彼が抱いていた興味を持ち続けますか。
「彼の進歩に従い、昔とは違った見地からそれらの作品を判断するので、以前の誇らしさとは逆に非難することが多い」
ーーー霊は地上で進められている仕事、芸術や学問の進歩に関心を尚持っていますか。
「それは、その霊の進歩の程度とその使命によって違ってくる。地上の諸君には素晴らしいと思えるものも、霊にはごく些細なものにしか見えないことが多い。もし霊がそれに興味を持つとすれば、それは単に学者が小学生の作品に関心を示すのと同じようなものだ。霊は地上人の進歩を示すものは、何でもこれを調べ、その進歩の程度に注目するのだが」
ーーー霊は死後も祖国に対して、何らかの愛着をもっていますか。
「進歩した霊にとって、祖国とは宇宙である。これらの霊が地上に愛著を持つとすれば、彼等と共感する多数の人達が住んでいる場所に対してだけである」
ーーー霊は他界生活中に、ものの考え方を変えることがありますか。
「それは大いに変わる。霊が物質から超越していくに応じ、その思想は大きく変化していく。あるいはしばしば、長時間にわたり、霊は同じ観念を持ち続けるかも知れない。しかし、徐々に物質の影響が消えていくと、ものがはっきりと見えるようになるのだ。この時、霊は進歩の手段を求めるようになる」
ーーー地上に生まれてくる前に、霊は霊界に住んでいたのすから、再び霊界に戻って来た時、なぜ驚きを感じるのですか。
「この驚きは一時的なもの、それは死から霊への目覚めから起こる混乱によって生じるもの。だが間もなく、過去の記憶が帰ってくるにつれ、自分についての知識を回復し、地上生活の印象が消えてしまう」
今回も地上の記憶についての内容である。前生での苦しい体験はよく覚えていると言われ、その記憶のおかげで霊が享受できる至福の有難さが一層はっきりと理解できるとのこと。霊界に行っても苦しい体験は覚えていると知って、複雑な思いだ。地上での幸福は霊界の至福には比べられるものではないと言われるが、それは最もなことだと思う。また世のため人のための仕事をしていた人が、途中で亡くなったとしても、地上でのことは地上に任せて、出来る限りの援助をし、霊界でも同じ目的である人類のためになることするようだ。また地上に美術や文学作品を残してきた人は、霊界での進歩に伴い、その作品の評価が変わるようだ。そして地上での芸術や学問などの進歩は、霊から見ると些細なものでしかないらしい。しかももし仮に興味をもつとしても、それは単に学者が小学生の作品に関心を示すのと同じようなものだと言われているのだ。いやはや霊界とは想像できないくらい上を行っているのだと思う。更に進歩した霊にとっての祖国は宇宙であるとのこと。また地上に愛着があるとすれば、それは近しい間柄の人達が住んでいる場所であって、祖国ではないとのこと。他界中に霊が物質から超越していくに応じてその思想は大きく変化すると言われており、例え同じ観念を持ち続けていても、徐々に物質の影響が消えていくと、ものがはっきりと見え、進歩の手段を求めるようになるとのこと。
最後の質問は私も前から疑問に思っていたことだ。シルバー・バーチ霊も睡眠時、霊界に行っているのは、死後霊界に入って戸惑わないようにと言われていたが、地上に生まれる前には霊界にいたのだから、なぜ戸惑うのだろうと思っていた。だが、やはり驚きというのは一時的なもので、それは死から霊への目覚めから起こる混乱によって生じるものらしい。けれど、過去の記憶が戻ってくるにつれて、間もなく、知識を回復し、そして地上生活の印象は消えてしまうとのこと
。そうやって何度も再生を繰り返しているのだろう。
1010回目の瞑想
ーーー地上で好きだった人達が思い出してくれると、霊は心を動かされますか。
「それは諸君が想像する以上に、その影響は大きい。もし霊が幸福な場合は、その幸福を倍加するものだし、不幸だったとしたら、大きな慰めになる」
ーーー国によっては死者の慰霊の日が定まっています。そういう日には、特に霊は地上の知人に心を惹き付けられますか。霊はその日、お墓参りに来る人達に会うことを目的としますか。
「それはいつの日でも同様、その日にしても、親しい思いを向けてくれれば、霊もこれに応ずる」
ーーーその日には、霊は遺骸の埋めてある場所へ特に行きますか。
「その日には、霊は大挙して墓地へ出かける。それは、大勢の人達の思念によって、そこへ呼ばれるからである。しかし、各霊魂は自分の知友のためにのみ行くのであって、決して無縁のそこに来る大衆のために行くのではない」
ーーーどんな形をして、霊はそこへ行くのですか。また、もし人間の目にその姿が見せられるとしたら、それはどんな風貌ですか。
「顔も形も、生前見慣れたままの姿である」
ーーー人から忘れられ、誰もその墓を訪れる者のない霊達も、やはり墓へ出かけますか。誰も彼を思い出してくれる人もないのを知って、彼は残念に思いますか。
「霊にとって、地球とは何であろう。もし彼等が大地につながっているとすれば、それは心によってのみである。もし、その霊に地上から何の愛情も向けられていなければ、彼を大地につなぎ止める何ものもない。彼の前には大宇宙が拡がっている」
ーーー友人が死者のために祈るより、墓にお参りしてやることの方が、霊には更に嬉しいことですか。
「墓にお参りすれば、その死者が忘れられていないことを霊に示すことにはなる。つまりそのしるしである。既に述べたように、直ちに死者のためになるのは心に念ずることであって、墓に行くかどうか、例えそれが心からそうしたものでも、大した意味はないものである」
(明日に続く)
今回は葬式という題名であるが、今回の内容は残された人の思いが死後霊となった故人にどのような影響があるかについて書かれている。それは当然のことながら、故人を思うことは霊にとっても嬉しいことであるとは思っていたが、それは私達人間が想像する以上だと言われている。その影響は大のようだ。息子にも良い意味で影響しているとしたら、この上もなく嬉しいことだ。ただ、私自身も以前から思っていたことだが、霊にとってのお墓は何の意味もないのだ。要するにお骨を置く場所でしかないのだということが、今回の内容でも得心できる。私達人間はどうしても見えるものを信じてしまうので、お骨のあるお墓に固執する。よって、お墓参りをするわけだが、その気持ちを知って、故人もお墓に来てくれるのだ。しかも生前見慣れたままの姿で、だそうだ。見ることができたら、どれほど力になってくれることだろうと思う。だが、それはお墓でなくても可能なのだ。最後の言葉にもあるように、お墓に行くかどうかは大した意味はない。要はどこにいようが心で想うこと、これが最も大事なことなのだと改めて確信した。
1011回目の瞑想
ーーー故人の銅像とか記念碑が建立される時、本人の霊は除幕式に出席しますか。その式典を嬉しい気持ちで見守りますか。
「そういう場合、霊は可能な限り、出席することが多い。しかし霊にとっては、そういう名誉よりも、人々に思い出して貰うことの方が大事なことなのである」
ーーー特定の場所に葬って貰いたいと希望する人がいますが、あれはどういうことですか。死後そこへ本人は好んで行くものですか。こういう物質的なことに重要性を置くというのは、霊的にみて低級なしるしですか。
「こういう希望は、特定の場所に対する霊の愛着から生まれるもので、精神的には未熟な証拠である。進歩した霊にとり地上の場所は問題でない。骨がどこにあろうと、霊界で愛着のある者同志がまた会えること、彼は知らないであろうか」
ーーー家族全員の遺骸を特定の場所に葬ることは馬鹿げたことですか。
「そんなことは霊にとって殆ど意味がない。但し、生きている人間には有用なことだ。というのは、こうすれば、故人達に対する彼等の記憶が一層強くなるから」
ーーー他界に入ってから後、霊は自分の遺骸に敬意が表されることに、満足を覚えますか。
「霊はある進歩の段階に達すると、地上的な虚栄の無意味さを知って、そういうことから超越する。だが霊の多くは、死後しばらくの間は、自分に敬意が払われると多大な喜びを感じ、また無視されると酷く悲しがる。彼等は依然として地上時代の馬鹿げた観念を持ち続けているからである」
ーーー霊は自分の葬式に参列しますか。
「参列することは極めて多い。だが多くの場合、霊は死んだ直後にいつも起こる戸惑いの状態下で、何が行われているかはっきり若ならない状態で参列している」
ーーー彼等は自分の葬式に多数の人が出席していると、嬉しいと思いますか。
「概ねそうである。葬式に集まった人々の気持ちに応じて」
ーーー霊は自分の相続人達の集まりに出席しますか。
「殆ど出席している。神慮によりそう仕向けられるのでのあって、これは霊に対する教育のため、また利己主義の懲罰のためである。これで、故人は生前に自分に向けられた愛や忠誠が本物だったかが判定できるし、また彼の遺産のことで、いがみ合う者達の強欲さを見て、ひどく落胆したりする。だが、この欲張りの相続人達の罰は、そのうち必ず来ることになろう」
ーーー人類はいつの時代でもどんな民族でも、本能的に死者に対し敬意を表してきました。これは、死後の生存に対する、直観的な信仰から出てくるのですか。
「前者、死者の敬意は、後者すなわち死後生存の信仰から生まれる自然の結果である。もしこの信仰がないとすれば、死者への敬意は何の目的もなく何の意味もない」
今回も葬式の続きである。故人の銅像や記念碑などが建立される時には、可能な限りその故人は出席することが多いと言われている。だがそれは名誉等と言うよりは、自分を思い出して貰うということの方が大事だと言われる。名誉などはこの世限りのことだから、それを悟った故人は眼中にはなくなるのだろう。また特定の場所に葬って欲しいと希望する人は私の知り合いでも結構おられる。だが、こう言った人は精神的には未熟な証拠と言われている。確かに霊界に行ってしまえば、骨などもう関係なくなるのだ。ただ私は骨の置く場所として、海がいいとは思っていた。だが、海に埋葬するには多額のお金などかかるようだ。なので断念したが、後はどこでもいいと思っている。我が家の先代の愛犬達も荼毘に付すのは個々にさせてもらったが、骨については大勢のわんこと一緒に埋葬してもらっている。骨の一部をペンダントにしてプレゼントされるなどのサービスをしている所もあるようだが、全く無用で骨を残す意味がないと思っている。骨があるが故に執着するということにもなりかねない。要はここで言われているその愛犬を心で想うこと、でしかないと思っている。
また、家族全員の遺骸を同じ場所に葬る、という事だと思うが、これも生きている間だけのことだ。亡くなってしまえば、実際に会うことが出来るのだから、骨などに関しては思い出しもしないのではと思う。更に自分の遺骸に敬意を表されることで満足を覚えるとしたら、まだまだ地上的な観念が抜けていないからだと、このお答えを読まなくても分かる。そして、自分のお葬式に出席するかということについては、息子が出席してくれていたので、得心できる。しかも息子は私を心配して寄り添ってくれていたと霊能者の方に言われていたので、本当に有難かった。死後間もない人はここに書かれているように殆ど多くは戸惑いが起こるとのこと。けれど、息子はしっかりと自分の状況が分かっていたことにも、ただただ感謝しかなかった。そして息子の学生時代の方々が、本当に多く集まって下さり、更に皆さん涙を流して下さっていたことに、義理で来られた方が一人もいなかったことに、私達親は救われた思いだった。変な言い方ではあるが、本当にいいお葬式だったと、思い出しても心が温まるそんなお葬式だったと思っている。そんな気持ちでいた所に今度は相続人のことで、がっくりくる。ドラマなどでもその様子を描いていたりするが、実際はもっとひどい場合もあるようで、親の死について神妙になるべき時に、自分の欲ばかりに目が眩むのは、余りにも低級に思えてならない。
最後の本能的に死者に対して敬意を表すということは、やはり潜在的にわかっているからなのだと思う。死んだら終わりと言っている人が、亡くなった人にお願いしたとか言ったりもする。矛盾していることを本人は全く意識していないのだ。終わりのお言葉に死者への敬意は死後生存という信仰がなければ、何の目的もなく何の意味もないとあるが、全くその通りだと強く思った。
1012回目の瞑想
ーーー霊は地上へ再生する時期を予知しますか。
「彼等は再生の予感はもつ。それは丁度、盲人が火に近付きながら熱さを感じるように。彼等は自分がいつか再生することは知っている。それは恰も、諸君等がやがて死ぬことを知っているのと同じように。ただ、いつ再生するか時期は知らない」
ーーーでは、死が地上生活に避けられないように、再生は霊の生活に不可避のものですか。
「その通りだ」
ーーー霊は皆、来たるべき再生に備えて、一生懸命ですか。
「中には、そのことに一考も与えず、また何も知らない霊魂もいる。これは進歩の程度によって違ってくる。場合によっては、自己の未来に何も気付かない不安定性は、一種の懲罰である」
ーーー自分の再生の時を早めたり、遅らせたりすることが出来ますか。
「強力な希望を持てば、早めることは出来よう。また前途の試練に尻込みして、これを遅らせることも出来よう。(霊にも、人間同様、卑怯者や無関心な者もいるのだ)だがそんなことをすれば、必ずや罪を受けることになる。このような遅延は本人を苦しめることになる。それは丁度、病人がびくびくして、適切な医療を遅らすために苦しむようなものだ」
ーーー他界の中くらいの境涯にいる霊が、そこで幸福を感じているとすれば、いつまでも無限にその境涯に居続けることは可能ですか。
「いや、無限にというわけにはいかぬ。遅かれ早かれ、どんな霊でも進歩の欲求が起こってくる。すべての霊は進歩せねばならぬ、それが霊の天命である」
ーーー魂がどの肉体に宿るかは、予め定められていますか。それとも生まれる時になって、たまたま選ぶのですか。
「一つの肉体に宿る霊は前もって予定されている。霊は自ら次に担うべき試練を選ぶが、その時再生したい気持ちになる。全知全能の神は、その時、既にその霊がどの肉体に宿るかを知り給うている」
ーーー霊は自分で宿りたい肉体を選ぶことが許されますか。それとも、自分の試練に適した人生を選ぶだけなのですか。
「霊はまた肉体をも選ぶかも知れない。何となれば、もし欠陥のある肉体を選べば、それは本人の進歩に役立つ大きな試練となるから、但し、彼がその障害をうまく克服すればだが。この選択は必ずしも本人次第ではない。しかし彼はその選択が許されるよう求めるかも知れない」
ーーーいざ生まれる段になって、自分の選んだ肉体に入るのを拒むことが出来ますか。
「そんなことをすれば、新しい試練を担おうとしなかった人以上に、厳しい苦しみを受けることになろう」
ーーーもう生まれるばかりの赤ん坊に、未だ魂が定まっていないということがありますか。
「神はあらゆる場合に備えておられる。この世にちゃんと生を享けるように定められている子供には、ちゃんと魂が宿る手筈になっている。計画なしで何ものも創造されることはない」(明日に続く)
今回は再生の序曲という題の内容である。再生について、とても分かりやすく説明されており、私達の死と同じようだと言われている。私達人間が、いつかは死ぬということを知っているように、霊もいつか再生するということは知っているようだ。だが、その時期については死であっても、再生であっても分からない、とのこと。しかも死と同じように再生も不可避なものだと言われている。そして更に再生について、考えないもの、気付かないものと進歩の程度によって違ってくると言われ、それは一種の懲罰であるとも言われているのだ。この世にいる時から、知り得たことは凄いことなのだと思う。また自分の再生の時を早めたり、遅めたりも出来るようだ。だが、試練に尻込みしての遅延は、本人の苦しみにもなり、必ず罰を受けることになるようだ。次の他界後に幸福を感じられるような境涯に居ることができたら、いつまでも永遠にその境涯に居続けたいと思うのではないかということについて、私もそう思っていた。だが、遅かれ早かれ、どんな霊でも進歩の欲求が起こってくるとのこと。それは自分の欲求というだけでなく、全ての霊は進歩しなくてはならないという、霊の天命なのだと断言されている。圧倒されるお言葉だ。
また、再生の際に霊がどの肉体に宿るかは前もって予定されているとのことで、神様はすべてご承知ということだ。そして、宿りたい肉体を自分で選ぶこともできるとのこと。その時に欠陥のある肉体を選ぶことで、その障害をうまく克服することが出来れば、その霊にとっての進歩に大いに役立つ大きな試練となると言われているが、だがその選択は必ずしも本人次第ではないとも言われている。けれど、生まれる時になって自分の選んだ肉体を拒否することは、厳しい苦しみを受けることになると言われており、拒否してはいけないということを戒めておられるだと思う。そして、生まれる時になっても、宿る霊が決まっていないということはなく、神様はすべて霊が宿る手筈をされていて、計画なしでは何ものをも創造されることはないと、ここでも言い切っておられる。やはり、すべてが完璧なのだと言わざるを得ない。
1013回目の瞑想
ーーーこの魂はこの肉体に宿るべしと、神によって特に強制されることがありますか。
「時にはそういうこともある。それは、霊魂の中に、試練を強制される者があるのと同じ事だ。こういうことは特に、その霊が遅鈍で自分一人では賢明な選択が出来ない場合に多い。罪の償いのために、ある霊は特定の赤ん坊の身体に宿らされることもある。やがてその赤ん坊が入る境遇や地位次第では、その事が霊にとって、懲罰の役を果たすことになるのである」
ーーーまさに生まれようとしている赤ん坊に、宿りたい霊が幾つもある時は、どうするのでしょうか。
「そんな場合には、神により、その赤ん坊に定められた運命を達成するに、最も相応しい霊が決定される。だが前にも言った通り、霊がどの肉体に宿るかは、生まれる前よりずっと以前に、ちゃんと計画されているのだ」
ーーー霊が肉体に宿る瞬間には、霊が肉体から離れる死の瞬間と同じような混乱が起こりますか。
「起こる。だがもっと大きく、特に混乱に時間はずっと永い。死の時は、霊はとらわれの状態から解放されるわけだ。だが誕生とはそのとらわれに再び入り込むことだ」
ーーー再生の瞬間を霊は厳粛な時と感じますか。それを、霊は真摯に且つ厳粛に行いますか、
「彼は恰も危険な航海に出かける旅行者、しかも進み行く波路に生死を期しがたい、そんな旅行者のようなものだ」
ーーー新しい人生で、自分は果たして選んだ試練をうまく乗り切れるかどうか。これは再生前の霊にとり、やはり心配の種でしょうか。
「それは大きな心配の種だ。何といっても、その試練をうまくやるかどうかで、進歩か退歩かが決まるのだから」
ーーー霊が再生する瞬間には、恰度死の瞬間の場合と同じように、見送りの霊達が取り巻いていますか。
「それは、その霊が住んでいた境涯いかんに依ることだ。もしその霊が愛情に満ちた境涯の住人だったら、彼を愛する霊達は、最後の瞬間まで傍にいて激励してくれるし、更にしばしば新生活の中にまで付いて来てくれる」
ーーー夢でよく我々に好意を示してくれる霊があるのですが、それはこういして我々の現実生活に付いて来てくれる霊なのでしょうか。ただ、私共はその顔を知らないのですが。
「そうだ、多くの場合そうだ。諸君が牢獄に囚人を訪れるように、彼等は諸君を訪ねてやって来る」
今回は再生の序曲の続きである。今までも感じていたことだが、霊自体が遅鈍だったり、賢明な選択ができないということに、少し違和感があった。地上の人間としての魂はそういうこともあるとは思っていたが、肉体を脱ぎ、霊界に戻って霊となったら、みなそれなりにわきまえた状態になると思っていたからだ。だが、この本を読み進めて行くことで、少しずつ違うことに気付き、今回の内容ではっきりとそれを感じることができた。それぞれの段階にある霊はその段階に応じた霊恪であり、やはり低い段階の霊は遅鈍であったり、賢明な選択が出来なかったりして、神様に強制的に決定されることがあるということなのだ。それは懲罰ということでもあるのだ。また更に驚いたのは、再生する瞬間は、死の瞬間よりも、混乱が生じるとのこと。それも永い時間かかるようだ。やはり、この世に生まれるということは霊にとって、辛いことだということがよく分かる。それを次のように言われている。「(再生するということは)危険な航海に出かける旅行者、しかも進み行く波路に生死を期しがたい、そんな旅行者のようなものだ」と。また再生前の霊も、再生後の人生をあれこれ心配しているとのこと。ただシルバー・バーチ霊は心配や不安は人間の敵と言われている。心配や不安は人間だけでなく、霊にとっても敵だと思う。だから、試練を乗り越えられるかどうか、それが進歩や退歩に拘わるとしても、信じて進むしかないのだと思う。
死の瞬間迎えに来てくれるのと同じように、再生する瞬間に見送ってくれるのかどうかという問いに対するお答えに、気付いたことがある。私は霊界での段階は分からない。また再生する時に見送ってくれたのかどうかも分からない。だが、ただ一つ言えることは、今までの人生で護られてきたという事実だけは確信している、ということだ。このことから、きっと、私自身にも同じ境涯の霊が、再生する時にも傍にいてくれて、そして今生でも付いて来て護って下さっているのだと気づかされた。そして更に確信に変わったのである。
1014回目の瞑想
ーーー魂は肉体といつ結び付きますか。
「両者の結び付きは受胎の瞬間に始まり、出産の時に完成する。受胎の瞬間に、霊は液状の紐で、肉体に結び付けられる。その液状の紐は出産の瞬間まで刻々に緊密さを増していく。こうして産声を知らせる。その嬰児が生者の仲間入りをしたことを」
ーーー霊肉の結合は、受胎の時から、確定的なものとなったのですか。受胎後の早い時期に霊はその肉体に宿ることを中止出来ますか。
「その結合は、ある意味では確定的と言える。つまり別の霊がその予定された霊と交替することは出来ない。しかし、両者を結ぶ紐は初期は大変弱く、切れやすい。だから、もし霊が前途の試練を嫌がって尻込みすれば、その意志で紐は切断されてしまうのだろう。そうなれば、赤ん坊は死んでしまう」
ーーー生まれる前に、もし予定した肉体が死んでしまえば、霊はどうしますか。
「別の肉体を選ぶ」
ーーー早すぎる死はどうしていつも起こるのですか。
「そのような死は肉体の欠陥によってしばしば起こる」
ーーー生後数日で死ぬような肉体に生まれて、どんな効果があるのですか。
「この場合は、その霊の生存の意識は未だ些細なものにすぎないから、死もさしたる問題ではない。前に述べたように、このような死は、両親のための試練が主眼となっていることが多い」
ーーー霊は、自分の選んだ肉体が早死にすることを知っているのでしょうか。
「知っていることがある。だが、もし知っていてその肉体を選ぶとすれば、それは前途の試練を恐れている証拠だ」
ーーーもし何らかの原因で、予定の受肉が出来なかった時は、その後すぐに、別の誕生をさせて貰えるのでしょうか。
「必ずしも直ぐとはいかない。霊には新しい選択をするための時間が必要だ。但し、すぐ第二の受肉が予定されていた場合は別である」
ーーーもしある霊が、ある子供の身体にすっかり受肉してしまい、しかも、霊はこの受肉は嫌だと言い出した場合、彼はこういう受肉を後悔するでしょうか。
「諸君は次のように尋ねているのか。その霊は人間としてこれから背負わねばならない人生を歎いているのか。別の人生を望んでいるのかと。それならば、その通り彼は後悔している。しかしまた、彼が自分の選び方が悪かったと悔やんでいるのかと問うのなら、それは違う、彼は自分が選択した事実を忘れているのだから、と答えよう。一旦霊魂は誕生すると、自分がその肉体を選んだ選択の事実を忘れているから、その選び方を悔やむということはない。しかし、選んだ人生を重荷に感じることもあるだろうから、そこで本当にそれに耐え難いと思うなら、自殺への道を辿るということになろう」(明日に続く)
今回は霊肉の結合という内容である。霊はいつ肉体と結び付くかとのお答えに、受胎の瞬間とある。これはシルバー・バーチ霊も言われていることだ。なので、やはり、受胎の時にはもう霊は肉体に入っているということになる。更にここでは詳しく書かれているが、出産時に完成するとのこと。液状の紐とはシルバーコードのことなのだろう。それで肉体に結び付けられるということだ。なるほど、
なのでシルバー・コードが切れると死ぬことになるのだ。ただこのシルバーコードは初期はかなり弱く簡単に切れてしまうようだ。霊の意志でシルバーコードを切断することも出来るようだ。そのため、受胎したとしても、その肉体は死んでしまう。死産などはこのようなケースがあるのかも知れない。また生まれる前に肉体が死ぬとあるが、早すぎる死についても肉体の欠陥によって起こるようだ。ただ、生まれる前であればまた別の肉体を選ぶとのこと。更に生後数日で亡くなるような場合は、その霊というよりは両親の試練が主眼となっている場合が多いとのこと。そうなのだと思う。ただ霊が早死にすること知ってて、その肉体を選ぶということは、地上での試練を恐れている証拠なのだそうだ。
そして最後になるが、確かになぜこの肉体を選んだのかは全く思い出せない。もっとこうならとか、こうだったらよかったのになどと思うこともあった。けれど、選んだ理由はわからなくても、自分で選択したということだから、これでよかったのだろう。そしてまた、この人生では苛酷な体験もあったが、護られていることを実感していたので、辛い思いをしながらも救われて来たのだと思う。だが、耐えがたい人生を選択した霊の人間としての人生はかなり苛酷なのだとは思う。けれど、何とか耐え忍んで成就して欲しいと
思わずにはいられない
。
1015回目の瞑想
ーーー受胎から出生までの期間に霊は、自分の能力をフルに発揮して活動しているものですか。
「懐妊期間の経過に従って違いは出て来るが、ともかく、大なり小なり能力は発揮している。即ち、彼は肉体に接触を始めたとはいえ、まだ完全に肉体に宿ったわけではないから。受胎の瞬間から霊には混乱が始まる。その混乱によって、霊はいよいよ自分は新しい人生に入る時が近付いたことに気付く。そうして誕生が近付くにつれて、その混乱はいよいよ激しくなる。この間の霊の状態は、殆ど睡眠中の人の霊のような状態である。出産の時が迫ると、霊の思想は過去の記憶共々消え失せる。そしていざ出生した時には、もはやその意識は白紙の状態になっている。だが、失われた記憶は、彼が再び霊界に帰って来ると、徐々に回復してくる」
ーーー誕生の瞬間に霊は固有の能力を十分に回復するのでしょうか。
「いや、それは漸次、肉体器官の成長に伴って発現してくる。地上の人生は、霊にとっては新しい生活だから、肉体の使い方を勉強しなければならない。彼の思想は徐々に回復してくる、それは恰も、まどろみから醒めてみると、眠る前の状態とは違った状態になっていることを知る人の場合のように」
ーーー出産の時までは、霊肉の結合は完全なものではないとすれば、胎児には魂があると言えますか。
「胎児に生命力を与える霊は、いわばその外部に存在している。従って、これは厳密に表現すれば、胎児には魂はない。即ち霊の受肉作用は未だ進行中にすぎないのだから。しかし胎児は、やがてこれに宿る魂とつながりは持っている」
ーーー胎児生命の本質はなんでしょうか。
「成長する植物の本質である。しかし、胎児は植物的動物的生命を生きつつ、誕生の時に霊肉の結合が起こり、霊的生命がこれに加わるのである」
ーーー科学の指摘するところによると、生きてはゆけない身体の子供がありますが、あれは何の目的で生まれてくるのですか。
「そういう例が時々ある。これはその両親またはその霊魂の試練のために、そういうことになっている」
ーーー死産児の中には、その身体に霊魂が宿る予定が全くなかった者がいるのでしょうか。
「そのような者もいる。つまり予定された霊がなく、唯肉体だけで生まれる。これは子供の両親の試練のためだけに行われるものである」
