備忘録
MEMORANDUM8(2022/6月〜2022/9月)
日々の瞑想や霊的なことなどを綴っていきたいと思っています
私はクラッシック音楽がとても好きなので、クラッシック音楽を取り入れた形の自由な瞑想をしております。
(マーラー作曲:交響曲9番の4楽章を2回聴く)
写真と内容は関係あるものとそうでないもがあります。(写真は主に私が撮ったものを載せてます)
私自身の記録用なので、参考程度に読んで頂けたらと思います。
下記の(アコーディオン形式)日付をクリックしてください。
過去の瞑想(2022/2月〜2022/5月) 過去の瞑想(2022/10月〜2023/1月)
943回目の瞑想
ーーー物質は神とともに、永遠より存在したのですか。あるいは、ある時期に創造されたのですか。
「神のみが知り給う。しかしながら唯一つ、諸君の理性に訴えて言えることは、愛と慈悲の源泉である神は、一時も休まれることがないということ。いかに深く、神の活動の始原にさかのぼって想像をたくましくしても、いやしくも神が一瞬たりとも、その活動を停止なされたことがあり得ようか」
ーーー物質の一般的な定義として次のものがあります。広がりを持つ、感覚できる、不滲透性、この定義は正しいでしょうか。
「人間の立場からすれば、それで正しい。人間は、ただ自己の知るところに従って、定義するものであるから。しかし物質は、実は人間に未知な状態で存在している。たとえば、人間の五官に訴えない、ある精妙な状態。それは諸君等には物質とは言えない。しかし、なおこれも物質なのである」
ーーーそれでは、貴方がたの物質の定義とは何ですか。
「物質とは、霊をつなぎとめる要素である。霊に奉仕する道具である。従って、霊が活動し演じる舞台である」
ーーー霊とは何ですか。
「宇宙の知的原理である」
ーーーでは、霊の本性とは何ですか。
「人間の言葉でそれを説明することは難しい。というのは、霊は人間に感知できるもの、つまり「もの」ではないから。しかし、吾々霊魂にとっては、霊は「もの」であるのだが」
ーーー霊と知性とは同義語と考えてよろしか。
「知性は霊の本質的な属性である。しかし、両者は単一原理ともなる。従って諸君の立場からは、両者は同一物と申してよろしい」
やはり今回の内容も難しい。物質が出現したことは、神様のみが知っていると言われている。そして慈悲の源泉である神様は一時も休まれることがないと言われる。このお言葉を聞いても想像ができない。人間には神様が休まれずに活動されているお姿というものを想像すること自体不可能なのだと思う。また物質についてだが、私達人間の五官に感じられない物質というものもあるようだ。更に霊界での物質の定義に得心する。やはり霊の方が勝っているということだ。
今度は霊についてだが、ここでのお答えは今まで聞いた事がなかったと思う。霊とは宇宙の知的原理だと言われている。ただ知的原理と言われてもよくわからないのでネットで調べてみた。だが知的原理としては出てこなかった。なので、原理のみを調べると物事のもとになる不変的な法則や理論のこととある。ということは知識や知性のもとになる不変的な法則ということが霊であると言えるのではないだろうか。けれど感覚として捉えることの方がいいように思う。難しく考えると余計にわからなくなるからだ。また知性は霊の属性であると言われている。ここも両者は単一原理ともなるとあるが、単純に同義語として捉えておけばいいのではないかと思う
。
944回目の瞑想
ーーー霊と物質は別物ですか。それとも、霊は物質の持つ諸性質の単なる一つにすぎないのですか。たとえば、色は光の、音は空気の、それぞれ一性質でありますように。
「霊と物質とは全く別物である。しかし、霊と物質の結合があって初めて、物質に知的活動が与えられるのである」
ーーーこの霊と物質の結合は、霊の発顕はつげんにも必要なのですか。(ここで言う霊とは、抽象的に知的原理の意味であって、個性をもった霊魂の意味ではない)
「諸君等にはその必要がある。人間は物質を離れて霊を感知するように創られていないから」
ーーー物質なしの霊、霊なしの物質というものは考えられますか。
「思想の対象としてならあり得る」
ーーーそれでは宇宙には二大要素あり、物質と霊、これでよろしいですか。
「その通り。更にその上に神がある。創造主であり万物の父である神が。この三者は万物の原理であって、三位一体である。
しかしこの物質的要素には、他に一つ、宇宙的液状体を加えられねばならない。これは霊と物質との媒介物である。すなわち物質はその性質が鈍重すぎて、霊は直接物質に作用し得ないからである。ただ、液状体は物的要素の一つではあるが、見方を変えると、ある性質に関しては物質とは言えないものがある。もし単純に液状体をもって物質と割り切ってしまうと、霊もまた物質ではないとは言えなくなってしまう。液状体は霊と物質の媒介物であり、物質を固体とすれば、これは液体である。また、これは霊の直接作用を受け、物質と無数の結合を通じつつ、敏感に作動して、無限の種類のものを産み出す。尤も人間は今日まで、これらのもののほんの一部を知っているにすぎないが、この宇宙の根源的液体は、霊が物質に作用するための媒介物であるが、また、物質がこれなしでは永久に物質であり続け得ない原理、またこれがなければ、物資が計量という性質をもつことの出来ない原理である」
ーーーこの液状体とは、いわゆる電気と考えてよろしいか。
「既に述べたように、これは無数の結合に敏感なもの。諸君の言う電気的液体・磁力的液体などは、この宇宙的液状体の変化したものを指す。より正しく表現すれば、これはもっと完全なもっと精妙なものそのもの。それ自身独立的存在と考えてよいものである」
ーーー霊があるものであるとすれば、液状体と霊を、それぞれ内的物質及び知的物質と言った方が、よりはっきりするのではありませんか。
「用語上の問題は吾々には余り大切ではない。諸君は分かりやすくするために定義を下すのだと言う。しかし、それはピタリとした言葉がないためそうなることが多い。とにかく、人間は五官に触れないものを表現する言葉を欠いているので、そうなりがちだ」
今回の内容も新しい言葉が出て来ている。霊と物質が別個のものであることはもうわかっている。霊と物質の結合があって初めて、物質に知的活動が与えられるのだ。しかも人間は物質を離れては霊を感知するようには創られていないと言われている。これは初めて知る内容だ。更に今回初めて聞くお言葉が「宇宙的液状体」だ。これは霊と物質との媒介物だと言われている。極めて重要な役割を果たしているものなのだ。霊にも通用し、物質にも通用する。これこそ、神様の為せる技なのだろう。この液状体はエクトプラズムのことなのだろうか。このエクトプラズムはノーベル生理学賞を受賞したフランス人のシャルル・リシェという方が研究され、命名されたもの。霊媒から出たエクトプラズマは、時には人間の全身の姿や人間の身体の一部を形成し物質化現象を実現している。主成分は唾液に似ていて、ある種のリン酸塩だそうだ。有名な物質化現象にクルックス博士によるフローレンス・クック嬢のエクトプラズマ研究がある。クック嬢の身体から放出されるエクトプラズムによって地上時代に「ケーティ・キング」と言う女性の霊が出現した。脈拍も測れて霊媒のクック嬢が90だったのに対して、ケーティ霊の脈拍はゆっくりで75だったそうだ。
この写真がその時のだそうだ。
こんなにハッキリと現れていて、生きている人間と同じように思える。
初めて聞く宇宙的液状体の内容を読んで行くうちに、このエクトプラズムが浮かんでしまった。この霊の書は高級霊界通信の第一号で、”世界三大霊訓"の一つでもある。
そんな時代にはまだエクトプラズムという言葉はなかったのではないかと思う
。
945回目の瞑想
ーーー鈍重さは物質の本性ですか。
「その通り。但し、それは人間が知っている物質の本性であって、宇宙的液状体としての物質の本性ではない。このエーテル的で精妙な物質は、人間からみると重さはない。しかし、これは物質の原理である」
[注解]鈍重性は相対的な性質である。宇宙諸天体の引力空間の彼方には、重さなどというものはない、そこに上も下もないように。
ーーー物質は一つの要素からできているのですか、それとも幾つもの要素からですか。
「唯一つの根源的要素からである。諸君が純粋と考えている実態も、実は基本的なものではない。それらは根源的なものの変形にすぎない」
ーーー物質のもつ多様な性質はどこからくるのですか。
「それは基本的分子の結合や活動の結果生じた変化である」
ーーーそれでは、ものの味、匂い、色、音、毒性などは、そのような変化の結果にすぎないのですか。
「その通り。それは、これを感受する各器官の受け取り方で違ってくるだけである」
ーーーこの根源的なものは、変化を受けやすく、また多様な性質をもちやすいですか。
「その通りである。すべてのものはすべてのものの中に在り、そういう言葉があるが、それはまさにこの事実を指す」
[注解] 酸素・水素・窒素・炭素・その他すべての元素を、吾々は純粋というが、実は単なる一つの基本的要素の変化したものにすぎない。今日まで吾々は、知的な演繹えんえきは別として、基本的物質には到達していない。この故に、吾等は諸元素をもって根源的要素とみなしている。当分はこのような状況が続かざるを得ないであろう。
今回の内容も難しい言葉のオンパレードだ。科学などを得意とされる方には納得されるのかも知れないが、私には無理なようだ。ただ感覚でとらえるしかない。理屈はどうあれ、この世の物質と言われるものには重さがある。けれど宇宙的液状体の物質としての本性ではないと言われている。エーテル的で精妙な物質は人間からみると重さはないとのこと。けれど物質の原理なのだそうだ。物質は唯一つの根源的要素からできており、私達が味や匂い、色、音、毒性といった実体として感じているものは、その根源的なものの変形なのだそうだ。そしてこれらを感受する各器官の受け取り方で違ってくるだけと言われている。書いていても何となくしかわからない。でもそれでもいいのだと思う。
946回目の瞑想
ーーー宇宙空間は無限ですか。それとも有限ですか。
「無限である。境界があると考えてみよう。ではその境界の向こうに何があるだろうか。こう考えていくと何もかも分からなくなる。しかしながら、これ以外にどう考えたらよろしいか。従ってどう考えてみても、無限という観念に行き着く。唯この無限という観念は、人間の小さな頭では、とても理解できるものではない」
ーーー絶対の真空というものが、どこかの空間に存在するのですか。
「いや、真空は存在しない。人間が真空と思うところにも、人間の五官の及ばない状態の物質が存在している」
今回の内容は当然の内容と思って読んでいたが、確かに無限無限と言葉では言ってはいるが、本当の意味で無限について理解しているのかと問われれば、理解はしていないと答えるしかないように思う。限りが無い状態というものはどういうものなのか、この世はすべてが限りあるものばかりだから、本当は言葉のみでしかわかってはいないのだと思う。
また、真空については存在しないと断言されている。しかも私達人間が真空と思う場所にも、人間の五官に感じない物質が存在しているのだと言われている。人間の知識の浅いことに思い知らされる。
947回目の瞑想
ーーー宇宙は創造されたものですか。それとも神のように初めから存在していたのですか。
「確かなことは、宇宙は自成した筈はないということ。では初めから在ったのかというと、それでは神の作品とは言えなくなってしまう」
[注解] 吾々の理性によると、宇宙が自らを創ったとは考えられない。また偶然に出来たとも考えられないから、結局、神の創造と言わざるを得なくなる。
ーーー神はどのようにして宇宙を創造されたのですか。
「普通の言い方をすれば、神の意志によって、ということである。<神が光あれ、と言い給うと光があった>これは旧約聖書の創世期の有名な言葉だが、これ以上に神の全能の意志による行為を表す観念は他にはないであろう」
ーーー宇宙はどのようにして成ったのか、私共はこれを知ることが出来ましょうか。
「諸君に理解できる範囲内で説明すると、こうだ、各天体は宇宙空間に拡がっている物質が凝縮して形成されたものである」
ーーー一度形成された天体が消滅することがありますか。また、天体を形成している物質が、再び空間に撒き散らされることがありますか。
「それはある。神は生物を更新されるように、天体も創り変えられる」
ーーー地球などの天体を創造するのに、どれくらいの年代がかかったのですか。
「これについては何も答えられない。神のみが知り給うことだから。中にはいかにもそれを知っているかのように、また年代を得々と述べる者がいるが、まことに愚かなる者である」
今回の内容も当然神様が宇宙も創造されたと思っていた。それ以外に考えられないからだ。宇宙を創造する際もこの有名なお言葉のようだと信じている。ただ、宇宙がどのようにして成ったのかという質問のお答えの各天体については初めて聞くように思う。更にその天体は神様が創り変えておられるとのこと。常に同じではないということだ。
また地球などの天体を想像する期間については、神様しか知らないことだとお答えにはなっていない。何もかもを知ったかぶりで言われることなく、知らないことは知らないと言えることが本物の証だと思う。
948回目の瞑想
ーーー地上に生命が誕生したのはいつ頃ですか。
「初めは混沌とした状況であった。混沌の中で、要素が混合された。漸次、これら要素がその処を得、その後、次々と変わる地球の状況の応じて、生物の各段階が現れた」
ーーーこれら生物は何処から来たのですか。
「これら生物の種子は地球そのものの中にあって、適当な出現の時を待っていた。有機質はある力によって初めバラバラになっていたが、その力の停止と共に集合し、地上生命の種子たねを形成した。これらの種子はさなぎや植物の種子のように、内部に潜んで時節の到来を待っていた。次いで、各種の生命が現れ、増加した」
ーーー地球生成以前に、有機質は何処にあったのですか。
「それは、いわば液状をなして、空間に、霊達の中に、あるいは他の遊星に在って、新しい天体での新生を求めて、地球の生成を待っていた」
ーーー今日でも、自分から進んで、新生してくる生き物があるのですか。「それはある。但し、それらの種子たねは既に潜在的に存在していたわけである。諸君等もそういう現象を常に見るのではないか。人体や動物の組織も多数の寄生生物を宿している。これらは発生に必要な腐敗発酵が起こるのを待っている。人間は創造過程にある微生物世界を蔵しているわけである」
ーーー人類も、かつて地球に内蔵されていたのですか。
「その通りである。創造主の意図された時に人類は発生した。故に、バイブルには<人間は土くれより創られた>と書いてある。
ーーー私共は、人間や地上生物の出現の年代を確かめることが出来ますか。
「出来ない。考察してみても、それはすべて空想である」
ーーーもし、人類の種子たねが有機的要素の中に在るものなら、今日においてもなお、かの発生時と同じように、人類の創造は行われないのですか。
「ものの初めのことは吾々には分からないが、次のことが断定できる。人間の始祖達は出現の時に、必要な要素を吸収した。これにより、再生生殖の法則に従って子孫にこれが伝えられることになった。他の生物の場合も同様と考えられる」
今回の内容についてもすぐには理解はできないように思う。ただ、地上の生物はその種子は地球そのものの中にあったとのこと。そしてその出現の時機を待っていたと言われている。しかも人類も地球に内蔵されていたと言われているのだ。神様の意図された時に人類は発生したとのこと。バイブル通りということらしい。難しいことは考えずに取り敢えず、頭に入れておこうと思う
。
949回目の瞑想
ーーー人間の始祖は一人ですか。
「いや違う。アダムは人間の始祖ではない。また地上に人間を増やした唯一人の人ではない」
ーーーアダムはいつ頃の人か分かりますか。
「西暦紀元前約4000年」
[注解] 伝説では有名なアダムとは、過去にしばしば起こった地殻大変動を生き延びて、現在種族の建設者となった者の中の一人であった。人類発生以来の進歩が、近々6000年前のアダムの時から行われたとすれば、人類の進歩はものすごいものになるわけだから、これは正しくない。だから、アダム始祖物語は、神話か寓話の類と考えられる。
今回の内容も興味深い。人間の最初はアダムとイブだと思っている人が多いと思う。けれど、ここでははっきりと違うと言われている。ただアダムという人自体は実在していたようだ。年代までも答えられている。注解でも書かれているが、やはり、アダムの話は伝説にすぎなかったようだ。
950回目の瞑想
ーーー人種によって、身体的・精神的な相違があるのは何故ですか。
「それは気候風土、生活様式や社会習慣の相違による。同じ親から生まれた二人の子供の場合も、離れて育って生活環境が違うと、同様な相違がおこる。これは精神的に全く違ってくるからだ」
ーーー人類はそれぞれ別の地域に出現したのですか。
「そうだ。しかもそれぞれ時代を違えて出現した。これが人種による相違の一原因である。原始時代の人間は、いろいろな気候風土に広く分布していたので、自国民より他国民と結びついた結果、人間性の新しい型をつくる源となった」
ーーーこれが新種の原因ですか。
「いや、そうではない。それは単に一種族をつくるにすぎない。同じ果実でも、いろいろな相違がでてくれば、同一種だとは申せなくなる」
ーーー人種が同一祖先から出ていないものとすれば、兄弟とは言えませんね。
「人類はすべて神に対して同じ関係にあるから、兄弟である。人類は同じ霊から生命を受け、帰る処も同じ処であるから」
今回の内容もなかなかに興味深い。人種による相違は気候風土や生活様式や社会習慣によるものであり、更にそれぞれ時代を違えて出現したのが一原因であると言われている。例を挙げて下さっているが、同じ親から生まれても、違った環境に置かれた場合は、生活環境の違いから血の繋がった兄弟であっても、同じようにはならないのはわかる。ただそうした違いは大した問題ではないと思う。神様の子としてみな人間は兄弟だからだ。根本は霊であり、住処も霊界であるということは変わらない事実なのだ。
951回目の瞑想
ーーー天体にはすべて生物がいるのですか。
「いる。諸君等は、地上の人類はその知性、道義性、進歩の点から第一等と思い込んでいるが、とんでもない。また、無数にある天体の中で、地球だけ人類が住んでいると思っているようだが、これも勝手な考えである。諸君等は、神が宇宙を人間中心に創ったように思っているが、誤謬も甚だしい」
ーーー各天体の物理的構造は皆同じですか。
「そうではない。皆違っている」
ーーーそうだとすれば、そこに住む生物の構造も違っているのですか。
「左様。丁度、魚が水に住み、鳥が空に住むために構造が違っているのと同じことである」
ーーー太陽からずっと離れた遊星、太陽がまるで一粒の星のようにしか見えない遊星では、光も熱もずっと少ないのではないでしょうか。
「諸君は、太陽以外に光と熱はないと思っているのかな。諸君等は電気の働きを考えてはみないのか。それは地上よりずっと大きな働きをしているのだ。また、それら遊星の住人達も諸君等と同様に、五官の働きをもって、ものを見る、この事実がお分かりかな」
今回の内容も私達人間はまだ宇宙の天体に対しては多くを知らない。まだ宇宙人がいるとかいないとか言っている段階なのだ。冒頭から皮肉にも聞こえるようなお言葉で話されている。天体すべてに生物がいると言われている。そして私達人間は勝手に地球にのみ人類が住んでいると思い込み、人間が一番だと思っているのだ。だがそれは誤謬も甚だしいと強いお言葉で断じている。各天体の物理的構造もそれぞれ違いがあり、各天体の特性にあった形で形成されているようだ。また、太陽以外にも光や熱に変わるものがあるらしい。まさにそれは電気の働きのようだ。そしてそれは地上よりもずっと大きな働きをしているとも言われている。ただ遊星の住人達も私達人間と同じように五官の働きで、ものを見るとのこと。実際に目にしたことはないが、私にミキシグという宇宙人らしき人物が降りて来たことがあった。内容はずいぶんと昔のことなので、ほとんど覚えていない。ただ真上の相当に高い場所にかなりの数の宇宙船に宇宙人がいるようなことを言っていたように思う。不確かなので、そんなことがあったということだけお知らせさせて頂いた。
952回目の瞑想
ーーー物質の要素を結びつけて、有機体を作る時の力、無機体を作る時の力、これは同じものなのですか。
「同じものである。結合集約の法は、何れの場合も同じなのである」
ーーー有機体と無機体をつくっている物質の間には、何か相違がありますか。
「それは同じものである。ただ有機体の場合は、その物質に動物性が与えられている」
ーーー物質が動物化する原因は何ですか。
「物質と活力原理との結合による」
ーーーこの活力原理というのは、別個の動因ですか、それとも有機化した物質のもつ特性ですか。換言すれば、活力原理は原因ですか、それとも結果ですか。
「それはどちらとも言える。生命とは物質に及ぶ動因の活動によって生じる結果である。この動因は物質なしでは生命とはならないし、また物質は、この動因なしでは生命をもたない。この動因を吸収同化するものは、すべて生命を得る」
今回の内容は私には難しい。わかる人にわかって頂ければいいと思う。なので、今回については述べることがない。
953回目の瞑想
ーーー宇宙の二大構成要素は、物質と霊の二つであることは既に学びました。すると、この活力原理とは、第三要素というべきものですか。
「確かに、これは宇宙の構成に必要な要素の一つである。しかしこの根源を尋ねると、この目的のために宇宙物質が特に変化したものと言える。諸君にとり、これは酸素や水素と同様、基本的なものだ。しかし、根源的要素でないことも同様。諸君等の知っている諸元素は、諸君等には純粋に思えても、根源的液状体の変形であることは前にも述べた通りである」
ーーーとすると、活力とは根源的動因というわけではなく、変容した宇宙物質のもつ特性と言うべきなのですか。
「御説の通り、上記の説明を要約すればそうなる」
ーーー活力原理は、私共が知っている、何か実体の中に在るのですか。
「活力原理の本源は宇宙的液状体の中にある。諸君が磁気とか電気とか呼んでいるものがそれである。これは霊と物質との間を結ぶ媒介物である」
ーーーどの有機体の活力原理も、みな同じものですか。
「そうである。但し、その種によって変形はされている。自ら動く力の源はこれ、動物と物体との違う点もこれにある。物質は自ら動かない。動かされている。自ら動く力をもっていない」
ーーー活力は、活力原理の中に潜む不変の属性ですか。それとも、活力原理をもつ有機体の運動によって発動するものなのですか。
「それは有機体との結合の結果発現する。前にも述べた通り、この活力動因は物質なしには生命とならないと。この両者の結合は、生命の創成に不可欠のものである」
ーーーでは、活力動因が物質と結合しないときは、活力は潜在していると言ってよろしいか。
「その通りである」
今回の内容もやはり難しい。何となくはわかるようにも思うが、はっきりとこれだというような理解にはならない。ただ一つわかったことは、活力原理というものは、この世で磁気とか電気とか呼んでいるものだということだ。それが霊と物質との間を結ぶ媒介物だと言われている。また有機体の活力原理も同じものだが、その種によって変形はされているそうだ。そこが動物と物体との違いだとも言われている。また活力は有機体との結合の結果は発現するものであり、物質なしには生命とはなり得なく、この両者の結合は生命の創成に不可欠であると言われている。こう書いていてもまだしっかりと把握したわけではないが、全体像はおぼろげながらもわかったような気がする
。
932回目の瞑想
ーーー例えば脳神経に異常をきたしてノイローゼのような形で自殺したとします。霊界へいけば脳がありませんから正常に戻ります。この場合は罪はないと考えてよろしいでしょうか。
「話をそういう風に持って来られると、私も答え方によほど慎重にならざるを得ません。答え方次第では私がまるで自殺した人に同情しているかのような、あるいは、これからそういう手段に出る可能性のある人に口実を与えていることになりかねないからです。
もちろん私にはそんなつもりは毛頭ありません。今のご質問でも、確かに結果的にみればノイローゼ気味になって自殺するケースはありますが、そういう事態に至るまでの経過を正直に反省してみると、やはりそのスタートの時点において私が先ほどから言っている"責任からの逃避"の心理が働いていたのです。もしもその人が何かにつまずいた時点で"自分は間違っていた。やり直そう。そのためにどんな責めを受けても最後まで責任を全うしよう"と覚悟を決めていたら、不幸をつぼみのうちに摘み取ることが出来ていたはずです。
ところが人間というのは、窮地に陥るとつい姑息な手段に出ようとするものです。それが事態を大きくしてしまうのです。そこで神経的に参ってしまって正常な判断力が失われていきます。ついにはノイローゼ気味となり、自分で自分が分からなくなります。問題はスタートの時点の心構えにあったのです」
今回の内容も、本当にその通りだと思う。ノイローゼになること自体、その最初の段階があるはずなのである。その時点で自分の間違いを正し、間違ったことに対しては責めを負い、最後まできちんと責任を
とる覚悟ができていれば、ノイローゼになることはなかったはずだ。それを圧力に負けて流れに任せて進めていくことで、にっちもさっちもいかない事態になってしまう。万事休すだ。もう逃避することしか考えられなくなる。一刻も早くその場から立ち去りたい思いになってしまうのだ。問題が大きくなる前にどんな圧力があろうとも屈することなく、間違いを正す勇気が問われているのだと思う。そのような姿勢で臨めば何ごともうまく行き、ノイローゼになることもないということなのだ。
933回目の瞑想
ーーーいわゆる"偶発事故アクシデント"による死はあるのでしょうか。
「非常に難しい問題です。というのはアクシデントという言葉の解釈次第でイエスともノーともなるからです。動機も目的もない、何かわけの分からない盲目的な力でたまたまそうなったという意味であれば、そういうものは存在しません。宇宙間の万物は寸分の狂いもなく作用する原因と結果の法則によって支配されているからです。
ただ、その法則の範囲内での自由意志というものが許されております。が、その自由意志にもまた法則があります。我が儘勝手が許されるという意味ではありません。従って偶発事故の起きる余地はありません。偶発のように見える事故にもそれなりの原因があるのです。
ぜひ知って頂きたいのは、法則の中にも法則があり、その裏側にも法則があり、それぞれの次元での作用が入り組んでいるということです。平面的な単純な法則ではないのです。
よく人間は自由意志で動いているのか、それとも宿命によって操られているのかという質問を受けますが、どちらもイエスなのです。問題は解釈の仕方にあります」
今回の内容は私達人間にとって、とても関心のある問題だと思う。世間一般ではすべての事故は偶発だと思っている。なるべくして事故になったとは思わないし、思いたくもない。その気持ちは痛い程わかる。だが、シルバー・バーチ霊のお言葉によると、宇宙間の万物は寸分の狂いもなく作用する原因と結果の法則に支配されていると言われている。ということで偶発事故というものは起きる余地がないとまで言われているのだ。偶発事故は偶発のように見えるだけでそれなりの原因があるとのこと。しかもその際にはあらゆる法則があり、作用が入り組んでおり、平面的な単純な法則ではないと断言されている。ただこの法則については私達人間は知るよしもない。
この度の3歳の女の子のバス置き去り事件でも言えることなのだろうが、あまりにも酷なことで、やはり憤りを覚えてしまう。その複雑な法則を私達人間には永遠にわからないのだとしたら、今回のような事件ではどのように思えばいいのだろうか。複雑な法則があるから、だけでは納得はできない。親御さんの気持ちを考えるとそこまでの苛酷な体験をしなければならない因果律があったということなのだろうか。だが、その原因が真の意味で解明できなければずっと苦しんでいく他ないということになる。だが越えられない苦しみは神様は与えないと言われている。早く霊的なことに目覚めて乗り越えて欲しいと願わずにはいられない。
934回目の瞑想
ーーー病気は教訓として与えられるのだとか人間性を築くためだとか言う人がおりますが、本当でしょうか。
「言っていること自体正しいのですが、"与えられる"という言い方は適切ではありません。
私達と同じくあなた方も法則の中で生きております。そして病気というのはその法則との調和が乱れた結果として生じるのです。言ってみれば霊として未熟であることの代償として支払わされるのです。しかしその支払いとはまた別の"補償"の法則もあります。物事には得があれば損があり、損があれば必ず得があるのです。物質的な観念からすれば得と思えることも、霊的な観点からすれば大きな損失であることがあります。すべては進化を促すための神の配慮なのです。
教訓を学ぶ道はいろいろありますが、最高の教訓の中には痛みと苦しみと困難の中でしか得られないものがあります。それが病気という形で現れることもあるわけです。人生は光と陰の繰り返しです。片方だけの単調なものではありません。喜びと悲しみ、健康と病気、晴天と嵐、調和と混乱、こうした対照的な体験の中でこそ進歩が得られるのです。ということは双方に神の意志が宿っているということです。良いことだけ神が宿っていると思ってはいけません。辛いこと、悲しいこと、苦しいことにも神が宿っていることを知ってください」
今回の内容も得心するしかないものだ。病気とは法則との調和が乱れた結果として生じ、霊として未熟であることの代償として支払われるのだと言われている。要するに病気になるということは霊として未熟だと言っているようなものなのだ。けれど法則には悪いことだけでなく、もちろん良いこともあると、損得はすべて進化を促すための神様の配慮なのだと言われているのだ。
ただ、最高の教訓を学ぶためには痛みや苦しみ、そして困難の中でしか得られないと言われ、それが病気という形で現れることもあるのだと言われている。その経験を積むためにこの地上に生まれて来ているのだから、甘んじて受け止めるしかないのだろう。人生は対照的な体験の中で進歩が得られるということで、両方神様のご意志が宿っておられるということなのだ。そのことを知らなければ、悪いことが起これば、神様はいないと言い、良いことがあれば神様に感謝する。それでは霊的真理の理解にはほど遠いということになる。その両方を経験しながら、霊界の住処に行くための準備をしているということに目覚めなければ、いつまで経っても苦しい環境のまま、苦しい思いのままで行かなければいけないのだ。今苦しい思いをしている人には、一日も早く霊的真理を知り、理解して欲しいと願って止まない
。
935回目の瞑想
ーーー死体は火葬にした方がいいでしょうか。
「絶対に火葬がよろしい。理由にはいろいろありますが、根本的には、肉体への執着を消す上で効果があります。霊の道具としての役割を終えた以上、その用のなくなった肉体のまわりに在世中の所有物や装飾品を並べてみたところで何になりましょう。本人を慰めるどころか、逆にいたずらに悲しみや寂しさを誘うだけです。
人間は、生命の灯の消えたただの物質となった死体に対してあまりに執着しすぎます。用事は終わったのです。そしてその肉体を使用していた霊は次のより自由な世界へと行ってしまったのです。
死体を火葬にすることは、道具としてよく働いてくれたことへの最後の儀礼として、きよめの炎という意味からも非常に結構なことです。同時に又、心霊知識も持たずに霊界へ来た者が地上の肉親縁者の想いに引かれて、いつまでも墓地をうろつきまわるのを止めさせる上でも効果があります。
衛生上から言っても火葬の方がいいと言えます(※)、この種の問題は私が扱う必要はないでしょう。それよりもぜひ知って頂きたいことは、火葬までに最低三日間は置いて欲しいということです。というのは未熟な霊は肉体から完全に離脱するのにそれくらい掛かることがあるからです。離脱しきっていないうちに火葬するとエーテル体にショックを与えかねません」
※ーーー『霊訓』の続編である『インペレーターの霊訓』に次のような箇所がある。
≪二つの埋葬地の中間に位置する家に滞在していたことを咎められたモーゼスが「なぜいけないのですか」と尋ねたのに対し、レクターと名のる霊が答えた。
「最近のあなたは墓地に漂う臭気に一段と影響されやすくなっております。その近辺で長時間寝たり呼吸したりしてはいけません。そこに発生するガスや臭気は鈍感な人なら大して害はないが、あなたほど発達してくると有害です」
ーーーでもすぐそばではありません。
≪「二つの墓地の中間に位置しています。辺りの空気にはあなたの身体に有害なものが充満しています。
肉体が腐敗する際に強烈な臭気を発散する。それが生者の呼吸する空気に混入し、それに惹かれて地縛霊がうろつきます。どこからどう見ても感心しないものですが、霊的感受性が敏感人間にとっては尚のこと有害です」
ーーー墓地を嫌っておられるようですが、埋葬するより火葬の方がよいというお考えですか。
「朽ち果てていく肉体を生きた人間の生活の場のど真ん中に埋めることほど愚かなことはありません。呼吸する空気が汚染されてしまいます。もう少し進歩すれば生きた人間に害になるようなことはやめるでしょう」≫
今回の内容は火葬についてである。今では火葬が主流なので、土葬について論議する必要はないと思うが、大切なことも含まれているので、記載させて頂いた。ここで一番大事なことは火葬までの間を最低でも三日間置くということだ。未熟な霊は肉体から完全に離脱できないとのことで火葬するとエーテル体にショックを与えかねないとまで言われている。
これは今後教訓にするべきことだと思う。
936回目の瞑想
ーーー霊的観点から見て心臓移植をどう思われますか。
「何ごとも動機が大切です。移植が純粋に生命を永らえさせるためである場合が確かにあります。が、実験を重ねていくうちに実験そのものの興味が先行して肝心の目的を忘れている場合があります。興味本位で無抵抗の動物を残酷な実験に使用することは、霊的観点から言うと褒められた行為ではありません。人間の健康は残酷な行為からは得られません。これまでナゾとされている大自然の秘密は、そういう一方的な搾取行為では解明できません。
私は臓器の移植には賛成できません。また輸血も賛成できません。私の考えではーー私はあくまで私の個人的見解を述べるだけですがーー肉体的生命の維持ということが唯一の目的であってはならないと思います。心に宿す考えが正しければ行為も正しく、したがって肉体も正常となります。
問題の解決は臓器の移植ではありません。本当の解決は各自が神の意図(摂理)に則った生き方をすることです。人間は他の人間への思いやりと同時に、同じ惑星上に住んでいる他の生命のすべてに対して思いやりを持たねばなりません。神は人間の寿命を引き延ばすための実験材料として動物を用意したのではありません」
今回の内容も霊界と私達人間との考えの違いが如実に出ている。心臓移植をすることで命が助かるのであれば、どんなことをもするというのが人間の気持ちだ。やはりこの世に生きていて欲しいという想いは限りなく強い。けれど、シルバー・バーチ霊は心臓だけでなく、すべての臓器の移植もまた輸血までも賛成できないと言われている。それは肉体的生命の維持だけを目的にしてはならないと言われ、心に宿す考えが正しければ行為も正しく、肉体も正常になると言われている。それは神様の摂理に則った生き方をすることこそが人間が肝に銘じなければいけない肝要なことなのだからだ。そして人間を助けるための手段として、動物実験のことをも言われているが、とても重要なことを言われている。
神様は人間の寿命を引き延ばすための実験材料として動物を用意したのではないということだ。人間の健康は残酷な行為からは得られないと断言されている。私も至極同感だ。
937回目の瞑想
ーーー現段階では心臓移植は必ず失敗に終わると考えてもよろしいでしょうか。
「実験そのものは成功するケースもあると思います。ただ私が気がかりなのは、実験そのものが霊的にみて間違った方向へ進みつつあることです。その方向は人間の幸福のために献身すべき人が選ぶべき道ではないということです。現段階のやり方では健康は得られません。健康とは調和状態のことです。今の医学者のやっていることは一時的な部分品の継ぎ合わせにすぎません。
至って簡単で、しかも肝心なことをぜひ理解してください。人間という存在は身体と精神と霊の三位一体として創造されているのです。その三つは不可分のものです。置きかえはきかないのです。あなたはそれらが一体となって一つの個性をこしらえている存在です。健康というのはその三つの要素の間の協調関係であり、規則的リズムであり、一体関係です。健康を得る方法はそれ以外にはありません。クスリでもなく医学でもありません。それは一時しのぎの手段にすぎません。
地上は無知だらけです。死を恐ろしい怪物のように思って避けようとしています。死を恐怖心をもって迎えていますが、死も自然の摂理の一環にすぎません。地上はトレーニングセンターです。間違いなく訪れる次の、より大きな生活の場に備えて教訓を学ぶための学校なのです」
今回の内容についても心臓移植というのは間違っているということだ。たとえ移植自体成功したとしても、霊的にみると間違った方向へ進んでいると言われている。それは単なる一時的な部分品の継ぎ合わせだと言われているのだ。確かにその通りだと思う。シルバー・バーチ霊の言われる肝心なことを理解できれば身体だけを助けても意味がないということになる。人間の存在は身体と精神と霊の三位一体として創造されている以上、その正しい調和がなされなければ、健康を得ることはできないのだ。すべては一時しのぎの手段でしかないと断言されている。本当にこの世は知らないことばかりだ。死を怖いものとして捉えている以上、部分品の継ぎ合わせは続くことだろう。一日も早くこの世は次の霊界へ訪れるための教訓を学ぶためのものだということを知る必要があるのだと思う。
次回からは、一旦シルバー・バーチ霊の霊訓はお休みして、「霊の書」を記載して行きたいと思う。「霊の書」は質疑応答の形式をとっている。シルバー・バーチ霊の説かれていることとの比較やこの書の説かれている内容が得心できるかどうかという点でも興味深いと思う。難しい箇所もあるかと思うが順番に記載して行こうと思っている。
「霊の書」について簡単に記しておく。フランス人のカーデックという人の手によって受信されて、フランス語で発表されたようだ。そのために仏・伊・スペイン・ブラジル等ラテン系国民の間に拡がったとのこと。その発行部数はおそらく400万部をこえ、特にブラジルではその信奉者が2000万人とも言われる、空前の影響力を与えた霊界通信とのこと。
通信霊は聖ヨハネ、パウロ、アウグスティヌス、ソクラテス、プラトン、スエーデンボルグ、真理の霊、等々と言われているようだ。
カーデック本人の「序言」の中で次のように記している。「顕幽両界の通信は奇蹟ではなく、ものの自然である。このことは古来どこにでもあったものだが、今や一般的となってきた。霊によると、これを明らかにする神の定めた時が今来ている。神の使徒となる霊達は人類新生の時代をもたらそうとしている」と。霊がカーデックに与えた言葉の一節を付け加えると「これから君が書こうとしている書は、人類を愛のもとに一つに結びつけようとする、新しい建設の基礎となるものである」と。
どの霊界通信にも窺える、人類の新時代の到来、そのための欠くべからざる一書がまたこの「霊の書」であることは間違いないと思う。
もともとカーデック個人の質問に霊が答える形をとったようだが、通信開始後二年、カーデックがこの通信の意味の重大性に気づき、出版の決意をもつと、霊よりの指示があったようだ。これは個人に対するものでなく人類に対する通信であることが指摘され、その指示で書名を"Le Livre des Esprite(
The Spirits Book)"『霊の書』とすべきこと、筆名をアラン・カーデックとするよう指示を受けたとのことだ。
938回目の瞑想
神について(神と無限)
ーーー神とは何ですか。
「神とは至上の英知、一切の第一原因である」
ーーー無限とは何ですか。
「始めもなく、終わりもなく、未知なるもの。未知なるものはすべて無限である」
ーーー神は無限と言ってよろしいですか。
「それは完全な定義とは申せない。人間の言葉は有限であり、人智を越えるものを定義することは難しい」
ーーー神の存在の証拠は何でしょう。
「結果があるからには、必ず原因がある。これが科学でも適用される公理である。人間の創作によらぬすべてのものの原因を探究してみなさい。理性は必ず諸君の疑問に答えてくれるであろう」
ーーー神は在るとの直観は、人類精神の共通の財産と言われますが、これは何と解釈したらよろしいですか。
「神は存在するということである。即ちもし存在しなければ、何をもって、人の心は神を直観し得ようか。この直観の事実から推論してみよ、それはかの<原因なくして結果なし>の公理から得られるものと同じ事である」
ーーーその直観は、教育や学習の結果と言えないでしょうか。
「もしそうだとするなら、未開人にもこの直観があるというのは、どういう事ですかな」
今回の内容には、やはりシルバー・バーチ霊の霊訓では書かれていないようなことが書かれている。まず、神様は一切の第一原因だと言われている。また無限については未知なるものはすべて無限だと言われている。更に神様は無限かという質問には完全な定義とは言えないと言われているのだ。神様の存在の証拠についても、直観についても的を得た答えでびっくりする。これだけでもとても勉強になる。これからの質疑応答も楽しみだ
。
939回目の瞑想
ーーー物が形成された第一原因は、物質の本性の中にあるとは言えませんか。
「もしそうだとすれば、物質の本性の原因は何かということになり、常に他に第一原因がなければならない」
