MEMORANDUM2(2020/6月〜9月)

  日々の瞑想や霊的なことなどを綴っていきたいと思っています
私はクラッシック音楽がとても好きなので、クラッシック音楽を取り入れた形の自由な瞑想をしております。
(マーラー作曲:交響曲9番の4楽章を2回聴く)
写真と内容は関係あるものとそうでないもがあります。(写真は主に私が撮ったものを載せてます)
私自身の記録用なので、参考程度に読んで頂けたらと思います。
下記の(アコーディオン形式)日付をクリックしてください。


 
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215回目の瞑想

日の光
 

『奉仕がこの世のマネー』
「ここにもう一つ、神の法則を語ろう。それは、この世では代価を払わないで、何一つ手にいれることは出来ない・・・皆さんは代価を払わないで、富を積んではいけない。もし富を積みながら、霊的義務を怠れば、地上では富者であっても、霊界に入れば最も貧しい者となる。」

Aはかけひきと、人の犠牲で、巨万の富を積み、Bは誠実と努力を人のための仕事に捧げ、巨万の富を得た。Aは程なくその富を失い、Bはそれを残した。これは原理である。Bはその代価を払ったがAは払わず、その富は略奪だったから。

今日の瞑想では、ヒーリングとお祈りをさせてもらっているわんこが、途中でお礼に来てくれた。わんこの「ワンワン」という声と共に「ありがとう」という気持ちが伝わってきた。私は「こちらこそ、ヒーリングをさせてもらえて感謝しているよ。ありがとうね。」と、私の膝の上に乗っている感覚があったのと、そのわんこの健気な気持ちに思わず抱きしめていた。そのことでヒーリングの力が実際に伝わっていることを実感し、涙が止めどなく流れていた。そして、神様にご守護霊様に感謝の気持ちをお伝えした。また息子にも感謝の気持ちを伝えると「そういうことができる人だと思っていたよ。」という言葉が浮かぶと言うよりは、聞こえたような気がした。本当に有難くて、涙涙だった。
最近は人に対してもヒーリングをさせて頂ける機会を与えて頂いている。本当に有難く、神様のエネルギーがたくさん注がれるように、真摯に相手の方のことを想って、今後もヒーリングとお祈りをさせて頂こうと思っている。

216回目の瞑想

薔薇


『神法に狂いはない』
「神法は調和と正義に満ちていて、その働きにはいささかの狂いもない。一人としてその罰を逃れ、誰一人として、その報いを受けずに終わるということはない。」

人は神法があることすら知らない。例えば、自分が播いたものを自分で刈り取る。この因果の理法すら。だから、刈り取らずに済ませようとしたり、人に刈り取って貰おうとする。しかし法はあるのだから、自分で刈り取らなかったものを、将来利息をつけて刈り取らされる。この利息が罰である。利息が利息を呼び山ほどの罰を受け取る。これが苦難である。苦難は自分が払う延滞利息であり、天のコンピュータで正確に計算されている。

最近、立て続けにヒーリングにご協力させて頂いている。その際に、ヒーリングとお祈りをしていると、何度か目の前がものすごい明るさになり、有難い思いで一杯になる。その明るさは電気の明るさとは全く違う。ただ、それも毎回ではない。またヒーリング中、何回という決まったものでもない。その時その時で違うのである。更にそれは私に対してのものなのか、ヒーリングさせてもらっている相手の方へのものなのかもわからない。けれど、ただただ感謝の気持ちになるのは間違いないことである。(その明るさは画像よりももう少し黄色っぽい)

217回目の瞑想

光り


今日は私がヒーリングのご協力に至った、経緯を記してみたいと思う。
瞑想を始めて、しばらくすると、特に左手の痺れ感が凄かったことはこの備忘録にも書いてある通りだが、その際に「シルバーバーチの霊訓とともに歩む」のイクミ様から「霊力が出ているのではないかと思う」と言われていた。けれど私はそんな事は夢にも思っていなかったので、何か他人事のような半信半疑だった。ただ日増しに左手の痺れ感が強くなって行くことは感じていたので、何かあるではないかとは思っていた。それが8月25日に十二単のお方が出現されてから、流れがどんどん変わって行ったのだ。最初はイクミ様からも何度か「ヒーリングをしてみたらどうか」とお薦めしてもらっていたが、なかなか踏み出すことが出来ずにいたのだ。しかも今度は8月28日に信じられないようなお言葉を頂いたのだが、その時もまだ確信が持てないとそのお言葉に躊躇していた。そのお言葉とは、瞑想時左手がゆっくりゆっくりと胸の辺りまで上がってくると「その手を人の癒やしのために使いなさい。」と心に浮かんだのだ。ただこの頃から奉仕に対する想いが強くなって行ったことも事実だった。そして息子の命日には、老人ホームでの演奏をすることが決まり、奉仕できることに有難く思っていた。それと同時に自己ヒーリングも始めていたので、ヒーリングが出来るようになりたいという気持ちも日増しに強くなっていた。そしてある方に息子さんがヒーリングを望んでいるので、早くやって欲しいと思っていると言われて一気に私の想いはヒーリングに傾いた。もちろん、その事もイクミ様にはお話ししていたので、イクミ様から「先ずは私の家で飼っている金太郎と言う犬に行ってみてはいただけないでしょうか。頸椎ヘルニアらしく、首を動かすとキャンと鳴いてとても痛がります。食欲も落ちて、散歩も行けません」と。イクミ様も初めての遠隔ヒーリングは猫だったと仰って下さって、私はその晩から、早速金太郎君に向けてヒーリングとお祈りをさせて頂いたのだ。ただ、うちのわんこも椎間板ヘルニアになり、鍼治療で完治した経緯があったので、そのことをお話しし、早く鍼治療もされた方が良いとお薦めもした。だが鍼治療の先生捜しもあったので、すぐには鍼治療はできないようだった。それでもイクミ様と私のヒーリングで少しずつ、快方に向かってはいたが一進一退を繰り返しているようだった。そんな中で瞑想時(9月15日)に金太郎君は必ず治るとのお言葉を頂き、ヒーリングとお祈りは今も続けてやっている。そしてその時に私は「私の力も少しはお役に立っているのでしょうか?」とお聞きすると「もちろんである。」と。そして「イクミ様に協力させて頂いてもいいのでしょうか?」ともお聞きした。すると「ヒーリングの力のあるものはどんな協力も惜しむべきではない。人は勿論のこと、すべてに役立てるべきである。」と。すぐにそのことをイクミ様にお話しすると、「力が重なれば、より効果が期待できると思います。ご協力をお願い致します。」と仰って下さったので、今度は人のためにヒーリングをする機会を頂いたのである。本当に有難いと思っている。私の前にイクミ様のヒーリングで、ヒーリングの力を得た方とで、今は三人でヒーリングに当たらせてもらっている。金太郎君もかなり良くなってきているとのことで、首が回るようにもなってきたとのことだった。少しでもお役に立てたことがとても嬉しかった。
イクミ様という方は、霊格が高く、私は尊敬している。どんな人にも分け隔てなく、優しいお言葉で諭されている。ぜひ一度イクミ様のブログに訪問されてみて欲しい。ブログの内容にきっと癒やされると思う。そして、今悩まれていたり、苦しい思い、辛い思い、悲しい思いなどの精神面や身体の不調のある方はぜひ、ヒーリングをお薦めする。もちろん、ヒーリング効果は人それぞれではあるが、必ず感じることがあるはずである。

ヒーリングの申し込みはイクミ様のブログのコメントに書かれるだけで、名前や住所など一切の個人情報は要らない。匿名であってもヒーリングはできるのである。多くの方にヒーリングの体験をして欲しいと心から願っている。

イクミ様のブログのアドレスを記しておく。

「シルバーバーチの霊訓とともに歩む」

218回目の瞑想 

お釈迦様


今日の瞑想では、とても大切なことに気付かせてもらえた。
ヒーリングを受ける人の姿勢についてだった。
ヒーリングの力が相手に感じるか感じないかは、その受け取る人の求める気持ちが重要だということに。。
興味本位や遊び気分でヒーリングを受けた場合、感じる事ができない場合が往々にしてある。また、不安や恐怖の思いが余りにも強い人や半信半疑な人も感じられにくい。ヒーリングを受ける人は、できれば神様を信じ、ヒーリングの力を信じることが望ましいが、何よりもただひたすらに真摯に求める気持ちを持って、受けることが大事だということである。

ただ、これは受け取る人の感じる感じないという話であって、ヒーリングの力は必ず相手に伝わっているのである。なぜなら、神様の愛のエネルギーは常に生きとし生ける物すべてに注がれているが、それを感じる人と感じる事ができない人がいるのと同じである。

また、昨日の瞑想でも、こんなお言葉を受け取らせてもらっていた。
「物事を考える時には、多角的視点で考えることが必要であり、大切なことである。そしてその時に心がどのように思うのか、これが最も大切なことなのである。」と。

219回目の瞑想

赤い薔薇


『進十字架の教訓』
「地上には、私達霊魂の力で動かせない障害はない、ただしそうすることが法にかなっているならば。時には、人の背負う十字架があまりに重く、私は自分の進歩を諦めても、その重荷を取り除いてあげたいと思う。だが、よく覚えていて貰いたいことは、人がその十字架を背負い、その重荷から教訓を学びとることは、もっと大切なことだ。」

人の背負う苦難は、その人が今生で、また前生で播いた種の果である。二度とそれを播かぬ者となるには、本人が苦難によりその種が何であるかを知る外にない。これが救いの原理。神仏はこの原理に立つ。

今日の瞑想は、ヒーリングとお祈りをしている途中に今まで以上に神様との繋がりを感じることができた。そしてヒーリングの力を人のために役立てたいという想いもとても強くなったように思う。

220回目の瞑想

白馬


『 協力が法則』
「私達霊界人は、一人で事を行うということはない。協力が法則であるからだ。私達はその仕事に必要なすべての個性の人々を集めて、これをうって一丸として、できるだけ完ぺきな一団を形成する。これはあたかもオーケストラのようなものだ。かりにその中の最小の一人でも音を誤れば、他がすべて優れた奏者であっても、不調和を生み出す。協力は法則である。」

宇宙は公平無私。どの役も偉大で難しい。ただそれを完全に果たすには、誰しも無私が必要とされる。その点で責任は同じで、だからその結果の功績も同じである。

先日、イクミ様から、本のご紹介があった。霊的治療家のハリーエドワーズ氏の「霊的治療の解明」という本だった。すぐにAmazonで取り寄せて、今読んでいる。いろいろと難しい箇所はあれど、とてもためになる内容である。それにしても名前は知っていたが、これほどの人と言うのはお恥ずかしい話だが知らなかったのだ。例えば、一例を挙げると赤ちゃんの脊髄の湾曲を治したりしているのだ。本当にびっくりだった。私自身も少しでもお役に立てるように本に書いてある内容で取り入れることができる事から、瞑想に取り入れて行きたいと思っている。昨日から早速、取り入れてみたのだが、何かが違った。まだ確信と言えるほどのことではないが、いつもの瞑想とは何かが違っているように感じた。本を読み進めると同時に、瞑想の中での実践も行っていくつもりだ。
 

221回目の瞑想 

日の出


『奉仕こそ進歩の道』
「自分を忘れて奉仕さえすれば、自分の霊性ー神の霊ーはいよいよ発揮されていく。何と単純なことではないか。」

誰しも、初めから自分を神だと思える人はいない。肉衣に包まれて内の目で人も自分も見るから。肉体で区画された人は他人であり、肉体を持つ自分は人間に見える。もし、人が自分を忘れれば、即ちもはや肉体である自分を一切忘れれば、人は他人ではなく、自分は人間でなくなる。自己を忘れる最良の法は奉仕である。何となれば、人間の本性は神の霊である愛だから、誰だって自己を忘れて他を愛することが出来る。人が奉仕する度に、人は自分を忘れ、だんだん内在の霊ーー神の霊に目覚めていく。

今日の瞑想では、ただひたすらにお祈りとヒーリングとをさせて頂いた。先日イクミ様より、嬉しいご報告を受けた。金太郎君が首もだいぶ動かせるようになり、前足の踏ん張りも利くようになって来たとのこと。しかも痛みで鳴くこともほとんどないとのことだった。また「あなたの祈りと金太郎を想う気持ちに、呼び寄せられた霊医がいたと思っています。ヘルニアの治療を得意としている霊なのかもしれません。金太郎に代わり、御礼申し上げます。」と身に余るお言葉まで頂いてしまったのだ。だが、私にそこまでの力が身についてきたのかどうか、自分ではよくわからない。けれど、これからも精進し、自他共に認め認めてもらえるように努力して行きたいと、強く想った次第である。また今回も瞑想中に有難いお言葉を頂いたが、自分自身で認められるようになった時にそのお言葉は公開したいと思う。

今回のシルバーバーチのお言葉のように、自分のできる限りのご奉仕をさせて頂きたいと思っている。そして自分の霊性が少しでも向上し、神様に尽くすことができれば本望である。

222回目の瞑想

青空


『祈りは波長の法による』
「(問)祈ればある霊魂がそれを聞いてくれるのですか。それとも私達の方から、それに応えてくれる力を求めなければならないのですか。
(答)祈りは因となって応答を引き寄せる。従ってある霊魂が貴方の祈りのために、待ち受けている必要はない。貴方が祈れば、その祈りの質にもよるが、まず貴方の魂の向上の程度に応じて、届く限りの他界のすべての霊魂にすぐ通じるのである。」

祈りは電波と同じこと。長波は長波に、短波は短波にすぐ同調し、長波は近くへ、短波なら遠くまで届く。超短波なら神まで届く。超短波は精妙な波長の愛の心、短波は普通人の心、長波は粗い波長の利己心、これは地獄への直通電波。

昨日の私の疑問にイクミ様がヒーリングに(だけではないが)肝心要な大事な内容を教えて頂いた。腑には落ちたのだが、今の私には到底出来そうもないことのように思えた。だが少しずつでも取り入れて実行して行きたいと切に願う。ただただ有難い貴重な内容に心から感謝している。今日の瞑想では、取り入れられることを実践しつつ、ヒーリングとお祈りをしていた。すると身体中が精妙な波長で包まれていることを実感した。この精妙な波長を感じたことで、今までは粗い波長だったのだと知る。(もちろん、精妙よりは粗いという意味だ)そして今回のお題の感想に「精妙な波長の愛の心」という文字を見て鳥肌が立った。私の祈りも少しずつではあるとは思うが届いているのだと確信することができた。

223回目の瞑想

お釈迦様

今朝
『奉仕』
「損得勘定を捨てなさい。神の法は完璧なのだから。皆さんは人の僕となり、奉仕だけを心がけなさい。その時、神は貴方に働き給うのである。・・・これが狂いのない神の法である。」

誰でも、法があって自分の損得がコンピューターで正確に計算されていると、思っている人は少ない。だから自分で計算してみる。しかし天のコンピューターのような具合にはいかない。足し算と引き算の方式がまるで地上と違うから。足し算は「奉仕」与えること、引き算は「利己」奪うことを欺すこと儲けること、これが法である。

昨夜の瞑想では、強烈なエネルギーが映像として、はっきりと出現した。ものすごい衝撃であった。また夢であるが、奉仕のシンポジウムのようなものに出席していた。かなり大きな会場にそれなりの人数がいて、議長のような人が前に立って話をしている。ただ何を話していたかはわからない。その時に息子にもお久しぶりに会えた。ただやはり何を話していたかはわからない。こういう時こそ覚えていたいのだが・・・今日の瞑想は、お祈りとヒーリングをしていて、やはり意識が飛んでいた。気がついた時にはもう2回目の曲が終わりに近づいていた。(画像よりももっと金色に近い)

224回目の瞑想

オーロラ


『魂は打ち出の小槌』
「皆さんは平和を外に求める。だが、私は永遠の平和は内部にあると、また最大の富は霊的な富であると、皆さんに言う。」


言葉は悪いが、飯の種になるものだけを人は富だと思う。心の喜びでは腹は膨れないからである。だが、使えば減るのはお金であり、また身の仇になるのもお金である。有り余る物も地震や災禍でいつかは消える。無常と釈迦はこれを呼んだ。人間の身体も無常である。不滅の喜びが魂の悦び。これからは打ち出の小槌のように、健康と生活の平和が振り出される。故にこれが富である。

今日の瞑想では、特筆すべきことはなかった。

225回目の瞑想

光り輝く


今朝、イクミ様からメールがあり、ヒーリングの件と金太郎君が大分良い状態で、首もブルブルと回せるようになってきたとのことのご報告を受けた。本当に良かったと心から思った。だが、金太郎君の母犬であるしろちゃんが、今度は気になることがあるとのことで、しろちゃんのヒーリングもさせてもらうことになった。
早速、今日の瞑想で、お祈りとヒーリングをする。すると私自身の昔から思っていた想いが込み上げてきた。(犬は人間を癒やしてくれる健気な生き物なのに、なぜ病気などにならなければいけないのでしょうか。どうか病気がなくなりますように)と言う言葉と共に涙が流れていた。すると「天命である。動物の病気にも意味はある。それは人間がその事にどう向き合うかということである。病気の動物に対してどれだけの愛情を注いであげられるのか、または捨てておくのか・・・それも人間の試練なのである。どちらを選択するかは自由であるが、その結果最も大事なことは、生死ではなく、如何にお互いの魂に響くかということなのである。」という言葉がどんどんと出てきたのだ。私は更に涙してしまった。今まで考えてもなかった内容に納得できたような気がしている。


そして、シルバーバーチの霊訓のお題は、9月11日と同じお題の「動物の群魂」だった。なので記載は省きたいと思う。

226回目の瞑想

光り輝く


今日の瞑想では、また素晴らしい体験をさせて頂いた。
慈悲のお祈りをし、金太郎君としろちゃんのお祈りとヒーリングをさせて頂いた。金太郎君はいつも通りだったが、嬉しそうな姿を感じた。更に今回のしろちゃんは思いもかけないことが起きたのだ。お祈りが終わり、ヒーリングに集中すると、しろちゃんの優しさに溢れた想いが、逆に私が包まれているようだった。その心根を感じて、涙が止めどなく流れていた。純粋な魂を感じ、温かさも感じた。素晴らしいわんちゃんだということを体感したのだ。飼い主であるイクミ様や奥様の愛を感じていることもわかった。そして何よりも病気について達観していたのだ。そのことを直感すると、言葉では表現できない想いになり、更に涙が滂沱とこぼれ落ちた。昨日のお言葉と符合しているという想いになった。

動物の病気には人間に意味があること、人間に影響を与えるということがはっきりと認識できたのである。
我に戻った時には、満ち足りた想いと共に、有難い想いで一杯になっていた。しろちゃんは犬ではありながら、人間に霊的な心を感じさせてくれる素晴らしいお役目を持ったわんちゃんなのだと思った。こんな機会を与えて下さったイクミ様にも心から感謝している。(画像はお借りさせて貰った。何とも言えないとても優しい良い表情をしている)

204回目の瞑想

日の光
 

『奉仕について』
「自分を忘れて奉仕に努める人、それは神性を発揮している人である。貴方が奉仕に努めて怠らない限り、貴方はいやしくも神の通路である。人に奉仕することをしないで、どうやって神に仕えることができようか。・・・どこにあっても奉仕さえすれば、これ即ち宗教である。」

奉仕して何一つ失われるものはない。神とのパイプがその分だけ太くなるのだから、今に世界がそっくり貴方の中に入るだろう。

人に奉仕するということは、神に奉仕する、ということを気付かせてもらってからは、この奉仕に全力を傾けて行きたいと切に願っている。私にできることがあれば、どんなことでもやりたいと思っている。
昨夜から、ある方のわんちゃんにヒーリングさせてもらっている。微力ながらも、少しでもお役に立ちたい思いで一杯である。早く治るようにお祈りもしている。わんこが辛い思いをしているのは、飼い主として、本当に辛い。そのお気持ちがわかるだけに、できるだけのご協力をさせて頂きたいと思っている。

205回目の瞑想

薔薇


『肉体の牢獄』
「私が霊媒のオーラの中に入ると、固い壁の中に入った感じとなる。それはオーラに私の波長を合わせるからだ。今の私には、霊媒のオーラは牢獄であり、霊媒の肉体の五感によって制約をうけている。」

バーチが言う肉体の牢獄の中に私達は永年住んでいる。住めば都というが、この牢獄に強い執着を持っている。おかしなことと思いませんか。まさかサッサと死ねと言うつもりはないが。しかし牢獄の窓を開いて無限の世界を見る方法はある。スピリチュアリズムで死後の世界の存在を知ること。それから愛と奉仕で生きれば、牢獄の物質の壁の波動が段々キレイになる。するとガラスのようにあちら側が見えてくる。皆で力を合わせてそうしませんか。

今日の瞑想では、ほとんど意識が飛んでいた。自分では意識があると思っていたのだが、ある瞬間、女性のお声がして何かを言われていた。けれど、そのお声だけで内容はわからなかった。しかも、そのお声は聞いたことがあるような、ないような、それもよくわからなかったのだ。我に戻ってみると、やはり意識が完全に飛んでいたことを実感する。ただ、内容を覚えていないことに、とても残念な思いだった。

206回目の瞑想

光り


『宇宙法則は奉仕』
「かつてイエスを通じて働いた力が今もう一度働いていることを知って貰いたい。私達はイエスと同じように大神霊の力を伴ってやって来ている。そして同じ啓示、同じ通信を送る。奉仕こそは生命の法、奉仕ある所には平和と幸福があり、奉仕のない所には荒廃のみがある。」

イエスが出る前に釈尊が出て準備をした。二人の述べた啓示がスピリチュアリズムの中で一つとなって花開く。神界の計画はこのアクエリアス時代に地上天国を実現すること。地上天国の原理は宇宙霊太陽の原理「愛」、それが人間の本性であることを人間が知る時が地上天国。釈尊もイエスもスピリチュアリズムも、神のこの偉大な啓示を伝えるための順序。

毎日の瞑想でも、先日お話ししたわんちゃんのヒーリングとお祈りもしている。昨晩はそのわんちゃんが元気に走っている状態を思念してみた。そのせいなのか、今朝まだうつらうつらしながら、ヒーリングとお祈りをしていると、そのわんちゃんの嬉しそうな笑顔を見ることができた。また、今日の瞑想では、神様のエネルギーを感じながら、必ず良くなるという確信めいた気持ちにもなった。
わんちゃんの様子をお知らせしてもらっているが、いつもの元気さが少し戻ってきているとのこと。また痛みも和らいで、食欲も出てきたとのお話しに、本当によかったと少し安堵した。その方自身のヒーリングの力自体凄いので、私は微力ながら協力させて頂いている感じだが、そんな機会を与えて頂いていることに、とても感謝している。

207回目の瞑想 

お釈迦様


『動物の群魂』
「(問)動物はそれぞれに応報をうけますか。
(答)いや、個々にではなく、群魂としてうける。この苦しみによって、群魂は進歩していくのである。」

群魂とは、一つの魂にたとえば百匹の犬が所属していたり、数万匹の虎が所属していたり、その魂の一部をうけて犬や虎が出生し、死ぬとまたその中へ戻って同化する。いわば魂の一個のプールのようなもの。群魂が進化すると、一群魂を度台に人間の霊が宿ると一人の人間となる。動物群魂の進化は、動物には自由意志がないから、人間のように罪を犯してその応報を受けるという事はない。しかし、自衛本能があるから、そのために殺し合い喜怒哀楽の感情を持ち、更に自衛のための知的な連鎖作用も起こる。また母性本能や雌雄の性本能から愛し愛される情を育てる。こうして個という意識がつくられる。だが神性である人間の個我ではないから、愛される喜びは知っても、愛する苦しみや喜びを知って他を愛する愛は持たない。この愛が神にまで魂を高める愛。ただし、この愛を持つ人間が動物を愛することで、飛躍的に動物は愛に反応できるようになって、やがて一個の群魂が一人の人間となる土台ができる。

昨夜、ヒーリングとお祈りの時に朝の瞑想時と同じ映像が出現した。表現がとても難しいが、宇宙空間に星のようなものが無数にあり、それが短距離間をきらめきながら、一斉に動くのだ。その速さと光りに目を奪われる。今までに何度も出現している映像だが、この世では見ることが出来ないのではないかと思う。そして、世界のすべての動物達が平和で過ごせるようにと願う気持ちが、とても強くなっていた。(それは今の世ではなかなか難しいが・・・)と心の中で否定的な思いが出た瞬間、覆い被せるように、いや、一人でもその事を実現できるようにと思念しなければいけないと思い直していた。

208回目の瞑想

赤い薔薇


『進歩とは媒体の進化』
「貴方は霊を進歩させているのではない。霊が自己表現するための諸媒体を、進歩させつつあるのだ。」

神は進歩なさいません。はじめから完全無欠ですから。しかし、神の表現媒体である宇宙は進化します。その進化につれて、完全無欠である神はますます自己の姿を外に発揮されます。それと同じように、神の子である私達、もともと完全無欠な神の分身である霊は進歩しません。物質界での辛酸の経験をへて霊の器である媒体を進歩、すなわち浄化させます。その結果、自己の真相である内在の神を、自己を通じて外へ発揮させます。病気もカルマも宿縁も、私の未浄化の媒体が仮に作り出したもので、私自身である霊に付着したものではありません。ただし、私達はそれを学習することで、媒体を進化させることができます。

今日の瞑想も、ヒーリングとお祈りをしている途中に意識が完全に飛んでいた。最初は映像のようなものも出現していたようだったが、何だったかは覚えていない。気がつくと2回目の曲が終わりに近づいていた。

209回目の瞑想

白馬


『 自己犠牲 が愛』
「もし私達の教えが、より高貴な生を、即ち自己犠牲と理想に生きる生を、述べて伝えているなら、それは神の刻印が私達の教えに押されている証拠である。」

自己犠牲のほかに愛は存在しない。なぜなら「あなたは私、私はあなた」と思うから、自分を捨てて相手に奉仕する。それが愛である。それなら自分を捨てることが愛であり、捨てた分が自己犠牲である。そしてこの自己犠牲以上に大きな喜びはない。なぜなら自分のために自分を捨てたのだから、何一つ惜しくないのである。故に、神は最も大いなる自己犠牲である。最も大きな愛である。神はすべてのものを「あなたは私、私はあなた」と思っておいでになるから。

今日の瞑想でのヒーリングとお祈りの途中から、また意識が飛んでいた。最近無心な状態が続く。
しかしながら、今回のお題は、耳が痛い。頭ではわかっていても、行動となると、なかなか簡単には実行できない。私自身、今特に悩んでいることだったので、こうあらねばならないのに、瞑想している時は霊的自我として思えるのに普段の生活では地上自我ばかりが出て来てしまう。いつになったら、霊主肉従の状態になるのであろうか。大事な息子を亡くしているのに、本当に情けない思いで日々を過ごしている。
 