ーーーこんな子供は、産み月まで持ちますか。
「しばしば持つことがある。だが生きて行くことは出来ない」
ーーーでは、出産後、生きている子供は必ずその内に霊を持っているのですか。
「もしそうでなかったら、一体何だろう。もはや人間ではない筈」
ーーー流産すると霊はどうなりますか。
「それは無効果の生存となるから、霊はもう一度やり直さねばならなくなる」
ーーー人口中絶は、受胎期間中いつ行っても、罪となりますか。
「神法に違反するものはすべて罪となる。未だ生まれる前の生命を中断する者は、それが母親であれ、誰であれ、必ず罪となる。即ち、中絶によって、霊は試練の器となる筈だった肉体を失い、折角の予定の試練を遂行し得なくなるからである」
ーーー出産で母体が危険に陥る時、子供を犠牲にして母親を助けることは、罪になるでしょうか。
「子供の生存は未だ完全なものではない。母親の生存は確実なもの、だから、子供を犠牲にして母体を助けることの方が、まだましだと言える」
ーーー胎児に対して、生きている子供の肉体に対すると同じような敬意をもって取扱うことは正しいことですか。
胎児にも、生きている子供と同じように、神の意志と手際がこもっている、だから、いずれも大切に取扱われるべきことに変わりはない」
今回も霊肉の結合の続きであるが、かなり詳細に述べられており、とても興味深い内容だった。受胎から出生までの期間に大なり小なり能力を発揮していると言われ、受胎の瞬間から、霊には混乱が始まるようだ。更にその混乱によって、霊自身、新しい人生に入る時を自覚するようだ。そして誕生が近付くにつれて、その混乱は益々激しくなると言われている。だが出産が迫ると霊の思想は過去の記憶共々消え失せてしまうとのこと。誕生した時の意識は完全に白紙状態になっているのだと。だからこそ、何も覚えていないということなのだ。けれど、その失われた記憶は、霊界に再び戻ることで、徐々に回復するようだ。また、胎児に魂があると思っていたが、その時点では霊は外部に存在しているとのことで、厳密に言うと、胎児には魂はないとのこと。もちろん、いずれは宿るのだから繋がりはあると言われている。胎内生命の本質という難しい質問のお答えが、心に響く。植物的動物的生命に霊的生命が加わる、それが人間なのだ。
前にも何度も触れているが、子供が幼くして亡くなるような場合、死産の場合等々、大方両親の試練のためとのことだ。そして、霊的なことを知らない人は、簡単に人口中絶をしてしまう。それも自分のためにだ。だが、中絶は神法に違反するとのことで、生まれる前の子供の生命を中断する者は、それが母親であろうが、誰であろうが必ず罪になると断言されている。それは、霊が予定していた試練を遂行できなくなるからだと。だが、出産で母体に危険が及ぶ場合は、母体を優先にすることの方がまだまし、と言われている。最後は、生きている子供と同じように胎児も、神様のご意志がこもっておられるとのことで、どちらも大切に扱うべきことだと言われている。その通りだと思う。
1016回目の瞑想
ーーー人間の善や悪の道徳性の根源はどこにあるのですか。
「それは、本人に宿った霊の持っている道徳性、それが根源である。その霊が清浄であればある程その人間は善人の性質を示す」
ーーーでは、善人には善霊が宿り、悪人は悪霊が宿ったもの、そう考えてよろしいですか。
「その通り。但し、悪霊と言わずに、未完成の霊と言ったほうがよい。でなければ、いわゆる悪魔のような、永久に悪に留まる霊がいるように受け取れるから」
ーーー軽薄で愚かな霊が宿ると、どういう人間になりますか。
「とんまで気まぐれで、時にはいたずらをする」
ーーー霊には、人間性とは違った何か別の情がありますか。
「そんなものはない。もしあれば人間と通信しようと思わないだろう」
ーーー本人の道徳性と知性、この二つは一つの霊から出るのですか。
「その通り、人間に二つの霊が宿ることはない」
ーーー非常に知的で、相当進歩した霊が宿っているように思えるのに、道徳的には非常に劣っていることがあります。なぜこういうことがあるのですか。
「人間に受肉する霊は、未だ十分に浄化したわけでないから、そういうことがある。従って人間は自分よりもっと悪い霊の影響にすぐ負けてしまう。霊の進歩は一歩一歩である、しかし、その進歩はすべての面で同じ歩調で進むわけではない。ある時期には知性の面が、また他の時期には道徳面が進歩する」
ーーー人間の知的能力及び
道徳的能力は自己内に受肉している色々な霊の所産であって、各霊はそれぞれの資質を代表しているという説がありますが、どう考えたらよろしいですか。
「これが荒唐無稽の説であることは、ちょっと反省してみれば直ぐ明らかとなる。霊はいずれも可能なすべての資質が持てることになっている。しかし、進歩のためには、単一にして統一的な意志を持たねばならない。もし人間がいろいろな霊の混成物なら、この統一性は存在しないだろうし、また個性を持つこともあるまい。即ち、人間が死んだら、籠から逃げる小鳥のように、霊は四方へ飛び散ってしまうだろうから。人は何か理解できぬことがあるとぶつくさ言うが、実に巧妙に、目の前にある簡単明瞭な説明には目もくれず、わざわざ問題を難しい方へもって行ってしまう。上記の質問は、諸君がよくやる、結果と原因を取り違えたものだ。異教徒が、神について考えていることを、人間に適用したものだ。異教徒達は、宇宙に在る現象と同じ数だけの神があると思い込んでいる。しかし、彼等の中にさえ鋭い人間がいて、宇宙現象の中には、結果は無数にあっても、原因は一なる同じ神と見ている者もおる」
今回は道徳的・知的能力という内容だ。人間の善や悪の道徳性の根源は、本人に宿った霊の持っている道徳性だと言われており、霊が清浄であればある程その人間は善人の性質を示すと言われている。そして、善人には善霊が宿り、悪人には未完成の霊が宿ったのだと言われているのだ。また人間には二つの霊が宿ることはないとのこと。次に私達人間がきちんと理解しておかなければいけないのはこのお言葉だと思う。人間に受肉する霊は、未だ十分に浄化したわけでないということを。これはこの世に人間として生まれたすべての人に言えるのだと思う。なので、自分よりもっと低い霊の影響にすぐ負けてしまうとも言われている。更に霊の進歩は一歩一歩であり、その進歩は同じ歩調で進むわけではないとも言われている。今現在の自分をまた自分の人生と鑑みて、急がず、慌てず、迷わず、負けずに一歩一歩着実に進んで行くことが肝要なのだと思う
。
1017回目の瞑想
ーーー霊は肉体に宿ると、物質と一つになってしまうのですか。
「物質は霊の外被にすぎない、恰も着物が肉体の外被であるように。霊は肉体に入っても、自己の霊性の特徴を失うことはない」
ーーー肉体に宿った後も、霊はその能力を自由に発揮しますか。
「能力発揮はどうしても肉体器官に左右される。肉体は鈍重だから、当然その発揮は弱められてしまう」
ーーーでは、肉体は霊の能力発揮には障害である、丁度曇りガラスが光線の自由な透射に障害であるようように、こう考えてよろしいですか。
「その通り、甚だしく不透明な障害物である」
ーーー地上生活中の霊の能力発揮は、肉体の発達状況に支配されるわけですね。
「肉体は霊性発揮の通路であるから、どうしても肉体器官の発達程度や健全かどうかにかかってくる。これは手仕事の良し悪しが、その道具に左右されるのと同じ事である」
ーーーそんなに肉体器官の影響が大きいなら、脳の発達と道徳や知力の発達とには深い関係があると、こう考えてよろしいですか。
「原因と結果を混同してはいけない。能力の根源は常に霊にある。肉体が能力を発揮しているのではなくて、能力によって肉体が動いているのである」
ーーーではご意見に従うと、人間の資質の相違は、ただ本人の霊の状態にのみ左右されるということですか。
「ただ霊にのみということは
、全く正しいとは言えない。勿論、霊の資質いかんが、その人物の資質の根源となっているが、誰しも魂本来の能力発揮に、大なり小なりブレーキとなっている肉体の影響も考慮されねばならない」
今回は肉体の影響についての内容である。肉体はあくまでも霊の外被であって、物質と一つになることはないと言われている。また肉体は鈍重で、霊性の能力発揮は弱められてしまうが、その特徴を失うことはないと言われている。更に肉体は甚だしく不透明な障害物であるとも言われているのだ。だが、肉体は霊性発揮の通路であると言われており、肉体器官の影響もあると言われているが、その能力の根源は常に霊であるとのことだ。但し、魂本来の能力発揮には大なり小なり肉体の影響も考慮しなければいけないと諭されている。私達人間にとって切り離せない肉体は、霊性発揮の通路として必要不可欠
でもあるが、不透明な障害物でもあると言われる。その矛盾をどうやって、霊性の能力発揮につなげて行くのか、この世の大きな課題なのだと思った。
1018回目の瞑想
ーーー白痴の魂は普通人より劣っているという俗信には、何か根拠がありますか。
「根拠はない。白痴の魂が諸君等の想像以上に知的なことがしばしばある。彼等は魂との連絡がうまくつかないのである。丁度唖者が喋る上に障害があるのと同じである」
ーーー生まれながらの白痴者を創り給う神の御心は一体何ですか。
「彼等は罰を受けている霊が宿ったものである。彼等は脳器官が未発達で正常でないから、経験を積むことが思うようにいかず、また自己を十分に表現することも出来なくさせられているのである」
ーーーでは、肉体器官には能力に及ぼす何の力もないというのは、正しくないのですか。
「肉体器官に力がないなどと、吾々は言った覚えはない。肉体は能力発現を左右する莫大な力を持っている。しかし能力源ではない。例えば、優れた音楽家でも楽器が悪ければ、良い音楽の演奏は出来ない。だからと言って、彼が優れた音楽家でないということにはならない」
ーーー白痴は善も悪も何も出来ないから進歩も出来ない、こういう人々の存在には何の価値があるのですか。
「それは、霊が何か能力を濫用したための罪滅ぼしであって、これは彼の人生航路の一区切りである」
ーーーでは、前生で天才だった者の霊が、いま白痴の肉体に宿っていることもあるのですか。
「ある。天才はこれが濫用されれば災厄となる」
[注解] 優秀な知性に必ずしも優秀な徳性が伴っているとは限らない。従って、大天才は罪滅ぼしせねばならぬものを多くもつかも知れない。この理由によって、彼等はしばしば以前よりも低い、苦しみのもとである人生を耐えねばならなくなる。自己の能力の発現が妨げられていることは、まさに強力な人間の活動に手かせ足かせがはめられたようなものである。盲人は目の不具者、足のなえた人は足の不具者、白痴者は脳の不具者。
ーーー白痴者の霊は、自分の精神的状況を意識していますか。
「殆ど意識している。彼等は自分を阻害している鎖が、試練であり罪滅ぼしであることを理解している」(明日に続く)
今回は白痴ーー狂気についての内容である。白痴と言われる人が確かにいるが、その霊は私達が思っている以上に知的なことがあると言われている。ただ、霊との連絡がうまくいかないとのことで、唖者のように話す上で障害あるのと同じだと言われている。そして、白痴と言われる人は、罰を受けている霊が宿っていると言われているのだ。私も常々、何らかの障害のある人は前生に関わっているのだと思っていた。それが罰を受けている霊だったとは驚きである。この世で脳に異常があれば、人生経験がなかなかうまくいかなのは想像できる。だが、それは罪滅ぼしのために自己を十分に表現することを出来なくさせられていると言われているのだ。それは相当に思い罪を背負っているのだろう。音楽家を例えにされているが、確かに素晴らしい音楽家と言えども、楽器が悪ければ良い演奏は出来ないが、その音楽家が素晴らしくないとは言えないと。罪として悪い楽器を持たされたということなのだろう。霊が能力の濫用した場合、罪滅ぼしのためであり、それは人生航路の一区切りだと言われている。なので、天才と言われていた人でも、それが濫用されれば、災厄となり、白痴と言われる肉体に宿ることもあるとのこと。注解にも書かれているが、知性と徳性は必ずしも一致しない。だからこそ、天才と言われる人は余程気をつけなければ再生する時に罪滅ぼしさせられることになりかねないのだ。ただ、霊としては、白痴としての精神的状況を意識していると言われている。それは救いなのではないだろうか。
1019回目の瞑想
ーーー狂気の場合は、その霊はどうなっていますか。
「霊というものは、本来、直じかに物事の印象を受け取り、直接物事に働きかけるものである。しかし、ひとたび肉体に宿ってしまうと、事情は変わり、肉体の各々の器官を通じてのみ、初めて活動する状態となる。もしその器官に故障が起これば、その器官を通じる印象や活動は不都合なものとなる。目を失えば盲人、聴力を失えば耳に障害者、今、知性や意志の表現器官が、一部か全部、その働きが弱ったり変わったりしたとしよう。されば諸君は次の事が容易にお判りになろう。即ち、不完全で調子の狂った器官しか使えない霊は、機能の混乱を経験せねばならぬ、霊の方ではその混乱に気付いているのだが、それをどうしようも出来ないのであると」
ーーーでは調子を狂わしているのは、常に肉体であって、霊ではないのですか。
「その通り、しかし次の事を忘れてはいけない。霊が物質に作用するのと同じく、物質も霊に作用するということ。それ故、霊は自分が狂った器官のため、狂った調子になっていることに気付くかも知れぬということ。従って、このような変調が長期に渡れば、その狂った行為の繰返しで、霊の方に影響が及ぶことも起こり得る。その影響は、霊が肉体から解放されるまで続くのである」
ーーー狂人が自殺するのはどうしてですか。
「この場合、霊の方は自分が束縛を受けている感じで、自由に表現できなことを苦にしている。そこで、この鎖を断ち切る方法として死を選ぶのである」
ーーー狂人は死後も、生前と同じ精神錯乱の状態が続きますか。
「死後しばらくの間、物質のとらわれから完全に自由になるまで続くだろう。それは丁度、誰でも朝目が覚めた後、しばらくは眠りから現実への混乱を感じるようなものだ」
ーーー脳の病気は、死後の霊にどんな作用を及ぼしますか。
「記憶の面で影響がある。何か頭の上に雲がかかっている感じだろう。とにかく狂気の間、何が起こっていたのか分からなかったのだから。その回復には相当の時間を要する。それがどれくらい続くかは、本人の狂気の期間の長さに応じて違ってくる。霊は肉体を離れても。なお多少の間は肉体につながっている感じをもつものだ」
今回も白痴ーー狂気の続きである。狂気の場合もまた、不完全で調子の狂った器官しか使えない肉体に霊は宿るのではないかと思う。しかもその肉体で地上生活の経験をしなければいけないのだ。更に霊はそのことに気付いていてもどうしようも出来ないと言われている。だが、霊が物質に作用するのと同じように、物質も霊に作用すると言われている。なので、狂った状態が長期に渡れば、霊の方にも影響が及ぶことも起こり得るとのこと。しかもそれは死ぬまで続くようだ。そして、狂人の自殺は、このお答えを読む限り、霊が苦に感じて、その苦しい鎖を断ち切る方法として死を選ぶとのことで、霊自ら、死を選択するということのようだ。
白痴者としてや狂人としての人生を終えて、霊界へ戻っても、記憶の面で影響があると言われ、その回復には相当な時間を要すると言われている。しかもどれくらい続くかは、狂気の期間の長さに応じて違ってくると。また、霊は死後肉体から離れても、しばらくの間は肉体につながっている感覚を持っているようだ。
998回目の瞑想
ーーー魂が霊の世界に帰って来ても、地上生活中に持っていた感覚をまだ持っていますか。
「持っている。それだけでなく、地上で持っていなかったものまでも持っている。何故かというと、地上時代には肉体があって、ヴェールのように色々なものを隠していたのだから。知性は霊の一つの属性であって、肉の目隠しが外されると、一層自由に発揮される」
ーーー霊の知覚や知識は無限ですか。つまり、霊は何でも知っていますか。
「霊は完全に近付くほどに、多くのことを知る。高級の霊は広い知識を持っているが、低次の霊は何事も知識が乏しい」
ーーー霊は事物の第一原理を理解しておりますか。
「それは霊の進歩と浄化の程度による。低位の霊は人間ほどにも分かっていない」
ーーー霊には、人間のように時間の観念がありますか。
「ない。諸君は何でも月日や時代で物事を考えるが、それでは吾々霊のことは一向に分からない」
ーーー霊は、私共以上に現在についての正確な視野を持つものですか。
「それは人間と比べれば、まさに目明きと盲人の違いがある。霊には諸君の見えないものも見える。従って諸君とは違った判断をする。だが、これも霊の浄化程度によって違うことを覚えていて貰いたい」
ーーー霊はどのようにして過去のことを知るのですか。また、霊は無限に過去を知ることが出来ますか。
「吾等は過去にちょっと目を向けさえすれば、恰も現在の出来事のように、それを知ることが出来る。丁度諸君が過去の強い印象的な事を思い出す具合に正確に知ることが出来る。ただ違うところは、人間のように肉体で、もはや目を曇らされることがないから、人間の記憶からは隠れて分からないことでも思い出す。しかし、霊なら何でも知っているわけではない。例えば、吾々はどのようにして創造されたか、こんなことは分からない」
ーーー霊は未来を予知しますか。
「これもやはり霊の進歩いかんによる問題である。霊は部分的になら頻繁に未来を予知している。但し、はっきり未来を予知しても、これを洩らすことは必ずしも許されていない。霊が未来を見るのは、まるで現在の事のようにそれを見るのである。霊は神に近付くに応じてはっきり未来を予知できる。死後、魂は自己の過去のすべてを一望のもとに見、これを会得する。だが、神の胸三寸の中にある自己の未来を見ることは出来ない。このような予知は、唯、永い過去を経て神と完全に一つになっている霊にとってのみ可能なことである」
ーーー絶対の完全に到達した霊は、完全な未来の知識を持つのですか。
「完全という語は相応しくない。神のみが一切の主である故、何ものも神と全く等しくなることは出来ないのだから」(明日に続く)
今回は霊の知覚、情緒、苦しみという題の内容である。死後も地上で持っていた感覚などはそのまま持っているようだ。しかも肉体があるうちは隠れていたものまでが、自由に発揮されると言われている。また時間の観念についてだが、これは母がよく言っていたことなので、ないことは分かっていた。霊と人間では雲泥の差のようだ。だが、霊の中でも浄化程度によって、その開きは大きくなるようだが必然だと思う。また過去をどのようにして知るかという問いの答えには、さすがに凄いと思わざるを得ない。この地上でそれが出来たらどんなにいいだろう。また、未来の予知についても、当然と言えば当然で、浄化が進んでいる霊にとっては未来も過去も一望できるのだと思う。最後はシルバー・バーチ霊もよく言われていたが、ここでも神様と全く等しくなることは出来ないと言われている
。
999回目の瞑想
ーーー霊は神を見ますか。
「最高級の霊のみが神を見、神を知る。低い段階の霊は神を感じ、神を察知する」
ーーー低い段階の霊達は、自分はこれこれの事を神に許されているとか、これは禁じられているとか言いますが、そういう決まりを神がしているということを、彼はどのようにして知るのですか。
「彼は神を見ないが、神を感じている。そこで、これはしてはいけないとか、言ってはいけないとか言う時は、直覚や目に見えぬ警告で感じるわけだ。それは諸君も為すべしとか為すべきでないとか、心の奥に感じを持つことがあるのではないか。それは吾々とて同じ事だ。ただ、もっと高い程度に感じるわけだ。霊の本質は人間よりもしなやかなことである。従って、神の警告を人間よりももっと上手く受け取ることが出来る。これは諸君にも容易に分かることだろう」
ーーー神の命令は、神から霊へ直接伝えられるのですか。それとも他の霊の中継を通すのですか。
「命令は神から直接くることはない。神と直接交通するためには、それだけの資格が備わらねばならぬ。神は、更に高度の知恵もあり浄化を遂げた霊を通じて命令を伝え給う」
ーーー霊の視力には、人間のように視界があるのですか。
「ない。それは本人次第である」
ーーー物を見るのに、光が必要ですか。
「物を見るのに外界の光の必要はない。自分の力によってものを見る。暗闇があるとすれば罪の償いのため、自ら目を開くためである」
ーーー霊は離れた二点を見る時、動く必要がありますか。例えば、地球の両半球を動じに見ることが出来ますか。
「霊は思想の速さと同じ速さで動くことが出来るから、同時にあらゆる処を見ることが出来ると言える。霊の思念は同時に多くの地点に向かって放射される。だが、この能力は霊の浄化いかんによって違ってくる。未完成の霊はその見える範囲を狭く、高級霊になると、一望のもとに全体を見ることが出来る」
ーーー霊は、我々同様にはっきり物を見ますか。
「もっとはっきり見える。人間には障害になるものでも、霊の視力はそれを通過して先まで見えるから、これを遮るものはない」
ーーー霊には音も聞こえますか。
「聞こえる。人間の鈍感な耳には聞こえない音でも聞こえる」
ーーー音を聞く能力は、物を見る能力と同じようにどんな霊にも備わっているのですか。
「霊の聴力は霊の本性であって、霊の一部を為している。肉体にある間に肉体器官を通して初めて音は聞こえるのだが、肉から解放されて自由になると、もはやその聴力は制約がなくなる」
ーーー感覚能力は霊の本性だとすれば、嫌な時はその感覚を受け取らないでおくことが出来ますか。
「霊は自分で見たい聞きたいと思うものだけを,見たり聞いたりするのである。いや、これは高級霊の場合が特にそうなのであって、未完成な霊の場合は、無理に見させられたり聞かさ
れたりする。場合によっては、本人の意志に反しても、その改善に必要なものは何でも強制される」
ーーー霊は音楽が好きですか。
「音楽とは地上の音楽のことか。霊界の音楽は地上の何ものをもってしても表現できない調和があり、とても地上の音楽の比ではない。それは原始人の叫びと、至上の妙なるメロディーの差がある。だが低い霊魂は能力が足りないので、地上の音楽を喜ぶだろう。霊の感覚能力が進歩すると、音楽は無限の魅力となる。この音楽とは霊界の音楽であるが、それは霊の想像をもってしても、これほど無尽の美と喜びを表現したものはない」
(明日に続く)
今回は前回の続きである。この質疑応答の内容はだいたい分かっていることが殆どだった。だが、最後の音楽については、シルバー・バーチ霊もこの地上とは比べることはできないメロディーがあると言われているが、同じようなことを言われており、更にワクワク感が増してしまった。あろうことか地上の音楽を原始人の叫びと例えられているのだ。更に更に霊の感覚能力は進歩すると音楽は無限の魅力となると言われ、霊の想像をもってしても、これほど無尽の美と喜びを表現したものはないと断言されている。音楽に対してこのようなお言葉を聞く度に、私の心は期待と希望に満ちてくるのだ。そして早く霊界の音楽を聴いてみたいと強く思ってしまう。どれだけ素晴らしい音色なのかを早く体験したいものである。
1000回目の瞑想
ーーー霊は自然の美を感じることが出来ますか。
「自然の美は各天体によってそれぞれ違っているから、そのすべてに通暁することはとても出来ないが、霊の能力に応じて部分的にその美を味わうことが出来る。しかし、高級な霊はこまごました美を超えて、一大調和をもった美を享受できる」
ーーー霊は、私共のような肉体的欲求を持ったり、身体的苦痛を味わったりしますか。。
「霊と言えども、過去の経験からそれを知っている。しかし、人間のように肉体的にそれを経験するわけではない。彼等は霊だから」
ーーー霊は疲労を感じたり、休息の要求をもったりしますか。
「霊は人間が考えるような疲労は感じない。従って地上的な意味の休息も必要としない。そもそも霊には疲労するような肉体はないのだから。しかし、霊はいつも活動しているわけではないから、休息しているのではないかと言われるかもしれぬ。確かに霊は肉体的な活動はしていない。その活動はすべて思想的活動である。だからその休息とは精神の休息、つまり思想が非活動的となっている状態、思念がある目的に向かって放たれていない状態である。これが霊の休息であり、肉体の休息とは大変違った意味の休息である」
ーーー霊も「辛い」と言うことがありますが、その辛いとはどういうことですか。
「それは精神的な苦しさを言っているので、これは肉体的苦痛以上に、霊には苦しく感じられるものだ」
ーーー霊も、寒いとか暑いとか言うことがありますが、あれはどういうことですか。
「霊のそういう感じは、地上生活中の記憶の再現なのであって、しばしば本当のように感じるものだ。また、単なるゼスチュアにすぎない場合も多い。というのは、霊が自分の状況を説明しようとしても、うまい表現が見つからない時、そういう方便を使うわけである。また、霊は地上の肉体を思い起こすと、暫時は人間と同じような印象をもつものだ。それは丁度、諸君がコートを脱いでも、なお肩にコートがあるように感じるのと同じだ」
今回も続きであるが、最初は自然界の美を感じることが出来るかという問いだ。ここでもやはり、高級霊になると、一大調和をもった美を享受できると言われている。とにかく上にいけば行くほど、素晴らしい霊界を堪能できるということは事実なのだと思う。ただ、まだまだ未完成の霊は、肉体的欲求や身体的苦痛を肉体をもった人間のような経験するわけではないようだが、過去の経験から感じることはあるようだ。また霊の疲労感については、霊には肉体はないので肉体的な疲労感はなく、地上的な休息は必要としていないとのこと。従って霊の休息というのは、精神の休息であり、思想や思念が非活動的になっている状態だと言われている。また霊の辛いということは精神的な苦しさを言っており、その苦しさは肉体的苦痛以上だと言われている。更に霊が寒いとか暑いとか言うことは、実際に地上体験の記憶の再現で本当のように感じるものだと言われている。これは私自身に降りて来た霊も寒いとか暑いとかいうこともあったので納得なのだ。ただ、それがゼスチャーの場合もあると言われており、そういう方便を使う場合もあるとのことだ。けれど、私の経験からはそのような事はなく、本当に寒がっていたり、暑がっていたりしていたのである。
1001回目の瞑想
ーーー遍歴の状態にある霊が、再生に入る前に、次の人生で起こることを予見しますか。
「霊は独力で、やがて自分が受ける試練を選ぶ。霊の自由意志とは、この選択の自由の中にある」
ーーーでは、懲罰として、人生の苦難を課すのは神ではないのですか。
「何事も神の許可なしに生じない。何となれば、宇宙を支配する法則を定められたのは神であるから。諸君も右顧左うこさべんせず、何故に神がそのような法を創られたかを探求した方がよい。神は霊に選択の自由を授けるにあたり、自分の行為とその結果に全責任を持つように委ねられた。人は何でも思いのままに出来る。前途には正道が開かれており、同じく誤りへの道も開かれている。しかし、もし彼が敗れたとしても、慰めの道は残っている。万事はそこで終わってはいないのである。しかし、神は善なるかな、彼はもう一度やり直すことも許されているのである。更に、諸君がここで心得ておかねばならぬことは、神の御意志の仕事と、諸君の意志の役割とは違うということ。もし危険が諸君の身に近付いたら、その危険を創ったのは諸君ではなく、神である。諸君は自らその危険に身をさらすように選択した、それは、諸君がそれが進歩の道であると見てとったから。神はそうすることを諸君に許し給うたのである」
(右顧左べんとは、右見たり左見たりして、ためらい迷うこと)
ーーーもし自分の受ける試練を私共が選ぶ自由を持つとするなら、地上生活で味わう苦難はこれすべて、私共が予め選び予想していたことなのですか。