ーーー物の形成の第一原因は、物質が偶然に結合したという、いわば偶然説がありますが、これは如何でしょう。
「これも愚説である。常識のある人なら、偶然を知的動因と考えることが出来ようか。偶然とは何か。そのようなものは存在しない」
ーーー万有の第一原因は至上の英知、即ち神であるということに、何か証拠がありますか。
「諸君は<作者はその作品によって知られる>という諺をご存知か。自分の周囲を見回して、その出来映えから推して、創造者を判断されよ」
今回の内容は最初はなかなか理解しがたいものである。だが偶然は存在しないとのお言葉は、シルバー・バーチ霊のお言葉と同じである。そして神であるという証拠は、自然の出来映えを見ればそれを創造した存在が神様であるということはわかると言われているのだ。ここでは、そのものズバリをお答えするのではなく、相手に考えさせるようなお言葉であると感じる。
940回目の瞑想
ーーー神の本質を人間は知ることが出来ますか。
「それは出来ない。人間にはそれを理解する感覚が欠けている」
ーーーでは、神の神秘を理解できるようになりますか。
「心の目が物質で曇らされなくなって、進歩して神に近づけば、神を見、神を理解するようになろう」
ーーーもし、神の本性を知ることが出来なくても、神の相貌のいくらかを理解できるようになれましょうか。
「ある程度はできる。人が物質を超越していくにつれて、その理解は高まる。その磨かれていく知性をもって、チラリとこれをのぞき見ることが出来よう」
ーーー私共は神を、永遠・無限・不変・超物質・唯一無二・全能・絶対の正義と善、などと呼びますが、これは神の属性を完全に示すものと言えましょうか。
「いや。だが諸君の立場からすればそれでよいとしよう。諸君は以上の言葉で、神のすべてを数えあげていると思っているのだから。しかし、最高の賢者の知性をもってしても、及ばぬものがあることを知っておかねばならない。人間の言葉は有限だから、到底それを表現できない。諸君の理性は、神が完全無欠であることを認めていよう。もし神に少しでも欠けているものがあるなら、神は至上至高とは言えないし、これをもって神と称するわけにいかないから。至上とは、変化せぬもの、いささかも欠けたところのないもの、神とはこれでなければならぬ」
今回の内容でも私達人間は神様の本質を知ることはできないと言われている。理解する感覚が欠けているのだと。ただ神様の神秘については物質を超越し、進歩して神様に近づくことができれば、理解できるようになると言われている。それはそうだろう。だが、神様に近づけるようになるためにはどれほどの時間がかかるかわからない。むしろ今の段階では到底近づくことはできないから、理解できるはずもない。けれど理解は出来ずとも、至上至高の存在である神様を信心することはできる。私は今はそれでいいと思っている。
941回目の瞑想
ーーー神とは、宇宙と別個に在るものですか。また一説によると、神とは宇宙のもつ力と知の結果生じたものと言っていますが、そうですか。
「後者の説が本当とすれば、神はもはや神ではない。神が結果であって万物の原因ではないということになるから。神が結果であり、また同時に原因でもあるという筈はあるまい。
神は実在する。これを疑ってはいけない、これが一番の基本点である。またこれ以上に出てはならない、出れば迷路に入って動きがとれなくなる、それ以上に探索しても、あるいはそれが諸君の知者としての誇りを増すことになろうとも。しかしながら諸君は本当は何も知っていないのだから、止めにした方が身のためである。神についての組織体系などは捨てよ。それよりも諸君自身の周りにもっと考えるべきものが沢山ある。自分の欠けているものに目を向けよ。それを直していくように心がけよ。このことは出来ない神の詮索に無駄骨を折るより、よほど諸君自身のためになる」
今回の内容は神様について知りたいと思うからの質問であると思うが、神様について何も知らない私達人間は、神様が実在するということだけを信じていればいいということなのだ。知らないことを詮索するよりも、今自分について、また自分の周りについてもっと考えなければいけないものが沢山あると教えて下さっている。そして自分を進歩及び成長させて行くことが大事なことなのだと説いておられるのだ。
942回目の瞑想
ーーー人間は、未知なものの神秘を明らかにする日が来るのでしょうか。
「もし人間が浄化を遂げるなら、神秘の扉は一部分開かれるであろう。しかし、あるものに限って、これを理解するには、いま人間に備わっていない能力が必要とされるであろう」
ーーーでは、科学が進歩しても、人間は大自然の神秘の一部を知ることが出来ないのですか。
「科学的能力は、人間の進歩の手段として、人間に与えられているものである。しかしそれをもってして
も、なお、今日人間の前にある限界を打ち破ることは出来ない」
ーーー人間能力の範囲を超えて、つまりは、科学の矛先の及ばない問題を、人間は霊界通信で受け取ることが出来ますか。
「出来る。神がその必要を認められる時、科学の達し得ないものを、人間に通信することを許し給う」
[注解] 人類の過去未来にわたる運命など、限界はあるとしても、人間に可能な限りの高い霊界からの通信が得られる。
※この注解とあるのは、霊示ではなく、カーデック氏自身が付した注釈とのこと。
今回の内容は人間が浄化を遂げるなら、と言われているが、そこまで行き着くには容易なことではない。だが、魂が目覚めてより霊的な進歩が望めれば、神秘の扉の一部分は知ることができるのかも知れない。ただあるものに限ってという下りの人間に備わっていない能力が必要、とあるが、それが何なのか私にはわからなかった。
大自然の神秘については、どんなに科学的能力が進歩したとしても、限界を打ち破ることはできないと言われている。要するに私達人間には限界があり、大自然のことだろうが、霊界だろうが、知る限界があるということだ。しかも、知ることのできる人というのは、浄化を遂げた人なのだ。人間の多くは知らないままこの世を去るのだろう。また科学ではわからないことを霊界通信で受け取ることが出来るかという問いに、神様がその必要を認めた時に、通信することを許されるようだが、これもまた通信を許される人というのはやはり霊的に進化した人ということになるのだろう。なぜならそういう通信を送って来て下さるのは高い霊界からなのだから。
921回目の瞑想
ーーー霊の指導によって行われる範囲と人間の努力によって行うべき範囲について教えてください。
「私たちも一定の法則の範囲内で仕事をしなければなりません。霊にもできることとできないことがあるということです。その法則による制約は人間よりはるかに厳格です。私がこれまでいちばん辛い思いをしたのは、私の愛する者が危機のさ中にありながら何も手を出さずに一歩下がって控え、自分で工夫するにまかせ、どちらの道を選ぶかじっと見守っているしかなかった時です。それがいちばん本人のためであるとの判断があったからです。助言を求められても"ここはひとつご自分の判断でやってごらんなさい。どれだけうまく行くか試してごらんなさい。その判断はあなたの霊的進化の成就のすべてが掛かっているのですよ"と申し上げなければならないこともよくあるのです。
私たちの関心は霊的な結果です。忌憚なく言わせていただけば、あなた方は物的な結果だけを見つめておられることが多すぎます。この連盟の歴史を振り返ってごらんになれば、霊の導きが決して少なくないことがお分かりになるはずです。
私たちが基本的原理のいくつかを確信をもって明言できるのは、それらが永遠の実在に基づいているからに他なりません。もしも地球が地軸上の回転をやめるようなことがあったなら、あるいは汐が満ちるべき時に満ちてこず引くべき時に引かないようなことがあったなら、あるいは又、星雲が回転のパターンから外れるようなことがあったなら、私はこれほど確信をもって説くことはできないでしょう。が、大霊は全知全能であり、その霊力の働きは完全無欠です。そこで私はその霊力に全幅の信頼を置く者に決して挫折はないと確信もって申し上げるのです」
今回の内容は、前に別の章で読んだことがあったので知っていた。シルバー・バーチ霊だけなく、高級霊の方が一番辛いのは黙って、苛酷な体験を見守っている時だと言われていた。助けたくても助けてはいけないのだ。それだけ霊の世界は厳格なのだろう。私達人間も、そこは我慢のしどころなのだ。真の意味での神様を信じることができれば、どんな苦境に立たされようとも乗り越えることができる。それは乗り越えられない試練は与えられないからだ。神様の偉大なる霊力に全幅の信頼を置く者には決して挫折はないとのシルバー・バーチ霊のお言葉を信じて、強固な信念を持つこと以外乗り越えられる手段はないのではないかと思う。
922回目の瞑想
ーーー先ほどあなたは、一歩控えて思い通りにやらせるほかはないことがあるとおっしゃいました。その人には好きな道を選ぶ自由意志があるわけですが、もしもその人が自由に行動してそれが仕事をぶち壊すようなことになったらどうなるでしょうか。
「自由といってもある一定の範囲内での話です。無制限の自由ではありません。その人の霊的成長と進化から生じる一定の条件によって制約されます。完全な自由選択が許された無制限の自由ではありません」
ーーー本当の意味での自由意志は存在しないわけですか。
「ある限界内での自由意志が存在するということです。その段階での判断に基づいて好きな道が選べます。そしてそれがその人の霊的進歩を妨げもすれば促進もするということです」
ーーー仮にあなたが代わりに選択してあげたら、それがその人の進歩を妨げることになるかも知れないし促進することになるかも知れないわけですね。
「それは有り得ることです。ただ、なかなかうまく説明できないのですが、表向きは単純そうでも、その裏側は、法則の内側に法則があり、そのまた内側に法則があり、そのまた内側にも法則があって、実に複雑なのです。しかし、神の叡智は完璧ですから、絶対に手落ちがないように、隅々までバランスが取れております」
今回の内容は自由意志についてだが、これも何度も言われてきたことだ。その人に応じた自由意志であり、その自由意志により、霊的進歩の妨げにも促進にもなると言われている。好きな道を選ぶことはできるが、それが霊的進歩を促進するとは限らない。妨げになる場合もあるのだ。だからと言って、その自由意志を取り上げてしまえば、ただの操り人形となるとシルバー・バーチ霊は言われている。どう選ぶかが重要であり、その人の行く道が決まるのだ。また最後のお言葉にあまりにも緻密な法則があることを知って、やはり人間には知る術はないのだと思った。すべては神様がよしなにして下さるとの信念を持つ以外にはないと、ここでもその思いが強まった次第である
。
923回目の瞑想
ーーーせっかくの成果をぶち壊しにするような行為も、全体の計画にとっては大して支障を来さないということなのでしょうか。
「とんでもないことをして成果のいくつかをぶち壊しすることはあっても、全部を台無しにするようなことはないということです。人間の行為が及ぼす被害も多寡が知れてるということです。地上のいかなる人物にも、神の意志を完全に台無しにしたり、計画を推進を完全に阻害するほどの損害を及ぼす力はありません」
ーーーということは、この地球上で発生する災害もすべて神の計画の中で起きているということでしょうか。
「人間はその神の計画のワク外で行動することはできないという意味で、そう言えます。絶対に免れることの出来ない因果律というものがあるからです。その冷厳な法則が人間に宿命的な限界というものを設けております。ぶっきらぼうな言い方をすれば、地上の科学者には宇宙全体を全滅させるほどの破壊力は製造できません。そこに限界があります」
今回の内容には安堵の気持ちしかない。どんなに凄い悪の力を持っていたとしても人間の力には限界があるのだ。すべては神様が司っておられるのだから、当然と言えば当然だ。また、この地球で発生する災害は絶対に免れることができない因果律だとも言われている。人間は到底、神様に逆らうことなどできないのだ。ならば、神様の摂理に適う生き方をする以外ないということだ。どれだけ素晴らしい科学者でも、宇宙全体を全滅させるほどの破壊力は製造できないとも言われている。神様にとって、人間のやることなどは大したことではないということだ。このことについても世界の国のトップの方々には周知してもらいたいと強く思う
。
924回目の瞑想
ーーー人間の立場からみると悪に思えるものもまったく悪ではないことがあるものでしょうかーー高い次元から見ればむしろ善と言えることが。
「地上の人間にとって苦しみは悪であり、痛みは歓迎されませんが、実質的には必ずしもそうではありません。苦は楽と同じく神の計画の一部です。苦がなければ楽もなく、暗闇がなければ光明もなく、憎しみがなければ愛もありません。作用と反作用は同じものであると同時に正反対のものです。一つのコインの両面と思えばよろしい。善と悪は共に不可欠のものであると同時に、相対的なものです。
地上には様々な道徳的規範があり、国によって異なります。たった一つの絶対的規範というものはありません。私たち霊にとっての価値基準はただ一つーー魂にどういう影響を及ぼすかということです。魂の成長を促すものは善で、成長を遅らせるものは悪です。そこが大切な点です」
今回の内容は霊的真理の極意と言ってもいいのではないかと思う。苦も楽も神の計画の一部であり、作用と反作用は同じものであると同時に正反対なものだとも言われている。例えは最もわかりやすいコインの両面だと言われているのだ。両面ということは切っても切り離せず、裏表
で1枚ということなのだ。苦であろうと楽であろうとその体験は一緒であるということなのだ。そして霊界での価値基準は魂にどういう影響を与えるかで善と悪が決まるのだと言われる。苦しい体験でもそれが魂の成長につながるものなら善であるが、同じ苦しい体験をしてもその体験によって恨みや意固地になってしまっては悪以外の何ものでもない。また楽な体験でも、魂に何の影響も与えなければ、やはり善とは言えないのだ。その分かれ道となるのは霊的真理を知っているかいないかということが大きく影響するように思う。今回の
シルバー・バーチ霊の言われる内容を理解できれば、苦しみには耐え、暗闇でも希望を持ち、そして憎しみはなくなるように努力していこうと思えるのだと思う。それは唯一善の道だからだ。私自身もそのことを常に肝に銘じて、実行していきたいと思っている。
925回目の瞑想
ーーーあなたは、成長のためのチャンスは平等に与えられるとおっしゃってますが、私はどうも納得できません。魂の本質は同じかも知れませんが、その本質が発揮される能力は必ずしも平等ではありません。同じチャンスから必ずしも同じだけのものを摂取できるとは限りません。能力の程度によって異なったチャンスが与えられるか、それともチャンスは同じでもそれをうまく活用する能力が平等に与えられていないかのいずれかだと思います。
「いえ、私はその考えには同意できません。物質界に生まれてくる人間には神性の種子が宿されております。そうでなかったら生まれて来られません。生命とは霊であり、霊とは生命です。あなたにも花開くべき霊性の種子が宿っております。その開花は、成長を促す可能性をもった環境条件への反応次第で違ってきます。霊性の発達を促すためのチャンスはすべての人間に平等に与えられています。私はすべての人間が同じ霊恪を身につけることになるとは言っておりません。そのチャンスが与えられていると言ったのです。金持ちであるか貧乏であるかは関係ありません。他人のためになることをするのに地位や名声、財産といったこの世的なものは必要ありません」
今回の内容も知ると知らぬでは大きな違いが出て、道を分けることになるではと思う。この世はよく平等ではないと不平等だという不満の声を聞く。けれどもこれもすべては因果律による結果なのだ。過去の精算のために個々に違いがあるのだと思う。だが魂を目覚めさせるチャンスはすべての人間に平等に与えられていると言われている。目覚めるか目覚めないかはやはり各自の反応次第ということになるのだろう。また例え魂に目覚めたとしても、一度に高い霊恪が身につくわけではないのだ。そこまでの自分の霊性の発達度で決まるのだと思う。シルバー・バーチ霊が言われる「すべての人間が同じ霊恪を身につけるわけではない」とはそういう意味なのだと思う。魂を目覚めるためのチャンスはすべての人間に与えられてはいるが、それも自由意志であり、貧富の差も関係ないと言われている。要は与えられたチャンスを活かし、魂が目覚めることで他人のために奉仕する、ただこのことに尽きるのではないかと思う
。
926回目の瞑想
ーーー身体の機能上の不平等はどうでしょうか。
「奇形もしくは脳に異状のある場合のことをおっしゃりたいのでしょうか。それは別に扱わねばならない複雑な問題でして、これには宿業カルマの要素が入ってきます」
ーーーカルマの要素があるということは再生もあるということでしょうか。
「再生はあります。しかし一般に言われている形(機械的輪廻転生)での生まれ変わりではありません。霊界には無数の側面をもった、霊的ダイヤモンドとでもいうべきものがあります。
その側面が全体としての光沢と輝きを増すための体験を求めて地上へやってまいります。これでお分かりのように、地上へ生まれてきたパーソナリティは一個のインディビジュアリティの側面の一つということになります。少しも難しいことではないのですが、人間はそれを勘違いして"私は前世は誰それで、次はまた別の人間に生まれ変わります"などと言います。そういうものではありません。生まれてくるのはダイヤモンド全体に寄与する一つの側面です。その意味での再生はあります。地上で発揮するのは大きなインディビジュアリティのごくごく小さな一部分にすぎません。
かくして皆さんのおっしゃる類魂グループソウルというものがあることになります。つまり霊的親族関係を有する霊の集団が一つの統一体を構成しており、それが全体としての進化を目的として、いろんな時代にいろんな土地に生まれてその体験を持ち帰るわけです」
今回の内容については私達人間とってはなかなか理解し難いように思う。身体上の不具合はやはりカルマに起因しているようだ。簡単には解明できないのだろう。またその上で再生の問題に発展するが、これがまた難しい。シルバー・バーチ霊の説かれる再生は、なかなか想像しにくいように思う。もしダイヤモンドの側面が地上に生まれ出るのだとしたら、身体上の不具合のカルマについてはどう解釈すればいいのだろうか。他の側面が地上に生まれて、良くないことをした結果を引き継ぐということなのだろうか。個々の側面が全体の進化を目的として、いろいろな時代、いろいろな土地に生まれてその体験を持ち帰ると言われている。ということは全体の進化の目的のためなら、その犠牲もいとわないということなのかも知れない。どちらにしても再生の問題は簡単には理解できないのではないかと思う
。
927回目の瞑想
ーーーインディビジュアリティがパーソナリティのひとかけらなのですか。それともその反対ですか。
「パーソナリティがインディビジュアリティのひとかけらです」
ーーーみんなグループソウルに属しているとなると、仲間の良い体験の恩恵をこうむると同時に、良くない体験の悪影響も忍ばねばならないのでしょうか。
「その通りです。それが全体に寄与するのだと思えば、それも有難い体験です」
ーーーということは、私が今苦しい思いをするのは必ずしも私自身のせいではないわけですね?
「そう認識なさることで安らぎをお感じになるのであれば、そうお考えになられて結構です。一つだけ秘密のカギをお教えしましょう。叡智が増えれば増えるほど選択の余地が少なくなるということです。増えた叡智があなたの果たすべき役割を迷うことなく的確に指示します。われわれは自らの意志でこの道を志願した以上は、使命が達成されるまで頑張らねばなりません。あなた方はこの道を自ら選択なさったのです。ですから他に選択の余地はないことになります。
叡智というものは受け入れる用意ができた時にのみ与えられるものです。それが摂理なのです。私は使命を要請され、それを受諾しました。本日皆さんがこの私を招待して下さったということは、高級界のマウスピースとして、その叡智を取り次ぐという仕事において幾らかでも成功していることを意味していると受け取らせていただきます。
肉体的血族関係が終わっても、永遠に消えることのない霊的親族関係というものが存在します。それは永遠に続きます。結びつける絆は物質ではなく霊です。物質は儚い存在ですが、霊は永遠です」
今回の内容は前回の疑問の回答をしていただいたようで、納得だった。やはり全体の進化のためには、有難い体験ということになるようだ。自分自身のせいではなくても、他の側面の体験を引き継ぎ、悪い体験であればその過ちを受け入れて、良い方向へと努力していくことが肝要なのだと思う。また良い体験を引き継げれば、その恩恵も授けられるのだ。霊界へ行けば霊的親族関係と言われる仲間がいる。それは永遠に消えることはないと言われている。その関係の仲間のためになら、どんなこともいとわないということなのだろう。
また、叡智が増えれば増えるほど、選択の余地は少なくなるらしい。増えた叡智が自分の果たすべき役割を迷うことなく的確に指示してくれるのだと言われている。私自身はまだ的確とは言えないが、人の為に少しでも役立ちたいと思っていることだけは確かだ。それをこの世でやり遂げることが使命だと思って、真摯に向き合って行きたいと思う。
今回の内容をもって、大英スピリチュアリスト協会の講演と一問一答を終わりとする。
928回目の瞑想
大きな悩みを抱えて自殺まで考えている男性から投書があり、シルバーバーチ霊は自殺行為をどう観ているかを聞いてみて欲しいとあった。投書が読み上げられるのを聞いてシルバーバーチはこう語った。
「事態を改善するよりも悪化させるようなことは、いかなる魂に対してもお勧めするわけにはまいりません。自殺行為によって地上生活に終止符を打つようなことは絶対にすべきではありません。もしそのようなことをしたら、それ相当の代償を支払わねばならなくなります。それが自然の摂理なのです。地上の誰一人として、何かの手違いのためにその人が克服できないほどの障害に遭遇するようなことは絶対にありません。
むしろ私は、その障害物はその人の性格と霊の発達と成長にとって必要だからこそ与えられているのですと申し上げたいのです。苦しいからといって地上生活にさよならしても、その苦しみが消えるわけではありません。それは有り得ないことです。またそれは摂理に反することです。地上であろうと霊界であろうと、神の公正から逃れることはできません。なぜならば、公正は絶対不変であり、その裁定はそれぞれの魂の成長度に合わせて行われるからです」(明日に続く)
今回の内容から自殺についての二つの投書からの問答を記載する。最初の投書について、シルバー・バーチ霊のお言葉から、いかに自殺行為は人間にとって霊にとって良くないかがわかる。自殺行為にはそれ相当の代償を支払わなければいけないと言われている。それは自然の摂理であるとも言われているのだ。そして昔から言われているように神様は超えられない苦しみは与えないということなのだ。シルバー・バーチ霊はそれはむしろ必要だからこそ与えられているとまで言われている。またこの地上生活から逃げても苦しみはずっと続くので逃げおおせるものではないということだ。それをやはり私達人間は肝に銘じなければいけないのだと思う。
929回目の瞑想
ーーーこの方は現在の自分の置かれている状態が不当だとおっしゃりたいようです。
「分かっております。地上の人間は時として物事を逆さまに見ていることがあります。極めて不完全な知識でもって判断しようとされます。人間にも一定範囲の自由意志が許されており、それを行使していらっしゃいますが、誰一人として自然の摂理から逃れられる人はいません。
物質の世界から霊の世界へ移ったからといって、それだけで魂に課せられた責任から逃れられるものではありません。それだけは明確に断言できます。無限の知識に比べると、われわれは何と知らなすぎることでしょう。が、その僅かな知識しか持たない者でも、今までより少しでも多く知ったら、その知識を有効に活用しなければなりません」
今回の内容に私達人間が霊的なことを知らなければ不完全な知識をもって判断するのは当たり前のことのように思う。自然の摂理というものも霊的真理を知らなければ当然わからないことだろう。これはやはり霊的真理の知識を理解することからに他ならないと思うのだ。その知識のない人が物事を逆さまに見てしまうのは仕方がないことだと思う。人間は霊だという基本を知らない人が多すぎる。よって、この世から霊の世界へ移るということも確信が持てないのだ。そんな状況では正しい判断が出来るはずはない。霊的なことを知る機会があれば、もはや自殺など考えるはずはない。苦しい環境に頭によぎったとしても、実行に移すようなことはしない、いや自殺した死後の状態がわかるので、できないというのが本当のところだろう。やはり霊的真理の普及が如何に大事なことかと痛感する。だが、普及の難しさも痛感しているので、何とも致しがたい思いである。
930回目の瞑想
ーーー自殺者は死後どのような状態に置かれるのでしょうか。
「それは一概には申し上げられません。それまで送ってきた地上人生によって異なるからです。開発された霊的資質によって違ってきます。魂の発達程度によって違ってきます。そして何よりも、その自殺の動機によって違ってきます。
キリスト教では自殺をすべて一つのカテゴリーに入れて罪であるとしておりますが、そういうものではありません。地上生活を自分で勝手に終わらせる権利は誰にもありませんが、自殺に至る事情には酌量すべき要素や環境条件がいろいろとあるものです」
ーーーいずれにせよ自殺行為が為にならないことだけは間違いないでしょう。
「無論です。絶対に為になりません。地上生活を勝手に終わらせることが魂にプラスになったということは絶対にありません。が、だからといって、自殺した者がみな暗黒界の暗闇の中に永遠に閉じ込められるわけではないと申し上げているのです」
今回の内容は本当に得心できる。自殺したからといって、すべて同じではないということだ。特に自分が犠牲になっての自殺は違うのだと思う。どちらにしても、やはり動機が一番重要なのだ。
ただ、自殺は魂にプラスになるということは絶対にないと断言されている。やはり自殺はしてはいけないということだ。今苦しんでいる人たちに一日も早く伝わることを願って止まない。
931回目の瞑想
別の日の交霊会では、親戚の者が自殺をしてしまったという人からの投書が読み上げられた。その最後に「自殺行為は霊的進歩の妨げになるのでしょうか」という質問があった。これに対してシルバーバーチが
「もちろんです」と答えると
ーーー神は耐え切れないほどの苦しみは与えないとおっしゃったことがありますが、自殺に追いやられる人は、やはり耐え切れない苦しみを受けるからではないでしょうか。
「それは違います。説明の順序として、これには例外があることから申し上げましょう。いわゆる精神異常者、あるいは霊に憑依されている場合もあります。が、この問題は今はわきへ置いておきましょう。いずれにせよ、このケースはごく少数です。大多数は私に言わせれば億病者の逃避行為であると言っていよいと思います。果たすべき義務に真正面から取り組むができず、いま自分が考えていること、つまり死んでこの世から消えることがその苦しみから逃れる一番ラクな方法だと考えるわけです。ところが、死んだつもりなのに相変わらず自分がいる。そして逃れたはずの責任と義務の観念が相変わらず自分につきまとう。その精神的錯乱が暗黒のオーラを生み、それが外界との接触を遮断します。その状態から抜け出られないまま何十年も何百年も苦しむ者がいます。しかし、私がいつも言っているように、一番大切なのは動機です。何が動機で自殺したかということです。ままならぬ事情から逃れるための自殺は、今述べた通り、そう思惑通りには行きません。が一方、時たまあるケースとして、動機が利己主義でなく利他主義に発している時、つまり自分がいなくなることが人のためになるという考えに発している時は、たとえそれが思い過ごしであったとしても、先の臆病心から出た自殺とは全く違ってきます。
いずれにせよ、あなたの魂はあなた自身の行為によって処罰を受けます、みんな自分の手で自分の人生を書き綴っているのです。いったん書き記したものは二度と書き換えるわけには行きません。ごまかしは効かないのです。自分で自分を処罰するのです。その法則は絶対であり不変です。
だからこそ私は、あくまで自分に忠実でありなさいと言うのです。いかなる事態も本人が思っているほど暗いものではありません。その気になれば必ず光が見えてきます。魂の奥に潜む勇気が湧き出てきます。責任を全うしようとしたことが評価されて、その分だけ霊界からの援助のチャンスも増えます。背負い切れにないほどの荷は決して負わされません。なぜなら、その荷は自らの悪行がこしらえたものだからです。決して神が"この人間にはこれだけのものを負わせてやろう"と考えて当てがうような、そんないい加減なものではありません。
宇宙の絶対的な法則の働きによって、その人間がその時までに犯した法則違反に応じて、きっちりとその重さと同じ重さの荷を背負うことになるのです。となれば、それだけの荷をこしらえることが出来たのだから、それを取り除くことも出来るのが道理のはずです。つまり悪いこと、あるいは間違ったことをした時のエネルギーを正しく使えば、それを元通りにすることが出来るはずです」
ーー因果律の働きですね。
「そうです。それが全てです」
今回の内容の前半は今まで何度となく説かれてきたことなので、熟知しているつもりだが、後半の背負い切れないほどの荷は決して負わされないという意味についても大いに得心する内容だった。要するに苦しい体験をするのは自分が蒔いたタネを刈り取るためであるが、その犯した法則違反に応じて、その重さと同じ重さの荷を背負うことになると言われているのだ。それはそれだけの荷をこしらえたことが出来たという事は、それを取り除くことも出来るのが道理であるからと。更に悪と善は表裏一体だからこそ、間違ったことをした時のエネルギーを正しく使えば元に戻せるはずだと言われている。もううなずくしかない。もっともなことだとただただ恐れ入るばかりである
。
910回目の瞑想
ーーーなぜ治らない人がいるのでしょうか。
「それはその人が霊的にまだ治る資格がないということです」
ーーー治らない患者はまだ治る資格がないからだとおっしゃいましたが、それだけでは単純すぎるように私には思えるのです。それは悪人はいつまでたっても治らず、善人はいつでも治るということになるからです。
「そんな単純なものではありません。それは皮相な見方です。問題を霊の目で見ていらっしゃらないからです。たとえば苦難は人間から見ればイヤなものでしょうが、私たち霊の立場から見れば実に有難いことです。凶事に出遭うと人間は万事休すと思いますが、私たちの目から見ると、それが新たな人生の始まりであることがあります。
善とか悪とかの用語を物的価値基準に基づいて、あたかも善人という人種、悪人という人種がいるかのような言い方をしてはいけません。私たちの価値基準はあなた方とは必ずしも同じではありません。私は治るためにはそれだけの霊的な資格がなければならないと申し上げているのです。善人とか悪人とかは言っていません。魂が真の自我に目覚めれば治る資格ができたことになります。そのとき治療が功を奏します」
ーーーたとえその資格ができていても、純粋に身体上の理由から治らないこともあるのではないでしょうか。たとえば視神経が完全に破損されて目が見えないという場合です。自然の摂理からすれば、いくら心霊治療でも、まったく新しい視神経をこしらえることはできないと思います。
「今われわれは奇跡の話をしているのではありません」
ーーーおっしゃる通りですが、ただ私は、あなたが"不治"の場合の理由をあまりにも大雑把におっしゃっているように思えたものですから・・・
「私が申し上げているのは、治る可能性のある病気が治らない場合、それはその患者にまだ治るための霊的資格ができていないからだということです」
今回の内容はヒーリングをしていて、常に考えさせられる問題だ。だがシルバー・バーチ霊が言われるように、霊的に治る資格がないということは得心できる。実際に霊的なことには関係なく、ヒーリングに依存している人もいるからだ。不調があればヒーリングしてもらうと言った繰り返しでは、その場限りのことでしかなく、常に不調は起きてしまう。ヒーリングすることによって不調が改善された時に、霊的なことへの思いにつなげることが一番大事なことなのだ。ヒーリングは単に不調を改善させるためのものではない。霊的な思いに馳せるためのものでなければ意味がない。でなければいつまで経っても霊的に治る資格は得られないのだ。ヒーリングによって、魂が真の自我に目覚められるよう、そして霊的に治る資格が得られるように願うのみである
。
911回目の瞑想
ーーーー赤ん坊が両脚とも奇形である場合に、一方の脚は治ったのにもう一方の脚に何の反応も生じないことがあります。なぜでしょうか。
「それぞれの脚にそれぞれの原因があって、同じ治療法では治せないということです。一つ一つの治療法が異なります。それぞれの事情に合わせた治療が行われます。それぞれに特徴があります。こうした問題を地上の皆さんのためにできるだけ平易に申し上げようとすると、とても骨が折れます。他にもいろいろと考慮しなければならない条件があるのです。奥に隠れた原因があってそれに絡んだ霊的摂理が働いており、さらにその奥にも次元の異なる摂理が働いているのです。
心霊治療は見かけほど単純ではないのです。ただ患部を治せばよいというものではありません。評価されるのは魂に関わることです。魂にいかなる影響が及ぶか、治療がいかなる意味をもつことになるか、なぜその患者は心霊治療家のもとに訪れたのか、その患者は魂が目を覚ます霊的進化の段階に到達しているか。
こうしたことは物的尺度では測れないことばかりです。が、心霊治療にはそれらがすべて関わっているのです。なぜなら、治療に携わっている間は生命力そのものを扱っているからです。ということは、宇宙の永遠の創造治動に参加しているということになります。私が治療家の責任の重大性を強調する理由はそこにあります」
ーーーてんかんの原因は何でしょうか。
「脳に障害があって、それが精神による働きかけを正しく受け取れなくしているのです」
ーーー治せるのでしょうか。
「もちろんです。病気はすべて治せます。"不治の病"というものはありません。治してもらえない人がいるだけです」
今回の内容は高度な治療を要する話だと思う。脚の奇形を治せるということは、治療家の霊恪が高くなければできないのではないかと思う。しかもシルバー・バーチ霊の説明の奥の深さにはただただ驚くばかりである。ただそれであっても、患部を治すということよりも、やはり評価されるのは魂に関わることであると言われている。そして魂にどのような影響があるかなどの物的尺度では測れないことを、心霊治療家は関わっていると言われている。それは治療に携わっている間は恐れ多くも生命力そのものを扱っているからだと。そして宇宙の永遠の創造治動に参加していることになると言われている。私自身治療家と言えるほどではないが、端くれとして、責任重大との認識をさせられた。身を引き締めてこれからもヒーリングをさせて頂こうと思う。
私の周りにはてんかんの人はいないが、若い頃に主人と喫茶店いた時のこと。すぐそばで一人でコーヒーを飲んでいた男性がいきなり、倒れられて口から泡のようなものが出ていた。私は突然で初めてのことにオロオロしていたが、主人がすぐに口の中にタオル(だったと思う)を差し入れた。しばらくすると、その方の意識が回復されたという経験がある。また、大学在学中に先輩だった方が、やはりてんかんを持っておられて倒れたことがある。私は人だかりの中に先輩が倒れられているのを見ただけだったが、その時にもなぜてんかんのような状態になる人がいるのだろうかと重い気持ちになったものだ。
てんかんの原因はシルバー・バーチ霊のお言葉で脳に障害があるとのこと。それもやはり因果律ということなのだろう。
今は霊的真理を知り、それぞれ人間には過去からのカルマや因果律などがあることがわかっているので、納得するしかない。だが、病気はすべて治せると言われている。不治の病などはないと。治せる方法はただ一つ魂が目覚めることだ。それ以外に霊的に治る資格を得ることはできないのだ。その時が来ることを祈るしかないのだと思う。
912回目の瞑想
ーーー心霊治療を受ける上で信仰のあるなしは関係ないということは理解しておりますが、患者が邪悪な思念を抱いていると、それが治療を妨げると考えてよろしいでしょうか。
「私は信仰をもつこと自体は反対していません。それが理性を土台としていて、盲目的でなければ結構です。スピリチュアリズムの思想を正しく理解された方なら、手にされた真理は全体のほんの一欠片にすぎないことはご存知と思います。肉体に閉じ込められているあなた方が全真理を手にすることは不可能なことです。霊界へ来ても同じことです。となると、手にした限りの知識を土台とした信仰を持たねばならないことになります。
さて、そうした知識を土台とした理性的信仰を持っていることは大いに結構なことです。そのこと自体は何ら問題はないと思います。それが治療にとって好ましい楽観的な雰囲気をこしらえるからです。霊力は明るく楽しい、愉快な精神状態の時にもっとも有効に作用し、反対にみじめで疑い深く、動揺しやすい心は、霊的雰囲気をかき乱して治療の妨げとなります」
今回の内容には得心以外にはない。盲目的な信仰は真の意味での信仰とは到底思えない。私自身は幼い頃から、神様だけは信じてきた。盲目的とは違い、何があってもその信じる心だけは揺るぎないものだったのは確かだ。またその間、いろいろな体験をしていき、早い時期にシルバー・バーチ霊の霊訓とも出逢うことができた。ただ若い頃に霊訓を読んだ時と今とでは理解度が全く違う。それこそ苛酷な体験をしたことで、霊的真理を求める気持ちが全く違っていたからだと思う。自分から強く求める気持ちがなければ、自分のものにはできないとつくづく実感している。それはまたシルバー・バーチ霊が言われるその時そのタイミングだったのだと思うのだ。これもすべては霊界側に護られてきたからで、霊的方向へと導いて下さったのだと思っている。
今回の内容を読んで、今まで通りの信心を自信をもって、更に強固なものにして行きたいと思った次第である。
913回目の瞑想
ーーー医者は大病にもストレスや仕事上の心配が原因であるものがあると言っております。そうしたケースでは(身体と精神と霊の)不調和はどの程度まで関わっているのでしょうか。
「あなたがおっしゃったことは私が別の言葉で言っているのと同じことです。あなたは仕事上の心配と呼んでおられますが、それは私の言う不調和状態のことです。精神と肉体と霊とが正しい連繫関係にあれば、仕事上の心配も、その他の心配も生じません。心配する魂はすでに調和を欠いているのです。霊的実在についての知識を手にした者は心配をしてはなりません。取越苦労は陰湿な勢力です。進化した魂には縁のないものです。あなたはそれを仕事上の心配と呼び、私は不調和状態と呼んでいるのです。自分が永遠の霊的存在であり物質界には何一つ怖いものはないと悟ったら、心配のタネはなくなります」
今回の内容はいつもながら、シルバー・バーチ霊のお答えには頭が下がる。ただ私達人間は心配や不安という感情をどうしても追いやることができない。そしてそれはすでに調和を欠いているのだと言われている。精神と肉体と霊とが正しい連繫関係にあるということが、如何に難しいかを逆に感じてしまう。正しい連繫関係にあれば、心配事は生じないと断言されているのだ。心配の念があるうちは、連繫関係が正しくないとの証になってしまう。霊的実在についての知識を手にした者は心配してはいけないと言われているが、そう簡単にそのような胸中になれるのなら、どれだけいいかは自分がよく知っている。残念だが、まだまだ進化した魂にはなれていない。頭では心配する必要はないと思いながらも、完全に心配の念がなくなっているわけではない。早く心配とは縁のないものとなりたいものである
。
914回目の瞑想
ーーーオーラを見る能力のない治療家は、治療がうまく行っていることをどうやって知れば良いのでしょうか。
「治療家に患者のオーラが見えるか否かは問題ではありません。症状の診断ができるか否かも問題ではありません。そういうことに拘ってはいけません。要は霊が使いやすい状態になることです。道具としてなるべく完全になることを心がけることです。完全な道具としてマイナスの要素となる人間的弱点を極力排除しなくてはなりません。そう努力することで霊力が豊富に流れるようになります。背後霊団との協調関係を決定づけるのは治療家の日常生活です」
今回の内容は私は考えたこともなかったことだった。オーラも見ることができないし、治療がうまく行っているかどうかも、相手の方が言われなければわからない。けれど私は結果は神様にお任せしているので、後を追うようなことはしなくていいと思っていた。なので今回のシルバー・バーチ霊のお言葉は本当に有難かった。ただただ神様の道具としてのみ、使って頂けるようにとしか考えていない。それでいいと確信が持てた。そして最後の背後霊団との協調関係を決定づけるのは日常生活だと言われていることに、身の引き締まる思いになった。心して行きたいと思う。
また、今朝の瞑想時にご依頼のヒーリングをさせてもらっていたが、こんなお言葉が浮かんだ。
「命は神が司っておられる。全てお任せせよ」と
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915回目の瞑想
ーーーサークル活動に参加できる治療家は開発する上で勉強になりますが、そういう機会に恵まれない人のために何かアドバイスをいただけないでしょうか。それと、交霊会に出席することは治療家にとって不可欠でしょうか。