210回目の瞑想 

日の出


『罪とは知っていることに対し支払う代価』
「(問)死刑執行人は他界に入って、どんな裁きを受けますか。
(答)もし、本人がこれはいけないことだと知っていれば、知っているが故の罪に対する罰を受けねばならない。まだこれを知らなければ、罰を受けることはない。
(問)肉食に対する罰は死後受けますか。
(答)もし皆さんの魂が進歩していれば、また、もし皆さんが、神の被造物の弱いものを食べることは、間違いだという事を知っていれば、いけないと知りつつ犯した罰を受けることになる。もし魂が未発達ならば、肉食を誤りと気付かないから罰はない。常に、知っていることに対しては、代価を支払わねばならない。その代価とは責任である。」

ライオンが人を殺して食べても、罪に問われることはない。善悪を知らないから。人間の肉体は動物から進化した。その肉体に霊が宿って人間となった。霊は神であり人間自身である。未熟な人間は動物性が強く、内在の霊が外に発揮できていない人のことである。善悪を知るのは、内在の霊の光の放射によってである。ライオンが人を殺して食べても罰せられないように、未熟な人はその動物性のなせる業だから罰せられない。進歩した人ほど罰せられる事が増えていく。これは進歩のためであり、神そのものに戻るために、神である自分が自分に課した法である。神である無上の歓喜を知るために、痛みという良心の種を神は自分の胸の中にそっと置かれた。

今日の瞑想では、ヒーリングとお祈りをし出すと、神様の愛のエネルギーを全身に感じていた。身体がその愛のエネルギーに包まれていて、心は穏やかに、優しい気持ちの中で、そのお力を感じることができた。その間、身体のあちこちがビクッビクッとなったり、心地良い痺れ感だった。このような時の私は生きとし生ける物全てに愛のオーラで包み込むことができるような気持ちになる。神様のお力を感じられるこの時間は至福の何物でもない。これが日々の生活の中でも持続させたいと切に願う。

今回のシルバーバーチのお言葉は、とても深く考えさせられる。霊的真理を受け取る準備ができていない人に、肉食がいけないということを伝えてもいいのかどうか、ということを常に悩んでいる。このお題の内容にもあるように、知らなければ罰せられないということは、まだ受け取る準備ができていない人に無理に伝える必要があるのかどうかということに。準備のできた人は、自ずといけないことを悟るので、その事をきちんと受け止めることができるのだと思うが、果たして、それを無理に伝えて中途半端な気持ちになるくらいならば、知らない方がいいのでは、という思いにもなる。肉食を当たり前としている今の世では、とても難しい問題なのではないかと思う。

211回目の瞑想

青空


『熱誠の祈り』
「祈りとは、自分をより高い霊力と結びつける手段である。意味も分からずに、人の書いた文句を口先だけで繰り返す祈りではない。それは及ぶ限りの高みを希求し、心をこめて魂を尽くして祈るお祈りのことである。このような祈りであって初めて、内の霊感が満ち溢れ、人は強さを増す。」

自分の現世利益を願う祈りは禍のもと。口先だけの祈りは無効。自分の進歩や救いの祈りでも人事を尽くした後なら無駄ではない。世のため人のための祈りなら必ずきかれる。奉仕の人は祈らなくても、常に回答が与えられる。いつも心に祈りがあるから。祈りは無私であるほど、高みに達し、その分だけその人に霊力と英知が返ってくる。

今日の瞑想では、ヒーリングとお祈りをしているといきなりお言葉があった。プライベートなことでもあるので、機会があれば記そうと思う。

212回目の瞑想

お釈迦様

今朝
『救いの道は一つだけー自己責任』
「地上は自分で自分を救う道を、学びとらねばならない。どこにも予めつくられた道はない。どこにも、予めしつらえられた救済の組織はない。」

だれかが自分を救ってくれる、これが地球人の底に流れた心情である。シルバー・バーチはそれは嘘だと教えている。なぜなら「人は神」なのだから。神を救ってくれる者が他にいるだろうか。この真理を知ったとき、人は救われた者になる。「人は神」であることを知ったのだから、知ったとおり神のようになる。すべての現れの背後には神のエネルギーがある。「人は神」と知った時、人と万物のエネルギーと同調する。これが人が道を開いていく根源である。すべてのもののエネルギーが自分と同調して流れるから、彼は自ら救う者でありながら、すべて神のエネルギーによって救われる者である。

今日の瞑想でも、全身の痺れ感が半端なく、特に今回は右のふくらはぎが長いことビクビクしていた。また右の腿もそれに反応するかのように、心地良い痺れ感があった。また我に戻る前に目は閉じたままだったが勝手に瞬きしているように動いていた。瞑想中は神様のエネルギーを感じられるが、まだまだ救われるには時間がかかりそうである。やはり、奉仕の実践をしてこそなのだと思う。

213回目の瞑想

オーロラ


『通信の姿勢』
「私達は一片の信条、一冊の経典、一宗一派にこだわるものではない。ただ生命である神、その永遠の法、これに命を捧げるものである。」


バーチが神命を受けて地上に降りたのは、その時が来たからである。神が創造の日から今日まで続けておいでの法を私達に明らかにする時が来たから。その法を伝えるものであるから、一宗一派も経典も不要である。バーチの口から素朴に誰にもで分かる言葉で語られる。私達はそれをキャッチして、ネオ・スピリチュアリズムで体系化して、手伝う。素直な耳をもつ人が二十世紀の末に集められているので、しずかな革命が、しかし地球が裏返しになる変革が地球に起こる。

今日の瞑想では、ヒーリングとお祈りをしていると、私自身がわんちゃんの辛い部分と同じ所が重くなり、頭も痺れてきた。するとわんこの鳴き声が聞こえた途端、母がお釈迦様に教えて頂いたお祈り(生きとし生ける物すべてに通じる)を唱えだしていた。少しずつだったが、和らいで行くのを感じたのだ。これからは、そのお祈りをヒーリング時にもして行こうと思う。

214回目の瞑想

光り輝く


『人は神の分身』
「人はすべて、一人ひとりが神の分身であり、一人ひとりが神の御業と力と愛と知とを、担うことのできるものである。かりに貴方が弱い人に手を差しのべれば、神の力はたちまち貴方を通して、働くようになるのである。」


水道の蛇口を開けば水が出る、閉じれば水は止まる。簡単な原理である。それだけの事が分からず、人間はいつも水道の蛇口を止めている。貴方の超能力と霊性進歩と幸福の源泉は神にある。それが分かったら、貴方の水道の蛇口を開きなさい。

今日の瞑想でも、意識が遠のく感じであった。今日のお題の内容を心で実感できるようになってきている。瞑想と奉仕はセットで行わなければいけないことを痛感している。

193回目の瞑想

日の光
 

『種子は暗い土の中に置かれる』
「種子は暗い土の中に置かれ、十分な力を養って生命を吹き出す。ちょうどそのように、人もやがて霊的生命を吹き出すために、予め暗い地上に置かれ、人間の経験を重ねて力を蓄える。人のもっと嫌がる悲しみ・苦しみ・涙・失望・災い・苦痛、これらも実は魂にとり、極めて価値のある経験である。」

一粒の種子の中には、未来の幹や枝や花や実を作る原型が隠されている。だから桜からは桜の花が、梅からは梅の実がなる。そのように人には霊という神の種子があって、未来が隠されている。暗い地中に置かれ、霜と暑さと雨に打たれ、固い殻が破られて芽を吹く。その芽がまっすぐ幹となり、花を咲かせ、実を稔らせて神の顔を現す。人を見たら、隠されている神の姿を思えば、それが狂いのない相手の姿である。今のあるわだかまり、憎しみ、行き違いは、お互いが神の芽を吹くための霜や暑さや雨風にすぎない。

このシルバーバーチのお言葉は、とてもわかりやすい例えだと思う。やはりすべては自然法則と同じということに尽きるということ。ただ、人間は感情があるが故に簡単にはいかない。また楽な人生を望んでいることも要因のひとつだろう。自ら望んで苦しみや悲しみを受けたいと思う人は、どれほどいるだろうか。頭ではわかっていても実行となると難しい。だから望まないまでも、試練に出逢った時にこそ、この教えを思いおこすことが大事なのだと思う。
今日の瞑想では、いきなりこんな言葉が出てきた。「暁の心に沁みる想いかな」これはどういう意味なのだろうか。暁には明け方という意味だけでなく、悟るという意味もあるらしい。悟ることが出来た時の想いなのだろうか。またこの度信じられないようなお言葉も頂いたが、私自身まだ確信できていないので確信できたら、記そうと思う。

194回目の瞑想

薔薇


『無私の祈り』
「(問)人のためのお祈りは効果がありますか。
(答)本当の祈りなら決して無駄に終わることはない。思想は力であるから。」

本当の祈りとは無私の祈りのことです。他者のための祈りはすべて無私だからきかれます。自分のための祈りでも、魂の進歩向上の希求ならすべてきかれます。物的利得を求めない無私だから。身内のための祈りも霊性進化を祈るのならすべてきかれます。無私だから。その物的幸福を祈る時は、私情から出たり、自分の利得につながる事があるから要注意です。すべて無私なら、高い波動が祈る人から発して、守護霊を通じて神につながり、必ずきかれます。
神とは愛の祈りです。

慈悲のお祈りも無私であり、私自身のことではあるが魂の進歩向上の希求も無私だと思っていたので、お聞き入れ頂けると信じている。ただ、奉仕のやり方についてはどのようにすればいいのかはまだはっきりとしたお答えはない。やはり奉仕の実践こそが今の私には必要なのだと感じている。今日の瞑想でも、左手の痺れは勿論だが、眉間から頭にかけての痺れ感もかなりのものだった。今のコロナの状態で、できる奉仕とは、一体何ができるのであろうか。

195回目の瞑想

光り


『人生は宝探し』
「人間は本来その内部に病気を治し、悩みを克服する力をもっている。・・・つまり天国は内部にある。しかるに、人はこのことをほとんど知っていない。」

病めば医師にかかり、悩みがあれば霊術者の門を叩き、金で万事解決しようとするのが人情。誰か知りませんか。もっと良い妙法を。灯台下暗し、バーチはそれが自分の内部にあるという。人生は宝探し、本当は初めから自分が持っているものを。さて、その見分け方。奉仕をせよ。自分を守る力があることを知れ、・・・これで未だ駄目な人は、苦難をその宝と思いなさい。

今日の瞑想では両手の痺れ感がとても強く、更に手のひらに熱いものを感じていた。また眉間にチリチリとした電流が流れている感覚もあった。毎回ではないが、瞑想時のある瞬間に神様との繋がりを強く実感できる時がある。今日はその感覚がとても強かった。それと最近になって、瞑想時に必ずと言っていいほど、同じ場所でラップ音がなる。今日も同じ場所で2回ラップ音がなっていた。

196回目の瞑想 

お釈迦様


『新時代の到来を早める法』
「今地上のあらゆる所に、不満の雲が漂っている。しかし夢あふれる春と成就の夏が近づいて来る。その到来は、神の子等がその自由意思を鍛える歩調に応じ、早くもなり遅くもなる。世界のどこでもよい、いま一人の人が他の一人を向上させようとすれば、その背後には、無数の霊魂がそれを助けようとひしめきあっている。どんな善への努力も失われることなく、どんな奉仕への願いも、無駄に終わることはない。多数の者たちと同じように、私も、まさにそこまで来ている新時代を促進するため、ここ地上へやって来た。私がここへ来たのは、神法を人々に伝えるために、また、もし人がこの神法に従いさえすれば、神の恵みは無限に人々の中へ降り注ぐことを教えるために。」

「夢あふれる春と成就の夏」の「新時代」が目の前に迫っている。私達はそれを確信する。ただバーチが気遣うように「神の子等がその自由意思を鍛える歩調に応じ、早くもなり遅くもなる」ことを私達も気遣う。早める手段がただ一つだけある。一人の人が地球を救うことと、一人を救うことと同じことだと思ってやれば、それが地球を救うテコになるということである。神は地球と一人の人を同じ秤で計っておいでになって「嘉し」とされる。これが法であるから、この法に従う無数の霊魂がその一人を手伝って、本当に地球が持ち上げられる。シルバー・バーチはこの法を伝えるために地球にきている。

今日の瞑想では、やはり左手の痺れ感がとても強い。それと同時に今回は左手の腕全体が太くなったような感覚にもなった。顔全体もチカチカチリチリとし、右手もそれなりの痺れ感がある。その途中で、神様との繋がりを感じ、有難くて涙が出た。また今日は海の底をイルカと共に泳いでいる情景が浮かんでずっとその感覚を感じていた。

197回目の瞑想

赤い薔薇


今日の瞑想を書く前に、前置きしておきたい内容がある。
実は私は小学校に入学する前の三者面談で、面談の時の先生にある事を言われて、性格が一変してしまったことがある。それまでは天真爛漫で物怖じせずに何にでも積極的だった。ガキ大将でもあった。だがその後は何事にも消極的になり、自信を失った。また三つ年上の姉は教師に医者にした方がいいと言われるほど頭が良かったので、教師の間では有名な生徒だったのだ。三歳差ということで、姉の担任が私の担任になることもあり、何かつけて姉と比べられた。その事が更に自信喪失に追い打ちをかけた。けれど、母は姉妹に対して分け隔て無く、愛情を注いでくれたので、私はそのおかげで救われた。もちろん姉も私のことを認めてくれていた。なので小学校時代は悲惨だったが、中学、高校、大学と進むうちにいつの間にか負の感情はなくなっていたように思う。
この話を確か差別についてイクミ様にメールさせて頂いた時に書かせてもらっていたと思う。イクミ様のブログで、今回初めて知ったのだが、幼児体験の善し悪しで大人になってから病気になることもあり、当時の想いが溜まっている場合は、自らの愛によって解放させるということをガン患者さんによって、実証されていたのだ。私はそのことにいたく感銘を受けた。そのことをメールで申し上げると「誰でも、子供の時に表現出来なかった想いを抱えているものです。小学校入学前のあなたに優しく語りかければ(その時の想いがまだ残っていれば)涙となって解放されるかも知れません。」とのお言葉を頂いたので、今日の瞑想で早速試みた。私自身に対して愛で包むようにその時の自分に語りかけた。すると涙が頬を何度も伝わって流れているのを感じた。ただ、当時のあの想いは何も感じる事はなかった。すると今度は徐々に私ではない言葉が出てきた。言葉使いは優しかったが内容は厳しかった。
「いつも護られていることを、霊界と繋がっていることを、そして偉大なる神と繋がっていることの自覚が足りないのです。もっともっと自覚しなければいけません。また信じる心が独りよがりなところもあります。
信じるとは、神との繋がりを常に実感しているということです。この実感とは実体を感じるということです。言葉のみを羅列していても意味はありません。神との繋がりを実体として常に感じることが肝要です。それが今のあなたには最も必要なことなのです。」
このお言葉に何かわかったような気がした。信じる信じますという言葉を常に使ってはいたが、最近になってようやく瞑想時の(それもいつもではない)ある一瞬だけ実感できるようにはなっていたが、信じるという言葉と共にその実体を感じられなければいけないと言うことに改めて気付かせて頂けたように思った。信じるという言葉にはそれだけの重みのある言葉なのだということにも気付かせて頂けた。
そして、瞑想が終わって、開いたページは『人は神の分身』であった。これは前に(7月27日)一度記しているので、今回はパスするが、きっと今の私に必要だからこそ、このページが開かれたのだと思う。再度熟読させてもらった。

198回目の瞑想

白馬


『人生には一つの無駄もない』
「人のなめる経験は、すべてこれ本人の進歩を形作る一コマである。いつの日か、肉のくびきから解き放たれ、物質で曇らない目をもって、過ぎ来し地上の人生を振り返るとき、人は初めて、あらゆる出来事を貫いて達観する。一つ一つの経験は、まさに置かれるべき場所に置かれていたと。またどの経験をとっても魂の進歩の教訓であり、また内在の可能性を自覚させる薬でないものはなかったと。」

人は肉体の衣を着けた神だから、この神のする事に一つの無駄がある筈はない。一度、肉の衣を着て目をつぶり、幼子のようになってから、一つ一つ内在の本来の神性を思い出していく。そのための経験が人生、苦難はその気付け薬。

今日は亡き息子の命日である。慈悲のお祈りをして深く入っていくと、涙涙であった。すると「今こそ魂で想ってみよ」とのお言葉が浮かぶと、瞑想を始めて、初めて息子の顔が出現した。その顔は清々しい笑顔であった。写真に残しておきたい衝動に駆られる。そして私は心の中で(親子喧嘩も派手にしたこともあったね。でもお母さんの子供として生まれて来てくれて本当にありがとうね。◯◯とまだまだ一緒にこの世で生活したかったけれど、それはもう叶わぬ夢。亡くなって一年経ったこの機会に、お母さんは自分の使命を果たすべく頑張ろうと思う、本当に本当にありがとう)と涙がこぼれまくっていたが、悲しみの涙から清らかな涙へと変わっていき、安らかな気持ちになっていた。すると今日は天井からラップ音がなったのだ。神様にご守護霊様に護って下さっているすべての方に心からの感謝の気持ちを述べると、静かに我に戻った。
 

199回目の瞑想 

日の出


『順法と霊主肉従の真理』
「神法に逆らって生きようとする者は、自ら辛い収穫を刈り取る者。神法に従って生きる者は、物質的にも豊饒(ほうじょう)と幸福の収穫を、その手で刈り取る者である。」

幸福になるかならないかは、法に従うか法を無視するか、単純な選択によります。その中でも、霊主肉従の真理は、その本質が霊である人間にとって、幸福になるための根源の法です。人は肉体があるから、先ず肉体を健全に生かさなければなたない。それは地上に肉体を持って降りた<神>の務めである。「人は肉体の衣を着けた神」だから。だが、肉体を先に生かそうとすると手先が狂ってしまう。人は本来霊(神の分身)だから。この真理に目覚めて、霊を先に生かす者が肉体も健全に生かすことが出来る。これが「霊主肉従」の真理である。魂を自己本来の神性<愛>によって、ピカピカに磨き上げた者が、健康も、財宝も、心の充足も、三つの宝を得る。

昨日の息子の命日には、姉妹三人で息子のことをLINEで話していた。息子との交信を読まれた方は重複してしまうが、「音楽は魂を癒やすためにあり、音楽は聴いて涙を流す事で魂が明るくなり、浄化されて行く」と息子は向こうの世界で体験したからこその想いを伝えて来てくれた。そのことを姉妹に話し、私も人のために何か奉仕して行きたいと話すと、姉が「私と一緒に老人ホームで演奏したらどうか」と言ってくれた。実は姉は定年で退団しているが、プロオケのヴァイオリン奏者であった、(現在も仕事をしている)私はというと、小さい頃からピアノは弾いていたが、結婚後は何十年も弾いていなかった。そんな私に姉は昔のように二人で演奏しようよと言い続けてくれて、そんな姉の言葉に私は電子ピアノを購入していた。息子の命日にこんな話になるとは夢にも想っていなかったが、音楽が魂を癒やすことは、この世においても同じであり、少しでも音楽の力でご高齢の方達に癒やして差し上げることができるのならば、それは私の喜びでもある。更に霊界の息子と同じことが出来るという悦びもある。話はトントン拍子に進み、妹も何か私もお手伝いしたいと言ってくれて、HPを作成してくれることになったのだ。(妹はECCの教師、羊毛フェルトの先生、またHP作成の仕事もしている)これだけの多忙な中で買って出てくれたのだ。これはきっと息子が後押ししてくれているに違いないという結論に至った。もちろん、コロナが終息してからの話だが、私はそれまでピアノの練習に勤しもうと想っている。
シルバーバーチが言われる「奉仕の実践」ができることに心から有難く想っている。息子の命日に有意義な満ち足りた良い日となったことにも感謝の気持ちで一杯になった。そして更にイクミ様にもこのことをご報告すると、魂に響く素晴らしいお言葉を頂いて、私の心は充足感で満たされ、今後何かあった時には読み返させて頂こうと想っている。

200回目の瞑想

青空


『思念は創造力』
「人生はその行為だけでなく、その言葉、その思念からも成り立っている。行為がすべてと思ってはいけない。もちろん行為は重要だ。しかし言葉と思念ももの言う。悲しいかな、貴方がたの多くは、思念の主とならず、その奴隷となっている。」

人を動かし、物を動かし、世界を動かす力は思念。思念は神の創造力、唯一至高のエネルギー。それが貴方にある。神の子だから。行為や言葉は思念の表現。一人でいる時の想いも思念。貴方の思念一つで貴方の運命は変わる。人は動き物は動く。奉仕の思念で良い方に、利己の思念で不幸と破滅の方向に。

思念は実体のあるもので、霊界では思念こそがすべてと言われる。この世では行為がなく、思っただけでは何事も起こらないと思っているが、実はその想いは霊界ではきちんとした行為以上のものとなるのだ。この世にいるときから、思念について実体のあるものだという認識がとても大事なことなのだと思う。私自身も瞑想を始めて、そのことを痛感している。薄紙を剥ぐようにではあるが、少しずつ心の有り様も変わって行き、物事も動いてきているように感じる。これはやはり体験が何よりももの言うと思う。皆さんにもぜひ瞑想をお薦めする。静寂な時間は自己の内在の神と向き合う時間。魂を目覚めさせるには必須なことだと思う。

201回目の瞑想

お釈迦様

今朝
『法はみんなのためにある』
「どんな暗闇にあっても、決して希望を捨ててはいけない。そして次のことをしっかり心に銘記して頂きたい。地上を住みよい世界に変えようとする人達は、最後には必ず勝つ。何となれば、彼等と共に在る力は、宇宙の至高の力であるから。」

あなた一人を幸福にするために法があるのではない。でも、あなた一人を幸福にするためにも法がある。このことが分かったら、すべてのあなたであるみんなのために生きようとしなさい。そのとき、あなたは幸福になる。いかなる時も人には希望がある、あなたがみんなのために生きようとしている限り。法を創った最高の神があなたを通じて働くから。神霊主義(スピリチュアリズム)は、まさに「地上を住みよい世界に変える」ために生まれた新時代指導原理です。しかるに、これを学んで自分の幸福のためだけに利用する者は、至高の力との交通を断たれ、その宝を手に出来ぬ者となるでしょう。

今日の瞑想では、やはり、左手の痺れ感が半端なく、映像にオレンジと黄色の光り輝く球体が出現すると、頭から全身に電流が走ったようになった。それでまた自己ヒーリングしてみる。左手を当てた箇所によってはビリビリ感があり、またじんわり温かくなる箇所もある。先行き、ヒーリングとして、ご奉仕できるようになりたいと強く思った。

202回目の瞑想

オーロラ


『祈りとは唯一つ』
「祈りとは唯一つしかない。即ち「どのように奉仕したらよろしいか、お教え下さい」これである。この神と人類への奉仕の願い、これより大きな仕事はない、これにまさる愛はなく、これにすぎる宗教も哲学もない。どの道で奉仕するかは問うところでない。・・・道はそれぞれ違っても、肝心なことは唯一ついかにひたすら奉仕するか、このことである。」


宗教は唯祈ればよいと教える。だが自分のために祈る者は、自分の貧しさを神に告白しているもの。未来はそのようになる。また、奉仕のために祈っても、日常生活で奉仕のない者の黒い手と口で祈っても、神には届かない。

今日の瞑想後、何気なくネットを見ていたら、衝撃的な記事に目が釘付けになった。それは、第二次世界大戦下、人類史上最悪と言われる、ナチスドイツの強制収容所のお話しだった。何百万人というユダヤ人が殺される中、そこにヴィクトール・フランクルという当時36歳の男性がいた。その男性もユダヤ人という理由だけでナチスに捉えられたのだ。けれど、フランクルはそんな絶望の中にあったのに、希望の光を見失わなかったのだ。それは愛する妻への想いだったそうだ。お互いに隔離されていて生死もわからなかったが、心で会話して満たされていたようだ。だが愛する妻は他の収容所で処刑されていた。さらにフランクルの両親も亡くなっていた。そんな絶望の中、フランクルを救ってくれたのは愛の想いだった。「愛する人への想いをしっかりと抱くことができれば、それが人間を極限のところで救うのだ」と。そして更に未来に気持ちを向けて「自分はいま、すべて終わった未来にいる。」そう思念し、自分がウィーン市民大学の講壇に立って「強制収容所の心理学」を講演しているところを思い浮かべ、ここを出たら、必ずこの体験を世界中の人々に広める。それが亡くなった家族への自分の使命だと固く想い、強制収容所の絶望の中を生き抜いたのだ。そしてついに戦争は終わり、フランクルは奇跡的に生きて収容所を後にする。その一年後、収容所で思い浮かべていた講演が実現したのだ。講演の最後には「人間はあらゆることにも関わらず、困窮と死にも関わらず、身体的心理的な病気の苦悩にも関わらず、また強制収容所の運命の下にあったとしても人生にイエスと言うことができる」と。私達平和の中で生きてきた人間にとって、これはどれだけ意味深い話なのかと想わずにはいられなかった。ただただ世界中にこのことを伝えるという希望を持ち、絶望に打ち勝ったことは想像を絶する。日々悩みに悩み、苦しみ、その極限で何度も問い続けたそうだ。「この絶望な状況を生きる意味はあるのか。」と。けれどそんな中でフランクルは悟ったのだ。それは「生きる意味があるのかと人生に問うことではなく、苦難に直面しながらも『人生から問われていること』にただただ全力で応えていく、それだけなんだと。「あなたは生きている前に生かされている存在です。だから、意味があるのかと問うのではなく、「この人生から、自分はいま、何をすることを求められているのか。」と問うのだと。
「あなたがどれほど人生に絶望しても、人生のほうがあなたを絶望することはない」フランクル
「人生」は「神」とも置き換えられると想う。

ヴィクトール・フランクル:オーストラリアの精神科医、心理学者、著作は多数あり代表作は「夜と霧」
奇しくも亡くなった日が息子と同じ1997年9月2日だった。92歳
またこの9月2日という日は、浄化、潜在意識、死と再生という意味があると知人から教えられた。

203回目の瞑想

光り輝く


『自己責任』
「誰しも、魂を進歩させてあげる力などは持っていない。人は独力で進歩を遂げねばならぬ。・・・人の行為の結果は、他人は誰一人、これに指一本触れることはできない。ただ本人の償いとうける苦しみの応報による外は。」