「いや、すべてがその通りとは言えない。即ち、諸君はこの世で起こる事柄のすべてを、その細部に渡るまで選び予見したわけではない。諸君はどんな種類の試練を受けるかの選択をしただけである。この試練で生じた出来事は、諸君が選んだ一般的な状況の結果であり、またその試練に対する諸君の反応の結果である。
例えば、ある霊が悪人達の中に生まれる運命を選択するなら、彼は自分がどんな試みにあうかは分かるが、どんな行為を行うかについてはいちいち分からない。そのような細かい行為は意志活動、つまり彼の自由意志の働きの結果である。霊が一つの道を選べば、そのためにどんな種類の試練にあうかは分かる。だから大体の推移については、その時の状況や経緯で違ってくる。霊にとって前もって予見できることは、新しい人生の骨格のみで、即ち彼の運命に決定的影響を与える事柄のみである。もし、轍わだちがいっぱいついている路に入れば、転ぶ危険があるから、誰でも慎重に歩かねばならぬことまでは分かる。だが、どこで転ぶかは分からない。また十二分に気をつけて行けば、転ばずに済むことだってあるだろう。またもし道を歩いていて、煉瓦が頭上から落ちてきたとする、まさか諸君は、この筋書きが出来ていたとは考えはすまい」
ーーー霊が悪人達の中に生まれることを選ぶなどということがあり得ましょうか。
「人はその求めている試練の性質に適った環境に入ることが必要なのである。彼が是正したいと思っている欠点と、彼が選んで入った環境との間には、きっと相通じるものがある。例えば、もし彼が掠奪りゃくだつという本能と闘わねばならないとするなら、彼は山賊の群の中に入る必要があるということだ」
ーーーでは、もし地上に一人も悪人がいないとすれば、霊はある種の試練に必要な環境を発見できませんね。
「それが事実ならもう何も言うことはないのではないか。これは高級の世界、悪の近寄り難い善霊のみの住む世界。地上も一日も早くこのような世界になるようにされたい」(明日に続く)
今回は試練の選択という題の内容である。遍歴霊として、再生に入る前には次の人生で起こることを自由意志で自分が受ける試練を選択できると言われている。霊の自由意志とはこの選択できるということのようだ。そして何事も神様のご許可なしには生じないとも言われている。神様が自由意志を与えて下さったのは、自分の行為とその結果に全責任を持たせるようにするためなのだと。けれど、例え誤った道を選んだとしても、神様はもう一度やり直すことを許して下さるのだ。決して間違っているからと非難されることはない。更に次の箇所はとても大事なことを言われている。危険という体験を創られたのは神様だと言われており、私達人間がその危険に自ら身をさらすように選択したということは、それが進歩の道であるとわかっていたからであると、そして神様はそれを許して下さっていると言われている。だが、これは簡単なようで、実は大変に難しいことだと私は思う。進歩の道であると分かっていても、自ら危険に身をさらすようなことはなかなか出来ないのが現状だ。やはり、その道を選ぶ事自体、霊として高い段階なのではないかと思う。また次の人生の予見についてだが、やはり大まかなことしか予見できていないとのこと。詳細に細部に渡ってまで選択しているわけではないのだ。その例として、轍について述べられているが、確かにその通りだと思う。だが轍自体があると前もってわかっていれば気をつけることもその道を行かないようにもできる。けれど、私達人間は轍についても、また転ぶ危険性があることについても、なかなか知ることが出来ない。私達人間は轍に気付いたところで転んでしまいその後で、どの様に対処するかという段階のように思う。要するに気付くのが遅いのだ。けれど、その対処次第では、また道は分かれるのだ。自暴自棄になって誤った道を選ぶ人もいれば、痛い思いをしてこれから何があるかわからないと不安に思う人もいれば、これを教訓にし、そして霊的真理を学ぼうとする人といろいろだと思う。自由意志で自由に選択できるのだ。どの道を選ぶかでまた来生の人生も決まる、ということなのだ
。
1002回目の瞑想
ーーー霊が完全に到達するためには、あらゆる種類の試練を経験する必要があるのですか。高慢、嫉妬、貪欲、肉欲をそそるような、あらゆる環境を体験せねばならないのですか。
「いやそんなことはない。ご承知のように、多くの試練を受ける必要のない道を、初めからとる多くの霊がいるのだから。しかし道を誤ると、その道のもつあらゆる危険に身にさらすことになる。例えば、ある霊が富を求め、それが認められるかもしれない。この場合に彼はその人格に応じて、貪欲者、道楽者、利己主義者、あるいは寛仁大度の人物となり、財産を活用するかまたは浪費するかである。しかし富を持ったため、一切の悪で笞むち打たれる者になるとは限らない」
ーーー霊も、最初は経験もなく、無知単純なのですから、どのようにして、しっかりした人生の選択など出来得ましょうか。また、その選択に責任など持ち得ましょうか。
「揺り籠の中の幼児のために諸君がするように、神はそのような霊のために道を画いてやり、無経験のために欠けているものをお授けになる。しかし、自由意志の成長につれて、徐々に自分で選択するように仕向け給う。こういう場合、しばしばその霊は途方に暮れて、間違った道をとることがある。もし、彼が彼を導こうとしている善霊の忠告に耳を傾けないならば。人類の堕落と呼ばれるかも知れないものはこれである」
ーーー霊が自由意志を持つようになった場合、地上界に生まれるのは、本人の選択によるのですか、それとも神が罪の償いとしてそうなされることもあるのですか。
「神はゆっくりと待ち給う、決して償いを急がれはしない。しかしながら神は時にはそのような存在を課し給う。もし、霊が無知と頑固さによって、自分のためになるものに気付かぬ時、また、それが彼の浄化と進歩に役立ち、他方、彼の償いのためにもなると考えられる時」
ーーー霊は死後すぐに、その選択をするのですか。
「いや、霊の多くは自分の苦しみが永久に続くと信じ込んでいる。これは懲罰であると、かように諸君は以前に聞いたことがあるだろう」
ーーー霊が自分の受ける試練を決める時、何がその決め手になりますか。
「それは自己の欠陥を償うのに役立つもの、同時により早く進歩させてくれるもの、そういう試練を選ぶ。この目的のために、ある霊は貧困の苦を自己に課して、それに耐える勇気を養おうとする。またある霊は、財産や権力の試練で抵抗力の訓練をしようと望む。これは、財や権力を持てばこれを悪用したり、またそれあるが故にかえって悪感情を持ったりするので、更に危険性の多い道である。またある霊は、悪い環境と闘う運命を選んで、自己の善意を養っていこうと志す」(明日に続く)
今回は試練の選択の続きである。霊が完全に到達するためにあらゆる種類の試練を経験するしないは、自由意志で決めることができるようだ。だが、それこそ道を誤る危険性も潜んでいると言われている。ただ、富を求めたからと言って、必ずしも悪になるとは言えないとも言われている。やはり自分次第で決まるということだ。次の最初経験もない霊に関しては、神様が援助して下さるとのことで、意外であった。神様は法則とシルバー・バーチ霊は言われていたので、そのようなことはなされないと思っていたからだ。けれど、自由意志の成長と共に、徐々に自分で選択するように仕向けられると言われる。やがて、援助の手が離れてしまうと、やはり戸惑ってしまうということはやむを得ないようにも思える。けれど、そこで間違った道に行ってしまうこともあるようだ。それが人類の堕落となるとのこと。そして地上界に生まれるのは、神様がその霊の無知と頑固さがある場合、また浄化と進歩に役立ち、また償いのためにもなると考えられた場合だと言われている。できれば今生生まれてきた理由として、浄化と進歩のためにと思いたい。最後の試練を受けるための決め手は、自己の欠陥を償うのに役立つもの、そして同時により早く進歩させてくれるものだそうだ。その目的のためにどのような環境に生まれるかを決めるようだ。ある人は貧困家庭に、また財力がある家庭に、また悪い環境と闘うことを目的とした場合は自己の善意を養うためだと言われている。その中でも、財力がある場合はかなり危険性が多い道であると言われている。それはやはり力でもって悪用できるからだ。お金のある人は自分の思いのままにできる。その思いが善に向いてこそ素晴らしい存在となるのだが、お金の力に物言わせる人は多い。だからこそ、誤った道に行く危険性があるのだろう。ぜひ、人のために使える力にして欲しいものだと切望する
。
1003回目の瞑想
ーーーある霊は道徳心を養うために、悪に身をさらす道を選ぶとします。しかし、他の霊は同じ悪の道を選ぶにしても、別の動機から、つまり低い自分の堕落した好みに合った環境に住みたい、またその環境なら快楽が自由に得られるからという願いから、そういう霊もいるのではありませんか。
「確かにそのようなことはある。但し、それは徳性が大変未完成な霊の中に、そういう例があるだけである。その場合も、必要な試練は自然に発生し、霊は長期に渡りその試練を受けることになる。早晩、彼等は動物的本能に耽ることは悲惨な結果を招くということを理解するようになる。その悲惨は殆ど永遠に続くように自分には思えるものだ。また神は時として、彼等をその状態のままで放置し給うこともある。即ち彼等がついに自己の欠陥の重大性に気付き、それを改善するために、自ら進んでそれに適した試練を甘受してみようという気持ちになるまで」
ーーー最も苦痛の少ない試練を選ぶのが当たり前と思えますが。
「諸君の立場からすればそう思えるだろうが、霊の立場からすれば違う。人が物質から解放されると、そういう考えはなくなって、違ったふうに考える」
[注解] 人間は地上にあって物質の影響下にある時は、試練の辛い面だけを見て、物質的喜びに結び付く体験の方を選ぶ。しかし霊の世界に入るとチラリと不変の至福が目に入るので、これと物質的な一時的快楽とを比較して、ちょっと苦労しさえすればこの至福が手に入ると判断する。そこで、霊は最も辛い試練を選択し、結果として辛い人生を引き受ける。これによって、迅速に幸福へ到達できることを願って。それは丁度、病人が病気が早く治るために、苦い薬を飲むのと同じである。
ーーー
霊は地上世界にある間に選択することが出来ますか。
「人が欲求を抱けば、その意図の性質にもよるが、ある程度の影響をもつ。しかし当人が霊界に入ると、まるで違ったものの考え方をすることが多い。人は霊としてのみ自己の次の人生を選択するものである。しかしそれにも拘わらず、人は物質界に在る間に、その選択をするやも知れぬ。というのは、霊は地上に在る間にさえも、地上の物質から独立したたまゆらの瞬間を持つからである」
ーーー地上の多数の人間は、償いとか試練とかいうこともありましょうが、先ず地上的な意味の偉大さとか財を求めますね。
「その通り。人が心の充足を求めて、世間的偉大さを目指すのは本能である。霊がそのようなものを望むとすれば、世の栄枯盛衰を心に刻む、そのためである」
ーーー霊は完全な浄化の状態に到達するためには、絶えず試練を受けていかねばならないのですか。
「左様である。しかし試練といっても、諸君が考えるようなものではない。諸君は試練といえば、物質的苦難とのみ考える。しかし霊は完全といえなくても、ある程度の浄化に達すると、もはやそういう物質的苦難は受けなくなる。それにも拘わらず、霊は自己の進歩のための義務を遂行せねばならない。しかし、その義務には苦痛は全くない。例えば結果として自分の進歩に役立つ他者への奉仕のように」
(明日に続く)
今回も試練の選択の続きである。霊でも徳性が未完成である場合は、動物的本能に耽る状態を望むようだ。
けれど、次第に自己の欠陥の重大性に気付き、改善するために自ら進んで試練を受けようと思う時が来るとのこと。また神様はそれまでじっと見守られているのだ。次の質問は耳が痛い。確かに人間はできるだけ苦痛のない人生をと望む。だが、霊となると違うと言われている。自分の浄化や進歩のためには苦痛ある試練を選ぶようになるのだと。注解にも記載されているが、この世にいる時には、物質的な喜びに結び付く体験の方を選んでしまう。けれど、霊の世界に入ると不変の至福を感じることが出来、苦労して至福が手に入るならと、辛い試練を選択し、辛い人生を生きることにすると。シルバー・バーチ霊もよく霊の目で見なさいと言われている。限りある物質世界での目ではなくと。私達人間は、なかなか霊の目で見ることは出来ないが、このように霊の世界に入った時のことが書かれていることで、意識をそちらにもって行くことはできるように思う。なので、とても有難い。
次に地上にいる間に来生の選択をすることが出来るかという質問だと思うが、霊としてのみ自己の次の人生を選択すると言われている。だが、この世にいる間にもその選択をするかも知れないとも言われており、それは地上にいる間でも、地上の物質から離れた少しの瞬間を持つことができるからと言われている。これは瞑想などのことを言われているのではないかと思った。またこの世に生きていて、世間的偉大さを目指すのは本能だと言われており、それはこの世が栄えたり衰えたりすることを心に刻むためだと言われている。更に辛い試練についてだが、私達人間は物質的苦難ばかりを考えてしまうが、そればかりではないとのことだ。ある程度の浄化に達すると、物質的苦難は受けなくなると言われている。それでもなお自己の進歩のためには義務を遂行して行かなければいけないと言われるが、その義務にはもはや苦痛はないと言われているのである。その例えとして、シルバー・バーチ霊がいつも言われている人のための奉仕であると同じことを言われているのだ。それが自己の進歩のために役立つなことのだと
。肝に銘じたいと思う。
1004回目の瞑想
ーーー霊が自分で選ぶ試練の効果を見誤っていたということがありますか。
「霊が自分の力に余る試練を選んで、これに負けてしまう場合があるやも知れぬ。また何の利益にもならない試練を選んでしまうことがあるかも知れない。例えば、本人が怠惰でろくでもない人生を過ごそうと思うような場合。しかしそういう場合、霊界に戻って来ると、何も得るところがなかったと感じ、失われた時間を埋め合わせようと願う」
ーーー人がその職業についた原因、甲の人生でなく何故乙の人生を選んだか、これは如何でしょうか。
「この回答は、諸君自身の中にあるのではないかな。現在その職業についていることは、既述の試練の選択の結果であるということ、また、前生涯での進歩の結果でもあるということ」
ーーー遍歴状態下の霊が、自分の進歩に役立つ地上生活をあれこれ研究する場合、例えば、もし食人種に生まれたら、こういう生活をするだろうなどということは、どのようにして計り知ることが出来ますか。
「食人種に生まれる霊は、進歩した霊ではなく、食人種程度の霊、またはそれ以下に低い霊であろう」
ーーー地球より低級の世界から来る霊、または食人種のような人類最低のところから来る霊が、文明人の中に生まれることが出来ますか。
「可能である。このような霊が、時として文明人の中に生まれてくる。それは、今までより遙かに高級な状態に到達しようと試みるからである。しかしながら、彼等は場違いの状態にある。何となれば、彼等は迷い込んだ社会の信仰や慣習と、衝突する本能や慣習を身につけて来ているから」
ーーー文明人が、償いのために野蛮人の中に再生することがあり得ますか。
「ある。しかし、それはどんな償いをするかによる。自分の奴隷に残忍だった主人は、次は奴隷となり、他人に与えた苦しみを今度は自分が受けることになろう。権力を奪った者は、前生で彼に頭を押さえられていた人々に従わねばならなくなる。自己の力を濫用すれば、償いとして、上述のような人生が与えられるだろう。しかし、一方、善霊も低級な種族の中に生まれる運命を選ぶこともある。これら種族の進歩を促進させるために、この場合の再生は使命による再生である」
今回も試練の選択の続きである。最初の質疑応答は少し驚いた。霊が選ぶ試練で、自分の力以上の試練を選ぶ場合もあるということに。そういう場合は負けてしまう場合もあると言われている。ということは自殺する人の中にはそういった試練を選んでしまったからなのかも知れない。また、何の利益にもならない人生を選ぶ場合もあると言われているが、霊界に戻るとそのことを感じて、失われた時間を埋め合わせようと願うとのこと。霊界ではそう思えるのに、この世では思えないのは何故なのだろう。やはり肉体という壁なのだろうか。また人はそれぞれいろいろな職業につき、人生を決めるが、それはすべて自分が選んだ試練の結果であり、今までの進歩の結果であると言われている。また次の質疑応答は意外にも食人種に生まれたらなどという内容だ。やはり思った通り、進歩した霊ではないと、それ以下に低い霊だと言われている。だが、そのような低い界から来る霊や食人種のような人類最低の霊も文明人として生まれる可能性があると言われている。このことは衝撃だった。たまにニュースなどで、残忍な内容のものがあったりするが、そういった霊の仕業なのかも知れない。また逆に文明人が償いのために野蛮な中に再生することもあると言われている。その例としての内容を読めば、最もなことだと思わずにいられない。そして高い霊が低級な種族の中に生まれることもあるとのことだが、これは種族の進歩を促進させるためという使命による再生とのこと。まさに高い霊だからこそ為せることなのだと思う。
1005回目の瞑想
ーーー霊には進歩の段階がいろいろありますが、この段階に、力の階層というものがありますか。即ち、霊には支配被支配の関係が存在しますか。
「存在する。進歩如何による霊相互間の、権威の関係は極めて大きい。進歩した霊はそれ以下の霊に対して、厳然たる道徳的支配力をもっている」
ーーー低級霊が自分より高級な霊の支配を受けないようにすることが出来ますか。
「高級霊の権威は進歩により備わっているもので、低級霊はこれに逆らうことは出来ない」
ーーー地上で幅をきかせた権力や地位は霊界に入っても、ものを言いますか。
「いいえ。霊界で尊重されるのは謙虚さであり、高慢は品位を落とすものだから。聖書の詩篇を読みなさい」
ーーー品位あるとかないとかは、どういう意味で理解したらよろしいですか。
「霊はその功徳の差に応じて、段階が違っている。従って、地上で最高の地位にあった人が、霊界で最低の段階にあったり、その召使いが最高の段階に入っていたりする。イエスも言ったように、”おごる者は卑しめられ、へりくだる者は崇められる”と」
ーーー地上で高位を占めた者が、霊界で低い段階に入るとすれば、この変化に屈辱を感じるのではありませんか。
「そういうことは極めて多い。特にその者が傲慢で嫉妬深い場合には酷い」
ーーー戦いが終わって、霊界で兵卒が将軍に会う場合、兵卒の目には、やはり将軍は偉い人に見えますか。
「肩書きは意味をもたない。魂の偉さのみが人間の価値を表す」
ーーー霊の世界では、程度の違った霊同士でも、一緒に混じり合うのですか。
「そうでもあり、またそうでもない。即ち、霊はお互いを見るのだが、また同時に等しく離れている。彼等はお互いに親近感をもっていれば近づき、でなければ遠ざかる。この点は諸君等の場合と同じだ。霊の世界は種々の条件や関係が完全に一つにまとまった世界だ。この点、地上界はそれの不完全な反映にすぎない。同一段階の霊同士は、一種の愛著によって互いに引き寄せられ、共感と共通の目的で結ばれて、霊集団ないし霊家族を形成する。善霊は善事をしようという欲求で結ばれる。よからぬ霊は悪事をしようという欲求や、不行跡の恥じらいや、自分に似た者の中に自分を置いておきたいという欲求から一緒に集団をつくる」
ーーー霊はどんな霊でも、お互いに近付くことが出来ますか。
「善霊は何処へでも行くことが出来る。それは、未熟な霊達に彼等の良い感化を与えてやれる。その必要があるからだ。しかし低級霊は善霊の住んでいる地域に近付くことは出来ない。従って、低級霊は悪念を導入して、善霊の幸福な住域を乱すわけにはいかない」
ーーー善霊と悪霊との間にある関係とは、どんな性質のものですか。
「善霊は悪霊のもっている悪い傾向と闘いつつ、その進歩向上のために指導協力する。この交わりは善霊にとり、与えられた使命である」
ーーー悪霊は人間に悪をそそのかして、いったい何が楽しいのですか。
「それは嫉妬心からだ。善霊の間に席を占めたことのない彼等は、自分達の味わえない幸福に他の霊が近付くのを極力邪魔しよう望む。彼等は他の者にも自分等と同じ苦しい目に合わせたいと思う。諸君等にも、心に同じ思いが働くことに気付かないか」(明日に続く)
今回は他界における諸関係という内容だ。最初に進歩の段階には力関係が存在し、支配被支配が存在すると言われている。だが、その支配力とは道徳的なものだそうだ。そして、低級霊にとっては高級霊の支配に逆らうことは出来ないらしい。当然のことだと思う。次に地上時代に権力や地位があった人間についてだが、もちろん、これも霊恪に比例するということだ。権力や地位があった人間が霊恪も高ければ、素晴らしいが、なかなかそうは行かない。得てして、そういった人間ほど、霊的には低かったりする。そういう人は霊界に入ると最低の段階に行くことになるとのこと。逆に身分が低い人が霊恪が高ければ、当然高い段階に行くことになる。権力や地位があった人が、最低の段階での屈辱は想像を絶するのではないかと思う。けれど地上での傲りや横暴な振る舞いの償いとしては仕方ないのだと思う。それが公平たる所以ということだ。
霊の世界での霊同士の関係は、シルバー・バーチ霊のお言葉とは多少違うようにも思うが、大体においては同じことを言われていると思う。ただ、善霊が悪霊のもとに行き、進歩向上のために指導協力することは与えられた使命ということに、やはり善霊の任務は重大な責務を負っているのだと思った。また悪霊が人間をそそのかすのは、嫉妬心からだと言われている。やはり嫉妬とは、かなりの悪感情なのだと認識させてもらった次第である
。
1006回目の瞑想
ーーー霊同志のお互いの意志の疎通は、どのように行われるのですか。
「霊は相手を見て、相手を理解する。会話は物質的なもので、霊の反映である。宇宙には液状体があって、これが霊魂間の通信を絶えず可能にしている。丁度、地上では空気が音の媒体であるように、この液状体は思想を伝える媒体である。この液状体は一種の宇宙的な通信機能を果たすもので、あらゆる世界を結びつつ、甲の世界から乙の世界へと、霊の通信を可能にしている」
ーーー霊は自分の思想を隠すことが出来ますか。また、他から見えないように身を隠すことが出来ますか。
「それは出来ない。霊のあるところ、すべてが明らかである。特に完成した霊に対してはそうである。彼等は互いに目の前から去っても、いつでもお互いは目に見えている。しかしこれは絶対的なルールではない。何となれば、もしそれが望ましければ、高級霊は低級霊に対して、自分が全く見えないようにすることも出来る」
ーーー霊には肉体がないのだから、どうやってその個我を保持していくのですか。また、周囲に沢山いる他の霊の個我と、どうやって区別できるのですか。
「人間の肉体の役割に似ているのが、霊の外被(媒体)である。この媒体によって個我が保持され、夫々それぞれに異なった個性をつくり、また他霊との区別や相違をつくっている」
ーーー霊は地上時代と同じように、お互いを識別できますか。息子が父を、友がその友を。
「出来る。世代から世代を通じてできる」
ーーー地上で知り合った者は、霊界でどのようにして互いを認めるのですか。
「吾々は自分の過去の人生を見て、書物を読むようにそれを読む。友人でも仇敵きゅうてきでも、その過去を見るとき、その者の死に至るまでの人生航路が分かる」
ーーー霊は肉体を離脱すると、直ぐに霊界にいる親戚や友人の姿を見ますか。
「直ぐに、という言葉は適切ではない。というのは、前に述べたように、霊は自己意識を取り戻すために、また物質のヴェールを振り捨てるために多少の時間を要するからだ」
ーーー霊が霊の世界に入る時は、どのように迎え入れられるのですか。
「あるいは、正直者は待ち望まれていた最愛の兄弟のように、あるいは、悪徳の者は軽侮けいぶの目をもって迎え入れられる」
ーーー不純な霊は悪い霊の中に入って行くけど、そんな悪霊達を先ず目にした時、どんな気持ちを抱きますか。
「彼等は自分に似た者達を見て喜ぶ。やはり自分のように至高の浄福に無縁の者達を見て喜ぶ。それは地上と同じく、無頼漢が別の無頼漢に会って喜ぶように」
ーーー私共が地上を去る時、霊界にある親戚や友人達は、逢いに来ますか。
「来る。彼等は愛する者に逢いにやって来る。彼等は無事に旅を終えて帰って来た人を迎えるように祝福を与え、肉の絆を脱ぎ捨てる手助けをしてくれる。このように親しい者達に迎えられることは、正直な者に許された恩恵である。これに反し、不良な魂は迎えに来てくれる者もなく、罰として孤独のままに捨て置かれるか、または、自分と同じ不良の霊達に周りを取り囲まれるのみである」
ーーー死後は、親戚や友人達と再び一緒に暮らせるのですか。
「それは本人達の進歩の程度いかんによる、また、これから進歩のために辿らねばならぬ道いかんにもよる。もしその中の一人が遙かに進歩しているとか、他に抜きん出て急速に進歩向上するなら、一緒のままで暮らすわけにはいかない。彼等は時々互いを見るかも知れないが、本当に一緒になれるのは、終局において次の場合だけである。即ち、後なる者が先なる者と歩調を合わすことが出来る時、また両者ともに完成の域に達した時。しかもなお、親戚や友人の姿を見失ってしまうことが、罰として霊に課されることがしばしばある」
今回も他界における諸関係の続きである。ここでの内容も大変に興味深い。先ず、霊と霊との意志の疎通は宇宙の液状体が可能にしてくれると言われ、地上の空気が音の媒体であるのと同じように、この液状体は思想を伝える媒体だと言われている。この液状体というものは想像すら出来ないが、大変重要な役目を担っているということだけは分かる。次に自分の思想や身を隠すことが出来るかという問いの答えは、やはり母から聞いていたので、知っていた。ただ、高級霊が低級霊に対して、自分を見えなくするように出来るということは初めて知った。やはり、高級霊ともなると凄いのだということを改めて認識させてもらった。また肉体がない霊には外被があると言われ、この外被によって個性を保持できて他の霊との区別がつくと言われている。これはシルバー・バーチ霊は地上にいた容姿そのままだと言われていたと思う。他界しても自分の近しい間柄の人達のことは認識できるのだと私は信じている。更にどんな人の人生も過去を見れば、その人の死に至るまでをも分かると言われており、とても興味深かった。また、先に逝った人達が迎えに来てくれるのは、正直者に許された恩恵だと言われている。だからこそ、この世を誠実に真摯に生きなければいけないのだと思う。そして最後になるが、死後、愛する者と一緒に暮らせるということを信じていただけに、事実であれば衝撃的なことだ。だが、一時でもいいから、一緒に過ごせる時期があることを願うばかりだ
。
1007回目の瞑想
ーーー霊の似通った者同士の共感の外に、霊が個人的に相互に好感を抱くことがありますか。
「ある、それは人間の場合と同じだ。しかし肉体を脱すると、その結び付きは一層深くなる。それはもはや情緒の浮き沈みに身をさらすことがなくなるからである」
ーーー霊が相互に憎しみ合うことがありますか。
「浄化していない霊は憎しみを抱く。人間の間に憎悪や不和の種を蒔くのは彼等である」
ーーー地上で仇敵であった者は、他界に入っても、依然として憎悪を持ち続けますか。
「いやそんなことはない。彼等はしばしば、その憎悪がいかに愚かであったかを知り、また、憎悪の元となっていた事柄の幼稚さを感じるから。唯、未熟な霊は依然として地上生活の怨恨を抱き続ける。但しそれも、彼等が向上進化していくにつれ、薄れていくのであるが。霊の抱く怒りも、元は単なる物質的利害から起こったのだから、霊は肉体を脱するや否や、その不和や軋轢あつれきを忘れてしまう。もはや不和の原因は存在しないから、もし互いの間に他に反感がなければ、彼等は再び喜びをもって互いを見る」