「あとのご質問からお答えしますと、これにはきっぱりと"ノー"と申し上げます。霊の能力はあくまで霊の能力です。それを授かって生まれてきたのであり、授かった以上はそれを発達させる責任があります。ピアニストとしての才能をもって生まれた人は練習と鍛錬によってそれを発達させなければならないのと同じです。
では治癒能力はどうやって発達させるか。その答えはサークル活動に参加することではありません。それもプラスにはなります。心に宿す動機も発達を促します。日常生活の生き方によっても発達します。可能な限りの純粋性と完全性を目標とした心掛けによっても発達します。できるだけ良くしてあげたいという願望を大きくしていくことによっても発達します。
自我を発達させる唯一の方法は自我を忘れることです。他人のことを思えば思うほど、それだけ自分が立派になります。よい治療家になる方法を教えてくれる書物はありません。ひたすら他人のために役立ちたいと願い、こう反省なさることですーー"神は自分に治病能力を与えて下さったが、果たしてそれに相応しい生き方をしているだろうか"と。これを原理として生きていれば、治病能力は自然に力を増し質を高めていきます」
今回の内容は私にとってとてもためになるものだ。日々ヒーリングの相手の方に対しては良くなってもらいたいという気持ちが募る。だが、なかなか思うようにはいかない。相手の方に少しでも希望が持てるような結果になった時の喜びは一入だ。だが反対にほとんど反応がなく、変わらない状態にはやはり少なくとも気落ちする。けれど、これはする側とされる側両方の問題でもあるので、何とも致しがたい。
実は我が家の愛犬黒プーのことなのだが、今年11歳になるというのに、元気印でご飯の準備をしていると必ずあちこち走り回ったり、すぐ上のロンチーにちょっかいをかけたりとジッとしていない。5日も前のことになるが、夕飯時も走り回っていて、その勢いがいつもよりも凄かった。前に脱臼してひどい痛い思いもしているので、いい加減にしなさいと言おうとしたその瞬間、私の後ろで何かにぶつかる凄い音が・・・すぐさま後ろを振り返ると黒プーが左前足を上げていて、下につけない状態になってしまっていた。(あ〜やっちゃった〜!)とすぐに抱き上げ、前足を触ろうとするが触らせず、痛いようだった。しばらく様子を見て床に下ろすと、完全にびっこ引いている。そこで寝るまでの間、直接ヒーリングしてみた。最初は痛いのかなかなか寝る姿勢が決まらないようだったが、やがて寝入ってしまっていた。数時間ヒーリングをしていたが床に下ろすと前足を上げたままで、歩く時にはやはりびっこだった。ヒーリングしてもダメなのかと思いながら、今度は私が寝入る直前まで、遠隔ヒーリングをし続けた。そして翌朝、瞑想時にも黒プーに向けて遠隔ヒーリングをする。終わって部屋を出ると、主人が「もうほとんど普通に歩いているよ」と。「えっ?!」黒プーを見ると、昨晩のあの痛々しい感じが全くないかのように歩いている。昨晩のままの状態だったら、かかりつけ医に朝一番で診てもらおうと思っていただけに、嬉しさがこみ上げてきた。ヒーリングが功を奏すと本当に嬉しいし、感謝しかない。人間でも動物でも良くなってくれることはヒーリングをする者にとっては紛れものない喜びなのだ。
916回目の瞑想
ーーー私が遠隔治療を依頼されたケースが三つないし四つあるのですが、不幸にして成功しませんでした。少なくとも私はそう考えております。いずれの患者もそのまま他界されからです。
「それはもしかしたら最高の成功だったと言えるかも知れませんよ。他界に際して何らかの力になることができたら、それは治療として成功といえます。治療の目的は地上での寿命を引き延ばすことはでありません。目的は霊との接触です。それが一番大切です。その一番大切なことを第一の目標になさい。大切なのは霊です。霊が正常になれば身体も正常になります」
今回の内容はとても考えさせられる。治療をする側にとっては、相手の方が他界してしまうということはとても成功とは思えないことだからだ。だが、シルバー・バーチ霊は最高の成功だったと言えるかも知れないと言われている。もちろん、寿命を引き延ばすことが目的ではないことはわかっていても、やはりまだまだ人が亡くなることに関しては、悲しい思いになってしまうのは仕方がないのではないだろうか。霊の目で見れば正しいことだとわかっていても人の死ついては、それが成功だったとはとても思えないと思う。ただ、肉体から解き放たれた状態を垣間見ることができれば、その思いも払拭できるのだと思うが、今の私にはまだ見ることができないので、払拭は難しい。
917回目の瞑想
ーーー心霊治療によって回復した人が間もなく他界することがあります。なぜでしょうか。
「あなた方はなぜ死ぬということをそんなに悪いことのように考えるのでしょう。私たちの世界では仲間が地上へ誕生して行った時に泣くことがあります。地上を去ってこちらへ来ると手を取り合って喜びます。地球を離れることがなぜ悲劇なのでしょう」
今回の内容はやはり肉体を持った人間である私たちと霊界とでは、雲泥の差があると感じる。それは亡くなった人を見ることができないということに尽きると思う。亡くなった人と常にコンタクトが取れれば、悲しむ必要も泣く必要もないのだ。それこそ悲劇であるわけがない。けれど現実は亡くなった人とコンタクト取れる人というのはある一部の霊能者と言われる人や霊能力のある人に限られる。しかも偽霊能者などもいるので、益々疑心暗鬼になるのだ。霊界での様子を亡くなった人から聞くことができれば安心できるし、更に自分が行くことになる世界でもあるのだから、尚更だ。神様はなぜそのようにされなかったのだろうかと思う。霊界が現実として存在するとわかれば、今シルバー・バーチ霊が語っておられることの基本は少なくとも、人類みな共有できることになるのではないだろうか。今のこの世を見る限り、多くの人は人間が霊であることなど知るよしもない。基本中の基本を知らないままではスタート地点にも立てないのだ。そのことがどうしても私には解せない。これもやはり秘義なのであろうか。霊界に行くまでは分からないのかも知れない
。
918回目の瞑想
ーーーわずか数分で治してしまう治療家がいると知って驚いているのですが、治療家によっては二時間とか数週間、あるいは数ヶ月、時には何年もかかって、それでも良くならないというケースがあります。なぜでしょうか。
「果を見て木を知るべしです。大切なのは結果です(※)。治療家は背後霊団との最高の調和関係を目指して日常生活を律すべきです。そうすれば必ず良い成果が得られます。あなた方は身を正すことだけを考えてください。あとは私たちがやります。援助の要請が拒否されることは決してありません。霊力を出し惜しむようなことは絶対に致しません。私たちは常にお役に立つための努力を重ねております。人を選り好みしません。すべての人を歓迎します。霊力はすべての人に恩恵をもたらすべく存在しているのです。私たちが欲しいのは、喜んでその霊力の通路となってくれる道具です」
(※私が親しくしていた治療家の一人のM・H・テスター氏もこの会員でたぶんこの日の会合にも出席していたものと推察しているが、そのテスター氏が" 奇跡的治療というと人は一発で治る場合を想像するが、たとえ半年かかろうと一年かかろうと、医学的に不治とされたものが治れば、それも立派に奇跡である"と述べているーー訳者)
今回の内容を読んで、すぐにハリー・エドワーズ氏が浮かんだ。その成果にシルバー・バーチ霊も激励のお言葉をかけておられる。やはり偉大なお方だったと思う。それだけのお力があるということはやはり霊恪が高いからに他ならない。また訳者の方の親しくされていた治療家の言われているように、どれだけ時間がかかろうとも不治の病が治るということは素晴らしいことだ。そしてそれができるのはシルバー・バーチ霊の言われるような人を選り好みしないということに尽きると思う。これは簡単なようで、実に難しいことだ。だが、そのような心境に近づけるように努力しつつ、霊力の通路となるべく道具として貢献して行きたいと思う。
919回目の瞑想
ーーー精神に異状のある方は本当に気の毒でならないのですが、治療家として無力であることを痛感させられています。
「精神上の病も治すことができます。身を私たちにあずけるーーあなたに要請されるのはそれだけです。ご自分を通して霊力が流れるようにするのです。じかに治療できない人には遠隔治療を施してあげなさい。霊的治療はもはや地上に根づいております。退散することは決してありません。あなたもあなたなりの貢献ができます。しかも、とても重要な役割です。忘れないでいただきたいのは、無限の進化の計画の中において、あなたも神聖なる通路として神のお役に立っているということです。光栄この上ない仕事です。が、それだけに責任もおもいということです」
今回の内容は治療家にとっての極意だと思う。霊界側にすべてをお任せするということだけでいいと言われている。私自身も自分から霊力が流れているのははっきりとわかるので、その霊力ができるだけたくさんお相手の方に流れるようにお祈りもしている。私の場合はほとんどが遠隔治療だ。後半のお言葉には身の引き締まる思いだった。神様のお役に立っていると思うだけで、心が満たされる。聖なる通路としてこれからも努力し、邁進して行きたいと強く思った次第である。
920回目の瞑想
今回から大英スピリチュアリスト協会で開催された講演及び、一問一答を
抜粋して記載していく。
初めに冒頭のシルバー・バーチ霊のお言葉からの抜粋をさせて頂いた。
「肉体に閉じ込められているが故の厄介な問題の一つとして、正しい焦点を定めることが難しいことがあげられます。つまり霊力というものが適切な通路を得た時の影響力がいかに実感あふれるものであるかについて、共通の認識が得られないことです。
また、皆さんのように霊的知識を手にされた方が悩んだり、心配の念の侵入を許して取越苦労をするようではいけません。霊的知識があるからこそ、いかなる心配、いかなる悩み、いかなる不安にも、皆さんの精神的・身体的・霊的環境の中への侵入を許してはならないのです。心配、悩み、不安ーーこうしたものは援助の通路そのものを塞いでしまいます。
哀悼者の悲しみの念が壁となって他界した霊を近づけなくするように、気苦労のバイブレーションに取り囲まれてしまうと精神的・霊的雰囲気が乱されて、ますます霊を近づきにくくします。皆さんは愛に動かされた霊によって導かれているのです。それは地上の血縁や愛情あるいは友情によって結ばれている場合もありますが、それは別に、かつて皆さんと同じ道を歩み、今なお皆さんを通してその仕事に関心を持ち続けている霊である場合もあります。そうした霊のさらに背後には無私の博愛心に燃える高級霊の大軍が控えているのです。
美と豊かさと荘厳さと威厳と光沢と気高さと光輝とにあふれた霊力そのものには際限というものはありません。ただ、人間がこしらえる条件によって制約されるのみです。どうか信念に裏打ちされた、とらわれのない通路、安易に信じるのでなく、これまでに得た知識を基盤とした信念ーー進化の現段階では無限の知識を手にすることが不可能である以上どうしても必要となる信念に燃えた通路であってほしいのです。
知識を基盤とした信念に燃えてください。皆さん方の一人一人が霊の導きによって今日まで苦難と危険と困難を乗り切ってこれたのです。振り返ってごらんになれば、その導きの跡が読み取れるはずです。そこで、人間的煩悩ゆえに時には背後霊を手こずらせることはあっても、これほどのことをしてくださった背後霊が自分を見放すはずはないとの信念に燃えなくてはいけません」
今回の内容はただただ肝に銘じたいと思うことばかりだ。確かに霊力の偉大さは真の意味では実感としてわかってはいないと思う。それが肉体に閉じ込められているということなのであろう。
更に霊的知識を手にした人は、いかなる心配、いかなる悩み、いかなる不安も持ってはいけないと言われている。それは援助の通路そのものを塞いでしまうのだと。大切な人を亡くした時に人は嘆き悲しむ。それは一種の壁を作ってしまい、その大切な人との間を遮断してしまうのと同じなのだ。ただそのことが頭でわかっていても、やはり涙は出るだろうし、悲しい思いになることを止めることはできない。霊界で生きていると信じていても、この世で生きていたようにはできないからだ。見えないし、聞こえないし、触ることもできない。けれどそれはみな自分の問題なのだ。他界した大切な人が自由になり、充実した日々を過ごしているのならば、泣く必要も悲しむ必要もない。シルバー・バーチ霊が言われるように、ただただ自分を哀れんでいるだけということになる。真実を知り実感することができれば、死は悲しむことでないことは明白なのだ。更にはその大切な人が自分を導いてくれる場合さえあるのだから。
シルバー・バーチ霊の言われる知識を基盤にした信念、これこそが最も大事なことなのだと思う。私自身は昔から信念だけは持っていた。なので、何度も記してきたが、護られてきたことだけは実感しているし、信じている。これだけは絶対に揺るがない。そして知識も今は少しずつだが、手にできてきたと思う。背後霊の方々が見捨てるわけがないとの信念をもって、今後も日々努力して行き、本当の意味での霊力の偉大さを理解できる通路となるよう、励んで行きたいと強く思った次第である
。
899回目の瞑想
霊言の愛読者の一人から
ーーースピリチュアリストもキリスト教徒と同じようにイエスを記念して"最後の晩餐"の儀式を行うべきでしょうか。
という質問が届けられ、
これに対してシルバーバーチがこう答えた。
「そういう儀式セレモニーを催すことによって身体的に、精神的に、あるいは霊的に何らかの満足が得られるという人には、催させてあげればよろしい。我々は最大限の寛容的態度で臨むべきであると思います。が、私自身はそういうセレモニーに参加したいという気持ちは毛頭ありません。そんなことをしたからといってイエスは少しも有難いとは思われません。私にとっても何の益にもなりません。否、霊的知識の理解によってそういう教義上の呪縛から解放された数知れない人々にとっても、それは何の益も価値もありません。
イエスに対する最大の貢献はイエスを模範と仰ぐ人々がその教えの通りに生きることです。他人のために自分ができるだけ役に立つような生活を送ることです。内在する霊的能力を開発して、悲しむ人々を慰め、病の人を癒やし、懐疑と当惑の念に苦しめられている人々に確信を与え、助けを必要としている人すべてに手を差しのべてあげることです。
儀式よりも生活の方が大切です。宗教とは儀式ではありません。人のために役立つことをすることです。本末を転倒してはいけません。"聖なる書"と呼ばれている書物から活字のすべてを抹消しても構いません。賛美歌の本から"聖なる歌"を全部削除しても構いません。儀式という儀式を全部欠席なさっても構いません。それでもなおあなたは、気高い奉仕の生活を送れば立派に"宗教的"であり得るのです。そういう生活でこそ内部の霊性が正しく発揮されるからです。
私は皆さんの関心を儀式へ向けさせたくはありません。大切なのは形式ではなく生活そのものです。生活の中で何を為すかです。どういう行いをするかです。"最後の晩餐"の儀式がイエスの時代よりも更に遡る太古にも先例のある由緒ある儀式であるという事実も、それとは全く無関係です」
別の日の交霊会でも同じ話題を持ち出されてーー
「他人ひとのためになることをするーーこれがいちばん大切です。私の意見は単純明快です。宗教には"古い"ということだけで引き継がれてきたものが多すぎます。その大半が宗教の本質とは何の関係もないものばかりだといういうことです。
私にとって宗教とは崇拝することではありません。祈ることでもありません。審議会において人間の頭脳が考え出した形式的セレモニーでもありません。私はセレモニーには興味はありません。それ自体は無くてはならないものではないからです。しかし、いつも言っておりますように、もしもセレモニーとか慣例行事を無くてはならぬものと真剣に思い込んでいる人がいれば、無理してそれを止めさせる理由ありません。
私自身としては、幼児期を過ぎれば誰しも幼稚な遊び道具は片付けるものだという考えです。形式を超えた霊と霊との直接の交渉、地上的障害を超越して次元を異にする二つの魂が波長を合わせることによって得られる交霊関係ーーこれが最高の交霊現象です。儀式に拘った方法は迷信を助長します。そういう形式はイエスの教えとは何の関係もありません」
今回の内容は儀式についての質問に対してのお答えであるが、実に的を得ていると思う。私も常々、儀式には何の益もないと思っていたので、確信を得た思いだ。特に今の有名な宗教団体は儀式ばかりを重んじているように思う。それだけで宗教とは名ばかりの偽物だということがわかる。宗教とは儀式でないと断言され、それよりも日々の生活の中で何を為すかだと言われている。その為すべきことは、他人のために自分ができるだけ役に立つような生活を送ることだと言われ、内在する霊的能力を開発する努力をし、悲しむ人々を慰め、病の人を癒やし、懐疑と当惑の念に苦しめられている人々に確信を与え、助けを必要としている人すべてに手を差しのべてあげることだと言われている。気高い奉仕の生活を送れば立派に"宗教的"であり、そういう生活でこそ内部の霊性が正しく発揮されると言われているのだ。
また儀式などに重きをおいている人たちについて、最高の例を出されていると思う。"幼児期を過ぎれば誰しも幼稚な遊び道具は片付けるもの"だと。大きく頷いてしまった。
そして最後の文に私はびっくりする。今朝心から懇願していたことだったからだ。地上的障害を超越して次元を異にする二つの魂が波長を合わせることによって得られる交霊関係ーーこれが最高の交霊現象です。私の願いはこれしかないと言っても過言ではないくらい欲している
。
900回目の瞑想
ーーーー支配霊や指導霊の中にはなぜ地上でのクリスチャンだった人が少ないのでしょうか。
「少ないわけではありません。知名度が低かったーーただそれだけのことです。地上の知名度の高い人も実はただの代弁者マウスピースにすぎないことをご存知ないようです。つまり彼らの背後では有志の霊が霊団やグループを結成して仕事を援助してくれているということです。その中にはかつてのクリスチャンだった人も大勢います。もっとも、地上で何であったかは別に問題ではありませんが・・・」
今回の内容は関心が元々薄いので、事実を知るといった感じだった。まあ、クリスチャンであろうが、どこかの教祖様であろうが、問題は霊恪なのだ。シルバー・バーチ霊が常におっしゃっておられる人に対して役立つ行為ができたかどうか、それですべては決まるのだ。その気高い奉仕の生活ができる人だからこそ、背後の高級霊団にも援助して貰えるということなのだ。類友の法則ということだ。つまりは自分自身を神様の摂理に適うように日々の生活の中で律して行くということこれに尽きるのだ。もちろん、簡単なことではない。だからこそ価値があると言われている。少しでも役立てるように努力していくことが肝要なのだと思う
。
901回目の瞑想
ーーーキリスト教の教えも無数の人々の人生を変え、親切心や寛容心を培ってきていると思うのです。そういう教えを簡単に捨てさせることが出来るものでしょうか。
「私は何々の教えという名称には関心がありません。私が感心をもつのは真理のみです。間違った教えでもそれが何らかの救いになった人がいるのだからとか、あえてその間違いを指摘することは混乱を巻き起こすからとかの理由で存続させるべきであるとおっしゃっても、私には聞こえません。一方にはその間違った教えによって傷ついた人、無知の牢に閉じ込められている人、永遠の苦悶と断罪の脅迫によって悲惨な生活を強いられている人が無数にいるからです。
僅かばかり立派そうに見える所だけを抜き出して"ご覧なさい。まんざらでもないじゃありませんか"と言ってそれを全体の見本のように見せびらかすのは、公正とは言えません。
霊的摂理についてこれだけは真実だと確信したもの、及び、それがどのように働くかについての知識を広めることが私の関心事なのです。あなたような賢明な方たちがその知識をもとにして生き方を工夫していただきたいのです。そうすることが、個人的にも国家的にも国際的にも、永続性のある生活機構を築く所以となりましょう。
私は過去というものをただ単に古いものだからとか、威光に包まれているからというだけの理由で崇拝することは致しません。あなたは過去からあなたにとって筋が通っていると思えるもの、真実と思えるもの、役に立つと思えるもの、心を鼓舞し満足を与えてくれるものを選び出す権利があります。と同時に、非道徳的で不公正で不合理でしっくりこず、役に立ちそうにないものを拒否する権利もあります。ただしその際に、子供のように純心になり切って、単純な真理を素直に見て素直に受け入れられるようでないといけません」
今回の内容もとても深いと思う。私自身も若い頃にいろいろな霊的な本を読んできた。その中でも、腑に落ちるもの、そうでないもの、また知らない世界を教えて貰えたのもそのような本だった。そしてシルバー・バーチ霊が言われるように、自分で真実と思ったものやこれだと思うものを心に留めてきたつもりだ。その中でも群を抜いていたのはやはりシルバー・バーチ霊の霊訓だ。しかもその時々によって、同じ内容なのに全く意味がわからなかったり、逆に大いに得心できたりと、自分の理解力が一定していなかったことを実感している。それはやはりいろいろな体験をしてきたかしていなかったかの違いのように思う。またこれはどんな教えも自分の許容範囲で変わるということなのだとも思う。シルバー・バーチ霊の最後のお言葉が、とても大切なことを教えて下さっている。純真な心で単純な真理(単純であっても難しいが)を素直に受け入れる、っということなのだ。だが、これも心が綺麗でなければ難しいように思う。すべては簡単なようで実は難しい、だからこそ、みな右往左往するのだ。簡単に受け入れることができるのならば、素晴らしい人間ばかりになっているはずだ。けれど、それを克服するために人生があるのだと思う。
902回目の瞑想
いわゆる"聖痕スティグマ"について問われてーー
(聖痕とは、カトリックでキリストが磔刑となった際についたとされる傷が信者らの身体に現れるという超自然的現象)
「人間の精神には強力な潜在能力が宿されており、ある一定の信仰や精神状態が維持されると、身体にその反応が出ることがあります。精神は物質より強力です。そもそも物質は精神の低級な表現形態だからです。精神の働きによっ物質が自我の表現器官として形成されたのです。精神の方が支配者なのです。精神は王様であり支配者です。ですから、もしもあなたがキリストの磔刑の物語に精神を集中し、それを長期間に渡って強力に維持したら、あなたの身体に十字架のスティグマが現れることも十分可能です」
"大霊の愛"と"己れを愛するごとくに隣人を愛する"という言葉の解釈について問われてーー
「私だったら二つとも簡明にこう解釈します。すなわち自分を忘れて奉仕の生活に徹し、転んだ人を起こしてあげ、不正を駆逐し、自らの生活ぶりによって神性を受け継ぐ者としてふさわしい人物であることを証明すべく努力する、ということです」
今回の内容は冒頭の質問「聖痕せいこん」という意味がわからなかったので、調べてみると驚きだった。そんなことがあったとは今まで知らなかった。そしてシルバー・バーチ霊のお答えを読んで事実だということに更に驚きであった。これは信者でなくてもイエス様の磔刑に精神を集中し、長期間強力に維持できたら、身体に十字架のスティグマが現れるということなのだろうか。とはいえ、長期間強力に精神を集中させることなど普通はできないだろう。またそこまでの集中力があるのなら、もっと身になることに使った方がいいようにも思う。でも、今回はとても勉強になった。
最後の大霊の愛と己れを愛するごとくに隣人を愛するとは同じ解釈だ。二つともシルバー・バーチ霊が言われる自分を忘れて奉仕に徹し、自らの生活を律して、神性を受ける者としてふさわしい人物になるよう努力する、簡単なようで実に難しいことではあるが、目標にしたいと思っている。これをもってイエス様のことは一応終わりとする。
903回目の瞑想
シルバー・バーチ霊は永い間、ホームサークルの交霊会を中心に語り続けて来られたようだが、三つのスピリチュアリストの団体からの招待に応じて、それぞれの本拠地で講演と一問一答を行ったようだ。一つはコペンハーゲンで開催された国際スピリチュアリスト連名の総会において、二つ目は英国心霊治療家連盟において、三つ目は大英スピリチュアリスト協会において、それぞれ評議会員を前にして行われたようだ。
大事なことが網羅されているので、抜粋して記載して行きたいと思う。
私自身がヒーリングをしていることもあり、二つ目の英国心霊治療家連盟からの抜粋をして行きたいと思う。
冒頭はシルバー・バーチ霊のお言葉から始まる。
「心霊治療の目的はいたって単純です。魂の琴線に触れるということです。身体は癒えても魂が目覚めなかったら、その治療は失敗だったことになります。たとえ身体は治らなくても魂に何か触れるものがあれば、その治療は成功したことになります。ですから、患者に身体上の好転が見られなくても少しも落胆することはありません。むしろ、身体上の病状は改善したのに、その患者が霊的な実在に何の関心を見せなかった時こそ落胆すべきです。それが病気が治るということの背後に秘められた究極の目的だからです。
霊界にあっても私たちは一丸となって、地上の各地に拠点をもつ霊力が、受け入れる用意の出来ている者に間違いなく届けられるように地固めをしております。目指す目標は必須の要素すなわち自分とは一体何者なのか、何の目的でこの地上に存在しているのかについての自覚を植えつけることです。簡単に言えば、自分の霊的宿命を成就するために自分の霊的起源を知ってほしいということです。
治病能力は霊的身体のみが有する霊的能力の一つです。霊の目で見る霊視能力、霊の耳で聞く霊聴能力と同じです。ですから、治療家としての仕事をするには霊力のお世話にならねばなりません。
受け入れる能力をお持ちのあなた方に出来ることは、その能力をさらに発達させること、つまり受容能力を増し波長を高めることだけです。霊力そのものは無限に存在します。それをどれだけ受け入れるかは、あなた方自身の進化と発達の程度によって決まるのです。あなた方を通じて流れる霊力の限界はその受容能力によって決まるのです。簡単なことなのです。
あなた方の受容能力が増せば、それだけ多くの霊力があなた方を通して流れ込み、それだけ大きな成果が得られるということです。
流入する霊力の分量に限界というものはありません。唯一それに制限を加えているのはあなた方治療家の霊的発達段階であり、それが、どれだけの霊力を受け入れるかを決定づけます。
この聖なる力、神の威力、大霊、生命力、どう呼ばれても結構ですが、それがあなた方を通路として流れるのは、あなた方に受容能力があるからです。それを患者へ届けてあげなければならないわけです。
人間の病気はサイコソマティック、つまり精神と霊に原因があってそれが身体に表れております。心配ばかりしていると胃潰瘍になります。が、潰瘍部分を切除すれば心配しなくなるわけではありません。ですから心配しないような生き方を教えてあげないといけません。
病気の大半は精神と霊から生じております。いわゆる人身事故でさえ精神並びに霊的原因から発生していることがあるのです。これは皆さんにとってはとても理解しがたい難題であろうかと思いますが、では治療家としてどうすべきか。
患者の意識の中枢である霊に注がれる霊力を、治療霊団から受け取るのが治療家の仕事です。言わばバッテリーです。枯渇している生命力を充電してあげる通路です。それが障害物を取り除くのです。それがバランスを取り戻させるのです。リズムが整い、調和よく機能するようになるのです。その時治療が功を奏したことになります。霊力が魂まで及ぶからです。ここが大切な点です。患部に置いた手が治しているのではありません。手を置くことは接触のための手段の一つにすぎません。
治療家の霊的発達の程度いかんによっては、それが必要である場合もあれば必要でない場合もあります。肝心なのは魂まで及ぶということです。魂にカツを入れて居眠りの状態から目を覚まさせ、自我の発見という本来の目的を意識させるのです。それさえうまく行けば、身体にある自然治癒力が機能を発揮して健康状態を取り戻します。その時はじめて治療家は、大霊すなわち神の通路としてその霊力を受け入れ、それが自分を通過して患者の魂の中の神を呼び覚まし、はじめて真の自我を意識させるという機能を見事に果たしたことになります。
心霊治療家というのはそういうものなのです。あなた方治療家の責任は極めて重大です。真理を知るということは、それに伴って責任というものも付加されるのです。神聖な才能を授かるということは、それを本来の神の意志にそって使用するという責任が伴います。
心霊的サイキックな能力と霊的スピリチュアルな能力とは違います。心霊治療家にもサイキック・ヒーラーとスピリチュアル・ヒーラーとがあるわけです。後者の場合は生活態度を可能な限り理想に近づける努力をしなければなりません。能力があっても、それをどこまで開発するかは治療家自身の責任です。それをいかなる目的に使用するかについても責任があります。なぜなら、その能力を授かったということは神の使節の一人であることを意味するからです。これは大変責任の重い仕事です。それを汚すようなことがあってはなりません。傷つけてはなりません。不名誉となるようなことをしてはなりません。腐敗させてはなりません。間違った動機から使用してはならないということです。ただひたすら自分を使っていただくという気持ちで、可能な限り理想を目指して努力していればよいのです」
今回の内容はやはり、私にとってとてもためになった。感動すら覚えたのだ。最近ヒーリングをする機会が増えている。なので今回のシルバー・バーチ霊のお言葉を肝に銘じたいと思う。もちろん、私のような者はまだまだ治療家というにはほど遠いが、それでも病気で苦しんでいる人や、苛酷な状況にある人達のお役に立ちたいと心から願っている。ただ、魂まで届いて、目覚めさせるというのは簡単ではないことを感じている。病気が治った場合や、治らなくても快方に向かう場合などは、その状態に喜ばれて終わるということがほとんどなのだ。それはシルバー・バーチ霊が言われる落胆するケースが多いということだ。だからといって、無理強いはできない。それにはやはり施術する側にも問題があるということなのだろう。まだまだ未熟ということなのだと思う。一人でも多くの方に魂が目覚められるようにとただただお祈りする以外に今はない。私自身に流れる霊力が多くなれば、施術される方の魂にまで届くのかも知れない。私自身の霊的発達段階を上げるためにも、今は精進して行く以外に方法はないのだと思う。
今回の内容で、人身事故でさえ精神並び霊的原因から発生していることもあると知って驚きだった。やはり偶然の事故ということもなく、すべては必然ということに尽きるのだと改めて思った。
今朝の瞑想時に今回の内容に付随しているこんな言葉が浮かんだ。
「この世に生きている人々は存在意義を忘れている。それを思い出させることも治療家の役目である」と。
シルバー・バーチ霊のお言葉同様に、今回のこのお言葉にヒーリングの力と施術する責任を強く感じた次第である
。
明日からは一問一答を記載して行く。
904回目の瞑想
ーーー霊力がそちらで準備される過程を教えていただけませんか。患者の特殊な症状に応じて調合される治癒力です。
「とても説明が困難です。非物質的なエネルギーを表現する適切な用語が見当たらないのです。こう理解してください。霊力とは生命力であり、生命の素材そのものであること、活力であり無限に存在すること、可変性があり、無限の形態をとることができ、無限の置きかえと組み合わせが可能である、ということです。
こちらの世界にはさまざまな程度の知識と経験と理解力をもつ霊が控えています。地上の化学者、科学者に相当する霊もいます。この生命力、霊のエネルギーのさまざまな性質を、あなたが使用された用語で言えば、特殊な症状に合わせて"調合"するのです。これはなかなかよい表現です。通路である治療家を通じて可能な限り症状にあった調合をする研究を絶えず重ねております。
これ以上の説明はできそうにありません。治療家のもとを訪れる患者によって、一人一人、治療法が異なります。患者のオーラも大変参考になります。オーラには病気の根本原理である霊的並びに精神的状態が正直に表れているからです。それによって調合の仕方を考えます」
今回の一問一答の内容はやはり高度な質問だと思う。シルバー・バーチ霊も説明が困難だと言われている。霊界のことを言語で説明するのは至難の業のようだ。だが霊力についての説明にはただただ脱帽だ。霊力の凄さを改めて認識させられ、感動してしまった。いかようにもどのようにもできる魔法の様なものだということだ。またオーラについても驚かされる。オーラには病気の根本原理である霊的なことや精神的状態が正直に表れると言われている。それを霊界から見て一人一人に合った調合をされているということなのだ。素晴らしいの一言だ。すべては霊界側にお任せして、通路としてのお役目のみに徹すればよいということに確信し得心する。
905回目の瞑想
ーーーそれには霊界の担当医たちの精神的メンタルな努力は要するのでしょうか。
「(人間が考える意味での)メンタルという用語は不適切です。実体のある作業だからです。実際に混合するのです。こちらの世界にもあなた方のいう化学物質に相当する霊的素材があります。もちろん精神マインドも使用します。霊界では精神がすべてをこしらえる上での実体のある媒体だからです」
今回の内容も実感するのは難しい。それは私達は霊力と言われても実体としては感じることができないからだ。けれどシルバー・バーチ霊は実体があり、実際に混合すると言われている。だが想像すらできない。また精神自体も実体のある媒体だと言われている。これはこの地上にいる限りは、わからないのだと思う。思念にも実体があると言われているように、それを実感として感じるのはやはり霊界へ行ってからなのだろう。
906回目の瞑想
ーーー遠隔治療が可能であることを考慮すると、直接治療においてその治癒力を受けるのに、治療家の身体または霊体はどの程度まで使用されているのでしょうか。
「遠隔治療にも治療家の霊体を使用しなければなりません」
ーーーその過程を説明していただけませんか。
「治療家はテレビジョンとよく似ています。霊的なバイブレーションが治療家に届けられると、治療家(の霊体)を通過する際に半物質的治療光線に転換されて、それが患者に送られます。治療家は変圧器です」
ーーー遠隔治療でも同じですか。
「同じです」
ーーーそれがどうやって患者に届けられるのでしょうか。
「患者が治療を要望したということでつながりが出来ております。思念によって治療家へ向けてのバイブレーションが生じます。そこに絆が出来たわけで、そのバイブレーションに乗って治癒力が患者に送られるのです」(明日に続く)
今回の内容はヒーリングを施術する人とっては、とても勉強になる。また、施術される側の方もこの過程を知ることで、更にお任せする気持ちになれるのではないだろうか。
治療家は変圧器だと言われている。そして霊的なバイブレーションが治療家の霊体を通過する時に半物質的治療光線なるものに転換されると言われている。そしてそれが患者に送られるのだと。そんなことがヒーリング中に行われているのだと思うと鳥肌が立つ。やはり素晴らしいことだ。その治療光線が患者に届けられる様子も言われているが実に簡単なようだ。患者が治療を要望すると、思念によって治療家へ向けてバイブレーションが生じる、それでもう絆は出来てしまうのだと。やはり驚異的だと思う。そしてそのバイブレーションに乗って治癒力が患者に送られるということなのだ。これは人間の為せる技ではないことは明白だ。すべては霊界側で行って下さっていることなのだ。それを信じることが肝要なのだと思う。
私自身、ヒーリングを施術させて頂く時はこのことを肝に銘じて、それを実体として感じるように努力していきたいと強く思った次第である。この心霊治療に関する内容は、私にとってはとても重要な内容だ。勉強させて頂くと共に、楽しみでワクワクしている。
907回目の瞑想
ーーー自分のために遠隔治療が行われていることを知らない場合はどうなりますか。
「患者と関わりのある誰かが知っているはずです。そうでなかったらその患者に向けて治療が行われるわけがないでしょう」
ーーー治療家がその患者の病状が悪いことを知って一方的に遠隔治療を施してあげる場合もあるでしょう。
「それだけでもう絆ができております」
ーーーでも患者の方からは思念が出ていません。
「いえ、出ております。治療家がその絆をこしらえております。こちらの世界では思念に実体があることを忘れてはなりません。私があなたを見る時、私にはあなたの身体は見えません。霊媒の目を使えば見えるかも知れませんが。私たちにとって実体があるのは思念の方であり、実体がないのは身体の方です。あなたが思念を出せば、それが立ちどころに実在物となるのです。それがバイブレーションーー波動をこしらえます。それが遠隔治療で使用されるのです」
今回の内容も実際にヒーリングを行っている場合はほとんど遠隔治療となるので、大いに勉強になる。患者側は知らなくてもヒーリングの力に効果があることは了解している。また第三者が中に入らずとも、患者に遠隔治療して効果のほどを感じたこともある。これはあくまで理論がわからなくても、感じることはできるのだ。だがシルバー・バーチ霊の言われるように、互いの思念に実体があり、その実体ある思念がバイブレーションをこしらえ、それを活用するということであれば、効果があるのは当然のように思う。ただ、私達人間は思念が実体あるようには感じられない。思念を実体として感じることができれば、疑う余地はないのだと思う。後は信じる以外にない。施術する側もされる側も霊力を信じて、霊界にお任せするという姿勢がもっとも大事なことだと思う。そして更に結果さえもお任せする気持ちになれたら、必ず功を奏すると私は信じている。
908回目の瞑想
ーーーいったん遠隔治療のための絆ができても、次の治療の時はまた改めてこしらえる必要があるのでしょうか。
「いったん、出来たら、もうその必要はありません。霊界との絆は磁気的なものです。いったん出来上がったら二度と壊れることはありません」
ーーーということは、どこにいても同じということですねーー教会にいても駅にいても。
「霊の世界には地理的な"場"というものがありません。常に身の回りに存在しております。教会にいるからとか、地中深く掘られた採掘所にいるからとか、あるいは飛行機に乗って空高く上がったからといって、それだけ神に近くなっているわけではありません」
ーーー地上世界に具現化するものは、その存在の基礎として思念が先行していると言われております。言いかえれば、我々は思念的素材を製造していることになるわけですが。すると治療家が患者に対した時には完治するという思念を抱いて、完全な健康のイメージをもつことが治療のプラスになるのでしょうか。
「大いにプラスになります。なぜなら、思念には実体があるからです。完全な健康状態のイメージを強く持てば持つほど、その成就へ向けて近づくことになります。あなた方もその理想へ向けて不断の努力をすべきです。最高のものを心に画くべきです。絶対に希望を棄ててはいけません。常に朗らかで楽観的雰囲気を出すべきです。そうした条件が最高の成果を生みます」
今回の内容は知ってはいたが、改めて確信させていただく。霊界との絆というものは素晴らしい。一度築けば二度と壊れることはないのだ。また場所については時間も空間もない霊界には関係ないのだと思う。そこに心さえあれば、必ず届くと信じている。そして最後の質疑には、日頃私が重要視している内容なので、特に意を強くした。ヒーリングする際にはできるだけ良い状態をイメージするようにしている。だがそのイメージについてはまだまだ実体というまでにはいかない。日々、近づけるように努力はしているつもりだ。なので、今回のシルバー・バーチ霊の「大いにプラスになる」とのお言葉や「そうした条件が最高の成果を生む」というお言葉には大変に勇気をもらえた。有難い限りである。これからも自信をもって努力して行こうと思う。
909回目の瞑想
ーーー治療家によって力に差があるのはなぜでしょうか。
「話の上手な人と下手な人、ピアノの上手な人と下手な人、文章がうまい人と下手な人がいるのと同じです。才能がそれだけ開発されているということです」
ーーーもし治療家が病気になった場合は他の治療家にお願いすべきでしょうか。それとも自分で治す方法があるのでしょうか。
「他の治療家にお願いする必要はありません。それよりも、いつも使用している霊力を直接自分に奏功させる方法を工夫すべきです。神に祈るのに教会まで行く必要がないように、霊力を自分自身に向けることが出来さえすれば、治療家のところへ行く必要がありません。そのためには自分の心、自分の精神、自分の魂を開かないといけません」
今回の内容は治療家といえども、才能の開発次第で能力の差は出るということだ。それは当然のことと言える。シルバー・バーチ霊が例を出されているが、すべては才能があるかないかだ。もちろん、日頃の練習や鍛錬が必要なのは言うまでもない。ただ治療家はそれだけではない。心の修養がもっとも大事であり、それができなければ開発はできないと思う。
次の治療家が病気になった場合の質問についてだが、これは私自身、体験済みである。もちろん、病名がつくほどの状態になることは滅多にないが、それなりに不調になることはある。その時に自分自身に向けてヒーリングをするといつの間にか治ってしまっている。なので、他の方にヒーリングをしてもらったことはない。けれどシルバー・バーチ霊が言われているように、自分の心、精神、魂をもっともっと開いていかなければいけないと思っている。
888回目の瞑想
もう一人の動物愛護運動家が招かれ、その人に向かってシルバーバーチがこう語りかけた。
「本日あなたにお出でいただいたことを非常に嬉しく思っております。人類の啓発と、感性を具えたあらゆる形態の生命への慈悲心を教える仕事に献身しておられる神の僕をお迎えすることは大いなるよろこびです。