誰かに進歩させて貰えるとしたら、おかしなことだ。その人は神ではない。進歩させてやってとうぬぼれる人も神ではない。人は元々すべて「人は神(神の分身)」なのだから。進歩させたり、進歩させて貰ったりごっこは存在しない。人は自分が播いた種を自分で吟味し、自分で自分を裁いて、再び神に戻って行く。この法を神が定め、神が肉体の衣を着て、今地球を歩いておいでになる。

今日の瞑想でも一段と両手の痺れが強くなる。しかも時々、実際にビクッビクッと脈打つような感覚もあり、それが腕だけではなく、身体の一部にもそんな状態があった。そして、どうにも表現できないが、電波とでも言うのか、少し低めの音が聞こえて、短い間だったが曲を遮った。どういうことなのかはわからないが、初めての体験だった。

182回目の瞑想

日の光
 

『信と知』
「ただ信じるだけの信仰は、嵐が吹けば倒れてしまう。知識の上に立った信仰は基礎があるから、逆境にあっても倒れることはない。」

鰯の頭も信心からと言う。信じる者には鰯の頭が神に思えるからである。しかしそんな信仰は嵐が吹けば倒れてしまう。鰯の頭が神である論拠はどこにもないからである。心霊研究は、神の存在と、人は神の子、人生が愛である真理を教える。これを信じこれを知る者は幸いである。その信仰は不滅であり不変であるから。

今日は母の命日。私は母のおかげで、神様の存在を幼い頃から信じて来た。それはただ信じてきただけかも知れないが、私にとっては不動のものであった。それゆえ、護られていることを何かあるたびに実感してきていたし、神様を信じる心は、息子が亡くなった時にも揺るがなかった。そして今回、息子との死別の体験を通して、霊的真理に出逢うこともできて、信じる心に更に知識もプラスされて自分の魂に刻むことができたのではないかと思っている。ただ、だからと言って、息子を亡くしたその想いは、簡単にはいかない。34年間、深い絆で結ばれていたのだから。息子が吹いていた楽器・バストロンボーンを飾ることにした。写真コーナーと共に息子との思い出はかけがえがないものである。

183回目の瞑想

薔薇


『死とは鳥籠の戸を開くこと』
「私は地上に来れば、籠に入れられた小鳥のようなもの。ここを去る時はあたかも無限の空を嬉々として飛んで行く鳥である。死とは、鳥籠の戸を開くこと、捕われの身の鳥が空へ放たれることである。」

バーチにとり、死は解放であり、地上に来ることは籠の中に捕われる鳥になることだそうだ。これは霊の世界に身をおく人の実感である。それなのに私達は全く反対に考えている。この世は多少は楽しいが、死は牢獄であると、それは死ぬことを恐怖しているからだ。なぜ恐ろしいのか、肉体が壁にたいにあちら側を見せないからだ。

昨夜、「シルバーバーチの霊訓とともに歩む」のイクミ様にヒーリングをして頂いた。詳細は、イクミ様の許可を頂き次第、書き記そうと思う。

184回目の瞑想

光り


イクミ様のご許可を頂いたので、ヒーリングの内容を記そうと思う。
ヒーリングは午後10時のお約束だった。私は30分ほど前からリクライニングチェアにリラックスして座っており、両手は肘掛けにおいておいた。約束の時間よりも早く座って少しすると、両手が痺れ出して来た。そして本格的に左手が肩の下辺りから指先まで、かなり強く痺れて来て、時々、手が動いてもいた。右手もそれなりに痺れている。更に眉間から頭全体にも痺れ感が出ると、両足、そして胸の辺りと内蔵以外は全身に強い痺れを感じていた。また、両手のひらに何か塊のようなものも感じていた。更には映像が出現し、ホワイトゴールドのような光りが光り輝いていたのだ。そして「心を鏡に映してみよ」という言葉が心に浮かんだ。まさに瞑想している状態と同じだった。
自然にイクミ様に感謝の言葉を唱えていた。
貴重な体験をさせて頂いて、私が瞑想で感じるものが霊界からのものだと確信することができて本当に有難かった。ヒーリングの御礼のメールを差し上げると、イクミ様から、以下のような有難いお言葉を頂いた。
「昨晩は予定通りにヒーリングを行おうとしましたが、やはり30分以上前から始まっていたようであり、強烈な眠気を感じ、起きているのが大変でした。流れて行った力はかなりの強さでしたが、病気の治療と言うよりも、あなたの霊的な体験のための力であったような気がしています。
ヒーリングを行い、全く何も感じない人もいれば、驚くような体験だったと言う人もいます。霊的感受性の差によるものもあるでしょうが、霊力の存在を実感するために、霊界の計らいもあるのではないかと考えています。
瞑想状態と同じだったということですね。あなたに流れている力がどんなものなのかは判りませんが、霊的奉仕をするのためにあると思います。ヒーリングの力かもしれませんし、故人のメッセージを伝えるためのものかもしれませんし、霊界のメッセージ(霊言)を伝えるためのものかもしれません。背後霊によって、これから具体的に形が示されて来るのではないでしょうか。」
このお返事を拝見し、イクミ様が強烈な眠気を感じるほどの霊力が流れていたということを知って、私のために霊界の方がそれだけの霊力を注いで下さったことに、改めて深く感謝した。有難くて涙も流れた。
私自身、ヒーリングの体験は初めてだったが、これほどまでに感じられるものだとは実は思っていなかったのだ。感じる感じないはあるにせよ、ヒーリングの効果があるのは間違いないと実感した。
お返事の最後に「ヒーリングの力が実感出来て良かったです。全て神様にお任せして、焦らずに進んで行きましょう。」との温かいお言葉に、救われる思いだった。私自身もどのような形になろうとも、すべて神様にお任せしようと思っている。
いつもイクミ様には温かいお言葉を頂いていて、心から感謝している。

『人は園丁』
「神は人の内部に種子を置き給うた。人は園丁である。その種子が花を開くことができるか、またその時期はいつか、これはひとえに本人の努力いかんにかかっている。貴方がその種子を闇の中に置き、光を与えず、魂の光である愛と奉仕を注がなければ、内在の神性は少しも大きくならないのである。」

大空の太陽は惜しみなく光と熱を種子にふり注ぎます。しかし、砂の上に落ちた種子、日陰に置かれた種子は、十分に花実を開くことができません。貴方の中に置かれた種子はただ一粒です。それを陽の当たる黒土の中に置くのは貴方の仕事です。愛と奉仕という陽光の下にそれを置きましょう。貴方は園丁です。

185回目の瞑想 

お釈迦様


『霊能開発』
「人間の進歩には二つの形式がある。一つは霊能の開発、他は霊性の浄化。もし霊性の錬磨をさしおいて霊能だけの開発をはかるなら、その人はいつまでも低い霊的境涯にとどまらなければならない。反対に、両者ともどもに発達をはかるなら、大霊能力者となるだけでなく、人間としても立派な人物となる。」

霊能を高める道は唯一つしかない。それは霊性進化(魂を浄化させること)である。なぜなら人が魂を浄化させて、生地のままの自分(神の火花そのもの)となるなら大霊能力者となる。なぜなら人は神だから。それを間違えて、汚いままの肉体、汚れた幽体のままで、無理な超能力養成の術や修行とやらするなら、てきめんにサタンの虜になる。波長の法も神の法であるから。サタンの虜となった者はあの世でも虜である。人が魂を浄化させて神に近づけば、神が見え、神の言葉が聞こえ、神のように物が支配できるようになる。それはそれに応じてチャクラが開かれるから。しかしチャクラの秘密を盗んだサタンは媒体のチャクラだけを開かせる術を人に吹き込む。地球ではこの術がいかにも高級な霊の道であるかのように誤解されている。地球はだからいつまでも低い境涯から進化しない。ちなみに霊性進化の道はバーチの教える「奉仕」である。神のように生きるとき、神のような霊能力が生まれる。これが法である。

最初は息子の言葉が聞きたくて瞑想を始めたのだが、(もちろんその想いは今も変わらない)瞑想しているうちに霊性の浄化を求めるようになって来ている。そして今回のヒーリングを受けてから、この想いが更に強まったような気がしている。求め方の気持ちの強さが変わったことを感じているのだ。まさに今回のシルバーバーチのお言葉に確信を得た想いでいる。

186回目の瞑想

赤い薔薇


『死後の目覚め』
「死後、低い世界へ堕ちる霊魂は、生前睡眠中に行った世界へいくのである。だが、せっかくその記憶があっても、死後の自分の状況を理解するのに役に立たない。彼らの置かれてるその世界は、大変現世の姿に似ているからである。他界は低い世界ほど、その外観が現世に似ている。死後の目覚めは、自分の死の自覚から始まる。だから、死後についての知識をもっていれば、それだけ早く目覚めが来る。死についての無知・誤解・迷信や歪められた教義・神学、これらは何としても打開せねばならない。これらは死後の生活にとり何の役にも立たない。」

この世界で厄介なものは、地上のエゴイストだけではない。あの世で死を自覚せぬ亡者たち、どちらも分からず屋で手を焼く。だいたい低い幽界は地上そっくりで、自分も身体(幽体)があるから死んだと思わない。それで地上の病気や悩みをぶらさげたまま、苦しいから身内の誰かにとりつく。それが愛する筈の身内に病気や悩みをうつす。こんなのは死後の世界があることを教えない地上の科学や教育の責任でもある。それに死後の幸福を保証してくれる筈の宗教が、嘘ばかりの死後生活を教えるからだ。死んだらすぐ神や仏の元に行くとか、極楽浄土に行けるとか、自宗に都合のよい客引き説教をするからだ。低い幽界は地上そっくりで、神もいなければ、ピカピカ光る極楽もない。心を磨くに応じて様々に違う他界の実際の姿を教えないから、災いが地上にまで及ぶのである。

187回目の瞑想

白馬


『媒体の学習が必要』
「(問)肉体を離脱して後、人が霊の世界でまとう媒体は、肉体ほどに固く、かつ真実なものですか。
(答)肉体よりもはるかに真実で堅固である。地上とはいささかも実体をもった世界ではない。それは霊界の投影にすぎない。霊界こそは本当の世界。だが霊界に入ってみなければ、このことは理解できない。」

ここは驚くべきことが語られている。世の人々は媒体(幽体・霊体・本体)の存在など夢にも知らない。心霊研究をかじった人は、死後人がまとう幽体のことは知っている。ただし、うすい膜か透明なベールくらいの感じしか持っていない。ところがバーチは「肉体よりはるかに堅固」と言っている。そしてこっちの方が「真実」と言っている。真実で堅固な物を私達は「ない」とか「頼りないもの」と思っている。本末転倒も甚だしい。だから、人間の生き方は本末転倒して逆さになっているから、幸福にも平和にもならない訳である。自分中心より相手中心、自分より地球、これが生き方の宇宙法則である。何となれば本当の自分とは、相手と地球を含めたすべてだから。媒体が見えないほどにこの平和と幸福の宇宙法則が人の目には見えていない。宇宙法則を体得したかったら、先ず「媒体」について正しく学ぶこと。そしてそれが目に見えるほどにすること。
 

188回目の瞑想 

日の出


今日の瞑想で、寝落ちしそうになった時に、右上から大きなラップ音がなってハッとして我に返った。息子に「眠ったらダメだよ」と言われたような気がした。その後、眉間と左手の痺れ感が物凄かった。右手もそれなりには痺れていたが・・・余りにも凄いので胸に左手を当ててみた。すると胸の奥の方までじんわりと温かくなる。更にお腹にも左手をずらして当ててみるとお腹も同じようにじんわりと温かくなったのだ。これはやはり自己ヒーリングというもののような気がする。痺れ感がすごくなる前には「私の魂を目覚めさせて下さい。霊性を向上させて下さい。神様の分霊である神性を発揮させて下さい。愛のある行動で奉仕させて下さい。」と何度も何度も唱えていた。

『最高の霊能発揮の方法』
「(問)どうしたら霊能者となれますか。
(答)神に仕えようと志す者は、誰でも神の霊媒である。どうしたら魂が進歩するのか、もう一度説けと言われるか。何度も話したとおりだ。自分のように人を愛しなさい。奉仕しなさい。進歩向上を心がけなさい。内在の霊性を発揮させることなら何でもやりなさい。これこそ最高の霊能発揮というべきである。どうしたら霊視者となるか。そんなことはどうでもよい。ただどうしたら魂の目を開くことができるか、神の光が貴方にとどくか、これだけをお伝えしておこう。霊媒への道もまたこれと同じである。」

神とつながる者が、この世で最大の力を発揮する者です。彼から出る力は神の力ですから。そのときに世を動かし、世界を変えます。これが奇跡、最大の霊能力です。人は誰でも愛と奉仕に生きるとき、神とつながる者となり、真の超能力者となります。この霊能者になりましょう。霊視、テレパシー、スプーン曲げなどのサイキックな力は、背後に邪霊が働いていてもやれます。チャクラを開けばできるサイキック力は神の力が働くのではなく、自分一人の心霊力だし、しばしば邪霊や低級霊の働きの通路となります。アトランティス末期に、サイキック力を謳歌して地球を滅ぼした危険を今度は避けましょう。バーチの説くように「自分のように人を愛し」て、神とつながる者となり、地球を変える霊力を発揮しましょう。

189回目の瞑想

青空


毎日「私の魂を目覚めさせて下さい。霊性を向上させて下さい。神様の分霊である神性を発揮させて下さい。愛のある行動で奉仕させて下さい。」と何度も何度も唱えている。今日の瞑想は、綺麗な川が流れている映像だった。かなり間近で流れていて、手を差し伸べれば水に触れることが出来そうだった。そして全身の痺れ感がある中で、左手の痺れ感は半端ない。今までも左手のかなりの痺れ感を感じていたが、ヒーリングをして頂いてから、更に強まっているように感じている。今日も自己ヒーリングしてみた。胸やお腹はすぐに温かくなるが、喉の辺りは、あまり感じなかった。眉間にも当ててみると、やはり温かくなり、大宇宙が広がっている映像が見えた。

『奉仕』
「貴方が人に奉仕することは、神に奉仕することである。その時、無限の神の御手は貴方に触れ、貴方は神の愛に包まれつつ、完全な平和の中に立っているのである。」

傷ついた兄弟を無償で助ける者は、自分の中に同じ血が流れていることを意識しているからである。これが愛である。そのように、神と人と自分との間には、同じ神の血が流れている。人に奉仕することは、自分の中に神の血を強く意識することである。この時、神の血は貴方の中で生々と流れ始める。

「人に奉仕することは、神に奉仕すること」というお言葉に目から鱗で、鳥肌が立った。人のために何かをするときには、つい見返りを求めてしまうが、神様に奉仕すると思って、人に奉仕することができれば、何も求めることなく、ただただ奉仕に従事できるのだと思った。今更ながら奉仕とはそういうことなのだとこのお言葉で納得できたのだ。とても有難かった。

190回目の瞑想

お釈迦様

今朝起きる直前に見た夢が、あまりにもリアルで印象的だったので記しておく。ある部屋に入ると、そこには日本人形が置いてあった。私はそれを見て(頼むからこちらを振り向かないでよ)と思っていたのだが、その途端に生きた人(霊?)となり、それは十二単をお召しになったお姿だった。(平安時代の公家女子の正装)しかも気品があり、満面の笑みを浮かべられたそのお顔は愛と優しさに溢れ、私はすぐさま魅了されてしまった。懐かしい気持ちにさえなっていた。そしてそのお方は私に向かって平伏し「ようこそ、いらっしゃいました」とはっきりと言われたのだ。だがそこで起きてしまったので、もっとお話ししたかったし、またお会いできるものならお会いしたいと強く思ってしまった。ただそのおかげなのか、今日は朝からスッキリとした気分で清々しい。

私のご守護霊様だったのだろうか。。

『いろいろな霊夢』
「(問)予言的な夢、つまり霊夢というのは、霊界から伝えられるのですか。
(答)そういうことがしばしばある。愛する霊魂が何か警告しようとして、そうすることがしばしばある。また別の場合には、睡眠によって地上の束縛から自由になった幽体が、自分で経験してくるという場合もある。この場合は、幽体は未来のあるものを瞥見し、前途に見た警告を夢の形で持ち帰るということである。」


前者は霊からの通信、後者は自分が他界での見聞である。幽界には現界の出来事が一足先に現れるから。たとえば戦争が起こるときは幽界に先ずそれが現れる。だがご用心!幽界にはまやかしの霊がいる。また低い幽界には未来の歪んだ幻像しか現れない。だから霊夢といっても、いかがわしいものがいろいろある。要は本人の魂がしっかりしていないとろくなことはない。幻像の霊夢に引っかかったり、また自分の潜在意識の表現(雑夢)を霊夢と思い込んだりする。優れた魂の人なら真実の霊夢を見る。それだけでなく彼(彼女)は霊界の教学堂で高位の霊から必要な教示を受けてくる。また彼自身が前世で獲得していた英知を想起したり、神霊界で出生前に見せられた未来の神界計画図を想起して戻って来る。

191回目の瞑想

オーロラ


『死は肉体の鎖からの解放』
「(問)貴方は地震を、地球進化の現象と言われますが、そのために罪のない人が沢山死んでしまいます。こんなことが正しいと言えましょうか。
(答)貴方が死と呼ぶものが、私の目には、大きな不幸とは映らない。これは魂が自由になる偉大な瞬間である。」


人は肉体の立場でしか生命を考えないので、死を恐れ悪とみる。しかし死は肉体の鎖からの解放。この地は試練の仮の宿、あちらが本当の故郷。失う財産と地位と名誉、それよりもあちらに千万倍の宝がある。愛する人との別れ、それはひととき、愛があれば永遠の絆があちらにある。何から何まであちらの方が良い。ただし悔いのない人生を送った人のことだ。悔いがあれば死ぬに死にきれぬ。死んだ後生もよくない。この世で一番恐ろしいことは後悔する人生を送ることで、死ではない。やがて終末の大浄化の日が来る。地震、洪水、戦争、地変、いっせいに死に直面する。その時、救われる人は悔いのない人生を送った人、救われない人は悔いの残る生き方をした人、それは自分で決める。その日が確実に来る。

今日の瞑想でも、左手の痺れ感が半端ない。今日は肩から中の方まで痺れがあった。途中で左側のお腹辺りや胸まで痺れていた。また毎日同じ場所で大きなラップ音がなる。これは何を意味するのであろうか。やはり息子の合図なのであろうか。
今回のシルバーバーチのお言葉には、最近災害が多いので疑問に思っていたことだった。どんな死に方でも、死はやはり肉体からの解放だということはびっくりだった。ただ、あの9.11のテロで亡くなった方々も苦しんではいないのだろうか。また恐怖感なども死と共に無くなるのであろうか。そういうことを考えると肉体から解放されて、自由になるということは後悔のない人生だったかどうかで決まるということなのだろうか。まだまだわからないことは多い。

192回目の瞑想

光り輝く


実は8月に入ってから、度々、息子の亡くなった日(9月2日)の当時を思い出し、辛い思いになって瞑想中、涙することが多かった。もちろん、息子と直接コンタクトとれないことにも辛い思いはあれど、亡くなった当時の想いが、ぶり返されるとは思ってもいなくて、自分の気持ちがわからなくなっていた。だが、8月25日の朝の夢で十二単のお方に出逢えたことで、その想いを一変することができた。しかも、その時に息子を求める想いは神様を求める気持ちと同じなのだということに気付かせてもらえた。そして私はイクミ様にその内容をお伝えした。温かいお返事を頂いたのだが、その中に、命日が近づくと心が不安定になる人が多く、それを命日反応と言われているらしいという事が書かれていた。とても有難いお言葉だった。まさしく私の想いは命日反応だったのだと確信したのだ。そして十二単のお方の備忘録も読んで頂いたとのことで、その時にイクミ様の気持ちもなぜか良くなられたとのお言葉に、とても有難く嬉しかった。そして左手の痺れについても、ヒーリングしてみてはどうかと書いて下さっていて、私には身に余る光栄で感激だった。けれど、まだまだ私はヒーリングに対しては未経験なので、しばらくは自己ヒーリングをしてみようと思っていたのだ。

けれど、今日の瞑想で素晴らしいお言葉を頂けた。いつものお祈りをして「私の魂を目覚めさせて下さい。霊性を向上させて下さい。神様の分霊である神性を発揮させて下さい。愛のある心で奉仕させて下さい。また負の感情をすべて取り去って頂き、プラスの想いで心を一杯にして下さい」と唱え終わると、

「あなたの神を求める気持ちは本物です。あなたの苦しみは我が苦しみです。ですが、あなたはそれを乗り越える力があります。いえ、もう乗り越えているのです。これからは神に対する気持ちで人に接することです。そして神に対する想いのまま、生きとし生けるものに手当をしてみてご覧なさい。私はいつまでもあなたを見守っています。」とのお言葉に涙が滂沱と止めどなく流れた。
これは一方的な言葉ではなく、私も質問をしたのだが、このお言葉にかなり集中していたので、私が質問した言葉はもう覚えていない。そしてこのお方は十二単のお方だと思った。本当に本当に有難かった。
今日は長くなってしまったので、シルバーバーチのお言葉は割愛させて頂いた。

171回目の瞑想

日の光
 

慈悲の瞑想のお祈りを唱える。いつものように手足が痺れ出す。
お祈りの途中から、すぐに深く入って行く。

今日の瞑想も
心地良いものだった。天にも昇る心地というのは、こういうことを言うのではないかと思う程、心身共に穏やかで愛に包まれている感覚を感じていた。また今朝は起きがけに伯母の夢を見た。亡き母のお姉さんだ。生前とは見間違えてしまうほど、若返っており明るく優しい微笑みだった。だがすぐに伯母だとわかった。この世で会っていたら多分伯母とはわからなかったと思う。それほど変わっていたのだ。会話自体は覚えていないが、その鮮明なお顔ははっきりと今でも思い出せる。愛に満ちた素敵な表情で、こちらまで爽やかな気持ちになれて有難かった。

『あの世でもこの世でも利己主義は罪』
「(問)他界で罪を犯すことがありますか。他界では一般にどんなことを罪というのですか。
(答)もちろん罪を犯すことはある。霊界での罪とは利己主義の罪である。ただ地上と違うところは、その罪がすぐに露見するということだ。心に罪を抱けばその途端にそれがばれてしまい、その結果がたちまち現れること、地上世界とは比較にならない。罪の結果は本人に記され、そのため本人は霊的に低下する。」

地上でも霊界でも、罪は同じ「利己主義」です。それがすぐバレるか、時間をかけてバレるか、そこに違いがあるだけです。かりに八十年の間隠し通せても、あの世に入ればすぐ露見して、その罪で低い世界に落ちます。落ちるだけでなく、その罪は幽体に刻印され、再生した次生で償わされます。それがカルマです。カルマは何かのトラブルとなって現れます。うまく改悛して克服すれば、カルマ解消だけでなく、魂はワンステップ進歩向上します。もし、もう一度ごまかして利己的になし崩しにすれば、その利己主義の罪がもう一つ加わって、あの世で苦しみ、次々生の人生でもっと苦しむことになります。とにかく、人間はこの世で利己主義で犯す罪がバレないと思っているので、こうして罪を(苦を)自分で重ねます、それどころか、利己主義を罪と思わず、人間が幸福になる(得をする)道だと思っているところに、現代の地上世界の根本の間違いがあります。

172回目の瞑想

薔薇


慈悲の瞑想のお祈りを唱える。いつものように手足が痺れ出す。
今日の瞑想の映像は、水の芸術とでも言えばいいのかあまりの美しさにただただ見とれてしまっていた。いろいろな水の動きの素晴らしさに、簡単に書き記すことはできない。またあれだけの美しさをどう表現すれば伝わるのかもわからない。この世のものではないのだろう。ただ、水と言うものにはびっくりさせられる。これだけ美しくもなれば、川が氾濫して凶器にもなる。また人間にとってなくてはならないものである。自然は人間にとって偉大であり、逆らうことは絶対にできない。
今日はまた起きがけに音符が出現した。二小節くらいで、やはり、ピアノ譜。その時にはハッキリと音符が見えていたが、起きてしまうと楽譜に書けるほどは思い出せない。


『真に偉大な者』
「地上で偉大な者が、霊界で偉大な者ではない。私達の言う偉大さとは、魂の偉大さ、霊の偉大さ、奉仕の心の偉大さである。」

人が地上に再生するとき、今度こそは魂を磨こうと決意して再生する。だが肉体をつけると、肉眼でものを見るから、食が先決となり、物が宝に見え、人はそれを奪う敵に見える。かつて霊界で人は兄弟、霊が宝であった事実をケロリと忘れる。自分のために物質の宝を集め、人を押しのけ傷つけ殺しまでする。七十年の生涯が終わった時、肉体と共に物質も地上での名誉も地位も消える。残るのは裸の霊。どれだけ浄まったか、奉仕で美しくなったか、神の目から見てそれだけが美しく偉大である。

173回目の瞑想

光り


慈悲の瞑想のお祈りを唱える。いつものように手足が痺れ出す。
お祈りの途中から、すぐに深く入って行く。
雲がもくもくと出現し、そのもくもくとした動きが何度も繰り返される。その中にどんどん入って行くような感覚になると、更に上へ上へと進んで行く。すると何故だか日の光りが射し込む深い海の中の映像になる。中で浮いているような、漂っているような感覚でいると、次のようなお言葉が心に浮かんだ。
「この世のことは、この世で全うしなければならない。何が大切か大切でないかは霊の目をもって見れば一目瞭然である。」と。

『人は神』
「皆さんの魂に喜びが満ちていれば、それだけ皆さんは神に近づいていることになる。人は神。地上でこの貴方を犯すものは何もない。私が永年かかって皆さんに教えたいと思ったのはこのことである。もし皆さんが物質に心を煩わしているなら、貴方はこの教えを学ばなかった者である。だからといって、私は物質を無視せよと言っているのではない。人は物質世界にあって自己を発揮し、またしかるが故に物質世界に責任を負うものであるから。しかし決して、人は神であり、神が人であることを忘れてはいけない。神の力が貴方の中にある。この力によって、貴方はいかなる物質にも勝り、またそれに犯されることはない。これまさしく、一切の悪を退け、病気を克服し、あらゆる障害と闘うことのできる力である。だがこの力を使う者の数は極めて少ない。
昔、イエスもそう教えたではないか『天国は貴方の内部に在る』と。」

小さな胸の内に、そんなとてつもない力があると思えないから、地球の人は本気でこの教えを信じない。どこか遠くに、また自分と別の所に大きな力はあると思い込んでいる。「人は神」とバーチは断言する。なぜなら、人がこの真理を知るとき、本当に自分の胸の内の小粒の神と、外の神が直結して、自分自身が神の大きな力を発揮するからである。バーチはこの二つを結ぶクサリを見ながら「神が人」と教えている。