ーーー地上で互いを傷つけ合った非道行為の記憶は、霊界に入っても、両者の共感の障害となりますか。
「左様、どうしても両者は離れがちである」
ーーー傷つけられた相手は、死後どんな気持ちをもっていますか。
「それが善霊なら、傷つけた相手の懺悔いかんで、直ぐ許す。しかし、これが良くない霊なら、死後も憎しみを持ち続け、相手を付け狙うかも知れない。神もこれを懲罰として許し給うだろう」
ーーー個人的愛情は死ねば変化するでしょうか。
「変わることはない。死後の世界では、お互いの心底を見損なうことは有り得ないからだ。地上では顔色や言葉で自分を隠せたが、霊界にはそんな都合のよいものはない。だから、地上での互いの愛情が本物だったら、こちらに来ても変わることはない。二人を結ぶ愛こそは至高の幸福へ至る源泉である」
ーーー二つの霊が抱いていた互いへの愛情は、霊の世界へ入っても続きますか。
「それは間違いなく続く、その愛が心と心の結び付きであるならば。もし、それが心よりも肉体的要素が多ければ、死と共に燃え尽きる。愛は地上に在った時より、霊魂になってからの方が一層強く且つ永続するものだ。それは物的利害や自己愛などの儚いものと、もはや関わりを持たなくなるからだ」
ーーー最後に愛で一つに結ばれる二人の魂は、初めからそうなるものと定められていたということ、また、吾々には宇宙のどこかに、最愛の誰かがいて、やがて一つに必ず結ばれているということ、この事は真実ですか。
「いや、誰も特定の宿命的な相手が定められているわけではない。結合はすべての霊との間にある。但しその結合の程度は違う。その霊の段階、つまり到達した完成の度合いに応じて。進歩の程度が高ければその結合も強い。人間生活一切の禍の不調和、すべての霊が最後に到達する完全完璧の幸福は調和の結果である」
ーーー自分が特に共感を感じる相手のことを、霊が「私の半身」とよく呼ぶことがありますが、それは何と解釈したらよろしいですか。
「その表現は正確ではない。もしある霊が他の霊の半身であって、しかも相手から離れているとすれば、その霊は不完全なものであろう」
ーーーもし二つの完全に共感し合っていた霊が他界に入って再び結合するなら、彼等は永遠にこうして結ばれているのですか。それとも、やがて別れて、更に別の霊と結ばれることがあり得るのですか。
「すべての霊が結合する。ここで申すのは、完全に到達した霊のことである。それ以下の境涯では、一つの霊が向上する場合、彼は別れた霊達に対して、同様の共感を必ずしも感じることはない」
ーーー二つの霊同士が完全に共感し合っている時、彼等は互いの半身なのですか。それとも、それは完全な性格一致によるものですか。
「霊同士を引き付ける共感とは、両者の性向や本能の完全同調の結果である。もしお互いが他の半身なら、彼等は独立者とは言えなくなる」
ーーー思想や感情が似ていることは、完全共鳴を生み出すに大切な要素と言えますか。あるいはまた、持っている知識が同じようであることも、その要素となりましょうか。
「二つの霊の完全な共感は、進歩程度の同一性、これから生まれるのである」
ーーー今は共感していない霊同士が、将来、共鳴し合う仲となることがあり得ますか。
「ある。すべての霊が、時至れば互いに共感し合うものとなる。されば、かつて一つであった二つの霊のうち、一つが他より早く進歩してしまうことがあろう。しかし、他方は今は低い所に居ても、次第に進歩して、もう一方が住む境涯に達することにもなり得よう。また、進歩していた方が試練に負けて、暫く低滞することにでもなれば、両者の再結合はやがては生じることにもなろう」
ーーー現在共感し合っている二つの霊が、いつか別れてしまうことがありますか。
「それはある。一方が進歩するのに、他方が力を欠いて低滞すれば、そうなる」
今回は霊の抱く共感と反感についての内容である。私は今回、霊界に入っても、地上での関係が少なからず続くということに少し戸惑った。それは霊界に入れば、真の愛の絆のある関係は続くと思っていたが、それ以外の関係はなくなると思っていたからだ。もちろんすべての関係が続くわけではないようだが、未熟な霊は依然として地上生活の怨恨を抱き続けると言われている。けれど向上浄化していくにつれて、その気持ちは薄れていくようだが。また善霊であれば、例え地上生活で傷つけられたとしても、その相手が真摯に謝れば直ぐに許すと言われている。けれど、未熟な霊などは、死後も憎しみを持ち続けて、相手を付け狙うかもしれないと言われている。だが神様はそれを懲罰としてお許しになっておられるようだ。そして、地上生活で好感を持っていた二人の霊が、本物の愛であれば霊界に入ってからも続くと言われている。これに関しては納得だ。けれども、今回の内容で一番肝心だと思った箇所は、誰もが特定の宿命的な相手が定められているわけではないと言われていることだ。ソウルメイトやツインソウルなどと呼ばれる特別な関係があるのだとばかり思っていたので、この内容には驚きだった。更に結合できる相手というのはすべての霊との間にあると言われているのだ。しかも到達した完成の度合いに応じてその進歩の程度が高ければ高いほど、その結合も強くなると言われている。質問者は二つの霊同士の共感についてを例に挙げて何度となく質問しているが、要するに二つの霊が完全に共感でき、結合に至るのは、進歩程度の同一性が要であるということなのだ。どんなに共感していても、進歩の度合いが違ってしまうと、結局別々の道を行かなければいけなくなる。もちろん、また進歩程度が同一になれば一緒になることも可能なのだ。この論理から言えば、確かにどの霊とでも結合可能ということになる。ただ単に共感しているから、好感を持っているからでは一緒に歩むことは出来ないということなのだ。何より、進歩程度が同一ということが最優先されるということのようだ。
1008回目の瞑想
ーーー霊は自分の地上での生活を覚えていますか。
「覚えている。霊は人間として過去何度も地上生活を送っているが、その事をよく覚えており、そして時には、過去の愚行を思い出しては微苦笑を洩らすこともある」
ーーー霊は死ぬと直ぐに、その地上生活の記憶が完全に自動的に蘇るものですか。
「いや、それは少しずつ蘇ってくる。即ち、彼が地上生活に注意を向けるにつれ、恰も霧の中から物体が段々現れてくるように」
ーーー霊は地上生活のすべての出来事を細部まで覚えていますか。一望のもとに全人生を見通すのですか。
「本人の霊性に与えた影響いかんにもよるが、霊は概ね生涯の出来事をはっきり細かに記憶している。だが諸君にも分かる通り、人生にはさして大切でもないし、また本人も思い出そうともしない事があるものだ」
ーーーもしそういう事で、思い出そうとすれば思い出せますか。
「霊はどんな細かい事でも、思想についてさえも、思い出そうとすれば思い出す力がある。但し、その力を働かすには、ちゃんとした役に立つ目的がなければ霊はその力を働かさない」
ーーー霊はどういう具合に過去を思い出すのですか。じっと思い出そうと努力するのですか。それとも、目の前に絵のように次々と浮かんでくるのですか。
「それは両方のやり方がある。興味のある事柄は、現在の事のように目の前に現れるが、そうでないものは、漠然と頭に浮かぶ程度か、全く浮かんで来ないかである。その霊が物質から超越していればいる程、物質的な事には関心を示さない。諸君もしばしば次のような経験をすることがあるだろう。死後間もない霊を呼び出すと、地上で親しかった人達の名前も思い出せず、諸君にとって重要だと思える事も覚えていないということが。彼が殆どそんな事柄には関心をもっていないので、記憶が薄れてしまったのである。しかし、彼は精神的道徳的進歩に役立った、過去の大切な事柄は完全に記憶している」
ーーー霊は過去の数多い前生のことを皆覚えていますか。
「それは丁度、旅行者が通り過ぎた宿駅を思い出すように、霊の過去のすべてが彼の目の前に広がっている。しかし前述のように、何から何まで過去の一切の事柄を、はっきり覚えているわけではない。それらの中、現在の彼に影響を及ぼした程度に応じて、大なり小なりはっきりと覚えているのである。初期の前生、つまり霊の揺籃期を形成するような事柄については、忘却の夜の中に消えている」
ーーー霊は肉体を離脱すると、その肉体をどのように思うのですか。
「自分を束縛していた不愉快な外被、それを脱いでせいせいした感じ」
ーーー自分の肉体が分解していくのを見て、どんな感じを抱きますか。
「大抵の場合は無関心、もう用のない代物という感じ」
ーーー霊はしばらく経った後でも、自分の遺骸や品物に見覚えがありますか。
「見覚えていることがよくある。但し、それは地上の物を見る本人の視点の高さ、これ次第である」
ーーー遺族が故人の遺物に敬意を表していれば、霊の注意はそれらの遺物に向けられますか。また、霊はこのような敬意を嬉しいと思いますか。
「霊は遺族達が親しい思いを寄せていることを嬉しく思う。遺族達は個人の思いを留める品物を通じて、個人を思い出す。しかしながら、死者の霊を引き付けるものは、これら遺族の念であって、遺物ではない」
今回は地上生活の記憶と題された内容で、私達人間には最も関心ある内容のように思う。死後、霊界に入って霊となっても、人間としての地上生活の事はよく覚えているよう
だ。それはとても有難いと思った。また覚えているからこそだが、過去の愚行を思い出して微苦笑を洩らすとあるが、ここで私も苦笑してしまった。過去を思い出す際には興味のある事柄については現在の事のように目の前に現れると言われている。そんなにリアルに見ることができるとは凄いとしか言いようがない。けれど、興味のない事柄については漠然と頭に浮かぶ程度か全く浮かばないかだと言われている。それは当然のことなのだと思う。ここで大事なことは霊恪が高ければ物質的なことには関心を示さないということだ。また過去性についても、自分に影響あることに応じて、大なり小なりはっきりと覚えていると言われるがそれ以外は忘れ去られてしまうようだ。だからなのだと思うが、肉体に別れを告げた後は、物質である肉体に対しても不愉快とかせいせいしたという感じを覚えるようで、無関心でもあり執着はないようだ。更に自分が残してきた遺骸や品物についても、遺族がその遺物に愛着があるということに対しては嬉しく思うようだが、その遺物に対しては何の思いもないようだ。私は息子が亡くなって程なく、殆ど息子のものは息子の友人に形見として分けたり、処分してしまっている。残っている物は少ない。しかもそれを出して思い出に耽ったりもしていないのだ。思い出は心にしまってある。かけがえのない息子との思い出は私の宝物だ。それでいいと思っていた。なので、今回の内容に、私のしたことは間違っていなかったということを教えて頂いたようで有難い思いで満たされたのだ
。
987回目の瞑想
ーーー他の天体に住んでいる人類も、私共のような肉体をもっているのですか。
「それは必ずもっている。霊魂が物質に働きかけるには肉体が必要だからだ。だが、肉体は霊の浄化の程度に応じて、濃厚であったり精妙であったりする違いはある。また行くべき天体を決定するのもこの浄化の程度である。吾等が父なる神の家には、多くの宿あり、この宿は多くの段階があるのだ。地上にありつつこの事を知り、この事実に気付いている者達がいる、また全くこの洞察をもたぬ者達もいる」
ーーー他の天体の物理的・精神的状況につき、何か正確な知識を私共はもつことが出来ますか。
「吾々霊は、諸君の到達した発達程度に応じて、答えを与えるのみ。吾々はその秘密を万人に示してはいけないのだ。何となれば、それを洩らしても理解できない発達程度の人々はいて、彼等はそれを知ると混乱に陥るからだ」
ーーー別の天体へ再生する場合は、霊は赤ん坊となって生まれるのですか。
「どこの天体でも、赤ん坊となって生まれる必要がある。だが、どこの天体でも、地上の赤ん坊のように愚かであるとは限らない」
ーーー霊は、次に再生する天体を自分で選ぶことが出来ますか。
「必ずしもそうは出来ない。しかし、彼は希望することが出来るし、その希望は叶えられるかも知れない。ただそれは本人がそれにふさわしい時に限る。実は霊の発達に見合った天体なら、いつでも行けるようになっている」
ーーーもし霊が希望をもっていない場合は、何によって再生する天体が決められるのですか。
「霊の発達の程度によって決められる」
ーーーどの天体の居住者も、肉体的・精神的状態は、皆同じようなものですか。
「いや違う。つまり天体というものは、そこの居住者と同じように、進歩の法に従っている。どの天体も、諸君の地球のように、低い段階から出発している。従って、地球も他の天体が経過したように、変化を遂げることになろう。やがて人類が善良となった暁は、地球は地上天国と化すだろう」
[注解] 現在地上に生存する民族は漸次消滅し、もっと完全な民族が出現することになろう、丁度現在の民族が、先住の劣等な民族の後を受けたように、新しい民族が、吾々現存民族に続いて出て来る。
ーーー物質的生活をすべて終わり、稀薄な媒体以外に何もつけていない霊ばかりが住んでいる天体がありますか。
「ある。その媒体は極めて稀薄なので、諸君から見ると、何も着けていないようだ。これこそ完全浄化の霊達の状態だ」
ーーーすると、これら霊の媒体と、霊そのものとの間には、はっきりした区別はないということですか。
「区別というものは存在しない。両者の差は漸次減少し、恰も、夜の闇が黎明れいめいの中に融け込んでいるように、両者は互いに入り交じっている」
ーーー霊の媒体の素材は、どの天体でも同じですか。
「いや、天体により精妙さに差がある。別の天体へ変わる時、霊はその天体に固有の物質を身にまとう。即ち、その外被の波長を変える」
ーーー肉体をもたない霊は、特殊な天体に居住するのですか。それとも、天体から離れた宇宙空間に居住するのですか。
「彼等はいずれかの天体に居住している。しかし、それは人間が地上に縛られているように、その天体に縛り付けられているわけではない。彼等は自在に移動する力を所有している。この点、彼等は何処にでも在ると言うことが出来る」
[注解] 霊の伝えるところによると、地球は、その居住者の肉体的・精神的資質の点では、この太陽系の惑星の中でも、最低のものの一つであると。火星は、ある点では、地球の人類よりも低い。木星は、あらゆる点で、地球人よりはるかに優れている。太陽は肉体をもつ者の住む世界ではないが、高級霊達の集まる場である。これら高級霊は其処から、太陽系の各天体へ向け、その思想を放射している。彼等はこれら諸天体を低位の霊の媒介を通じて支配している。彼等は宇宙的液状体を媒介物として、彼等の作用をそれら低位の霊へ向けて送達するという方式をとっている。物理的な点では、太陽は霊気の中枢のようである。この点、他の太陽も、その本質や機能は、吾が太陽と同様と思われる。
天体の大きさ、太陽からの距離は、その天体の進歩程度とは必ずしも関係はない。即ち、金星は地球よりも進歩しており、土星は木星よりは進歩していない。
地球上の著名な人物の多数は、完全に最も近い天体の一つである木星に、再生すると言われる。更に驚いたことだが、地上では有名でなかった人達が、進歩した天体に再生が許されているということである。しかし、次のことを思う時、これは驚くに当たらない。第一に、吾々の目には目立った地位にはなかったが、ある使命を帯びて地上に遣わされていた霊達がいたということ。第二に、進歩によって、地球と木星の中間くらいの生活を送っていたであろう霊がいたということ。第三に、木星にも地球同様に、多数の進歩の段階があり、地上に奴隷と教養人の差のような差が、木星にあるかも知れないということ。哲学者と同じ町に住むから、無学な人が哲学者と同じレベルにあるとは言えないように、霊が木星に住んでいるから、木星の最高級の人物と同レベルということは有り得ない。
今回も続きであるが大変に興味深い内容だ。他の天体であっても、肉体は必要だと言われている。霊魂が物質に働きかけるには肉体が必要だからと。天体についての詳しい知識を知ることはそれぞれの進化の程度によるので、一概には言えないようだ。またどの天体に生まれる場合もまずは赤ん坊からだそうだ。しかも地上の赤ん坊のような愚かではないと言われている。やはり、進化している天体は赤ん坊から凄いのかと思った。私達が死後また再生する際に、行く先の天体を希望することはできるらしいが、だがふさわしい場合に限ると言われている。やはり霊的な進化の程度によるのだろう。進化した天体も元々は低い段階から始まり、徐々に進化していったようだ。なのでいずれ地球もそのような進化した天体となるのだろう。その時には地上天国になると言われている。次の注釈に関しては疑問に思った。今現在の人間を見渡して見た限り、そこまで進化してきた人達なのだろうかと。嫌なニュースがTVでは散々流れている。それを思うとまだまだ先は長いのだと思わずにはいられない。
高い界の霊の媒体は稀薄だと言われているが、亡くなった母もよく言っていた。高いお方の着ているものは、柔らかくて透き通っているようだと。なので、やはりそうなのかと得心する。また瞬時に移動もできることは母からも聞いていたので、知っていた。高くなればなるほど、自由自在ということなのだと思う。
最後の注釈は、圧巻だった。知らないことばかりで、惑星の高低について詳しく書かれているのには驚いた。木星が完全に最も近い天体の一つだということに、ただただびっくりする。しかも地球上の著名な人物の多数はその木星に再生されるとのこと。だが、地上では有名でなかった人達が、進歩した天体に再生が許されているということについて驚かれているが、私は当然だと思っている。有名な方だからと言って、すべてが霊恪が高いとは限らない。反対に無名だからと言って、霊恪が低いとも限らないからだ。むしろ、無名な人が素晴らしい霊恪である場合が往々にしてあるのだ。また三つのことを言われているが、これも当然だと思っている。もちろん、木星についてのことは知らなかったが、天体として考えた場合には当然のこととしてしか有り得ないのだと思う
。
988回目の瞑想
ーーー
霊はその形成の初期において、自己のすべての能力を具えていますか。
「いや、霊にも人間同様に幼年期がある。その初期は、霊は本能的な生活をするのであって、自分や自分の行為については殆ど意識をもっていない。知性は徐々にしか発展しない」
ーーー霊が初めて肉体をとった時の状態はどうですか。
「人間の幼児に似た状態である。知性がやっと芽を吹き始めたところで、生きることを試みているという状態だ」
ーーー野蛮人の玉石は、幼児期の魂ですか。
「どっちかというとそうだ。だが、彼等は情緒をもっているから、相当程度進歩した魂ではある」
ーーーでは、情緒は進歩の印ですか。
「進歩の印である。しかし、完全の印ではない。それは活動の印、また”我”を意識している印である。反対に、魂が初期の段階では、知性も活力も種子たねとしてあるだけである」
ーーーもし、吾々が現在この世で完全な生活を送ったとすれば、途中の段階を飛び越して、清浄霊の状態に到達することは可能ですか。
「それは出来ない。人間が完全と考えるものは、完全から未だ遙かに遠い。人間に計り知れないものが存在する。現在の人間が背伸びをしてもむりなあるものが。仮に、人間が地上の尺度で完全としても、真の絶対の完全から見れば、まだ遙かに遠い。それは丁度、早熟な子供のようなもので、早熟とはいえ、やはり大人になるためには、青年期を経過せねばならない。また完全な健康になるために、回復期を通らねばならない病人に似ている。しかもなお、霊は道徳性と同様に知識の点でも進歩せねばならない。仮にその一方だけ進歩しているとすれば、完全の頂上に達するためには、他の半面でも等しく進歩の要がある。しかしながら、次のことだけは確かである。即ち、人が現在の生で進歩するなら、次の生存で受ける試練の時間は短くなり、またその苦痛も少なくなるということである」
(明日に続く)
今回、進みゆく輪廻と題された内容は、知らないことが多かった。先ず、霊にも人間と同じ幼児期があると言われている。その初期には本能的な生活すると言われ、自身のこと自身の行為については殆ど意識がないと言われている。このことはすぐには信じることができないような内容だ。霊としてもそのような時期があるということは初めて知った。しかも本能的な生活をすると言われているのだ。また野蛮人の魂は情緒があるから相当程度進歩した魂だと言われている。ここなどは意味がわからない。野蛮人なのにかなり進歩していると言われているのだ。そして更に情緒は進歩の印と言われながら、活動の印とも言われ、我を意識している印とも言われている。それは進歩している印となるのだろうか。私にはよくわからない。わからないことは、取り敢えず保留にしておく。そして最後の質問だが、このお答えにやはり意気消沈する。何せ、人間が完全だと思っても、それは完全からは未だ遙かに遠いと言われているのだ。では未だ完全と思えない人間はどうなるのか。全く足元にも及ばないということになる。例えとして早熟な子供のこととか、病人について書いてあるが、確かに途中経過を通らなければ最終目的にはたどり着けないということはわかる。だが、その先の長さが気が遠くなるほどだ。しかも、道徳性と知識は同じ程度に進歩していなければいけないとも言われている。これもまた大変なことだ。そして確かに言えることとして、この世の人間が仮に進歩したとしたら、来世での受ける試練の時間が短くなるということ、またその苦痛も少なくなるという程度らしい。このことから焦る必要も急ぐ必要もないということがわかる。とにかく一歩一歩着実に自分の使命を果たして進歩して行く努力をしていくこと、これしかないのだ。まだまだまだまだ先は遠いのだから
。
989回目の瞑想
ーーー次の人生で、既に彼が到達している点よりも、低い点に下がることがありますか。
「社会的地位のような意味でなら可能だが、霊としての進歩の程度という意味でなら不可能である」
ーーー善人の魂が、次の人生で無頓着となることがありますか。
「ない。霊魂が退歩することはないからだ」
ーーー悪人の魂が善人の魂にかわることがありますか。
「もし、悔悟しているなら、あり得る、その場合は、彼の次の人生は、改善の努力の賜物としての人生である」
ーーー将来の再生によって自己改善することが確実なら、この事を知った者の中に、それをあてにして現在は怠けていようとする者も出て来るのではありませんか。
「そういう考え方する者は、何事においても、心からの信をもたない者である。そういう者は、永遠の刑罰という観念をもってしても、抑制することは出来ない。だいたいこの観念は信じ難いものであるとしても、彼にその観念すら受付ようとせぬだろう。事実、不完全な霊は現世の間に、人生を真面目に考えてみることをしない。しかし、一旦死を経過すると違ってくる。即ち、間もなく自分が大間違いをしていたことに気付く。そして今度再生したら、反対の気持ちでやってみようと思うものだろう。進歩はこうして達成される。地上生活で、抜群の進歩を遂げる人があるが、それは他の者が未だ身につけていない経験を所持しているということである。他の者も次第にそれを身につけていく。迅速な進歩を遂げるか、いつまでもぐじぐじしているか、それは個々の霊いかんによる」
ーーー地上生活の苦労を経験して、初めて霊は改善されていくものですから、地上生活とは笊ざるや篩ふるいのようなもので、霊界の霊達は完全に達するために、この篩をどうしても通らねばならない、こういうわけですか。
「その通りである。彼等は地上生活の試練の中で、悪をさけ善を行うことによって、自己を改善する。しかし、それには再生とそれに続く浄化を次々と数多く重ね、その努力に応じて長くもなりまたは短くもなる、数多の時間を重ねつつ、その目指すゴールに到達するのである」
ーーー自己改善に当たり、霊に与えるのは肉体ですか、それとも、霊が肉体に影響を与えるのですか。
「諸君の霊こそすべてである。肉体は朽ちるべき着物、それ以上の何ものでもない」
今回は昨日の続きである。ここではっきりと自分が得た進歩は退歩することがないと言われている。そして悪人であっても、真の意味で悔悟しているなら善人の魂に変わることがあり得るそうだ。また、私も今回の霊の書を読んでいて思ったことを質問されていた。それは将来、浄化できるのであれば、そう思って今生くらい楽しくおかしく暮らしてもいいと思う人がいるのはないかということだ。だが、そのお答えは実に明瞭で得心できる内容だった。そういう魂は何度も再生するしかないのだ。ただ、進化を求める者にとっても、進化していくということの大変さを感じた。言葉で言うのは簡単だが、迅速な進歩を遂げたいと思ってはいても、実はじくじくした状態からなかなか抜け出せない、どうやって抜け出していいかもわからない、と言った苦悩が人生にはついてまわる。ただ、次の質疑の内容がすべてなのだろう。地上生活の試練の中で善悪をわきまえ、実行し自己改善を重ねていく。それを何度となく再生することによってその体験を数多く重ね、努力して浄化しながら、ゴールを目指し到達する。それは何よりも霊にこそ影響を与えるものなのだと。霊を浄化させていく以外到達することはできないということなのだ。
990回目の瞑想
ーーー幼児のままで死ぬ子供の霊は、大人の霊ほどに進歩していますか。
「時には、大人よりずっと進歩していることがある。つまり、その子供は前生ではもっと長生きし、多くの経験を既に重ねていたかも知れぬから。それが相当な進歩を遂げていた霊の場合は、特にそうである」
ーーーでは、子供の霊が父親の霊よりも進歩しているかもしれないのですか。
「そういうことはしばしばある。諸君もそういう実例を数多く見るのではないか」
ーーー幼児期に、しかも何も悪いことをすることなしに死んだ子供の場合、その魂は霊の段階の中で、高い段階に属しますか。
「何も悪いことをしなかったということは、何も善いこともなさなかったということだ。神は受けるべき試練を免れさせ給うことはない。もしそういう霊が高い段階に属するなら、それは彼が子供であったからでなく、それ以前の諸人生で進歩を遂げていて、その高い段階に達していたからである」
ーーー子供のままで死ぬことが多いが、それは何故ですか。
「子供のその短い人生は、本人にとっては、前生で予定されていた寿命が中断されたための補いかもしれない。また両親にとっては、子供の死は試練であり、または罪の償いであることが多い」
ーーー幼児期に死んだ子供の霊はどうなりますか。
「彼は新しい人生を再び始める」
今回は死後の子供の運命についてである。最初の質疑応答だが、子供であっても霊としては経験を積んで、高い段階にいる霊である場合があると言われる。そして、子供の短い人生については、前生での寿命が途中で中断した補足のためかも知れないと言われており、また両親にとっての子供の死は試練である場合と罪の償いである場合があると言われている。そしてその子供の霊の死後は、新しい人生を再び始めるのだそうだ。
私達の息子の死については、私達夫婦の試練であったと思っている。そうでなければ、これだけ早くに立ち直ることは出来なかったと思うからだ。そして、息子は霊の世界で充実した日々を送っているものと信じている。今回の内容からも、改めて息子は親よりも高い段階の霊であったのだと思っている
。
991回目の瞑想
ーーー両親は子供に自分の魂の一部を譲り渡すのですか。それとも肉体を与えるだけで、魂は全然別個のものですか。
「両親が子供に与えるのは肉体だけである。魂は分割できないものだから。従って、愚かな親に賢い子が出来たり、この反対のこともある」
ーーー私達は多くの前生を経てきたのだから、私共の身内は現世を越えて彼方にまで続いているわけですか。
「それは勿論だ。多くの地上生活を続けた結果、前からつながる多数の身内が霊の中にいる。諸君は初めて逢った人に共感や反感を覚えるだろう。それは過去からのそういう関係によって起きることが甚だ多い」