その仕事が容易ならざるものであること、前途に困難が山積みしていることは私もよく存じております。しかし、霊の褒賞は、困難に直面した時ほど最大限の信念を堅持できる人にしか獲得できないのです。あなたは容易ならざる道を選んでしまわれました。私は決してあなたが今それを後悔していらっしゃると申し上げているのではありません。あなたはこの道を自らの自由意志で選択なさったことを指摘しているだけです。もう分かっていらっしゃると思いますが、地上で先駆的な仕事に携わっている人たちは決して孤独な闘いを強いられているのではないーー霊界から大々的に援助を受けている事実を分かってほしいと思っている霊が大勢います。
この分野の仕事は困難を極めます。改めるべきことが沢山あります。が、残虐行為を一つでも終わらせる、ないしは少なくすることに成功すれば、その分だけ永遠の創造活動に参加したことになるのです。
申し上げるまでもないことと思いますが、地上に共存する動物にも人間と同じように"奪うべからざる権利"というものがあります。進化の法則は地上の全生命を包括していること、一つとしてその働きの外にはみ出ることは有り得ないこと、形態はいかにさまざまであっても、すべてが一丸となって前進するものであること、すべての残虐な行為は、それが人間同士であっても動物への仕打ちであっても、結局は生命の世界全体の進化を遅らせることになるーーこうしたこともすべてあなたは既にご存知と思います。
この大切な分野において少しでも進展があれば、それは大きな勝利であると見なすべきです。私と同様あなたも、人類の進化が動物の世界全体と密接につながっていることをよくご存知です。献身と忠誠をもって人間に仕えている動物たち、また人間の進化によってその進化が促進されるようにと地上に生をうける動物たちに対する責任を人間が無視しあるいは忘れるようなことがあると、それは人間自らの進化をも遅らせることになるのです。
困難、戦争、貪欲、利己主義、こうした物質万能主義の副産物はすべて、人間が愛、情け、哀れみ、慈悲、好意といった霊的資質を発揮しない限り地上から無くなることはありません。そうした資質は神からの授かりものなのです。それが発揮できるようになるまでは、人間は自らを傷つけることばかりします。乱獲や残虐行為の一つ一つが人間同士、あるいは動物に対して害を及ぼすのは無論のこと、それが人間自らの進歩を妨げることになるのです。
地上の動物愛護運動の背後には偉大な霊の集団が控えております。そのリーダーといってよい立場にあるのが(※)地上で"アッシジの聖フランチェスコ"と呼ばれた人物です。霊界において活発にこの運動を展開しており、他界後に身につけた霊力をフル活用してあなた方の仕事の成就を援助しております。
(リーダーといってよい立場、というあいまいな言い方をしたのは、その上にも、そのまた上にも高級霊が控えて指揮しているからである。『霊訓』のイムペレーターも49名の霊団の頭であるが、その上にはプリセプターと名のる、直接人間界と接触できないほどの高級霊が控えていた。それは多分紀元前9世紀の予言者エリヤであろうとされているが、いずれにせよ最後に行き着くところは、地球圏に限っていえば、地球の守護神である。なお聖フランチェスコ San Francesco d'Assisi は13世紀のイタリヤのカトリック修道士で、庶民的愛と清貧を主義とするフランシスコ修道会の創始者ーー訳者)
問題に直面した時はそれをどう処理するかの決断をくださねばなりませんが、そんな時にいちばんお勧めするのは、瞑想状態に入って魂の奥へ引きこもり、神の声に耳を傾けることです。
今あなたが携わっておられる仕事は、あなたご自身がお選びになったのです。この分野にも組織、協会、審議会などがいろいろとありますが、そうしたものは本来の機能を果たせない限り存在しても無意味です。この種の仕事は内奥の生命、霊的実在についての知識に目覚め、他の生命との霊的繋がりを理解した者が、自分を役立てるという動機一つに鼓舞されて仕事に従事するということであらねばなりません。
以上の私からのメッセージ、といっても、そう伝えるように言われたのでお伝えしたまでですが、それが少しでもお役に立てば、その代弁者となったことを私は嬉しく思います。
あなたのように闘いの最前線に身を置く者は、ひるむことのないよう鍛えられ試される必要があるのです。これまでの数々の体験は、そうした試練の中でも肝心な要素として用意されたものでした。すなわち霊の純金を磨いて浮き出させて、イザという時に霊力を引き出し、窮地に陥った時に引きこもって安らぎを得るために、その内奥の力、内奥の避難所の存在に目覚めさせることに目的があったのです」
ーーーお言葉はまさに私がいま必要としていることばかりです。きっと、これからの仕事に大いに役立つことと存じます。私たちは時としてどちらの方向を取るべきか迷うことがあるのです。
「その時点で正しいと思われたことをなさればよいのです。ただし、これが正しいということに確信がなくてはいけません。動機が純粋であれば、その後に派生してくるものも善へ向かいます。万が一動機が間違っていたことに気づかれれば、その時は自分が責めを負えばよろしい。が、闘って敗れ、しかも動機にやましいところがなければ、もう一度気を取り直して闘いを挑むのです。
われわれは闘志なのです。挑まねばならない闘いがある以上は闘志であらねばなりません。しかも、いま挑んでいる闘いは、あらゆる闘いの中でも最大の闘いではないでしょうか。無知と愚行と利己主義と迷信ーー光明に逆らう闇の勢力すべてとの闘いです。抑圧と残虐と略奪と無用の犠牲(動物実験)に対する闘いです。ぜひとも勝たねばならない大規模な闘いです。
あなたがもしたった一つの残虐行為でも止めさせることができれば、あなたの全人生が生き甲斐のあるものとなります。その無益な残虐行為こそ、地上から完全に駆逐するまでわれわれは何度でも闘いに挑まねばなりません。見た目にいかに抵抗が大きくても、決してひるんではなりません。必ずや勝利はあなた方のものとなります。
あなた方が望んでいる改革のすべてが、あなたの在世中に成就されるとは限りません。しかし、そのうちの一つでも、二つでも、あるいは三つでも成就されれば、あなたが地上に存在した意義があったことになります。
時々私は、この仕事に没頭しておられるあなた方に、できることなら私たちの世界の動物が一欠片の恐れも怖じ気もなく安らかに仲良く暮らしているところを一度ご覧に入れたいものだと思うことがあります。そこはまさに動物にとっての天国なのです」
今回の内容も相手が動物愛護運動家なので、前回とほぼ同じ内容だ。やはり賛辞と共に、これからの活動に大事なお言葉を言われている。ただこの大事なお言葉は、私達一般の人間にとっても大事なことなので、繰り返しとはなるが頭だけではなく、心に魂に刻みつけるためにも記載させてもらった。このお言葉をもって、動物への章は終わりとする。
次回からは、"再生"と"前世"についての誤解という題で、訳者の方の解説であるが、シルバー・バーチ霊のお言葉だけではなく、いろいろな霊訓のお言葉を引用されているので、興味深い。それを抜粋して記載しようと思っている
。
889回目の瞑想
ーーーー自分の前生を思い出してそれと断定できるものでしょうか。
という質問に対してシルバーバーチは
「それは理論的にはできますと言えても実際にそれができる人は現段階の地上の人間にはまずいません」と述べている。ところが現実には洋の東西を問わず"あなたの前生は○○です"とか、自ら"私は××の生まれ変わりです"と平然と公言する自称霊能者が多く、またそれをすぐに真に受けている信者が実に多いのである。
『スピリチュアリズムの真髄』の中で著者のレナードがこう述べている。
「この輪廻転生に関して意味深長な事実がある。それは前生を"思い出す"人たちのその前生というのが、大抵王様とか女王とか皇帝とか皇后であって、召使いのような低い身分だったという者が一人もいないことである。中でも一番人気のある前生は女性の場合はクレオパトラで、男性の場合が大抵は古代エジプトの王という形をとる」こう述べてからD・D・ホームの次の言葉を引用している。
「私は多くの再生論者に出会う。そして光栄なことに私はこれまで少なくとも12人のマリー・アントワネット、6人ないし7人のメリー・スコットランド女王、ルイ・ローマ皇帝ほか、数え切れないほどの国王、20人のアレキサンダー大王にお目にかかっているが、横丁のおじさんだったという人には、ついぞお目にかかったことがない。もしもそういう人がいたら、ぜひ貴重な人物として檻にでも入れておいてほしいものである」
これが東洋になると、釈迦とかインドの高層とかが人気の筆頭のようである。釈迦のその後の消息が皆目わからないのがスピリチュアリストの間で不思議の一つとされているが、あの人この人と生まれ変わるのに忙しくて通信を送る暇がなかったということなのだろうかと、皮肉の一つも言ってみたくなる。
それにしても一体なぜ高位・高官・高層でなければいけないのであろうか。またなぜ歴史上の人物でなければ気が済まないのであろうか。
マイヤースの通信『個人的存在の彼方』に次のような一節がある。
「偉大なる霊がまったく無名の生涯を送ることがよくある。ほんの身近な人たちにしか知られず、一般世間の話題となることもなく、死後は誰の記憶にも残らない。その無私で高潔な生涯は人間の模範とすべきほどのものでありながら、それを証言する者は一人としていない。そうした霊が一介の工場労働者、社員、漁師、あるいは農民の身の上に生を受けることがあるのである。これといって人目につくことをするわけではないのだが。それでいて類魂の中心霊から直接の指導を受けて、崇高な偉大さと高潔さを秘めた生涯を送る。かくして、先なる者が後に、後なる者が先になること多し(マタイ19・30)ということにもなるのである」
今回の内容は確かに人間が前生を記憶していることはほとんどないと言っていいと思う。また霊能者と言えども本物の霊能力がなければ適当に言っているとしか思えない。それを見極める力を養うことの方が大切なことだと思う。本物か偽物かは、霊的真理に照らし合わせればわかること。今統一教会について取り沙汰されているが、騙す方はもちろん悪い。だが騙される方にも問題があると私は思っている。霊的真理を知っていれば騙されることはないからだ。
話が逸れてしまったが、シルバー・バーチ霊の「現段階の地上の人間には前生がわかる人はまずいません」というお言葉ではあるが、この時代から100年近くも経った今は、本物の霊能力があれば、前生がわかる場合もあると私は信じている。それはある例を私は知っているからだ。簡単に記すと、原爆に遭った母子が生き別れてしまい、子供は幼いまま亡くなる。そして、その子がすぐに生まれ変わり、やがて年頃になると彼ができる。その彼の祖母が当時の母親だったということがわかるという経緯だ。こんな劇的な再会があるだろうか。本当に霊能力があれば、真実がわかるのだという証ではないだろうか。決して高名な人でも、立派な人でもない。当時原爆で亡くなった前生を自分の体調の悪さからわかったことだったのだ。ただ、やみくもに前生を知ることはいいとは思えない。特に興味半分で知ることはではないと思う。止むに止まれずという動機が一番大事なのだと思う。
(明日は気分転換に都内で一泊するのでお休みします)
890回目の瞑想
オーエンの『ベールの彼方の生活』第三巻に、靴職人が実は大変な高級霊で、死後一気に霊団の指揮者の地位に就く話が出ている。地上生活中は本人も思いも寄らなかったので、天使から教えられて戸惑う場面がある。肉体に宿ると前生(地上での前生と肉体に宿る前の霊界での生活の2種類がある)がシャットアウトされてしまうからである。『続霊訓』に次のようなイムペレーターの霊言がある。
「偉大なる霊も、肉体に宿るとそれまでの生活の記憶を失ってしまうものである。そうした霊にとって地上への誕生は一種の自己犠牲ないしは本籍離脱の行為と言ってよい」
そうした霊が死後向上していき、ある一定の次元まで到達すると前生のすべてが(知ろうと思えば)知れるようになる。というのがシルバーバーチの説明である。霊にしてその程度なのである。まして肉体に包まれている人間が少々霊能があるからといって、そう簡単に前生が分かるものではないのである。(後略)
今回も引き続き同じ内容だが、実際の例として靴職人だった方が高級霊だったという話はとても興味深い。それこそ名もない靴職人として従事していた方がそのような霊恪の高い方だとしたら、今の世にもそのような方がいらっしゃるということになる。そういう方であっても、前生
の記憶は失ってしまうようだ。死後ある一定の次元に到達すると前生のすべてを知ることができるとのこと。訳者の感想には確かに同意できるが、だが、前生の一部とか垣間見るということは、今のこの時代には可能なのではないかとも思う
。
891回目の瞑想
再生そのものが事実であることに疑問の余地はない。シルバーバーチは向上進化という霊の宿命の成就のための一手段として、再生は必須不可欠のものであり、事実この目で見ておりますと述べている。私はこの言葉に全幅的信頼を置いている。
また、それを否定する霊がいるのはなぜかの問いに、霊界というところは地上のように平面的な世界ではなく、内面的に無限の次元があり、ある一定の次元まで進化しないと再生の事実の存在が分からないからだと述べている。つまりその霊が到達した次元での視野と知識で述べているのであって、本人はそれが最高だ、これが全てだ、これが真実だと思っても、その上にもまた上があり、そこまで行けばまた見解が変わってくる。だからシルバーバーチも、今否定している人も自分と同じところまで来れば、なるほど再生はあると思うはずだと述べている。
イムペレーターも、このあと引用する『続霊訓』の中で、再生の事実そのものは明確に認めている。ただ、世間において、あるいはスピリチュアリズムに関心をお持ちの方の中においても、生まれ変わりというものについて大きな誤解があるようなので、それを指摘しておきたいと思う。
モーゼスの『続霊訓』に次のような一節がある。
「霊の再生の問題はよくよく進化した高級霊にしてはじめて論ずることのできる問題である。最高神のご臨席のもとに、神庁において行われる神々による協議の中身については神庁の下層の者にすら知り得ない。正直に言って、人間にとって深い入りせぬ方がよい秘密もあるのである。その一つが霊の究極の運命である。神庁において神議かむはかりに議られしのちに一個の霊が再び肉体に宿りて地上へ生まれるべきか、それとも否か、そのいずれの判断が下されるかは誰にも分からない。誰にも知り得ないのである。守護霊さえ知り得ないのである。すべては佳きに計らわれるであろう。すでに述べた如く、地上にて広く喧伝けんでんされている形での再生(機械的輪廻転生)は真実ではない。また偉大なる霊が崇高なる使命と目的とを携えて地上へ降り人間と共に生活を送ることは事実である。ほかにも我らなりの判断に基づいて広言を避けている一面もある。まだその機が熟していないとみているからである。霊ならば全ての神秘に通じていると思ってはならない。そう広言する霊は、自ら己れの虚偽性の証拠を提供しているに他ならない」
高級霊にしてこの程度なのに、こうして肉体に包まれ、シルバーバーチ流に言えば"5本の鉄格子(五感)の間から外界をのぞく"程度の地上の人間が、少々霊能が芽生えたからといって、そんなもので再生問題を論ずるのは言語道断なのである。
再生とは少なくとも今の自分と同じ人間がそっくり生まれ変わるという、そんな単純なものではない。そんな軽薄な興味にあたら時間と精神とを奪われるよりも、五感を中心として平凡な生活に徹することである。そうした生活の中にも深刻な精神的葛藤や身体的苦闘の材料がいくらでもあるはずである。それを一生懸命取り組んでいれば、ごく自然な形で、つまり無意識のうちに必要な霊的援助を授かるのであり、それがこの世を生きる極意なのである。
今回の内容は実に奥の深さがあることに驚かされる。再生に関してはいろいろと取り沙汰されているが、要ははっきりとはわからないからだ。シルバー・バーチ霊のお言葉にもあるように、私達人間には知ることができないのだ。更にイムペレーターの「続霊訓」での一節にはただただ驚嘆せざるを得ない。再生とは自分で望むものでもないようだ。やはり雲の上の話であり、真実は到底人間には計り知ることはできないということだ。そのようなことを疑心暗鬼しているよりも、訳者の方の言われるように、今生かされていて体験しなければならないこと、目的に向かって使命を果たすこと、これに尽きるのではないかと思う。平凡な生活の中でこそ、如何に自分を生かせるのかが重要なことなのだと今回思い知った。ただ今まで普通に生活をしてきて、護られていることの自覚はしっかりとあるので、霊的援助は授かっているのだと思う。このまま高望みをせずに、身の丈に合った形で精進して行くことが一番なのだと思った次第である。
892回目の瞑想
私が声を大にして「五感を中心として平凡な生活に徹すること」とそう叫ぶのは、一つにそこにこそ人間的努力の尊さがあり、肉体をもって生活する意義もそこから生まれると信じるからであるが、もう一つ、生半可な霊能を頼りにすることの危険性として、そういった霊能者を操って悪ふざけをする低級霊がウヨウヨしているという現実があるからである。
『霊訓』に次のような一節がある。
「邪霊集団の暗躍と案じられる危険性についてはすでに述べたが、それとは別に、悪意ではないが、やはり我らにとって面倒を及ぼす存在がある。元来、地上を後にした人間の多くは格別に進歩性もなければ、さりとて格別に未熟とも言えない。肉体より離れていく人間の大半は霊性において特に悪でもなければ善でもない。そして地上に近き界層を一気に突き抜けていくほどの進化した霊は、特別の使命でもない限り地上へは舞い戻っては来ないものである。地縛霊の存在についてはすでに述べた通りである。
言い残したものにもう一種類の霊団がある。それは悪ふざけ、茶目っ気、あるいは人間を煙に巻いて面白がる程度の動機から交霊会に出没し、見せかけの現象を演出し、名を騙かたり、意図的に間違った情報を伝える。邪霊というほどのものではないが、良識に欠ける霊たちであり、霊媒と列席者を煙に巻いていかにも勿体ぶった雰囲気にて通信を送り、いい加減な内容の話を持ち出し、友人の名を騙り、列席者の知りたがっていることを読み取っては面白がっているに過ぎない。交霊会での通信に往々にして愚にもつかぬものがあると汝に言わしめる要因もそこにある。茶目っ気やいたずら半分の気持ちからいかにも真面目くさった演出をしては、それを信ずる人間の気持ちを弄ぶ霊の仕業がその原因となっている」
ついでに『続霊訓』からも次の一節を紹介しておこう。これは自動書記通信であるが、モーゼスが「間違った教理を信じ切っている霊が何百年。何千年と、そう思い込んだままの状態でいると聞いて驚きを禁じ得ません。それはよくあることなのでしょうか」と質問したのに対してこう述べている。
「そう滅多にあるものでないのであるが、霊媒を通じてしゃべりたがる霊は、概してそう高度な悟りに到達していない者たちである。理解力に進歩のない連中である。請こわれもしないのに勝手に地上へ戻ってくるということ自体が、あまり進歩的でないことの証拠と言えよう。中でも、人間がこしらえた教理によってがんじがらめにされたままやってくる霊は、もっとも進歩が遅い。
真実の教理は人間の理解力に応じて神自ら啓示されるものである。数ある地上の教説や信仰は大なり小なり間違っている。ゆえに(それが足枷となって)進歩が遅々としている者が実に多く、しかも自らはその誤りに気づかないのである。その主の霊が徒党を組み、その誤りが更に新たな誤りを生んでいくことがしばしばある。かくして無知と偏見と空理空論が下層界に蔓延し、汝らのみならず我らにとりても厄介なことになっている。というのも、彼らの集団も彼らなりの使者を送って人間を攪乱せんとするのである。彼らは必ずといってよいほど敬虔な態度を装い、勿体ぶった言葉を用いる。それがいつしか進歩を阻害し、真理を窒息させるように企んでいるのである。魂の自由を束縛し、真理への憧憬を鈍らせるということにおいて、それは断じて神の味方ではなく、敵対者の仕業である」
五感は確かに鈍重であるが、それなりの安定性がある。それに引きかえ、霊能というのは極めて不安定であり、肉体の健康状態、精神的動揺によって波長が変化し、昨日は高級霊からのものをキャッチしていたのが今日は低級霊に騙されているということがある。まさに両刃の剣である。
ショパンが弾けるというだけの人なら世界中どこにでもいるが、人に聴かせるに足る名演奏のできる人はそう数多くいるものではない。それと同じく、信頼の置ける霊媒、高い霊質と人格と識見とを兼ね具えた名霊媒はそう数多くいるものではない。その一人がステイントン・モーゼスであり、ヴェール・オーエンであり、ジェラルディン・カミンズであり、モーリス・バーバネルである。その他地道にやっている霊能者が世界中にいるはずである。
そして、こうした霊媒を通じて通信してくる霊が異口同音に言うのが"宇宙の神秘は奥には奥があって、とても全てを知ることはできない"ということである。肝に銘ずべきであろう。
今回の内容は、私達人間にとって一番大切なことは、今現在与えられた人生を平凡であってもその生活の中でいろいろな体験を乗り越えていくことということだ。この訳者の方はかなり霊能力に対して否定的なように思う。もちろん、この世には偽霊能者や金儲けだけのために霊能力がある振りをしている人たちが蔓延ってるのも事実だ。だが、私はそれを見極めるのもその人の力だと思っている。触らぬ神に祟りなしとは、よく言ったもので関わり合いさえしなければ余計な災いを受けることもない。ということは相談者自身がある程度の知識を身につけておくことが大事で、その知識なしには関わり合いにならなければいいということだ。けれど、現状はどうだろう。現在もいろいろな教団があるが、有名というだけで飛びついてはいないだろうか。今はネットという検索することもできる時代なのだから、よくよく教団の主旨などを読まれて、判断しなければいけないのだと思う。苦しくて助けて欲しいというある種精神がまともでない状態では、決して真実の場所にはたどり着けない。霊能に関しての危険性というのもすべては自分自身の問題なのだと思う。シルバー・バーチ霊はこの世は偶然はなく、必然だと言われている。ということは騙される人も偶然ではなく、必然だったということだ。そして低級霊に騙されることについても私は同じだと思っている。自分自身がしっかりと霊的真理を理解していれば、騙されることはまずない。霊的真理に照らし合わせればすぐに真偽のほどがわかるからだ。どちらか一方に重きを置くのではなく、この世のことをきちんと全うしながら、霊的真理もしっかりと理解していくこと、この両方が私達人間にとってもっとも大事なことなのではないかと私は思う。死後向かう世界に少しでもレベルアップして向かうためにも
。
明日からはイエス・キリストについてを記載して行きたいと思っている。
893回目の瞑想
地上の歴史の中でも最大の論争の的とされている人物すなわちナザレのイエスが、交霊会でも質問の的にされた。
最初に一牧師からの投書が読み上げられた。
ーーーシルバー・バーチ霊はイエス・キリストを宇宙機構の中でどう位置づけているのでしょうか。また<人間イエス>と<イエス・キリスト>とはどこがどう違うのでしょうか。
「ナザレのイエスは地上へ降誕した一連の予言者ないし霊的指導者の系譜の最後を飾る人物でした。そのイエスにおいて霊の力が空前絶後の顕現をしたのでした。
イエスの誕生には何のミステリーもありません。その死にも何のミステリーもありません。他のすべての人間と変わらぬ一人の人間であり、大自然の法則に従ってこの物質の世界にやって来て、そして去って行きました。が、イエスの時代ほど霊界からのインスピレーションが地上に流入したことは前にも後にもありません。イエスには使命がありました。それは、当時のユダヤ教の教義や儀式や慣習、あるいは神話や伝説の瓦礫の下敷きとなっていた基本的な真理のいくつかを掘り起こすことでした。
そのために彼はまず自分へ注目を惹くことをしました。片腕となってくれる一団の弟子を選んだあと、持ち前の霊的能力を駆使して心霊現象を起こしてみせました。イエスは霊能者だったのです。今日の霊能者が使っているのと全く同じ霊的能力を駆使したのです。彼は一度たりともそれを邪なことに使ったことはありませんでした。
またその心霊能力は法則通りに活用されました。奇跡も、法則の停止も廃止も干渉もありませんでした。心霊法則に則って演出されていたのです。そうした現象が人々の関心を惹くようになりました。そこでイエスは、人間が地球という惑星上で生きてきた全世紀を通じて数々の霊覚者が説いてきたのと同じ、単純で永遠に不変で基本的な霊の真理を説くことを始めたのです。
それから後のことはよく知られている通りです。世襲と伝統を守ろうとする一派の憤怒と不快を買うことになりました。が、ここでぜひともご注意申し上げておきたいのは、イエスに関する乏しい記録に大変な改ざんがなされていることです。ずいぶん多くのことが書き加えられています。ですから聖書に書かれていることにはマユツバものが多いということです。出来すぎた話は全部割り引いて読まれて結構です。実際とは違うのですから。
もう一つのご質問のことですが、ナザレのイエスと同じ霊、同じ存在が今なお地上に働きかけているのです。死後一層開発された霊力を駆使して、愛する人類のために働いておられるのです。イエスは神ではありません。全生命を創造し人類にその神性を賦与した宇宙の大霊そのものではありません。
いくら立派な位であっても、本来全く関係のない位にイエスを祭り上げることは、イエスに忠義を尽くす所以ではありません。父なる神の右に座しているとか、"イエス"と"大霊”とは同一義であって置きかえられるものであるなどと主張しても、イエスは少しもよろこばれません。
イエスを信仰の対象とする必要はないのです。イエスの前にヒザを折り平身低頭して仕える必要はないのです。それよりもイエスの生涯を人間の生き方の手本として、さらにそれ以上のことをするように努力することです。
以上、大変な大きな問題についてほんの概略を申し上げました」
今回の内容から昨日もお話したように、イエス・キリストについてをしばらく記載しようと思う。キリスト教徒にとっては、信じられないような内容かも知れないが、私のようにキリスト教とは縁の薄い者にとっては、とても新鮮で斬新な内容だ。私自身、聖書は読んだこともないし、キリスト教に入信しようとも一度も思ったことはない。ただイエス様の為されたこと(真偽のほどはともかくとして)は、人間として立派であり、到底真似のできないことを為されたお方だという認識で尊敬している。またその時代に生まれて一目お目にかかりたかったとも思っている。今回のシルバー・バーチ霊のお話で、やはり素晴らしいお方だったということは事実であり、今もなお人類のために働きかけをして下さっていることにただただ感謝しかない。そしてイエス様を神様に祭り上げるのではなく、人間の生き方のお手本として、近づく努力をしていくこと、これが一番大事なことだと教えて下さっている。お手本としては完璧なので、努力しても今生では足もとにも及ばないとは思うが、目標は高いことに越したことはない。更に、イエス様のお話が続くので、楽しみにしている。
894回目の瞑想
ーーー"キリストの霊"Christ spiritとは何でしょうか。
「これもただ用語にすぎません。その昔、特殊な人間が他の人間より優秀であることを示すために聖油を注がれた時代がありました。それは大抵王家の生まれの者でした。キリストという言葉は"聖油を注がれた"という意味です。それだけのことです」
(ユダヤでそれに相応しい人物はナザレのイエス Jesus だという信仰が生まれ、それで Jesus Christ と呼ぶようになり、やがてそれが固有名詞化していったーー訳者)
今回の内容も大変に興味深い。王家生まれの人が聖油を注がれたという時代があったとはびっくりだ。しかもそれは優秀な人間と示すものなのだと言われる。そんな大昔から人間を区別や差別をしていたのだ。しかもキリストという言葉が聖油を注がれたという意味であるとは、ただただ驚くばかりだ。それだからなのかキリスト教は現在も洗礼という儀式があり、頭部や身体を水に浸し罪を洗い清めることで、新しい命が与えられた証となると書いてある。かつては全身を水に沈める「浸礼」というのが主流だったようだが、現在は少なくなっているとのこと。これはやはり聖油の名残りということなのだろうか。ただ私はこういったことには全く信じることができない。そんな水に浸したからと言って、その人が変わるとは到底思えないからだ。だからそれを簡単に信じて入信する人たちの気持ちも全くわからない。そんなことでイエス様と同じになれるのだったら、そんな楽なことはない。シルバー・バーチ霊は簡単に手に入るものには価値がないと言われている。得難いものだからこそ価値があるのだと。そういう意味を知らなくてもキリスト教の洗礼という儀式には違和感しかなかったので、私は最初から論外だった。今回の内容でそれが正しかったことを改めて確信した。
895回目の瞑想
ーーーイエスが霊的指導者の中で最高の人物で、模範的な人生を送ったとおっしゃるのが私にはどうしても理解できません。
「私は決してイエスが完全な生活を送ったとは言っておりません。私が申し上げたのは地上を訪れた指導者の中では最大の霊力を発揮したこと、つまりイエスの生涯の中に空前絶後の強力な神威の発現が見られるということ、永い霊覚者の系譜の中でイエスにおいて霊力の顕現が最高潮に達したということです。イエスの生活が完全であったとは一度も行っておりません。それは有り得ないことです。なぜなら彼の生活も当時のユダヤ民族の生活習慣に合わせざるを得なかったからです」
今回の内容にもびっくりだ。イエス様は完全な生活は送ってはいないと言われている。ただ地上の指導者の中では最大の霊力を発揮され、強力な神威の発現が見られ、霊力の顕現は最高潮に達していたと言われているのだ。イエス様にして、完全な生活は送れなかったということにいささか疑問に思えるが、やはりその時代の生活習慣に合わせるしか
ないのであれば頷ける。となると、私のような凡人には完全な生活など為しうるはずもない。だが、せめて神様の摂理に則った生き方が出来るように日々努力して行かなければと改めて思った次第である。
896回目の瞑想
ーーーイエスの教えは最高であると思われますか。
「不幸にしてイエスの教えはその多くが汚されてしまいました。私はイエスの教えが最高であるとは言っておりません。私が言いたいのは、説かれた教訓の精髄せいずいは他の指導者と同じものですが、たった一人の人間があれほど心霊法則を使いこなした例は地上では空前絶後であるということです」
ーーーイエスの教えがその時代の人間にとっては進み過ぎていたーーだから理解できなかった、という観方は正しいでしょうか。
「そうです。おっしゃる通りです。ランズベリーやディック・シェパードの場合と同じで(※)、時代に先行しすぎた人間でした。時代というものに彼らを受け入れる用意ができていなかったのです。それで結局は彼らにとって成功であることが時代的に見れば失敗であり、逆に彼らにとって失敗だったことが時代的には成功ということになったのです」
(※George Lansbury は1931年〜35年の英国の労働党の党首で、その平和主義政策が純粋すぎたために挫折した。第二次世界大戦勃発直前の1937年にはヨーロッパの雲行きを案じてヒトラーとムッソリーニの両巨頭のもとを訪れるなどして戦争阻止の努力をしたが、功を奏さなかった。Dick Shepard についてはアメリカーナ、ブリタニカの両百科全書、その他の人名辞典にも見当たらないーー訳者)
今回の内容もイエス様が偉大であったことがわかる。心霊法則を人間でありながら、使いこなされたのは地上では空前絶後であると言われている。それだけ凄いことということだ。またその時代にとってイエス様は先行しすぎた人間であったゆえに理解できず、受け入れらられなかったとのこと。そうなると単純な疑問として、それではなぜその時代にイエス様は誕生されたのかということだ。最後の文章に「結局は彼らにとって成功であることが時代的に見れば失敗であり、逆に彼らにとって失敗だったことが時代的には成功ということになった」とあるが、今の私にはその意味がよくわからない。その時代の人たちにとって成功であるならば良いのだが。けれど最後にはイエス様は磔にされてしまう。これはシルバー・バーチ霊がいつも対比しておっしゃっておられる光と闇の闇の勢力が勝まさったということなのだろうか。私はイエス様が磔になったということが未だに解せないままなのだ。いつか分かる時がくるのだろうか。来ると信じたい。
897回目の瞑想
ーーーイエスが持っていた霊的資質を総合したものが、これまで啓示されてきた霊力の大根源であると考えてよろしいでしょうか。
「いえ、それは違います。あれだけの威力が発揮できたのは霊恪の高さのせいよりも、むしろ心霊的法則を理解し自在にに使いこなすことができたからです。皆さんにぜひとも理解していただきたいのは、その後の出来事、つまりイエスの教えに対する人間の余計な干渉、改ざん、あるいはイエスの名のもとに行われてきた間違いが多かったにも関わらず、あれほど短い期間に全世界に広まりそして今日まで生き延びて来たのは、イエスが常に霊力と調和していたからだということです」
(訳者注ーー霊力との調和というのは、ここでは背後霊団との連絡がよく取れていたという意味である。『霊訓』のイムペレーターによると、イエスの背後霊は一度も物質界に誕生したことのない天使団、いわゆる高級自然霊の集団で、しかも地上への降誕前のイエスはその天使団の中でも最高の位であった。地上生活中のイエスは早くからそのことに気づいていて、一人になるといつも瞑想状態に入って幽体離脱し、その背後霊団と直接交わって連絡を取り合っていたという)
今回の内容もとても興味深い。イエス様があれだけの偉業をなされたのは、霊恪の高さというよりも、心霊法則を理解して自在に使いこなすことができたからだと言われている。やはり人間であって人間でないとしか思えない。霊力との調和についての訳者の解説には驚く。イムペレーターの霊訓にはそのような内容が書いてあるとは、本当にびっくりだ。やはりイエス様の魂はもはや人間に生まれるべくもないそれこそ真実の雲の上の存在なのだ。そんな偉大なる魂が今この地上に現れても、やはり理解は難しいのではないだろうか。それこそ受け入れる用意のある人しか近づけないように思う。だが、イエス様のようなお方が今の時代にも必要だと思うのは私だけであろうか。
898回目の瞑想
ーーー(かつてのメソジスト派の牧師)いっそのこと世界中に広がらなかった方がよかったという考え方もできます。
「愛を最高のものとした教えは立派です。それに異議を唱える人間はおりません。愛を最高のものとして位置づけ、ゆえに愛は必ず勝つと説いたイエスは、今日の指導者が説いている霊的真理と同じことを説いていたことになります。教えそのものと、その教えを取り違え、しかもその熱烈信仰によってかえってイエスを何度も磔にするような間違いを犯している信奉者とを混同しないようにしなければなりません。
イエスの生涯をみて、私はそこに物質界の人間として最高の人生を送ったという意味での完全な人間ではなくて、霊力との調和が完全で、かりそめにも利己的な目的のためにそれを利用することがなかったーー自分を地上に派遣した神の意志に背くようなことは絶対にしなかった、という意味での完全な人間を見るのです。イエスは一度たりとも自ら課した使命を汚すようなことはしませんでした。強力な霊力を利己的な
目的に使用しようとしたことは一度もありませんでした。霊的摂理に完全に則った生涯を送りました。
どうもうまく説明できないのですが、イエスも生を受けた時代とその環境に合わせた生活を送らねばならなかったのです。その意味で完全では有り得なかったと言っているのです。そうでなかったら、自分よりもっと立派なそして大きな仕事ができる時代が来ると述べた意味がなくなります。
イエスという人物を指差して"ご覧なさい。霊力が豊かに発現した時はあれほどのことが出来るのですよ"と言える、そういう人間だったと考えればいいのです。信奉者の誰もが見習うことのできる手本なのです。しかもそのイエスは私たちの世界においても、私の知る限りでの最高の霊恪を具えた霊であり、自分を映す鏡としてイエスに代わる者はいないと私は考えております。
私がこうしてイエスについて語る時、私はいつも"イエス崇拝"を煽ることにならなければよいがという思いがあります。それは私が"指導霊崇拝"に警告を発しているのと同じ理由からです。あなたは為すべき用事があってこの地上にいるのです。みんな永遠の行進を続ける永遠の巡礼者です。その巡礼に必要な身支度は理性と常識と知性をもって行わないといけません。書物からも得られますし、伝記からでも学べます。ですから、他人が良いと言ったから、賢明だと言ったから、あるいは聖なる教えだからということではなく、自分の旅にとって有益であると自分で判断したものを選ぶべきなのです。それがあなたにとって唯一採用すべき判断基準です。
例えその後一段と明るい知識に照らし出された時にあっさり打ち棄てられるかも知れなくても、今の時点でこれだと思うものを採用すべきです。たった一冊の本、一人の師、一人の指導霊ないしは支配霊に盲従すべきではありません。
私とて決して無限の叡智の所有者ではありません。霊の世界ことを私が一手販売しているわけではありません。地上世界のために仕事をしている他の大勢の霊の一人にすぎません。私は完全であるとか絶対に間違ったことは言わないなどとは申しません。あなた方と同様、私もいたって人間的な存在です。私はただ皆さんより人生の道のほんの2、3歩先に歩んでいるというだけのことです。その2、3歩が私に少しばかり広い視野を与えてくれたので、こうして後戻りしてきて、もしも私の言うことを聞く意志がおありなら、その新しい地平線を私と一緒に眺めませんかとお誘いしているわけです」
今回の内容のシルバー・バーチ霊のお言葉も、イエス様の素晴らしさを再認識させて下さる。けれど、私は崇拝はしていない。どれだけ素晴らしいお方でも崇拝はしていないが、尊敬はしている。やはりイエス様はどう考えても普通の人間としては考えられない。またお手本と言われても簡単に真似できるようなことではないと、逆にシルバー・バーチ霊が言われれば言われるほどそう思える。イエス様はシルバー・バーチ霊が知る限りで最高の霊恪を具えた霊であると言われている。だからこそ、神様とのつながりが強固であり、それゆえに強力な霊力を発現なされたのだと思う。これはやはり普通の人間には到底無理な話だ。信奉者の誰もが見習うことのできる手本だと言われているが、確かに見習うことはできるだろう。けれど実際にそのお手本通りにできる人というのは誰もがというわけにはいかない。そこまでの霊恪を築き上げなければ無理な話なのだ。だがもちろんイエス様のようになりたいとの目標を掲げて、シルバー・バーチ霊が言われるように今の自分の魂にとって有益であると自分で判断したものを選ぶということはとても大事だと思う。それはシルバー・バーチ霊の霊訓にしても然りだ。すべて出来るわけではないから、霊訓の中でも自分ができること、またやりたいと思うことを選び、それを実践していく。ということが今の私たちにできるのことなのではないかと思う
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877回目の瞑想
ーーー人間はこれから先もずっと動物に酷いことをし続けるのではないかと思うのですが・・・
「いえ、そうとばかりも言えません。他の生命に対する責任を徐々に理解していくでしょう。人間は進化しつつある世界での進化しつつある存在です。絶頂期もあれば奈落の底もあり、向上もすれば転落もします。進化というのは螺旋形スパイラルを画きながら信仰するものだからです。しかし全体としては少しずつ向上しています。さもないと進化していないことになります。無限の叡智と無限の愛によって、すべての人間について然るべき配慮が行き届くように、ちゃんとした構想が出来上がっていることを認識しなくてはいけません」
ーーー残酷なことしたらすぐにそれと気づくようになっていればいいのでうすが・・・どうも人間はうまく罪を免れているように思えてなりません。
「うまく罪を免れる人は誰一人いません。摂理は間違いなく働きます。例え地上で結果が出なくても、霊界で必ず出ることを私が断言します。因果律はいかなる手段をもってしても変えられません。永遠に不変であり、不可避であり、数学的正確さをもって働きます。原因があれば必ず結果が生じます。それから逃れられる人は一人もいません。もしいるとしたら、神は神としての絶対的な資格である"完全なる公正"を失います。
そのこととは別に、もう一つ私がいつも強調していることがあります。残念ながら人間は宿命的に(5、70年という)ほんの短い視野しか目に入らず、永遠の観念で物事を考えることができないということです。あなた方には地上で発生していることしか見えませんが、その結果は霊界で精算されるのです」
今回の内容は現在の問題でもある。100年前からこのようなことが延々と繰り返されているのだ。シルバー・バーチ霊は進化していると言われているが、どの程度なのだろうか。100年経っても同じような問題を提議しなければならないのは、螺旋階段を昇っているようなものだからなのだろうか。少し上がって進化したと思いきや、また下がる。このような繰り返しだから遅々として進まないのかも知れないが。けれど、今ではお店にお肉がなくなるどころか肉食は当たり前になっている。お肉を食べない人の方が少ないのではないだろうか。というのも、外食の際、お肉のないお店はほぼ皆無だ。逆にお肉のない料理を探す方が困難なのだ。私は行きつけのお店以外はほとんど行かない。行きつけのお店は私がお肉一切を食べないことを承知しているので、言わなくてもお肉に代わるものを出してくれる。いずれ肉食がなくなる日がくることを祈りたい。動物に対して少なくとも屠殺や実験はすぐにでも無くしたい思いである