174回目の瞑想 

お釈迦様


慈悲の瞑想のお祈りを唱える。手足がかなり強く痺れる。
お祈りをし始めるとすぐに、深く入って行った。

今日の瞑想の映像は、前にも映像として見た孔雀が美しい羽を広げて場面であった。その美しさは前にも増して圧巻だった。夢としては吉夢とのこと。今まで頑張って来たことが実を結ぶのだとか。。そうなることを祈るのみ。しばらく孔雀の映像が続いたが、次の映像はいろいろな人物の顔だけが何か枠のような中に出現し、ある人のお顔が出現した時に「ソクラテス」との言葉が浮かぶ。ネットで調べてみると、どうもソクラテスというよりは、プラトンに近いようなお顔だったような気もする。実際のお顔は知らないので何とも言えないが・・・

『播いたものを刈り取る』
「神はなぜ戦争をとめないのか、神はなぜ戦争を未然に防がないのか、多くの人はそう言う。だが神法を曲げてもそうせよと言うのなら、それは言う人の方が悪い。地上世界は自分でやった事の結果を免れることは出来ない。私共にもその法を曲げることは許されない。利己主義の種を播けば、いつかは必ずその報いを受ける。高慢、嫉妬、妬み、貪欲、悪意、不信、疑い、これらはどれをとっても、それが実を結ぶ時、戦争となり困窮となり不和となる。」

人は戦争を国と国との争いと思う。しかし、個人の利己主義が元でこれが高まると戦争になる。思念は必ず形をとるから、国も人も戦いの因は利己主義。
これが神法である。
75年前の今日、長崎に原爆投下された日にこのような霊訓は、今世界が暗雲たる状況にあるからこそ、真摯に受け止めなければいけないと強く思う。一人でも多くの人々が、利己主義を打破する心に一丸となることが打ち勝てる唯一のことだと痛切に感じている。ぜひ皆様と共にこの世がいつまでも平和であることを念じたいと思う。

175回目の瞑想

赤い薔薇


慈悲の瞑想のお祈りを唱える。いつものように手足が痺れ出す。
お祈り始めて行くと、どんどん深く入っていく。
深く入ったまま「神様の愛の心でどこにいても誰にでも愛をもって行動できるようにお導き下さい」と唱えていた。すると私自身が体験したことを振り返させられた。我が子との死別。。これは体験した者でないと、その心中は計り知れない。当時の想いそのままに涙がこぼれ落ちる。そして改めて寄り添う心を持って、死別体験者に癒やしのオーラで包み込み、少しでもその苦しくて辛い悲しみの胸の内を和ませてあげられたらとの思いが募ったのである。

『スピリチュアリズムとは自然の法』
「私達が戻って来たのは、余の儀ではない。皆さんがどんな一人の人にも盲従することのないよう、一冊の経典、一つの教派、一人の指導者、この世であれ霊界であれ、いかなる者にも盲従することのないよう説くためである。そして従うべきものは唯一つ、神の法これである。何となれば、この法だけは絶対に誤ることのない狂いのないものであるから。この故に、私達は自然の法を説く、唯この自然の法だけを。人はこれを名付けてスピリチュアリズムと呼ぶかも知れぬ。」

釈迦とイエスが説いたのは神法だった。それが歪められた。一宗一派、一冊の経典、一人の人間の中に神法は閉じ込められると、指導者が説き人々がそう思わされたから。サタンはこの一宗一派病、経典病、教祖病を蔓延させ、最後に科学では神はないと言い切らせた。神界はゼロから再び始められた。科学で霊魂はあることを示し、万人の中に霊である神が存在し、その中に神法があり、理性でそれが見えるという道をシルバーバーチにつけさせられた。これがスピリチュアリズムであり、神法であり、自然の法である。二千年かかって、釈迦とイエスの神法が再び地上に解き放された。

176回目の瞑想

白馬


慈悲の瞑想のお祈りを唱える。いつものように手足が痺れ出す。
お祈り始めて行くと、どんどん深く入っていく。
やはり霊的真理を知るということは、決して楽になることではないと日々感じている。心の葛藤がまた生じている。瞑想していて、何度となくこういう思いになる。なぜ、身近な問題を乗り越えることが出来ないのだろうかと。ひいてはなぜ息子を感じることさえ出来ないのだろうかと。そんな辛い苦しい思いでいたその時にラップ音が鳴った。けれども私は心の中で(この音を鳴らしているのが息子なのかどうかわからない。わかるような物を見せてほしい)と。半ば叫びのような想いが心に浮かんだ瞬間に今度はびっくりするような物凄い音でラップ音が鳴った。ドキッとした。今までの想いがその音で吹っ飛んでしまった。やはり息子なのだと確信した。そして叱られているようにも感じた。
「なぜ、信じないんだ!信じることはお母さんの一番の取り柄だろう。」と。涙がボロボロとこぼれ落ちた。


『自己責任の法』
「私達に一番辛いことは、皆さんの傍に在って、その苦しむさまを眺める時である。私達は承知している、これは本人の魂の闘いだから、決して助けてはいけないということを。・・・それが神の法なのだ。・・・私は貴方のために、貴方の問題を解いてあげるわけにいかぬ。これこれしなさいと、いちいち指示すれば、本人の自由意志は止まり、これで進歩もおしまいだ。貴方が貴方の手で貴方の問題を解決すること、ここに貴方の内在するものを発展させる道がある。」

神の法は非情に見えようが、これこそが愛なのだ。自分の生んだカルマは自分で克服する。それが進歩。進歩即ち幸福。貧者にただ金を与えれば、それが奉仕ではない。病人をただ癒やしてやれば、それが愛ではない。場合によって、双方ともカルマを加える。なぜか?
ランダムに開いたこのシルバーバーチのお言葉を読んで更に泣けた。 

177回目の瞑想 

日の出


慈悲の瞑想のお祈りを唱える。いつものように手足が痺れ出す。
お祈りの途中から、どんどんと深く入って行く。そして「私の魂を目覚めさせて下さい。霊性を向上させて下さい。神様の分霊である神性を発揮させて下さい。愛のある行動で奉仕させて下さい。」と何度も何度も唱えた。

すると、青色の稲妻のような光りが現れる。最初は火花のように光っていたが、徐々に降り注いでいるような感覚になる。青色の光りは今まで映像としてはあまり出現していなかったように思うが、とても綺麗な青色だった。エネルギーを授けて頂いたようにも感じて「ありがとうございます」と何度も御礼を心で想うと、間隔を開けて二回ほど、やはり大きなラップ音が鳴って、びっくりする。戻ってからも一回ラップ音が鳴っていた。
私は今心底『愛のある行動で奉仕できる人間』になりたいと強く想っている。


『七色で完ぺきな神の光』
「皆さんは神に心を一つに向けながら、ここへ来て坐っている。そのことは一瞬たりとも無駄になっていない。愛と調和の気持ちをもってここに集まれば、そこには必ず力が生じ、その力によってこの世界からあの世界へと、橋が架けられる。この橋を通り、霊界から多数の霊が地上へやって来る。そして地上に、新しい光と新しい力と希望とを、もたらそうとするのである。どうかこの事実を忘れないように。」

人には七色の光のうち、どれか一つがそれぞれの人にあります。この七光が一つになると神の光になります。人が心を一つにして集まるということは大事なことです。そこに神の光を現出するからです。神の臨在(神がそこに現れる)とはこういうことです。紫(統合)・緑(真理)・赤(正義)・白(神)・黄(救助)・青(守護)・オレンジ(愛)。色にはそれぞれの意味と役割があります。「どんなに自分がつまらない人間に思えても、人は誰でも神の通路です。」というホワイト・イーグルの教えは本当です。人が一色の神の通路となれば、七つ集まって完ぺきな神の臨在となります。だから、人が謙虚になって協同して集まるということは、とても大事なことなのです。

この内容を読んだ時に、鳥肌が立ってしまった。まさしく今回の瞑想と符合しているように感じて・・・私は青色なのだろうか。だとすると守護のようだが、本当なら有難い限りである。また私のHPには当初から何度も訪問して下さっている方がいらっしゃる。その中に他の色の方がいるのではないかと思ってしまった。もし、私ではないかと思われる方はぜひ、一緒に神様に臨在の実現をして頂くためにも集まって頂けないだろうか。そしてシルバーバーチが言われる「地上に、新しい光と新しい力と希望をもたらせること」が出来たら、私達はこの世の使命を全うすることができるような気がしてならないのだが。

178回目の瞑想

青空


慈悲の瞑想のお祈りを唱える。手足が痺れ出す。
お祈りの途中から、どんどんと深く入って行く。

今日の瞑想は、大宇宙が広がっている映像がハッキリと出現した。星がその場所で光り輝いている。とても美しい光景だった。その中をどんどんと進んで行く感覚になる。この宇宙空間に漂っている時の感覚は、何と言っても心が安らいでいる。心の穏やかさ、平和な心、慈しむ心、奉仕の心等々、自然と芽生えてくる。最高に癒やされる。有難い限りである。いつもこうありたいと願う。

『新時代の到来』
「今日いま一度、地上には、霊的な力が投入されている。地上の者は誰一人として、この大きな潮の流れを、阻止することはできないであろう。」

貴方がいまこの時代にいるということは、選ばれていることです。人類が滅びるか、新しい時代に突入するか、それを見る者として。願わくば、貴方が新時代を創る演者の一人であることを願って止みません。新時代とは、バーチの教えのとおり、奉仕が人間の新しい生活原理となる時代です。それが人間の正体です。

179回目の瞑想

お釈迦様

慈悲の瞑想のお祈りを唱える。いつものように手足が痺れ出す。

慈悲の瞑想のお祈りを唱える。手足が痺れ出す。
お祈りの途中から、昨日の境地とは打って変わって、また心の葛藤で辛い胸の内となる。涙が止まらなかった。

しばらくは瞑想の内容を記するのは中止しようと思う。(もちろん、毎日の瞑想は続けて行くつもりだが・・・)
これからはシルバーバーチの霊訓のみを記しておく。


『苦難と人格の形成』
「人は人格を形成するために、地上に生を受けた。そして人格の形成とは、自分が直面する苦難に立ち向かって行く事である。しかし地上には人に内在する力をもってして克服できない苦難というものはない。何となれば苦難は地のもの物的なもの、しかし人は聖なる神の分身であるから。」

人は自己を霊と知れば、病気も貧困も無に等しい。自己を神の分身、人は同胞と知れば争いも消える。病気・貧困・争いは自己を肉体と思う迷いが作り出したものである。これら苦難を通して人は迷いを解き、自己が霊・紙の分身である真相を悟る。これが人格の形成。人はそのために生を享けている。

前回のカウンセリングの内容を息子の交信記録にUPしたので興味のある方は読んで頂きたい。

180回目の瞑想

オーロラ


『人生は警報ベル付き一本道』
「幾多の経験が集まって、人生絵巻が織りなされる。人はひと時の出来事をもって、すべてを計ろうとする。このように目先の物質にだけ目をとめれば、混沌が見えるだけ。だが全人生を貫いて、一本の神の糸が通っている。人はこのことを知らない。」

病気、不渡手形、交通事故、どの一つをとっても人生の災厄である。もう自分ほど不幸な者はないと目の前が真暗になる。だがどの一つも、過去の自分の業が生んだ結果である。災厄とはそれを教えてくれる警報ベル。このベルに気付いて奮起した者が魂の浄化と進歩を生む。即ち真の幸福へと一段進む。人生にはこの一本の線が通っているだけである。」

今日は75回目の終戦記念日。私は戦争経験はないが、母親からやドキュメンタリー、映画、ドラマなどでその悲惨さを垣間見て来た。けれど、実際に体験したわけではないので、想像の域は越えないが・・・だが、二度と戦争してはいけないと言うことだけはわかる。前にも書いたが全ては利己主義が原因。ひとりひとりの想いを利己主義から愛の心へと変えて行かなければ、戦争はまた起こってしまうかも知れない。そうならない為にも、ひとりひとりの気持ちが重要だということは言うまでもない。ひとりでも多くの人が、愛の心をもって行動できるように祈ろう。。。
 

181回目の瞑想

光り輝く


今日の瞑想は素晴らしかった。なので記しておこうと思う。慈悲の瞑想のお祈りを唱える。お祈りの途中から、深く入って行く。
画面一杯が物凄い明るさになる。左手の方から太陽のような光が降り注いでいる。見上げて見ても全く眩しくなかった。普通はあれだけの光りなら眩しいはずなのに。。そしてその光りに包まれながら、次のお言葉が心に浮かんだ。

「われわれは地球を救うために降りて来ている。人類を救うために降りて来ているのである。人には皆、神の愛の心を宿している。その愛の心を発現せよ。一人一人が愛の行いをすることで、コロナの感染を防ぎ、争いを防ぐ。無残な戦争はなくさなければならない。」
このような瞑想の内容の時には記そうと思う。

『神の国は内部にある』
「かつて人はこう教えられた。神の国は内部にあると。外にではない。この地上のざわめきの中に、それがあり得ようか。神の国はただ内部に、魂の中にある。」

物質の世界の享楽も悪くないと人は思う。だが、それを知らないからである。物心ともにはるかに至福の世界が実在することを。それが神の国。人はそれを地上や、または天の上に求める。なぜそれが見えないのか?自分の内部を見ないからである。そこに神の子が鎮座している。本当の貴方が。奉仕をしなさい、黙想正座をしなさい。その時、神の子が目を覚まし、守護霊を通じて神とつながる。そこに神の国がある。

ランダムに開いたページに同じような内容が書いてあって、鳥肌が立った。

160回目の瞑想

日の光
 

慈悲の瞑想のお祈りを唱える。いつものように手足が痺れ出す。
お祈りの途中から、すぐに深く入って行く。

今日の瞑想も
、心地良いものだった。映像は出そうで出なかった。戻る直前に「頭ではなく、心で考える」という言葉が浮かんだ。

『凡夫とは』
「進歩した霊魂は、どんな場合にも恐れを知らない。彼は知っている、自分の人生に自分で克服できない環境や経験はあるはずがないと。何となれば、彼は神性であるから。」

凡夫とは恐れる人のことである。病・貧・争、そのどれもが自分を滅ばすかもしれないから。そこから悲・憎・恨が生じる。人生まさに苦。彼は唯一つの事を知らない。自分が神性であるということ。神にして不可能な事がこの世に一つでもあろうか。彼は再生の時、自分で自分の環境を選んだのである。それが克服可能であることを知っていたから。

161回目の瞑想

薔薇


慈悲の瞑想のお祈りを唱える。いつものように手足が痺れ出す。
今日の瞑想の映像は、素晴らしく澄み切った青空が画面一杯に広がっていた
。清々しく、爽やかなその大空に晴れやかな気持ちにさせてもらえた。だが、それとは対照的に濁流の映像も出現した。その時に「神田川橋」という単語が浮かぶ。神田川は有名で東京都を流れる一級河川。その神田川に架かる橋は140もあるということなので、神田川橋だけでは特定できない。なので何とも言えないが、何事も起こらないことを祈るのみである。

『人は神の分身』
「皆さんは、すべて神の分身である。神は次のように言い給う、『ここに私のすべての法がある。そこに汝の内に私の分身がある。汝の傍には、この世を完全にできる一切のものが備えられている、私は汝にすべてのものを与えたのだから、汝は善でも悪でも、好きなものを選ぶことができる。汝は私の法に従うもよし、また従わぬも思いのまま』と。」
あなたはすべて知っており、あなたは光りそのものであり、あなたのほかに他者は一人もいない。これがあなたである。それなのにあなたは他者の噂が大好き、ドジを踏んで法を踏み外すことがしばしば、なぜだろう、なぜだろう?
それでも、あなたは「神の分身」であるとシルバー・バーチは繰り返す。あなたがわかるまで。それを知るのはあなたであり、バーチではない。知る方法は、あなたが百ペン転んで、百回とも他者を恨まずに自分で立ち上がってごらん。その痛みであなたは愛を知り、その愛が神の本性であるあなたである。バーチはそう言いたいのだろう。

162回目の瞑想

光り


慈悲の瞑想のお祈りを唱える。いつものように手足が痺れ出す。
お祈りの途中から、すぐに深く入って行く。
深く入ったまましばらくすると、「欲の心を捨てよ」という言葉が浮かんだ。更にしばらくすると、いきなり水晶が心に浮かぶ。すると何故だか懐かしい気持ちになり、水晶をジーッと見つめていたような記憶が蘇る。水晶と共に過ごしていた時代があったように思えた。その時に大和時代の巫女だった時のようにも感じた。

『霊界の真義』
「私は死後霊界に入った多くの人達と話をしたことがある。しかし誰に聞いても一人として、霊の目をもって物を見る時、自分は神から善い取り扱いを受けなかった、と言う者は一人もいなかった。」

何事も、目の前の結果で判断してはいけない。人はただ、物質の目だけで物を見るが、もし人が霊の目で物を見ることができれば、完全な正義がすべての人に等しく働いていることが分かるだろう。

163回目の瞑想 

お釈迦様


慈悲の瞑想のお祈りを唱える。いつものように手足が痺れる。
お祈りの途中から、深く入って行った。

今日の瞑想も深い状態のまま夢を見ているような感覚であった。その途中で全く意識がない状態にもなった。戻る直前に「衣食住 慎ましく」との言葉が浮かぶ。今は飽食と言われる時代。飽食だけではなく、物も溢れているこのご時世。新型コロナで外出を制限され、外食などもままならず、お店に行く機会も減って、衣服の購入、住宅の購入なども前に比べて減少している。これはやはり、物欲に固執する人間に対する戒めではないかと思う。

『産みの苦しみ』
「産みの苦しみがなければ、悲しみの涙がなければ、価値あるものは何一つ実現できない。地上世界はやがてこのことを、苦しみと悲しみの涙をもって、学び取ることになろう。いま私達は、物質界の暗黒を打ち破ろうと活躍している。また私達の教えは、いま世界の至る所で人々の心を啓発しつつある。こうして次第に霊の光りが地上に浸透していくにつれ、唯物主義の闇は消散するのである。」
霜と烈日と嵐に耐えて、木は木の実を産み落とす。その種子は親の木の傷みを覚えていて、また同じように木の実をみのらす。人も胎動する子に愛を覚えて陣痛に耐え、陣痛の痛みで愛を重ねて子を育てる。すべてが痛みによって生まれ、痛みが愛を教え、愛によって万象が生々発展していく。今、地球は受胎している。胎動を感じる者が愛の戦士となる。無事に出産出来るかは陣痛に耐えられる愛があるかで決まる。地球の受胎に気づかぬ者は無知な妊婦に似ている。それは愛が無いからである。この無知を破るために真理の光が、霊界と地球上の協同で放たれている。出産の日は必ず来るように真理の光が地上を覆う時が来る。大きな苦しみがあるほど、大きな愛の時代がくる。

164回目の瞑想

赤い薔薇


慈悲の瞑想のお祈りを唱える。いつものように手足が痺れ出す。
お祈り始めて行くと、どんどん深く入っていく。
最近は深く入ったまま、その心地良さに心身共に委ねている。映像も出現したりしなかったりだ。しかも今日はいきなりスマホで地震警報がなり、瞬間元に戻る。警報が終わった段階で、また深く入るように精神統一すると、すぐにティンカー・ベルのような、羽を羽ばたかせた天使が現れた。しばらく私の周りを飛び回っていたが、やがて消えた。

『協同する人々の上に神が働く』
「皆さんの内在の神は開顕し、もっともっと神性を発揮できるようになる。それは、今皆さんがここに一箇所に集まり、心が一つにとけ合っているからだ。かつてイエスも言ったように。人が二人でも三人でも、心を一つに集まれば、必ず神がそこに在って祝福を送り給うと。私達も同じ事を教えるのだが、人はこれを聞いてくれない。」

真理を聞きたければ、内在の神を発現すればよい。そこに神の真理のすべてがあるから。外にではない。内にある。それならばと人は山にこもり、または一人にこもって無理やりに何かを中から引き出そうとする。だから出ない。それは欲だ。欲には欲にふさわしい答えしか出ない。人と共に真理を語りなさい。ささやかでもよい自分が得た真理を、人に謙虚に分けなさい。神はその人の上に笑み給う、真理を語り合う人達の上に輝き給う。それが真理を求める道である。それから、心を決めて真理で少しでも世の中を良くしようとしなさい。そのとき神は二倍その人の上に輝き給う。それが内在の神を引き出す方法である。だから良いリーダーの元に真理を求めて集まるサークルには、神が輝いている。そのサークルが世の中を良くすることに献身の決心をしているなら、そのサークルに神の光は十倍輝いている。このサークルが百個集まれば世界が変わる。イエスとバーチが教えたのは、地球をこの愛の星に変える法である。また、あなた方一人一人を神に変える最高のやり方である。地球人は自分一人の真理を恋々とする。地球より自分の事しか考えない。だから内在の神が発現しない。内在の神とは元々出し惜しみしない愛であるはずだから。

165回目の瞑想

白馬


今日という日は、私にとって何にも代え難い日となった。
霊的真理を知るということは、決して楽になることではない。むしろ更に向上して行くために、いろいろな苦難に出くわす。私も息子の死以上の苦しみはないと思いながらも、日々の生活の中で心の葛藤がある。今日の瞑想ではお祈りしながら、自然に神様に「魂を目覚めさて下さい。霊性を向上させて下さい。神様の分霊である神性を発揮させて下さい。私はそれだけが望みです。この世にあって、それが何より大事なことだとわかりました。」と涙ながらに心の叫びのような想いで何度も何度もお唱えしていた。

すると、霊的真理の真髄の中のほんの一部分なのかも知れないが、あることがわかった。それは、瞑想での姿勢だ。心に浮かぶことや映像なども大事なことではあると思うが、魂を目覚めさせ神性を発揮させて頂くという、その求める強い心からの気持ちが何より大事な事だということに。渇望や切望するという強い気持ちでなければならない。それには苦難なくしてはあり得ない。苦難がなければそこまで求める気持ちにはなれない。安穏な生活ではそんな想いになることは決して出来ない。それはシルバーバーチが霊訓の中で再三言われていたことだ。「苦難が霊的な力と成長を身につけさせてくれる。」と。本を読んでいただけでは、わかったような気にはなっていたが、やはり身にはついていなかった。今日の瞑想でそのことが本当の意味で得心出来たことに、ただただ感謝の思いで心が一杯になり、涙が止めどなくこぼれ落ちた。こういう気づきをもらえることこそが、瞑想の醍醐味なのではないかと思う。
今後はこの事を肝に銘じて、瞑想を続けて行きたいと思っている。神様に感謝申し上げて元に戻った。

『新時代の到来』
「霊的な大きな力が、いま地上世界に向かって降りていく。地上のあらゆる国々で、次第にこの力が感得されていく。いま地上では大事業が進展している。それは地上の利己と無知を打破しようとする運動である。やがて時来たれば、この事業は必ず達成される。だがその前に、必ず大きな産みの苦しみがある。」

二千年前のイエスの時代に、大きな力が神霊界から降りた。だが、あの時よりも大きな力が今地球に降りて来ている。利己と無知というベトついた地球の床が大クリーニングされて、地球は生まれ変わる。その節目に私達は生まれている。私達の産みの苦しみは、利己という皮膚(カルマ)を自分の身体から剥ぎ取ること。地球の産みの苦しみは、地震、噴火。陸地の陥没・隆起で新しい地肌を外に出す仕事。

166回目の瞑想 

日の出


今日の瞑想も夢にも思わなかったとんでもないことが起きた。お祈りの途中から、どんどんと深く入って行くと、身体の中からバイブレーションが起きてきた。身体の中と言っても胸の辺りが中心でそこから広がって行く感じだった。
そして「我は波動なり」という言葉と共に実体として感じる事が出来たのだ。これが神の光り、神性と言われるものではないかとさえ思えた。胸の辺り全体が痛いくらいの痺れのようなバイブレーションのような、何も考えられなくなる感覚だった。自分の身体が自分のようで自分でないような感覚。言葉にすると陳腐になってしまうが、これだけの不思議な体験は初めてだった。そして「覚悟はできているか」に対して即座に「できています」と心の中で返事をしていた。
「我を捨て、存分に愛の心で尽くせよ」と。

元に戻ってからは、これが夢なのか、現実のことなのかと、しばし茫然としていた。瞑想でこういう体験をしていくうちに本物になれたら素晴らしいが、そう簡単には行かないのがこの世の常。でも今日の体験の素晴らしさは忘れられない。

『内在の宝』
「人はその内部に至高の富を所有している。地上には、これと比べられる富は一つもない。」

この富とは何ですか?答えられますか。あの人にあり貴方にない、そんなものではない。百億円よりも千億円より、もっと高価なものが本当の自分の中にあるのだろうか。そう思って誰も信じないので、誰も本気で探さない。探さないので貴方はそれが得られない。百億円欲しかったら本気でそれを探しなさい。人生とは宝探しゲーム。勝利者はまず、自己の内部にその宝の存在を信じる者。

167回目の瞑想

青空


慈悲の瞑想のお祈りを唱える。手足が痺れ出す。
お祈りの途中から、どんどんと深く入って行く。

今日の瞑想は、光りの中に漂っている感覚だった。しかも心が清められ、身体が清められているそんな感覚が、実感として感じていた。愛の心で一杯になり、それをあらゆる人々に限りなく行き渡らせたい気持ちにもなった。本当に有難い思いだった。
明日はお久しぶりに霊能者のカウンセリングを予定している。なので明日は午後遅めのUPになるかも知れない。

『差別は地のもの』
「私たちの教えが地上に広がっていくと、人間の一切の差別は消えていく。国と国との垣根、民族の差別、階級や人種やまたあらゆる宗教や宗派の差別は消えていく。各宗教はやがて悟るだろう。各宗教は神の真理の一部ずつを持っていて、他の宗教の核心は、また自宗の貴重な本旨と矛盾するものではないということを。」

人工衛星から見ると、地球は一粒の青い星である。国境など存在しない。宇宙の中心にたって神が御覧になると宇宙は一粒の光りの玉であろう。どこに民族や人種の垣根があろう。すべてが同じ神の光り、これが宇宙の本性である。この真理に反して目くじらを立てると天罰が(法則違反の苦しみが)自分の上にに落ちる。これと同じで、地球の宗教の宗派争いや宗教戦争は真理違反のレッテルを自宗に押しているものである。バーチの言うように、すべての善い宗教は真理の一部ずつを蔵しており、その部分から地球人の目を開くように使命を与えられている。残念なるかな、その一部の真理をすべてだと主張し合う<エゴ>のために目下、地球の宗教はサタン憑依を受けて狂っている。