ーーー再生の教えを聞きますと、前生に思いを馳せ、現在の家族との結び付きを軽視する気持ちになります。
「再生の教えは、結び付きの範囲を拡げてこそすれ、これを壊すものではない。いやむしろ、現在の身内関係は、過去の愛情がもとになって作られていることを確信する時、家族の結び付きは、いよいよ固くなるものだ。それは身内の親愛の義務をのっぴきならなぬものとさえする。何となれば、諸君の近隣、あるいは使用人、これはあるいは、前生で親族関係とか、愛情とかの強い絆で諸君と結ばれていた霊が再生しているかもしれない」
ーーーしかしながら再生の教えは、祖先尊重の念を減ずるとも言えます。と申しますのは、私の父親は、かつて異民族であり、あるいは別の社会階級の人の霊であったかも知れませんから。
「それは事実だ。だが祖先尊重の念は、一般に誇らしさの上につくられている。即ち、一般の人達が祖先に誇りをもつのは、その地位であり肩書きであり財産によってである。多くの人は、自分の祖父に正直な靴屋があればこれを恥じ、堕落した貴族でもあれば、自分はその子孫だと鼻にかける。しかし人が何と言いまた何を為さそうと、神慮による摂理の進行を変えることは出来ぬ。神は人間のむなしい虚栄をおもんばかって、大自然の法を定め給うたのではないから」
(明日に続く)
今回は家族関係ー子孫という内容だ。最初の質疑は当然、人間は肉体しか与えることはできない。それは身を持って得心している。それはやはり息子のことだ。主人はもちろん、頭脳明晰だった。なので重要な役職にもつき、全うした。そして自分にも厳しく人にも厳しかった。ただ、私はそこまで頭がいいわけではない。けれど、息子はいろいろな方から金の卵と言われるような素質があったの
だ。特に数学については、先生がびっくりして電話かけてきたほどで、試験の際、公式を使わずに独自の考えで問題を解いたとのこと。数学者にした方がいいとまで言われたのだ。更に国語の先生には稀に見る語彙力だと言われ、やはり試験の際の答案に普通は考えられない答えを書いていたが正解だったとのこと。また楽器についてもダイヤモンドの原石と言われていた。磨けば磨くほど素晴らしい音色を奏でられると。息子の音色は魂を鼓舞する音だと私自身も感じていた。また息子は人に優しく自分にも優しかった。そんな息子だったので、早くに亡くなったことは親としては悲しいことだったが、霊的には当然のことだったのではないかと思っている。
話がだいぶ逸れてしまったが、今生での家族などの血縁関係は霊的には関係ないように思っていたが、今回の内容で、過去の愛情がもとになって作られている場合や前生で親族関係とか、愛情とかの強い絆で結ばれていた霊が再生しているかもしれないとのお言葉に、単なる血縁関係だけではないことに安堵した。けれど、このお言葉で気付かされたが、よく考えてみれば人間はみな霊なのだから、血縁関係といえど、霊的にも何らかの関係はあるはずなのだ。やはり頭で理解するということは肝心なことが抜けていたり、思い違いをしていることが多いのだと思い知らされた。
最後の祖先尊重の念については
、私には誇れるような祖先は大昔にはいたのかも知れないが、知る得る限りにはいないと思う。だが、お言葉にあるように、多くの人は祖先尊重の念はその地位であり肩書きであり財産でありが大方なのだろう。確かに何の地位もなく、肩書きもなく、財産もない人が祖先であった場合、誇るという気持ちにはならないのかも知れない。けれど、そのことよりも、その方が人のためにどんな生活をして来られたのかということが一番肝心なことなのではないかと思う。
992回目の瞑想
ーーー同一家系の子孫として次々生まれてきても、霊的な子孫関係がないとしたら、祖先の名誉を誇りにしても、それは馬鹿げたことですかね。
「いや、それは違う。人は優れた霊が生まれたことのある家系に属することを喜ぶべきである。霊から霊が生まれたわけではないが、血族として結ばれている者への愛情は、切っても切れない真実のものである。何となれば、前生で抱いた愛情や前生で結ばれた親族関係の愛著によって、同じ血族として、何度も生まれてくるのであるから。しかしだからと言って、祖先の霊は子孫が祖先の功績も自慢げに誇っても、決して喜びはしないということは、諸君にも分かるだろう。祖先の功績はそれがどんなに偉大であっても、子孫がその模範に従おうと奮起しなければ何にもならぬ。結局、祖先の誇るべき功績も、子孫にふさわしく且つ有用となるのは、子孫が祖先に負けまいと励むことによってのみである」
ーーー子供の身体つきは両親に似てることが多いですが、精神もやはり親から受け継ぐものですか。
「いや、受け継がない。親と子では魂が、つまり霊が違うから。肉体は肉体から生まれるが、霊は他の霊から生まれるものではない。血族の間には、同じ血族であるということ以外には何も関係ない」
ーーーだが親子の間で、精神性が似ていることが多いけど、これは何故ですか。
「それは同気相ひく力による。これにより同じような情緒や傾向をもった霊魂が集まってくるわけだ」
ーーー親の霊が生まれた子供の霊に、影響を与えることはないのですか。
「それは大変大きな影響を与える。既に述べたように、霊はお互いの進歩に資するように創られている。親は子供を鍛えて、その魂を開発するように使命が課せられている。これは親たるものの仕事だから、これがやれないようでは、親としての何の資格もない」
ーーー善良で道徳的な両親に、ひねくれた性悪の子供が生まれることがよくありますが、これはどうしたのですか。言い換えれば、善良な両親なら、同気相ひくことによって、善良な子供をつくりそうな筈なのに、必ずしもそうではないということです。
「邪悪な霊は、良い両親のもとに生まれて、自己を改善したいという希望から、それを願うということだ。神もまた、そういう親の愛と保護によって、良くなって行くようにと、道徳的な人々の保護下にそういう霊を置かれることがよくある」
ーーー親は、意志や祈りによって、立派な子供の霊が宿るようにすることが出来ますか。
「出来ない。しかし、両親は産んだ子供の霊を改善することは出来る。親はその目的のために子供を委託されている。これは親の義務である。しかし他方では、親自身の改善のための試練として、悪い子供が与えられることもしばしばある」(明日に続く)
今回は昨日の続きである。最初の質疑応答でも、心に響く。血族として結ばれている者への愛情は、切っても切れない真実のものであるとの言葉はとても励みになる。しかも同じ血族として、何度も生まれてきているとのこと。そして祖先の功績を自慢げに言うのではなく、その功績がどんなに偉大であっても、子孫がその模範に従い奮起しなければ何にもならないと。祖先の誇るべき功績が、子孫にふさわしく且つ有用となるのは、子孫が祖先に負けまいと励むことによってのみであると言われているのだ。本当にその通りだと思う。
親子間についても、霊としては別だと何度も言われている。ただ類友の友のように同気相ひくという形で、同じような情緒や傾向をもった霊が血族となるようだ。そして親の影響も大だと言われている。しかも親は子供を鍛えて、その魂を開発するように使命が課せられているのだと。これができないようなら、親として何の資格もないと厳しく断じている。少なくとも、私は息子に霊的なことを教えたつもりだったが、教えなくても息子ははなからわかっていたのかも知れない。けれどそれが親の使命として課せられていることなどとは夢にも思わなかった。
親子の場合もお互いに試練であり、それを体験し克服していくことで、進歩していくということなる。最後もまた親としての課題が書いてある。『両親は産んだ子供の霊を改善することは出来る。親はその目的のために子供を委託されている。これは親の義務である』と。
993回目の瞑想
ーーー兄弟、特に双生児の場合は、正確が似ていることが多いが、これは何故ですか。
「彼等のもっている心情の類似性がお互いを引き付け合うのだ。しかも、彼等は一緒になって幸福なのである」
ーーー兄弟で、身体が接着しており、内蔵の一部も共有している子供達がいます。あれは二つの霊、つまり二つの魂なのですか。
「二つの霊だ。ただ二人はよく似ているので、一つの霊のように思えるものだ」
ーーー双生児は二つの霊が共感によって生まれたとすれば、この双子が時には憎み合ったりしますが、あれはどうしたことですか。
「共感をもった霊同士が双子になるとは限らない。悪い霊達が双子となり、地上を部隊として闘争しようと望んで、生まれてきたのかも知れない」
ーーー母の胎内で争う子供達の物語がありますが。
「あれは、憎み合う者の宿縁の深さを示す比喩である」
ーーー各国民は、それぞれ国民性が違っていますが、その原因は何ですか。
「霊はその性向の類似性をもって、別々の家族集団をつくる。各民族は共感をもった霊達が集まってつくった一大家族である。各国民性の特徴は、そこに集まった多数の家族の成員達のもつ性向である。善良で慈愛深い霊魂が、野蛮未開な民族の中に生まれたいと願うだろうか。そんなことはない。霊は個人と共感すると同様に、人間集団とも共感する。従って、霊は最も自分と一致できる国民のところへ行く」
ーーー霊は新しい人生で、前生の精神や正確の特徴を残していますか。
「残している。但し、本人が進歩すればそれは変わる。次の人生では社会的地位も大きく変わる。前生で主人であった者が、次生では奴隷となり、その趣味も一変する。だから、それを同一人と識別することは難しい。何度生まれ変わっても、本人は本人、だからそこには何らか人格の同一性がある。しかしそれにも拘わらず、次々の再生ごとに境遇も習慣も違うために、その現れは変化する。そしてついに漸次、功を奏する改善を通じて、その人格は全く変化する。高慢で残忍だった者も、懺悔と努力で謙虚で慈悲深くなる」
ーーー人は新しい人生で、前生の身体の特徴を残していますか。
「肉体は滅びる。新しい肉体と古い肉体との間に何のつながりもない。しかしながら、霊は肉体に反映する。即ち、肉体は物質にすぎないが、なお霊の器に従う。霊は肉体に自分の個性を印する。一番目立つのは顔であるが、その中でも特に目に現れる。目は魂の鏡である。即ち、顔は肉体のどの部分より、際立って魂を反映している。だから大変醜い顔でも、善良で賢明で慈愛深い霊の肉体となると、気持ちの良い感じとなる。反対にどんなに美人の顔でも、不快な感じを起こさせたり、反感さえも起こさせたりする。ちょっと見た目には立派な身体の人は、善人の霊の肉体のように見えるかも知れぬが、なお諸君は毎日、まずい肉体をもった道徳的で秀れた人達を見ているのである。それ故、前生と今生の肉体が格別似ていなくても、好みや傾向の類似性によって、親近性とでも申すようなものが、一つの霊が次々と受肉する肉体に及ぶのである」
次は霊の性についての質疑応答である。(シルバー・バーチ霊の霊訓では性については書かれていないように思う)
ーーー霊にもセックスがありますか。
「諸君の考えるような性はない。定義通りのセックスは地上の肉体にあってものだ。愛と共感は霊にもあるが、それは似た者同士の気持ちの上に成立するものだ」
ーーー前生で男性の肉体に宿っていた霊が、次には女性の肉体に宿ることが出来ますか。またこれと反対の場合も。
「出来る。同じ霊が男性に宿ったり、女性に宿ったりする」
ーーー霊は霊界にいる間に、次は男女どちらに生まれるかを選択するのであるか。
「それは霊が決めるのではない。次の人生で本人が受けねばならない試練の見地から、決定される問題である」
今回も続きである。最初は双子の場合についてだが、二つの霊が心情の類似性がお互いを引き付け合うと言われている。けれど、共感をもった霊同士が双子になるとは限らないらしい。それは前生から因縁も含んでいるのだろう。次に国民性についてだが、やはり、共感をもった霊達が集まってつくると言われており、霊は個人と共感すると共に集団とも共感するとのことで、自分が最も適したところへ行くとのことだ。確かに私は日本の国民性が合っていると思う。また、前生での精神や性格の特徴を今生でも残していると言われている。その時その時でどんな人間になっているかはわからないが、人格の同一性はあるとのことだ。そのようないろいろな体験を経て、進歩していくということなのだ。更に身体についても詳細に語られている。やはり目は肝心なのだ。私が惹かれるのも目だった。目は魂の鏡とまで言われている。確かにどんなに顔立ちが良くても、好感が持てない人はいる。それはすべては魂で感じることだったのかも知れない。そして最後に霊の性を書かせてもらった。性についてはあらゆる面でタブー視されているが、特にスピリチュアルでは性については多くは書かれていない。亡くなった母に聞かされていた霊の性とは、お互いに愛と共感をもった霊は肉体はないが時には重なり合って一つの霊となり、物事に対して助け合い処していくという内容だった。また男性になったり、女性になったりは出来ると思っていたが、それは自分で決めるのではなく、次の人生の試練に見合った見地から決定される問題だということを初めて知った。今回女性として生まれたのは、今生の試練に必要だったからということになぜか納得していた。
994回目の瞑想
ーーー再生した時、霊は前生の感じとか知識の痕跡を残しているものですか。
「かすかな記憶、いわゆる生得の観念というものがある」
ーーー生得の観念という見解は妄想ではありませんか。
「いや違う。それぞれの人生で獲得した知識は失われるものではない。肉体は消えても、霊は学び取ったものを記憶している。再生すると、部分的にまた一時的には忘れもするが、一度知った一切は直覚となり、本人の進歩を助けるものだ。もし過去の知識が直覚として残らなければ、彼はいつも新しく同じことを繰り返さねばならなくなる。霊は次に再生すると前生に近い所、即ち彼が既に到達していた次の点から出発する」
ーーーそうしますと、前生と次生との間には極めて密接な結び付きがある筈ですね。
「その結び付きというのは、諸君が想像する程密接なものではない。何となれば、二つの人生の境遇や状況は、しばしば非常に違ったものであり、また、その間(霊界の生活で)霊は相当な進歩を遂げているかも知れないからである」
ーーー前もって勉強もしないのに、直感的にある特殊な知識、たとえば語学とか数字とかの知識をもっているような人々の異常な能力の原因は何ですか。
「前生のほのかな記憶によるのである。即ち、魂が以前に成し遂げた進歩の結果である。但し、本人はそんなものを自分が今もっている意識は一向にないのだが。この直覚は何から出て来るのか。肉体は変わる、しかし霊は不変である。その外被を変えても」
ーーー再生して新しい肉体をとる時、ある種の知的能力を失いますか。たとえば芸術的な趣味のようなものを。
「もし、その能力を汚すようなことをしたり、悪用していたならば、それを失う。更に知的能力は一生の間、眠ったままになっていることもある。その場合は、霊がその眠っている能力とは無関係の別の能力を働かせようと欲するからである。しかし、次の新しい人生では、眠っていた能力も目を覚まして働くことになろう」
ーーー神は存在するという直覚や死後の生存の予感は、潜在する前生の記憶から出るのですか。
「そうだ。生まれる前、霊として知っていた知識が、潜在的な記憶として残っていて、これから発している。しかし高慢な人は、この感じを押し殺してしまう」
ーーー神霊主義的な考え方や信念もやはり同じ記憶から発しているのですか。
「このような考え方は世界と共に古く、世界のどこに行ってもある。即ち神はいずこにも在り、いつの時代にも在り給うからである。霊は肉体をまとった後も、霊であった時の直覚があり、従って目に見えない世界に本能的な意識をもっている。だがこの直覚は偏見によってしばしば歪められたり、無知から出た迷信を混入して、堕落したものとなることが多い」
今回は生得の観念という内容だ。要するに霊は学び取ったものを記憶しており、一度知った一切は直覚となって、本人の進歩を助けると言われている。更に霊は次に再生すると前生に近い所、即ち彼が既に到達していた次の点から出発するとのこと。ただ、だからと言って、前生と次生とは必ずしも結び付きが密接ではないと言われている。それは二つの人生の境遇や状況は非常に違ったものである場合もあり、また相当に進歩している場合もあるからと。
次の勉強もしていないのにという下りを読んで、やはり息子のことが頭によぎった。それはまだ3歳だった頃に、TVのNHKのロシア語講座を見てすぐにロシア語が言えるようになったのだ。しかもテキストまで欲しいと言い出し、夜中まで手垢がつくほど読んでいた。そしてロシア語講座で問題が出された。それを即座に答え、それを試しにNHKに送ってみた。すると正解という結果だったのだ。本当にびっくりだった。前生のほのかな記憶によるとのことで、息子は前生のどこかでロシア人だったことがあったということだろうか。
(息子との交信記録に写真もあるが、容姿は全く似ても似つかないけれど)
更に神は存在するという直覚や死後の生存の予感については、私は神様を信じる気持ちは幼い頃からあったので、やはり生まれる前から霊として知っていたのだと改めて強く感じた。そして意を強くさせてもらえた。だからこそ、ここまで信じることができていたのだと、感謝せずにはいられない。そして、その直覚を偏見や迷信などで、疑心暗鬼にならずに信じられてきたことが、更に有難さで心が満たされた思いになった
。
995回目の瞑想
ーーー肉体を去った霊はすぐに再生するのですか。
「すぐ再生するものもあるが、多くは大なり小なり一定の期間をおいて後再生する。高級の天体では、一般に再生がすぐ行われる。高級天体の物質は低次の天体の物質に比しずっと精妙だから、そこで肉体をもって生活していても、霊的能力はだいたい維持している。彼等の常態は諸君等の高度な神憑状態にある」
ーーー再生までの間、魂はどうなっていますか。
「彼等は新しい運命に憧れて、遍歴する霊となる。それは待つ者、期待している者という状況である」
ーーーその期間はどのくらい続きますか。
「それは数時間から数千年まで。厳密に言うと、その期間には一定の制限というものはなく、場合によっては、永い間延長されることもある。しかし永久ということはない。遅かれ早かれ、霊は前生の浄化に最も効果的な次の新生を始めることが出来る」
ーーーこの遍歴継続期間は、霊の意志に基づくのですか。それとも罪亡ぼしとして課されるのですか。
「これは霊の自由意志の結果である。霊は十分な分別をもって行動する。しかし、場合によって期間が長いのは、神により課せられる罰である。それ以外の場合は、自由意志により自ら延長しているのであって、この期間中、霊のままで出来る限りの有効な修行をするためである」
ーーーすると遍歴するのは、霊に未熟な点があるしるしですか。
「いや、遍歴する霊にはいろいろな段階の霊がいる。前にも述べたが肉体をとる方が過渡的な状態で、霊の本来の姿とは、物質から離れている状況の方である」
ーーー肉体をまとっていない霊は、すべて遍歴していると言うことは正しいのですか。
「そうだ、再生しなければならない霊の場合、その通りである。但し、完全に達した清浄霊の場合は遍歴しない。彼等はそれで最終の状態である」
[注解] 霊にはそれぞれの資質というものがあって、順次辿る進化の過程により、段階が存在する。それを常態の上から見ると、次の三種である。①受肉霊、即ち、肉体をまとっている霊。②遍歴霊、肉体をまとわずに、進歩のために次の再生を待っている霊。③清浄霊、即ち、完全に到達し、もはや再生を必要としない霊。(明日に続く)
今回の内容は他界にある霊という質疑応答である。そして、他界後、すぐに再生するかという問いには、一定の期間をおいて後再生すると言われており、数時間から数千年まであるらしい。けれど、その期間には一定の制限というものなく、自由意志で決めることができると言われている。但し、期間が長いのは、神により課せられる罰である場合もあるとのこと。また、再生までの間の魂のことを遍歴する霊と言われるようだ。ということは私自身も遍歴の状態を経て、自分自身で再生することを決めてきたということになる。だとしたら、意味のある実りのある人生にしなければ何の為に生まれてきたかわからなくなる。これから霊界へ行くまでの間が、かなり重要なのではないかと思っている。
注解に書かれているが、霊を大きく分けると三種となり、受肉霊、遍歴霊、清浄霊となるのだそうだ。
996回目の瞑想
ーーー遍歴霊はどのようにして学習しますか。それは人間とはやり方が違うのでしょうね。
「高級霊は、肉体を去る時、人間のもつ悪い感情の面を捨て去り、善い愛のみを残している。だが未熟な霊は、地上的な欠陥をいろいろ残している。そうでなければ高級霊ということになろう」
ーーー地上を去る時、霊が悪い感情を捨ててしまわないのは何故ですか。彼等は悪い感情が不幸を生むことを、その時には分かる筈ですから。
「人間の中には、例えば、極度に嫉妬深い人達がいる。諸君はこういう人々が死と共にたちまちその欠点を失うと思うか。地上を去って後、霊には、特に感情的な霊の場合には、過去の悪感情を保持する一種の雰囲気が残る。つまり、彼等は完全に物質の影響から離れたわけではないのだから。彼等はこれから先、自分が辿るべき真理の道の閃きを感じることは滅多にない」
ーーー遍歴の状況下にあって、霊は進歩しますか。
「改善の努力その熱意に比例して、大きな進歩を遂げる。但し、ここで獲得した観念を実践に移すのは地上世界においてである」
ーーー遍歴霊というのは、幸福ですか、それとも不幸ですか。
「それは本人次第である。感情的なものが多ければ苦しみ多く、物質的なものから離れていれば、それに応じて幸福を感じる。遍歴の状況下で、霊はどうしたら幸福になれるかと、自分に欠けているものを身につけたいと熱望する。しかし、再生したいと望んでも必ずしも直ぐ出来るわけではないので、遍歴の状態が永びくことその事が彼等の罰となる」
ーーー遍歴霊は、どんな天体にでも入ることが出来るのですか。
「それは本人の進歩の程度いかんによる。霊は肉体を去った時、必ずしも物質と無関係になったわけではなくて、今まで住んでいた天体、ないしはそれと同程度の天体に所属しているわけである。もし地上生活で、もっと高い世界の段階にまで進歩していなければである。このような進歩こそ、あらゆる霊の不変の目的である。それなしでは、完全に到達することは不可能だから。しかしながら、より高級の天体に霊が入ってみることもある。だがこの場合には、彼にその天体は未だ肌が合わないように感じられる。彼はいわば、まだその天体がほんののぞき見が出来る程度なのである。だがこれによって、彼の改善と進歩への熱意はしばしば進められ、これによって、彼は現在の遍歴の時代を有効に過ごし、やがてはその天体に住めるようになるのである」
ーーー既に浄化している霊が、低い段階の天体へ行くことがありますか。
「その天体の進歩を助けるために、頻繁に彼等は行く。もしそれがなければ、これらの天体に指導者もないままに、低い段階に止まったままになるだろう」
今回は内容は遍歴霊についての続きである。ここで私が一番心に引っかかったのは、遍歴霊としての間に改善の努力その熱意に比例して、大きな進歩を遂げると言われているが、ここで獲得した観念を実践に移すのは地上世界においてというところなのだ。このことから、私自身も生まれる前には遍歴霊として何かしらの観念を持っていたのだろう。そして、その観念を実践するために地上に生まれたということになる。だが、その観念が生まれてしまうと、どういったものなのかがわからなくなるので、四苦八苦するのだ。そのことがわかるようになるためには、さまざまな試練が必要なのだろう。今回はこのことがとても心に響いた。そして、生まれる前の獲得したであろう観念を早く実践に移したいものだと強く思ったのだ
。
997回目の瞑想
ーーー今までの話によって、遍歴霊が留まったり、休んだりする世界というものが存在しますか。
「ある。これらの霊を受け入れるのに適しており、彼等が一時的に住む世界というのがある。つまり、これらの霊が暫時休む逗留とうりゅう場、長い遍歴の後の休息場ーーそれはある意味では退屈な状態だが、そのような場がある。これらの世界は、各段階の世界の中間境であって、やがてそれぞれの世界へ入ることになっている霊の質に応じて区別されている。だから自己に応じたその場へ入ると、彼等は快適な休息感を感じるのである」
ーーーそこに住む霊は、意のままに其処を離れることが出来ますか。
「できる。彼等がやがて行かねばならぬ何処へでも、ここを去って行くことができる。彼等は恰も渡り鳥、休息のため島に降り、元気を回復して目的地へと向かう」
ーーー霊がその過渡的世界に滞在中、進歩しますか。
「進歩する。こうして集まった彼等は、教訓を胸に叩き込み、より早く高い所へ行けるように更には最終目的である完全へ向かうために進歩する」
ーーーこの過渡的世界は、特別の性質をもっていて、永久に遍歴霊の滞在の場と決められているのですか。
「いや、世界体系の中で占めるこれらの世界の位置は一時的なものにすぎない」
ーーーそこには地上的な生物も住んでいますか。
「いや、その表面は不毛であって、そこに住む者は地上的欲求は何一つもっていない」
ーーーその不毛というのは永久にそうなのですか。また、その世界の特質のためにそうなっているのですか。
「そんなことはない。不毛は一時的なことにすぎない」
ーーーでは、そういう世界なら、自然の美などはないと考えられますが。
「その美は、地上の自然の美に勝るとも劣らない美しさがある。これまことに無尽の創造の妙と申すべきか」
ーーーその世界が単に一時的なものとすれば、吾が地球もいつかはそういう状態になるのですか。
「地球はかつてその状態であったことがある」
ーーーそれは何時のことですか。
「生成の途中において」
今回は過渡的な世界と題された内容だ。最初は幽界のことなのかと思いながら読んでいたが、何処へでも自由に行けるということ、また地上的欲求は何一つもっていないとのことで、幽界とは違うように感じた。霊界で遍歴霊の休息の場として、一時的に住む世界があるということで、幽界は死後行く世界であるから、別な世界ということなのだろう。今回もまた一つ勉強になった思いだ。そして最後の地球もかつてはその状態であったことがあるとのことで、そんな地球を見たかった。だが、これから地球も徐々にそうなって行くのだろうから、いずれ、霊界からかまた再生してからかは分からないが、見ることができるのかも知れない。
976回目の瞑想
ーーー霊の知的受容力はすべて同じですか。
「霊はすべて等しく創られている。しかし自分が何処から来たか、これを知らない。何となれば、自由意志が羽ばたく必要があるからだ。彼等は徳性と同様、知性においてもおおよそ進歩を遂げる」
ーーーかの天使、大天使、天使長と呼ばれる霊は、他の霊とは違った特別のものですか。
「いや同じである。未完成から出発した霊が、進歩の最高域に到達し、あらゆる面の完全を自己一身に身につけたのである」
ーーー天使達は進歩のあらゆる過程を経てきたのですか。
「既に述べた色々の段階を彼等も通って来ている。ある天使は素直に自己の使命の道を歩いたので、速やかに今日の段階に達したが、ある天使は同じこの段階に達するのに、更に永い年月を要している」
ーーーある者は初めから完全で優れた者として創られたという考えが、もしも間違いなら、そういう考え方がすべての民族の伝説の中にあって然るべきと思うのですが、いかがでしょうか。
「地上世界は、永遠の昔から在ったわけではない。地上世界が始まる以前に、既に多数の霊は至高の段階に到達していた。従って、地上の者達は、これら完全な霊は初めから、その同じ段階に在ったのだと自然に思うようになったのである」
ーーー悪魔は存在しますか。
「もしも悪魔があるとすれば、それは神の制作物であろう。しかし神の立場に立つとき、永遠に呪われた悲惨なものを創造したということは正しいことだろうか。もし悪魔がいるとするなら、それは地上の低い世界に、同様に低い他の世界に、それはあろうというもの。彼等は人間の偽善者である。彼等は公正な神を残忍で呪うべきものであると言い、神は忌むべきものとして、いい気になっている連中のことである」