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878回目の瞑想
ーーーわれわれ人間がもっと自然な、もっと神の御心にかなった生き方をするようになれば、こうまで無数の動物が実験材料にされることもなくなると思います。
「その通りです。ですから、われわれは今後とも啓発と真理の普及を、いつどこにていも心掛けなくてはいけないのです。その妨げとなるものを一つでも取り除くことができれば、そのたびにそれを喜びとしなければいけません。霊の力は単なる変革をもたらすのではありません。そこに進化があります。地上の人間が大自然とその背後に秘められた莫大な力から絶縁した行為をすれば、それに対する代償を支払わねばなりません。
人間は霊的属性、霊的潜在力、霊的才能を携えた霊的存在です。自分だけでなく他の存在、特に動物の進化を促進することになる生き方をする能力を具えているのです。進化の生き方をする能力を具えているのです。進化の大計画は何としても達成しなければなりません。それを人間が邪魔をして遅らせることはできます。が、完全に阻止することは絶対にできません」
今回の内容は今まで言われてきたことの繰り返しであるが、やはり繰り返し繰り返し、聞くことで、しっかりと自分の中に取り入れることができるのだと思う。私達人間は霊的存在であり、神の摂理にかなう生き方をしなければいけないということだ。動物を虐待したり、屠殺したり、実験材料にすることは間違っており、霊的に間違った行為をすれば、必ずそのことに対しての代償を支払わなければいけないということになる。それは公平に因果律が働いているからに他ならない。そういった霊的真理の普及が広まれば、この世はどれだけ住みやすくなるのだろう、と思わずにはいられない。
879回目の瞑想
ーーー動物にはよく"下等"という言葉が付けられますが、人類より本当に劣っているのでしょうか。まだ人類と同じ進化の段階まで到達していないのでしょうか。と申しますのは、例えば犬には人間に対する無私の献身と忍耐という資質があります。これはわれわれも大いに学ばされます。進化の道がまったく異なるのでしょうか。
「いえ、進化は全生命が一丸となって歩むものです。進化の法則はたった一つあるのみで、それが生命活動の全側面を規制しております。
いつものことながら、用語が厄介です。"下等動物"という用語を用いれば、動物は人間と同じ意識段階まで到達していないことを意味します。確かに動物には人間のような理性、理解力、判断力、決断力を司る機能が仕組まれておらず、大部分が本能によって動かされているという事実から言えばその通りです。ですから、そうした限られた一つの視点から観れば動物は"下等"と考えることができます。しかし、それですべての検証が終わったわけではありません。
動物に教えられることが多いのは当然のことです。動物は忠誠心、愛着心、犠牲心、献身といった資質を健気に表現しますが、これは人間が学ぶべき素晴らしい手本です。しかし人間はそれらを意識的に、そしてもっと高度に発揮できます。なぜなら、動物よりも意識の次元が高いからです。ただし、ここでは霊的意識のことではありません」
メンバーの一人が
ーーー動物が人間よりも気高い行為をした感激的な話がたくさんありますね。
すると別のメンバーが
ーーー超能力をもっている動物もいます。と言う。
「それがいわゆる埋め合わせの法則の一例です。ある種の能力が欠けていると、それを埋め合わせる別の能力を授かります。目の不自由な方には正常な人にない鋭敏さが与えられます」
今回の内容のシルバー・バーチ霊のお答えで、全生命が一丸となって歩むものが進化だと言われている。それは人間が動物と共に進化を歩むのは当然のことだということになる。だが現状はそうはいかない。物言えぬ動物に対しての非道はなくならない。それは用語の問題でもあるように下等動物だと思って見下しているからに他ならない。シルバー・バーチ霊も一つの視点から観れば動物は下等と考えることができると言われている。だが、それがすべてではないと言われ、動物の忠誠心や犠牲心、そして献身といったすばらしい資質は人間が学ぶべきものであると言われている。確かに本当にその通りだと思う。更に動物の素晴らしい資質を人間はもっと高度に発揮することができると言われている。それは動物よりも意識の次元が高いからと。ということは動物に非道なことをする人というのは、動物を下等と言って見下しているが、それ以下ということなるのだ。
私達人間は動物の素晴らしい資質を見本にして学び、その上をいく高度な資質を発揮していかなければいけないのだということを説かれている。それには動物の気高い行為を話しとして終わらすのではなく、人間がその気高い行為を見習って実行していくことが大切になる。それが互いに進化を促進していくということにつながるのではないかと思う。
880回目の瞑想
ーーー例えば家で飼われている猫は人間には見えない霊の存在に気づいているのでしょうか。
「もちろん気づいております。人間に見えなくなったのは、あなた方の文明ーー時としてそう呼ぶのはふさわしくないことがあるのですがーーそれが人間生活を大自然から遠ざけたことに原因があります。つまり大自然がもたらしてくれる能力と力から人間が絶縁しているのです。そのために文明人は大自然と密接につながった生活をしている人種よりも心霊能力の発達が阻害されているのです。
一般的に言って、家庭で飼われている動物は"文明の恩恵"は受けておりません。動物の方がその飼い主よりも自然な超能力を発揮しております。そういうわけで、残念ながら動物の方が霊的存在について人間よりも自然な形で意識しております」
今回の内容は犬や猫などペットを飼われている方なら、感じていることなのではないかと思う。いきなり、誰もいない方向に向かって吠えたり、尻尾を振ったりすることがある。誰か来ているのだなと思うのだ。私達人間には見えなくても、動物には見えているということがはっきりとわかる。シルバー・バーチ霊のこのお言葉で更に確信できた。
881回目の瞑想
動物愛護運動にご夫婦共々生活を捧げた英国のTV番組≪サファリ≫の制作者デニス氏という方※で奥さんがご健在のころにご夫婦で招かれ、シルバーバーチ霊から賛辞を受けた様子が、ステラ・ストーム女子が編集したPhilosophy of Silver Birch by Stella Stormに書かれているとのこと。かなり長いが、大事な事が網羅されているので抜粋しながら、何回かに分けて記載しようと思う。
(※このご夫婦についてのデニス氏というのは訳者の方の推察であり、名前は記されてはいない)
「お二人は骨の折れるこの分野を開拓され、人間と動物との間に同類性があり従ってお互いの敬意と寛容と慈しみが進化の厳律であることを見事に立証されました。
大自然を根こそぎにし、荒廃させ、動物を殺したり(実験で)片輪にしたりするのは、人間のすべきことではありません。強き者が弱き者を助け、知識あるものが無知なるものを救い、陽のあたる場所にいる者が片隅の暗闇を少しでも無くすための努力をすることによって、自然界の全存在が調和のある生命活動を営むことこそ、本来の姿なのです。
その点あなた方は大自然の大機構の中での動物の存在意義を根気良く紹介され、正しい知識の普及によく努力されました。それこそ人間の大切な役割の一つなのです。地上の難題や不幸や悲劇の多くが人間の愚かさと自惚れによって引き起こされていることは、残念ながら真実なのです。
慈しみの心が大切です。寛容の心を持たなくてはいけません。自然破壊ではなく、自然との調和こそ理想とすべきです。人間が争いを起こす時、その相手が人間同士であっても動物であっても、結局は人間自身の進化を遅らせることになるのです。人間が動物を敵にまわしているうちは自然界に平和は訪れません。平和は友好と一致と強調の中にこそ生まれます。それなくては地上は苦痛の癒える時がなく、人間が無用の干渉を続ける限り災害はなくなりません。人間には神の創造の原理が宿っているのです。だからこそ人間が大自然と一体となった生活を営むとき地上に平和が訪れ、神の国が実現する基礎ができるのです。
残酷は残酷を呼び、争いは争いを生みます。が、愛は愛を呼び、慈しみは慈しみを生みます。人間が憎しみと破壊の生活をすれば、人間自らが破滅の道をたどることになります。ことわざにも、"風を蒔いて旋風を刈る"と言います。悪いことをすればその何倍もの罰を被ることになるのです。
何ものにも憎しみを抱かず、すべてに、地上のすべての生命あるものに愛の心で接することです。それが地上の限りない創造的進化を促進する所以となります。それは、人間がその一部を占めている進化の機構の中で為しうる最大の貢献です」
今回のお二人に言われている内容は、私達人間に言われていることだ。もちろん、賛辞は偉業をなし得たこのお二人に向けられたものだ。けれど説かれている内容は私達人間全員に向けてのお言葉なのだと思う。
大自然を荒廃させ、動物を殺したり、片輪にしたりするのは、人間のすべきことではないと言われ、強き者が弱き者を助け、知識あるものが無知なるものを救い、陽のあたる場所にいる者が片隅の暗闇を少しでも無くすための努力をすることによって、自然界の全存在が調和のある生命活動を営むことこそ、本来の姿なのだと説かれている。
そして慈しみの心を大切にし、寛容の心を持たなければいけないと言われている。更に自然破壊ではなく、自然との調和こそを理想とし、人間が起こす争いは、それが人間同士であっても動物であっても、結局は人間自身の進化を遅らせることになると言われており、人間が動物を敵にまわしているうちは自然界に平和は訪れないとまで言われているのだ。平和は友好と一致と強調の中にこそ生まれると。地上のすべての生命あるものに愛の心で接すること、それは地上の限りない創造的進化を促進することになり、最大の貢献だと言われている。人間の使命を説かれているのだと思う。すべてを実行に移すには時間がかかると思うが、自分のできることから、行動したいと思う。
882回目の瞑想
「お二人が生涯を傾けておられる動物は、究極的には人間が責任を負うべき存在です。なぜならば、人間は動物とともに進化の道を歩むべき宿命にあるからです。ともに手を取り合って歩まねばならないのです。動物は人間の貪欲や道楽の対象ではないのです。動物も進化しているのです。
自然界の生命はすべてが複雑に絡み合っており、人間の責任は、人間同士を超えて草原の動物や空の小鳥にまで及んでいます。抵抗するすべを知らない、か弱い存在に苦痛を与えることは、ぜひとも阻止しなくてはなりません。
装飾品にするために動物を殺すことは、神は許しません。あらゆる残虐行為、とりわけ無意味な殺生は絶対に止めなくてはなりません。物言わぬ存在の権利を守る仕事に携わる者は、常にそういった人間としての道徳的原理に訴えながら闘わなくてはいけません。小鳥や動物に対して平気で残酷なことをする者は、人間に対しても平気で残酷なことをするものです。
動物への残忍な行為を見て心を痛め涙を流す人は、いつかはきっと勝つのだという信念のもとに、勇気をもって動物愛護のための仕事を続けてください。多くの残酷な行為が、無知であるがゆえに横行しています。それらは、霊的知識を知って目が覚めれば立ち所に消えてしまうのです。また、一つの霊的知識に目覚めると、その知識のもつ別の意義にも目覚めてくるものです。その時こそ魂が真の自由への道を歩み始めた時であるのです。
動物と人間とは、進化のある段階でどうしても別れ別れにならざるを得なくなります。地上の年数にして何万年にもなるかも知れませんが、動物と人間とでは霊的進化のスピードが違います。より大きな光を求めて絶え間なく成長していく人間の魂についていけなくて、動物は置き去りにされることになります。
いったん物質のベールをくぐり抜けて霊界入りし霊的生活環境に慣れてくると、つまりあなたを地上に縛り付けていた絆が切れたことを認識すると、進歩しようとする欲求、内部に渦巻く神性を開発しようとする欲求が加速されます。いつどこにいても、修行次第で自分を一層役立てることを可能にしてくれる資質を開発しようとします。その霊的開発の分野において高く昇れば昇るほど、動物はついていけなくなります。そして、死後もなお炎を燃やし続けた愛が次第に衰え始めます。やがて炎がチラチラと明滅し始め、最後は同じ種属の類魂の中へ融合していきます」
今回の内容の冒頭は前にもシルバー・バーチ霊が言われていたことだ。人間は動物とともに進化の道を歩むべき宿命にあり、責任を負うべきなのだ。人間は人間だけにはおさまらず、動物や小鳥のようなか弱い存在を守るべきなのである。ましてや装飾品にするためや無意味な殺生などは神様は許さないと断言されている。鴨や猫などを標的にして矢を射る人がいるが、弱いものを対象にするしかできない臆病者なのだと思う。こういう人は弱い人間に向けばまた同じことをするのだ。動物を虐待している人はいつかは人間に向いてしまう。早い段階で見極められるようになって欲しいものだ。
人間と動物は一緒に進化の道を歩むべき宿命と言われているが、だが、進化のある段階で、別れ別れにならざるを得ないと言われる。それは人間の霊的進化のスピードが速いからなのだそうだ。人間が霊界入りして、その生活環境に慣れてくると、進歩しようとする欲求や神性を開発しようとする欲求が加速されるのだそうだ。すると動物はついていけなくなり、お互いの愛が次第に衰え、やがては同じ種属の類魂の中へ融合されるとのこと。これだけを聞くと、また別れなければいけなくて辛いように思うが、一緒にいられる年数は地上年数にして何万年もの間一緒にいられるようなので、別れる時には、お互いに納得済みなのだと思う。こんなことはシルバー・バーチ霊のお言葉がなければわからなかったことだ。本当に有難く感謝しかない。
883回目の瞑想
「創造物全体の進化を支配する総合的機構は一つあるだけですが、それぞれの顕現の形態にそれなりの異なった進化のコースがあります。人間が成就している個別的意識をもつに至っていない動物には、種属全体としての類魂があります。もっとも、同じ種属の動物でも人間との接触を通じて個別化を促進されて、人間に似た形態の個別意識をもつに至っているのもいます。
全体としての類魂もいつまでも同じ状態にあるのではなく、常に進化しております。高級界の神霊が人間に対する責任を自覚しているごとくに人間が地上の全創造物に対する責任を自覚するようになれば、動物の進化が加速され個別化が促進されます。しかし、人間との関係がよほど接近しない限り、ある程度まで同一方向ではあっても、進むコースが別々です。進化が進むにつれて類魂の数は少なくなり、個別化された魂が増えてまいります。
全生命を通じて"霊"という共通の親近関係が存在します。生命あるところには必ず霊が存在します。人間の残忍性は動物の進化を遅らせるという形で反映します。それは人間の野獣性が自らの進化を遅らせるのと同じことです。そのプロセスは同じです。全生命は協調、即ちそれぞれが自分を役立てるということによって互いの進化に貢献し合うように意図されているのです。
何ごとにつけ動機が重大な要素となります。愛する動物が手の施しようのない状態となっている時、これ以上苦しませるのが忍びなくて地上的生命に終止符を打たせる処置を取るのであれば、その動機は正当です。しかし動物の生得の権利を完全に無視して一欠片の同情心もなしに屠殺するとなると、その動機は利己的です。それは人間自身にとっても動物にとっても良かろうはずはありません。そこで、殺された動物の霊を何とかしてやらねばならなくなります。人間の場合、死産児や夭折した子の霊は地上で味わうべきであったものについて埋め合わせが行われますが、動物の場合も同じで、地上で得そこなったものについて埋め合わせがあります。
あなた方は自らの意志を行使できない生命ーーその愛情と忠誠心と信頼と献身とが不幸にして、自分達のしていることがいかに間違ったことであるかを知らない人間による情け容赦ない残虐行為によって皮肉な報復を受けている動物の保護のために献身しておられます。動物虐待は人間が気取って"文明"などと呼んでいるものにとっての大きな汚点であり、邪悪な汚辱です。
西洋人は私たちレッドインディアンを野蛮人と呼びますが、人間と同じ霊によって生命を与えられ同じ進化の道を歩みながら、一方的に人間によって略奪され苦しめられてきた動物に対するこれまでの人間の態度は、それに劣らず野蛮です」
今回の内容も大変に勉強になる。何度か説いておられる内容が重複してはいるが、大事なことなので、何度でも頭にいれるに越したことはない。人間には個別的意識があると言われ、個別意識のない動物は種属全体の類魂があると言われている。けれど人間との接触を通じることで個別化が促進され、人間に似た形態の個別意識をもつものもいるとのこと。また種属全体の類魂も同じ状態ではなく、常に進化しているとのことなのだ。霊界の高級霊方が人間に対する責任を自覚するように、人間が地上の全創造物に対する責任を自覚するようになれば、動物の進化が加速され個別化が促進されると言われている。人間には重大な任務があるということだ。それゆえ、人間の残忍性は動物の進化を遅らせると言われ、それは人間の野獣性が自らの進化を遅らせるのと同じことだと言われている。人間も動物も進化していくためには、神様が意図された全生命が協調し、自分を役立てるということで貢献し合うことが必須なのだ。
次の「何ごとにつけ動機が重大な要素となります」とのお言葉に続く『愛する動物が手の施しようのない状態となっている時、これ以上苦しませるのが忍びなくて地上的生命に終止符を打たせる処置を取るのであれば、その動機は正当です』この箇所が心に響き、自然と涙が溢れてきた。今までも安楽死をさせたことについて納得させてきていたつもりだったが、このシルバー・バーチ霊のお言葉で、本当に救われた思いになったのだ。私達家族の動機は正しかったのだと、間違ってはいなかったのだと改めて心からそう思えることができた。言葉にはならない感謝の気持ちと安堵感で、心が一杯になっていた。それとは反対に食するための屠殺に対しての動機は利己的だと厳しく言われている。ただ人間の場合も死産児や夭折した子の霊には埋め合わせが行われるように、動物の場合も埋め合わせがあると言われているので、その事は本当に救われる思いだ。一日も早く、牛や豚、そして鶏の命が護られるようになって欲しいと願わずにはいられない。
884回目の瞑想
「お二人がこの道に導かれたのは決して偶然ではありません。霊的熟達の極印は哀れみの情にあるからです。哀れみのないところに霊的進化はありません。すべての存在、すべての動物、あらゆる生物、地上に存在する霊的顕現のすべてに対して哀れみの情を向けなくてはいけません。進化の道を少し先まで進んだ者は、共有している世界の不可欠の存在であるすべての人間、すべての生物に対して責任があることを自覚するものです。
抵抗する勢力がいかに強かろうと、障害や困難が見た目にいかに大きかろうと、善いことのために払われた犠牲は決して無駄にはなりません。今携わっておられる闘いは最後には必ずや勝利をおさめます。なぜなら、最後には真実が勝利をおさめるからです。これから辿られる道も決して容易ではありません。しかし先駆者たる者、大胆不敵な魂は、気楽な生活を期待したり蓮の台うてなの生活を夢見たりするようなことがあってはなりません。魂が偉大であるほど、要請される仕事も大きなものとなるものです。
申し上げるまでもないことと思いますが、地上であなた方とともにこの道に携わっている同志の他に、私たちの世界でもあなた方に協力せんとして、霊の大軍が控えております。その戦闘に立って指揮しているのが地上でアッシジの聖フランチェスコと呼ばれていた人物です。地上時代にもこの悪弊の改善運動に全身全霊を捧げ、今また霊界から携わっているパイオニアには長い長い系譜があるのです。
時として味方であるべき人物が敵にまわることがあります。また時として、悲しいことですが、この道に携わっている人が本来の目的を忘れて我欲を優先させ、一身上の都合の方が大義より大切であると考えるようになったりします。万が一そういう事態になった時は、それは本来の道を見失ったわけですから、その人のために蔭で涙を流しておやりなさい。
私たちはから要求することは、あなた方に啓示された光明にひたすら忠実であってくださるーーそれだけです。自分を役立てるという目的にひたむきでありさえすればーーこれ以上の崇高な宗教はないのですーー自動的に莫大な霊の力を呼び寄せ、それが数々の障害を取り除き、神の慈愛溢れる意志が地上に顕現されることになるでしょう」
今回の内容は凡人には、なかなか出来ることではないと思う。霊恪の高いお二人に向けてのお言葉だからこそ、ここまでの内容になるのだと思う。もちろん、だからと言って人ごとと思っていてはいけない。シルバー・バーチ霊が説かれている内容を読めることはとても幸せなことなのだ。例えそれが今の自分に出来ないようなことでも、知っていればいつか出来るように近づく努力はできるのだから。私自身も足もとにも及ばないが、このご夫婦のように、自分を役立てていく機会をもっともっと多く持ちたいと思っている。その気持ちを更に鼓舞してくれる内容だったと思う。そして本来の目的を忘れて我欲を優先させるようなことだけにはならないように気を引き締めて行かなければいけないと思った次第である。
885回目の瞑想
「生命はその全側面において互いに混じり合い依存し合っております。そこに一種の親族関係ともいうべき密接なつながりがあります。生命は無限ですから、その顕現もまた無限の形態をとっております。どの部分も他と切り離されて存在することはできません。
動物の中には人間との接触を通じて、人間とよく似た個的意識が芽生えているものがいます。もとより人間が動物に個別性を賦与するわけではありません。それは出来ませんが、潜在しているものを加速させることはできます。それは皆さんが精神統一その他の修行によって内部の霊的能力を開発するのと同じです。感性を具えた存在に永遠の資質を賦与することができるのは宇宙の大霊すなわち神のみです。
動物の魂も本質においては人間の魂とまったく同じです。双方とも同じ神から出ているのです。違うのは質ではなく程度です。動物と人間とでは発達の法則が同一方向ではあっても別々になっております。地上に生を受けた目的を果たして霊界入りし、他界直後の余波がおさまると、両者は別れ別れになります。
このように、両者にはそれぞれに果たすべき役割があります。人間は地上での人物像、つまり肉体器官を通じての魂の部分的表現が次第に消え、反対に霊的本性が開発され、潜在する完全性がより大きな発言の機会を得ます。永遠の時を経て成就される完全性へ向けて向上するにつれてパーソナリティが減り、インディビジュアリティが増えていきます。また動物は人間との愛の絆がある限り、目的を果たすまで人間とのつながりを維持します。
すべての"種"に地上界と霊界とで果たすべき役割があります。何の原因もなしに、つまり偶然に存在するものは一つもありません。神の完全なる構想によって、あらゆる創造物、あらゆる生命がそれなりの貢献をするようになっているのです。用もない種が地上に発生したために絶滅させなければならなくなったなどということは絶対にありません。人間が地上で最大の破壊的動物であってはならない理由はそこにあります。
野生動物と人間との共存共栄が次第に当たり前のこととなりつつあります。それは人間の動物への愛が大きくなって恐怖の壁が崩されつつある証拠です。人間がもしこれまでのように動物を屠殺したり、狩猟をしたり威嚇したりすることがなかったら、動物の側に恐怖心というものはおきなかったはずです。進化の促進のために人間とのつながりを求める動物もいるのです。身体機能上の進化ではなくて心霊進化です。
しかし進化とは一直線に進むものでないことを忘れてはなりません。上昇と下降とがあります。スパイラルに進行します。感激的な絶頂にまで上がる時があるかと思えば、悪魔に呪われたようなドン底へ落ちる時もあります。そうした中にも計画は着実に進展し、進化が成就されていくのです。
愛が愛としての本来の威力を発揮するようになれば、すべての創造物が仲良く暮らせるようになります。地球という生活環境を毒し問題を発生させる不協和音と混沌のタネを蒔くのは、人間という破壊主義者、人間という殺し屋です。すべての問題は人間がこしらえているのです。神が悪いのではありません。動物が悪いのでもありません。人間が自由意志の行使を誤り、(万物の霊長などと)勝手に優越性を誇ったためです」
今回の内容でご夫婦に話されたシルバー・バーチ霊のお言葉は最後となる。全体を読んで、人間には自由意志を与えられているが、それを行使することの責任は重大だということを痛感した。間違った使い方をすれば、それは全生命にとって悪影響となるのは必至なのだ。だからこそ、人間は神様の摂理に則った正しい生き方を出来る限りしていかなければいけないということだ。それが進化へと進む道でもある。それは人間だけではなく、全生命にとっての進化なのだ。ということは責任重大であり、人間がお手本を示していかなければいけない存在だということに他ならない。けれど、焦ってはいけないのだ。じっくりゆっくりと進んで行くことが肝要なのだと思う。有難いお言葉にただただ感謝しかない。
886回目の瞑想
デニス氏が奥さんの他界後、一人で出席され、シルバーバーチがこう語りかけた。
「奥さんからの伝言ですが、奥さんはあなたがその後も動物愛護の仕事ーーあなたとともに生涯をかけた、動物への無用で愚かで邪悪な残虐行為を止めさせるための仕事をずっとお続けになっていることを喜んでおられます。これはまさに文明の汚点、恥ずべき汚辱です。全生命の同一性を理解しておられる皆さんは、下等な存在と見なされている動物が本来の権利を存分に発揮できるようにしてあげるための闘争に嫌気がさすようなことがあってはなりません。
虐待、残忍、苦痛、無益な流血への挑戦を続けてください。その価値ある闘争におけるあなたの役割を存分に果たしてください。最後は必ず善意が愚行に打ち勝ちます」
デニス氏ーーーどうもこれまでは残虐行為をしている側の方が勝っているように思えるのは不幸なことです。
「光が闇を征服するように、善は必ず悪を征服します。闇の力は光には勝てませんし、悪の力も善の力には勝てません。気落ちしてはなりません。あなたの背後には、かつて地上で同じ仕事に献身し死後も引き続き地上の生命すべてに自由をもたらすために尽力している霊団が控え、味方になってくれております。
プランというものがあるのです。あなたはその成就のための仕事に参加する栄誉を担っておられるのです。最後には必ず成就されるのです。それを邪魔することはできます。遅らせることはできます。妨害することはできます。しかし、それによって神が計画を撤回なさるようなことは絶対にありません」(明日に続く)
今回の内容はデニス氏個人に向けたもので、霊恪の高さが窺える。動物の本来あるべき権利を存分に発揮できるようにするための仕事を高級霊団の指導のもと、そこに参加できる栄誉を担っておられるのだ。素晴らしいし、羨ましい。そして、どんな妨害があろうが、必ず打ち勝つと断言されている。更に神様の計画は撤回されるようなことはなく絶対だとも断言されているのだ。これが本当の動物愛護運動なのだ。生半可な気持ちではできない。もちろん、私も動物に対しては特別な思い入れがあるが、愛情を注いできたのは自分が飼った犬や身近にいる犬猫だけだ。結婚前には助けてあげた犬猫は相当数いる。今で言う里親探しのようなこともした。また目の前で交通事故にあった猫を(即死だったので)土に埋めてあげたこともあった。だがその程度なのだ。けれど今回の内容に、これからも大したことはできなくても、出来る限りのことはして行きたいと強く思った次第である
。
887回目の瞑想
デニス氏ーーー私が理解できないのは、霊界では確固とした協力態勢ができているのに、地上で同じ愛護運動に携わっているはずの人たちの間に一致団結が見られないことです。
「一致団結というのは難しいものです。残念ながら地上においては往々にして原理・原則よちも個人的な考えが優先されます。立派な仕事に携わっているものの、時が経つにつれて初心を忘れ、一身上のことばかり考えるようになります。人間の煩悩の一つです。それは、つまるところ霊的理解力の欠如から生まれております。献身的に取り組んではいるものの、それは自分の思うように進んでいる限りの話です。自分の考えが正しいと思うのは良いとして、それが最高でそれしかないと自惚れ始めます。これが、地上で同じ仕事に携わっていて、こちらへ来てからもその成就のために援助している霊を困らせる問題の一つなのです。
あなた方に心掛けていただきたいのは、容易なことではありませんが、その種の人間に個人的見解の相違を忘れさせ、基本の原理・原則に立ち帰って、最初にこの仕事に情熱を燃やした時の目標に向かって無心に努力するように指導することです。これは今携わっておられる動物愛護の仕事に限りません。他の分野においても言えることです。たとえばスピリチュアリズムと呼ばれている思想運動においても、自己顕示欲が強い人がいて、とかく自惚れが原因となって衝突が起きていませんか?
私は善のための努力は絶対に無駄にされないと申し上げております。闘いは必ず勝利をおさめます。なぜなら背後に控える霊力は、それくらいのことでは押し止められないほど強大だからです。いかなる抵抗に遭っても必ず退却せしめます。
改革は私たちの世界から鼓吹こすいされるのですが、同時に強大な霊力を具えた輝ける存在による祝福と協力とが与えられます。あなたは是非とも為さねばならないことへの情熱を失ってはなりません。善行への励みに嫌気がさしてはなりません。これは大切なことです。(嫌気を吹き込み、やる気を無くさせようとする邪霊集団の働きかけがあるからーー訳者)勇猛果敢な精神を保持しなければいけません。あなたには為すべきことが山ほどあります。今のところあなたはそれを立派にやってのけられておられます。どうにもならないと思える事態に至っても必ず道が示されます。
私の記憶では、ここにお集まりの皆さんの誰一人として、克服できないほどの困難に遭遇された方はいらっしゃいません。時にはギリギリの瀬戸際まで待たざるを得ないことがあるかも知れませんが、きっと道は開けます。
いかに美しいバラにもトゲがあります。見たところ不潔なものの中からきれいなものが出てくることがあります。大自然は両極性、多様性、付随的対照物、というパターンの中で営まれております。絶頂があればドン底があり、晴れの日があれば嵐の日があり、無知な人がいれば知識豊かな人がおり、戦争があれば平和があり、愛があれば憎しみがあり、真実があればウソがあり、弱みがあれば強みがあります。それぞれに果たすべき役割があります。
進化の法則はそうしたパターン以外には働きようがないのです。弱点の中に長所を見出すことがあります。暗闇の中でこそ光明が見出せるのです。困難の中にあってこそ援助が得られるのです。夜明け前には必ず闇夜があるというのは陳腐な譬えですが、やはり真実です。これも人生のパラドックスの一つです。進化というのはそうしたパターンの中でこそ不易の目的を成就していけるのです。
こうしたことを知ったからには、あなたは悲観なさる必要などどこにもありません。残虐行為の当事者たちが自分達のしていることの極悪非道さを知らずにいることであなたが思い悩むことはありません。あなた自身も気づいていらっしゃらない要素がいろいろとあるのです。あなたも一個の人間に過ぎませんが、内部には神性という黄金の筋金が入っているのです。それこそがあなたの宝庫です。発電所です。イザという時のエネルギー源です。
同志の中に手を焼かせる者がいたら、その人のことを気の毒に思ってやることです。道を間違えているのです。そういう人間を激しい口調で説き伏せようとしてはなりません。素朴な真理を教えてあげるだけでよろしい。そのうち分かってくれるようになります。
あなたは今自ら自由意志で選択した仕事に携わっておられます。神から授かったもっとも大切な贈物の一つと言えるのでしょう。もしかしたら理性も思考力も挑戦欲も懐疑心も持てない、ただの操り人形、ロボットのような存在となっていたかも知れないのです。それが反対にあなたには無限の神性が潜在的に宿されているのです。何かに挑戦することによってそれを引き出すことができるのです。その時の奮闘努力が霊のはがねを鍛えるのです。掛けがえのない絶好機です。霊がその純金の姿をあらわし神性を発揮することになるよう、どうか今こそあなたの気骨を示してください。
挑戦に尻込みしていはなりません。闘うということは、霊的な目的意識さえ失わなければ、為になるものです。あなたより少しばかり年輩の魂である私から、最後にひとこと激励の言葉を述べさせていただきましょう。いついかなる時も永遠の霊的真理を指標としそれに頑固にしがみついている限り、あなたに、絶対に挫折はありません」
今回の内容のシルバー・バーチ霊のお言葉は、どれもこれもがもっともなことだと得心しかない。すべてデニス氏に向けてのお言葉だが、私達人間が肝に銘じなければいけないことばかりだ。一致団結の難しさは必ず経験する。それぞれがそれぞれの意見があり、そしてみな正しいと思っているので、一歩も引かない。引く場合は忖度があることが多い。収拾がつかなくなる。そこに正しいリーダーがいてこそ、まとまるのだと思う。けれどその正しいと思っていたリーダーが独善的になってしまう場合もある。人間の煩悩とは本当に厄介なものだ。
シルバー・バーチ霊も容易なことはではないと言われているが、それぞれの人間が個人的見解の相違を考えず、基本の原理・原則に立ち帰って、この仕事に情熱を燃やした時の最初の目標に向かって無心に努力することだと言われている。これは動物愛護の仕事に限らず、他の分野においても言えることだと。皮肉にもスピリチュアリズムのことを例に出され、自己顕示欲が強い人がいて、自惚れが原因となって衝突が起きていないかと問われている。実際、多いと私は思っている。自分こそは正しい真理を知っていると自負し、間違った方向に煽る者もいる。やはり霊恪の高い人がリーダーにならなければ、問題解決はなかなか難しい。けれどそういったことで意気消沈してはいけないと
も言われている。嫌気がさしてしまったら元も子もないのだ。リーダーが素晴らしい人であれば、それについていく人たちは楽だと思うが、それでは自分の魂を鍛えることはできない。むしろ、ダメなリーダーだからこそ、自分の魂が鍛えられると感謝しなければいけないかも知れない。ということはリーダー云々でもなく、周りの者でもない。自分自身がしっかりとした目標を持ち、霊的真理を指針にすることで、必ず成し遂げられる、と確信することが大事なのだ。
866回目の瞑想
ーーー生命活動の目的が愛と慈悲の心を学ぶことがあるのなら、なぜ大自然は捕食動物のような悪い見本を用意したのでしょうか。
「大自然が悪い見本を用意するようなことはしません。大自然は宇宙の大霊すなわち神が顕現したものです。神は完全です。神の摂理も完全です。大自然は、その本来の仕組み通りに働けば必ずバランスと調和が取れるようになっているのです。人間が自然と調和して生きれば、地上はパラダイス、神の御国となります。
確かに捕食動物はいますが、それは"適者生存"の摂理の一環であり、しかも大自然の摂理全体のほんの小さな側面にすぎません。自然界の本質は協調です。共存共栄です。例えてみれば人間は地球の庭師のようなものです。植物の本性に合わせて手入れをしておれば庭は美しくなります。今では人間が捕食動物となっています。何百万年もの歴史の中で人間ほど破壊的な生物はおりません」
今回の内容も捕食動物という、弱肉強食についての質疑応答だ。シルバー・バーチ霊のお言葉はもっともだと思う。結局、人間の行い如何ということになるのだろう。ただ捕食動物については大自然の摂理全体のほんの小さな側面と言われているが認められている。前にも記したが、強いものだって、生きるか死ぬかの瀬戸際で、実際何日も食べることができないこともあり、自然の厳しさは野生動物であれば平等ということなのだと思う。だからと言って、私自身も弱肉強食はなくなって欲しいと思っている。そして最後のシルバー・バーチ霊のお言葉は手厳しいがその通りだと思う。人間ほど残虐で破壊的な生物はいないと思われる
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867回目の瞑想
生命いのちあるものすべてに敬意を抱いている女性のメンバーが尋ねる。
ーーーマラリアとか眠り病などを予防するために殺虫剤を使用することは間違いでしょうか。
「すべての生命に敬意を抱かねばならないのは言うまでもないことですが、これも動機と程度の問題です。特殊な環境において病気の原因となる虫が発生するので殺虫剤を使用するという場合は、その動機は正しいと言えます。生きるための環境条件を確保する必要を考慮に入れなければいけません。例えばダニが発生した場合、その家に住む者の健康を確保するという動機からであれば、スプレーして駆除してしまった方がくつろいで暮らせます」
今回の内容は取るに足らないようなことと思われるが、命あるものはすべて神様のものであると説かれているので、害を及ぼすような虫についても殺してはいけないのではないかと悩むところだ。けれどシルバー・バーチ霊は動機と程度の問題だと言われ、病気の原因となる虫が発生するので殺虫剤を使用するという場合は、その動機は正しいと言われている。例えはダニであるが、ゴキブリなどもいろいろな菌を運んでくるので、動機は正しいということになるのだろう。蚊なども刺されれば痒みも出るし、蚊を介してウィルスのデング熱など今は感染すると言われている。ただ、良寛和尚は、蚊帳の外に腕を出して蚊に血を吸わせていたという逸話もある。何を基準にするのかは、やはりその人の霊恪の程度で判断せざるを得ないのだろうと思う。
868回目の瞑想
ーーー地上の動物が例えば気高い情や知性といった人間的要素を発達させた場合でも、死後はやはり動物の類魂の中に帰っていくのでしょうか。それとも遠からず人間界へと進化していくのでしょうか。
「進化も自然の摂理の一部です。これにも一本の本流とたくさんの支流とがありますが、全体としては同じ摂理の一部を構成しております。あなた方人間に潜在している霊性と動物のそれとは質的に全く同じものです。程度において差があるだけで本質におていは差はありません。霊は無限ですから、可能性としては人間においても動物においても驚異的な発現力を秘めておりますが、霊的には両者とも一本の進化の道に属しております。その道程のどの時点で動物へ枝分かれし、どの段階で人間へ枝分かれするかは、誰にも断定できません。私はそこに取り立てて問題とすべき要素はないと思います」
今回の質疑応答で、シルバー・バーチ霊のお答えが前に読んだものと異なっていることに疑問を感じた。前に読んだ内容は動物は死後、人間に愛された動物はその人間が霊界に来るまで待っているとのことだった。そして人間と関係がなかったものは類魂の中に帰ると言われていたのだ。更に人間として進化するのは、動物界の類魂全体が進化して人間となるように言われていたと記憶している。ここでの回答とはかなり違うように感じるのだが、どうなのだろう。しかもそのことを取り立てて問題とすべき要素はないと言われている。けれど自分の飼っているまたは飼っていたペットがどうなっていくのかを知りたいと思うのは当たり前の感情だ。少なくとも私は知りたい。とりあえずは、私が霊界へ行けば迎えに来てくれて、一緒にしばらくは生活が出来ると言われているので、後のことは霊界へ行ってから明らかにすべき事なのかも知れない。そう思うことにする。
869回目の瞑想
ーーー動物も人間と同じコースをたどって進化するのでしょうか。
「動物には動物としての進化のコースがあります。それも進化活動全体の背後にある同じパターンの一部です。動物の場合は(進化というよりは)一種の発達過程です。もしも私から"子供はみんな両親と同じように進化するのでしょうか"と尋ねたら、答えは"イエス"でもあり"ノー"でもあるでしょう。子供にはそれぞれにたどるべき人生のパターンがあらかじめ定められております。が、そのパターンの範囲内において、それまでに到達した霊的意識の段階によって規制された自由意志の行使が許されております。(それが進化の要素となるーー訳者)
霊を宿した存在には無限の可能性があります」(明日に続く)
今回の質疑応答は動物と人間の進化は同じものかという内容だ。やはり動物には動物の進化のコースがあると言われ、動物の場合は進化というよりも一種の発達過程だと言われている。昨日も記したが、動物の場合は人間との関わりがもっとも重要で、そこが分かれ目になると言ってもいいくらいだ。人間との関わりのない動物は、それぞれの類魂のグループ内に入り、類魂全体として進化して行く。そして類魂全体が進化したのち、一人の人間となってこの世に誕生する。だからこそ、私は今一緒にいるわんこ達との生活を愛をもって大事にして行きたいと思っている
。
870回目の瞑想
メンバー同士で意見を出し合っているのを聞いたあとシルバーバーチはさらにこう続けた。
「動物には動物なりの、進化の全過程の中で果たすべき役割があり、それを基準とした進化のコースをたどります。やはり因果律が絶対的要素です。今現在あるものはすべて、かつてあったものの結果です。動物も宇宙進化の大機構で欠かすことの出来ない存在であり、それは山川草木、海、その他の自然界のあらゆるものが欠かせない存在であるのと同じです。
それらを一つにまとめている絆が"霊"です。生命は一つなのです。人間は動物とつながっているだけでなく、生命あるものなら何とでもつながっているのです。ただし、それらはそれぞれに定められた進化のコースをたどります。そして、それらがどこまで進化するかは、それぞれの次元での進化の法則によって決まります。花、木、小鳥、野生動物、そして人間と、それぞれに適応した法則があるのです」
ーーーということは動物にもそれなりの法則を破ることがあるということですね?