168回目の瞑想

お釈迦様

慈悲の瞑想のお祈りを唱える。いつものように手足が痺れ出す。

今日は外出予定があったので、かなり早朝の瞑想であった。頭がボーッとしていたが、お祈りの途中から、深く入って行く。

深く入ったまま、「魂を目覚めさて下さい。霊性を向上させて下さい。神様の分霊である神性を発揮させて下さい。」と何度も何度も唱えた。
すると「焦ってはならない。どんな時も焦りは禁物。まずは自己を磨くこと。これはいわゆる奉仕である。これに尽きる。」また「コロナは神の意図である。神の御心に適う生き方をしていれば何ら怖がる必要はない。恐怖・不安があるものは、神の御心に適う生き方を心がけるべきである。」とのお言葉が浮かんだ。

『証拠で人は信じるのではない』
「(問)人は自分の器に応じて霊的な知識を受け入れるというお話しですが、すると、未完成な人が霊媒を通じて霊魂不滅の証拠を求めることは、賢明なことと言えますか。
(答え)証拠はいくら集めても、魂の進歩とはならない。人の受容能力とは、どれだけその人が霊的世界へ入り込んでいるか、どれだけ霊的世界の真理を理解するだけの魂の進歩をもたらしているのか、そういう事である。この両者の間には何も関係ない。世の中には死後生存の証拠を持っていながら、しかも魂は一向に霊的なものに触れていない人々がある。」

知識と叡智はちがう。知識は単に脳に記録される蓄積物にすぎない。肉体の死と共に消える。叡智は三つの媒体の中の本体に記録される。本体に記録されたものは永久不滅である。本体に何かが記録される条件はただ<愛>である。愛とは「世のため人のために何かをすること」である。そういう想いで真理を求め、その思いで何かした体験の知識は、本体に記録され永久不滅となる。なぜなら愛とは神性の発露であり、愛によって真理を求め、した体験にはすべて神性の放射光がこもる。だから本体に刻みつけられ不滅となるのである。これが魂の目(霊眼)を開くということである。なぜなら本体に叡智が増せば、本体はさながら神の放射光で一つの太陽のようになる。この光でものを照らして見るから、今まで見えなかった物の奥までが見えるようになるのである。これに反して、愛(世のため人のため)でない霊魂不滅の知識は死の瞬間に消える。また。その知識が何らかの利己心から求められたなら、幽体に刻まれ、生前・死後にわたって、その人を迷わせたり身を害するために働く。
なぜか今日はこのような内容だった。自分自身を振り返り、ただただ証拠集めでないことは確信している。だが、これからは大したことは出来ないかも知れないがどんな些細な事でも優しい気持ちで人に接して行き、愛の行いを少しずつ積み重ねて行こうと思った。早速、今日の外出では人に優しく接することができて心が晴れやかになった。また、今日のカウンセリングの内容は後日息子の交信記録にUPするつもりだ。

169回目の瞑想

オーロラ


慈悲の瞑想のお祈りを唱える。手足が痺れ出す。
お祈りの途中から深く入っていく。

今日の瞑想は、前半はまばゆいばかりの大きな光り輝く球体が現れ、その光りからエネルギーのような感じのものが、放たれている。しばらく続いていた。その後も映像らしきものを見た気がするが、良く覚えていない。後半は完全に意識がなくなっていた。曲が始めに戻った所で我に返り、それがいつの間にか三回目の曲が始まるところだったのだ。ただとても心が満たされていた。

『天か地か、憑依を選ぶのは自分』
「憑依された人物は、憑依されるだけの条件を自分で作り出しているのであって、憑依とは全く本人の問題である。例えば、人がもし愛と奉仕の強い希求をもてば、これを助けてくれる高級霊を引き寄せる、憑依にも全くこれと同じ法が働いている。法は善い事のためだけに働くのではない。反対の悪い事のためにも同じように働く。つまり人は上がり得る高さのほど、また落ちることも出来るものであるから。即ち、人は落ち得る低さの限り、また高所へ上ることも出来る。その法は同じだ。人がどちらを選ぶか、道はそこにかかっている。」

日ほどこの教訓がものを言う時はない。神は地上天国をこの終末に一挙に創らせようと全力投球している。反対にサタンはこの機に逆転ホームランで地球サタン帝国を作ろうとしている。地球人類がどちらに加担するか、その数の多さでこの勝負は決まる。この際働く法が、今バーチが述べた波長の法である。人が愛と奉仕のライフスタイルを選ぶか、自己中心の生き方をこのまま変えないかで勝負が決まる。勝ち負けを決めるのはサタンと神ではなく私達だ。私達は今究極の創造主につながることも出来るし、反対の地底のサタンと結ぶことも可能である。その選択の使節団みたいなのが今の地球人だ。
 

170回目の瞑想

光り輝く


今日も早朝での瞑想であった。慈悲の瞑想のお祈りを唱える。お祈りの途中から、深く入って行く。
最初の映像は、お久しぶりの稲妻のような光りが出現した。そして次はなんとダイヤモンドのようなまばゆいばかりの光りで辺り一面明るくなる。素晴らしい!の一言。

そして木漏れ日が射し込む森の中を歩いている情景が浮かぶ。森林浴で、心身共にリラックスしている感覚になる。更にキラキラとした細かい光りが頭上から降りて来る。充実感で心が満たされる想いだった。

『内在の神性』
「私達が願うところは唯一、人間の内部には神性があるということ、・・・・もしこれが理解できれば、人はいよいよ神性を発揮し、ますます進歩し、その心は知恵と真理で限りなく満ち溢れることになろう。」

凡夫と、人は思いがちです。現実に見える自分はその通りです。しかし人間の実相は神の火花・霊です。思想は生きものですから、思った通りになります。間違った思想は破壊を、正しい思想は実りを。
自己神性の確信は、その通り自己を不滅の神性とします。

149回目の瞑想

日の光
 

慈悲の瞑想のお祈りを唱える。いつものように手足が痺れ出す。
お祈りの途中から、すぐに深く入って行く。

今日の瞑想は、全身の痺れ感が凄かった。頭から足のつま先まで電流に包まれているかのよう。(って電流に包まれたことはないが)そして、最初に出現した映像は何とアニメだった。いきなりゴリラが現れ、早回しのような動きが展開する。ずっと凝視しているとそのゴリラがいつの間にか恐竜になった。アニメとは思えないその描写は見事という他ないものだった。
次に出現したのは、どこの国と限定された感じではなく、その時代時代の姿や服装で現れた立派な椅子に座っている国王のような人が何人も素早い切り替わりで現れた。顔はボケているような感じだったのでわからなかった。
それにしても身体の痺れ感の凄さで、我に戻ってからもしばらく頭がボーッとしており、身体の痺れも残っているような感じで、チリチリしていた。

150回目の瞑想

薔薇


慈悲の瞑想のお祈りを唱える。いつものように手足が痺れ出す。
今日の瞑想はとても早く終了した。お祈りの途中ですぐに映像が出現した。鳥(ダチョウのようだった)の目のみが大きくクローズアップされていて、その瞳は悲しそうで泣いているようにも見えた。すると今度は線香花火の火花のような煌めく映像が出現する。最初は小さい火花だったが、段々と大きくなり画面一杯に広がった。その途端宇宙空間へと誘われ(説明が難しいが誘導されたように感じた)いつもよりもかなりリアルに漂っている感覚があった。
「我の懐に出でたり」とのお言葉が浮かぶと言うよりは聞こえたような気がした。男性のお声のような気もする。(ただ、「出でたり」の意味がよくわからなかった。最初はそんな言葉があるのかと調べてみると、実際にその言葉はあった。ただいろいろな意味があり、どれが当てはまるのかはよくわからなかった)それと同時に涙がこぼれ落ちて来た。(涙が溜まっている感じはなかったので、頬を伝わってこぼれ落ちた時には少しびっくりした)

151回目の瞑想

光り


慈悲の瞑想のお祈りを唱える。いつものように手足が痺れ出す。
お祈りの途中から、すぐに深く入って行く。
実はあるサイトを参考にさせてもらって、瞑想中に自己催眠を取り入れてみようと思って今日からやってみた。初めてなので、最初は金色の仏像の立ち姿のような映像が出現したが、その後はとりとめもない映像がとにかく一杯出現した。まるで夢を見ているような感じだった。だからなのか我に戻るとはっきりと覚えているものは何もなかった。今後も上手く行くかどうかはわからないが、過去の自分に出逢う体験をしたいと思っている。回を追う毎に少しずつ鮮明になって行く場合もあるとのことなので、しばらくやってみようと思う。

話は変わって昨日「シルバーバーチに聞く」という本を読んでいた。
その中に今のコロナにも言えるのではないかと思う箇所があったので引用してみる。
『すべてをなくして、神を知る』という見出しで
「神のものであるものは、犠牲なしでは何事も成就しない。人は涙をもって、建設を贖い(あがない)とらねばならない。大きな物質的不幸が来て、初めて人は霊的なものへ心を向け始める。あらゆる物質的なものが倒れた後、初めて人は一本の藁を求める」

152回目の瞑想 

お釈迦様


慈悲の瞑想のお祈りを唱える。最初手足の痺れは微弱だったが途中から強くなり、頭の痺れ感も出て思考力が失せる。
徐々に深く入って行った。

今日の瞑想はやはり夢心地という状態だった。そして映像が出現したのだが、不思議な映像だった。最初一本の大きな木の枝を切断している男性の映像だった。その後、今度は心に浮かんだのか教えられたのかわからないが、その男性は寝たきりになってしまったという結果らしきものを感じた。その他にも映像は出現していたようだが、一切覚えていない。昨日と同じように夢のような感じなのだ。
ただ戻る直前に「焦らずにゆっくりと」の言葉が私の心に浮かんだ。

昨日に続き、しばらくランダムに開いたページのシルバーバーチのお言葉を引用してみようと思う。
『睡眠中の他界訪問』
「皆さんは霊界に来ているのだが、そのことを少しも覚えていない。毎晩のように、皆さんはこちらの世界を訪問している。これは将来の準備のためだ。こうしておかなければ、死後霊界生活を始めるに当たって、大きなショックを受けるだろう。さて、皆さんは死後こちらの世界へ来ると、初めて生前訪問の記憶を思い出す」
あの世の訪問の記憶がないのは、エーテル体に憑依防止網というのがあるらしい。そのおかげで簡単に邪霊の憑依を受けない仕組みになっているため、睡眠中の他界訪問の記憶が消されてしまっているらしい。
神様はこの世とあの世の二つの生活のために睡眠を与えて下さっていると言うのだ。

153回目の瞑想

赤い薔薇


慈悲の瞑想のお祈りを唱える。いつものように手足が痺れ出す。
お祈り始めて出現した映像は、すぐには何なのかわからなかったが、それが木肌だとわかり、その木肌がどんどんとクローズアップされていく。すると中央に黒色の丸い形が出現し、更にその中に吸い込まれるようにどんどんと進んでいくとまるでトンネルの中ような感じだった。先には何やら光りのようなものが見える。近づいて行くと、その光りが大きな泡となってシャボン玉のようにこちらに向かって噴出して来る。あまりの勢いや数の多さにその先に進むことができなかった。
次に出現した映像は大きな輪の光りだった。出現したと同時に私の身体に電流が流れるような感覚になり、感応して自然と涙がこぼれ落ちた。

『あなたもイエスと同じ神の通路』
「イエスは神の通路であり、人間の理想である。即ち人間なら誰でも、天与の神性を発揮しようとしさえすれば、彼のようになることが出来る。そんな意味での人間の手本である。」

人間はすべて神の子であり、神の子とは神と同じ血液である神性が流れる者ということ。もし、人が自己の神性に気付くなら、今まで自分と親である神との間に止まっていた血が通い始めるということ。神性とは神の本性である無私の愛である。愛を持てば貴女はイエスと同じ神の通路で、神人である。
(注:シルバーバーチのお言葉の後の説明は著者である桑原啓善氏の言葉である)

154回目の瞑想

白馬


昨夜の瞑想で初めての体験をした。文字の映像が出現したのだ。最初の字は「あ」だった。その後に続く文字はその「あ」の後ろに重なるように出てきたので、何の文字だかわからなかったが、「ありがとう」だとすぐにわかった。
しかもその「あ」の文字は、生前の息子の筆跡であった。心の底から嬉しさが込み上げてきた。その想いに「こちらこそ、お母さんの息子として生まれて来てくれてありがとう。◯◯のおかげでいろいろな体験をさせてもらえたよ。本当にありがとうね。」と感謝の気持ちを伝えた。

そして今朝の瞑想では、素晴らしい気づきを与えて頂いた。いつものように慈悲の瞑想のお祈りをして、自己催眠で過去の自分に戻って行くようにとしていたその時に、今までの人生でのいろいろな悩み苦しみ悲しみ辛さなど経験してきたその一切の負の想い手放して解放するということを。(そうなんだ、手放すことが本当に大事なことなんだと自分に言い聞かせるようにじっくりとその事を噛みしめた)そして、これからはどんな試練が待ち受けていようとも神様と繋がっている私には克服出来ないものはないという想いで生きて行かなければいけないということも。今までの苦難はその為のものだったということにも気づけたのだ。もちろん、息子の死の悲しみまでも手放すということだ。このような気づきを与えて頂いたことに有難い思いで一杯になり、涙が止めどなくこぼれ落ちていた。

『新しい民族』
「やがて新しい民族が台頭する。その民族は一切の政治も宗教も科学も知識も、ただ一なるものの各部分であることを認める。その日には、苦しみも涙も嘆きも災いも消え失せ、地上は唯、微笑みと幸福の国と変わるだろう。」
現在の地上は、宗教と科学は対立するもの、政治と宗教は別物と考えている。しかし、それは神法において一つである。神法の極点は愛、バーチの言う奉仕、それが未来の政治・宗教・科学・知識の核となるであろう。我らは新民族となろう。

155回目の瞑想 

日の出


今朝起床直後にピアノ譜が浮かんだ。浮かんだ瞬間ははっきりと音符自体わかったが、徐々にやはり薄れて行く。今となっては一小節の右手の音符がぼんやりとわかる程度だ。ただ又しても初めての体験だった。あれだけ鮮明に見えたのも初めてのことだった。
そしていつものように慈悲の瞑想のお祈りを唱える。手足の痺れ感も出る。
お祈りの途中から、深く入って行く。

今日の瞑想は、宇宙空間の中にいて、光り輝く星を間近に感じていた。流れ星のような動きのある星や、そのままキラキラと光っている星など、私のすぐそばでちょっと手を伸ばせば触れるような感じだった。そのまま心地良い状態に身を任せていた。

『人生は霊の目で見よ』
「私達は人生を見るに肉の目をもってしない。生命の真実の姿を見通す霊の目をもってする。賢明な人とは人生のあらゆることを、魂の成長のために生かそうとする人、こういう人はどんな試練にあっても、背中を見せようとはしない。内在の力を働かせて困難に直面しようとする。何となれば
人格の成長は、実はこの精神にあるから。」
人は霊であるから、この魂を進歩させ、魂が進歩すればそれに応じて、健康も富も必要なものが備わるように人間は作られている。この「霊主肉従」の真理を見落とすと、何もかも乱れてしまう。だから、霊の目で人生を見る人は魂の進歩を第一にするから、困難はむしろ魂の試練、喜んで立ち向かうから克服できる。克服して魂が進歩すれば、自然に健康と必要な富が備わる。

156回目の瞑想

青空


慈悲の瞑想のお祈りを唱える。手足が痺れ出す。
お祈りの途中から、どんどんと深く入って行く。

今日の瞑想は、いきなり映像で目の前に燃えたぎるような炎が出現した。すごい勢いだった。すると、大きな大きな手が出現し、その炎の中からまるで豆粒のような人間を救い始めたのだ。その様子にただただ感動で胸が一杯になった。それと同時に今度は目の前がパーっと明るくなり、言い知れぬ温かいオーラに包まれている感覚になった。感謝の気持ちで胸が熱くなっていた。

『神人協同』
「もし、霊的真理に気づく人達がみんな団結して、唯物的なこの世界に立ちこめる真黒な霧を追い払おうと努力すれば、大事業が達成されることになる。だから不動の確信をもって前進されよ。皆さんの傍には善意と協力と奉仕の一切の力が置かれている。」
これは事実です。私達の背後には、いま神界で進められている事業に協力を惜しまない人間達に与えられる絶大な援助が準備されています。この事業とは何でしょうか。唯物主義の棺に私達が釘を打ち込む仕事です。この世紀の大事業に参画するチャンスが今一度だけ私達の前に置かれています。

157回目の瞑想

お釈迦様

慈悲の瞑想のお祈りを唱える。いつものように手足が痺れ出す。

お祈りの途中から、深く入って行く。

深く入ったまま、映像としては宇宙空間が何度か出現したが、後ははっきりとしない映像ばかりだった。
そのまま心地良い状態で漂う感じだった。

『神法は完全で、自動的』
「神法は完全であって、その働きは自動的である。誰一人として、この法を免れることは出来ない。
自由意志、これさえも法である。人の自由意志は自分が現在達している進歩に応じて発揮できるにすぎない。」
私達のした事、言った事、思った事は「因果律」によって完全に何一つ失われずに結果を出す。唯、低級霊や邪霊に動かされる者は自由意志を使っていない。己が理性で動く者は自由意志の大きな行使者である。何となれば、理性こそが本当の自分自身である「霊」であるから。欲と感情で動く者は、邪霊と低級霊の餌食にすぎない。

158回目の瞑想

オーロラ


慈悲の瞑想のお祈りを唱える。手足が痺れ出す。
お祈りの途中から深く入っていく。

今日の瞑想も素晴らしい体験をさせて頂けた。最初は映像のオンパレード+意識がこの世にない感覚で、映像が実際のようにも感じていた。だが夢と同じようで、その時に感じたことを少しでも意識がこちらに戻ると何だかはっきりとは思い出せない。その中で唯一あまりにもインパクトのあった平たい真っ白な円盤の形をしたものが画面一杯に出現したのだけは、とても鮮明だったこともあり、はっきりと覚えている。とても美しかった。
そして、曲が2回目の後半に差し掛かった時だったと思うが「アオーン」のお祈りが身体中を中から包み込むように鳴り響いた。身体全体の痺れ感は強いながらも心地良いものであった。しかもその時に私のオーラがキラキラと光輝いている感覚にもなった。そして自然に「ご奉仕させて下さい」「どのようにすれば良いかをお導き下さいませ」と心の中で問うていた。

『霊の世界の美』
「今は五月、地上も今は美しい季節、辺り一面、神の御業が世を飾っている、しかし今皆さんが見ているものは、霊界の美のほんの影法師にすぎない。ここは、皆さんが夢想だにできない、美しい花や木や鳥や山や小川がある。いつの日か、皆さんもこの美しさを味わう時が来よう。そう、皆さんは幽霊になるわけだが、しかし、それこそまさに、皆さんの真実の存在であるのだ。」
「肉体」という眼帯を一様に付けられているので、霊界の美しさが見えない。私達が眼帯をとる時、それを人は死と呼ぶが実は眼帯をとって、もっと美しい世界に入って行くことにすぎない。あの世では視力がその人の想像力で決まる。美しいものが想像できる人ほど、美しい世界を見、見える世界がその人の住む世界となる。だから美しいものが想像出来る人ほど幸せだ。ただ、その想像力はこの世で生きている時に美しい物を一度見た人でないと想像することは難しい。目の不自由な人でも見える。心の目(魂の目)でそれを見るのだから。愛、それが世界で一番美しいもの。それを生きている時にどれほど見たか、それが死んでから入る世界の美しさを決める。想像力ー愛を見る力ー想念があの世の世界を創る。実はそれと同じ事を眼帯をかけたままこの世界でもしているのだが、眼帯が邪魔をしてそれが見えないでいる。眼帯が少しズレた人、その人を聖者と呼ぶ。
 

159回目の瞑想

光り輝く


慈悲の瞑想のお祈りを唱える。お祈りの途中から徐々に深く入って行く。
光りの中に包まれている感覚になり、それと同時に手足がかなり強く痺れ出す。

心穏やかに、この世の喧騒から一時離れて静寂な時を過ごせることにただただ感謝の気持ちで心が一杯だった。やはり、瞑想の醍醐味はこの瞬間にあるのではないかと思う。そして又、この世での雑事などに対して頑張る気持ちにさせてもらえる。
今日も一日、愛の心で満たせるように頑張ろう!

『世俗の中で生き抜きなさい』
「(問)世俗を離れ、孤独の中で瞑想する神秘主義によって、善いものが得られると、貴方も信じておられますか。
(答)それは「善いもの」の内容いかんによる。もちろん俗塵を離れれば、霊力を開発するには具合はよろしいだろう。むしろ世俗の中にありつつ、刻苦奮励して、内在の殊を磨き、この天賦の力をもって世のため人のために奉仕することの方が、はるかに立派なことである」
この「はるかに立派なことである」とバーチが断言している意味が、現在の人々に分かるだろうか。終末の現代が肝に銘ずべき警告である。ここで言う「霊力を開発する」とは超能力を獲得するという意味である。即ち、俗塵を離れて(つまり利己的な生活環境から離れて、清らかな生活をしながら)でも、超能力を獲得するより、俗塵にありながら自己の神性を磨き(心を清め=内在の神性である愛の心を磨き)世のため人のために愛と奉仕に生きることが「はるかに立派なことである」と言っているのである。
今日の社会はどこも利己主義の巣窟で息をするだけで利己主義に染まってしまう。しかしその中で愛に生きなければならぬと心に誓って、そう生きるとき、最高の試練が得られて最高に魂が磨かれて内在の愛が芽生え、愛と奉仕に生きられる。この愛と奉仕が自己を神に変え、他者を神にし、地球を神の国に変える最大の超能力である。それなのに人は、この愛より霊能力すなわ超能力を欲しがる。それもこの世俗の中で安直にお金を出せば得られる超能力を欲しがる。それも自己顕示欲のため「世のため人のため」とうまいことを言いながら結局は利得のために。エゴを求める超能力ブーム。今ここにサタンが群がる。アトランティスの二の舞をさせるために、決死でサタン勢が群がっているのが見えないのか?

138回目の瞑想

日の光
 

慈悲の瞑想のお祈りを唱える。いつものように手足が痺れ出す。
お祈りの途中から、すぐに深く入って行く。

今日の瞑想では、神様と繋がっていることを心と身体で実体として感じる事ができた。身体はとても心地の良い周波数で包まれているという感じだった。これは言葉では到底説明できないが、今までの瞑想でも感覚としてはあったものの、今日のような体験は初めてのことだった。

「人間は進化の途上である。神の御心に適う自由意志を行使しなさい。自縄自縛は本意ではない。」

このお言葉に真(まこと)の愛を感じ、涙が出始め、我に戻ってからも涙が出続けて止まらなかった。

139回目の瞑想

薔薇


慈悲の瞑想のお祈りを唱える。いつものように手足が痺れ出す。
今日の瞑想ではなかなか悩み事を打破できずにいたので、雑念ばかりが頭を過る。それでもとにかく瞑想し続けた。更に想いはどんどんと悪い方へと加速し、何もかも辞めたくなる想いで一杯になる。
すると、良心の声とでも言うのか、いや、私の内在している神性である霊だと思う。
「なぜ、そのような事ばかり思うのか。自分の今の幸せを顧みないで不平不満ばかりを思っていても何も解決しない。護られていることに感謝し、今の幸せに感謝する。そして前向きに努力して行く。さすれば自ずと道は開ける。全ては自分の中に答えはある。」
「人間悩める時は暗きことばかりを心に抱き続ける。そういう時にこそ明るきことのみ心に浮かべ、神を信じ、自分を信じて一歩前へと進むべきである。」と。
このお言葉が心に浮かぶといきなり私の心が晴れてきたのだ。本当に不思議であった。あれだけの想いでいたはずなのに・・・と。
また、なぜか今日武本先生のHPを拝見した。そこにはシルバーバーチの霊訓に同じようなことが書いてあり、涙がこぼれる。導かれたのだと思った。引用させて頂く。
『基本的真理にしがみつくのです。迷いの念の侵入を許してはなりません。これだけは間違いないと確信するものにしがみつき、謎だらけに思えてきた時は、ムキにならずに神の安らぎと力とが宿る魂の奥の間に引き込もることです。そこに漂う静寂と沈黙の中にその時のあなたにとって必要なものを見出されることでしょう。
 常に上を見あげるのです。うつ向いてはなりません。うなだれる必要はどこにもありません。あなたの歩む道に生じることの一つ一つがあなたという存在を構成していくタテ糸でありヨコ糸なのです。これまでにあなたの本性の中に織り込まれたものはすべて神の用意された図案にしたがって綴られていることを確信なさることです。』
『あなたが人間であり、それゆえに転ぶこともあることは私も知っております。ですが、悩みごとが次第に大きく感じられてきた時、そこでしっかりと踏みとどまり、いかなる悩みごとも、実在である霊の光を曇らせることはできないのだという認識を新たにすることができれば、心晴れやかとなり絶対に克服してみせるとの信念が湧いてまいります。これは実に厳しい教訓ではあります。が、もしらくに達成できるものであれば、求める価値はないことになります。両手に花とはまいりません。何かを成就せんとすればまず自我を鍛えないといけません。鍛錬の必要のないほどのものであれば、自我の開発にはつながりません。』

140回目の瞑想

光り


慈悲の瞑想のお祈りを唱える。いつものように手足が痺れ出す。
お祈りの途中から、すぐに深く入って行く。
すぐに映像が出現したが、般若や怖い顔などの映像がしばらく続いた。するとロケットのような火花が出現し、その火花と共に爆風のような形でその般若や怖い顔などを吹き飛ばしたのだ。そしてその火花は光りとなり画面一杯に星が降ってくるようにあちらこちらからその光りが降って来ていた。一変して美しい画面が広がった。
その映像に見入っていると、また心地良い周波数が身体全体を覆う。ただ、眉間辺りはかなり強いジリジリ感を感じていた。けれど静寂というその中に入っている感覚、そして魂の奥に引きこもるという感覚になることができたと思う。
「心で描け 真の姿を」との言葉が浮かんだ。

141回目の瞑想 

お釈迦様


慈悲の瞑想のお祈りを唱える。手足の痺れは微弱。
徐々に深く入って行った。

今日の瞑想はかなり不思議であった。しばらくは心地良い状態でいたが、ある映像が出現した。僧らしき人物が数名歩いている。だが、そのうちの一人が物陰に隠れた。映像としてはそれだけだった。
その後のことは私の心に浮かんだことだった。
お釈迦様とその弟子達が布教伝導の旅をしていたときのこと。隠れたその弟子の一人は布教伝導の旅に疲れていた。その場所に戻って来ることはわかっていたので、隠れて休んで待っていた。要するにサボったのだ。けれど、他の弟子がそれを見逃すわけもなく、お釈迦様に告げ口する。だが、お釈迦様は全てわかった上でこう言われた。「そのものは具合が悪かったのだ」と。