今回の内容も興味深い。霊はすべて等しく創られていると言われ、天使や大天使、天使長と呼ばれる高い域におられる霊もみな同じだと言われている。そして、いろいろな段階を経て来ていると言われているのだ。ただ、ホワイト・イーグルの通信では、天使と呼ばれる霊の中で一度も地上に誕生していない霊もいると言われていた。それは今回言われている地上世界が始まる以前に、既に多数の霊は至高の段階に到達していたからということなのだろう。また、ここで言われているいろいろな段階とは霊界でのことなのだと思う。反対に悪魔と言われるような霊は低い界にいるのだと言われている。要するに悪魔などいないのだ。低い界の住人というだけのことなのだ。でもいずれはみないつかはいろいろな段階を経て、高みに行くことになるとも言われており、それが神様の意図されたことなのだと思う。本当に深い愛である
。
977回目の瞑想
ーーー霊が肉体をとって誕生する目的は何ですか。
「完全に到達する手段として、神の課し給うた必要な体験である。ある霊にとっては罪亡ぼしの意味をもち、またある霊には、これをもって使命を果たすことになる。完全を達成するために、彼等は地上生活のあらゆる盛衰変化を体験せねばならぬ。罪亡ぼしのためにいろいろ経験することは大変有用なことである。この誕生のためにはまたもう一つの目的がある。即ち、創造の事業に役割を果たせる霊になること、これである。この目的に沿い、彼は誕生した世界の物質状況と調和した道具に相応しいものになる。またこれを通じて、彼が神から任ぜられたその世界と結びつつ、彼個有の仕事を果たすことが出来るのである。かくて、彼は一つの歯車のごとく、自己の役割をもって貢献し、他方では自分自身の進歩向上をも達成するのである」
ーー初めから正しい道を歩いて来た霊にも、物質界誕生が必要ですか。
「霊は初め、すべて素朴で無知なものとして創られた。彼等は地上生活の苦難と闘争を通じて教訓を獲得するのである。苦しみなくして、努力なくして、経験から得る功罪なくして、公正なる神も、一つの霊といえど幸福ならしめることが出来ようか」
ーーーもしそうなら、正道を歩いても、何の得にもならないということになりませんか。正道を歩いたとて、なおかつ地上に生まれ、苦しみを味わはねばならないのですから。
「そのような霊は、他よりも早く、完成の終着点に到達する。しかも、苦痛というものは、霊のもつ不完全さに起因することが多いから、従って欠点少なければ、苦痛も少なくて済む。だから、他を嫉んだり、羨んだり、欲や野心を持たぬ霊は、欠陥が少ないから、それから生じる苦痛を受けなくて済むのである」
今回、地上誕生の目的と題された内容は、私達人間にとって、とても興味深い内容である。ただシルバー・バーチ霊は完全になることはないと言われているのに対し、こちらの通信は完全に到達する手段と言われており、違いがある。もちろん、完全に到達できるとしても、遙か彼方、遠い道のりの先の先そのまた先の話だと思うので、論議すること自体無意味なことに感じる。ということで、今はどちらでもいいが、ただ完全に到達できると思う方が努力する気概にはなる。
話を戻して内容については、霊が肉体に宿って、この地上に誕生する目的は、神様の用意された必要な体験をすることだと言われている。それには罪亡ぼしの場合もあり、使命を果たすという場合もあるようだ。完全を達成するためには、あらゆる体験をしなければならないということだ。また誕生の目的にはもう一つ目的があると言われ、神様の創造の事業に役割を果たせる霊になることだと言われている。
私も前から疑問に思っていたことが質問されていて、大いに勉強になった。それは初めから正しい道を歩いて来た霊について、やはり地上界に生まれる意味があるのだろうかと常々思っていたのだ。そのお答えに得心し、最後の「他を嫉んだり、羨んだり、欲や野心を持たぬ霊は、欠陥が少ないから、それから生じる苦痛を受けなくて済む」とのお言葉に私自身、今までの人生でそのような思いになったことはなく、生きてきたことに胸をなで下ろした次第である。今後は更に自信をもって精進して行こうと思う。
978回目の瞑想
ーーー魂とは何ですか。
「肉体をまとった霊(spirit)のことである」
ーーー肉体と結び付く以前、魂は何だったのですか。
「霊であった」
ーーーでは、魂と霊とは全く同じものですか。
「そう、魂とは霊である。肉体をまとう以前、見えない世界に住む一個の知的存在であって、その浄化と啓発の目的のために、一時的に肉体に宿るのである」
ーーー人間には、この魂と肉体の外に、何かありますか。
「魂と肉体と結び付ける媒体がある」
ーーーその媒体とはどのようなものですか。
「それは半物質ーーつまり、魂と肉体の中間的性質のもの、それ故にこそ、両者の仲介が出来るのである。この媒介をを通じ、霊は物質に作用し、物質はまた霊に作用するのである。
[注解] 人間は三つの要素から構成されている。①肉体、これは動物と同じで、活力原理から生気を受ける。②魂、即ち肉体に宿った霊のこと。③両者の媒介物、外被。半物質で霊の外被として肉体と結び付けるもの。
ーーー肉体は、魂なしでも、存在できますか。
「できる。しかも魂が肉体を去るのは、肉体が生きることを止める時に限る。誕生以前は、魂と肉体の結合は完全ではない。しかし一度その結合が完全に行われると、死によらねば、両者の結合が断たれることはない。その時初めて魂は肉体を去る。魂なしでも、有機的生命は肉体に働くかもい知れないが、有機的生命を奪われた肉体に、魂が入っていることはできない」
ーーーもし、肉体に魂がなければ、肉体とはいったい何ですか。
「知性をもたぬ肉のかたまり、それを何と呼んでもよいが、もはや人間とは呼べない」
ーーー一つの霊が同時に、二つの肉体に宿ることが出来ますか。
「不可能である。霊とは個性であるから、同時に二つの生命体に働くことは出来ない」
(明日に続く)
今回は魂(Soul)と題された内容だ。魂と霊についての解釈が今ひとつだったが、今回はっきりとわかった。魂とは肉体に宿った霊だったのだ。元々は霊であり、霊が浄化と啓発の目的のために、一時的に肉体に宿ると魂となるわけだ。なるほどと得心する。だが、魂とは霊であるとも言われている。なので、魂と肉体を結び付けるための媒体もあると言われ、この媒介をを通じて、霊は物質に作用でき、物質はまた霊に作用できると言われているが、ここは魂を霊と置きかえた方がわかりやすいように感じる。また次の”魂が肉体を去るのは、肉体が生きることを止める時に限る。誕生以前は、魂と肉体の結合は完全ではない”という場合も、霊が肉体を去るのは、肉体が生きることを止める時に限る。誕生以前は、霊と肉体の結合は完全ではない、という書き方の方が紛らわしくなくていいと思うのだが、どうだろう。変な所に拘ると思われるかも知れないが、私としては魂と霊の解釈が混同しがちだったので、今回の魂とは肉体に宿った霊ということであれば、そのように書く方が混同することはないと思うのだ。
979回目の瞑想
ーーーある通信霊達、またある哲学者達は、魂とは神から発した生命の火花、と定義しています。なぜこうした食い違いがあるのですか。
「その定義で別に食い違いはない。大切なことは言葉の含んでいる意味である。なぜ、諸君は一つのことに一つの用語を使わないのか」
[注解] 魂という語は、いろいろな使い方がされる。多くの場合、生命原理の意味で使われている。魂は神から発した生命の火花と言うのは、これが比喩的に使われているのである。ここで言う神とは、万有生命の源、一切が死後はそこへ帰って行く、宇宙生命の本源を指している。この場合にも、物質から独立した精神、つまり個性とか人格の存在は否定されていないわけで、従って、吾々が魂とは肉体に宿った霊というのはこの意味である。魂の語にいろいろな定義があるのは、通信霊達が思い思いな使い方をすること、また現世で染み込んだ観念で語ったりすること。しかしこれというのも、人間の言葉が不十分なせいである。つまりそれぞれの使い方に応じた用語がないので、これが誤解と論議の種となっている。従って高級霊の場合は、必ず、先ず吾々が使う言葉の意味を限定してから語り始める。
ーーーある考え方によると、魂は肉体の筋肉の各部分に小分けされていて、これで肉体の各器官を支配していると言いますが、これは如何ですか。
「これもまた、魂という用語をどういう意味で使っているのか、その意味いかんによる。もし、魂とは生命を与える液状体という意味で使っているのなら、この意見は正しい。もし、魂とは肉体に宿った霊という意味でそれを使っているなら、間違いである。既述のように、霊とは個性である。それは液状体を媒介として肉体器官に働いているのであって、決して分割されるものではない」
ーーーしかし、上記のような定義を下している通信霊がいますが。
「無知な霊は、原因と結果を取り違えるものである」
ーーー魂とは肉体の外面であって、肉体を覆っている。このような考え方がありますが、本当でしょうか。
「魂は鳥籠の小鳥のように、肉体に閉じ込められているわけではない。魂はガラス球から放射する光のように、楽器から鳴り響く音のように、四方へ放射し、肉体からはみ出している。この意味でなら、魂は肉体の外面と言える。しかしだからといって、肉体を包み込んでいると考えてはいけない。魂は二つの外被がある。一つは鈍重な物質の肉体、これとは別に、光る精妙な性質の媒体、魂とはこの二つの外被の中心をなすもので、恰あたかも果実の核のようなものである」
ーーーまた次のような意見もあります。子供の魂は、この世に生まれてから創られていくものであると。
「霊とは一個の単位であって、子供の場合も大人同じく、完全なものである。この一生の間に創られ成長するものは、魂の道具である肉体だけである。またもや原因と結果の取り違いをしている」
ーーーどうして通信霊達は、魂に同一の定義をしてくれないのですか。
「こういう問題について、すべての霊が同じように秀れているわけではない。一部の霊は知的にあまり進歩していないので、抽象的観念を理解するのが困難で、丁度地上の子供のようなものだ。一部の霊は誤った知識ばかりをもっており、通信を開く人々に威張りたいがために、でたらめを得々としゃべる。地上にはこういう人間が一杯いる筈だ。また本当に進歩している霊の場合でも、その根本の意味は同じても、表現の仕方がいろいろ違っていることもある。それは、地上の言葉では中々表現しにくい問題があり、また比喩をもってせねば分かって貰えないということもあるわけだ。従って、定義通りに受け取られては誤解を招くこともある」
(明日に続く)
今回は魂の定義について、通信してくる霊の問題を取り上げている。やはり霊界とこの世の通信の難しさを感じる。通信霊によって、魂の定義は一様ではない。何を持って真実とするかは、やはり私たちが吟味して行く他ないようだ。それには私たちが真実を知らなければいけないということになる。または直観で見分ける、ということになるのだろう。どちらにしても、自分自身がしっかりしていなければ、低級霊にしてやられるのだ。
今回の内容で、私の心に響いたのは、「魂はガラス球から放射する光のように、楽器から鳴り響く音のように、四方へ放射し、肉体からはみ出している」というこのお言葉だった。このお言葉を読みながら、自分自身の魂を想像してみると、何とも言えない温かい気持ちになる。
魂については言葉で理解すると言うよりも、このような感覚で捉えて行くというのが一番腑に落ちるのではないかと感じた次第である
。
980回目の瞑想
ーーー世界の魂、これは何と理解したらよろしいですか。
「すべての個が生み出された、生命と知性の宇宙的原理、これである。しかし、本当の意味を知らないで、この言葉を使っている場合が甚だ多い。だいたいこの魂という言葉は、大変弾力性のある語なので、各人各様に自分の想像で解釈してしまう。ある人々はこの魂を地球に結び付けて受け取っている。つまり、諸君を正道に導く献身的な霊の集団、いわば地球支配の神の副官と受け取っている」
ーーー古代も近代も多数の哲学者達が、かくも永い間、精神に関する問題を論究してきながら、一向に真理に到達いたしませんが、いったいどういうわけですか。
「彼等は永遠の真正の霊的真理を求め、この道を準備した先駆者であった。彼等とて人間である、自己の観念と真理の光とを取り違え、間違いも犯した。しかしその間違いが、これを論ずる者達の論議を生み、結果的には真理へ導く種となっている。なおこれら誤謬の中には、多くの偉大な真理が発見できる筈である。もし、それらの呈示している諸論についての比較検討が行われるならば」
ーーー魂は肉体の特定の場所に鎮座しているものですか。
「そんなことはない。しかし、大天才とか特に頭脳を使う人の場合は、魂は頭の中、また感情豊かで、愛の活動家の場合は、魂は心臓に、より多く住むと言えるかも知れぬ」
ーーー魂を肉体生命を働かせ中枢に置くのだという人達がいます。これはいかがですか。
「霊はそういう箇所に特に住むと言えるかも知れぬ。というのは、全神経が集中されるのはそのような箇所だから。しかしながら、自分でここに生命力が集まっている、だからここに魂があると考える人達は、魂と活力液状態ないし活力原理を混同しているのである。そうは言うものの、魂は
知性や精神が格別に働く器官に、より多くあると、こう言えるかも知れぬ」
今回の魂についての内容を読んで、最初は魂の解釈についてまた混乱してしまった。それは魂は肉体の特定の場所にないと言いながらも、大天才や頭脳を使う人の場合は、頭の中に魂があり、愛の活動家の場合は心臓に住むと言えるかも知れないと言われているからだ。昨日のお言葉の「魂はガラス球から放射する光のように、楽器から鳴り響く音のように、四方へ放射し、肉体からはみ出している」に感銘を受けたばかりだっただけに、今回のこのお言葉との相違に混乱してしまう。けれどやはり、感覚として受け止めるしかないのだと思う。最後のお言葉で魂は縦横無尽なのだろうと思った。どのような場所にでも鎮座できるという解釈が一番腑に落ちるように思う。
981回目の瞑想
ーーー解剖学者、生理学者、及び科学研究に従事する人々は、唯物論に陥り易いのですが、どうしてですか。
「生理学者は何ごとも五官を基にして考える。人間の誇りにかけて、五感で万事説明できるとなし、人間の理解を超えるものがあるなどとは認めたがらない。科学は一部の人達を厚顔にする。つまり、自然は自分達から何も隠すことはできないと考えるのだ」
ーーー本当は、宇宙を支配する英知の存在を教えてくれる筈の研究なのに、唯物論が結果として出て来るのは、残念なことではありませんか。
「まことに、科学の研究の結果が唯物論とは、科学の本意ではない。これというのも、どんな研究をしても間違った結論を引き出す、人間の不完全さゆえである。人間というものは、どんな良いものからでも悪いものを引き出す。それだけでなく、人間は滅びるという観念は、その外見上よりも、本人達を悩ませている。だから、唯物主義を最も声高く主張する者は、勇敢と申すより高慢なのである。いわゆる唯物論者の大部分は、未来生命に何の合理的な論点も持たない、単にそれだけの人物である。前途に空虚さしか見ぬ者達に、確たる未来への合理的な信念を示してやりなさい。彼等は溺れる者の気持ちで真剣にそれにとりすがるであろう」
今回は
唯物主義の問題である。科学者や生理学者などは五官を基本としているとのことで、霊的なことを認めるわけには行かないということなのだろう。霊的なことは科学をもってしても解明できないからだ。本当であれば、科学研究で霊的なことを少しでもわかるようになれば良いのだが。人間はどんな研究をしても間違った結論を引き出すと言われ、それは人間の不完全さゆえだと言われている。また人間というものは、どんな良いものからでも悪いものを引き出す、とのお言葉に苦笑してしまった。確かに納得だ。唯物主義をTVなどでも、強く主張している人がいるが高慢なのだそうだ。ただ可哀想な人達とも言えると思う。霊界に行った時の驚きと自分が思っていたことの誤解とで、かなり戸惑うことになるのではないかと思うからだ。こういう方たちこそ、早く霊的に目覚めて欲しいと思う。
982回目の瞑想
ーーー死ぬと魂はどうなりますか。
「魂は再び霊となる。即ち、しばらく留守にしていた霊の世界へ帰るのである」
ーーー死後も、魂に個性はありますか。
「ある。魂が個性を失うということはない。個性のない魂、いったいそれは何と申すべきか」
ーーー肉体を捨てた魂が、どのようにして個性の意識をもち続けるのですか。
「魂には依然として個有の液状体がある。これはその天体の大気から魂が引き出すもので、生前と同じ形姿を具えている、魂の媒体である」
ーーー魂はこの地上生活から何ももって行かないのですか。
「地上生活の記憶、及びよい世界へ入りたい欲求、その外にはない。その記憶というのは、どんな地上生活をを送ったか、それに応じての喜びと苦しみ。魂の浄化が進んでいる者ほど、地上に残したものに対する執着は少ない」
ーーー死後の魂は大宇宙に同化するという意見について、どう考えられますか。
「集まった霊を全体として見れば、一ではなかろうか。それは一つの宇宙ではないのか。諸君が集団にあれば、諸君はその集団の不可欠の一員であり、しかもなお個性を保持する者である」
ーーー死後の魂に個性があるという、何か証拠がありますか。
「霊界通信そのものが、その証明ではないか。盲人でなければ見える筈、耳が悪くなければ聞こえる筈。諸君が耳にする霊界通信の声こそ、諸君とは別のある者が存在する、その証拠ではなかろうか」
ーーー永遠の生命とは、どのように理解したらよろしいか。
「無限に続く霊の生活、これである。肉体生命とは一時的なもの。肉体を去ると魂は、永遠の生命に再び入る」
ーーーこの永遠の生命という言葉は、浄化霊の生活と解した方が、もっと正確ではありませんか。彼等は完全な段階に到達し、もはや苦しみの試練を受ける必要を脱した霊だからです。
「彼等の生は、むしろ永遠の至福の生活と言った方がよい。だがこれは言葉の問題だ。好きなように言ってよろしい。もし諸君の言葉の意味が統一できるならば」
今回は死後の魂という内容だ。ここでの質疑応答はほとんだ理解している内容だった。私達人間として一番大切な部分は死後、地上の記憶はあるとのことで、どんな地上生活を送ったのかということだ。それに応じた喜びや苦しみも記憶としてあるようだ。だが、魂の浄化が進んでいる者ほど、地上に残したものに対する執着は少ないと言われている。地上生活で霊的真理を理解し、出来る限り努力して神様の摂理に適う生き方を志していれば、霊界へ行ってからは充実した生活が待っているのではないかと思う。
983回目の瞑想
ーーー肉体から魂が離脱するのは苦しいものですか。
「そうではない。死の瞬間よりも、生きている時の方が肉体の苦痛の大きいことが多い。死の時は、魂が肉体の苦痛を意識しないのが普通である」
ーーー霊肉の分離はどのように行われるのですか。
「魂をつなぎとめている絆が切れるので、魂は肉体から放たれるのである」
ーーーその分離は瞬時に、つまり霊肉の唐突な分離という形で行われるのですか。また生死の間には、何かはっきりとした境界があるものですか。
「魂は徐々に肉体から離れていく。鳥籠が開かれて急に鳥が飛び出す、そんな形ではない。霊肉は触れ合ったり互いに滲透しあったり、徐々に肉との絆が緩みつつ霊は放たれていく」
ーーー肉体生命が終わらないうちに、魂が分離するということがありますか。
「肉体に断末魔の苦しみが起こらないうちに、魂が肉体を離れることが、よくある。この場合は、肉体はさながら生きた屍である。肉体の方にはもはや何の意識もない、しかし、依然としてかすかな生命の呼吸は残っている。身体に心臓だけが動いている一個の機械だ。心臓が血を循環させている限り、肉体は生きている、しかし魂はもはや何の関わりももっていない」
ーーー臨終に際して、まさに入ろうとする世界を予感して、歓喜とか希望を感じることがありますか。
「魂が、肉体との絆が緩みのを感じ、分離作業の進行と完了を意識することがある。部分的に魂が肉体から離れると、魂は前途に広がる未来を見、まさに入ろうとする霊的状態を、期待に満ちて眺める」
ーーー地上生活と死、死の彼方の新しい生活、それは丁度毛虫の過程が、これを暗示していると言えますか。即ち、毛虫は先ず地を這い、死んだようにさなぎとなって身を隠し、やがて蝶となって新生活の中に飛躍します。
「ごく素朴な考え方だが、それでよかろう。だが厳密に申せば、そのまま受け取るわけにもいかぬが」
ーーー魂が霊の世界に入って意識を回復した時、どんな感情をもちますか。
「それは人によって違う。悪を愛し悪を行ってきた者は、悪病の悔いで気も転倒する。正道を守った者はこれと違い、重荷から解放された気持ちになる。彼は過去を詮索されても、何ら恐れるものがないからである」
ーーー霊は、先に死んだ地上の友人達をすぐに見出しますか。
それは、両者の愛情関係で、早い遅いの差はあるが、見出す。その霊界への新生に際し、会いに来てくれることが多い。また物質の絆から解放されるのを手伝ってくれることもある。また、昔知っていて永い間離れたきりになっていた人達も逢いに来てくれる。彼は肉体を去った霊達を見たり、また肉体にある地上の人達に逢いに行ったりする」
ーーー老齢でも病気でもなく、事故死した場合、この場合も肉体生命の停止とともに、魂の分離が起こるのですか。
「一般にはそうである。このような場合は、その時間は非常に短い」
ーーーたとえば斬首の後、多少の間意識は残っているものですか。
「肉体生命が完全に消滅するまで、少しの間は意識はある。しかし斬首の前に、死の恐怖によって意識不明になることが多い」
今回の内容は魂と肉体との分離についてだ。状況によっては、死ぬ時に苦しい思いをするのではないかと思っていたが、魂は肉体の苦痛を意識しないのが普通だと言われている。それであれば有難い。そして魂が肉体から分離する時についてだが、魂は徐々に肉体から離れて行くと言われている。これは息子の時に、足の方から徐々に抜けて行ったと霊能者の方にも言われていたし、息子自身もまたゆっくりと身体から離れて行って戻ることが出来なかったと私に降りて来た時に話していたので、やはりそうなのだと得心した。息子の場合は痛みも苦しみもなかったと言っていたので、このような分離の仕方だったのだと思うが、肉体に断末魔の苦しみが起こる場合は、その苦しみが起こらないうちに魂が肉体を離れることがよくあると言われている。これを聞いて少なからず安心した。やはり、事故などの場合は往々にしてそのような状況があるから、魂が先に肉体から抜け出ていると思うと、救われる思いがする。
臨終に際して霊界を感じて歓喜とか希望を感じることがあるかという問いに対して、分離作業の進行と完了を意識することがあると言われているが、これも前述の様子で息子が感じていたことがわかる。また、魂は前途に広がる未来を見、とあるが、息子も死後すぐにご守護霊との対面があり、宇宙ステーションのような、飛行機の管制塔のような機械がある所へ案内されて、こんなに明るくて素晴らしい世界があるということに感動し、やりたいことをやれて幸せを感じているとのことだった。今回の内容は息子のことを再認識させて頂いたようで、とても嬉しかったし、有難かった。
最後には事故死についてや斬首についても書いてあるが、少なくとも、自分が思っていたのとは違っていたので、ホッとした
。
984回目の瞑想
ーーー肉体を去ると、魂は直ちに自己意識があることに気付きますか。
「いや、すぐにではない。しばらくの間、何が何だか分からない状態が続く」
ーーーその戸惑いを、どの霊も、同じ程度に同じ時間だけ、経験するのですか。
「いやそうではない。魂の進歩の度合いによって違ってくる。既にある程度の浄化を達成している者は、殆どすぐに意識をもつ。それは地上生活中に既に物質の束縛から脱しているからである。これに反し、現実主義的な人は、その意識がはっきりせず、長期にわたり物質の執着にとらわれたままである」
ーーーもし心霊の知識があれば、この戸惑いの期間に変化がありますか。
「その影響は多大である。もしその知識があれば、前もってこれから入る新境涯がどういうものか分かるからである。しかし何と言っても大切なのは、地上生活中の誠実な生活、その成果としての明晰な意識、これである。これさえあれば、戸惑いの期間は極めて短くてすむ」
今回の内容は、死後、すぐに意識が回復するかどうかについてだ。だが、やはり、それも魂の進歩の度合いによると言われている。それは当然のことだと思う。そして、霊的真理の知識の影響は多大だと言われているが、けれど、もっとも大切なのはこの地上での生活であるとのこと。神様の摂理に適う生き方をすれば、それによって死後の戸惑いは極めて短くて済むのだ。そうありたいものである。
985回目の瞑想
ーーー地上生活中に完成の域に達しなかった魂は、浄化を成し遂げることが出来ましょうか。
「新たな人生の試練を受ければ、それは出来る」
ーーーその新しい人生とは、どのようにして経験するのですか。それは魂が霊として変化をすることですか。
「勿論、魂は浄化すれば変化する。だが、最も有効な変化は、魂が地上生活の試練を体験することである」
ーーーでは、魂は何度も地上生活を繰り返すのですか。
「左様、吾等も繰り返し地上生活を体験した。これを否定する者は、諸君等を自分同様の無知にしておこうとする者である」
ーーー魂は一つの肉体を去ると、また別の肉体に宿る、つまり魂は再生する、こう考えてよろしいですか。
「全くその通りである」
ーーー再生の目的は何ですか。
「罪の償い、即ち、それによる人類の進化改善。この目的なくして、再生の正義はない」
ーーー再生の回数に限度がありますか。それとも永久に再生を繰り返すのですか。
「新しく生まれ変わる度に、霊は一歩ずつ進歩する。こうして一切の汚れから脱却した時、もはや再生の必要はなくなる」
ーーー再生の回数はどの霊でも同じですか。
「同じではない。進歩の早い霊は、余り多くの試練を受けずに済む。しかしそれにも拘わらず、再生の回数は相当な数になる。何となれば、進歩の道程は無限に遠いから」
ーーー最後の再生を終えた霊はどうなるのですか。
「清浄霊となり、完全な至福の状態に入る」
ーーー再生の論拠とは、いかようなものでしょうか。
「神の正義、また黙示である。何となれば、前にも申したことがあるが、愛深い父は過ちを犯した子等のために、後悔の門を開いておかれるものだから。自己を改善しなかった者には、永久に幸福の道を閉ざすということは、正義に反すると思われぬか。すべての人が神の子ではないのか。不正義と、執拗な憎しみと、許されぬ刑罰があるとすれば、それは利己的な人間どもの中だけである」
今回は内容は再生についてだ。再生の目的についても記載されている。罪の償い、それによる人類の進化改善であり、この目的なくしては再生の正義はないとまで言われている。また、霊が変化するとあるが進化するということだと思う。その霊が進化するための最も有効なことは、魂が地上生活の試練を体験することだと言われている。なので何度も繰り返し地上生活を体験しなければいけないということだ。しかも再生の回数は相当な数になると言われる。進歩の道程は無限に遠いからと。ため息しか出ない。だが、ここであることを思った。シルバー・バーチ霊は、再生に関して、同じ霊ではなく、類魂の中の別の霊が再生すると言われているのだ。例えとしてダイヤモンドを類魂とした場合、その類魂であるダイヤモンドの側面が一個の霊であり、その一個の霊であるそれぞれの側面が再生すると言われているのだ。だが、ここではその事は論じられてはいない。ここでは魂は一つの肉体を去ると、また別の肉体に宿る、つまり魂は再生するとの問いにその通りだと言われている。再生に関してはその通りなのだろうが、これでは同じ霊が何度も再生するように感じてしまうのではないだろうか。シルバー・バーチ霊ほどの踏み込んだ内容にはならなかったということだろうか。けれど、