「あなた方人間が摂理に背いたことをするのと同じ意味においてのみ、そう言えます。が、やはり因果律は働いております。人間も、摂理を逸脱した行為をすることはあっても、因果律の働きを阻止するという意味で"摂理を破る"ことはできません。ダダをこねてるだけです」
今回の内容も昨日に引き続き進化のことであるが、私が特にハッとさせられたのは、頭ではわかっていることなのに、書かれているお言葉を目にすることによって、改めて実感させられることだ。それは因果律が絶対的要素であり、今現在あるものはすべて、かつてあったものの結果だということ。これは動物に限ったことではなく、このお言葉を今の人生に当てはめてみると、辛いことや苦しいことなど、それは因果律の絶対的要素によって、起こったにすぎないということになる。得心する以外には
ないのだ。生きていれば、いろいろなことに出会う。けれど、それはすべては自分自身の因果律によっての結果なのだ。そう思えば、辛いことや苦しいことも乗り越えて行けるのではないかと思う。このお言葉を肝に銘じて行かなければいけないと心から強く思った次第である。
871回目の瞑想
ーーー動物が死ぬと類魂の中に帰って行くということを多くの霊が述べておりますが、実際には死後もずっと地上のままの姿を留めていることを示す証拠が沢山あります。この矛盾を説き明かしていただけませんか。
「人間と親密な関係にあった動物に限って、個体を具えたままの存続が可能なのです。そうした動物は地上にいる時から、類魂としての本能のまま生きる動物には得られない、個体としての進化が促進されております。それは人間と動物との間で霊的進化を促進し合うという、すばらしい関係の一例といえます。動物が皆さんと共に同じ環境で過ごすということは。そうでない場合よりもはるかに人間らしい個性的な意識を発達させることになるのです。そうした"人間的"表現というものに縁のなかった動物は類魂の中に埋没していきます」
今回の内容はシルバー・バーチ霊がずっと言われてきた内容で、しかも詳細に説かれている。人間との関わりは親密な愛があってこそなのだ。(虐待などするような人間との関わりは動物にとってどれだけ悲惨なことか計り知れない)しかも地上にいる時から、個体としての進化が促進されていると言われ、それは人間と動物との間で霊的進化を促進し合う、すばらしい関係だと言われているのだ。素晴らしい。本当に素晴らしくて感動する。私自身、今まで8頭のわんこと共に生活してきているが、一緒に生活したことで、人間らしい個性的な意識を発達させることが少しでもできたなら、本望だ。現在の4わんこも出来る限り、個性的な意識を発達することができるようにと心に留め、有意義な時間を過ごして行きたいと改めて強く思った次第である。今現在動物と一緒に生活している人達に一人でも多くこのことを知ってもらいたいと願っている。
872回目の瞑想
ーーー人間が進歩して動物の生命についてもっと多く知るということも、動物の進化を促進することになると思うのです。優しい心が動物に良い影響を及ぼすことはよく分かっているからです。野生の動物の赤ん坊を優しく育てると人間的性質を見せるようになる例がよくあります。
別のメンバーが
ーーーそれはすべての生命が一つだからですよ。 と言う。
するとシルバーバーチがーー
「それも一本の進化の大木の枝のようなものです。進化の道が枝分かれして発展したものです。そこにおいては、優しさが優しさを呼び、哀れみが哀れみを呼び、愛が愛を呼び、憎しみが憎しみを呼びます。ですから、人間は常に最高の理想を目標としなければいけないことになります。そう努力することの中で、人間と動物とが進化の道程でお互いに促進し合うことになるのです。それはすべての生命が一つだからです。物質的にはさまざまな区別がありますが、霊的には一つです」
今回の内容は人間の動物に対する接し方次第で、動物に与える影響がいかに大きいかを説かれている。やはり類友の法則と同じで、優しい心は優しさとなり、哀れみの心は哀れみとなり、愛する心は愛となり、憎しみの心は憎しみを呼ぶと言われている。前にSNSの動画でライオンや熊など人間をも襲う猛獣と人間が戯れているシーンに思わず微笑み感動したことを思い出した。実際に野生で猛獣と言われる動物でも、育て方、接し方によって良好な関係を築けることが可能だということは事実なのだ。それは人間と動物の進化を促進し合う関係を物語っているのだと思う
。信じがたい光景も、愛を持つことによっていかようにも変わるということを教えて下さっているのだ。それはすべての生命は一つということだからだ。
873回目の瞑想
ーーー動物は再生しますか。
「輪廻転生説というのがあるようですが、動物は再生しません」
ーーー動物が死んで、進化を促進してくれた人間との縁が切れたら、その時点から類魂へ帰り始めるのでしょうか。それとも、どっちつかずの状態におかれるのでしょうか。
「人間に可愛がられた動物は、霊界でずっと待っていて、その人が高いしてきた時に出迎えます。永遠に消滅することのない個的存在を与えてくれた人ですから、必要な限りずっと待っています。存続するのはその個的存在です」
ーーーすべての動物は人間との縁を通じて個的存在を獲得するように意図されているのでしょうか。つまり個としての独自の意識をもつということです。
「そうです。人間がその思考と行為において動物に対する愛を発揮すればするほど、動物の方も愛を発揮するようになり、それこそ、聖書の中のオオカミと小ヒツジの話のように、人間と動物とが並んで寝そべるようになります」
今回の内容もとても興味深い。動物は再生しないと言われている。自分の飼ったわんこについては、再生して欲しいという願望もあり、前のわんこの生まれ変わりでは?なんて思ったこともあったが、再生しないと聞いて、納得する。だが、希望は今まで飼ったわんこは霊界でずっと待っててくれるということなのだ。それが私は楽しみで仕方ない。霊界でまた一緒に暮らせると思うと死後の世界が待ち遠しいとさえ思えるのだ。またシルバー・バーチ霊のお答えでは、人間との縁を通じて個的存在を獲得するように意図されているとのことだ。動物に対して愛をかけてあげれば、動物の方も愛を発揮するようになると言われている。本当に素晴らしいと思う。これこそが人間と動物との関わり合いなのだと確信する。すべての動物がこのような素晴らしい関係を人間と育めたら、どんなに幸せだろう。一人でも多くの方に知ってもらいたい。
874回目の瞑想
ーーー 自分の生命を維持するために人間は植物の生命を奪い、動物の卵や乳を横取りし、もっと酷いこととして、動物を殺して食べざるを得ません。こうした強引な言わばドロボー的生き方は、あなたがよく強調なさっている理性を反撥させずにはおかないのですが、これを"愛の造物主"の概念とどう結びつけたらよいのでしょうか。
「自分たちで勝手に動物を殺しておいて、神がそうせざるを得なくしているかにお考えになってはいけません。どちらにするかは、あなた方が決めることです。動物を殺さないと生きて行けないというものではありません。が、いずれにせよ、答えは簡単です。そうした問題をどう処理していくかによって人類の進化が決まるということです。自分たちのやっていることに疑問を感じるようになれば、その時、あなたの良心が次の答えを出します。
人間は自分のすることに責任を取ることになっており、その行為の一つ一つが、その人の霊性に影響を及ぼします。その際に必ず考慮されるのが動機です。動機にやましいところがなく、どうしても殺さざるを得なかったという場合は、その行為はあなたの成長にプラスに働きます。
霊的摂理は原因と結果の関係、タネ蒔きと刈り入れの原理の上に成り立っており、これは絶対にごまかせません。あなたのすること、考えること、口にすることの一つ一つがそれ相応の結果を自動的に生み出します。そこにごまかしは利きません。悪いと知りつつ間違ったことをした場合は、その結果に対して責任を取らされます。その結果としての苦しみは自分で背負わねばなりません。
良い行いをする場合でも、それが見栄から出ているのであれば動機がお粗末でいけませんが、魂の自然の発露として善行を施した場合は、そういう行いをしたという事実そのものが、あなたを霊的に向上させます。それが摂理というものなのです。
私が常々申し上げているのは、"殺害"の観念がつきまとう食糧品はなるべくなら摂取しない方がよいということです。殺すということは絶対にいけないことです。ただし、その動機を考慮しなければならない場合があることは認めます。
霊的向上を望む者は、いかなる犠牲を払っても大自然の摂理と調和して生きる覚悟ができていなければなりません。その摂理は霊的なのです。例が発揮すべき側面はいつの時代も同じです。愛と慈悲と寛容と同情と協調です。こうした原理に従って考えれば、食すべきものを食し、飲むべきものを飲み、正しい生き方に導かれます。しかし、最終的に選択するのはあなた自身です。そのために神は自由意志というものをお与えになっているのです」
今回の内容もとても奥が深い。けれど私達人間にとっては考えさせられることばかりだ。肉食は今や当然となっている。ほとんどの人間は肉食が悪いことだとは思っていない。小さい時から食べ慣れているということもある。私自身も息子が亡くなるまでは肉食は当然のことと思っていた。だがシルバー・バーチ霊の殺すことは絶対にいけないということ、殺害の観念がつきまとう食糧品はなるべくなら摂取しない方がいいとのお言葉で、肉食は一切しないようになった。
私は霊的向上を心から望んでいる。それにはいかなる犠牲を払っても大自然の摂理と調和して生きる覚悟ができていないといけないと言われる。理想は私もそのように生きたいと思っているが、なかなか難しい。なので出来ることから少しずつやって行こうと思っている。最終的に選択するのは私自身なのだから、愛と慈悲と寛容と同情と協調、これを胸に行動して行きたいと改めて肝に銘じたいと思った
。
875回目の瞑想
ーーー動物に投与している抗生物質などの薬品類が巡り巡って人間の体内へ入ってきている事実をどう思われますか。
「それは、他の生命に害悪を及ぼすと必ずそれに対して責任を取らされるという、大自然の永遠のサイクルの一環です。他の生命に残虐な仕打ちをしておいて、それが生み出す結果を逃れるということは許されません。食欲以外に何の理由付けもないしに動物をオリの中で飼育し、動物としての本来の権利を奪うことは、悪循環をこしらえることにしかなりません。そのサイクルの中で因果律が生み出すものに対して、人間は苦しい代償を支払わねばなりません。動物であろうと花であろうと小鳥であろうと人間であろうと、自然界全体が恵んでくれる最高のものを得るためには、慈悲と愛と哀れみと親切と協調しかないのです」
ーーーいわゆる動物実験では本当に役立つものは得られないということを人類が理解する段階はもう来ているのでしょうか。そのことに理解がいけば、それは道徳的並びに霊的生活における大きな進歩を意味することになるのでしょうか。
「動物実験によって何一つ役立つものが得られないというわけではありません。が、その手段は間違っていると申し上げているのです。何の罪ものない動物に残酷な仕打ちをすることは霊的なことすべてに反するからです。
人間は自分のすることに責任を取らされます。動機は正しいといえるケースも沢山ありますし、それはそれとして霊的発達に影響を及ぼします。摂理とはそういうものなのです。がしかし、神は、子等が動物への略奪と残忍な行為によって健康になるようには計画しておられません。それは改めて強調する必要を認めないほど明らかなことでしょう。
学者が道を間違えているのはそこのところです。人間の方が動物より大切な存在である。よってその動物を実験台として人間の健康と幸福の増進を図る権利がある、という弁解をするのですが、これは間違っております。
共存共栄こそが摂理なのです。人間がその責任を自覚すれば、哀れみと慈悲の心が生まれてくるはずです。他の生命を略奪しておいて、その結果として自分に及ぶ苦しみから逃れられるものではありません。略奪行為は略奪者自身にとって危険なことなのです。残虐行為はそれを行う人間にとって罪なことなのです。愛を発揮すれば、それだけ自分が得をするのです。憎しみの念を出せば、それだけ自分が損をするのです。摂理がそういうふうに出来ているのです。
従って当然、皆さんは動物への残虐行為を減らし、もっと良い方法、哀れみに満ちた手段を教えるための努力をすべきです。人々に、自らの生活を規律正しくし自然の摂理と調和して生きる手段を教えてあげれば、みんな元気で健康で明るさいっぱいの人間になれるのです。
霊的に見て間違っていることは決して許されるものではありません。しかし、不完全な世界においてはある程度の間違いと行き過ぎはやむを得ません。そうした中にあった皆さんが、平和と友好と和合と愛の中で暮らすべき全生命の福祉を促進するために闘うべきなのです。愛とは摂理を成就することなのです。他の生命に残酷な行為をしている限り、愛を成就しているとは言えません。ナザレのイエスは自分の敵に対して向けられる愛を最高のものとしました。もとより、これは生易しいものではありません。情愛、共感、親近感を覚える者を愛することは容易です。しかし、とかく敵対関係になる相手を愛することがもし出来れば、それは神の御心の最高の表現であると言えます。
何事につけ、価値あるものは成就することが困難に出来上がっているのです。もしも霊的進化が楽に達成できるとしたら、それはするほどの価値はないことになりましょう」
ーーー敵のことをせめて悪く思わないでいられるようになれば、小さくても進歩は進歩だろうと思います。大部分の人間にとってそれが精一杯です。
おっしゃる通りなのですが、私たちの立場としては、愛と哀れみと肝要の精神を発揮するという理想へ向けて皆さんを導かねばならないのです。それが霊の資質だからです。それが多く発揮されるほど地上は良くなります。ですから、皆さんには可能な限りの最善を尽くしていただかねばなりません。たった一人の人間、たった一頭の動物でも救ってあげれば、それは価値ある仕事と言えます」
今回の最初の質問は、シルバー・バーチ霊の言われる通りで、至極当然だと思う。もちろん、動物実験にしても然りだ。人間のために罪のない動物の生命を奪うという行為は許されるべきではない。神様は人間が動物への略奪と残忍な行為によって健康になるようには計画しておられないと言われているが、当然のことと思う。罪のない動物の命を奪っておいて、人間が幸せになれるはずもない。そんなことは少し考えればわかることだ。
共存共栄こそが摂理であり、哀れみと慈悲の心で接することが肝要なのだ。それが摂理なのだから、他の生命を略奪しておいて、自分に及ぶ苦しみからは逃れようとしてもそれはできるはずもない。略奪行為は略奪者自身にとって危険なことであり、残虐行為はそれを行う人間にとって罪なことなのだ。やがて必ず報いを受けることになる。けれど、不完全な世界においてはある程度の間違いと行き過ぎはやむを得えないと言われている。だが、そのような中で、愛をもって生活していくことで、自分の使命を成就していかなければならないのだ。また敵に対して愛することがもし出来れば、それは神の御心の最高の表現であると言われている。本当にそれができたらどんなに幸せだろう。だが最後の方が言われるように、敵に対して愛こそは持てないが、憎しみは持たない、せめて悪く思わないようにすること、これが今の私達人間のできる限界ではないだろうか。でなければ戦争などは起きようはずもない。もちろん、シルバー・バーチ霊の言われることはもっともなことだと思う。理想を掲げてそれを目標にすることは、とても大事なことだと思う。その理想に近づけるように出来る限り努力していくことが、今の私達人間にとって重要な課題なのだと思う
。
876回目の瞑想
ーーー霊的に正しければ物的な側面も正しくなるとおっしゃったことがありますが、地上の動物についてそれをどう当てはめたらよいのでしょうか。人間によって虐待され屠殺され誤用されるために生まれてくるようなものです。動物は霊的に何も間違ったことはしていないはずですが・・・
「そうではありません。動物の霊は、霊は霊でも人間の霊とは範疇カテゴリーが違います。人間んは正しい選択をする責任が負わされています。そこに自由意志があります。進化の計画を促進することもできれば遅らせることもできます。つまり、限られた範囲内においての話ですが、地球という惑星で一緒に暮らしている他の生命をどう扱うかについて自由意志を行使することが許されております。地上は悪用・濫用・誤用だらけです。その中でも決して小さいとは言えないのが動物への無用の虐待と略奪です。しかし、人間が進化していくにはそうした過程もやむを得ないのです。もしも人間から自由意志を奪ってしまえば、インディビジュアリティを進化させ発展させていくチャンスが無くなります。そこが難しいところなのです」
ーーーそういう事態が生じることが許されるという、そこのところが理解できないのです。
「"生じることが許される"という言い方をなさるということは、あなたは人間から自由意志を奪い去った方がよいとお考えになっていることになります。繰り返しますが、もしも人間が自由意志を奪われたら、ただの操り人形でしかなくなり、内部の神性を発揮することができなくなります。霊的本性が進化せず、地上生活の目的も果たせません。あなたが地上に生を受けたのは、地上が霊の保育所であり、学校であり、訓練所だからです。さまざまな挑戦にあい、それを克服していく中で自由意志を行使してこそ、霊は進化できるのです」
ーーー人類が過ちを犯しながら学んでいく、その犠牲になるのが抵抗するすべを知らない動物たちであるというのは、われわれの限りある知能では不公平に思えてなりません。人間が悪いことをして動物が犠牲を払うというのは、どこか間違っているように思えます。
「あなたご自身はどうあるべきだとお考えですか」
ーーー人間が動物に対して間違いを犯せば、その天罰は動物ではなく人間の頭上に降りかかるべきだと考えます。
「埋め合わせと懲罰の法則というのがあります。あなたが行う善いこと悪いことのすべてが、自動的にあなたに霊的な影響を及ぼします。大自然の因果律は絶対に免れません。埋め合わせと懲罰の法則はその大自然の中核をなるものです。罪の無い人民が支配者の横暴な振舞いによって被る犠牲に対して埋め合わせがあるように、残虐な取り扱いを受けた動物にもそれなりの埋め合わせがあります」
今回の内容もやはりとても奥が深い。動物の本来の役目は人間と共に進化していくことだが、それは人間の自由意志にかかっているのだ。やはり人間の正しい生き方がすべての調和につながるということなのだと思う。確かに質問されている人の気持ちは私も同じだ。なぜ、罪のない動物を虐待したり、屠殺したりと残酷極まりないことをしているのかと、常々思っている。けれどシルバー・バーチ霊の限られた範囲内で、この地球で一緒に暮らしている他の生命をどう扱うかについて自由意志を行使することが許されていると言われ、地上は悪用・濫用・誤用だらけだと言われている。そしてその中でも決して小さいとは言えないのが動物への無用の虐待と略奪だと言われている。けれど、人間が進化していくにはそうした過程もやむを得ないのだそうだ。人間に許された自由意志がなくなってしまえば、ただの操り人形になってしまう。私はそれでもいいとさえ思ってしまっていたが、それでは人間の進化が促進できず、内部の神性を発揮することもできなくなると言われており、霊的本性が進化せず、地上生活の目的も果たせないとのことなのだ。要するに人間が進化する以外、方法はないということだ。ただ、その過程において犠牲を被った罪のない人間、動物は、埋め合わせと懲罰の法則により、埋め合わせがあると言われている。因果律はすべての生命に平等に働くということで、この問題は納得するしかないのだと思う。
855回目の瞑想
ーーー死にたくない患者も大勢いるはずです。たとえ医師が安楽死させる権利を与えられても、その人たちはまず死にたがらないだろうと思われます。
「安楽死の決定権はもともと医師などに与えるべきものではないのです。現実の事実を直視してみてください。大半の医師の物の観方は唯物的です。その医学的知識は人間が身体の他に精神と霊とから成っていることを認識していない唯物思想を基礎としています。少なくとも医学界においては人間は脳を中枢とする身体、それに多分ある種の精神的なものを具えた物的存在であり、霊というものについての認識はゼロに等しいのです。そうした、人生でもっとも大切なことについてまったく無知な人たちに、そのような生死に関わる決定権がどうして預けられましょうか」
今回の内容も安楽死の問題であるが、シルバー・バーチ霊の言われる通りだと思う。お医者様で霊的なことをわかっている方はどの位いるだろうか。少なくとも私が知る限りでは皆無である。しかも今の若い医者はすべて数値で推し量ろうとしている。患者本人を見て判断できる経験が乏しいからだろうが、数値で人は計れない、と私は思う。むしろ毎日一緒にいる身内の方が、医者よりもわかる場合がある。話が逸れてしまったが、唯物的なことのみで判断されては、本末転倒ということになる。霊的なことを踏まえて判断を下せるお医者様が出て来て欲しいものだ。いや医者という職業は一般の人よりも霊的なことがわからなければいけないのではないかと思う。それは人生で一番大切な生死に関わるお仕事だからだ。ただ、私達人間の教育には根本がまったく施されていない。まずは人間は霊であるというところから出発しなければ、正しい人生を歩むことが難しくなる。この世はいつになったら、霊としての自覚を早い段階で知ることができるようになるのであろうか
。
856回目の瞑想
ーーー万一事故で身体が不自由になった場合は死を選びます、という宣誓書にサインする人がいます。
「それはその人の自由意志によって行う選択です」
ーーーその要請に基づいて医師が実行した場合はどうなりますか。
「問題ありません」
ーーー患者が自由意志によって死を選んだ場合でもやはり因果律が働くのでしょうか。
「いついかなる場合でも因果律が働いています。あなたのこのたびの地上への誕生も因果律が働いたその結果です。これから訪れるあなたの死も因果律の自然な働きの結果であるべきです。それを中断ショートさせる、つまり余計な干渉をするということは、自然な因果関係を破壊することですから、当然その償いをしなければならなくなります。
何度も申し上げておりますように、死は霊に準備ができた時に訪れるべきものです。それはリンゴが熟すると木から落ちるのと同じです。まだ熟し切らないうちにもぎ取れば、そのリンゴは食べられません。霊も十分な準備ができないうちに身体から無理やり離されると、それなりのペナルティが課せられます。それを因果律というのです。
人間の判断は物的観察だけに基づいておりますが、人生の目的はもともと霊的なものなのです。人間の勝手な考えで地上から連れ去ってはいけません。人間には全体像が見えません。物的側面しか見えません。一人ひとりに生まれるべき時があり死ぬべき時があります。それもすべて自然の摂理の一環なのです。あなた方が生命を与えるのはありません。ですから勝手に奪うことも許されません。生命は神のものなのです。
神はその無限の叡智によって、各自が公正な裁きを受けるように摂理を用意しておられます。その永遠の営みを、この地上生活という一欠片でもって判断しようとすると誤ります。あなた方は霊というもの、及びその霊への反応というものを推し量る手段を何一つ持ち合わせてはいないのです。
苦しみが魂にとって薬になることがあります。それによって魂の本質が試されることになります。潜在する資質が呼び覚まされます。鋼はがねは炎の中においてこそ鍛えられるのです。黄金は破壊と錬磨によって初めて真の姿を現すのです。
地上生活の出来事には必ず目的があります。哀れな姿を見て同情なさるお気持ちは私にも分かります。ですが、地上生活には偶然というものは何一つないのです。それに、いったい誰に、生殺与奪の権利を握る資格があるのでしょうか。医師が判断を誤ることは十分にあり得ることです。数々の誤診を犯している現実をご覧になれば分かります。
私たちはあなた方と正反対の観方をすることがあります。肉体の死は霊の誕生という
観方をします。混乱状態を進歩と見なし、人間が進歩と思っていることを禍いのタネと見なすことがあります。永遠の物的なものさしで計っても満足のいく解答は得られません。
例えば、なぜ苦しみがあるのか、幼気いたいけない子供がなぜ苦しまねばならないのか。痛み、病気、面倒、危機、こうしたものがなぜあるのか。そういう疑問を抱かれるようですが、それもすべて霊の進化という永遠の物語の一部なのです。その中には地上に誕生してくる前に、自ら覚悟しているものもあるのです。霊的な身支度を整える上で学ぶべき教訓を提供してくれる、ありとあらゆる体験を経ないことには成長は望めません。とどのつまりは、それが存在の目的なのです。
こうしたことは前にも申し上げました。光の存在に気づくのは暗闇があるからこそです。もしも暗闇がなければ、光とはいかなるものであるかが分かりません。埋め合わせと懲こらしめの原理というのがあります。神は厳正なる審判者です。差引勘定がきっちりと合わされます。
決算書を作成する時が来てみると帳尻がきっちりと合っています。
どうか同情心はこれからも持ち続けてください。しかし同時に、見た目に気の毒なこと、理解に苦しむことの裏側にも必ずちゃんとした意味があることを理解するように努めてください。
永遠の時の流れの中にあっては、数時間や数日は大した意味はありません。大切なのは魂に及ぼす影響です。多分ご存知と思いますが、実際は患者よりも側はたで見ている人の方が苦しみが大きいことがよくあります。患者自身は単に身体上の反応を見せているだけで、あなたがさぞかしと思いやっておられる苦しみは味わっていないものです。
魂に及ぶものが一番大切です。と言って、身体上のことに無神経になりなさいと言っているのではありません。身体は霊が地上で自我を表現する媒体です。両者は常に反応し合っております。身体は霊に影響を及ぼし、霊は身体に影響を及ぼしています。しかし、どちらが上かと言えば、文句なしに霊の方です。霊が王様であり身体は召使いです。
身体にいくら薬品を注ぎ込んでも、別に霊には影響はありません。それによって最終的に身体との分離の時期を少しばかり遅らせることはできるかも知れませんが、霊はいつかは身体を離れなければならないという摂理を変えることはできません。不老不死の妙薬や治療法はいくら求めても無駄です。自然の摂理によって支配されているからです」
今回のシルバー・バーチ霊の説かれるお言葉には、納得せざるを得ない。私達人間が地上に誕生するのも死が訪れるのもすべては因果律であると言われている。ということは今この世に生を受けている人達はみな因果律によってということになる。どんな因果律かはそれぞれ違うと思うが、自然の摂理によって、この地上に誕生したことには間違いないのだ。また、この地上でどんな体験であろうが、その人にとって必要な体験をすることになる。それがどれだけ苛酷な体験であっても、地上生活には偶然というものは何一つないと断言されているのだ。確かにこの世を騒がせているニュースにはとんでもない事件などもあり、到底信じられないようなことが実際に行われている。だが、それもすべては偶然ではなく、必然だということなのだ。神様はその無限の叡智によって、各自が公正な裁きを受けるように摂理を用意しておられると言われ、その永遠の営みをこの地上生活という一欠片でもって判断しようとするのは誤りだと言われている。ただ同情心だけは持ち続けなさいと言われている。人に対して思いやりを持ち、自然の摂理に適う生き方をしなさいということだ。口で言うのは簡単だが、実行に移すのは難しい。だが、できる限り努力していくしかないと思う
。
857回目の瞑想
ーーー死後の生命を信じるが故に死を歓迎することもあるかも知れません。肉体が手の施しようのない状態となり、そうなった以上もはや医学的手段でいたずらに生命を維持するのを潔しとせず、死を覚悟するのです。
「ならばその時の動機づけが大切なポイントになります。同じ行為でも動機づけによって正当性が違ってきます」
ーーー自殺者のそちらでの状態は不幸で、右も左も分からなくなり、みじめであるということですが、自殺する時の精神状態が既にそうであったはずですから、死後も同じ状態に置かれても不思議はないと思うのです。では仮に真の喜びと幸せを感じながら自殺したらどうなるでしょうか。
「その場合は動機が自己中心的ということになります。自然の摂理をごまかすことはできません。こればかりは例外はありません。蒔いたものは自分で刈り取らねばなりません。それ以外にありようがないのです。動機がすべてを決定づけます。その時点において良心が善いことか悪いことかを告げてくれます。もしそこで言い訳をして自分で自分をごまかすようなことをすれば、それに対して責任を取らされることになります」
今回の内容は自殺についてだ。これも前にも記載していると思うが、大事なことなので、再度記載した。死後の生命を信じる人は、死は怖くない。だからこそ、助かる見込みがなければ、死を覚悟するは当然だと思う。だが、そこにも動機が大切なポイントになると言われている。同じ行為だとしても、動機次第ではその正当性は違ってしまうようだ。また次の質問だが、まず真の喜びと幸せを感じながら自殺する人などいるだろうか。それに対して疑問がある。だが、シルバー・バーチ霊のお答えは、そのような場合でも動機が自己中心的だと言われて、蒔いたものは自分で刈り取らねばならないのだ。だからこそ自己中心的な自殺はいけないということを説いておられるのだ。ただ人生の中で自殺したくなる時は少なからずあると思う。けれど、霊的真理を知っていれば、自殺しても何の解決にもならないし、それどころか更に苦しむことになるということがわかり、思い留まることができる。だが、今現在も自殺者が増えているとのことで、残念でしかたない。
858回目の瞑想
ーーー食べ過ぎ飲み過ぎ吸い過ぎは自殺行為だと医者がよく言いますが、これも一種の自殺と見なされるのでしょうか。それとも死というのはあらかじめ定められているのでしょうか。
「答えはご質問の中に暗示されております。もしもあらかじめ定められているのであれば、それが自殺行為であるか否かの問題ではなく、そうなるように方向づけられていたことになります。ですから、それが宿命であれば、そうなるほかはなかったということです。魂そのものはそれと自覚していることもあり得ます」
ーーー私は死が誕生時から知られているのかどうか、また、その後の行いによって変えることができるのかどうか、その辺が確信できません。
「知られているというのは、誰にですか」
ーーーおそらく生まれてくる本人、あるいはそちらに残して行く仲間の霊かと思います。
「知られていることは事実です。しかしそれが(脳を焦点とする意識を通して)表面に出て来ないのです。地上生活期間を永遠で割ると無限小の数字になってしまいます。その分数の横線の上(分子)にどんな数字を持って来ても、その下にあるもの(分母)に較べれば顕微鏡的数字となります。小が大を兼ねることはできません。魂の奥でいかなる自覚がなさていても、それが表面に出るにはそれ相当の準備が要ります。
人間には相対的条件下での自由意志が認められております。定められた人生模様の枝葉末節なら変えることができますが、その基本のパターンそのものを変えることはできません。定められたコースを自分で切り抜けて行かねばなりません。ただ、地上の人間は、一人の例外もなく、絶対的支配力である霊力の恩恵にあずかる機会を与えられております。自ら求めるのでない限り、永遠に暗闇の中で苦しめられることはありません。何よりも動機が最優先されます。その行為が正しいか間違っているかは動機いかんに掛かっているのです。その摂理は動かしようがありません」
今回の質疑応答もとても興味深い。食べ過ぎ飲み過ぎ吸い過ぎは、あらかじめ定められているのであれば、それが宿命であれば、そうなるように方向づけられていたということになり、魂そのものはそれと自覚していることもあり得ると言われている。そのように決めて生まれてくることもあるということを知って驚いた。というのもそれが因果律の働きだとしたら、この世に生まれて来た意味とは何なのだろうと思うからだ。食べ過ぎや飲み過ぎなどを体験しなければいけないということなのだろうか。
死に関して知られていることは事実だと言われている。魂の奥でいかなる自覚がなされていたとしても、表面意識には出てこないようだ。だが心の奥底ではわかっているのだ。また定められた人生模様の枝葉末節なら変えることはできるが、その基本のパターンそのものを変えることはできないと言われる。けれど地上の人間は一人の例外もなく、絶対的支配力である霊力の恩恵にあずかる機会が与えられていると言われている。そして何よりも自分の行為が正しいか間違っているかは動機次第なのだと再三言われているのだ。どんな行為もすべては動機が最優先される。常に動機を問うて行かなければいけないということなのだろう。難しいことではあるが、できる限り努力して行くことが肝心なのだと思う。
859回目の瞑想
いつの時代にも社会・道徳・霊的の視点から問題となっている死刑制度がある。それについてシルバーバーチは次のような見解を述べている。
「霊の教訓として私が躊躇なく述べていることは、殺人を犯したからといってその犯人を殺してよいということにはならないということです。地上の人間は正義と復讐とを区別しなくてはいけません。いかなる理由にせよ、霊的に何の用意もできていない魂から肉体を奪って霊界へ送り込むことは、最低の人間的感情を満足させることにはなっても、何一つ意義のあることは成就されません。正当な裁きを下すべきです。死刑によって一個の人間を霊界へ送り込んでも、その霊を一欠片も進化させることにはなりません。逆に、一段と堕落させ、"目には目を歯には歯を"の激情に巻き込みます。
われわれは生命は肉体の死後も生き続けるという動かし難い事実を基礎とした原理を堅持しなくてはいけません。何の準備もできていない人間を霊界へ送り込むことは、ますますトラブルのタネを増やすことになるのです。時には誤審による死刑も行われており、正当な裁きが為されておりません。
生命は神聖なるものです。その生殺与奪の権利は人間にはないのです。それをいかに扱うかにあなた方の責任があります。生命は物質から生まれるのではありません。物質が生命によってこしらえられ、存在が維持されているのです。生命とは霊に所属するものです。宇宙の大霊から出ているのです。生命は神性を帯びているのです。ですから、生命及び各種の生命形態を扱うに際しては、憐憫と慈愛と同情という最高の倫理的規範に照らさなくてはなりません。何事をするにも、まず動機に間違いがないようにしなくてはいけません」
今回の内容も前に記載した死刑についてである。未だに死刑制度は日本にある。このシルバー・バーチ霊の言われる内容を熟知していれば、死刑制度などは廃止すべきだ。また被害者である遺族の気持ちを最低の人間的感情と一蹴している。私達人間は犯人を憎むあまり、正義と復讐とを取り違えてしまっている。その憎む心は最低の人間的感情なのだ。また霊的真理を理解できていれば、なぜそのような状態になったのかを冷静に考えることができるのだ。すべては因果律、神様の摂理なのだ。そしてこの世のすべてのことには偶然はなく必然しかない。この霊的真理を理解することで、犯人を憎み死刑にするということは、また来世でも同じようなことが繰り返されるということに気づかせてもらえる。だからこそ、どこかで終止符を打たなければいけない。終わりにするためには、霊的真理の意味を十分に理解し、神様を信じて瞑想し、お祈りすることしかないように思う。憎しみはすべてを破壊する威力がある。その憎しみの心を癒やすためにも、必須であると思っている。
860回目の瞑想
ーーー地上で目覚めなかった魂はそちらでどうなるのでしょうか。
「これがとても厄介なのです。それはちょうど社会生活について何の予備知識もないまま大人の世界に放り込まれた人と同じです。最初は何の自覚もないままでスタートします。地上と霊界のどちらの世界にも適応できません。地上において霊界生活に備えた教訓を何一つ学ばずに終わったのです。何の準備もできていないのです。身支度が調っていないのです」
ーーーそういう人たちをどうされるのですか。
「自覚のない魂はこちらでは手の施しようがありませんから、もう一度地上へ誕生せざるを得ない場合もあります。霊的自覚が芽生えるまでに地上の年数にして何百年、何千年とかかることもあります」
ーーー親しい知人が援助してくれるのでしょう?