(なぜここまでの事が心に浮かんだのかはわからない。また事実かどうかもわからない)
ただ、人を赦すということ。奥が深い。
この世で人を赦すということも苦行であることに間違いはない。

142回目の瞑想

赤い薔薇


慈悲の瞑想のお祈りを唱える。いつものように手足が痺れ出す。
祈り始めるとすぐに赤いものが見えた。映像で赤色というのは珍しい。今まではなかったと思う、その赤色は盛り沢山の薔薇だった。なぜ、赤い薔薇が出てきたのか。。

赤い薔薇の花言葉は往々にして愛情や情熱だ。夢占いを見ても情熱的な恋愛などとあるが、今の私には無縁である。中に強い感情や精神的な成長を現しているというのもあった。
そして今度は火の鳥のような金色の鳥が出現し、羽ばたいていた。とても幻想的で美しかった。夢であれば大吉夢らしい。
「誠を生きよ」とのお言葉が浮かぶ。
この時に私の背後に控えておられる霊団の存在を感じることが出来たように思う。

143回目の瞑想

白馬


慈悲の瞑想のお祈りを唱える。いつものように手足が痺れ出す。
早めに深く入って行く。

最近の瞑想は、自分の心の葛藤が顕著に出て来る。前半はその事で悶々とし、神様に助けを求める。中盤に差し掛かると徐々に落ち着いて来るのだ。そして嘘のように悶々とした想いが消えてしまう。まるで自分の心を表面化させて洗い流しているような感じだ。我に戻って目を開けた時に涙が一杯溜まっていて大粒の涙がこぼれ落ちる。でももうその時には感情は伴ってはいない。
この一連の心の動きは何なのであろうか。モヤモヤした想いが消えてしまうと言うことが、何とも不思議でならない。
映像としては、白馬が走っていたり、飛んだりしているのみであった。

144回目の瞑想 

日の出


慈悲の瞑想のお祈りを唱える。手足はかなり強い痺れ感。
お祈りの途中から、込み上げてくるものがあり、涙が出まくる。

今日の瞑想では、核心とでも言うようなとても大事な事に気づかせてもらえた。自分の心の中で「慈悲のお祈りをしようが瞑想しようが、ひとつの魂を幸せにできないで何の意味があるのか」との想いに苛まれ、実践することの難しさにただただ辛い思いで一杯だった。その場限りの優しさや思いやり、また親切などは簡単にできる。けれど、常に実践するということは本当に難しい。自我との闘いでもある。

「己に打ち勝て。そして神に繋がる魂を光輝かせよ」という言葉が浮かんだ。
世界の平和や日本の国の幸せを思う事も大事だが、まずは身近な人(魂)を幸せにすることが最も大切な事だということ。そしてそれにはまずは自分自身が変わらなければいけないと言うことに気づかせてもらえた。
ただ、瞑想時には出来ると思えても、日々の生活の中では自ずと自我が出て来る。それをどう克服して行くのか。今回の瞑想時での事を肝に銘じようと思う。これは今実際に思い悩んでいたことなので、本当に有難かった。

145回目の瞑想

青空


慈悲の瞑想のお祈りを唱える。手の平の痺れが半端ない。特に左手。
お祈りの途中から、どんどんと深く入って行く。

羽衣のような柔らかい薄手の生地が波のようにうねって動いている。色は薄いピンク色。透き通っているようだった。しばらくすると映像は、トンネルのような場所になり、車に乗っているような速さで前へ前へと進んで行く。すると前方に金色の光りが見えた。だがその光りの前で止まってしまった。しかしその後、何人もの人物が入れ替わり立ち替わり見えて、顔もはっきりとわかった。ほとんどが知らない顔だったが、中には知らないのに懐かしく感じる人もいた。西洋人風だったり、古代人のようだったりと様々な服装で出現していた。何とも不思議な体験だった。我に戻ってからもしばらくボ~っとしていた。

146回目の瞑想

お釈迦様

慈悲の瞑想のお祈りを唱える。最初から両手の平の痺れ感がとても強い。足も後になって強く痺れ出した。
お祈りの途中から、深く入って行く。

今日の瞑想は、本当に本当に素晴らしい体験をさせてもらえた。この世で言う至福というものを感じさせてもらえた。今も感動と感謝の心で一杯である。
最初の映像は宇宙空間にタイムマシンに乗って行くような速さで突入する。そこで心地良く漂っていると宇宙の隅々まで行き渡るような「アオーン」という澄み切ったお声が私の身体中を覆った。その時の幸福感足るや何物にも代え難い。瞬間的にお釈迦様だと感じた。「アオーン」という言葉のないお祈りは生きとし生けるもの全てに感応するお祈りである。
その幸福感で満ち足りた状態の時に「そなたの心は通じておる」とのお言葉が浮かんだ。お釈迦様の慈悲のお祈りが届いていると実感して、滂沱と涙して止まらなかった。ただただ感謝の想いが溢れ、改めて初心に戻ってこれからも精進して行こうと心に誓った次第である。

147回目の瞑想

オーロラ


慈悲の瞑想のお祈りを唱える。手足が痺れ出す。
お祈りの途中から深く入っていく。

今日の瞑想は魂が身体から抜け出ていきそうな感覚を感じながら、金のベールに包まれているような感じにもなっていた。温かくて安心感がある。両手の平の痺れ感が不思議なことに曲に合わせて強かったり、弱かったりを繰り返していた。また頭の痺れもかなりあり、時々締め付けられるような感じもあった。だが、どんどん深く入っていくに連れて、霊的な繋がりを自然な形で感じられた。
昨日から穏やかな気持ちが続いている。本当に有難い。
 

148回目の瞑想

光り輝く


慈悲の瞑想のお祈りを唱える。お祈りの途中から徐々に深く入って行く。
それと同時に手足がかなり強く痺れ出す。

深く入っている時の状態は形容し難い。意識が別の所にあるような感覚だったり、無の状態だったりする。身体の感覚に関しては何とも言いがたいものがある。今日はそんな状態の中で、ほんの少しの間この世的なことが浮かんだ。今まではそこからズルズルとこの世的なことに引きずられたりするのだが、自分でもびっくりだったのだが、すぐに引き戻されたのだ。自分の力ではない何かに強引に戻された感じだった。するともう頭の中は何もなくなった。そして出現した映像は噴水が下から吹き上がる形なのだが、水ではなくその瞬間は火だった。上へ上へとあがって行くにつれて、今度は水になって、一番上には天使のようなものが横たわっている。それが起き上がると同時に女神のような出で立ちになる。すると今度はどんどん小さくなって消えてしまった。と思った途端小さいまま(女神のようではなかった)白装束姿が現れ、飛び上がってバンザイした状態で消えた。

その後、光りの川(とでも言ったらいいのか)が出現し、その流れを見ているうちに、心が洗われるような気持ちになっていた。

127回目の瞑想

マイガーデン
 

慈悲の瞑想のお祈りを唱える。いつものように手足が痺れ出す。
お祈りの途中から、すぐに深く入って行く。

最初にまた稲光ような光りだったり、宇宙空間から地球を見ているような映像が出現した。時々、意識が遠のく。
そして、眉間のビリビリ感がお久しぶりに凄かった。痛い位にビリビリしていて締め付けられるようにも感じられた。その間の時間は結構に長いように思われたが、曲の途中で我に返ってしまったので、そこまで長くなかったようだ。

続きを書いてみる。
実は主人 が術後すぐに話せたのは単語二言だけだった。「そうなの」「わかった」のこの二言。
「ひらがな」「カタカナ」の五十音が全滅だった。自分の名前を漢字でスラスラ書けるのに「あ」「い」「ア」「イ」が読めない。得てして脳の病気になった人はみな「ひらがな」「カタカナ」が読めなくなるとのこと。そして、更にショックだったのは時計。時計の読み方もわからなくなっていた。しかも何時何分の「時」や「分」も言えない。また、しばらくの間は身の回りの簡単なことも理解できなかった。でも、これは一時的のことだからと自分に言い聞かせて、落ち込まないように主人の状態が良くなる日だけを夢見て頑張った。その間も少しずつだったが、院内でリハビリもやってくれていた。けれど、そこの病院は本格的なリハビリ施設がないために、先行きは転院することになっていたが主人の頭の傷の状態を見ながら、まずはリハビリテーション病院の打診から始めてもらった。けれど院内でのリハビリのおかげで最初に比べたら、言葉や理解力も少しずつ出てくるようになり、時計も間違いながらも何時というのはわかるようになってきた。次は「分」だが、これまた難しい。こちらはすぐには言えるようにはならなかった。身の回りのことについての認識も徐々にできるようになってきて、日常会話も出て来ない単語はこちらで察して話すという感じだったが、少しずつできるようになってきていた。かなり早い形で回復していった。そして出血からの一ヶ月間が終わり、いよいよ本格的なリハビリ開始でリハビリテーション病院へ転院した。しかし、そこでのリハビリはかなりハードなものだった。

実はリハビリテーション病院は二箇所あった。どちらにするかはパンフレットを頂いて、家族が決めるということだった。どちらにしていいかは全くわからなかった。ただ、主人が気持ち良くリハビリできる所ということだけだった。そこで、霊能者のS先生に聞いてみた。その二箇所(AとBとする)を紙に書いてしばらく、霊視しているようだった。そしてこんなことを言われた。「こちらのAの病院をご主人は足で蹴って上にあげて、それを抱きとめています。なのでこちらの病院がご主人には合っていると思います」と。そこで、それを踏まえて息子と二人で候補の二つの病院を見学しに行った。最初に訪問した病院が主人の抱きとめた病院だった。S先生に言われたことがもちろんあったが、訪問して息子と私はその病院の明るい雰囲気に一目見て気に入ってしまったのだ。なので即Aの病院に決定した。実はパンフレットをもらった段階では家に近いという理由だけでBの病院にしようかと思っていたのだが、実際にBの病院へも行ってみたが暗いイメージだった。後日主人にも病院の感想を聞くと「ここにしてもらって本当によかった!」と、とても気に入った様子だった。S先生に聞いて本当に良かったと思った。

128回目の瞑想

薔薇


慈悲の瞑想のお祈りを唱える。いつものように手足が痺れ出す。
お祈りの途中から、すぐに深く入って行く。
しばらくは深いままその状態を維持しながらで、映像なども見え隠れしていたがはっきりとはわからなかった。
そしていきなり言葉が浮かんだ。というか心に感じたと言った方がピッタリくる。
「幸せとは心が平穏な時を言う。心に波風を立ててはいけない。何時も神と共にある。」
感じた途端に心が温かくなって、有難い想いで一杯になった。涙もこぼれた。

続きを書いてみる。
転院する前日にその日撮ったMRIを見ながら、脳外科の部長から話があった。「多少の腫れはまだありますがこれも徐々に元に戻ります。ですので、目の症状やまだ残っている症状に関してもあるのが当然なんですよ。でもだいたい出血してから3ヶ月くらいで、そのような症状は治っていきますから大丈夫です。眼の神経をやられてしまっていると治る見込みはありませんが、○○さんの場合は神経は正常なので必ず治ります。また言語にしても同じです。もちろん、血液で壊されてしまった細胞は再生しませんが、周りの細胞が助けてくれて新しいネットワークを作ってくれるんです。それはリハビリによって作られるので、これからのリハビリを大いに頑張ってくださいね。今度転院するリハビリテーション病院は一流の人が揃っていますから、そのノウハウはかなりものです。良くするためにかなりスパルタなので根をあげる人もいるようですが、きちんと計画に則って実行して行けば、必ず治りますから大丈夫ですよ。すでにここまで回復されているんだから凄い回復力の持ち主ですよ」と太鼓判を押すように主人の肩をポンポンと叩かれて話してくれた。この言葉は私にとって当時本当に励みになった。有難かったし、救われた。更に「ただ、手術をしなかったらまだ寝ていたかも知れません。実際に50日も経っているのに手術ができなかった人はまだ寝ている状態ですから」と。やはり、あの日に息子に励まされ、促されて決断したことは間違いなかった。息子にも本当に感謝した。
ただ、その病院でのリハビリは部長が言われた通りかなりのスパルタだった。スケジュール表を病室に貼り、それに従って毎日行われていた。リハビリの先生は20代という若い先生でかなりビシビシとされていたようだった。主人は病気前は仕事柄、5000人の前で講演するほどの話術に長けた人だったので、プライドはズタズタだったと思う。どれだけ悔しくて辛かったかと思う。また身体に麻痺がなかったので、高次機能障害は一見見ただけではわからない。それだけに更に辛かったのは言うまでもなかった。そんな主人がある日私にこんなことを言ってくれた。 

129回目の瞑想

仏像

る。
慈悲の瞑想のお祈りを唱える。いつものように手足が痺れ出す。
お祈りの途中から、すぐに深く入って行く。
すぐに映像が出現した。電光石火のごとく、素早い動きの光りが縦横無尽に流れていて画面一杯に広がるさまは圧巻だった。
今日のニュースで見た方も多いと思うが、スケートボードに腹ばいになって乗っていたという5歳児の事故について、ニュースを見ていた時には(またこんな痛ましい事故が起きてしまった。しかも5歳。運転されていた方もお気の毒に)と思っていた。しかし、瞑想し始めると全ては因果律の働きであり、原因があるからこその結果だということを感じる。そして起きてしまったことをどう乗り越えていくか。突然に身に降りかかる辛く苦しい出来事にどう向き合うかが、この世に生まれて来た一番の目的であり、為すべき事だということを強く感じた。
私のように(何の原因もないように思われるような場合でも)突然に最愛の我が子を亡くしても前向きに明るく生きて行く事が重要であり、それにはやはり霊的真理に辿り着くことが必要不可欠であるということに気づくことが何より大事なことなのだと改めて思った。

続きを書いてみる。
ある日、主人がゆっくりとゆっくりと話し始めた。
『今まで大変なプレッシャーの中で、僕に相談もできずに本当によくやってくれたね。ありがとうね。でも、また仕事に出るようになったら、全部また自分が考えて何とかやるから守るからね。そして、もうおまえは精神的に限界だよ。これ以上僕のことをあれこれ考えなくても大丈夫だからね。息を抜いていいんだよ。これからはもっと自分のことを考えて好きな事をして欲しい。知っての通り僕は強いから、例え最悪言葉にしろ、眼にしろ、このまま後遺症が残ったとしてもそれでも絶対に負けないでやれるし、やり抜くから大丈夫。それにキャンピングカーや車に乗れなければ乗れなくても構わないよ。もちろん、最大の楽しみではあるけれど・・・ね。でもね、それよりも二人が一緒にいられることの方が大切なんだし趣味ならまた二人でできる何かを別に捜せばいいんだから。何よりおまえのことが一番大事なんだよ。』と。その話を聞いている間中、涙がボロボロと拭いても拭いても止まらなかった。元々主人のことは人間としても男性としても尊敬していたが、こんな重病をしてもここまでのことを言える主人の凄さに感動していた。最後は二人で泣きながら、笑い、主人の凄さを改めて認識したのだった。(この様に書くとスラスラ話しているようだが、実はかなりの時間をかけて、休みながら考えながらゆっくりと話していた)
ある別の霊能者にも主人のことを相談していた。その方にこの主人の話をメールしたのだが、更に有難いお言葉をいただいた。『旦那様は病には倒れても「病気」→気を病む「病気の人」ではないですね。今回のことを必要な試練だと受け止めていらっしゃると思います。「このまま後遺症が残ったら人生終わりだ」と感じ、心細くて不安で失望してしまうのが通常だと思いますが、「もし治らなくても」「きみと一緒にいることが何より大事」と、無くなるかもしれないものに不安がるより、今ここに有る大事なものを見失わず大切にできる。・・・まさに神様です。 私もこのメール頂いて思わず涙しました。頭では分かっていても、いざ自分が同じ立場になって同じことを思い、伝えられるかどうか。自分ではどうにもならない天災や突然の病気。それらに毒され不幸にされる事なく、ちゃんと大事なものを今までと変わらず大事にできる人はたとえ病気でも幸せ。本気でそう思います。やはり、幸せは条件では決まらないのですよね。』と。
主人の言葉にも、この方のメールの内容にも本当に救われたのである。

130回目の瞑想 

幸せ


慈悲の瞑想のお祈りを唱える。いつものように手足が痺れ出す。
すぐに深く入って行った。

今日の瞑想は映像がすぐに出現した。宇宙空間に細い十字の光りがいくつも光ったりと消えたりしていた。場面が切り替わると今度はオーケストラほどの人数ではなかったが、十数名の楽団が(主に打楽器が多かった)演奏していた。音は実際には聴こえないのに、聴こえたように感じた。
そして身体が(頭のてっぺんから足のつま先まで)物凄い電流を感じると何かがこちらに迫ってくるような感覚になる。すると抱きとめられているような感覚になり、涙が止めどなく流れた。身体が温かく何とも言えない心地良さになり、安心感に包まれた。しばらくすると徐々に今度は離れて行くような感覚になり、我に戻る。今回も不思議な体験だった。
(今日は私の誕生日で、明日は結婚記念日。もちろん霊界でお祝いしてくれるなんてことがあるはずないが、
楽団の音楽といい、抱きとめられて心地良かったことなどを考えると、あたかもお祝いしてもらったような気になってしまった)


続きを書いてみる。

主人は救急病院を含めると、三ヶ月半の入院生活だった。高次機能障害はいつまでという目安はないものの、一応生活に支障のない状態になったということと、一週間に一度の通院することで退院となった。もちろん、家のでリハビリも欠かせなかった。そこで私は息子と相談して、かるたを作った。ひらがな、カタカナ、アルファベットを書いたかるたを。毎日朝と晩とに主人に読み上げてとってもらった。だが最初は何十枚もある中から見つけるのは困難だった。それを見ていた息子が枚数を減らしてみようと言い出し、4,5枚から始めると迷いながらも徐々にわかるようになっていったのだ。とにかく一にも二にも朝から晩までリハビリリハビリであった。退院してから数ヶ月後には会社にも出社した。もちろん、前のような仕事はできなかったが会社の皆さんのご協力もあり、無事に定年退職したのである。
私や息子も出来るだけの事はしたつもりだが、でも何と言っても本人の自覚と頑張りがなければ今はないと思っている。

最後に霊能者のS先生の主人の病気について書いておく。
「ご主人には使命があるのです。なので死ぬわけには行きません。
ご主人を死なせたら、またご主人のような方を探すのが大変だから、死なせません。神様からの最高のプレゼントです。ゆっくりと休ませてあげて下さい。なので、すぐに何でも自分で出来るようには、上がさせません。出来るようになるとまたすぐに頑張ってしまうからです。でもそんなに時間はかからずに自分の事は出来るようになりますよ。ただ、完全に頭と心が一致するには今から三年から四年はかかると思います。私も(S先生ご自身)ご主人ほどではありませんが、そうやって声をかけてもらったんですよ。自分の事ではなくて、人のことをお祈りすような人を待ってたと・・・なので、ゆっくりと今まで頑張ってきた分、ゆっくりとこれからは過ごすように伝えて下さいね。頭と心が一致する頃に使命であるものに出逢うでしょう」と。

まで、私事の霊的なことをお読み頂きまして誠にありがとうございました。
たくさんの方に読んで頂けたことに感謝しかありません。少しでも今後の生活のお役に立てたならば、そんなに嬉しいことはありません。
今後は瞑想は毎日ですが、何かあれば書いて行きたいと思っています。

もちろん、霊能者の方達とは引き続き、連絡をとらせて頂こうと思っておりますので、またこちらのページか交信のページに記して行きたいと思っています。

131回目の瞑想

宇宙空間


慈悲の瞑想のお祈りを唱える。いつものように手足が痺れ出す。
徐々に深く入って行った。

今日の瞑想は映像が次から次へと出現した
。あまりに多くて覚えきれなかった。また元に戻ると思い出すこともできなかった。唯一、宇宙空間の中に輝く光があちこちで光っていたのが、とても印象的でこの映像だけははっきりと覚えている。
そして、また身体全体に電流のようなものが流れる感覚になり、これまたどう表現すればいいか迷うが『心が膨らむ』という感覚になった。(胸が膨らむような身体的なことではなかった)それと同時に
「心に光りを見出せ」という言葉が浮かんだ。

132回目の瞑想

薔薇アレンジ


慈悲の瞑想のお祈りを唱える。いつものように手足が痺れ出す。
早めに深く入って行く。

今日の瞑想は、映像はほとんど出現しなかった。昨日のようにまた身体全体の痺れ感が強い。手のひらからもかなりの量のエネルギーが放出されているように感じる。また身体の芯から電流を受けているように感じ、神様と繋がっているという感覚が更に強まる。そして涙が自然とこぼれて来た。
最近、特に瞑想という自分の内奥と向き合うこの時間の大切さに、何よりも優先させたいと強く強く思うようになってきている。

133回目の瞑想 

太陽


慈悲の瞑想のお祈りを唱える。いつものように手足が痺れ出す。
お祈りの途中から、どんどん深く入って行く。

すぐに映像が出現した。黄金色にオレンジ色が混ざったような背景に、まばゆいばかりの光りがキラキラと光っていて、それはそれは美しかった。その時に神様との繋がりを強く感じた。この瞬間だけはトラに会おうが、ライオンに会おうが、またサメに出会そうが平気な気持ちでいられるくらい恐怖感がなく、護られていて安心する心が勝っていた。この想いは戻ってから思い出しても、とてつもなく凄い事だと実感した。

今日、夢で生前そのままの息子に会うことができた。私は嬉しさのあまり名前を連呼し、抱きつくのではなくて息子の肩辺りにおでこをつけるような感じで喜びをかみしめていた。息子もとても嬉しそうな顔だった。
だが、その後は私はなぜか階段を降りながら、息子に「◯◯が中心になって必ずやってね。」と。それに対して息子が「いや、母ちゃんの方で準備しておいてくれないと・・・」と言ったところで目が覚めてしまった。夜中の2時半だった。

134回目の瞑想

雲


今日は瞑想に入る前から心も身体も何時もとは違う何かを感じていた。慈悲の瞑想のお祈りを唱える。手足の痺れは感じない。お祈りの途中から涙が止めどなく出て、込み上げてくるものがあった。

「この世は霊界へ戻るための修行の場である。その修行を乗り越えてこそこの世を生きる価値がある。」
この言葉が浮かんだ直後に
(私は身も心も全て神様に捧げます。神様のご計画に従事させて頂きます)と自然にそして心から真摯に唱えていた。
すると男性の声のように凛とした感じで
『そのための息子の死である』と。途端に涙が滂沱として流れ落ちていた。
神様に感謝し、この想いが瞑想時だけでなく、通常にも持ち続けられるようお願いした。
今回の瞑想は時間にして20分もかからなかった。
戻ってから、今回のことで改めて息子とは本当に深い縁なのだな〜っと思うと、心が温かくなり、また晴々とした気持ちにもなっていた。

135回目の瞑想

紫花イラスト


慈悲の瞑想のお祈りを唱える。最初から手足が強く痺れ出す。
徐々に深く入って行く。

今日の瞑想では、前にも出現した映像のように細くて短めの無数の光りが縦横無尽に広がっていた。その光り全てが一定の動きではなく、消えたり光ったりしている。消えないようにとしばらく凝視していた。冷静に光りを見つめる。だが少しずつ少しずつその光りの数が減って行き、やがては消えてしまった。すると今度はボンヤリとした薄いオーロラのような光りが出現し、頭上でウネウネと動いている様子に心が癒やされた。
その時に「慈悲の心」「癒やしの心」が浮かび、人を慈しみ癒やせる人間になりたいと心の底から強く思った。

136回目の瞑想

夕焼け


慈悲の瞑想のお祈りを唱える。手足の痺れは微弱。
お祈りの途中から深く入っていく。

今日の瞑想は本当に心地良かった。雲の上にいるような感覚で身体もとても軽かった。映像は最初はなかったのだが、戻る直前くらいにいきなり夢のような感じで出現した。確か知ってる有名人だったが(顔を見た瞬間は誰かということはわかっていた)だが、こんな会話をしていたら思い出そうにも思い出せなくなっていた。その人は「ちょっと行ってくる」と。「えっ?幽体離脱してですか?」と聞くと「そう」と言ってスーッと身体から魂が抜け出ていた。なぜ、こんな映像が出現したのだろうか。

今日は息子が亡くなって丸10カ月。やはり会いたい気持ちや話したい気持ちが時として出て来る。いつまで続くのだろうか。この想いは。 

137回目の瞑想

青花イラスト


慈悲の瞑想のお祈りを唱える。手足がかなり強く痺れ出す。
早めに深く入って行く。

今日の瞑想はまた涙が止めどなく流れた。人間生きていれば、いろいろな悩みに出会す。私も最近ある事を悩んでいた。なので心の中でずっと神様に問うていた。問うてる間に映像が出現した。勢いのある幅の広い川が渦を巻きながら流れている。しばらくその流れを見ていると今度は滝に変わったのだ。やはり勢いがあり、マイナスイオンが一杯出ている感じだった。そして今度は全く画面が変わり宇宙空間が現れる。その中に画面一杯に澄んだ青色の網目状になったモヤのようなものが消えては広がり、広がっては消えるを何度も繰り返す。その光景はとても綺麗だった。そして何度目かの消えた状態から、光り輝く球体が現れる。眩しかった。

「迷ってはならぬ。ブレてもならぬ。信念を貫け」との言葉が浮かぶ。
すると私の両手の手の平がいつものように痺れ感がありながらも、何か持っているような感覚になっていた。その手がどんどん胸の方へと上がってくると心臓辺りにあてがう形になる。するとじわーっと温かくとても心が落ち着いた。感謝の涙で我に戻った。

116回目の瞑想

シェパード ゴールデン
慈悲の瞑想のお祈りを唱える。いつものように手足が痺れ出す。
お祈りの途中から、すぐに深く入って行く。

映像はいくつもの輪っかのようなものに光りがそれに沿ってグルグルと回っているものだった。やはりとても綺麗だった。
昨日の瞑想時にヒーリング?っと思ったので、後でネットで調べてみると、自己ヒーリングというものらしい。今日も痛みは出ていない。そこには遠隔ヒーリングで天に旅立った大切な人に思いが伝えられるともあったので、早速やってみた。
リラックスし、息子の笑顔を思い浮かべる。金の光りは舞い降りてくるイメージが出来たら、伝えたいことを思う。そしてその人の魂の幸せを心から祈るとあった。だが私は息子の笑顔を思い浮かべただけで、涙が止めどなく流れて止まらなくなった。息子と直接コンタクトとりたいと言う思いも強まった。きっと息子は一生懸命に働きかけてくれているのだと思う。受け止める私がしっかりして受け取れるように頑張らないといけない。いやどうしても受け取りたいのだ。しばらく続けてみようと思う。