このことは考えても仕方ないので、再生の事実はあるということで、納得すればいいのではないかと思う。
また、最後の再生を終えた先は、清浄霊となり、完全な至福の状態に入るとのこと、素晴らしい世界なのだと想像する。できるだけ早く、そのような世界に入りたいものである。
そして最後の再生の論拠についてのお言葉は圧巻である。神様の慈悲の深さを実感する。そして、人間の心の狭さをも感じて、苦笑するしかなかった。
986回目の瞑想
ーーー私共の再生は、この地球上で繰返し行われるのですか。
「いや、すべて地球上とは限らない。多くの天体で再生が行われる。現在諸君が生きているこの地球は、諸君にとって、最初の地球生活でもないし、また最後でもない。しかし、最も物質的な生活の中の一つであり、完全からは最も遠いものである」
ーーー再生は次々と別の天体へ移りながら行われるものですか。それとも、同じ天体で何回か再生して次の天体へ移るのですか。
「現在より高級の天体へ行けるだけの進歩をしない場合は、同じ天体で数多く再生を繰返すことになる」
ーーーでは、私共は何度もこれから地球に生まれる変わるわけですか。
「その通り」
ーーー私共が、今後別の天体で生活した後、再び地球に生まれ変わることも出来ますか。
「それは可能である。これまでも諸君は、別の天体の生活を経て来ているかも知れない」
ーーーそのように、二度地球に戻って再生することは必要なことですか。
「いやそんなことはない。しかし、もし諸君が進歩しなければ、地球より良くない、あるいはずっと劣った天体に行くことになるかも知れない」
ーーーそのような二度の地球生活には、何か得るところがありますか。
「特殊な使命がある場合は別として、特に利益はない。使命がある場合は、生まれる所が地球であれ、他の天体であれ、霊は進歩する」
ーーーむしろ再生せず、霊として生きる方が幸福なのではありませんか。
「いや、断じて違う。再生すべきだ。吾々は神へ向かって限りなく進みたいと思うからだ」
ーーー別の天体で生活した者が、初めて地球に再生することが出来ますか。
「できる。諸君が他の天体へ再生するのと同じことだ。宇宙のすべての天体は、固い絆で結ばれている」
ーーー現在地球で生活している者のうち、初めて地球に再生して来ている者もありますか。
「大部分がそうだ。種々の進歩の段階の者が含まれている」
ーーー初めて地球へ来ている霊を見分ける、何か印がありますか。
「そんなことは、諸君にとり余り用のないことだ」
ーーー完全と至福に到達するには、宇宙のすべての天体で生活を体験する必要があるのですか。
「そんな必要はない。同程度の天体が沢山あるから、それらへ移ったとて目新しい体験をすることにならないから」
ーーーでは、同じ天体に何度も再生するというのは、何故ですか。
「再生する度に、違った境遇に生まれる。そのことで本人は新しい体験を重ねることになるのだ」
ーーー以前住んでいた天体より低次の天体に入って、霊は肉体をとって生存できますか。
「できる。進化の手助けをする使命がある場合には可能である。この場合、彼等は喜んで、その下降生刈るの十字架を負う。このおかげで彼等は進歩の機会を得ることになるからだ」
ーーーこの下降生活が贖罪のために行われることはありませんか。また、また、手に負えぬ霊が神によって送られるということはありませんか。
「彼等はそのまま留まる、だが退歩するわけではない。手に負えぬ霊達は進歩しないということで罰せられる。また、本人の性情に適した状況下で同じ間違った人生を再開せねばならなぬことでも罰せられる」
ーーーその同じ人生を再開させられるのは、どういう霊達ですか。
「自己の使命を全うしなかった者、あるいは、受けるべき試練に耐え得なかった者達」
ーーー特定の天体に生存している人類は、皆同じ発展段階にあるわけですか。
「いや、それは地球の人類の場合と同じだ、進歩している者もあれば、未発達の者もある」
ーーー地球から別の天体へと再生する場合、霊は地球で獲得した知性を具えたままで行くのですか。
「その通りだ。一度獲得した知性は失われることはない。だが、知性を発揮する方法は同じではないかも知れぬ。というのは、進歩の程度と新しく身につける肉体の質によって、発揮の方法が違ってくるからである」
(明日に続く)
今回は別の天体への再生という内容でかなり長い。だが、とても興味深い内容だ。私達人間の再生は、地球のみというわけではなく、多くの天体でも再生は行われるとのこと。なので、それぞれがこの地球での生活が何度目かもわからないし、終わりもわからない。ただこの地球は、物質的な生活の中の一つであり、しかも完全からは最も遠いと言われている。この言葉で、少し気持ちが下がる。要はやはり進歩の度合いで決まるということなのだろう。また、再生せずに霊として生きる方が幸福なのではという問いがあるが、私もそのように思ったことがある。だが、キッパリと否定されて、再生すべきだと断言されている。ということは、また再生しなければいけないのかと、更に気持ちが下がった。だが、こうやって高級霊の方と通信できるほどの人でも、これから何度も地球に生まれ変わるわけかという問いにその通りとお答えになっているのだから、私などは当然と言えば当然のことなのだ。であれば真摯に受け止めて、焦らずに一歩一歩着実に今の生を全うしなければいけないという思いにならざるを得ない。こういうことがわかるだけでも有難いのだ。頑張って行こうと思う
。
965回目の瞑想
第九階級ーー軽薄は霊魂
これらの霊は無知、非理性的、いたずら好きで、人を愚弄して喜ぶ。何にでも口を挟んで、出まかせに質問に答える。つまらぬ騒ぎを引き起こしたり、ぬか喜びさせて人を担いだり、人を煙に巻いたり、騙したりして人を誤らせる。いたずら好きの小鬼
、地の精、小人などと呼ばれる霊はこの階級に属する。彼等は召使いのように上級の霊に利用される。
彼等の通信の言葉は奇智に富み、ひょうきんだが、内容は浅薄である。彼等は人間でも事物でも、何か変わったこと馬鹿げたことには、素早く飛び付く。たとえば、彼等は好んで有名人の名を騙ったりするが、これは騙すためでなく人を担いで面白がるためである。
今回の内容は一段上の階級についてだ。内容を読む限りにおいては、そこまで悪い霊とは思えない。ただ単にお調子者のように感じる。唯一違和感があったのは、この霊達を上級の霊が召し使いのように利用すると言われていることだ。上級の霊がそんなことするのだろうかと、信じられない思いだった。上級と言ってもすぐ上の階の霊くらいならわからないでもないが、高級霊の方がそのようなことはするとは到底思えないからだ。そこだけは質問したいところである
。
966回目の瞑想
第八階級ーー知ったかぶりをする霊魂
これらの霊の知識は、しばしば相当なものがある。しかし、彼等は実際以上に自己を過信している。彼等はいろいろの見地から、ある程度の進歩をしているので、その言葉は重みのある感じをもっており、うっかりすると能力や人格など相当なものではないかと見られ易い。しかし、その内容は、地上の偏見や誤謬の反映以外の何ものでもない。その通信で述べられる意見は、真理と誤謬の混乱したものであって、彼等のとらわれている傲慢、高慢、嫉妬、頑固さが多分に顔を出している。
第七階級ーーどっちつかずの霊魂
彼等は積極的に悪をする程悪くはないが、進んで善を為す程進歩もしてない霊魂である。ある時は善を、ある時は悪を、どっちつかずである。従って、道徳的にも知的にも、人類の平均地以上には出ていない。彼等は地上の物に執着をもっており、その満ち足りた日々を恋しがる。
今回は第八階級と第七階級を記載した。第八階級ともなると、霊の知識も半端ないようだし、進歩もある程度はしていると言われている。だからこそ、過信するのだろう。けれど人間はその言葉の重みなどで、相当の上級霊だと思わされる可能性もあるようだ。当然、どんな通信でもその内容を吟味する必要があるということだ。霊的真理と照らし合わせれば、必ず見破ることができると信じている
。
また、第七階級に関しては、善悪どっちつかずだと言われている。最低の階のように積極的に悪をするわけではないけれど、だからと言って、善をするほど進歩もしていないとのこと。この地上の人間の多くもこの部類に入るのではないだろうか。自分の幸せだけを追い求め、物欲もあり、そのことだけで事足りるとしている。とても考えさせられる内容だった。
967回目の瞑想
第六階級ーー騒々しい霊魂
この種の霊魂は、厳密に言うと個性の点では、はっきりとした階級をつくっているとは言えない。つまり、第三段階のあらゆる階級に属しているとも言える。彼等はしばしば叩音こうおん、物品移動、空気のかく乱など、五官に感じる現象を起こす。彼等は他のどの階級の霊よりも物質と密着しているようだ。従って、地水風化を変化させる張本人である。こういう自然現象の変化に、何か意図が見える時は単に偶然の物理的現象とばかりは考えられない。霊魂ならどんな霊魂でも物理的現象を起こすことが出来る。しかし、上級の霊魂は、そういう現象は低級霊に委せてしまう。特に知的なことより物質的なものに対する行為の場合は、そういう傾向がある。そういう物理的現象を起こした方がよいと上級霊が考えた場合は、補助霊として、低級霊を使用する。
今回の第六階級の内容は、騒々しい霊魂と題されているが、はっきりとした階級は作っておらず、第三段階のあらゆる階級に属していると言われている。私達人間の五官に感じる現象を起こすとのことで、特に物質と密着している霊魂のようだ。また霊魂ならどんな霊魂でも物理現象を起こすことができると言われている。第三段階の霊の一部は人間を驚かせて楽しんでいるのだろう。だが、上級霊が物理現象を起こした方が良いと判断された場合は、物質と密着している低級霊を補助霊として、使用するとのことだ。そうい場合があるいうことは初めて知ったが、より
物質と密着した低級霊の方が、お得意なのかも知れない。ただ単に悪さだけしているわけではなく、時には上級霊のお役に立っていると知って救われる思いになる。
968回目の瞑想
第二段階ーー善霊の一般的特色
物質に対する霊の優越、つまり進歩向上への意欲、これが第二段階の特色である。彼等の善性と力量は、その到達した程度に比例している。ある霊は科学的知識をもち、ある霊は知恵と慈悲心をもつ。更に優秀な霊は、道徳性と知識を共にもっている。彼等は未だ十分に物質から脱却していないので、その階級に応じて、大なり小なり、地上生活の痕跡を留めている。その痕跡は風貌にも、習性にも、また場合によっては、独特の癖や嗜好にも現れている。しかし、この弱点や未完成の故に、将来第一段階に進む余地を残しているわけである。
彼等は、神と永遠の観念について理解をもっている。従って、高級霊の無上の喜びの一部にあやかっているわけだ。彼等は善を完成し悪を避けることに幸福を見出している。彼等は互いに博愛で結ばれていて、その喜びは口に言えないものがある。その喜びには、羨望も悔恨もなく、低級霊のもつどんなつまらぬ感情も交じっていない。しかし、浄化を完成する日までは、試練の苦しみをなお耐えねばならない。
彼等は霊の立場から、人間の心に善良で高尚な思想を吹き込む。悪の道から人をそらせ、援助に値いする人を守り、悪霊のささやきに耳をかさない人に、助言を与え、悪霊の影響を消してしまう。
彼等が生まれ変わると、正直で慈悲心に富んだ人間となる。こういう人間は、高慢・利己主義・野心に心を奪われることはない。彼等は憎しみ、恨み、羨望、嫉妬を心に感じることなく、善のために善を行う。
一般の信仰で、善霊とか守護霊とか言われている霊はこれに属する。無知と迷信の時代には、人は彼等を幸運の神と考えてきた。
彼等は四つに分類できる。
今回は第二段階の善霊の全体の特色についての内容だ。この段階に入ることを切望してしまう。他界後はこの段階に入れるように努力したい。唯一当てはまるのは、進歩向上への意欲と神と永遠の観念について理解をもっていると言うことだ。だが
理解しているというだけでいいのだろうか。それだけで高級霊の無上の喜びの一部をあやからせて頂いているのだろうか。ただ、善を完成し、とある。悪について避けるというのは当然だが、善については未だ完成しているとは言い難い。また、羨望も悔恨もないが、だからと言って低級霊のもつどんなつまらない感情も交じっていないかと言えば嘘になる。そして浄化を完成する日まで試練の苦しみに耐えなければいけないと言われているが、確かにまだまだ試練はあるだろうから、克服して行かなければいけないのだと思う。
人間に生まれ変わった姿も記載されているが、高慢・利己主義・野心に心奪われることはないということ、また憎しみ、恨み、羨望、嫉妬を感じることはないということ、これらについては私自身、自信をもってないと言える。ただ、善のための善を行ってきたかどうかについては疑問だ。それは善だと分かっていても行動にうつすことまではなかなか出来なかったように思うからだ。当てはまることとそうでないことがあるので、せめて第二段階の最低の階に入ることが出来ればと思う。残りの人生はそれを目標にして行きたいと思った次第である。
969回目の瞑想
第五階級ーー慈善的な霊
その特性は親切心である。彼等は人に奉仕し人を守ることに喜びを感じる。しかし、その知識は狭い点がある。彼等は知性よりも道徳性の点で進歩している。
第四階級ーー学識をもった霊
その特性は知識の面で卓越していることである。彼等は、その長所である科学的研究に強い関心をもち、道徳的問題にはそこまでの関心を示さない。しかし、その科学的研究は常に実際に役立つことを主眼としており、低級霊に共通している賤しい感情は全くない。
第三階級ーー賢者の霊魂
その特性は極めて向上した道徳性である。彼等は無限の知識をもつ点にまで達してはいないが、人間や事物についての正確な判断を下すだけの知性を開発している。
今回は三階級の内容をいっぺんに記載した。それぞれの特性については多くは語られていないが、やはり第二段階の善霊ともなると、下の階とはかなり違う。守護霊となるに相応しい霊魂だということがわかる。やはり、この段階に入るには容易なことではなさそうだ。けれど、五階級の「人に奉仕し、人を守ることに喜びを感じる」という高い道徳性を今後は更に重視し、慈善的な霊となれるように生きて行きたいと思った次第である。
970回目の瞑想
第二階級ーー高級霊
彼等は極めて高い程度の学識と知恵と善性を兼ね備えている。彼等の霊界通信は慈愛の至情から発するもので、高貴、崇高、謙虚である。その卓越性の故に、他界の真実にして公正な観念を地上人に能う限りの範囲内で、これを伝えるに適している。彼等は進んで、真摯でひたすら真理を求める人々との通信を開こうとする。そのような人達とは、十分に物質の束縛から離れていて、その通信を理解できる能力を具えた人達である。だから、奇を好むために事を為す人、物質の誘惑で道を踏み違うような人からは、顔を背ける。
例外的に彼等は地上に再生することがあるが、これは進歩の使命を達成する、そのためのものである。こういう人物は、今日吾々が地上で画き得る限りの至高完全の人柄を示す。
今回の第二段階の二階級ともなると、高級霊になるということのようだ。極めて高い学識や知識、そして善性と全て兼ね備えているとのこと。また霊界通信などはその慈愛の至情から発するものだと言われ、高貴、崇高、謙虚だと言われている。そして真摯に真理を求める人との通信を開こうとされるらしい。けれど、私自身も真摯に真理を求めているつもりだが、なかなか通信を開いてはくれない。それは物質の束縛から十分に離れていない上に、通信の内容をきちんと理解できる能力がまだ具わってないということなのだろう。一日も早くそうなりたいものである。また例外的に高級霊であっても地上に再生されるとのことだが、これは進歩の使命の達成するためのものだと言われており、至高完全の人柄だと言われている。こういう方にお会いできたら本望なのだが、類友しないので無理なのだろう。
971回目の瞑想
第一段階ーー清浄霊の特色
物質の影響はない。他の段階の霊と比較するとき、完全と言えるほど、知的、道徳的に卓越している。
第一階級ーー単一階級
彼等はすべての進歩の段階を通過したので、一切の物質的不純なものから超脱している。
人間が到達できる限りの完成の域に達しているので、もはや試練も罪の償いも受けることはない。もはや肉体をとって再生する必要もないので、直接神の前にあって永遠の生活に入っている。かくて彼等は不変の至福の中にあるので、もはや物質生活の欲望や浮沈に動かされることはない。しかし、この至福は決して単調な永久の瞑想ではない。彼等は神の使徒、連絡係、即ち宇宙の調和を維持するための神の命令の執行係である。彼等は下級のあらゆる霊魂に、厳粛な命令を執行し、その浄化の仕事を遂げさせるために援助を行い、進歩に応じた使命をそれら霊の一人一人に割り当てる。人間に対しても、苦しむ者を助け、善の方へ感奮興起させ、至福の道の生涯となる欠点を消すように努力する。この仕事は彼等の気質に適った務めである。彼等は時として、天使とか、天使長とか、最高天使とか呼ばれる。
彼等は、自らその必要を認める時には、人間との通信を開くことが出来る。しかし、もし何時でも彼等と通信が出来ると言う人があるなら、それはまことに僣越というものだ。
今回は最も高い第一段階だが、この段階の階級は一つのみのようだ。最初は第一段階の特色だが、素晴らしい内容だ。物質の影響もなく、完全と言えるほど、知的にしても道徳的にしても卓越していると言われている。この内容だけで遙か遠い存在だということがわかる。単一階級の内容も読みながら、本当にこうありたいと早くこのような階級へ行きたいとそのような思いに駆られていた。すべての進歩の段階を経て、一切の物質的不純から超脱していると言われている。そして人間の出来る限りの完成の域に到達した試練もなく、罪の償いもない世界。これぞ天国と言いたいところだが、けれど、そこには神様の使徒として宇宙の調和を維持するために連絡係、執行係という大事なお役目があるだと言われる。最高の段階だからと言って、そこでゆっくりと楽しんでいるわけではない。下級の霊に対しても、また地上の人間に対しても、浄化を目的として援助してくれているのだ。また人間との通信も、この階の霊が必要と認めた時には通信を開く場合もあるとのこと。人間側が望んだとしても、それは霊界側が認めた時のみ通信ができるということだ。
シルバー・バーチ霊の場合は霊界側で必要と認めた最たる例だと思う。
972回目の瞑想
ーーー霊魂の本性は善ですか悪ですか。それとも、努力いかんで善にもなり悪にもなるのですか。
「努力次第である。進歩に従って、下級の段階から上級の段階へと上がるのである」
ーーー初めから、善い霊と悪い霊があるのですか。
「神はあらゆる霊魂を等しく、単純無知、即ち知識のない状態で創造された。神はその一人一人に使命を与えられた。それは、彼等を啓発させるため、また、真理を学びつつ漸次完全へと到達させるため、最後は神のみもとに近付けるためにである。この完成こそ、霊魂にとり、永遠完全の幸福の状況である。霊魂は神によって課せられる試練を通過して知識を獲得する。この試練を素直に受け取る霊は、速やかに最後の目的を達成する。そうでない霊は、この試練に愚痴をこぼし、自分の欠点のために、自分に約束されている完全と至福から程遠い処で、もたついてしまう」
ーーー上記の説明によると、次のように考えてよろしいですか。霊魂はその初めは、子供のように無知無経験であるが、人生の諸経験を経過して、歩一歩欠けている知識を獲得して行くのであると。
「その通り、その例えでよろしい。我が儘な子は無知と欠陥のままで低滞するが、素直な子はそれに応じて良くなっていく。ただ人間の一生はこの世限りだが、霊魂の生活は無限の彼方に続いている」
ーーー霊の中には、永久に低い段階に止まるものがありますか。
「いや、すべての霊が完全を達成する。仮にどんなに低滞の時期が永くても、そのうちに必ず転機がくる。前にも述べた通り公正で慈愛深い親なら、自分の子供を永久の罰に閉じ込めておくことができようか。まして、至高至善公正無比の神にして、人の親に劣ると考えられるか」
ーーー完全に向かっての進歩が早いか遅いかは、霊魂自身の責任ですか。
「然り、霊自身の進歩への情熱、及び神の意志にどれだけ素直であるか、これに応じて目的達成の時期は違ってくる。子供の場合も、我が儘で怠惰な子より、素直な子の方が進歩が早いのではないか」
今回の内容からまた元の質疑応答の形式で記載させて頂く。
今回は霊魂の進歩についての質疑応答であるが、すべて得心できる話ばかりだ
。進歩への情熱と素直が一番ということのようだ。苛酷な試練をも素直に受け入れてこそ、一歩また一歩と神様に近づいて行けるのだと思う。先延ばしにすればするほど、完全と至福からは程遠い処で、もたついてしまうのだ。そうならない為にも、霊的真理を理解して、霊的に目覚める努力をしていくこと、そして霊的な高みを目指して半歩でも一歩でも先に進めるように努力していくことだと思っている。
私は主人と共に高みを目指したいと思い、今シルバー・バーチ霊の霊訓の一巻から、ゆっくりと読んで聞かせている。少しずつ焦らずゆっくりと理解して行き、霊的真理を学んでいければ本望。そして一区切り読み終えた後にヒーリングをさせて頂いている。
これからの残りの人生は、私たち夫婦が進歩への情熱を同じように持ち、神様の摂理に適う生き方をさせて頂けるようにその目標に向かってただただ努力して行きたいと思っている。
973回目の瞑想
ーーー霊が退歩するということがありますか。
「ない。霊は進歩の度合いに応じて、何が自分の進歩を阻害しているかを悟るものである。何か一つの試練を経過すると、その教訓を学び取り、決して忘れることはないのである。あるいは一時的に低滞することはあるかも知れぬが、退歩することは決してない」
ーーー霊が目的達成のために必要な試練を、神が免除なさるということがありましょうか。
「もし、霊が初めから完全なものとして創られていたら、完成の賜物の喜びを受けるに価いしなかったろう。奮闘なくしてそれを受ける価値がどこにあろうか。また、霊の間にある不平等は、霊の個性の開発に必要なものである。更に、それぞれの霊魂が進歩の過程で果たす使命は、宇宙の調和を確保するための、神の計画の大切な要素である」
今回の内容には、少し疑問が残る箇所もあったが、初めて知ったこともあって、とても有難かった。霊に退歩はないと言われている。一時的に低滞することはあってもと。これは納得できる。けれど、霊の間にある不平等が、霊の個性の開発に必要なものということには得心がいかない。なぜ不平等が必要なのか。その理由を知りたい。もちろん、それぞれの霊魂が進歩に向かって果たす使命があるのはわかる。だがそれは私たち一人一人の進歩の為の使命だと思っていたのだが、それは宇宙の調和を確保するためであり、神様のご計画の大切な要素ということを初めて知ったのだ。私達人間もこの世で霊的に少しでも進歩して行くということは、宇宙の調和を確保することであり、神様のご計画に参加させて頂いているということだったとは、そのことを知って更に鼓舞される思いになった。真に有難いお言葉だった
。
974回目の瞑想
ーーーすべての霊が悪の道を通って、善へ到達するのですか。
「いや、悪の道ではない、無知の道を通ってである」
ーーーある霊魂は善の道に従うのに、ある霊魂は悪の道に従う。これは何故ですか。
「霊魂はすべて自由意志をもっているではないか。神はどの一つの霊魂も悪霊として創っておられぬ。神は単純で無知なものとして初め創り給うた、即ち、善に対するも悪に対するも同じ態度をとるものとして。悪となった霊魂は、自らの自由意志でそうなったのである」
ーーー一番初め霊は未だ自己意識をもっていませんね。それがどうして善悪を選択する自由をもつことが出来るのですか。彼等の中に、善悪のいずれかへ誘う何か原理とか傾向があるのですか。
「自由意志は、霊が自己意識をもつに応じて現れてくるのである。もし本人の意志とは別の原因で動かされるなら、霊に自由はないと言えるだろう。彼の選択を決定させる要因は、本人の内にはなくて彼の外部に、つまり、本人の自由意志をそそのかすような影響の中にある。
人類の堕落と原罪という形で言われるものは、この選択のことである。ある霊は誘惑に負けた、ある霊はこれに抵抗した」
ーーー何処から、その人間に働きかける影響は来るのですか。
「不完全な霊から来る。彼等は人間にとりついて、これを自由にしたいと思っている。人間が負けると彼等は喜ぶ。サタン(悪魔)として諷刺的に画かれているものは、この誘惑のことである」
ーーーこの影響は、その初源の時にだけ、その影響が及ぶのですか。
「命ある限りその影響は及ぶ、但し、彼が十分な自律心を身につけ、悪霊が憑依したくても出来なくなるまで続く」
今回の内容はとてもわかりやすい。そして興味深い内容だ。だが疑問に思うことが一つある。一番初めの霊についてだが、私も質問者と同じくどうして善悪の選択が出来るのかと思っている。その答えとして、自由意志は霊が自己意識をもつに応じて現れるとある。自由意志で選択するということはもちろん得心しているが、外部から誘惑に負けたとあり、その外部の影響とは不完全な霊とある。だが、神様は単純で無知なものとして創られたと言われている。ということはどの霊も等しく、最初はみな不完全な霊だったのではないのか。不完全な霊であれば、最初は善悪を分別できなかったのではないだろうか。なので一番最初に悪へと影響した原因がこの解答では答えになっていないように感じるのだ。後述された内容の悪霊が人間に憑依するということはわかっているので、その悪霊となった一番最初の原因を私は知りたいと思っている
。
975回目の瞑想
ーーーなぜ神は霊が誤った道へ走ることを許し給うのですか。
「神が霊に許し給うた選択の自由こそ、神の英知を示すものである。これによって霊は自己の行為の功罪の責を負うものとなる」
ーーーある霊は初めから断固として正しい道を歩み、ある霊は悪の道に沈りんするとすると、この両極端の間には、多様な霊の道程があるということですか。
「その通り、霊には数限りない辿るべき違った道程がある」
ーーー誤った道を選ぶ霊は、終局には、他の霊と同様高い境涯に到達できますか。
「できる。但し、その道程は他のものに比し遙かに長い」
ーーー神の目よりする時、悪の道に永く沈りんして、その後向上を達成した霊は、価値が薄いとされますか。
「そのような霊も、神は、他の霊と同様に嘉よみし給い愛を注ぎ給う。彼等は悪の誘惑に負けたために、一時、悪霊の仲間に入っていたにすぎず、その堕落以前は、他の霊と同様に、善も悪にも中立であったのだ」
今回の内容も得心できるものばかりだ。しかも神様の愛の深さが心に沁みる。霊も人間も誤った道に行ってしまうことはある。それをなぜ神様は阻止してくれないのかと思ってしまうが、そこが一番大事なことなのだからだと教えて下さる。自由意志があればこそ、私たちは限定付きであっても自由意志で選択することができるのだ。そしてその結果はすべて選択した自分自身に責任があると言われている。要するにすべては自己責任なのだ。善の道を選ぶも、悪の道を選ぶも自分で決めたことなのだ。その決断の分かれ目で、その先の辿るべき道程は違ったものになると言われている。しかも誤った道を選んだ霊は最終的には高い境涯へ到達することができるようだが、その道程は正しい道を選んだものとは比較にならないほど遙かに長いと言われている。だからこそ、善の道を選べるようになるためには、霊的真理の理解が必須なのだ。
ただ、そんな誤った道を選んだものも、神様は他のものと同じく愛を注がれると言われる。誤った道を選んだものは悪の誘惑に負けたことで、一時的に悪の仲間に入っていただけで、それ以前は善悪に中立だったからとの説明されている。本当に我が子に対する想いなのだと思った。どんなに我が子が悪いことをしたとしても唯一親だけは味方になる。人間は我が子だけだが、神様はすべての霊、すべての人間に対してそのような愛で包んで下さるのだ。その想いを感じるだけで心が温かくなる。