「出来るだけのことはします。しかし、自覚が芽生えるまでは暗闇の中にいます。自覚のないところに光明は射し込めないのです。それが私たちが直面する根本的な問題です」
ーーー彼ら自身が悪いのでしょうか。
「"悪い"という用語は適切でありません。私なりにお答えしてみましょう。魂を目覚めさせるためのチャンスは地上の人間の一人ひとりに必ず訪れています。神は完全です。誰一人忘れ去られることも無視されることも見落とされることもありません。誰一人として自然法則の行使範囲からはみ出ることはありません。その法則の働きによって、一つ一つの魂に、目覚めのためのチャンスが用意されているのです。
目覚めるまでに至らなかったとすれば、それは本人が悪いというべきではなく、せっかくのチャンスが活用されなかったと言わねばなりません。私がたびたび申し上げているのをご存知と思いますが、もしも誰かがあなたのもとを訪ねてきて、たとえば、病気を治してあげることが出来なかったとか、あるいは他のことで何の力にもなってあげられなかった時は、その人のことを気の毒に思ってあげることです。せっかくのチャンスを生かせなかったということになるからです。あなたが悪いのではありません。あなたは最善を尽くしてあげるしかありません。もしも相手が素直に受け入れてくれなければ、心の中でその方のために祈っておあげなさい。
何とか力になってあげようと努力しても何の反応もないときは、その方にはあなたのもとを去っていただくしかありません。いつまでもその方と首をつながれた思いをなさってはいけません。それぞれの魂に、地上生活中に真理を学び自我を見出すためのチャンスが用意されております。それを本人が拒絶したからといって、それをあなたが悪いかに思うことはありません。あなたの責任はあなたの能力の範囲でベスト尽くすことです。やってあげられるだけのことはやったと確信したら、後のことは忘れて、次の人のことに専念なさることです。これは非情というのとは違います。霊力は、それを受け入れる用意のない人に浪費すべきものではないのです」
今回の内容はとても大切なことを説いて下さっている。この地上で目覚めることができなかった魂は、地上と霊界のどちらの世界にも適応できないと言われ、自覚のないところに光明は射し込めないので、自覚が芽生えるまでは暗闇の中にいるしかないと言われている。霊界の方々は高級霊と言えども、やはり本人が自覚する以外、救ってあげることはできないのだ。また、自覚していない魂は手の施しようがなく、更にもう一度地上へ誕生しなければならない場合もあるようだ。そして霊的自覚が芽生えるまでに地上の年数にして何百年、何千年とかかることもあると言われている。
だが神様はすべてに公平であるから、魂を目覚めさせるためのチャンスを地上の人間一人ひとりに必ず訪れるようにして下さっていると言われている。けれど自覚することができなかった魂は受け入れる準備ができていなかったということで気の毒な人たちと思ってあげなさいとも言われている。だが、最後のお言葉は厳しい。やるだけのことをやったと確信したら、次の人に専念しなさいと言われており、霊力はそれを受け入れる用意のない人に浪費すべきものではないと断言されているのだ。今回のことも肝に銘じて行こうと強く思った次第である。
861回目の瞑想
ゲストにご両親がニュージーランドでスピリチュアリズムの普及活動している若い女性が出席していた。その女性に向けてシルバーバーチは挨拶をしてからこう述べた。
「新参の方にいつも申し上げていることですが、私の教えを(新聞・雑誌で)世間へ公表して下さる際に、私のことをあたかも全知全能であるかに紹介して下さっているために、私もそれに恥じないように努力しなければなりません。しかし実際は私は永遠の真理のいくばくかを学んだだけでして、それを、受け入れる用意のできた地上の人たちにお分けしようとしているところです。
そこが大切な点です。受け入れる用意ができていないとだめなのです。真理は心を固く閉ざした人の中には入れません。受け入れる能力のあるところにのみ居場所を見出すのです。真理は宇宙の大霊と同じく無限です。あなたが受け取る分量はあなたの理解力の一つにかかっています。理解力が増せば更に多くの真理を受け取ることができます。しかも、この宇宙につていすべてを知り尽くしたという段階には、いつまで経っても到達できません。
前口上が長くなりましたが、私はあなたようにお若い方にはいつも、その若さでこうした霊的真理を授かることができたことは、この上なく幸運なことであることを申し上げるのです。これから開けゆく人生でそれが何よりの力となってくれるからです。それにひきかえ、今の時代においてすら若い時から間違ったことを教え込まれ、精神構造が宗教の名のもとに滑稽ともいうべき思想でぎゅうぎゅう詰めにされている若者が少なくないのは、何という悲しいことでしょう。何の価値もないばかりか、霊的進化を促進するどころかむしろ障害となっているのです。
神の教えではなく、人間が勝手にこしらえた教説が無抵抗の未熟な精神に植えつけられます。それが成人後オウムのごとく繰り返されていくうちに潜在意識の組織の一部となってしまうケースが余りにも多いのです。それが本当は測り知れない恩恵をもたらすはずの霊的真理を受け入れ難くしております。
地上生活にとって呪いともいうべきものの一つは、無意味な神学的教説が着々と広まったことだったと断言して、決して間違っていないろ私は考えます。それが統一ではなく分裂の原因となり、お互いの霊的本性の共通性の認識のもとに一体ならしめる基盤とならずに、流血と暴力と抗争と戦争そして分裂へと導いていきました。
それゆえにこそ私は、あなたがこうして霊的真理を手にされたことは実に恵まれていらっしゃると申し上げるのです。あなたは人生の目的を理解し、無限の愛と叡智から生み出された雄大な構想の中に自分も入っているのだという認識をもって、人生の大冒険に立ち向かうことができます。それは何ものにも替え難い貴重な財産です。霊的兵器を備えられたのです。
あなたは人生での闘いに臆することなく立ち向かい、いかなる事態に置かれても、自分には困難を克服し障害を乗り越え、霊的品格と強靱さを身につけていく力が秘められていることの自信を持つことができます。それであなたも宇宙の大霊に貢献していることになります。
大霊は無限の多様性をもった統一体です。人間一人ひとり異なっていながら根源においては同じです。同じ大霊によって生命を賦与されているからです。が、顕現の仕方は多岐に渡り、全く同じ個性は二つと存在しません。しかも、いずれも神の遺産として、発達させれば自分より恵まれない者を救うことのできる能力が賦与されているのです。
あなたも例外ではありません。その能力を発達させるのがあなたの義務なのです。必ずしも霊的能力に限りません。他にもすべての人間が所有し世の中を豊かにする手立てとすることのできる才能がたくさんあります。地上の人間のすべてがそれぞれに授かっている才能や技能を発揮するようになれば、どんなにか世の中が明るくなることでしょう」
今回の内容も重要なことを教えて下さっている。霊的真理を受け入れるには受け入れる用意ができていないとだめだと言われており、真理は心を固く閉ざした人の中には入れず、受け入れる能力のあるところにのみ居場所を見出すと言われている。そして受け取る分量は各自の理解力にかかっており、理解力が増せば更に多くの真理を受け取ることができると言われているのだ。受け入れることにも能力が関係しているとは驚きであるが、その能力が養われるのは、いろいろな体験の克服を通して得られるのではないかと思う。そして、受け入れることができてもその理解力に応じて受け取る分量は決まるとのこと。受け入れたからと言って、それで終わりではない。むしろそこからがスタートなのだ。更に一層の理解力を得るために、いろいろな体験をして行かなければいけないということなのだろう。先は本当に果てしなく遠い。けれど、だからと言って、もう知らぬふりはできない。霊的真理を知った以上は努力していく以外に道はないのだから。
862回目の瞑想
ヘロインやLSDについて
「困ったことに、その種の麻薬は地上と接した幽界の最下層の波長に合った心霊中枢を開かせるのです。それに感応してやってくる霊はその者と同程度のもの、往々にして地上で麻薬中毒あるいはアルコール中毒だった者で、その状態が一歩も脱出できずに、相変わらずその種の満足を求めているのです。地縛状態から解放されていないのです。
霊的治癒能力は触媒です。身体と霊と幽体との関係が混乱して生じている複雑な状態を解きほぐします。霊と精神と身体の三者が調和すれば健康に向かい始めます」
今回の内容は、私を含め私の周りの者も全く無縁な話ではあるが、世の中には特に芸能人などに多いが、アルコール中毒者や麻薬中毒者がいる。私自身も、前々からそういった方々には良くない霊が憑依していると思っていたが、今回のシルバー・バーチ霊のお言葉に至極納得できた。地上と接した幽界の最下層の波長と合った心霊中枢を開かせてしまうとは、やはり麻薬とは怖いものだ。しかもそれに感応してくる霊はその麻薬中毒者やアルコール中毒者と同程度だと言われている。要するに類友の法則なのだろう。死後もなお、その状態から脱出できずに、地縛状態のまま解放される霊は少ないようだ。そこで効果があるのはやはり霊的治癒のようだ。麻薬やアルコールなどによって、身体と霊と幽体との関係が混乱している複雑な状態を解きほぐしてくれると言われている。やはり霊的に解決するほかないということだ。だからこそ、麻薬やアルコールに依存することはやめなければならない。何の解決にもなっていない。それよりも更に酷い状態になるのみなのである。早くこういったことが世に出て欲しいものだと思う。
863回目の瞑想
ーーー われわれが真実に間違いないと確信していることでも、それを他人に信じさせることは難しいことです。今こそ必要とされている霊的真理を広く一般に証明してみせるために何とかして霊界から大掛かりな働きかけをしていただけないものでしょうか。それとも、今はその時期でないということでしょうか。
「その時期でないのではなく、そういうやり方ではいけないということです。私たちは熱狂的雰囲気の中での集団的回心の方法はとりません。そんなものは翌朝はもう蒸発して消えています。私たちは目的が違います。私たちの目的は一人ひとりが自分で疑問を抱いて追求し、その上で、私たちの説いていることに理性を反撥させるもの、あるいは知性を侮辱するものがないことを得心してくれるようにもっていくことです。
私たちは立証と論理によって得心させなければいけません。これはその人たちが霊的に受け入れる用意ができていなければ不可能なことです。そしてその受け入れ準備は、魂が何らかの危機、悲劇、あるいは病気等の体験によって目覚めるまでは整いません。つまり物質の世界には解答は見出し得ないという認識を得なければなりません。人間の窮地は神の好機であるといった主旨の諺があります。
私たちはそういう方法でしか仕事ができないのです。一点の曇りもなく霊的真理を確信できた人間は真の自我に目覚め霊的可能性を知ることになると私たちは信じるのです。生命は死後も途切れることなく続くことに得心がいきます。霊的自我に目覚めたその魂にとっては、その時から本当の自己開発が始まるのです。そして霊的知識に照らして自分の人生を規制するようになります。自然にそうなるのです。それによって内部の神性がますます発揮され、霊的に、そして精神的に、大きさと優雅さが増してまいります。
あなたように霊的な知識を手にした人間は、自分のもとに訪れる人にそれを提供する義務があります。ですが、受け入れる用意のできていない人をいくら説得せんとしても、それは石垣に頭を叩きつけるようなもので、何の効果もありません。手を差しのべる用意だけはいつも整えておくべきです。もしお役に立てば、そうさせていただいたことに感謝の意を表しなさい。もしもお役に立てなかったら、その人のために涙を流してあげなさい。その人はせっかくのチャンスを目の前にしながら、それを手にすることができなかったのですから。
それは以外に方法はありません。容易な手段で得られたものは容易に棄て去られるものです。霊的熟達の道は長く、遅々として、しかも困難なものです。霊の褒章は奮闘努力と犠牲によってのみ獲得されるのです。
霊的卓越に近道はありません。即席の方法というものはありません。奮闘努力の生活の中で魂が必死の思いで獲得しなければなりません。聖者が何年もの修行の末に手にしたものを、利己主義者が一夜のうちに手にすることが出来るとしたら、神の摂理はまやかしであったことになります。それはまさしく神の公正を愚弄するものです。一人ひとりの魂が自分の努力によって成長と発達と進化を成就しなくてはならないのです。そうした努力の末に確信を得た魂は、もはや霊的真理をおろそかにすることは絶対にありません。
落胆する必要など、どこにもありません。私たちは前進し続けております。勝利をおさめつつあります。決して敗けているのではありません。混乱しているのは(真理の出現に)狼狽している勢力です。霊的真理は途切れることなく前進を続けております。
あなたにこの知識をもたらしたのは、他ならぬ"悲しみ"です。あなたは絶望の淵まで蹴落とされたからこそ受容性を身につけることができたのです。が、今はもうその淵へ舞い戻ることはないでしょう。
それです。それと同じことを他の人々にも体験させてあげるのです。永い惰眠から目を覚まし、受容性を身につけ、神の意図された生き方を始める者が増えるにつれて、徐々にではあっても確実に霊的真理が広がっていっていることを私たちは心からうれしく思っております。
あなた方が大事に思っておられることが私たちにはどうでもよいことに思えることがあります。反対にあなた方がどうでもよいと思っておられることが私たちからみると大事なことである場合があります。その違いは視野の置きどころの違いから生じます。分数の計算でいえば、人生七十年も、永遠の時で割れば大した数字にはなりますまい。
ダマスカスへ向かうサウロ(のちのパウロ)を回心させたのが目も眩まんばかりの天の光であったように(使徒行伝9)たった一つの出来事が魂の目を開かせる触媒となることがあるものです。それはその時の事情次第です。こうだという厳格で固定した規準をあげるわけにはまいりません。地上への誕生のそもそもの目的は魂が目を覚ますことにあります。もしも魂が目覚めないまま終われば、その一生は無駄に終わったことになります。地上生活が提供してくれる教育の機会が生かされなかったことになります」
今回の内容はやはり大切なので、シルバー・バーチ霊のお答えは長いが全文を記載させて頂いた。
実際、他人に霊的真理を伝えることは簡単ではない。一笑に付されることの方が多いからだ。またはいかがわしいとか変な宗教にはまってとか相手にされない。だから質問者の思われることはもっともなことだと思ってしまう。けれどシルバー・バーチ霊は熱狂的雰囲気の中での集団的回心の方法はとらないと言われ、目的は一人ひとりが自分で疑問を抱いて追求し、その上で、立証と論理によって得心させなければいけないと言われている。但し、相手が霊的に受け入れる用意ができていなければ不可能なことだと言われており、その受け入れ準備は、魂が何らかの危機、悲劇、あるいは病気等の体験によって目覚めるまでは整わないと言われているのだ。このお答えを読むと果たして私達人間に霊的真理の普及は出来るのだろうかと疑問に思えてくる。けれど霊的な知識を手にした人間は、自分のもとに訪れる人にそれを提供する義務があると言われる。要はできる限りの努力を惜しまないということなのだろう。自分の出来る限りの努力をして、お役に立てないとしてもそれについて悔やむ必要はなく、相手を思ってあげることが大事なことなのだと教えて下さっているように思う。そして一番肝心なことは、地上への誕生のそもそもの目的は魂が目を覚ますことだと言われている。もしも魂が目覚めないまま終われば、その一生は無駄に終わったことになるとまで言われているのだ。この世に生まれて来て無駄に終わらせるわけにはいかない。魂が目を覚ますこと、これが地上へ誕生した目的であるということを多くの方に知ってもらいたいと強く強く思った次第である
。
864回目の瞑想
毎年毎年、世界中で幾百万とも知れぬ動物が"万物の霊長"たることを誇る人間の手によって実験材料にされている。霊的に見れば本来人間の仲間である無抵抗の動物を人間が冷酷非情に虐待することは、人間同士が故意に苦痛を与え合うこと以上に罪深いことである。血染めの白衣をまとった科学者や研究者は、人間も動物であるという事実に一度でも思いを馳せたことがあるのだろうか。
ーーーあなたのおっしゃるように、もしも自然の摂理が完全であるならば、その摂理に従って生きている動物になぜ弱肉強食という、むごたらしい生き方があるのでしょうか。
「おっしゃる通り摂理は完全です。例え人間にはその顕現のすべては理解できなくても完全です。(三千年もの)永い経験で私は自然の摂理には何一つ不完全さがないことを知りました。無限の叡智と無限の愛によって生み出されたものだからです。これまで何度も申し上げておりますように、創造活動のありとあらゆる側面に対応した摂理が用意されており、何一つ、誰一人として忘れられたり、放ったらかされたり、見落とされたりすることがないのです。
その一つである進化の法則は、存在と活動の低い形態から高い形態への絶え間ない進行の中で働いております。低い動物形態においては、見た目には残忍と思える食い合いの形を取ります。が、進化するにつれてその捕食本能が少しずつ消えていきます。先史時代をご覧なさい。捕食動物の最大のものが地上から姿を消し、食い合いをしない動物が生き残ってきております。これにはもう一つ考慮すべき側面があります。そうした動物の世界の進化のいくつかの面で人類自身の進化が関わっていることです。すなわち人類が進化して動物に対する残忍な行為が少なくなるにつれて、それが動物界の進化に反映していくということです」
今回の内容から、動物に対する質疑応答を記載していく。
冒頭の言葉に至極同感である。人間のために動物が犠牲になるということは、霊的にはもちろんだが、この世的にも間違っているのだと強く思う。動物にも生命があり、心がある。その痛みや苦しみを考えたことがあるのだろうか。人間のためということで何をしても許されるというわけはない。犠牲になった動物達には埋め合わせの法則があると言われているが、それがせめてもの救いである。
ところで、弱肉強食についての質疑応答だが、私も常々なぜそのような生き方をしなければならないのだろうと思ってきた。だが、弱肉強食と言えども、強いものだって生きるのに必死なのだ。生きるために必要なものだけを食している。けれど人間はどうだろう。生きるため以外にも動物を苦しめているのではないか。利益のために動物を殺生している。そんなことが許されるわけがない。シルバー・バーチ霊のお言葉にも動物界の進化には人類が関わっていると言われ、人類が進化して動物に対する残忍な行為がなくなることで、動物界の進化に反映していくと言われているのだ。まずは私達人間が動物に対しての残忍な行為をやめなければいけないということだ。動物に対しては慈しむ心がもっとも必要で大事なことなのだと思っている。
865回目の瞑想
ーーー動物の中にも同じ種属の他の仲間より進化していて人間的資質さえ見せているのがいます。
「それは当然そうあって然るべきことです。どの種属においてもそうですが、進化の世界では未来において発揮されるものを今の段階で発揮している前衛的存在と、現在の段階で発揮すべきものすら発揮していない後衛的存在がいるものだからです。
人類につてい言えば、天才、革命家、聖賢といった存在が霊的資質を発揮して、明日の人類のあるべき姿を示しております。人間として可能な最高の英雄的精神と奉仕的精神の見本を示しているわけですが、動物の世界にもそれに比肩しうるほどの資質を、他の仲間から抜きん出て発揮するのがいます」
今回の内容も興味深い。確かに動物の中には素晴らしい行動をしているものがいる。(と言っても私が知っているのは主に犬だが)飼い主を助けようとして、自分が犠牲になったという人間でさえもなかなか出来ないことを犬がしたということで、感動したことを覚えている。献身的であり、従順であり、犠牲的精神をも持ち合わせている犬を見ると、人間の方が学ばなければいけないと思ってしまう。シルバー・バーチ霊のお言葉には得心しかない。人間の前衛的存在と言われるようなお方はやはり凡人には真似が出来ないほどのものを発揮されている。それと同じように動物界でもそのような存在がいるということなのだ。だからこそ、見習うべき姿なのだと思う。
844回目の瞑想
シルバー・バーチ霊の冒頭のお言葉
「私は、自分で正しいと信じて行動する限りそれは許されるという考えに賛成です。人間には例外なく神の監視装置モニターが組み込まれております。道義心(良心)と呼んでおられるのがそれです。それがあなたの行動が正しいか間違っているかを教えてくれます」
ーーー現代社会の風潮について心配し、あるいは困惑している人が大勢いるのですが、スピリチュアリストとしてはこうした時代の潮流にどう対処すべきでしょうか。
「真理を手にした者は心配の念を心に宿すようなことがあってはなりません。地上社会にはずっとトラブルが続いております。霊的な原理が社会秩序の拠よって立つ基礎とならない限り、トラブルは絶えないでしょう。唯物的基礎の上に建てようとすることは流砂の上に建てようとするようなものです。内部で争いながら外部に平和を求めるのは無理な話です。憎しみと暴力と敵意をむき出しにして強欲と怠慢を貪っている者が群がっている世界に、どうして協調性があり得ましょう。
愛とは神の摂理を成就することです。お互いが霊的兄弟であり姉妹であり、全人類が霊的親族関係をもった大家族であることを認識すれば、お互いに愛し合わなければならないということになります。そのためにこそ神は各自にその神性の一部を植えつけられ、人類の一人ひとりが構成員となってでき上がっている霊的連鎖が地球を取り巻くように意図されているのです。しかし今のところ、根本的には人間も霊的存在であること、誰一人として他の者から隔離されることはないこと、進化はお互いに連鎖関係にあること、ともに進み、ともに後退するものであるという永遠の真理が認識されておりません。
それはあなた方スピリチュアリストの責任です。常々言っておりますように、知識はそれをいかに有効に生かすかの責任を伴います。一旦霊的真理に目覚めた以上、今日や明日のことを心配してはなりません。
あなた方の霊に危害が及ぶことは決してありません。自分の知っていること、これまでに自分に明かされた真理に忠実に生きていれば、いかなる苦難が降りかかっても、いささかも傷つくことなく切り抜けることができます。地上で生じるいかなる出来事も、あなた方を霊的に傷つけたり打ちのめしたりすることは出来ません。ご自分の日常生活をご覧になれば、条件が整ったときの霊の威力を証明するものがいくらでもあるはずです。
残念ながらこうした重大な意味をもつ真理に気づいている人は少数であり、まだ多数とは言えません。大多数の人間は物量、権力、支配、暴虐、隷属(させること)こそ力であると思い込んでおります。しかし神の子はすべて身体と精神と霊において自由であるべく生まれているのです。
霊的真理が世界各地に広がり滲透していくにつれて、次第に地上の神の子もより大きな自由の中で生活するようになり、その日常生活により大きな光輝が見られるようになることでしょう。まだまだ、英国はもとより他のいかなる国においても、話が終わったわけではありません。進化へ向けての神の力が、これからゆっくりと、そして少しずつ、その威力を見せ始めます。それを地上の人間が一時的に阻止し、阻害し、遅らせることはできます。が、それによって神が意志を変更なさることはありません
もしもそれくらいのことで神の意志が覆されるようなことがあるとしたら、この地球はとっくの昔に破滅しているでしょう。霊は物質に優ります。神の霊、大霊こそが宇宙の絶対的支配力なのです。そこで私はいつも申し上げるのですーー心を強く持ち、背筋を真っ直ぐに伸ばして歩みなさい。この世に、そして霊の世界にも、恐れるものは何一つありません、と。最後はきっとうまくいきます」
今回の内容から「質問に答える」(3)として、倫理・道徳・社会問題と題された内容から抜粋して行こうと思う。
今回の冒頭のお言葉からして、心に響く。そして更に質疑応答のシルバー・バーチ霊のお言葉には魂に響き、感動してしまった。魂が喜びに震えるような感覚になったのだ。100年位前と今とでは社会情勢としては何も変わっていないように感じるが、もちろん、100年前を私は知らないので、進歩してきているのだろうとは思いたい。だが、地上社会はずっとトラブルが続いている。それは何と言っても、霊的な原理が社会秩序の拠って立つ基礎とならない限り、と言われているが、正しくここが一番肝心要と言えるだと思う。世界のトップを見ても、霊的に考えている人は皆無なのではないだろうか。もちろん、トップの人たちだけではない。世界の国々の人々の大半は霊的なことはいかがわしいとか怪しいとかという捉え方なのではないだろうか。社会全体が霊的な考え方をしていかない限り、トラブルは永遠に続くように思う。それは物量、権力、支配、暴虐、隷属(させること)こそが力だと思い込んでいるからだとシルバー・バーチ霊が言われている。私自身も本当にそう思う。支配力を持ちたいという欲求がある限り、永遠に平和は訪れない。けれども神様こそが宇宙の絶対的支配力であり、その神様の力がゆっくりと、そして少しずつ、その威力を見せ始められると言われていることに心の奥底から感謝の気持ちがこみ上げて来るのだ。そのことを心から信じることで、シルバー・バーチ霊の言われる心を強く持ち、背筋を真っ直ぐに伸ばして歩み、この世に、そして霊の世界にも、恐れるものは何一つないとの確信を揺るぎないものにしていきたいものである
。
845回目の瞑想
ーーーわれわれ真理を語る者は、人種差別や動物への虐待行為といった間違ったことに、もっと攻撃の矛先を向けるべきでしょうか。
「そうです。ただ、その際に大切なことは、そうした残虐行為や不和、差別といったものを攻撃するのは、それが物的観点からではなく霊的観点からみて間違ったことだからであることを前面に押し出すことです。その点、霊的真理を手にされたあなた方は特に恵まれた立場にあります。人間は霊ですから、その霊の宿としてふさわしい身体をも持たねばなりません。となると、そのための教育が必要となります。霊的観点からみて適切な生活環境、適切な家屋、適切な衣服、適切な食事を与えねばならないからです。
動物を虐待することは霊的観点からみて間違ったことなのです。民族差別や有色人種蔑視は霊的観点からみて間違っているのです。魂には色はありません。黄色でも赤銅でも黒色でも白色でもありません。この霊的真実を前面に押し出して説くことが、もっとも大切な貢献をすることになります」
ーーー私が言いたかったのは、マスメディア(テレビ・ラジオ・新聞・雑誌)が有色人種への嫌悪感を煽って、洗脳しようとする危険から身を守らねばならないということです。
「ですから、霊的真理に目覚めれば霊的同胞を毛嫌いすることはできなくなると申し上げているのです。
知識(の価値)が大きければ大きいほど大きな責任が伴います」
今回のシルバー・バーチ霊のお言葉にはいささか疑問を感じた。それは人種差別をする人や動物を虐待するような人に霊的観点を前面に押し出して話しても、果たして納得するのかどうかということだ。もちろん、霊的実在の証拠となるようなものを提示することができれば、信じざるを得ないとは思うが、普通は聞く耳を持つどころか、嘲笑うのではないだろうか。このような残虐行為をする人以外の一般の人だとしても、霊的な話になると、笑い飛ばしたり、嫌な顔をしたりと聞く耳を持つ人は少ないのだ。増して、そのような残虐行為を平気でできるような人に霊的なことを説くには余程のエネルギーがいるのではないかと思う。要するに霊恪の高い人でなければ、単に霊的真理を知っているというだけではとても太刀打ちできるような相手ではないと思うのだ。またこのような残虐行為は霊的観点からだけでなく、物的観点からみても間違っていると強く思う。
この質問者はやはり攻撃対象は人種差別や残虐行為をする人本人ではなく、それを煽っているマスメディアに対してのようだ。
それに対してのシルバー・バーチ霊のお言葉も解せない。霊的真理に目覚めるような人は人種差別や残虐行為などするはずもない。またそのような人たちを霊的真理に目覚めるように説くことは至難の技だと思う。より多くの霊的知識を知っていても、知っているだけでは相手を変えるほどの力はないのではないかと思っている。私にはそのようにしか思えないが、間違っているのかも知れない。ただ、今の私には到底無理だということだけは間違いない事実だ
。
846回目の瞑想
ーーー真理に目覚めた者は寛大であらねばならないと思います。
「寛容性は霊性の神髄です。偏狭な信仰のあるところに霊性はありません」
ーーー寛大であれと言うのは結構だと思うのですが、現実の世界において何に寛大であるべきかをよく見極める必要があると思います。残虐行為や邪悪な行為に対してはいかなるものでも寛大であってはならないはずです。
「それに、悪とは何かということも見極める必要があります。地上生活の究極の目的は"死"と呼ばれている現象の後に待ち構えている次のステージ(生活舞台)に備えて、内部の霊性を開発することにあります。開発するほど洞察力が深まります。霊性が開発され進歩するにつれて、自動的に他人へ対して寛大になり憐れみを覚えるようになります。これは、悪や残忍さや不正に対して寛大であれという意味ではありません。相手は自分より知らないのだという認識から生まれる一種の我慢です。
人間は往々にして自分のしていることの意味が分からずに、まったく無知から行為に出ていることがあるものです。そこがあなたの我慢のしどころです。しかし、その我慢は悪を放任し黙認してしまうことではありません。それは我慢ではなく、目の前の現実に目をつむることです。真の意味の寛大さには洞察力が伴います。そして、いつでも援助の手を差しのべる容易ができていなければなりません」
ーーー愛と寛容は優しさから生まれます。情愛でつながった者に対しては、われわれはその欠点に対して寛大になります。私はこの寛大さ、これは愛といってよいと思うのですが、これが現代の世の中に欠けていると思うのです。愛と寛容とを結びつけることができれば人類はさらに高揚されると思うのですが・・・
「同感です。バイブルにも愛とは摂理を成就することである、とあります。愛とは摂理のことです。神の御心です。なぜなら、神そのものがすなわち愛だからです。従って神の御心に適った生き方をしていれば、それは愛を表現していることになります。私のいう"愛"とは慈悲心、奉仕の精神、犠牲的精神、要するに自分より恵まれない者のために自分の能力の範囲内で精一杯援助しようとする心を言います。自分のことを顧みず、助けを必要とする人のために出来る限りのことをしてあげようとする心、それが愛なのです」
今回の内容にはとても考えさせられた。愛と寛容、これを踏まえて人生を送ることができれば、鬼に金棒なのだと思う。地上生活の究極の目的は次のステージに備えて、内部の霊性を開発することにあると言われている。その内部の開発をするためには、愛と寛容がとても大事なのだと思う。そして常々愛とは?っと思ってきたが、最後のシルバー・バーチ霊のお言葉に回答があったのだ。愛とは自分より恵まれない者のために自分の能力の範囲内で精一杯援助しようとする心であると言われ、自分のことを顧みず、助けを必要とする人のために出来る限りのことをしてあげようとする心、それが愛なのだと言われている。この愛を実行している
人はこの世にどれほどいるだろうか。私を含めて、真の愛を実行している人は限りなく少ないと思う。ただ自分のできる範囲内で精一杯努力していきたいという気持ちだけはあるので、このシルバー・バーチ霊のお言葉に救われた。けれど、思うだけでは意味がない。実行することに意味があるのだから。まだまだ大したことができていないことに愕然とするが、それでも今自分ができる精一杯のことはして行きたいと、強く思った次第である
。
847回目の瞑想
ーーー今の世の中は物質中心だと言われています。でも家族を養っていくためにはある程度は物質中心にならざるを得ません。あまりにスピリチュアリズム的になりすぎると経済的に苦しくなることが懸念されるのですが、その境目をどこに設けたらよいのでしょうか。
「まず神の御国と神の義を求めよ、しからば全てそれらのもの汝らに加えらるべし」(マタイ・6・33)
ーーー両方とも可能だということですね?
「当然です。が、優先すべきものをちゃんと優先させ、霊的真理を忘れなければ、物質面をおろそかにすることはないはずです。私は物質界に生きる人間としての責務を回避すべきであるかに説いたことは一度もありません。霊的存在として優先すべきものをちゃんと優先させ、その上で物的人間としての責務も忘れないということであらねばなりません。霊をおろそかにしてもいけませんし、精神をおろそかにしてもいけませんし、身体をおろそかにしてもいけません。責任をもつべきことを回避してはいけません」
今回の質問は人間であれば、誰しも悩むことではないだろうか。物的なことと、霊的なこと、どちらを優先すればいいのかと多々悩む時がある。だが往々にして物的なことを優先してしまっているのではないかと思う。霊的真理を頭に置きながらも、物的なことに気持ちが言ってしまうのは人間の性ゆえのことだろう。だが、シルバー・バーチ霊は両方共に可能だと言われている。霊的真理を忘れなければ物質面もおろそかにはならないとも言われている。そこのところが本当に難しいと思う。物質面に惑わされずに霊的なことだけを追い求めて行きたい、と思っているのに、現実はそう簡単にはいかない。それは身をもって体験しているので感じている。だが真の意味で霊的真理を理解できていれば自然と出来ることなのかも知れない、とも思う。どちらにしてもまだまだ未熟だということだ。少しずつでも両方可能になるように近づいて行きたいものである。
848回目の瞑想
ゲストの一人が産児制限の問題を持ち出した。
ーーー人間の誕生は自然法則によって支配されているとおっしゃっておられますが、そうなると産児制限はその自然法則に干渉することになり、間違っていることになるのでしょうか。
「いえ、間違ってはいません。経済的理由、健康上の理由。その他の理由でそうせざるを得ないと判断したのであれば、出産を制限することは正しいことです。この問題でも動機が大切です。何ごとも動機が正当であれば、正しい決着をみます。出産を制限することもその動機が正しければ、少しも間違ったことではありません。しかし、霊の世界には地上での生活を求めている者が無数にいて、物的身体を提供してくれる機会を待ち構えている事実を忘れないでください」
今回の内容は産児制限の問題についてだが、産児制限自体は間違っていないと言われ、それぞれに出産を制限する理由の動機が正しければ、正しい決着をみると言われている。何事にも動機が一番肝要だということを教えて下さっている。けれど、霊の世界には地上生活を求めている者が無数にいると言われ、物的身体を提供してくれる機会を待っているのだそうだ。私などはもう二度と地上に戻って来たいとは思わないが、霊の世界へ行けば、また気持ちが変わって地上生活を求めるようになるのだろうか。この人生が嫌だったわけでも、辛すぎたわけでもない。むしろ幸せを感じていた時間の方がはるかに多いと思っている。特に結婚してからはその思いが強い。だが、霊の世界の素晴らしさをシルバー・バーチ霊のお言葉によって知るにつけ、霊の世界こそが私達人間が住む世界であり、使命を存分に果たせる世界なのではないかと思ってしまっているのだ。だがとにかく今は霊の世界へ行く日も徐々に近づいて来ているので、その後のことについては自然にお任せしたいと思っている
。
849回目の瞑想
妊娠中絶の話題が持ち出されると、同じゲストが尋ねた。
ーーーそれはどの段階からいけないことになるのでしょうか。
「中絶行為をしたその瞬間からです」
ーーー妊娠してすぐでもいけないのでしょうか。
「とにかく中絶の行為がなされた瞬間から、それは間違いを犯したことになります。いいですか、あなた方人間には生命を創造する力はないのです。あなた方は生命を霊界から地上へ移す役しかしていないのです。その生命の顕現の機会を滅ぼす権利はありません。中絶は殺人と同じです。妊娠の瞬間から霊はその女性の子宮に宿っております。中絶されればその霊は、たとえ未熟でも霊的身体に宿って生き、生長しなければなりません。中絶によって物的表現の媒体を無きものにすることはできても、それに宿っていた霊は滅んでいないのです。霊的胎児のせっかくの自然な生長を阻止したことになるのです。もっとも、これも動機次第で事情が違ってきます。常に動機というものが考慮されるのです。
私の住む世界の高級霊で人口中絶を支持している霊を私は一人も知りません。が、動機を考慮しなければならない特殊な条件というものが必ずあるものです。行為そのものは絶対にいけないことですが・・・
あなた方が生命をこしらえているのではないのです。従ってその生命が物質界に顕現するための媒体を勝手に滅ぼすべきではありません。もしも中絶を行っている人たちが、それは単に物質を無きものにしたことで済んだ問題ではないこと、いつの日かその人たちは(医師も含まれるーー訳者)その中絶行為のために地上に誕生できなかった霊と対面させられることになるという事実を知れば、そうした行為はずっと少なくなるものと私は考えております。妊娠の瞬間からそこに一個の霊として誕生があれば、それは決して死ぬことなく、こちらの世界で生長を続けるのです」
ーーー今地上で行われている実情を思うと、これは大変なことをしていることになります。
「それが現実なのです」
ーーー堕胎された霊はいつかまた誕生してくるのでしょうか。
「そうです。責任は免れません。物資界への誕生の目的が自我の開発であり、そのせっかくの機会が叶えられなかった場合は、もう一度、必要とあれば何度でも、再生してきます」
今回の内容は前にも記載した妊娠中絶の問題である。中絶はどの段階からというのではなく、中絶行為そのものが間違っていると言われている。確かにそう思う。中絶は殺人行為なのだ。私達人間には生命を創造することはできない。私達人間は生命を霊界から地上へ移す役だと言われている。その役目をきちんと果たすことが私たちの使命なのだろう。私達人間は生命が物質界に顕現するための媒体を勝手に滅ぼしてはいけないと繰り返され、中絶を行っている人たちに対して、単に物質を無きものにしたことで済んだ問題ではないということ、そしてここが一番肝心なのだと思うが、いつの日かその人たちはその中絶行為のために地上に誕生できなかった霊と対面させられることになるという事実があることを知れば、とある。もちろん、こんなことはみな知らずに中絶しているのだ。知っていれば中絶行為はなくなるのではないかと思う。その前に淫らな肉体関係自体が少なくなるのではないかとも思う。ただ何よりも私達人間が霊であり、永遠に生き続けるということが分かっていれば、自ずと取るべき行為は決まっているのだ。それ故に堕胎された霊は、必要とあれば何度でも再生されると言われている。中絶は物質界への誕生の目的である自我の開発を無下にするということなのだ。
850回目の瞑想
もう一人のゲストが脳障害のために植物同然となり病院でただ機械につながれて生きながらえている人たちの問題を持ち出して、こう尋ねた。
ーーーそうやって生きながらえさせることは神の摂理にもとるのではないでしょうか。その人たちの霊はどうなっているのでしょうか。肉体につながれたままなのでしょうか。睡眠と同じ状態なのでしょうか。解放してやるべきなのでしょうか。
「地上生活の目的は霊が死後に迎える、より大きな生活に備えることです。自然の摂理と調和した生活を送っていればその目的は成就され、時が熟し肉体がその目的を果たし終えれば、霊はその肉体から離れます。たびたび申し上げておりますように、リンゴは熟すと自然に気から落ちます。それと同じように、霊もその時を得て肉体を離れるべきです。
あなたのおっしゃる脳に障害のある人のケースですが、それは、患者の生命を維持させようとしてあらゆる手段を講じる医師の動機に関わることです。昔の医師はそれが自分の全職務の究極の目的であるという趣旨の宣誓をしたものです。今でも、地上のいかなる人間といえども、霊は時が熟してから身体を離れるべきであるという摂理に干渉することは、霊的な意味において許されません。特殊な事情があって医師がその過程を早めることをする場合がありますが、動機さえ純粋であればその医師を咎めることはできません。
脳に障害を受けた患者は、たとえば動力源が故障したために受信・送信が不能になった機械のようなものです。正常の機能はほんの一部働いているだけです。脳が障害を受けたために"霊の脳"ともいうべき精神が本来の表現ができなくなっているわけです。脳に障害があるからといって精神に障害があるわけではありません。タイプライターを打っていてキーが故障した場合、それは使えなくなったというだけであって、タイピスト自身はどこも異常はありません。それと同じです。
要するに精神が大きなハンディキャップを背負っているわけです。正常な生活を送れば得られたはずの成長をその分だけ欠くことになります。その結果こちらへ来てみると魂はその欠けた分の埋め合わせをしなくてはならない状態にあります。言ってみれば小児のような状態です。しかし個霊としては霊的に何の障害も受けておりません。
霊が身体を生かしめている限り、両者のつながりは維持されます。霊と身体とをつないでいる"玉の緒コード"ーー胎児と母胎とをつないでいる"へその緒"と同じです。ーーが切れると、霊は身体から解放されます。身体の死を迎えた人にとっては霊的生活の始まりであり、地上へ誕生してきた霊にとっては物的生活の始まりです」
ーーー今にも死ぬかに思える人が機械によって生きながらえている例をよく耳にします。
「霊が身体から離れるべき時期がくれば、地上のいかなる機械をもってしても、それ以上つなぎ止めることはできません。一旦コードが切れたら地上のいかなる人物も、霊をもう一度つなぎ止める力は持ち合わせません。その時点で肉体の死が生じたのです」
今回の内容は植物人間となった際、どうするべきかを問うものだ。確かに大切な身内が事故などで意識はなく植物人間となった場合、どれだけ辛いかわからない。それは因果律の結果なのかも知れないが、感情は追いついては行かないのだ。だが、その状態が何年も続くとはっきり言って、周りの者は疲弊してくる。また当人にとっても、生きる屍同然の状態なので、これならいっそ死んだ方がましなのではないかとも思ってしまう。それが私達人間の考え方だ。だが、シルバー・バーチ霊はリンゴは熟すと自然に気から落ちるという例えを言われて、霊も同じようにその時を得て肉体を離れるべきだと言われている。そしてたとえ機械で生きながらえたとしても、霊が身体から離れるべき時がくれば、地上のいかなる機械や手段を講じようとも、つなぎ止める力はないと断言されている。やはり人間には限界があるということなのだ。すべては自然にお任せするより他にない。神様にすべてをお任せする境地になることが正しい道なのだということを肝に銘じて行かなければいけないのだと思う。
851回目の瞑想
安楽死の問題が持ち出された。ゲストの一人が尋ねる。
ーーー交通事故に遭った人の話をよく記事で読むのですが、病院へ運び込まれたあと一命を取り止めてもそのまま植物状態となって、自分の力では何一つできなくなっている人がいます。そのような状態で生きていても霊的に何の成長もないと思うのですが、なぜ地上に居続けねばならないのでしょうか。なぜ安楽死させることが許されないのでしょうか。
「バイブルのどこかにこんな言葉があります。"神が与え、神が奪われる。ありがたきかな神の御名"(ヨブ記1・21。バイブルでは"奪われた"とあるが引用文は現在形になっているーー訳者)
私がこの文句を引用したのは真実その通りだからです。人間は生命を創造することはできませんし、滅ぼすこともできません。生命が機能するための機関を提供することはできます。その機能を破壊することもできます。しかし生命は神からの贈り物であり、人間ものではありません。生命は神が人間に託した責務です。
なぜ?というご質問ですが、それについては、物的尺度だけで判断を下さないように注意しないといけません。霊の問題は物的尺度では計れないのです。植物同然となってしまった一個の人間をご覧になれば、自然の情として哀れ、同情、慈悲、憐憫を誘われるのも無理はありません。しかし植物にも生命があり、地上で果たすべき役目があります。そうでなければ存在しないはずです。
一人の人間が自己で負傷する。機能の損傷がひどくて霊が自我を表現できなくなった。この問題をあなたは身体上の問題とみますか、それとも霊的な問題とみますか。霊的にはそこに果たすべき目的があり、学ぶべき教訓があり、忍ぶべき体験があるのです。確かに見たところ身体的には全く動きが止まっています。しかし霊的な目をもって見ることができるようになるまでは、つまり永遠の価値基準を理解できるようにならない限り、あなたの判断はどうしても誤りに基づいたものとなります。
私はいわゆる植物人間を安楽死させることは全面的に、そして文句なしに反対です。但し、そこにやむを得ない動機があり得ることは認めます。しかしそれは問題を解決したことにはなりません。あなたがもし安楽死を実行する時期の決断を誰かに任せたら、それは本来その人が持つべきことの出来ない権利を与えたことになります。その人にはそういう決断を下す義務も与えるべきではないのです」
今回の内容もまた以前に記載した安楽死の問題である。シルバー・バーチ霊は安楽死させることは全面的に文句なく反対だと言われている。それも自然の情として哀れ、同情、慈悲、憐憫を誘われるのも無理はないと分かってもなお反対されているのだ。私達人間は物的尺度だけでしか見ていない。なので植物人間となった人が全く身動きできない状態や意思の疎通ができない状態を見ていると、こんな状態で生きていることに何の意味があるのだろうかと思ってしまう。だが、霊的に見ることができれば、そこに果たすべき目的があり、学ぶべき教訓があり、忍ぶべき体験があると言われている。例え身動きできない状態にあっても、その人にとっては霊的には大いに意味があることなのだと言われているのだ。私達周りの者自身も霊的な目をもって見ることができなければ、誤った判断となってしまうのだ。安楽死をしたからと言って、問題解決にはなっていないとも言われている。すべては因果律として、その状態を甘んじて受け入れなければいけないということなのだと思う。それは当の本人のとっても、それを見守る者にとってもとてつもなく辛い試練だ。けれど、やがては必ず霊が肉体を離れる時が来る。その時こそ、その試練に克服できた、ということなのではないかと思う。
852回目の瞑想
サークルのメンバーの一人が尋ねる
。
ーーー 一人の人間が苦しんでいる時、それ以上苦しまないようにしてあげる義務が私たちにあるのではないでしょうか。
「病気とか異状あるいは虚弱といった身体上のことをおっしゃっているのであれば、現代医学で治すことも改善することもできないものがあることは認めます。しかし、すばらしい効果のある、そして現に成果をあげている治療方法が他にもいろいろあります。医学的診断のみを判定基準にしてはいけません。そのことをしっかりと認識しなくてはいけません。医師が"不治"と診断したものが心霊治療によって完治、または改善されたケースが沢山あることを皆さんはよくご存知なのですから。
苦しみにはそれ相当の目的があります。苦しみはなくてはならない大切なものなのです。なぜなら、それを通じて魂が目が開かされ、隠れた力を呼び覚まされ、その結果として霊的に、時には身体的に、いっそう強力になってまいります。そうなるべきものなのです。多くの人にとって苦しみは、全人生をまったく別の視点から見つめさせる大きな触媒となっています。
いかなる症状の患者であっても、簡単に"不治"と片づけてはいけません。その態度は間違っています。地上の格言にも"生命ある限りは希望がある"というのがありますが、これは真実です。霊が宿っている限り元気を回復させ、再充電し、ある程度まで機能を回復させることができます。摂理が自然に働くようにしさせすれば、身体は死すべき時機がくれば自然に死にます。霊に身体から離れる準備ができたからです」