三番目に飼ったシェパードのリーザについては、もう14年近くにもなるのに今回書くにあたって、まだ涙が流れるほど辛いものだった。リーザに関しては、かなり長くなるので何回かに分けて書こうと思う。

リーザは警察訓練所で産まれた子だった。訓練所の方が私達夫婦の元へ6匹の仔犬を連れて来て下さり、順々に抱っこしていった。リーザを抱っこすると目と目があい、それまでの子達には感じなかった「この子だ!」となぜかその時思ったのだ。一週間後に引き渡すと言うことで、毛を切っておいてくれた。そしてまた訓練所へ行くと、みんな若干だが大きくなっていて外で元気よく走り回っていた。私はその中からすぐリーザを見つけた。逆に訓練所の方が「どの子だったかな?確か毛を切りましたよね。」と言われ、一匹ずつ確認していくと、私が見つけた子がリーザだったのだ。それからというものリーザと私の仲はどんどんと深まっていった。また先住犬だったゴールデンのシェリーを母親のように慕っていた。犬種が違えどこの二頭の仲の良さは親子以上であったと思う。またこの二頭は頭も良かった。二頭のいるサンルームには鍵がかかっていたが、その鍵を見よう見まねでいつの間にか開けて(そこからカーポートに続くのだがそこで排泄していたので)ちゃんと排泄していたのだ。本当にびっくりだった。なので絶対に外に出せない時にはつっかえ棒をするしかなかった。そんな大型犬二頭との暮らしは最高に楽しい日々だった。しかしシェリーが逝ってしまったことで一変する。リーザも本能的にわかったのだと思う。私達が霊園に行く時にはサンルームを所狭しと走り回り、悲しい声でいつまでもいつまでも泣いていたのだ。その時に霊園の方が「残されたわんちゃんのことを気にかけてあげて下さいね。きっと寂しい思いをしていますから」と言われていた。その言葉通り数日経つと食欲がなくなり、私にも尻尾は振るが立って起きてこようとはしなかった。私が側に行き「悲しいよね。寂しいよね。辛いよね。でも頑張ろうね」と撫でながらことある毎に言っていた。多少食欲も出てきて少し元気になって来たようにも感じていたが、しかし既に病魔に襲われていたのだった。シェリーが亡くなって一ヶ月半になるかならないかの時だった。
それから壮絶なリーザの介護が始まったのである。続きは明日。(画像は母親のようなシェリーに甘えるリーザ)

117回目の瞑想

シェパード
慈悲の瞑想のお祈りを唱える。いつものように手足が痺れ出す。
お祈りの途中から、すぐに深く入って行く。

今日は映像がかなりはっきりと出現した。金色の光りがまるで噴水のような動きでとても美しかった。それが今度は十字の光りになったり、♯のような形になったりとまばゆいばかりの映像に堪能させてもらった。
また、身体の感覚も言葉ではなかなか伝わらないと思うが、頭に光りのシャワーを浴びたようになり、身体の感覚がなくなったようになる。そしてキラキラしたものに包まれているような感覚になると、その心地良さと言ったらなかった。ただ、手のひらのチリチリ感が凄かったので、それだけはずっと感じていた。
また戻る前には、大きな川が濁流となって流れている映像が出現する。その中には人間はいなかったが、材木とか物が一緒に流れている状態がはっきりと見えた。しばらくその流れは続いたが、自然と消えてしまっていた。
今日は息子の笑顔を思い浮かべても涙は出なかった。息子の魂の幸せを心から祈り、いろいろと伝えたいことを伝えた。息子は聞いてくれていると思えた。

シェパードのリーザの続きを書いてみる。

激しい痛みのあったリーザにはモルヒネの注射や貼り薬(人間が使用するもの)などで処方していたが、ある程度の時間しか効果がなく、すぐにまた痛み出す。後ろ足は麻痺し、動く時には前足だけで引きずるようにしていた。かなりの痛さだったようでタオルを噛むなどして我慢していたが、私に噛むようなことは一度もなかった。ただそれを見るのは本当に辛かった。その上、そんな身体なのに排泄をしに外へズリズリと身体を動かすのだ。私は「ここでしていいんだよ。こんな身体で排泄しに行こうとするなんて、本当にリーザは偉いね。でももういいんだよ。ここでして」と頭を撫でながら涙が止めどなくこぼれた。この時の辛さは到底言葉では表現することはできない。
動物病院に何度モルヒネをもらいに行っただろうか。ある日主人がモルヒネをもらいに行って帰ってくるとこんなこと言ったのだ。「先生は今はお正月休みだし、小さな動物病院がこれだけのモルヒネをこんな短期間で使うことはまずないので、もうこれ以上出すのは無理だと。今回は手術の時に麻酔を使わないで、この注射でその代わりをするほど身体の感覚をなくすような強力な薬の注射と鎮痛剤の注射、そして今までに渡したすべてのパッチを貼りなさいと。でももしそれでも短時間で痛むようなら、もう手の施しようはないと。後はラクにしてあげる方法しかないと、もう十分過ぎるほど頑張ったと。」私は言っている意味がわからなかった。いやわかりたくなかった。私は祈るような気持ちで頂いた薬を使用した。だが、数時間もするとまた痛み出して「ピーピー」と泣いている。何度も聞いたその声に心が壊れる思いだった。
今度先生に電話をすればきっとリーザの最期になる。そう思いずいぶん逡巡したが、もうこれ以上リーザをもだえ苦しませることはできなかった。
先生に電話をすると「後は飼い主さん次第です。でももうこれ以上苦しませるのは酷なだけだとぼくは思います。脊髄の痛みは尋常ではない痛みで、意識がはっきりとしている以上、死ぬまでその痛みを感じて生きて行かなければいけないんです」と。私は涙をボロボロこぼしながら、「もうこれ以上苦しませるのは本当に可哀想なので、これから伺いたいと思います」と言った。が、それでも迷っていた。それまで私は安楽死には否定的で、むしろ罪悪だと思っていた。しかも最愛のリーザの命を自分の決断で決めるようなことはできるわけもなく、本当の意味で決心することなどできなかった。だが痛みに苦しんで辛そうなリーザを見ていると、迷いながらも病院に行くことを決意するしかなかった。
病院へ向かう車の中でもリーザの顔を見ながら、涙が溢れていた。(安楽死などという方法ではなく、病院に着くまでの間に早く逝って、早く)と心の中で叫んでいた。神様にも母にもお願いした。けれども。あっという間に病院に着いてしまった。いつもは病院までの道中があんなに長く感じていたのに、この夜は本当にあっという間だった。続きは明日。(画像はシェリーが逝って元気がなくなった頃のリーザ)
 て頂いた。
 

118回目の瞑想

シェパード
慈悲の瞑想のお祈りを唱える。いつものように手足が痺れ出す。
すぐに深く入って行く。

今日の映像は海が現れる。するとその海の中から次々と特攻隊で亡くなったであろう方達のお顔が出現した。特攻の特集などで出て来るような古い写真のような感じだった。なのでボケてはいたが、首に白い布を巻いている人がいるのもわかった。しばらくたくさんの方のお顔が出て来ていたが、お顔が出なくなるとそこに覆い被さるように四方八方から白い波が打ち寄せて来て、何やら護っているかのように感じた。
しばらくすると、突然に少し大きめな球体の光りが目の前に飛び込んできた。するとどう表現すればいいのか、さざ波のような感じで身体全身に心地良い痺れ(とでも言うのか)が広がると心まで高揚するような気持ちになった。そして今度は稲妻のような光りが現れ、そこから光りが降ってくる映像となった。
最近、出現する映像やイメージしたものがわりとハッキリと見えるようになってきている。

シェパードのリーザの続きを書いてみる。

病院に着いてもなお、ためらっている私に先生が「今、この病院にある全部のモルヒネを持って行ってもいいんですよ。生かしてあげたいならモルヒネ漬けにするより他に方法はないのです。でももしそれを全部使ってもまだ痛むようであれば、うちはもうこれ以上モルヒネを出すことはできません。そうなると別の病院でモルヒネをもらわなければいけなくなりますが、そのためにはまた一から検査しなおすのですよ。この状態のわんちゃんをです。それにモルヒネをそこまで使うことがいい事だとは思いませんよ。このわんちゃんの為に今決断してあげることは決して悪いことではないんです。人間は許されないが、唯一動物には有難いことに許されているのです。ご自分がもしこの立場でそれでも生きて行きたいかどうかを考えてあげて下さい」と。
頭ではわかっていた。でも自分の意思でリーザを逝かせることにはどうしても自分を納得させることができなかった。痛みさえなければ、どんな介護でも苦ではなかった。ただただ生きていて欲しかった。でもリーザの痛さ辛さを思うと自分ではどうしてあげることもできない。決して治ることもなく、死ぬ瞬間まで痛みに苦しむだけ・・・と思うと、生かしておくことがエゴではないかとも思い、葛藤しながらも苦渋の決断をするしかなかった。
リーザは信頼しきった瞳で私を見ていた。その瞳を私は忘れることはできない。「リーザ、ごめんね。ごめんね。この痛みから少しでも早く解放してあげたいから・・・・」とリーザの顔に自分の顔をくっつけて耐えられない思いでいっぱいになりながらも先生にお願いした。麻酔の量を通常の数倍にして注入するとすぐに意識はなくなり、全く苦しまずに逝けるとのことだった。主人は「辛かったら向こうへ行っていてもいいよ」と言ってくれたが、私が決断した以上どんなに辛くても看取ることがせめてものリーザの救いになってくれればとの思いにその場から離れることはできなかった。主人、私、息子の三人でその瞬間を涙を堪えて見ていた。
注射器から薬剤がリーザの血管に送られると、まもなくリーザの瞳から輝きが消えていった。その瞬間に私は泣き崩れ、声を上げて泣いた。一緒に死んでしまいたい思いに駆られた。最愛のリーザを自分の決断で逝かせたことがリーザにとって良かったのか悪かったのかはその時はわからなかった。ただ、あれだけの痛みからまた苦しみから解放してあげたことだけはできた。
更に先生は「今回の決断は決して悪いことではないんですよ。助かる命ならどんなことしてもと考えますが、死ぬまで痛い思いをさせるのは酷なだけですから。こんな時に申し上げることではないと思いますが、もし僕が飼い主だったらもっと早くに決断していたと思います。けれど助かる可能性が少しでもあるわんちゃんには逆に頼まれても絶対にお受けしません」と。
ただ、私はそれから重症のペットロスになってしまい笑顔が消えた。本当に辛かった。毎日死にたいとばかり考えていた。シェリーが逝って、二ヶ月後のことだった。二ヶ月の間に二頭もの愛する子達を失うことは耐えがたかった。
そんな状態の私を心配した主人が数ヶ月経ったある日、本屋へ私を連れて行ったのだ。そこで私は涙する。続きは明日。
(画像は元気な頃のリーザ)

119回目の瞑想 

白い薔薇
慈悲の瞑想のお祈りを唱える。いつものように手足が痺れ出す。
徐々に深く入って行った。

今日の瞑想は不思議な感覚の体験だった。最初から曲をずっと耳で聞いていたはずなのだが、またその間の意識も自分ではあったつもりだった。映像も出てきていた。だが気がつくと、50分かかる曲がまもなく終わりになるところだった。あまりにも早くて、まだ5分くらいしか経っていないと思っていたのにだった。
向こうの世界は時間と空間の概念がないというが、まさにそんな体験だった。

続きを書いてみる。

本屋へ着くと私は真っ直ぐにあるジャンルへ。そしてそこである本に目が止まった。手に取り、目次を見た。「安楽死は誰のためか」その文字に釘付けになり、そのページを開いてみた。いろいろと書いてあったのだが、私は「動物達はそこに愛があったなら、どのような結果であっても受け入れています。」という行を読んだ時に、電流が走るような感銘を受けて涙が溢れその場で嗚咽してしまったのだ。まさにリーザのあの瞳が物語っていた。救われた思いだった。すぐにその本を購入した。
家に帰って良く読むとどんな症状であっても、それも偶然ではなく、必然だということ。なので自然な形の死が望ましいと。だが全ては動機次第。安楽死を選択する場合、全く完治する見込みがない状況、更にそこに愛があるかないか、またその判断を迫られたときには獣医師の意見を仰ぐ。など。更に安楽死を決断した場合、見送った後に自責の念に駆られる人もいるが、自分で決断した結果には責任を持たないといけないと。必要以上に感傷的になっては動物たちの方が心配して旅立つことができなくなると。もちろん悲しさはあったが、心が本当に癒やされて、有難い気持ちでいっぱいだった。
その後、サンルームから(生前遊んでいたときのような)二頭の足音やガラス戸にぶつかる音がしばらくしていた。ただある日を境に音は全く消えてしまった。きっとその時に虹の橋に二頭でいったのだと思った。ララもしばらくはサークルが置いてあった辺りで足音が何度も聞こえていたが。それもしばらくすると全く聞こえなくなっていた。
それから機会があるごとに、何人かの霊能者の方に三頭の様子を聞いた。特にリーザのことだったが、どの方も「とても感謝していて、今もそばにいますよ」というような内容だった。それがまた私の救いになっている。
私と特に縁が深かったリーザがこのようなことになるのには必ず意味があるのだと思った。私の安楽死に対する考え方の間違いを正すためだったのかも知れない。ただそのためにリーザを犠牲にすることはあまりにも辛過ぎた。
また思いもかけない所でリーザに関しての話を聞くことになる。
う。

120回目の瞑想

紫陽花
慈悲の瞑想のお祈りを唱える。いつものように手足が痺れ出す。
徐々に深く入って行った。

今日の瞑想はただただ深い状態のまま、特に映像もなかった。涙も出なかった。ただ、大きなラップ音が2回ほどなっていた。かなり大きな音だった。
戻る時に黄金色が目の前いっぱいに広がった。何かあるのかと思ったが小さくなって消えてしまった。こんな日もあるのだろう。

明日からは主人の脳出血について書いてみたいと思う。

その間の大変さはもちろんだったが、その時に出逢った霊能者の方に心を救ってもらえたことは本当に有難かった。その事も含めて書いてみたいと思う。

121回目の瞑想

富士山
慈悲の瞑想のお祈りを唱える。いつものように手足が痺れ出す。
早めに深く入って行くと

いきなり言葉が浮かぶ。「そなたを護り導く者である。心の中の願いは全て叶う。思念には実体がある。こちらの世界は全て思念で作られているのである。その思念が実体として具現化されたときに願いが叶うのである。」それに対し私が「でも思っても思ってもなかなか叶いません」と思うと「◯◯よ。そなたは今まで信じる心を実践してきた。今こそ、心から信じよ!」その時に「求めよさらば与えられん」も浮かぶ。
そして「息子と直接コンタクトとりたいといつも思っておりますが、なかなか叶いません。」すると「こちらには、それなりの決まりがある。またそなたの息子はそなたの息子であって、息子ではない。」との言葉が浮かぶと涙が止めどなくこぼれた。頭ではわかっていた。この世での私の息子という役目は終わったのだということは。でもやはり悲しかった。

昨日、ある霊能力のある方から、息子について感じる事を教えてもらった。その内容はとても有難いものだった。明日それは書くことにする。
主人の脳出血のことだが、本題に入る前に少し前置きを書いてみる。
我が家は主人が定年になったら、わんこ4匹と一緒にキャンピングカーで日本一周する予定だった。ただ定年になってすぐに慣れないキャンピングカーでの旅よりも、少し早めに慣れておくつもりで、キャンピングカーを購入した。それからは主人の休みを(週末や夏休みなど)利用してのキャンピングカー旅は最高だった。何しろわんこ4匹と一緒で、行きたい時にはいつでもすぐに行けたし、都合が悪くなればすぐに辞めることもできた。その間の4年くらいの休みはキャンピングカー旅に夢中だった。年末年始の旅にも出て、キャンピングカーの中で紅白を見て、翌日は素晴らしい朝日を拝むこともできた。早く定年になって日本一周したいと待ち望んでいたのだ。だが定年まで残すところ後2年という時に重責のある役職から退き、明日から夏休みという前日会社から帰宅してのことだった。その日は会社から帰ってきたら、8泊9日のキャンピングカー旅に行く予定にしていて、準備万端で待っていたのだ。帰って来て玄関ドアを開けるなり、主人は「揺れる揺れる」と言ったらしい。息子が出迎えたのだが(何か変な表現するな)と思ったらしい。だがすぐに2階に着替えに行ったので、気にとめなかった。しかしリビングに来てソファに座ると、主人は「なんか頭が熱いような、だるいような」と言い、いつもと何か違う。すると息子は二,三日前に熱中症と脳の病気は似ているというのをネットで見ていたのを思い出し「熱中症になったんじゃない?」主人は「そうなのかな〜 でもなんか変なんだよ」と言いながら、少しずつ少しずつ会話自体もおかしくなって行った。息子は熱中症ではなくて脳なのかもと思い、救急車を呼ぶと言い出した。すると主人は「何をそんな大げさな。呼ばなくていいよ。呼ぶなよ」と。そして少し横になってくると言って2階に行くのを私は追いかけた。寝室に入った主人がすぐに出て来て「暑いんだけどどうしたらいい?」と。私は「エアコンつけたらいいよ」と言うと、「エアコンって何?」と言ったので、これはおかしいとすぐに主人には黙って救急車を呼んだ。主人に話すと「何でそんなことを」と言いながら「何着ればいい?」とか「どうすればいい?」などと、ウロウロとし出す。間もなく救急車に消防車が家に着き、救急隊員、消防隊員が部屋に来た。男性でしかも2階に居ると言うことで、消防隊員に応援要請したらしい。
救急隊員に名前、生年月日など聞かれるも、名前しか言えなかった。そしてすぐに救急隊員の方から「脳外科医のいる病院に搬送します」と言われ、5,6人で主人をタンカーに乗せて運んでくれた。息子は「家のことや犬のことは俺に任せて、親父を頼むよ」と。私も救急車に乗り込み、有難いことにわりと近い病院に着いたのだった。そこで私は救急外来へ。主人はそのまま処置室へと別れ別れになった。どのくらい待っただろうか。その間に私は主人とは関係ない、今頃はキャンピングカーでどの辺りを走っていたのかとか、なぜ今私はこんな所にいるのかなどと考えていた。そしてやっと担当医が来られて、MRIの画像を見ながら説明してくれた。続きは後日。(画像はキャンカー旅での一枚)

122回目の瞑想 

国宝
慈悲の瞑想のお祈りを唱える。いつものように手足が痺れ出す。
お祈りの途中から、どんどん深く入って行った。

最初、映像がまた噴火のようなものが出現したが、すぐに消えてしまった。その後は映像というのではなく、色が白かったり、金色だったりと目の前に広がっていた。その間の身体の感覚や心の状態は何かが起きそうで起きない、そんなジレンマを感じていた。そして戻る直前に
「心を乱すなかれ。真っ直ぐ前を見よ。心の乱れは真を見紛う。」との言葉が浮かんだ。

今日は昨日書いた縁あって息子のことを聞けた霊能者の方のお話しを書いてみる。この方はまだ公にはしていないそうで、今後公にした際も無料で相談に応じるとのことだった。
「一番に感じましたことは、息子様の波動が少し高いような気がしてなりません。気配を体感する感覚や空気感が違う感じがしました。」と。更に詳しく聞くと「息子様の波動は高級霊的なものです。もっとわかりやすく言いますと、神仏に近いまたは関わることの出来るレベルということです。一般の人が神社などに行って澄んだ空気感といいますか清浄さを感じるのと同じレベルの存在であったようです。息子様の急死のことも、ご存知と思いますが宿命であったので避けられなかったもの。痛くも苦しくもなかったのも「業」がなかったからであり計画的なものです。また急死されますと長期入院のようにしばらくは休むようです。死への心構えや準備が出来ていないことが普通であり、死の自覚が出来なくて取り乱すことも普通です。そうでないのは息子様の階層が高かったということです。息子様は霊的な世界でも芸術に長けた霊、また神々と関わることをしてきた存在と伺えます。息子様の気配は今も感じさせて頂いています。とても素晴らしい方です」とのことだった。真実かどうかはわからないが、別の霊能者の方にも「もう人間として産まれなくてもよかったのに、敢えてお母さんを助けるために産まれてきた」とも言われていて、高い霊だと言われていた。本当かどうかはわからないが私としてはとても有難く、救われる内容であった。

123回目の瞑想

フラワーアレンジメント
慈悲の瞑想のお祈りを唱える。いつものように手足が痺れ出す。
今日の瞑想は涙涙だった。

昨夜、私にとってとてもショックなことがあり、一晩泣き明かしていた。なので夜の瞑想はしなかった。と言うよりできなかった。
けれどこの朝の瞑想では最初は苦しい涙だったが、ある瞬間から感謝の涙に変わった。昨日の浮かんだ言葉「心を乱すなかれ。真っ直ぐ前を見よ。心の乱れは真を見紛う。」これは正に今回のことにも当てはまっていた。そして「心で感じる」ということを教えて頂いて、その大切さを実感した。
私は表面化することばかりにとらわれていて、真を見紛っていたということに気がつかせてもらえた。
今日から、また初心に戻って謙虚な心で頑張って行きたいと思う。

主人の続きを書いてみる。
病名は「脳出血」だった。病名を言われても夢をみているような、現実として認識できないようなそんな気持ちだった。先生の説明は「今のこの状態のままでいけば緊急手術はしませんが、まだ何が起こるかわかりませんので3時間待合室でお待ち下さい。もし万が一、もっと出血してきたら、すぐに手術をします」と。その3時間はとても長かった。今はその時の記憶はない。けれど結果はそれ以上の出血はなく手術にはならなかった。ICUで面会すると元気そうだったが、いろいろな機器に繋がれており重大な病気だという認識をそこで初めて感じた。病院を出たのは夜の10時を廻っていた。病院の外灯も消えて真っ暗な中、帰宅の途に着いた。家に帰ると息子が夕飯を用意してくれていた。また何もわからず期待の眼でみるわんこ達と置いてあった8泊9日分の荷物が暗い中、夢ではなく現実であるということを思い知らせるかのように積み上がっていたのだった。

124回目の瞑想

黄色のバラ
慈悲の瞑想のお祈りを唱える。いつものように手足が痺れ出す。
早めに深く入って行く。

今日の瞑想は瞑想中ずっと意識が別のところにあったように思う。身体の感覚はほとんどなかったが手足の痺れはいつもよりも強く感じた。「心で感じる」に集中すると「心のざわめきを失くし、自分の(霊界)住処を感じよ。いつしか本当の自分を表現出来るときがくる」と言う言葉が浮かんだ。

昨日の続きを書いてみる。
主人はICUでの一週間を余儀なくされた。私は10分から20分位しか面会できなかったが毎日2回ずつ主人に会いに行った。 翌日の主人の様子は夕べとは違ってぐったりしており、辛そうだった。 話しかけても眼はうつろ状態で、返事もほとんどなかった。 脳外科の主治医の先生曰く「少し多めに出血しましたし、その影響で脳が腫れていて意識レベルが 昨日よりも低下しています。明日になってもっと意識レベルが下がるようならば、手術をした方が いいと思います。一気に血を抜いて脳の腫れをとれば、質のいいリハビリが早く始められますから、 そのことを考えておいてください。」と。
翌日はやはり更に意識レベルが下がっており、それと同時にとても辛そうだった。 でも、脳の手術の決定を、私が決めることなど到底できないと思っていた。 けれど、主人に聞いても「わからない・・・」と。そして、その日の夕方の面会時間に主治医に呼ばれた。長い時間をかけて丁寧に親身に説明してくれた。
初めて霊能者のS先生の所に伺ったのは病気が発症して二ヶ月後だったので、この時点ではまだわかっていなかったのだが、その時に霊視されてお話ししてくれた一部を書いてみる。「ご主人は当初(朦朧としていた時)死を覚悟されていたのですよ。それとお宅に気になるような死に方をした大きなわんちゃん、痩せて茶色と黒が混じったような毛をしたわんちゃんはいませんでしたか?」と先生がいきなり言われた。「そのわんちゃんを土から掘り起こして抱っこして一緒に天国へ行こうとしてらっしゃいましたよ。」と。私は思わず涙がこぼれた。すぐにシェパードのリーザのことだとわかった。先生にその時の事を簡単に説明すると、先生も涙を流されて「そうだったんですね。してあげて良かったんですよ。今は天国で遊んでいます。ありがとうって感謝していますから大丈夫です。」と思いもかけず、リーザの事が聞けたことと、主人があの時のリーザのことを思ってそんなことをしていたということに、涙が止まらなかった。
(S先生の霊視されたことはその時々でこのような形で書いてみようと思う)

125回目の瞑想

オーロラ
慈悲の瞑想のお祈りを唱える。いつものように手足が痺れ出す。
お祈りの途中から深く入っていく。

夢を見ているような心地のまま、曲の流れに乗っかっているよう感じでいた。しばらくすると、光りが紙吹雪のようなシャワーになって降ってくる映像だったが、実際に私の頭や顔に降り注いでいるような感覚になった。不思議な感覚だった。(例えて言うと、TVで見ていた食べ物が、実際に匂いがしたり、手で触ることができるような感じで実体があった)そしていつの間にか曲が終わりに近づいていた。

主人の続きを書いてみる。
主治医が長い時間をかけて丁寧に親身に説明してくれたが、
ここでは簡単に書いてみる。「今のご主人の状態は命には別状はありませんから、手術をしないで自然に血が吸収されるのを待っていてもいいのですが、それだと吸収されるまでに2,3週間はかかると思います。僕としては、会社復帰を考える場合、できるだけ早く血を抜いてリハビリができる状態にしてあげたいのです。手術をして血を抜いてしまえば、翌日からでもベッドの中でリハビリが行えます。社会復帰のためのスタートラインが早く迎えられるということです。」と。私は先生に「もし、先生のご家族、例えば奥様やお子さんだったら手術をしますか?」と聞いた。すると即答で「ご主人のような状態ならば絶対にします。もちろん家族会議は開くかもしれませんが手術をする方向で説得します。手術のリスクを考えても今回ばかりは手術をした方が早く回復できると断言できます」と。しかももう明日の午前中に手術の予約までとってあるとのことで、私が断ればキャンセルすればいいと思って、そのように手配までしてくれていた。
更にMRIで撮った画像を見ながら、主人の頭の状態もかなり詳しく説明してくれた。息子と二人で話を聞いていた私は、この先生にならお任せできると思っていたものの、決めかねていた。それを察した息子が「先生、父をよろしくお願いします。」と私が言えずにいた言葉をキッパリと言って頭を下げた。その様子を見ていた私も慌てて頭を下げてお願いしたが心の中は複雑だった。手術というのは開頭手術だったからだ。しかし、家に帰ってもまだグズグズ思っている私に息子が「もう先生にお願いしたよね。後は無事に手術が終わることだけを考えようよ。そんな風に悩む気持ちは絶対に良くないよ。気持ちを切り替えて明日は明るく病院へ行くこと!」と、主人の入院から、息子は全て前向きに考えて私を励ましてくれていた。それが当時はどれだけ心が救われたかわからない。
 