954回目の瞑想
ーーー有機体の死はなぜ起こるのですか。
「身体器官の消耗が原因である」
ーーー機械の歯車が外れると動きが止まります。死とはこんなものですか。
「左様。機械はその道からそれると、動きが止まる。肉体も病気になると、生命が肉体から出る」
ーーー心臓障害は他の器官の障害よりも、確実に死の原因となります。何故ですか。
「心臓は生命をつくる機械である。しかし、働きが止まれば死ぬというのは、何も心臓一つに限ったことではない。心臓は機械を動かすに必要な歯車の一つにすぎない」
ーーー死ぬと、物質や活力原理はどうなるのですか。
「物質そのものは崩壊して、他の生物の身体をつくるのに使われる。活力原理は、宇宙の液状体の集団の中へ帰る」
今回の内容は人間の死についてだ。死は身体器官の消耗だと言われている。何とも言い方が物扱いのところがびっくりする。でも確かに肉体は物質であるから当然ではあるが。また心臓についても生命をつくる機械として言われており、その機械を動かすに必要な歯車の一つにすぎないと言われている。そして更に興味深いのは物質は死ぬと崩壊するが、他の生物の身体をつくるのに使われるらしい。なんとリサイクルされているのだ。
また活力原理についてだが、物質が動物化するために物質と結合が必要だと(される重要なお役目があると)言われていた。それが、霊と物質の媒介物である宇宙的液状体の集団の中にその活力原理は死ぬと帰ると言われているのだ。文章にしてみても、もはや想像すらできない。どんなものなのかということが言葉だけでは全く理解することができないからだ。言葉の意味が理解できなければ、感性で感じるほかはないが、それすら難しいように思う
。
955回目の瞑想
ーーー知性とは、活力原理から出たものですか。
「いや、植物は生命があっても、考えることをしない。それは単に有機的生命にすぎない。知性と物質とは全く別個のものである。何となれば、肉体は知性なしでも生きていけるが、知性は肉体なしでは発現できないからである。動物に知性が働くのは、霊との結合によってそうなるのである」
[注解]1、生命のない存在ーーこれは単に物質であって
生命も
なければ
知性もない、鉱物がこれである。
2、生命はあるが考えることをしない存在ーーこれは物質と
活力原理を
加えたもので、知性はない。
3、生命をもち且つ考える存在ーー物質と活力の外、
更に
思考能力のもとである知性原理をもっている。
ーーー知性の源は何ですか。
「これは既に述べた通り、宇宙的知性これである」
ーーーでは次のように言ってよろしいですか。知性をもつ生き物は、宇宙の源から知性の一部を引き出して同化する、丁度、物的生命の原理を引き出して身につけるのと同じ具合に。
「いや、そういうふうに言ってしまうと、事実と大分違ってくる。つまり、知性とは個体のもつ個有の能力であって、その者の人格を形成するものであるから。前にも述べた通り、人智の及ばないものがこの世にある、この問題はまさにそのような種類の一つである」
今回の内容は前半はよく理解できる。知性と物質は全く別個のものだということは理解できるし、注解で更に詳しく書いて下さっているのでわかりやすい。確かにその通りだと思う。ただ後半は人智に及ばないものがあると言われ、この問題はまさにそのような種類の一つだと言われているので、私達人間には、わからなくてもいいのだと思う
。
956回目の瞑想
ーーー本能と知性とは別個のものですか。
「いや、それは違う。本能とは知性の中の一つである。本能は非理性的な知性であって、低級な生物の場合は、この本能からその欲求が生まれてくる」
ーーー本能と知性とに境界線を引くことが出来ますか。つまり、ここか
ら知性であり、ここからが本能であるというような。
「いや、この二つはしばしば入り交じることがあるから、それは出来ない。しかし、これは本能的行動であり、これは知性的行動であるということは、容易に見分けられる」
ーーー本能が強いと、知性の成長に害があると考えてよろしいか。
「いや、そんなことはない。本能はいつも自己主張するのだが、人はこれを無視してしまう。本能も理性と同様、人間を正しい方向へ向かわせるものである。本能の声は、理性の場合よりももっと確実にその指針を示すことが多い。本能は決して道を誤らせるものではない」
ーーー理性が必ずしも絶対確実な指針ではないというのは、何故ですか。
「理性が、誤った教育や高慢な利己によって犯されることがないなら、理性の指針は絶対的である。この点が本能と違う点だ。理性は自由選択に委されるものであって、この故に人間には自由意志がある」
今回の内容は知性と本能についての質疑応答だ。本能は知性の中の一つだと言われており、非理性的な知性だと言われている。考えたこともなかったが、なるほどとストンと腑に落ちた。本能も知性であるというわけだ。動物も本能があるが、前回も動物に知性が働くのは、霊との結合によってだと言われていたので、動物にも非理性的な知性があるということなのだろう。また知性と本能は境界線こそ引くことはできないが、行動をみれば、それが本能的であるか、知性的であるかはわかると言われている。確かにそれは見えればわかるのではないかと思う。そして、次の言葉に驚かされる。本能と言うと欲が思い起こされるが、ここでは理性よりももっと確実にその指針を示すことが多いと言われている。人間を正しい方向へ向かわせるものだと言われているのだ。そうなると本能とは魂の声ということになる。却って理性の方が育った環境などによって、間違った行動に向かわせる場合もあるのだと言われる。それは人間には自由意志があるからだと。確かに高慢な利己などは、偉いとされる方々に多い。ご自分の立場にしがみつくからこそ、間違った方向へと向かわせるのだろう。けれど自由意志があるからこそ、どちらを選択するかを決めることもできるのだ。間違った理性の声ではなく、真実の魂の声で判断できるようになりたいものである。
957回目の瞑想
ーーー霊は何と定義したらよろしいですか。
「霊とは被造物の中の知的存在である。これは物質世界の種ではなく、宇宙的存在物である」
ーーー霊と神とは別ものですか。それとも、神の部分、つまり神の子供とでも言うべきものですか。
「霊とは神の制作物である。丁度、機械が技師の制作物であるように、即ち、機械は人間の制作物であって、人間そのものではない。しかしお分かりの通り、人は美事な価値のある物を作れば、それを吾が子よと呼ぶ。神に対する吾等の関係がこれである。この意味で吾等は神の子である、何となれば吾等は神の巧みの制作物であるが故に」
ーーー霊に初めがあったのですか。または、神のように無始無終、永遠不滅のものですか。
「もし霊に初めがないとしたら、霊は神と同じになる。しかし、霊は神の被造物であり、神の意に従うものである。神が永遠であることに異論はない、だが神がいつどのように霊を創造なされたかは知る由もない。されば諸君はこう申すであろう。この意味で吾等霊に初めはないと、即ち神は永遠であるが故に、絶え間なく神は創造なされたに違いないと。しかし重ねて申すが、神がいつどのように、吾等を創り給うたか、誰も知る由もない。これは大きな秘密である」
ーーー宇宙には、知性と物質の二つの要素があります。従って、肉体は物質的要素で創られ、霊は知的要素で創られていると、こう考えてよろしいですか。
「それは自明のことである。霊は知的原理の個性化したものであり、肉体は物質原理の個性化したものである。ただ、いつそれが創られたのか、どのような方法で創られたのか、ここのところは判りかねる」
ーーー霊の創造は今も続いていますか。それとも最初に行われてそれきりですか。
「今も行われている。神は未だかつて創造の手を止められたことがない」
ーーー霊は自然発生的に創られるのですか。霊は霊から生まれるのですか。
「神は万物を創り給うたように、神の意志をもって創り給うた。ただ、その始原は神秘にして知る由もない、これは前に述べた通りである」
今回の内容は霊についての質疑応答だ。とても関心があるし、興味深い。シルバー・バーチ霊は常に人間は神様の子供であると言われている。今回の霊と神様についてのお答えは、その説明ごとくとても腑に落ちる内容だった。例えも出されていて、よりわかりやすい。霊は神様の制作物、被造物なのだ。その制作物、被造物に愛着を持つのは当然だ。確かに人間も自分の作った物に対して愛着があり我が子のように慈しむ。それがたとえ不出来であろうとも。そういう意味で神様にとっての私達人間は子供同然だということを教えて下さっている。ただ、その霊を神様がいつどのようにして創られたのかは知る由もないと断言されているのだ。これは霊界にとっても最大の秘密なのだろう。高級霊と言えども知らないことはあるということなのだ。神様のご意志で霊を創られたということだけは事実であり、それを信じることがとても大事なことなのだと思う
。
958回目の瞑想
ーーー霊は非物質的なものと考えてよろしいですか。
「他に比較するものもなく、またこれを表現する適当な言葉もないものを、どうして定義など出来ようか。例えば、生まれつきの盲人に光が定義出来ようか。<非物質>というのは正しくない、<形のない>と言った方が真実に近い。何となれば、諸君は霊が被造物であっても、実在の何かだと理解しているから。霊とは、本質的な「物」(注)である。但し、諸君の知る限りでは、これに比すべきものもなく、従って五感ではとらえようもない精妙な「物」なのである」
[注] 後出の通信によると、宇宙は三要素即ち三つの実在形式で成り立っていると伝えている。即ち、魂・力・物質、この三者である。また次のように言っている、前二者、魂と力は非物質的実体であって、「物」という語は媒体を形成する要素に限定すると。
ーーー霊の存続期間に一定の限度がありますか。私共としては、霊を生んだ本源は永遠だと思っておりますが、ただ、今知りたいことは、霊の個性は一定期間の後になくなるのかどうか。肉体は死によって一般の物質に帰りますが、霊もいつかは個性を失って、霊を構成している要素が壊れてしまうことがあるのかどうか、この事です。初めをもったものが、終わりをもたないということは考えられませんから。
「諸君の知性には限りがあるから、この世には諸君の理解できないものが多々ある。だがそう言って済ませるわけにもいくまい。父親に判っていることは何でも子供に判るわけではないし、学者が理解することを何でも無知な人が理解するわけでもない。で、次のように言っておこう。霊の存在に終わりはないと。現在はこれ以上のことは、吾々にも言えない」
今回の内容には少なからず今まで思っていたこととは違っていた。霊についてだが、物質(物)ではないと思っていたからだ。だが本質的には物だと言われている。しかも五感でとらえられない精妙な物だと言われているのだ。そんな物が存在すること自体驚きだが、それが霊と言うのだから、本当にびっくりだ。注には説明があるが、「物」という語は媒体を形成する要素に限定するとある。それ故、霊は媒体を形成するものだから物となるわけかと納得する。次の霊の存在に終わりがないということはシルバー・バーチ霊が何度も言われていたことだが、やはり同じことを言われているので、事実なのだと確信する
。
959回目の瞑想
ーーー人間の目には見えない霊魂の世界というものがあるのですか。
「ある。霊の世界つまり物質を伴わない知性の世界が存在する」
ーーー宇宙の見地からすると、霊の世界と物質の世界と、どちらが本源的なものですか。
「それは霊の世界である。それはすべてのものより先に在ったし、またすべてのものの後も存在するものである」
ーーー物質世界の出現も、その終末も、霊の世界での何らかの変化なしには、起こらないのですか。
「左様。両者はそれぞれ独立したものだが、両者はたえず相互に影響し合っている。その関係は切っても切れないものである」
ーーー霊の世界とは、この空間の中に存在するのですか。
「霊魂は何処にでもいる。この無限の空間には、無数の霊が住んでいる。諸君には感じられなくても、霊はいつも諸君の傍に居て、諸君を見守り影響を及ぼしている。即ち霊魂とは、大自然の力の一つであり、しかも神の経綸実現のための神の手足であるから。と申して、すべての霊魂が何処へでも行くわけではない。未発達の霊魂には入って行けない場というものがる」
今回の内容については、ほとんど知っていた。そして同じことを言われているので、納得である。ただ、最後のお答えは、活字として読むことで、思い出すのだが、普段はやはり感じることがないので、霊魂がいるようには思えない。けれど、息子もきっと何かがあればすぐに来てくれているのだろうとは思っている。見守ってもくれているだろう。だが、この世にいた時と同じようには話すことはできないので、歯がゆい思いだ。それが出来れば、死について、もっと楽観的に思えるではないだろうか。なぜそうして下さらなかったと今更ながら、神様にお尋ねしたい気持ちになる。話は逸れてしまったが、霊魂はこの空間の何処にでもいると言われている。だからこそ、視える人には視えるのだ。せめて自分と関係ある霊の姿だけでも視ることが出来れば、霊の実在を確信できるのにと思わずにはいられない。
960回目の瞑想
ーーー魂は一定のしっかりした形をもっていますか。
「人間の目から見れば、そうは見えない。しかし、吾々霊魂の目よりすれば、魂は形をもっている。と言っても、人間からすれば、何やら焰のような、微光のような、エーテルの火花のようなものに見えるかもしれぬが」
ーーーその焰や火花には色がありますか。
「もし人間が見ることが出来るならば、うす暗い灰色のものや、光輝くルビー色までいろいろの色がある。それはその霊魂の魂の清らかさによって違うのだが」
ーーー霊の空間の移動には時間を要しますか。
「必要とする。但し、その動きは思念の速度と同じで在る」
ーーー思念とは、魂そのものの動きではないのですか。つまり、魂が思念する場所や目的物へ向かって、魂自身が動くことではないのですか。
「思念するものが魂である限り、思念ある処に魂あり。思念は魂の属性である」
ーーー霊が甲地より乙地へ移動する場合、その動く距離というものを意識していますか。あるいは霊は思った瞬間に、もう移ってしまっているのですか。
「どちらの方法でも使える。もし希望するなら移動する距離を意識することも出来るし、反対にそれを意識しないで行くことも出来る。これは霊の意志とまた浄化の程度によるものである」
ーーー物質は霊の移動の障害となりますか。
「いや、霊はあらゆるものを貫通する。空気も土も、水も火も、ものの数ではない」
ーーー霊はあらゆる処に在ることが出来ますか。つまり、霊は自分を分割できるのか、同時に幾つもの場所に存在できるか、ということですが。
「どんな霊も自己を分割することは出来ない。しかし、霊とは光を放つ中心と言えるものであって、従って、一つの霊が同時に幾つかの場所に存在するように見えるかもしれない。丁度、太陽は一個の塊でありながら、あらゆる方向に光を放ち、その及ぶ範囲は莫大なものである。しかし太陽は分割されたわけではない」
ーーー霊の放射する力は、どれでも同じですか。
「それは多大な相違がある。それというのも、浄化程度の相違によるわけである」
今回の内容も興味深い。魂は人間から見ると形があるようには見えず、霊になると形に見えるのだと言われる。しかもその見え方は焰のような、微光のような、エーテルの火花のようなもので,色もうす暗い灰色のものから、光輝くルビー色までいろいろの色があるらしい。そしてそれはその霊魂の魂の清らかさによって違うのだと言われている。また霊の空間移動の時間の早さは思念の速度と同じというのは知っていた。思念は魂の属性であると言われている。更に瞬間移動も可能であり、また移動する距離を意識することも可能だと言われているが、それは霊の意志とまた浄化の程度によるものだと。霊があらゆるものを貫通することは多くの人が知っているのではないだろうか。私自身も幽体離脱した時に身を持って体験したので、確信している。霊であっても自己を分割は出来ないと言われつつも、一つの霊が同時に幾つかの場所に存在するように見えることは太陽に例えられている。また霊の放射する力とは霊力のことだと思うが、もちろん同じわけがない。それは当然浄化の程度の差で変わるに決まっている。
961回目の瞑想
ーーー霊は外被をまとっているのですか。また一部で言われるように、ある種の物質に包まれているのですか。
「霊は、人間の目には、蒸気のように見えるある種の物質で包まれている。但し、吾々霊の目には甚だ濃厚に見えるが。しかしこの外被は、空間を自在に飛行するにふさわしい程、軽やかなものである」
ーーー霊はどこから、その半物質の外被を引き出すのですか。
「各天体の宇宙的液状体から引き出す。従って天体によって霊の外被は違う。霊が一つの天体から他の天体へ移行する時は、諸君が着物を変える具合に、その外被を変える」
ーーーこの地上より高級の世界に住んでいる霊が地上に出現する時は、鈍重な物質を身にまとわねばならないのですか。
「そうだ。地上に入るためには、地上の物質を身にまとわねばならぬ」
ーーーこの半物質の霊の外被は、一定の形をもっていますか、また吾々人間にも知覚できますか。
「左様、霊は自分の好む形をとることが出来る。従って、場合によっては諸君の夢の中、あるいは目覚めている時にも、諸君の目に見えるように出現することが出来る。目に見えるだけでなく、手で触れるようにさえ出来る」
今回の内容もとても興味深いものだ。霊は外被をまとっていると言われている。それも蒸気のように見えるある種の物質で包まれていると。初めて聞いたが想像できない。しかもこの外被は空間を自在に飛行するにふさわしい程、軽やかなものだそうだ。羽衣のようなものなのだろうか。この外被は各天体の宇宙的液状体から引き出すと言われている。いまだ宇宙的液状体というものがどういったものかわからないので、これまた想像できないが、天体から他の天体へ移行する際はその外被は着替えるようだ。また高級霊と言えども、地上に来られる場合は地上の物質である鈍重な物質を身にまとわなければいけないらしい。更にその外被については、自分の好む形を身にまとえるようだ。それ故生前の姿で夢に出て来てくれればわかるのだ。夢の中だけでなく、目覚めている時も私達の目に見えるように出現出来るとも言われており、見るだけではなく、触れるようにさえ出来ると言われているのだ。本当にびっくりだが、9月21日に記載した「ケーティ・キング」という女性の霊はまさしく手に取って脈拍まで測れたのだから、いい例と言える。だがこれだけはっきりした例はなかなか今の時代にはないように思う。こういった実例がもっとたくさん出現すれば、霊の存在を確実なものに出来るのではないかと思うのだが、霊界側が決めることなので私達人間には為す術はない。残念だが仕方ない。
962回目の瞑想
ーーー霊魂はすべて同じですか。それとも、段階や程度の差がありますか。
「霊魂はそれぞれ達成した浄化の度合いにより、程度がさまざまに違っている」
ーーーその段階の数は決まっていますか。
「段階の数に制限はない。霊の向上進歩の段階と段階の間には、障壁とか区画線のようなものはない。つまり、霊を区分けする定まりというものはないのだから、霊をどう見るか、見る人の見地に従って、段階の数も多くもなり少なくもなる。しかしながら、吾々は霊を、一般に大きく三つの段階に分けて考えている。
最高の第一段階に置かれる霊魂は「浄化霊」とも言うべき、概ね完成の段階に到達した霊魂である。第二段階に置かれるものは、上昇の段階の半ばに達した霊魂、即ち完成への情熱が主感情となって、浄化への階段を昇りつつある霊魂である。第三の最低の段階にあるものは、低いところに留まっている未完成の霊魂達である。これら低級霊の特色は、無知であること、悪を好むこと、進歩向上に害となる色々な悪い感情をもっていることである」
ーーー第二段階の霊がもっているのは、完成へ向かっての情熱だけですか。それを達成する力はもっていないのですか。
「彼らは、それぞれ到達している浄化の程度に従って、それ相応の力をもっている。ある霊は科学的知識において勝り、ある霊は知恵や親切心に特徴をもっている。しかなしながら、彼等はいずれも、なお苦しみと誘惑を通じて試練を耐え忍ばねばならぬ」
ーーー第三段階の霊は、すべて本質的に悪ですか。
「いや、そんなことはない。その中の一部の霊は、非活動的で、善悪いずれも為さず、どっちつかずである。また他の一部は、悪を楽しみとし、何か悪をなす機会を見つけると、これを喜ぶ。その他の霊は悪というよりも、軽薄で、愚かで、気まぐれで、いたずら好きであり、積極的に悪意をもつというよりも、気まぐれで他を騙したりする。彼等は自分の力の及ぶ人間達を騙したり、面白がって、人をちょっと困らしたりしては、毎日楽しんでいる。そういう霊達である。
霊魂の段階は、進歩の度合い、達成された資質、なお残っている未完成部分、これらを基に決められる。しかし、この段階とて絶対的なものではない。段階の差は総合的な判定によるものである」
今回の内容から霊魂の段階についての詳細が述べられているのでしばらくこの内容を記載して行こうと思う。今回はその前書きのようなもので、簡単な説明のみが記されている。霊魂の段階の数に制限はないと言われ、霊の向上進歩の段階と段階の間には、障壁とか区画線のようなものもないと言われている。更に霊を区分けする定まりというものはないと言われているが、その上でこの高級霊の方達は霊魂を大きく三つの段階に分けて考えていると言われている。その大きく分けた三段階にも最低の階である第三段階には更に五段階に分類され、第二段階には四段階に、そして第一段階はただ一つの階として、十段階に分かれていると言われているのだ。
明日からは、第三段階の未完成の霊魂についての特色を記載しようと思う。そして日を追うごとに第三段階の一番下の階級から順に記載していこうと思っている。(この内容は質疑応答ではなく、説明のみである)
少しは霊界というものが垣間見られるかも知れないと楽しみにしている。
963回目の瞑想
第三段階ーー未完成の霊魂の特色
物質の影響が支配的、悪への傾向あり。以上より、無知、高慢、及びあらゆる悪い感情をもつ。
神は存在するの直観をもつが、神についての理解は皆無である。彼等は全部が全部悪いわけではない。その多くの者は悪そのものと言うよりは、軽薄であり、理性が欠乏しており、いたずらを好むという状況である。一部の者は、悪も為さねば善も為さず、しかしその善を為さぬということは、彼等の未完成の証拠である。一部の者は悪を好み、ある程度は知性はあるが、これを楽しむ。
この段階の霊魂にも、ある程度の知性はあるが、それが悪やいたずらと結び付いている。しかし、その知性の現れが何であろうと、根本において進歩向上の意欲がなく、その情緒も卑しい。
彼等の霊的世界についての知識は狭い。その僅かの知識も、地上の観念や偏見で歪められている。しかし慎重な人なら、彼等の不完全な通信の中にも、更に上級の霊達の伝える真理を裏付けるものを発見できるだろう。
霊の品格は、通信の内容の言葉を見れば分かる。悪意の見える通信を送る霊は、第三段階の霊であろう。従って、吾々の心の悪い思念のささやきは、この第三段階の霊魂から来る。
彼等は善霊達の幸福を見て、永遠の責苦を感じ、羨望と嫉妬で大変な苦しみを味わう。彼等には、地上生活の苦しい記憶や感覚が残っていて、その苦痛たるや実際に味わうよりも辛いものである。地上で自分がなめた色々な不平、また他の人を陥れたあれこれの悪事、その二つが彼等を苦しめる。その苦痛は際限なく続く。従って、彼等はその苦痛は永久に消えないものと思い込んでいる。その思いこそ、罰として、神の望み給うところである。
彼等は五段階に分類することができる。
今回の内容は大きく分けられたうちの最も低い第三段階の全体の特色の説明である。神様についての理解は皆無であり、軽薄であり、理性が欠乏しており、いたずら好きだそうだ。また一部の者については善悪両方を為さないと言われている。だが善を為さないとは未完成の証拠だそうだ。知性はある程度あるとのことだが、その知性の現れが何であろうと根本において進歩向上の意欲がなく、その情緒も卑しいとのこと。また霊界に居ながらにして、霊的世界の知識は狭く、その僅かな知識も地上の観念や偏見で歪められているのだと言われている。けれど、そんな霊の通信の中にも真理を裏付けるものが発見できると言われているが、逆もまた真なりということなのだろうか。けれど、おおよそ低い霊の内容は当てにならないのではないかと思う。それには通信の内容はもちろんだが、言葉遣いなどで見分けることが肝要なのだと今回の教えでも感じる。更に地上でしてきたことへの悪事については、その記憶や感覚は残っているらしい。その苦痛が実際に経験するよりも辛いものだと言われている。しかもその苦痛は永久に消えないと思い込んでいるとのこと。さぞ、本人にとっては苦しいことこの上もないことなのだろう。けれど必ず因果応報はある。これを地上時代に知っていれば、ここまで苦しむことはなかったはずなのだ。
第三段階の全体としての特色がわかったところで、今度は更に五段階に分けられた一番下の階級の詳細を明日記載しようと思う。
964回目の瞑想
第十階級ーー不浄霊
彼等は悪への傾向をもち、彼等の思想と行動のすべての目的は悪である。彼等は人間を騙す、無秩序と不信を助長する。欺くためには、最も効果的に、さまざまの仮面を装う。彼等は暗示にかかり易くて、性格の弱い人間につきまとい、進歩向上の道から転落させる。彼等は人間が地上の試練に負けて、進歩でつまづくと大いに喜ぶ。
この階級の霊はその言葉遣いを見れば分かる。下品で俗悪な感じがするなら、それは必ず下劣な品性の現れである、これは霊魂も人間も同じことだ。霊界通信はその霊魂の品性を示すものである。彼等は合理的で礼儀正しい態度を装って話し、良い印象を人に与えようとするが、それを守り通すことは難しく、結局は馬脚をあらわす破目となる。
ある国では彼等を悪神となし、ある国では悪魔、邪悪霊と言う。彼等が生まれ変わって人間となると、下品下劣な悪徳に耽る。即ち肉欲、残忍、詐欺、偽善、邪欲などである。彼等は動機なしに、悪のための悪を行う。また善人への憎しみから、正直で立派な人の中から犠牲者を選ぼうとする。彼等がどんな階級に属していようと、その社会にとって、彼等は常に害毒である。教養があっても虚飾にすぎず、それをもって賤しい品性を直すことも隠すことも出来ない。
今回の内容で第三段階の中でも最低の階の霊達は、相当に悪に染まっていることがわかる。思想と行動のすべての目的は悪だと言われ、人間を騙し、無秩序と不信を助長すると言われている。更に性格の弱い人間や暗示にかかり易い人間につきまとい、進歩向上の道から転落させようとし、その人間が地上の試練に負けて進歩できないと喜ぶのだと言われているのだ。この階級の霊の言葉遣いが下品で俗悪と感じたら、下劣の品性の現れであると、それは霊魂も人間も同じことだと言われている。それ故にどんなに良い人としての仮面を被ったとしても直に化けの皮が剥がれてすぐに見破られてしまうのだ。そのような霊が人間に生まれ変わると、肉欲、残忍、詐欺、偽善、邪欲に耽るとある。確かにそのような人はかなりの数いるように思われる。そして善人であるというだけで、また正直で立派な人の中から犠牲者を選ぶのだと。この階の霊に罹られる人間というのは、当然類友の法則が必然だと思うが、この階に属する生きた人間は善人や立派な人などを陥れようとすることで快感を味わうのかも知れない。どちらにしても、所詮は哀れな霊達なのだ。早く気づいて欲しいと思う。そして霊的に目覚めた人から、自分自身のしっかりとした意志を持ち、神様を信じて、神様の摂理に適う生き方をして行く努力することが何より肝心なのだということに邁進して行って欲しいと願わずにはいられない。