今回の内容については前から疑問に思っていることの一つだ。それは他人に対して奉仕することを常にシルバー・バーチ霊は言われているが、苛酷な体験や艱難辛苦を体験することが
霊的に目覚めるきっかけになるとも言われているのだ。今回も苦しみにはそれ相当の目的があり、苦しみはなくてはならない大切なものだと言われ、それを通じて魂の目が開かされ、隠れた力を呼び覚まされ、その結果として霊的にいっそう強力になると言われているのだ。また多くの人にとっての苦しみは、全人生をまったく別の視点から見つめさせる大きな触媒となっているとも言われている。だとすると苦しみや辛さなどの体験を通して会得できるはずの霊的な目覚めを、奉仕という手助けをすることによって取り上げてしまうことにはなりはしないのだろうか。ということを考えるとどうしても解せないのだ。また高級霊の方々も何が辛いと言って、地上の人間が試練を乗り越える様子をただ黙って見守っていることしかできないことだとも言っている。要するに自分自身がその試練を乗り越えることができなければ、霊的な目覚めのキッカケは永遠につかめないということになる。それを私達人間が手助けしてしまっていいのだろうか。だが、シルバー・バーチ霊は他人に奉仕をしなさいと言われる。矛盾してはいないだろうか。それとも私達人間の手助けごときでは、相手にそこまでの影響力を及ぼすことにはならないということなのだろうか。そこのところをもっと深く知りたい思いにかられる。今回の問題からは逸れてしまったが、私が常々疑問に思っていたことなので、書かずにはいられなかった
。
853回目の瞑想
ーーー私が知っているあるガン患者はそろそろ痛みを覚え始めており、症状は良くないようです。
「でも痛みを和らげることは可能です。医学的にも手段はあります。ですから痛みだけを問題にするのであれば、それは何とかなります。そして、例え症状が耐え切れない段階に達しても、私たちから見る限り、それをもって最終的な宣告を下してはならないと私は主張致します。精神構造が限られた分野の教育しか受けていない者(医師・医学者)による宣告が最終的なものであると私は申し上げたら、それはこれまで私が説いてきたすべての教説を裏切ることになりましょう」
別のメンバーが、<私たちの経験でも手術不能のガン患者が心霊治療によって痛みが取れた例がたくさんあります>と指摘する。
すると先のメンバーが<それは私も認めます。しかし痛みが取れない例も沢山あります>と反論する。
ここでシルバー・バーチ霊が答える。
「皆さんはいつでも治療を施してあげることができます。祈ることによっても助けになってあげることができます。祈りの念にも効果を生むだけの力が秘められているからです。とにかく、いくら医師が理知的であっても、その視野は地縛的ですから、そんな人による悲劇的な宣告をまともに受け止めてはなりません」
今回の内容の痛みというのは、確かに避けたいものの代表ではないかと思っている。私は特に痛みに対して弱い。痛みだけは何としても取り除きたいと考えてしまう。だが、シルバー・バーチ霊は痛みだけの問題であれば、何とかなると言われ、例え症状が耐え切れない段階に達しても、それをもって最終的な宣告を下してはならないと主張されている。耐え切れない痛みに達してもとあるが、当の本人にとってはその痛みを取ってもらえるならば死んでも構わないという気持ちになるのではないだろうか。それほど耐え切れない痛みとはすさまじいものであると私は思っている。そのすさまじい痛みまでも取れるというのは、やはり霊恪の高い方の心霊治療しかないように思う。もちろん、お祈りやヒーリングによっても効果は望めるだと思うが、それも施術する人の力量が物を言うのだと思う。苦しんでいる人はもちろんだが、それを見守っている人も心のダメージは計り知れない。楽にしてあげたいとの思いがどうしても湧き上がって来てしまう。そして医者の宣告を受け入れてしまうのだと思う。痛みさえ取れれば、医者の最終的な宣告など、まともに受け止める必要はなくなるのだと私は思う
。
854回目の瞑想
先のメンバーの一人が
ーーー苦難が人間性を磨くことをたびたびおっしゃってますが、そうではないケースもしばしば見受けます。と異議をはさむとーー
「私は、苦しみさえすれば自動的に人間性が磨かれるとは決して申しておりません。苦難は地上にいる限り耐え忍ばねばならない、避けようにも避けられない貴重な体験の一つで、それが人間性を磨くことになると言っているのです。たびたび申し上げておりますように、青天の日もあれば雨天の日もあり、嵐の日もあれば穏やかな日もあるというふうに、一方があれば必ずもう一方があるようになっているのです。もしも地上生活が始めから終わりまで何一つ苦労のない幸せばかりであれば、それはもはや幸せとは言えません。幸せがあることがどういうことであるかが分からないからです。悲しみを味わってこそ幸せの味も分かるのです。苦難が人生とは何かを分からせる手段となることがよくあります。苦難、悲哀、病気、危機、死別、こうしたものを体験してはじめて霊的な目が開くのです。それが永遠の実在の理解に到達するための手段となっているケースが沢山あります」
ーーー残念なことなのですが、苦難に遭うと不幸だと思い、邪険になり、卑屈になっていく人が多いようです。
「それは結局のところその人の人生に確固とした土台がないからです。人生観、宗教観、それに物の観方が確固とした知識を基盤としておれば、いかなる逆境の嵐が吹きまくっても動じることはないはずです。これも人生の一コマだ、すべてではなくホンの一部にすぎないのだという認識ができるからです」
ーーー結局のところ私が思うに、苦難はその意義が理解できる段階まで到達した人だけが受ければよいということになりそうです。
「そのようなことは神と相談なさってください。この私に言えることは、これまで幾つもの存在の場で生活してきて、自然の摂理は厳格な正確さをもって働いており、絶対に誤ることはないことを知ったということ、それだけです」
今回の内容はとても重要なことの質疑応答だと思う。この質問者が言われるように、確かに苦難に負けて自暴自棄になってしまう人は多くいるように思う。苦難が人間性を磨くケースというのは、やはり受け入れる準備ができた人のみなのではないかと思うのだ。シルバー・バーチ霊のお答えは最初は確かに常々説いて下さっていることだが、あとのお答えは私は合点がいかない。なぜなら、ここまでのことが分かっている人というのは既に霊的に目覚めていると思えるからだ。苦難に負けない確固たる信念がある人ということになる。だとしたら、質問者の言われるように苦難はその意義が理解できる段階まで到達した人だけが受ければよいと私も思ってしまう。苦難に負けて自暴自棄になるくらいなら、苦難はその人のためには何の意味もないどころか逆効果でしかないように思える。シルバー・バーチ霊の神様と相談なさってくださいとのお言葉にはいささか冷たいようにも感じた。苦難に負けてしまう人達のためにこそアドバイスが欲しいところであると私は思う。
833回目の瞑想
ーーー霊界において計画が作製されてそれが地上界で実施されている例をたくさん見ておりますが、それはどういう機構によって行われているのでしょうか。計画の中心的立案者が一人いて全体をまとめているのでしょうか。
「連帯関係にある霊団がいくつもあり、各霊団に一人のリーダーがいます。その全体の総指揮に当たっているのが、かのナザレのイエスで、今なお地上世界の発展のための事業に関わっております。そのイエスのもとで地上ならさしずめ、"首脳会議"にあたるものが開かれます。ご存知のように時折私もその会議に出席するために一時的に上層界へ引き返し、それまでの計画の進展具合を点検し、連帯関係を確認いたします。審議会のようなものです。
マスタープラン(総合的基本計画)というものがあり、私たちに役割分担が当てがわれております。霊恪の高さゆえに地上の事業に関与できる"光輝く存在"を一目ご覧に入れたいと思うのですが、残念ながらそれができません。そうした霊団のほかにも、他の形態の生命に関与している霊団もありますが、私が関与しているのは地上人類のための事業です。
計画は完璧です。なぜなら、その立案にあたって完璧な叡智が働いているからです。しかし、それを実現させるにはさまざまな要素を考慮しなければなりませんから、当然成り行きとして、その進展は遅々としたものにならざるを得ません。自由意志、カルマ、運勢、好みーーこうしたものが全て考慮されるのです。進歩を確実なものにするためには全体への配慮を必要とするのです。その進歩は必ずしも直線的なものではありません。それは有り得ないことなのです。いずれにせよ、こうした中であなた方も神意の成就へ向けての無限の創造過程にいくばくかの貢献をなさっていることを自覚なさるべきです。
雄大な構想のもとにそのマスタープランを推し進めていく事業に参加できることは、この上なく光栄なことです。だからこそ私は皆さんに、明日のことを思い煩うことはおやめなさいと申し上げるのです。いかなる困難、いかなる障害、いかなるハンディキャップ、いかなる反抗に遭遇しても、又、いかなる愚かさ、いかなる無知、いかなる迷信が立ちはだかっても、霊の力によって、万事、必ずうまくいきます。真理は常に行進しており、その目的成就を妨げることの出来る者は一人もいません。ですから皆さんは堂々と胸を張り、背後に控える霊力は地上で遭遇するいかなる勢力よりも強大であることを、しっかりと認識なさることです」
このことに関してサークルのメンバーから幾つかの質問が出された。その回答の中でシルバー・バーチは、その大霊団を構成しているのは必ずしも地上生活を体験した者ばかりではないこと、その大事業の計画は遠い昔に立案されたものであることを述べ、こうしたことが地上の人間に容易に把握できないのも無理はないという理解を示した。(『ベールの彼方の生活』第四巻にはその大事業の立案から実施に至る経緯が雄大な筆致で叙述されているーー訳者)
そしてこう述べた。
「真理に霊的価値が多ければ多いほど、地上の言語による説明が困難となります。私たちはいま霊的な内容のものを扱っているのです。いたってお粗末な表現手段である言語では、地上的要素からはみ出たものは包含できないのですから、用語の意味には限界が生じます」
今回の内容は、私達人間には知ることのできない重要なことを言われている。霊界の上層界ではマスタープランがあり、連帯関係にある霊団がいくつもあって、各霊団に一人のリーダーがいると言われている。そしてその全体の総指揮に当たっておられるのが、かのナザレのイエスなのだそうだ。今なお地上世界の発展のための事業に関わっておられるのだと。
地上で例えるならば首脳会議を上層界でされるとのことだが、そこに集まられる霊恪の高い方々"光輝く存在"を一目拝顔させて頂きたいものである。
マスタープランは地上人類のための事業であり、その
計画は完璧だと言われている。完璧だと断言する理由は、その立案にあたって完璧な叡智が働いているからだということなのだ。けれども、それを実現させるにはさまざまな要素を考慮しなければいけないらしい。それゆえに、その進展は遅々としたものにならざるを得えないと。自由意志、カルマ、運勢、好みこうしたものが全て考慮されると言われている。自由意志やカルマだけをとっても考慮することは大変なことだと察せられる。けれど進歩を確実なものにするためには全体への配慮を必要とするとのこと。またその進歩は必ずしも直線的なものではないとも言われている。更に複雑さが増すということになるのだろう。
それでも、雄大な構想のもとにそのマスタープランを推し進めていく事業に参加できることは、この上なく光栄なことと言われているのだ。その目的成就を妨げることの出来る者は一人もいないと言われ、霊の力によって、万事、必ずうまく行くと断言されているのだから、私達人間はそのことを信じて、大船に乗ったつもりで自分の為すべきことを為していけばいいということになる。
ところでその大事業の計画について、『ベールの彼方の生活』に詳しく記載されているようだ。私はまだ読んではいないが、我が家には本があるので、後日読んで、記載できるようなら記載したいと思っている。
今日の瞑想でも、呼吸に集中し、神様に簡単なお祈りさせて頂く。そしてまたご依頼者の方のお祈りとヒーリングをさせて頂いた。最初は意識があったものの、途中、何やらいろいろな映像が見えていた。今となってはやはりはっきりとはしない。けれどエネルギーは強く流れているようだった。ただただお相手の状態が良くなることだけを願ってヒーリングをさせて頂いた。自然と目が開き、そのまま神様と霊界の方々にお礼を申し上げて終了した。
今朝の起きた時にシルバー・バーチ霊の霊訓である霊的真理を理解するようにと読むように勧めていた夢を見たことを思い出した。相手は誰なのかは今となっては思い出せない。というかその時にわかっていたのかさえわからない。けれど、夢でもなお霊的真理の普及をしていたことに、驚くと共に嬉しく思ったのだ。またその夢を覚えていたことも有難かった。少しずつでも夢でのことや瞑想時のことを覚えていられるようになって行きたいものである
。
834回目の瞑想
ーーーいまおっしゃった上層界よりさらに高級な世界があるのでしょうか。
「あります」
ーーー全部つながっているのでしょうか。
「そうです。無限につながっています」
ーーー階段状ステップに上へ上へと伸びているのでしょうか。
「ステップと呼びたければそう呼ばれて結構です」
ーーー"光輝く存在"とおっしゃった存在も自我を表現する能力を有しているのでしょうか。
「みな個性的存在です。意識をもった存在です。自動人形ではありません。光輝いております。指導者的霊恪を具えた高級霊です。大天使団、神の使節です」
ーーーかつてはみな人間だったのでしょうか。
「いえ。バイブルをお読みになれば、天使、大天使のことが述べられています」
ーーーということは常に霊的存在がいたということでしょうか。
「宇宙のどこを探しても霊でない存在はいません」
ーーー私はどの霊も一度はこの地球という惑星での生活をしなければならないものと思っていました。
「そういうものではありません。あなた方の地球は無数に存在する生活の場の一つにすぎません。一度は必ず地球で生活しなければならないというものではありません。すべてを包括したマスタープランがあり、その中から何一つ、誰一人として除外されることも忘れ去られることもありません。
あなた方に見えている星の彼方にも無数の星があります。惑星の彼方にもあなた方がまだご存知ない別の惑星、別の生活の場があります。宇宙は無限に広がっているのです」
(『ベールの彼方の生活』第四巻の274〜276頁にこのことが具体的に述べられているーー訳者)
ページ数まで書かれていたので、その一部分を抜粋してみた。
「地上の人間の視力では捉えることの出来ない別の種類の惑星が存在するのです。精妙化がすでに物質的段階を超えてエーテル的段階に至っているのです。霊的までは至っていません。物質的状態と霊的状態の中間です。その種の天体の住民には地球を含む惑星系のすべてが見えます。そして強力な影響力を行使することができます。それは、地球人類より進化はしていても、霊恪において霊界の住民よりはまだ地球人類に近いからです。それとはまた別の意味でのエーテル的天体がいくつか存在します。その一つが地球を包みこむように重なっております。その天体の構成するエーテルの粗製状態のものが地球に瀰漫びまんしているのです。と言って、地球のためだけの存在ではありません。また、のっぺらとしたベルト状のものではなく、表面には大陸もあれが海もあり、住民もいます。その大半はかつて地球上で生活してことのある者ですが、中には一度も地上生活の体験のないもの者もいます。血と肉とから成る身体としての顕現の段階まで達していないのです。」
ーーーいわゆる幽界のことでしょうか。
「その名称は使用する人によって必ずしも同じように理解されておりませんが、貴殿の理解しているものに従って言えば、私のいうエーテル的天体は幽界とは違います。今お話した通りのものです。聞くところによれば、そこに定住している人間に似た住民はみな、ずいぶん古くからの生活者で、これから先いつまでそこに住んでいられるか確かなことは不明であるとのことです。彼らは太古の地球人類の一種の副産物なのです。」以上
シルバー・バーチ霊の霊訓に戻る。
ーーー始まりも終わりもないですか。
「霊には始まりも終わりもありません。霊は無窮の過去から存在し無窮の未来まで存在し続けます。バイブルを繙ひもといてごらんなさい。イエスもこう言っておりますーー"アブラハムが生まれる前から私は存在している"
(ヨハネ伝8・58。イエスがユダヤ教のリーダーたちと論争した時の最後のセリフで、アブラハムはユダヤ人の祖とされている人物なので、それより前から存在していたと聞かされてその本当の意味が分からず、生意気なことを言う奴だと石を投げつけるが、イエスは身を隠して逃れたーー訳者)
今回も勉強になることばかりを説かれている。特に関心があった
"光輝く存在"についてだが、
みな個性的存在であり、意識をもった存在だと言われており、指導者的霊恪を具えた高級霊だと言われている。更に大天使団、神の使節ということだ。そんな方々を私達人間は拝顔することはできないだろうが、少しでも近づけるように努力したい気持ちが強くなった。
今回は惑星についても、『ベールの彼方の生活』の中に書いてある内容にただただ驚きであった。地上の人間の視力では捉えることの出来ない別の種類の惑星が存在すると言われ、精妙化がすでに物質的段階を超えてエーテル的段階に至っていると言われている。だが霊的までは至っておらず、物質的状態と霊的状態の中間なのだそうだ。そして次の言葉にびっくりなのだが、その種の天体の住民には地球を含む惑星系のすべてが見えると言われている。となると今のこの世の状態も見えているということになるが、その天体の住民はどのように思われているのであろうか。しかも強力な影響力を行使することもできると言われているのだ。それは地球人類より進化していても、霊恪において霊界の住民よりはまだ地球人類に近いからだと言われている。だとしたら地球人類よりも進化しているこの天体の人たちがもし、正しい影響力をこの地球に行使してもらうことができれば、今のこの異常な状態を正常に戻してもらえるではないかと思ってしまう。それが適うのならば心からお願いしたいところだ。
今のこの地上世界に至ってはまだUFOが実在するのかどうか、などというレベルなのだ。こう言った事実を知ることができれば、もっともっと人間として正しい生き方ができるのではないかと思う。もちろん、霊的真理を知ることが大前提ではあるが。
今回の内容を知り、とても有難い思いになった。地球人類より進化している天体があり、そこの住民にはこの地球がすべて見えていると言われていることに、私は更に安堵の気持ちが生まれた。シルバー・バーチ霊の霊訓然り、このベールの彼方の生活の霊界通信然り、百年以上も前から言われていることなのに、なぜ多くの地球の人間は霊的なことを知らないままなのだろうか。今のこの異常とも言える事態に霊的な気づきが多くの人に与えられるようにと祈らずにはおられない。
今日の瞑想でも、呼吸をに集中
し、神様に簡単なお祈りさせて頂いた。するとなぜだか、とても有難い思いになり、涙がこぼれてきた。何に対して有難いのかはわからないまま、涙がこぼれる。そして気持ちを切り替えてご依頼者の方のお祈りとヒーリングをさせて頂いた。今日も時間をかけてお相手を心から思い、霊的に目覚められるようにと神様にお願いさせて頂いた。その後も意識が遠のいている状態で映像のようなものや感じるものなどがあったが、記載できるような具体的内容はなかった。
そのままゆっくりと目を開けて、神様と霊界の方々にお礼を申し上げて終了した。
835回目の瞑想
ーーー私たちはいつかはかつての地上での仲間や親族のいる境涯へと向上して行き、ずっと一緒に暮らせるようになるのでしょうか。
「その人たちと同じ発達レベルまで到達すればもちろん一緒になれます。こうしたことは収まるべくして自然に収まる問題です。あなたは今これまで霊的に到達した境涯、段階、存在の場を占めているのです。それと同じレベルにある者はみな似たような発達状態にあるのです。ですから、ご質問に対する答えは、あなたがその人たちと同じ霊的発達段階に至れば一緒になれます、ということになります。向上の道は常に開かれております。完全へ向けての、永遠に続く奮闘です」
今回のような内容は、今までにも何度か記しているので、承知している。反対に後から霊界へ赴く人の方が霊的発達段階が高ければ、仲間だった人や親族などは待つ立場になるだと思う。そしていつか同じレベルになった時に一緒に暮らすことができるのだろう。ただ、上の界の人は下の界に降りることはできるので、自分より下の界の人たちと会うことはできる。だが、自分のレベルよりも上の界へは行くことはできないので、この世で親しかった人が上の界にいるとしたら、降りてきてもらうしか会う方法はないということなのだ。但し、そこに愛の絆があれば必ず叶うのだと思う。愛なくしては絆は生まれないのだから。
けれど、霊界で同じ発達段階にある霊は、この世で関わった人ばかりではない。霊界の自分の住処に行くまではわからないことなのだと思うが、自分の住処に行けば、この世での関わりがなくても懐かしく思い、すぐに打ち解けられるとのことだ。この地球には高い界から低い界の人までいろいろな人がいる。その方たちと関わり合えば、高い界の方の影響はプラスになるが、低い界の人の影響が問題なのだ。その接し方次第ではプラスにもマイナスにもなる。それをどう克服するかという問題はこの地球でしか学べない。霊界では同じレベルの人たちとしかほとんど接点はないようなので、居心地は満点なのだと思う。だからこそ、地球に生まれて揉まれる機会を得るのではないのだろうか、と思う。今はその最中と思えば、課題を乗り越えれば、また居心地満点な住処に帰ることができるのだ。もしかすると、更に上の界へ行くことができるかも知れない。そう思って今はどのような試練であろうと克服していくように頑張るしかないのだと思う。
836回目の瞑想
ーーーここに愛し合う二人の人間がいて、一方が他方より霊恪がはるかに高いとします。死後二人が一緒になるには発達の遅れている方が待たねばならないのでしょうか。
「その逆が普通です。霊恪の高い方が待つことになります。そこには愛の要素があるからです」
ーーー死んで霊界へ至る過程はどんなものでしょうか。
「死とは物的身体から脱出して霊的身体をまとう過程のことです。少しも苦痛を伴いません。ただ、病気または何らかの異常による死にはいろいろと反応が伴うことがあります。それがもし簡単にいかない場合には霊界の医師が付き添います。そして、先に他界している縁者たちがその人の"玉の緒コード"が自然に切れて肉体との分離がスムーズに行われるように世話をしているのを、すぐそばに付き添って援助します。
次に考慮しなければならないのは意識の回復の問題ですが、これは新参者各自の真理の理解度に掛かっています。死後にも生活があるという事実をまったく知らない場合、あるいは間違った来世観が染み込んでいて理解力の芽生えに時間を要する場合は、睡眠に似た休息の過程を経ることになります。
その状態は自覚が自然に芽生えるまで続きます。長くかかる場合もあれば短い場合もあります。人によって異なります。知識を携えた人には問題はありません。物質の世界から霊の世界へすんなりと入り、環境への順応もスピーディです。意識が回復した一瞬は歓喜の一瞬となります。なぜなら、先に他界している縁のある人たちが迎えに来てくれているからです」
今回の最初の質疑応答は当然のことだと思っている。霊恪の高い人の方が待っていてくれるのだ。それはすべては愛があるからだ。
また死に際して、通常は苦痛を伴わないと言われている。ただ、海で溺れたり、土砂に生き埋めになったりした場合などはどうなのだろう。また殺された場合は、恐怖もあるだろうし、苦痛は伴うのではないだろうか。それに恨みや憎しみなどの感情も残ってしまうと思う。それが何らかの異常の死に含まれるということなのだろうか。その場合は霊界の医師や縁者の方が付き添って自然にシルバーコードが切れて肉体との分離をスムーズに行われるように世話をしてくれると言われている。どんな場合であってもすべては霊界側にお任せすればいいということなのだろう。
そして次は意識の回復の問題だと言われ、霊界に赴く各々の真理の理解度に掛かっていると言われている。そうなのだと思う。ほとんどの人は死後についての生活は知らないのではないだろうか。間違った観念をもった人も多いように思う。そういう人たちは睡眠に似た休息の過程を経るのだそうだが、自然と自覚するまで続くと言われている。その長さは各自によってさまざまだ。けれど、霊的知識を知っている人は問題ないと言われている。死後すんなりと霊界へ入り、環境への順応も早い。しかもしかも意識が回復したその瞬間は歓喜の瞬間になると言われているのだ。それは先に他界した懐かしい縁のある人たちが迎えに来てくれているからだと言われており、私は鳥肌が立ってしまった。早くその瞬間を味わいたいものである
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837回目の瞑想
ーーー幽体の寿命はどうなっているのでしょうか。死後は幽体で生活するわけですが、どのくらいの期間もつのでしょうか。
「それは地上の年数で数えるわけにはいきません。肉体が老いていくのとは違って、霊的向上に伴って生じる変化だからです。あなたには沢山の身体が具わっています。それらを幽体だのエーテル体だの霊体だのと呼んでおられるのですが、あなたはそのうちのいずれか、つまりそれまでに到達した霊的進化のレベルの自我を表現するのに似合ったものを使用します。そしてさらに進化すると、昆虫が脱皮するようにそれを脱ぎ棄てます。つまりあなたは常にその時点での霊恪にふさわしい身体で自我を表現しているわけです。死後の身体はそういう過程をたどります。それが無限に続くのです」
今回の内容も、私達人間には到底知り得ることができない幽体についてだ。肉体を脱ぎ棄てると今度は幽体となって幽界で生活することになるのだろうが、肉体のように老化はしないようだ。霊的向上に伴って到達した霊的進化のレベルの自我を表現するのに似合った身体となっていくようだ。とすると私達人間は最低の身体の肉体を現在はまとっているわけだ。更に進化すると、肉体を脱ぎ棄て、幽体となる。更に進化すると幽体を脱ぎ棄て、エーテル体となり、更には霊体となっていくのであろう。常にその時点での霊恪にふさわしい身体で自我を表現していくと言われ、それが無限に続くのだと言われている。
まだまだ先が本当に長いのだと思わざるを得ない。まだまだ辛く苦しい体験をしていかなくてはいけないのだろうか。人間とは実に業深いものだと改めて思う
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838回目の瞑想
ーーー真の自我は肉体でもなく幽体でもなくて、いったい何なのでしょう?
「どう呼んでみたところで所詮は用語にすぎません。言葉は三次元世界のものですから、言葉を超えたものを完全に表現することはできません。したがって霊とは何かということを正しく表現できる用語がないのです。
霊は物質的なものではありません。三次元的なものではありません。どこそこという存在場所をもつものではありません。身体のように空間を占めているのではないのです。あなた方の物的な感覚によっては、見ることも聞くことも触ってみることもできません。その霊こそ実在なのです。霊とは生命です。霊とは動力です。霊とは宇宙の大霊の一部なのです。
ですから、あなた方人間は三位一体の存在ということになります。物的身体があり、霊的身体があり、そして魂(霊)があります。それらを全部別の用語に置きかえたければそうなさるがよろしい。が、何の意味もありません。用語をいじくり回すにすぎません。魂とは神性の火花です。内部に宿る大霊の一部です。
あなたはその身体ではありません。その身体はあなたではありません。霊的身体はその物的身体が崩壊して大地に戻ったあと、引き続き自我を表現するために使用する媒体です。本当の自我は外側、表面、殻などには存在しません。内部の核、仁、中枢、魂、生命、つまりあなたに潜在する"神"です。霊は無限の存在であるがゆえに無限の顕現と段階的変化をたどります。一連の身体があり、それをアストラルだのエーテルだのと呼んでおられますが、それも一個の霊が顕現したものなのです。用語に惑わされてはいけません。言葉はただの道具にすぎません」
今回の内容もとても勉強になる。要するに肉体や幽体、また霊体などは自我を表現する媒体であり、それ以外ではないということだ。自我は媒体にではなく、霊そのものに潜在している神様の一部だということなのだ。用語は用語としての意味しかない。また物的な感覚によっては、見ることも聞くことも触ってみることもできないと言われている。要するに物的のみでは霊については何も感じることはできないということなのだ。けれど私達人間は三位一体の物的身体、霊的身体、そして魂の存在なのだ。それなのに多くの人間は物的身体だけに固執している。それは三位一体の存在であること知らないからに他ならない。物的身体だけではないことを知れば、自分の肉体に対してこれほどまでに執着する必要はなくなるのではないかと思う
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839回目の瞑想
ーーー肉体と幽体はどこまで似ているのでしょうか。胃液とか聴覚器官とか筋肉とかがもしあるとすれば何かの役に立つのでしょうか。
「何の役にも立ちません。あなた方がその肉体器官を機能させる時それぞれの器官とそっくりの幽質の身体を使用しています。(これを複体ダブルと呼ぶことがあるーー訳者)が、それには筋肉も胃液も聴覚もありません。霊が肉体を通して顕現し機能するための外皮のようなもので、死が訪れると地上での役目が終わったことになりますから、その時点で脱ぎ棄てられて別の身体が用意されます。こうして霊が浄化していくのに伴って、その段階にふさわしい表現機関として次々と新しい身体を必要とします。霊的身体たくさんあるのです」
ーーーたくさんあるとすると、死ぬ時はどうなるのでしょうか。一つひとつ脱け落ちていくのでしょうか。
「進化するごとに身体を脱ぎ替えていきます」
ーーーということは、我々は何度も死を繰り返すわけですか。
「そうです。但し霊が死ぬのではありません。表現の媒体が変わるということです」
ーーーいずれは幽体を脱ぎ棄てる時期がくるわけですが、それも"死"ですか。
「そうです。肉体が役目を終えて棄て去られるのと同じです」
ーーー我々は何度も死ぬわけですね。
「そうなります。が、それは有難いことなのですよ。進歩していることを意味するからです」
ーーーいずれ最後は何の身体もまとわない純粋な霊のみの存在となるのでしょうか。
「私は、その段階にはエ年にいたらないのではないかと思っていrます。それに近づく過程の連続だと考えています」
ーーーそこに霊的進化の核心があるのですね?
「人生そのものの根本の目標が進化であり発展であり成長であり学習なのです。進化するごとに、それまで役目を果たしてきた身体が自動的に脱け落ちて、その進化した段階にふさわしい身体をまとうのです」
今回の内容は、私達が霊であり、その霊としての表現する媒体について、詳しく説かれている。表現する媒体すなわち、肉体や幽体や霊体は進化するごとにそれまでの役目を果たしてきた身体が自動的に脱け落ち、そして進化した段階にふさわしい身体をまとうと言われている。またそれが死であると言われているのだ。要するに死とは進化を意味するということだ。シルバー・バーチ霊の言われるように有難いことなのだと思う。死という概念がこのように進化だという概念に変われば、悦ばしいことになるのだが、その時はまだまだ先のことなのだろう。だがこのことを知った者から、死の対しての概念を変えて行かなければいけないのではないかと思う。
今朝ははっきりしたリアルな夢をいくつか見た。その中でも特に衝撃的な夢を記そうと思う。場所はハワイのような気候で風景もとてもよく似ていた。(はっきりとはわからないが、昔私の両親と私達3人家族と妹でハワイへ行ったことがある)お天気がとてもよく、清々しい中、海では沢山の人が泳いだり、遊んだりしていた。ところが、その瞬間、上の方から一気にマグマが押し寄せて来たのだ。逃げる暇などなかった。私はそれを宙に浮いたような状態で見ていたのだ。海にいた沢山の人がマグマに飲み込まれていく様子を、そして焼かれて真っ黒になった遺体なども見えたのだ。通常の意識なら、目を閉じて見ることは出来なかったと思うが、その時はなぜだか、わりと冷静にその様子を見ており、何の感情も湧いては来ていなかった。そんな地獄絵図さながらのような状態なのに、雰囲気は清々しいままだった。とにかくリアルで起きた時にはあまりの衝撃でしばらくはボ〜っとしていて、たった今見た夢がまた再現されるように頭に浮かんできていた。今でもその映像は残っている。何を意味するのだろうか。
その意味はわからないのだが、それだけの衝撃映像なのだが、悲惨な思いや後味の悪い思いが一切ないのだ。逆に清々しさだけが残っているようなそんな感覚だった。いつかその意味がわかるときは来るのだろう。それは霊界へ行った時かも知れないので、今は深追いしないでおこうと思う。
その意味はわからないのだが、それだけの衝撃映像なのだが、悲惨な思いや後味の悪い思いが一切ないのだ。逆に清々しさだけが残っているようなそんな感覚だった。いつかその意味がわかるときは来るのだろう。それは霊界へ行った時かも知れないので、今は深追いしないでおこうと思う。
840回目の瞑想
ーーー霊界の人たちも行動範囲に限界があるのでしょうか。それとも自由に宇宙を駈けめぐることができるのでしょうか。旅行もできるのでしょうか。探検もできるのでしょうか。
「もちろん出来ます。ただし、それが出来るだけの資格を手にすればのことです。霊恪の問題です。そこに目的意志というものがなくてはなりません」(遊び半分、面白半分の宇宙旅行や探検は許されないということーー訳者)
更に関連質問を受けてから以下のように述べた。
「私たち霊の世界の生活がどうなっているか、その本当の様子をお伝えすることはとても困難です。霊の世界の無限の豊かさについて、あなた方は何もご存知ありません。その壮大さ、その無限の様相バラエティは、地上のどの景色を引き合いに出されても、どこの壮大な景観を引き合いに出されても、それに匹敵するものはありません」
ーーー私が思うのに、死後の世界へ行っても、そうした霊界の豊かさを探検する楽しみを捨てて、地上で始めた仕事を続けている者が大勢いるのではないでしょうか。
「そちらで医者だった者がこちらでさらに勉強し、地上での知識をプラスして病気の治療に当たっている人がたくさんいます。それが霊的開発の証なのです」
今回の内容は、霊界でのことだが、霊界で自由に行動できるには、やはり霊恪の問題だと言われている。常に霊恪のレベルが物を言うのだ。そして霊界の素晴らしさは今の私達人間には想像することはできない。何しろ、地上の素晴らしい景色や壮大な景観が匹敵すらしないと言われているのだから。なので逆に霊界への期待感は膨らむばかりだ。けれど、その霊界の豊かさを楽しむどころか、更に地上での体験や知識に加え、病気の治療に当たっている人がたくさんいると言われ、それが霊的開発の証だと言われている。やはり霊恪の高いお方は違うのだと思う。私などは霊界での素晴らしさをまずは体験したいと思ってしまう。存分に満喫した後でこそ、自分のやるべき使命に向けての頑張る気持ちが芽生えるのではないかと思うからだ。そんな思いしか持てない私はまだまだ先は長い。けれど、そんな自分を赦していくことも大事なのではないかと思う。先に進むためには希望を持ちながらでないと挫折してしまう恐れもある。無理に霊恪を高くするために自分を縛り続けることは結局我慢していることに他ならない。我慢はいつか爆発してしまう、それでは元も子もない。時間はかかっても自然に行動できるようになることが私は理想のように思うのだ。なのでじっくりゆっくりと時間をかけて霊恪が高くなって行くように進めて行きたい
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841回目の瞑想
サークルの女性メンバーからの質問。
ーーー実は私の妹は出産の際の器具の使い方が悪くて脳に障害を受けました。それはそれは醜い姿になってしまいました。今は他界していますが、私が他界した時にすぐに妹が分かるでしょうか。今も地上にいた時と同じ姿をしているのでしょうか。なぜ妹は四十年間もそういう醜い状態で地上生活を送らねばならなかったのでしょうか。
「この種の問題は本当は個人的感情を抜きにしてその原理を直接扱えば簡単に片付くのですが、それが出来ないのが残念です。地上に生を受けているいかなる人間も、代償の法則、時には懲罰とも言うべきものから逃れることはできません。ある段階において必ず霊的な貸借の差引勘定が行われ、借り貸し無しの状態となります。そちらで欠陥のあった人はこちらでそれ相当の埋め合わせがあります。
不具といってもそれは肉体上の不完全さであって、精神や霊が不具になることは絶対にありません。何らかの脳の障害によって精神や霊が表現の機会を与えられなかったことから生じる未熟な精神、未熟な霊ならあります。そうした霊は他界した時点ではたぶん幼児のような進化の程度でしょう。しかし、精神または霊には何の障害もありません。
なぜそういうことになったということですが、これはさらに複雑な問題です。因果律、器具の扱い方の間違い、処置の不手際、こうしたものが重なって身体が害され、脳が本来の表現と認識の道具としての機能が果たせなくなったわけです。なぜそうなったのか?もしかしたらカルマが働いていたのかも知れません。が、私は個人的なことにはお答えするわけにはいきません。私はあくまでそれに関わっている原理、原則しか扱えません」
別の人が「この方はご自分が他界した時にすぐ妹さんだということが識別できるのかどうかを知りたがっておられます」と言うとーー
「識別は想像されているほど困難なものではありません。他界してきた人はその人と何らかの縁故のある人たちによって看護されます。その人たちは死期が近づいたことを察知することができ、迎えに出ます。霊というものは自分の識別を容易にしてあげるために一時的にどんな形体でもとることができます。子供の時に他界して地上の時間にして何十年も経っている場合、その母親が他界してきた時に一時的に他界時の子供の姿となってみせることができます。ですから、それはご心配なさる必要はありません」
今回の内容は身内が痛ましい状態であれば、誰しもなぜ?と思ってしまう。それに対してのお答えだ。身内であろうが、他人であろうが、地上に生を受けている人間であれば、代償の法則、時には懲罰とも言うべきものから逃れることはできないと言われ、ある段階において必ず霊的な貸借の差引勘定が行われ、借り貸し無しの状態となると言われている。更には肉体上の不具と言われる状態にあっても、精神や霊が不具になることは絶対にないと断言されている。シルバー・バーチ霊は個人的なことには答えられないとしているが、以上のような原理、原則からやはりカルマである可能性が大のように思う。もしこの方が生きている間に霊的真理を手にできていたら、少しは違っていたのではないかと思われる。
他界後の識別については、霊は自分の識別を容易にしてあげることができると言われ、それは一時的にどんな形体でもとることができると言われている。そうなのかと得心する。また必ずその人を認識できると知って、安堵した
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842回目の瞑想
ーーーそちらから人間をご覧になる時、私たちの霊体が見えるのでしょうか、人体が見えるのでしょうか、それとも両方が見えるのでしょうか。
「それは一口にはお答えできない問題です。その霊が開発した能力によって違ってくるからです。特殊な能力ーー地上の霊能者が使用する霊視力と同じものをもっておれば人体も見えますが、一般的に言えば霊は人間の霊体を見ている場合の方が多いです。今の私にはこの部屋の物体は何も見えません。ご出席のみなさんの霊体だけが見えております」
ーーーこちらの世界からそちらの世界へ行く時、そちらの縁ある人たちにそのことを知らせる何かの連絡組織があるのでしょうか。
「そういう人たちは常にあなたと一緒ですから、そういう組織は必要ありません。あなたご自身が覚悟するずっと以前からあなたの死期を察しております。そしていよいよその時期が到来すると、そばに来て待機します。宇宙で愛ほど強力な引力はありません。愛でつながった人は決して離ればなれにはなりません」
今回の内容も私達人間には考えられもしないことだ。霊であっても、開発した能力次第では地上の人間の見え方が違うと言われている。地上の霊能者の霊視力と同じものをもっていれば人体も見えるとのことだが、一般的には人間の霊体を見ている場合がほとんどのようだ。そしてシルバー・バーチ霊は部屋の物体は何も見えないと言われ、出席者の霊体だけが見えていると言われている。霊界側からは物体は見えないものらしい。それが物的な物はみな
影と言われる所以なのだろう。
また縁ある人たちは常に私たちと一緒であり、死期については私たちが感じるずっと以前から察してくれているらしい。しかもその時が来るとそばで待機していてくれているのだと言われている。このお言葉からも、息子が亡くなる時もきっと私の母がそばにいて待機してくれていたのだろうと確信している。母は孫である息子のことを本当に可愛がってくれていた。生前、母は息子に「おばあちゃんがこの世にいなくなって、何か困ったことがあったら、いつでもおばあちゃんに助けを求めるんだよ。いつでもどこにいても飛んで来て助けてあげるからね」と言っていたものだった。母にとっての孫の息子はかけがえのない存在だったと思うし、それだけ可愛がってもらっていた息子もまた、母を敬愛していた。二人の関係はきっと延々と続いていたのだと思うし今も続いているのだと思う。そしてその中に私も入っているのだと確信している。愛でつながった人は決して離ればなれにはならないとのシルバー・バーチ霊のお言葉にはただただ嬉しさで一杯になるばかりである。
843回目の瞑想
ゲストの一人で霊媒をしている女性が興味深い質問をした。その霊媒がその日ある婦人の依頼で一ヶ月前に他界したばかりのご主人を呼び出してメッセージを述べさせたところ、その日の朝はこんなことをした、昼はこんなことをした、夕方はこんなことをした、という内容のものだったという。それで、霊界の生活にもそのように地上と同じ朝・昼・夜の変化があるかという質問をした。これについてシルバーバーチはこう答えた。
「こちらへ来て間もない初期の段階ではそうことがあります。まだ新しい霊的環境に順応していないためです。霊界の低い界層、いわゆる幽界の環境は地上とそっくりです。これは新参者が感覚を馴らしていくための神の配慮です。
そうしないと新参者は戸惑うのです。そうしたことから、今おっしゃった人のように、霊界へ来てからも朝と昼と夜の生活があるように思っている霊がいることになります。そう思うからそうなるのです。私たちの世界は思念が実在となる世界です。悟りが芽生えるまではその過渡的な状態が続きます。それとは別に、あとに残した人の援助がしたくて、あえて霊的向上を望まないというケースもあります。
霊界にも庭園もあれば家もあり、湖もあれば海もあります。なぜかと言えば、もともとこちらこそが実在の世界だからです。私たちは形のない世界で暮らしているのではありません。私たちも相変わらず人間的存在です。ただ肉体を持たないというだけです。大自然の美しさを味わうこともできます。言葉では表現できない光輝あふれる生活があります。お伝えしようにも言葉がないのです。
ごく自然な形で霊界でも家に住みます。ですがその家は地上生活(の善行・徳行)によってこしらえられたものです。庭園も自然な形で存在します。手入れがいると思えば手入れをします。究極的にはそうしたもの一切が不要であるとの悟りに達しますが、それまではそうした(地上とよく似た)環境の維持に必要な配慮がちゃんとなされております。もしそうした配慮がまるでなされなかったら、地上から霊の世界への移行は大変ショッキングな出来事となってしまいます。
霊界での生活は段階的に向上していくようになっています。各界層、段階、ないし表現の場は、下と上とが地理的にではなく進化的な意味で重なり合い、次第に融合しております。魂が向上し、より他界境涯への適応性が身につくと、自動的にその境涯に置かれるのです。これも完全な叡智の完璧な働きの一例です。何一つ偶然ということがないのです。
(訳者注ーーオーエンの『ベールの彼方の生活』第四巻でアーネル霊が、暗黒界から救出された霊の集団によって作られたコロニーについて次のように述べている。≪その後もそのコロニーは向上しつつあります。そして増加する光輝の強さに比例して少しずつその位置が光明界へと移動しております。これは天界における霊的状態と場所との相互関係の原理に触れる事柄で貴殿には理解が困難、いや、不可能かも知れません。それでこれ以上は深入りしないことにします≫)
霊的に病んでいる場合はこちらにある病院へ行って必要な手当を受けます。両親がまだ地上にいるために霊界で孤児となっている子供には、ちゃんと育ての親が付き添います。血縁関係のある霊である場合もありますが、霊的な近親関係によって引かれてくる霊もいます。このように、あらゆる事態に備えてあらゆる配慮がなされます。それは自然の摂理が何一つ、誰一人見捨てないようにできているからです。
地上生活の究極の目的は、人間が霊的成長のある段階において、物的現象の世界のウラ側に存在する実在に気づくように、さまざまな体験を提供することです。大自然の摂理は正常な人間には例外なくその機会が与えられるように働いていることを私は確信しております。もしそうでなかったら神によって無視されたり恩恵に預かれない人間がいることになり、そういうことは絶対に有り得ないことだからです。霊が地上に誕生するというその事実が、潜在的にその子供にもいずれ芽生えるであろう霊的自覚が秘められており、そのための機会がこれから与えられていくということを意味しております」
今回の内容は霊界についてのことが書かれている。私達人間が簡単には知り得ることができない霊界についての話は大変に有難いことだと思う。霊界の低い界層幽界は地上とそっくりらしい。それは神様のご配慮だと言われている。霊の世界は思念が実在となる世界であるから、そう思うからそうなると言われ、悟りが芽生えるまではその過渡的な状態が続くと言われている。ただ、あとに残した人の援助がしたくて、あえて霊的向上を望まないというケースもあるのだそうだ。神様のご配慮である地上とそっくりな幽界での生活環境の維持に必要なことがちゃんとなされており、そうした配慮がまるでなされなかったら、地上から霊の世界への移行は大変ショッキングな出来事なのだと言われている。今の私たちには実感することはできないが、幽界という生活の場があるということは、地上生活と何ら変わらず生活できるのだから、本当に有難いことなのだと思う。そこには地上にあるものは何でもあると言われており、霊の世界こそが実在の世界だからと言われているのだ。そして霊界での生活は段階的に向上していくようになっており、各界層、段階、ないし表現の場は、下と上とが地理的にではなく進化的な意味で重なり合い、次第に融合していると言われる。更に魂が向上し、より他界境涯への適応性が身につくと、自動的にその境涯に置かれるようになると言われているのだ。素晴らしいと思う。訳者の方もまた『ベールの彼方の生活』の中からの例えを抜粋して下さっている。霊界という私達人間にとってははっきりと把握することはなかなかできない世界ではあるが、シルバー・バーチ霊のお言葉通り、この世の体験を通して、霊界の実在に気づくようにその機会は与えられているのだと思う。少なくともその機会を無駄に終わらせないようにしたいものである
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