126回目の瞑想

光り輝く
慈悲の瞑想のお祈りを唱える。いつものように手足が痺れ出す。
早めに深く入って行く。

今日の瞑想はいつもよりも神様に繋がっているという確信めいたものが湧き出てきた。必ず「道は開ける」という気持ちに単なる言葉ではなく、心が前向きになっているのがわかる。そして映像は最初は光りの塊のようなものが出現し、それが今度は稲光のような(でも稲光よりも柔らかい感じだった)その光があらゆる方向に画面一杯に広がっていた。
そしてそして、いわゆる「天の梯子」と言われる現象のような映像がキラキラとそれはそれは美しい光景として出現した。清らかで、神々しい。その梯子を昇って、天に召されたい気持ちになった。
戻った時にも、穏やかな清々しい思いに包まれていた。

昨日の続きを書いてみる。
手術当日の朝は手術前の主人に会うために早めに病院へ行った。「これから手術だからね。必ず良くなるからね。大丈夫だからね。」と自分にも言い聞かせるように主人に言った。手術時間は4時間半ほどだったが、その間はとても長くただただ無事に終わるように祈っていた。息子、私、主人の父でICUの待合室で待っていると看護師さんが来られて「無事に手術が終わりました。ご本人も麻酔から覚めていますのでお会いになれますよ」と。すぐに主人の元へ行くと「ありがとう、ありがとう」と泣きながら私達に言ってくれた。そんな主人に私も涙を流しながら、手術をすることに決めて本当によかったと心から安堵したのだった。手術後もいろんな機器に主人は繋がれていた。ICUでの一週間は長いような短いような、よくわからない時が過ぎて行った。今思い出しても、無我夢中だったその時のことは自分の感情と向き合う余裕もなかったように思う。ただ一度、キャンカー旅に行くために用意していた荷物を片付ける時に、主人の着替えを持った瞬間号泣していた。いろんな思いがこみ上げてきて、初めて涙が流れた。
だが、ICUにいた手術前後から私はこうなった以上は「明るく前向きに」をモットーに頑張ることに覚悟を決めた。ICUから一般病棟に移れたのは出血後、ちょうど一週間経った頃だった。一般病棟に移っても相変わらず、いろんな物が繋がれていたが、日を追うごとにどんどんと、ひとつ減り二つ減りとなっていき、3,4日ですべてなくなると身体に麻痺がなかった主人は最初の1,2日こそ車椅子に乗っていたがひとりで歩けるようになった。やはり脳外科の主治医の言う通り回復の早さにはびっくりさせられた。ただ、術後の頭の状態はまだかなり左側がぼっこりとなっていたので、寝る時も大変だったようだ。また痛みもあって傷が癒えるにはやはり時間がかかりそうな感じだった。そんな状態だったので、頭の方もなかなかしっかりとはできなかった。しかも出血した日の前後からICUにいた一週間のことは全く記憶になかったのだ。それは現在も変わっていない。一般病棟に移ると面会時間の可能な限りギリギリまでいて帰るという毎日を過ごしていた。
そんな中で、主人の言語障害や目の症状の違和感などという後遺症と向き合っていかなければいけない厳しい現実に押しつぶされそうになりながらも、自分自身を奮い立たせて、とにかく何があっても笑顔、笑顔で主人に接して行こうと来る日も来る日も主人に明るく話しかけるようにした。だが、やはり現実は厳しかった。
 

105回目の瞑想

柔らかい光
今日の瞑想も素晴らしい体験をさせてもらえた。いつものお祈りを唱える。いつものように手足が痺れ出す。
お祈りの途中から、すぐに深く入って行く。

最初は映像が出まくり、その切り替わりの早さにハッキリとは覚えていない。その中でも髪の長い女性が(30代後半くらい)私にしきりに何やら語りかけていた。でも何を話しているかは音声もなかったので全くわからなかった。
その後、眉間辺りから上全体の頭が強力に痺れ始める。思考する力がなくなると、身体が浮いたようになり、柔らかい優しい光りに包まれる。このような言葉で伝わるようなものではなく、その柔らかさ、優しさはリアルで実感があり、単なる柔らかさ優しさではなく例えようがない。素晴らしい体験だった。その心地良さは比べるものがないくらいの半端ないものであった。このまま逝ってもいいとさえ思えたのだ。
そして、胸の辺りから散りばめるように光りを放出している感覚になる。その時に「赦す心、尽くす心、思いやる心で、心を充満させる」という言葉が浮かんだ。本当に有難い体験をさせてもらえた。

明日から、ご神殿での体験の内容を三つほど書きたいと思う。

ただ、物議を醸すのは本意ではないので、全て名前は伏せておく。真実か真実でないかはわからないが、事実だけを記しておきたい。

106回目の瞑想

飛行機
いつものお祈りを唱える。いつものように手足が痺れ出す。
今日は足の痺れ感が強かった。更に眉間辺りからエネルギーが放出している感覚になる。身体も熱くなってくる。

また、微かだが身体が動くような揺れるような感じもあった。そして光りの中に漂っている感覚になると、心がとても穏やかになった。

三つの体験の内容ついて相談内容などは全く覚えていない。招霊時の覚えている事実だけを記しておこうと思う。
一つ目は飛行機事故にまつわる事だった。かなり大勢の方が犠牲になった事故だった。母がお祈りをして降りて来た霊はその飛行機を操縦していた機長さんであった。その機長さん曰く「どんな原因であろうと、全ては私の責任です。今、まだ眠っていたり、動けない方達などを廻って歩き、全員を上の世界に送るまでここで頑張るつもりです。それが自分の責任だと思っています。」と言われ「お祈りをして頂いたことに感謝しております。力になります。」と続けて言われたのだ。

いろいろな機長さんがいるとは思うが、この時の機長さんの立派な言葉と行いに母を始め、そこにいた皆が一様に感心しきりだった。母曰く「この機長さんはもう上に行けるだけの霊性を持っておられるのに、未だ亡くなったことがわからない人や呆然としている人のために、力を尽くそうとしておられる。その思いに全員上に行かれるのもそう遠くないと思う」と。
微力ながら皆で更に神様に助けて頂けるようにお祈りさせて頂いた。
 

107回目の瞑想

ダリア
いつものお祈りを唱える。いつものように手足が痺れ出す。
小さい泡が袋のようなものから無数に放出している映像が出現。小さいシャボン玉のようにも見える。だがその泡が今度は光りに変わって行く。光りになってあちこち飛び回っていた。その後も違う映像が出ていたようにも思うが覚えていない。

と言うのも、この後の映像があまりにもハッキリとしていて鮮明だったので、心に残ってしまったからだと思う。
その映像とは突然に指揮者が現れ、こう言われた。「今日はお子さんを亡くされた方の為のコンサートです。」と。そしてそこはオーケストラが演奏するコンサート会場で私は客席にいるようだった。けれど、それがわかった途端に我に返ってしまったので、何の曲を演奏するのかもわからなかったし、聴くこともできなかった。だがその指揮者は知っている方だった。指揮が本業ではなく、別の楽器を本業としている方だった。息子のことも知っている方だったので、その温かいお気持ちが伝わって来てジーンしてしまった。

二つ目の体験は300年以上も前に遡る話だった

降りて来た霊に母が訪ねる。「かなり前の時代なので、はっきりとわからないので教えて欲しいのですが、今の時代では一般的に四七士とか四八士とか言われているのですが、本当は何人だったのでしょうか?お祈りする際に間違っては申し訳ないので」と言うと「ありがとうございます。ただその時の人数などはどうでもよく、城を追われた全ての者、そしてその家族が皆大変な苦労をしたのです。討ち入りした人間だけを特別扱いは無用です。」と。母が「確かにそうですね。大変に申し訳ありませんでした。全ての方達が大変な状況に遭われたのですからね。本当にご苦労様でした。お殿様はお若かったからでしょうか」「若いと言っても一国一城の主、しっかりしてもらわねばならなかった。だからこそ私はついて行かなかったのです。ある種かけのような思いでありながらも、心から成長を願っていただけに誠に無念でありました。ただ自然を愛でるようなお人であったので、違う世であれば平凡ながらも静かに生きられたと思うと、泣かずにはおられなかった」と涙ながらに語られたのだ。
母を始め、そこにいらした方達も皆涙されていたらしい。そしてやはり、立派な御家老だったのだと確信した。
25年以上前の話なので一言一句同じではないと思うが、このようなニュアンスで話されていたように記憶している。

108回目の瞑想 

プリザーブドフラワー
いつものお祈りを唱える。いつものように手足が痺れ出す。
最近の瞑想では、なぜか懐かしい何かを思い出せそうな気がしてならない。それが前世のことなのか、霊界での事なのかは全くわからないが・・・・

今日の瞑想でもそのような気持ちになり、何だか楽しみなようにも感じた。そして今日の映像は、黄金色の波紋のようなものが現れ、どんどんと上にあがって行くように見えていたが、それが今度は大空となり、かなり白い雲が多かったがやがて薄いピンク色の夕焼けとなった。美しい光景に見とれてしまった。そして意識が遠のいていると、顔は全くわからなかったが多分女性でその人と何かを協力し合うことを誓って固い握手を交わしていた。
いつも思うのだが、もっと具体的に内容の詳細がわかると有難い。

最後三つ目の体験は戦国時代に遡る

天下最強の軍を率い、名将と言われた武将その人であった。ただ内容はほとんど覚えていない。
あまりにも印象的だった記憶に残っている事のみを記しておく。
その武将は「わしは坊主達に祈らせておった。わしが祈ったことなど一度も無い!」と、最初はかなり上から目線での発言だった。だが母が丁寧に霊的な話をし始めると黙って聞き入り「わかった!」と即答する。
そして神様に祈り始めたのである。
その声たるや、エネルギーがあり、声量のある物凄い声だった。
その声の振動で窓ガラスがビリビリと割れるのではないかと思う程だった。
私が戻った時に、母を始めそこにいた方達は、私とは全く違う太い声でお祈りをしている
間、その凄さにびっくりし鳥肌が立っていた。と言われていた。また母曰く「人の話はきちんと聞き、更に理解力があり、飲み込み早く納得がいくとすぐに考えを変えられる柔軟さを持った太っ腹なお方だった。またあのエネルギーの凄さは並外れていたね。さすがに名将と言われるお方でしたね。」と、一同みな頷いていた。
未だに覚えているのは、その凄さだった。いろいろな霊を招霊したが、あれだけのエネルギーを持ち合わせたお方は他にはいなかったと思う。

109回目の瞑想

薔薇
いつものお祈りを唱える。いつものように手足が痺れ出す。
今日の瞑想は夢心地であった。映像はいろいろと出て来ていたが特筆するものはない。時折、身体がブルブルっと振動のようなものを感じた。

戻る直前だったが、誰に対して言っているのかわからなかったが、もう少ししたらお迎えが来るからと言うような言葉が聞こえたような気がした。ただ、夢うつつ状態だったので、はっきりとしたことはわからなかった。

昨夜、霊能者の小林先生からメールがあった。

息子の気配を感じたということだった。それは息子の曲作りについてのことだったようで、私に送りたい曲があるらしい。
ただ、曲を作ってもどのようにこちら側に送るかが問題らしい。それを表現できる媒体がないといけないし、演奏出来る人でないといけないと。そういう人はなかなかいないし、いたとしても確実に全部のメロディーを受け取るのは難しいらしい。そしてむしろ作曲の出来ない人が望ましいらしい。作曲出来る人だと自分のイメージなのか送られてきたイメージなのか混同してしまうからと。
曲が作れず、降りてきたメロディーを聴音できて演奏できる人ということになる。と。確かに難しい。ただ一人可能性のある人の心当たりはあるが・・・霊的なことができるのかどうか・・・
この問題は解決したら、また記したいと思う。

その亡き息子について、生前護られていたと実感できることがあった。それを明日書いてみようと思う。

110回目の瞑想

ラナンキュラス
いつものお祈りを唱える。いつものように手足が痺れ出す。
今日の瞑想は前にも書いたが、イメージすることの大切さについて、具体的な形で、心に浮かんだ。

例えば、身体が不調の場合は、健康な時の自分をイメージする。(もちろん、緊急時は除く)また、お金に関しても必要な金額+多少の余裕金を具体的な数字でイメージし、更に既に手にした状態をイメージする。それを毎日、ことある毎にイメージする。但し、多額な金額をイメージした場合、命を落とす場合もあるので要注意。身分相応の金額が望ましい。その他、日々の生活の中で困ったり、悩んだりしていることを全て良い方向にイメージする。
上手く行かないのは、イメージしながら、心で打ち消しているからだ。「こんなにイメージしているのにやっぱり叶わない」とか「そんなこと叶うわけない」とかと。
成就するには忍耐強くイメージし続けて、絶対に叶うと信じることが肝要。
この世でイメージする訓練を行うことは、向こうの世界に行った時に必ず役に立つらしい。

昔、私は母に言われてイメージという事ではなかったが、毎日紙に書いた記憶がある。そしてその時に本当に成就したのである。
なので、今回改めて息子の作曲した曲を受け取った状態をイメージして行こうと思う。

亡き息子の護られていたと実感したことを書いてみる。
私達夫婦は結婚して一年半くらい経つのに子供が出来なかった。なので、母に神様に子供が授かるようにと一緒にお祈りをしてもらった。すると直に子供を授かることができたのだ。それが今回亡くなった息子である。その息子が2歳の時のことであった。実家にお掃除をしに行っていた時のことで、ほんの一瞬の事だった。母も私もその時は姉もいた。みなでお掃除をしていると、玄関先で遊んでいた息子がいなくなっていたのだ。外は大雨が降っていて、更に実家から50㍍ぐらい先には、◯◯通りという車道がある。それなりに車は走っている。いつも私と息子はその車道を手を引いて渡って実家に行ってたのだ。だから、その車道へ行ったかも知れないと頭はかすめるものの、どうしてもそこへは行く事ができなかった。魔の一瞬という言葉がある。まさに大雨で前が良く見えない状態に車道に出たらどうなるか、それを本能的に感じて怖かったのだと思う。
だが母が一目散にその車道めがけて走って行く姿が見えた。それを見た私も恐る恐る後を追いかけたのだ。けれど突然母は立ち止まり、ジェスチャーをしている。近づく私を母は止めた。一瞬私の心は凍り付く。

続きは明日書くことにする。

111回目の瞑想 

バラ
いつものお祈りを唱える。いつものように手足が痺れ出す。
今日も映像は沢山出るのだが、あまりにもたくさんで中身もよくわからず・・・
身体の中に微細なバイブレーションを不定期だったが感じていた。

また、胸辺りに光輝いている光りをイメージすると、神様と繋がっているような感覚になり、何とも言えない柔らかなオーラに包まれているような心地良さだった。
戻る少し前には、かじかんだ状態から元に戻っていくようなあの感覚が全身に広がって、フア〜っと身体が軽くなるような感じだった。


続きを書いてみる。
私は母に止められていたので見ていないのだが、息子は既に車道を渡っていたのだ。その場所で息子が泣いていたらしい。そこで母は、母や私の顔を見たら、それこそまたすぐに車道を走って渡ってくる危険があったので、息子から見えない場所で、その側を偶然通りがかったおば様達数人に息子を指差し、抱っこしてくれるようにとジェスチャーをしていたのであった。すぐにおば様達はわかって下さり、泣いている息子を抱っこして車道を渡って連れて来て下さった。なのになのに私は御礼の言葉もなく、抱っこして下さってるおば様から息子をひったくる様にして抱き上げ、実家へと走り去ったのだ。もちろん、母が私の代わりに厚く御礼を言ったのは言うまでもない。その後実家のご神殿で、母、姉、私で皆泣きながら神様に御礼を申し上げた。本当にあの時は有難くて有難くて護られていることを実感したのである。ただ、助けて頂いた方に対する態度はあまりにも酷かったので神様にお詫びして許してもらう他なかった。(この時はまだ私はご神殿で母と一緒にはご神業はしていなかった)
この事を思っても、このように護られている中での今回の息子の死は必ず意味があるということを感じないわけにはいかなかった。

更にもう一つある。これはまた明日書こうと思う。

112回目の瞑想

神代植物公園
今日から「慈悲の瞑想」という瞑想を実践することにしてみた。
お釈迦様自身が瞑想実践されていて、この瞑想によって最高の悟りに達したそうだ。(但し、この瞑想ともう一つの瞑想の二つである)この慈悲の瞑想は、もう一つの瞑想の準備段階らしいが、この瞑想だけでも悟りへ進むこともあるらしい。清らかな落ち着いた心の状態に持っていけるとのこと。かなり詳しい内容が書いてあった。

「瞑想実践によって、はじめて人間は幸せを得られる、それ以外の道はない」と説かれていたようだ。しかもシルバーバーチと同じように、教えを提示し、やり方を示すがやるかやらないかは本人次第で自由にまかせ、それが間違っていると思えば離れれば良し、正しいと思えば続ければ良し、とのお考えだったようなのである。
実は私は昨夜からやり始めたが、今までとは違うように感じている。映像も昨夜はとてもハッキリとしていて万華鏡のような美しい模様が現れ、いろいろな形に変化して行く。しかも長かったように思う。
また今日の映像は凄まじい大噴火のシーンであった。更にその頭上には無数の稲光が何度なく光り、リアルで大迫力であった。こんな映像は初めだと思う。(この瞑想に興味のある方はメールで連絡下さればお知らせします)
また、この話も信じるか信じないかはその人の自由。事実だけを記すと、母は霊界でお釈迦様にお会いしたことがあった。あるお祈りを教えて頂いた。それは生きとし生けるものに通じるお祈りだった。そのお声の素晴らしさ、宇宙の隅々まで届くような凛とした美しいお声に、ただただひれ伏し、涙していたと話してくれた。お顔は眩しくて拝見することはできなかったらしい。それからはご神殿でこのお祈りもすることになった。唱えていても聞いていても心が洗われるようになるお祈りだった。


亡き息子の護られていたと実感したことのもう一つを書いてみる。
高校2年生の時の修学旅行にカナダに行った時のことである。明日帰って来るという2001年9月11日の夜のニュースを見ていた。(そうあの恐ろしいテロが起きた日だった)画面はニューヨークの世界貿易センタービルの北側に飛行機がぶつかっている映像だった。(えっ?何事?大変な事故が起きてしまった)と思って主人と話をしていると、直に今度は世界貿易センタービルの南側に飛行機が激突したとのニュースが流れ、ただ事ではないと感じていると、次々と空軍施設や国防総省に衝突墜落したのだった。テロとわかったその時の思いは今でも身震いしてしまうほどだ。心配で胸が張り裂けそうであった。もし、息子の乗る飛行機がテロにあってこのような事になったらと思うと、いてもたってもいられなかった。学校に連絡しても一向に連絡がとれず、やっと遅くに回ってきた連絡網の内容は(今でははっきりとは覚えていないが)「事情を確認し、必ず全員無事に帰れるようにするので、そのために予定時間よりも遅れることもあるかも知れないが、とにかく待っていて欲しい」というものだったと思う。
もちろん、神様にお祈りしたことは言うまでもない。母にも祈ってもらった。姉や妹も無事に帰って来られるようにと祈ってくれていた。

実際、有難いことに大幅に遅れたが無事に息子は帰って来られた。この時も本当に護られていることを実感したのだった。

113回目の瞑想

紫のバラ
慈悲の瞑想のお祈りを唱える。いつものように手足が痺れ出す。
深くなりすぎてなのか、何度も寝落ちしそうになるが何とか免れた。
ただ、今回は映像はなかった。だがかなりハッキリとした音で(曲が流れているにも関わらず)なったのが聞こえた。
ちょっとびっくりした。何の音なのかはわからなかったが、ラップ音のような音でもなかった。

誰かいるような気配もしたが、それもわからなかった。
今回「慈悲の瞑想」を始めたばかりなのでしばらく状態を見守ろうと思う。


プロフィールにも少しだけ書いてあることだが、明日から先代の三頭のわんこのことを書こうと思う。

114回目の瞑想

オーロラ
慈悲の瞑想のお祈りを唱える。いつものように手足が痺れ出す。
突然に涙が込み上げてきた。理由もわからず、ただただ涙が止まらなかった。ただ今日の映像は素晴らしかった。自動ドアのように両側にスーッと開くとそこには金色一色の大きな球体の中にお顔は全くわからなかったが立ち姿が見えた。神々しいそのお姿に我を忘れて見入っていた。
多分、その中に入って行くことが出来れば何かが変わるのかも知れないと思ったが、中に入ることは出来なかった。ただ、そのオーラを感じているだけで心が癒やされ、安らぎ落ち着けた。


先代の三頭、最初はシーズーのことを書いてみる。
結婚して初めて飼ったわんこがシーズーのララだった。息子が小学生の2年生の時だった。一人っ子だった息子はこのララとは兄弟のように育ったのだ。大きな病気をすることもなく過ごしていたがララが16歳の時に病気になった。献身的に介護したのは息子だった。本当によく面倒をみてくれていた。当時のララは目も見えなくなっていたのでサークルに入れていたのだが排泄物を踏んだり、その上で寝ていたりと小型犬と言えど、その介護はかなり大変だった。だが息子はそんな処理を嫌がることもなく、いつも優しく接してくれていたのだ。闘病が続く中、ある日ララが苦しみ出した。私は慌てふためいて獣医に電話をした。(この慌てふためくとは、亡くなった順序が逆でララが一番最後だったので後日、書くことになる犬のことがあったからである)獣医はもう少し様子をみるようにと電話を切った。ただ私は落ち着かなかった。(この子まで同じようなことになったら、私は2度と犬は飼わないとまでその時には思っていた)でも、その苦しみは排泄をするためだったようで、2回も間隔は少し開いていたがしたので本当に安堵したのだ。それからも何度となく、ララの様子を見ていたが寝ていたのでそのまま寝かせておいた。だが、間もなくいつもは降りて来るような時間ではないのに、慌てたように2階から凄い勢いで息子が降りて来た。そしてすぐにララの元へ。私が「たった今見たばかりだから大丈夫だよ」と言うが、息子は無言でジッとララを見ていた。(寝ている時は息をしているかどうかよく見ないとわからなかったのだ)呟くように「息していない」と。「えっ?まさか!息しているのを今確認したばかりなのに」と言いながら、サークルを覗き込み、しばらく見ていたが息絶えていた。息子が「ララに呼ばれたような気がして降りて来てみたんだよ」っと言いいながら涙がボロボロ流れていた。息子の背中をさすりながら「本当にララの面倒を良く見てくれたよね。ララは感謝していたんだよ。きっと看取ってもらいたかったんだね。」と私も涙が止まらなかった。ララは優しく面倒をみてくれた息子の元へ呼びに行ったのだと思った。霊能者のS先生のお話だと、息子は死後このララと会えてしばらく抱き合っていたとのことだった。(S先生はララのことは知らないが言われた毛色や大きさ、耳が垂れているなど、間違いなくララだったのだ)
最初に飼ったララは前出したように、一番最後に天に召されたのだった。(画像は在りし日のララ)
二番目に飼ったゴールデンのシェリーについては、明日書きたいと思う。 

115回目の瞑想

光り輝く
慈悲の瞑想のお祈りを唱える。いつものように手足が痺れ出す。
かなり深い状態で、意識は別のところにあるように感じていた。

最近、瞑想が終わってからもなお、両手の平が電流が流れているようにチリチリとしている。実は最近右足の腿からスネの筋が痛かったり痺れたりしている。特に座ると症状が出る。今日の瞑想時にも座っている時に痛みが出たので、試しに右手を患部にずっとかざしていた。すると徐々に痛みがなくなっていったのである。それと同時に手のひらに痒みが出た。すぐ落ち着いたが・・・
これがもしかして、ヒーリングというものなのか・・・・

瞑想が終わっても痛みは出なかった。また痛みが出たら試してみようと思う。

二番目に飼ったゴールデンレトリバーのシェリーのことを書いてみる。
シェリーは人懐こくてとても優しい笑顔が癒やされると言われていた子だった。ブログでも一番人気な子だったし、ご近所の方などからシェリーの子なら欲しいと言われていたほどだった。母が亡くなった時には次に書くシェパードのリーザと二頭でよく慰めてもらったものだった。だが晩年やはり病気になり、一時は病院にいたが、もう長くはないだろうと言われ、自宅に引き取って介護した。ただ、呼吸できなくなる可能性もあるので、もしもの時のための御守り(注射器)を持たされた。食欲こそなかったものの、手はほとんどかからなかった。だが直に水も飲まなくなり、ある日息が荒くなってきたので、心配で往診してくれる病院がないか片っ端から電話しまくっていた。すると看護師さんだったが、とても親身になって聞いてくれたので、その人とシェリーの様子を見ながら(息している時のお腹の膨らみを見ていた)シェリーの状態を話していて気がつくと、そのお腹の膨らみが動いてなく平坦のままだった。急いでその事を看護師さんに話し、シェリーのそばへ行くと絶命していたのだった。安らかな顔だった。電話なんかしていないでそばにいてあげれば良かったと後悔しまくりながら、シェリーの名前を大きな声で呼びながら「ありがとう。ありがとう」と感謝の思いで涙が止まらなかった。その声に2階にいた息子が飛んで来た。息子もシェリーを撫でながら、泣いていた。そしてリーザにもお別れをさせた。シェリーの顔をペロリと舐めてあげていた。後日火葬をするために霊園の方が来られた。その時にシェリーを見て「老衰ですね。とても綺麗ですね。」と言われたので「いえ、病気でした」と言うと「でも痙攣は全くしていませんよ。普通はだいたい痙攣しているのです。僕は何万匹と見てきているのでわかるんです。このわんちゃんは老衰だと思って送ってあげて下さいね。」と言われたのだ。しかも病気の場合、その箇所が火葬すると黒くなるらしい。シェリーは黒いものは何一つなかった。逝くべくして逝ったのだとその時思った。

最初に亡くなったのはこのシェリーだった。

そして三番目に飼ったシェパードのリーザとは運命的な出逢いをし、特別な存在だった。しかも一番辛い別れをした子だった。(明日書くつもりだが、かなりシビアな内容なのでスルーされたい方はスルーしてもらいたい)
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